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ネーデルラント17しゅう

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ハプスブルクりょうネーデルラント
Habsburgse Nederlanden
ブルゴーニュ領ネーデルラント 1482ねん - 1581ねん ネーデルラント連邦共和国
スペイン領南ネーデルラント
ハプスブルク領ネーデルラントの国旗 ハプスブルク領ネーデルラントの国章
国旗こっきくにあきら
ハプスブルク領ネーデルラントの位置
1560ねん
公用こうよう オランダ
ていザクセン
西にしフリジア
ワロン
ルクセンブルク
フランス語ふらんすご
宗教しゅうきょう カトリック
プロテスタント
首都しゅと ブリュッセル
国王こくおう
1482ねん - 1506ねん フィリップ4せい
1556ねん - 1581ねんフィリップ5せい
変遷へんせん
成立せいりつ 1482ねん
国事こくじ詔書しょうしょ1549ねん
独立どくりつ宣言せんげん1581ねん
現在げんざいオランダの旗 オランダ
ベルギーの旗 ベルギー
ルクセンブルクの旗 ルクセンブルク
フランスの旗 フランス
ドイツの旗 ドイツ

ハプスブルクりょうネーデルラントオランダ: Habsburgse Nederlanden)は低地ていち諸国しょこく16世紀せいき存在そんざいした、カスティーリャ国王こくおうスペイン国王こくおう君主くんしゅとする同君どうくん連合れんごうした国家こっかぐんである。現在げんざいオランダ王国おうこくベルギー王国おうこくルクセンブルク大公たいこうこく・そしてフランス共和きょうわこく北部ほくぶアルトワ(Artois)・ノール(Nord)とドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく一部いちぶふく地域ちいきふくんだ領域りょういき存在そんざいした。

17しゅう一覧いちらん

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1.1477ねんにおけるネーデルラント17しゅう地図ちず

1にしめす17しゅうには、以下いか諸侯しょこうりょう存在そんざいした。

  1. アルトワはくこく英語えいごばん
  2. フランドルはくこくリールドゥエーオルシーひとし都市としふくむ)
  3. メヘレン領主りょうしゅりょう英語えいごばん
  4. ナミュールはくこく英語えいごばん
  5. エノーはくこく英語えいごばん
  6. ゼーラントはくこく英語えいごばん
  7. ホラントはくこく英語えいごばん
  8. ブラバント公国こうこくアントウェルペンふくむ)
  9. リンブルフ公国こうこく英語えいごばん
  10. ルクセンブルク公国こうこく英語えいごばん
  11. ユトレヒト領主りょうしゅりょう英語えいごばん
  12. フリースラント領主りょうしゅりょう英語えいごばん
  13. ヘルレ公国こうこく1543ねん以降いこう
  14. フローニンゲン領主りょうしゅりょう英語えいごばん
  15. ドレンテ領主りょうしゅりょう英語えいごばんリンゲンふくむ)
  16. オーファーアイセル領主りょうしゅりょう英語えいごばん
  17. ズトフェンはくりょう英語えいごばん

トゥルネーまちのある場所ばしょであるリールモンスあいだあおいエリアは17しゅうの1つであるとかんがえられていた。一方いっぽうリエージュ司教しきょうりょうはこれらのしゅう一員いちいんとはかんがえられていなかった。この17しゅうは、ネーデルラント全国ぜんこくさん部会ぶかい代表だいひょうしゃおくっていたしゅうつねおなじ17しゅうではなかった。ときには1つの代表だいひょう代表だいひょうとまとめられたこともあった。通常つうじょう、ズトフェンはゲルデルンの一部いちぶであったし、リンブルフはブラバントをたよっていた。一方いっぽう、フランドルのフランス語ふらんすごはな都市としは、別々べつべつしゅうみとめられることもあった。

さらにネーデルラントには、17しゅうふくまれない領土りょうど存在そんざいした。その最大さいだいのものはリエージュ司教しきょうりょうだった。きたにはフランス革命かくめいまでみずからの支配しはいしゃつづけたアメラントとうのような、いくつかのちいさな領域りょういき存在そんざいした。

歴史れきし

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ネーデルラント17しゅう歴史れきしは、1477ねんブルゴーニュ公国こうこくおさめていたシャルル突進とっしんこう戦死せんししたさい男子だんし継承けいしょうしゃがいなかったために、むすめマリーおんなこうおっとであるハプスブルクマクシミリアン大公たいこうによって継承けいしょうされたのがはじまりである。マリーが落馬らくばによって死亡しぼうしたのち公国こうこくない有力ゆうりょく貴族きぞく反乱はんらんこし、マクシミリアンはブルゴーニュこう退位たいい余儀よぎなくされる。

その、この地域ちいき息子むすこフィリップよしおおやけおさめ、その急死きゅうしはその長子ちょうしシャルル公国こうこく相続そうぞくした(1515ねん1がつ全国ぜんこく議会ぎかい即位そくい)。

さらにシャルルは1516ねんにはカスティーリャアラゴンりょう王国おうこく君主くんしゅとなり、1519ねんには対抗たいこうフランソワ1せいやぶって、神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいとなった。カールの時代じだいに17しゅうすべてが統合とうごうされた。その最後さいご1543ねんのゲルデルンしゅうであった。こうしてひがしトランシルヴァニアから西にしスペインにいたる、ヨーロッパ全体ぜんたい包含ほうがんするかのような「帝国ていこく」が形成けいせいされた。

この「帝国ていこく」には一体いったいてき国家こっか組織そしきがなく、個別こべつ国家こっかたんにカール5せいのもとに集約しゅうやくされているにぎなかった。しかし、低地ていち地方ちほうはそのなか位置いちてきには辺境へんきょうであるにもかかわらず、たいフランスの軍事ぐんじてき政治せいじてき拠点きょてんであり、さらにアントウェルペン金融きんゆうは「帝国ていこく」の重要じゅうよう財源ざいげんであった。

カールは低地ていち地方ちほう行政ぎょうせいてき中心ちゅうしんブリュッセルにおき、中央ちゅうおう集権しゅうけんすすめて政治せいじてき統一とういつ促進そくしんさせる一方いっぽう周辺しゅうへん地域ちいき武力ぶりょくてき制圧せいあつすすめ、メルセン条約じょうやく以来いらい分断ぶんだんされていた低地ていち地方ちほうはじめて統一とういつした。

これらのしゅうだい部分ぶぶんかみきよしマ帝国まていこくしたかれ、カール自身じしんはマクシミリアンの後継こうけい皇帝こうていとなった。フランドルとアルトワの2しゅうはフランスの領土りょうどであったが、1529ねんカンブレー講和こうわ条約じょうやくによりハプスブルク譲渡ゆずりわたされた。1549ねん国事こくじ詔書しょうしょでは、これらのしゅう将来しょうらい統一とういつされた状態じょうたいでないといけないとしるされた。

低地ていち地方ちほうが17しゅう[1]ばれるのは、このカール5せいびた、低地ていち地方ちほうの17の称号しょうごう由来ゆらいし、1548ねんのアウクスブルク帝国ていこく議会ぎかい正式せいしき承認しょうにんされた。1549ねんには低地ていち地方ちほうが「永久えいきゅう不可分ふかぶん」なかたちでハプスブルク継承けいしょうされることをさだめた国事こくじ詔書しょうしょ(プラグマティック・サンクシオン)が発布はっぷされ、全国ぜんこく議会ぎかい承認しょうにんされた。

ミュールベルグのたたかいののちのヨーロッパにおけるハプスブルク領土りょうどみどり)。ケンブリッジ・モダン・ヒストリー・アトラス(Cambridge Modern History Atlas, 1912)より

1556ねんのカール5せい退位たいいのち、ハプスブルク領土りょうど息子むすこフェリペ2せいおとうとフェルディナント1せいけられた。そしてネーデルラントはスペイン王位おういとともに息子むすこフェリペに相続そうぞくされた。

フェリペ2せいとネーデルラントじんとのあらそいは1568ねんはじまるはちじゅうねん戦争せんそうとなった。北部ほくぶ7しゅう(フローニンゲン、フリースランド、オーファーアイセル、ゲルデルン(上部じょうぶ4ぶんの1以外いがい)、ユトレヒト、ホラント、ゼーラント)はネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこくとして独立どくりつた。

南部なんぶのフランドル、ブラバント、ナミュール、エノー、ルクセンブルクなどのしゅうは、パルマこうアレッサンドロ・ファルネーゼ軍事ぐんじ政治せいじてきちからによりスペインの支配しはいもどされた。とく有名ゆうめいなのが、アントウェルペン包囲ほうい1584ねん - 1585ねん)である。そのため、これらのしゅうは「スペインりょうネーデルラント」もしくは「みなみネーデルラント」としてられていた。北部ほくぶ連合れんごうしゅうはちじゅうねん戦争せんそうあいだ、リンブルフ、ブラバント、フランドルのかく地域ちいき保持ほじつづけた(Generality Lands参照さんしょう)。

この戦争せんそう1648ねんヴェストファーレン条約じょうやく終結しゅうけつした。アルトワとフランドルの一部いちぶとエノーは、17世紀せいきから18世紀せいきあいだフランス譲渡ゆずりわたされた。

経済けいざい

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16世紀せいき中頃なかごろまでに首都しゅとメヘレンからブリュッセル移動いどうし、ブラバントのアントウェルペンはネーデルラントにおける経済けいざいてき政治せいじてき文化ぶんかてき中心ちゅうしんとなった。そのころ、フランドルのブルッヘきたヨーロッパの経済けいざい中心ちゅうしんとしての突出とっしゅつした位置いちすでうしなっており、ホラントしゅうが15世紀せいきから16世紀せいきにおいて徐々じょじょにその重要じゅうようせい増加ぞうかさせていった。

しかし、はちじゅうねん戦争せんそう北部ほくぶ7しゅうネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく)が独立どくりつしたことにより、それまで利用りようしていたスヘルデがわ共和きょうわ国領こくりょうない通過つうかするために利用りようできなくなり、おおくの人々ひとびと南部なんぶしゅうから北部ほくぶしゅう移住いじゅうしていった。繁栄はんえい中心ちゅうしん南部なんぶのブルッヘ、アントウェルペン、ヘント、ブリュッセルから、北部ほくぶのホラントしゅうにあるアムステルダムハーグロッテルダム移動いどうしていった。

紋章もんしょう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ところで、この17しゅうというのが具体ぐたいてきにどのしゅうかぞげたものかについてはかずせつあり、一致いっちした見解けんかいられているとはえず、明確めいかくである。あるいは中世ちゅうせいヨーロッパにおいて17という数字すうじ特定とくてい多数たすう寓意ぐういでもあったので、それに由来ゆらいするのではという示唆しさホイジンガからされている。詳細しょうさい川口かわぐちひろし「「じゅうななしゅうこう」(『身分みぶんせい国家こっかとネーデルランド』所収しょしゅう参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 川口かわぐちひろし身分みぶんせい国家こっかとネーデルランドの反乱はんらんいろどりりゅうしゃ、1995ねんISBN 4882023709 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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