フランソワ1世 せい (仏 ふつ :François Ier 、1494年 ねん 9月12日 にち - 1547年 ねん 3月31日 にち )は、ヴァロワ朝 あさ 第 だい 9代 だい のフランス 王 おう (在位 ざいい :1515年 ねん - 1547年 ねん )。シャルル5世 せい の曾孫 そうそん でルイ12世 せい の従兄 じゅうけい に当 あ たるアングレーム伯 はく シャルル・ドルレアン と、サヴォイア 公 おおやけ フィリッポ2世 せい の娘 むすめ ルイーズ・ド・サヴォワ との間 あいだ に生 う まれた[1] 。ジャンヌ・ダルクの戦友 せんゆう ジャン・ド・デュノワは大叔父 おおおじ である。
国内 こくない では王権 おうけん 強化 きょうか に努 つと める一方 いっぽう で対外 たいがい 的 てき にはイタリア戦争 せんそう を続 つづ けて神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい であるカール5世 せい に対抗 たいこう し、一時 いちじ は神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい 位 い をカルロス1世 せい と争 あらそ ったが敗北 はいぼく し、カルロス1世 せい がカール5世 せい として即位 そくい した。また、文芸 ぶんげい の保護 ほご 育成 いくせい に努力 どりょく した業績 ぎょうせき によって「フランス・ルネサンスの父 ちち 」と呼 よ ばれる[2] 。騎士 きし 王 おう (roi-chevalier )とも呼 よ ばれた。
フランソワ1世 せい はフランス・ルネサンス 期 き を代表 だいひょう する国王 こくおう とみなされている。この王 おう の治世 ちせい にフランスの美術 びじゅつ および文芸 ぶんげい は重要 じゅうよう な発展 はってん をみることとなった。また、軍事 ぐんじ 、外交 がいこう 上 じょう もフランス史上 しじょう の画 が 期 き となる戦争 せんそう や外交 がいこう 事件 じけん が発生 はっせい している。
フランソワ1世 せい には神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい という強大 きょうだい なライバルが存在 そんざい したことから、常 つね に両者 りょうしゃ の間 あいだ にあって有利 ゆうり な相手 あいて と結 むす ぼうとするイングランド国王 こくおう ヘンリー8世 せい の外交 がいこう 上 じょう の功利 こうり 心 しん を頼 たの みとしなければならなかった。フランソワ1世 せい の対 たい カール5世 せい 政策 せいさく は成否 せいひ 相 しょう 半 なか ばするものだが、実現 じつげん の暁 あかつき にはフランス王国 おうこく の維持 いじ に支障 ししょう をきたすカール5世 せい の構想 こうそう をくじくことには成功 せいこう した。カトリック の両 りょう 大国 たいこく が敵対 てきたい したことは、西洋 せいよう キリスト教 きりすときょう 世界 せかい に重大 じゅうだい な影響 えいきょう をもたらした。例 たと えば、このころ興 おこ った宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の拡散 かくさん を容易 ようい なものとしたほか、なによりオスマン帝国 ていこく にウィーン包囲 ほうい を許 ゆる し、ハンガリー王国 おうこく のほぼ全土 ぜんど を占領 せんりょう させてしまっている。
国内 こくない の状況 じょうきょう をみると、フランソワ1世 せい の統治 とうち 期間 きかん は宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の急速 きゅうそく な拡大 かくだい とはっきり一致 いっち している。また、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい (絶対 ぜったい 王政 おうせい )の確立 かくりつ ・戦費 せんぴ の捻出 ねんしゅつ ・芸術 げいじゅつ の発達 はったつ のために国家 こっか 全体 ぜんたい の運営 うんえい を掌握 しょうあく し最適 さいてき 化 か する必要 ひつよう が生 しょう じたことから、特 とく に税収 ぜいしゅう 増 ぞう を目的 もくてき とする一連 いちれん の行政 ぎょうせい 改革 かいかく を実施 じっし し[3] 、これらの改革 かいかく は次代 じだい のアンリ2世 せい にも受 う け継 つ がれた。
議会 ぎかい の支援 しえん がなくとも資金 しきん を簡単 かんたん に調達 ちょうたつ する方法 ほうほう がフランソワの治世 ちせい に考案 こうあん された。それは、年金 ねんきん 型 がた 長期 ちょうき 国債 こくさい を国王 こくおう の直轄 ちょっかつ 財産 ざいさん と徴税 ちょうぜい 権 けん で担保 たんぽ するものである。これらの担保 たんぽ は、引受 ひきうけ 幹事 かんじ のパリ市 し 庁 ちょう とリヨン 銀行 ぎんこう シ団 だん へ移譲 いじょう された。そしてこれら担保 たんぽ の果実 かじつ が優先 ゆうせん 的 てき に弁済 べんさい へ充当 じゅうとう された。国王 こくおう は信用 しんよう がなかったので、実際 じっさい に発行 はっこう された国債 こくさい は年利 ねんり 10%をくだらなかった[4] 。
フランソワ1世 せい のテストン 銀貨 ぎんか 。1528年 ねん - 1540年 ねん 。フランソワ1世 せい 治下 ちか で最 もっと も流通 りゅうつう していた銀貨 ぎんか [5] 。
アングレーム伯 はく シャルル とルイーズ・ド・サヴォワ の間 あいだ に、長女 ちょうじょ マルグリット に次 つ ぐ第 だい 2子 し としてコニャック で生 う まれた[1] 。シャルルはこの2子 し を残 のこ して1496年 ねん に死去 しきょ し、フランソワは1歳 さい 3か月 げつ 余 あま りでアングレーム伯 はく を継 つ いだ[6] 。
1498年 ねん に即位 そくい したルイ12世 せい には男子 だんし がなかったため、サリカ法 ほう により従 したがえ 甥 おい に当 あ たるフランソワが王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ とされた。また、ルイ12世 せい と王妃 おうひ アンヌ (アンヌ・ド・ブルターニュ)との間 あいだ に生 う まれた又 また 従妹 じゅうまい のクロード と1514年 ねん に結婚 けっこん し[7] 、共同 きょうどう のブルターニュ公 こう となった。翌 よく 1515年 ねん 、ルイ12世 せい の死 し により王位 おうい を継 つ いだ[1] 。
クロードの死後 しご は長男 ちょうなん フランソワ 、次 つ いで次男 じなん アンリ2世 せい が王 おう 太子 たいし (ドーファン )の称号 しょうごう とともにブルターニュ公 おおやけ 位 い を継 つ いでいる。
人文 じんぶん 主義 しゅぎ 者 しゃ (ユマニスト)の教育 きょういく を受 う け、即位 そくい 後 ご はレオナルド・ダ・ヴィンチ 、ロッソ・フィオレンティーノ らの芸術 げいじゅつ 家 か を保護 ほご し、ルネサンス様式 ようしき の宮殿 きゅうでん を建 た てた[8] 。1530年 ねん には、後 のち にコレージュ・ド・フランス となるコレージュ・ロワイヤル(Collège Royal)を設立 せつりつ し、ヘブライ語 ご 、古代 こだい ギリシア語 ご 、数学 すうがく の研究 けんきゅう を促進 そくしん させた[9] 。
フランソワ1世 せい は、2代 だい 前 まえ のフランス王 おう シャルル8世 せい が始 はじ めたイタリア戦争 せんそう を継続 けいぞく した。1515年 ねん にマリニャーノの戦 たたか い に勝利 しょうり 、ミラノ公国 こうこく を占領 せんりょう しスフォルツァ家 か を追放 ついほう した[10] [11] 。スフォルツァ家 か に仕 つか えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ は、翌年 よくねん フランスへ移 うつ りフランソワ1世 せい が宮殿 きゅうでん としていたアンボワーズ城 じょう 界隈 かいわい のクロ・リュセ城 じょう に居住 きょじゅう し、ルネサンス文化 ぶんか を伝 つた えることになった[12] 。1516年 ねん には、ローマ教皇 きょうこう レオ10世 せい との「ボローニャの政教 せいきょう 協約 きょうやく 」で、国王 こくおう は大司教 だいしきょう ・司教 しきょう ・大 だい 僧院 そういん 長 ちょう の指名 しめい 権 けん を持 も つことをローマ教皇 きょうこう に承認 しょうにん させ、フランスの国家 こっか 教会 きょうかい 主義 しゅぎ (ガリカニスム)を完成 かんせい させた[13] 。
1519年 ねん 、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい マクシミリアン1世 せい が崩御 ほうぎょ すると、教皇 きょうこう レオ10世 せい らの支持 しじ を得 え てフランソワ1世 せい もローマ皇帝 こうてい 位 い の後継 こうけい 者 しゃ 候補 こうほ になるが1票 ひょう も獲得 かくとく 出来 でき ず、スペイン王 おう カルロス1世 せい (マクシミリアン1世 せい の孫 まご )が皇帝 こうてい 選挙 せんきょ に勝利 しょうり し、カール5世 せい として即位 そくい する[14] 。これにより、フランスはハプスブルク家 か によってドイツ・スペインと周囲 しゅうい を囲 かこ まれてしまう状況 じょうきょう が固定 こてい 化 か した。
1521年 ねん から1544年 ねん にかけては、イタリアを巡 めぐ ってカール5世 せい と争 あらそ い、1525年 ねん のパヴィアの戦 たたか い では前線 ぜんせん で指揮 しき を取 と るが、捕虜 ほりょ となってしまう[15] [16] 。スペインで幽閉 ゆうへい されていた間 あいだ の1526年 ねん にカール5世 せい とマドリード条約 じょうやく を結 むす ぶが[17] 、解放 かいほう されるや条約 じょうやく は無効 むこう と宣言 せんげん し[18] 、教皇 きょうこう クレメンス7世 せい もこれを支持 しじ した。
カール5世 せい に対抗 たいこう するため、コニャック同盟 どうめい で教皇 きょうこう 、イングランド王 おう ヘンリー8世 せい らと結 むす び、ドイツのプロテスタント 諸侯 しょこう (ルター派 は )を支援 しえん したり、異教徒 いきょうと であるオスマン帝国 ていこく のスレイマン1世 せい と秘 ひそ かに結 むす びつき[19] 、第 だい 一 いち 次 じ ウィーン包囲 ほうい をけしかけたりもしている。フランソワ1世 せい 自身 じしん はカトリック であり、檄文 げきぶん 事件 じけん をきっかけに国内 こくない のプロテスタント を弾圧 だんあつ している[20] 。しかし、ローマ略奪 りゃくだつ で教皇 きょうこう はカール5世 せい と和睦 わぼく 、他 た のイタリア諸国 しょこく もカール5世 せい に従属 じゅうぞく し、1529年 ねん にフランスがイタリア放棄 ほうき を約束 やくそく したカンブレーの和 わ 約 やく を締結 ていけつ した[21] 。
和平 わへい の一環 いっかん として、1530年 ねん にカール5世 せい の姉 あね でポルトガル王 おう マヌエル1世 せい の未亡人 みぼうじん であったレオノール (エレオノール)と2度目 どめ の結婚 けっこん をしている[22] 。しかし、以後 いご もカール5世 せい との戦闘 せんとう を継続 けいぞく 、ドイツのプロテスタント諸侯 しょこう が結成 けっせい したシュマルカルデン同盟 どうめい と同盟 どうめい を結 むす んで戦 たたか ったもののハプスブルク家 か の優勢 ゆうせい を覆 くつがえ せず、最終 さいしゅう 的 てき に1544年 ねん にクレピーの和 わ 約 やく (fr )を結 むす び、イタリア政策 せいさく は失敗 しっぱい に終 お わった[23] 。1547年 ねん 3月31日 にち にランブイエ で死去 しきょ [24] 、長男 ちょうなん フランソワに先立 さきだ たれていたため、次男 じなん アンリがアンリ2世 せい として即位 そくい 、イタリア戦争 せんそう を再開 さいかい した。
フランソワ1世 せい はアメリゴ・ヴェスプッチ のスポンサーとしてその航海 こうかい を援助 えんじょ した。新大陸 しんたいりく の中南米 ちゅうなんべい を押 お さえたカール5世 せい に対抗 たいこう し北米 ほくべい を狙 ねら ったためである。またジャック・カルティエ をカナダ 植民 しょくみん に送 おく り出 だ し[25] 、ヌーベルフランス (フランス領 りょう カナダ、現在 げんざい のケベック州 しゅう )の基礎 きそ を築 きず いている。
また、芸術 げいじゅつ の後援 こうえん 者 しゃ であったフランソワ1世 せい は、名画 めいが 『モナ・リザ 』を携 たずさ えたレオナルド・ダ・ヴィンチ を含 ふく む多 おお くのイタリア人 じん 芸術 げいじゅつ 家 か の支援 しえん を行 おこな い、結果 けっか 的 てき にフランスのルネッサンスを推進 すいしん させた。フランソワ1世 せい の治世 ちせい は、フランスの中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 国家 こっか としての始 はじ まりの時期 じき であった。
文芸 ぶんげい 作品 さくひん に登場 とうじょう するフランソワ1世 せい [ 編集 へんしゅう ]
19世紀 せいき フランスを代表 だいひょう する作家 さっか の1人 ひとり ヴィクトル・ユゴー は、1832年 ねん に戯曲 ぎきょく 『王 おう は愉 たの しむ(フランス語 ふらんすご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 』(Le Roi s'amuse )を発表 はっぴょう した。この作品 さくひん はフランソワ1世 せい の道化師 どうけし トリブレが主人公 しゅじんこう で、トリブレの娘 むすめ ブランシュが王 おう に弄 もてあそ ばれたため王 おう に復讐 ふくしゅう をしようとして起 お きる悲劇 ひげき を描 えが いた作品 さくひん である。1832年 ねん 11月22日 にち にフランセ座 ざ で初演 しょえん されたが、特権 とっけん 階級 かいきゅう の腐敗 ふはい ぶりとそれに対 たい する批判 ひはん という、当時 とうじ としては極 きわ めて過激 かげき な内容 ないよう であったため、早 はや くも翌日 よくじつ には上演 じょうえん 禁止 きんし となり、以後 いご 1882年 ねん まで上演 じょうえん されることはなかった。後 のち にこの作品 さくひん はジュゼッペ・ヴェルディ によってオペラ化 か され、1851年 ねん に『リゴレット 』として初演 しょえん された。これは登場 とうじょう というより言及 げんきゅう というべきだが、マルセル・プルースト の『失 うしな われた時 とき を求 もと めて 』の序文 じょぶん の冒頭 ぼうとう では「私 わたし 」がフランソワ1世 せい とカール5世 せい の間 あいだ の競 きそ い合 あ いについて書 か かれた本 ほん について語 かた っている。
最初 さいしょ の王妃 おうひ クロード との間 あいだ に3男 なん 4女 じょ をもうけた。
2番目 ばんめ の王妃 おうひ エレオノール との間 あい の子 こ はいない。
福井 ふくい 憲彦 のりひこ 編 へん 『新版 しんぱん 世界 せかい 各国 かっこく 史 し 12 フランス史 し 』 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2001年 ねん
佐藤 さとう 賢一 けんいち 『ヴァロワ朝 ちょう フランス王朝 おうちょう 史 し 2』 講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ 、2014年 ねん
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^ 佐藤 さとう 、pp. 235-236
^ 富田 とみた 俊 しゅん 基 もと 『国債 こくさい の歴史 れきし 金利 きんり に凝縮 ぎょうしゅく された過去 かこ と未来 みらい 』 東洋経済新報社 とうようけいざいしんぽうしゃ 2006年 ねん 125頁 ぺーじ
^ 久光 ひさみつ 重平 じゅうへい 『西洋 せいよう 貨幣 かへい 史 し 』国書刊行会 こくしょかんこうかい 、1995年 ねん 、793頁 ぺーじ 。https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN12202449 。 (リンクは書誌 しょし 情報 じょうほう のみ)。
^ 佐藤 さとう 、p. 229
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^ 佐藤 さとう 、p. 250
^ 佐藤 さとう 、p. 259
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^ Balthazar Guynaud, La Concordance des prophéties de Nostradamus avec l'histoire, depuis Henry II jusqu'à Louis le Grand... , Paris : Veuve J. Morel, 1712, pp.360-361
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