(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ロベール家 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ロベール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ロベール(ロベールけ、Robertiens)は、西にしフランク王国おうこくカロリングあさ後期こうきの9世紀せいきまつからさん王位おういき、987ねんフランスカペーあさひらいた家系かけい以後いごヴァロワあさブルボンあさにも血脈けちみゃくつないでいるため、フランス革命かくめいナポレオン時代じだいとをのぞいたルイ・フィリップまで、千年ちとせちかフランス王権おうけんにぎった。また現在げんざいも、傍流ぼうりゅう家系かけいスペインおうルクセンブルク大公たいこうにおける君主くんしゅけんにぎっている。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

現在げんざいベルギーちゅう東部とうぶのハスペンゴウ(エスベイ、Hesbaye)にはっする豪族ごうぞくで、領主りょうしゅ聖職せいしょくしゃつとめた記録きろくが、7世紀せいきからのこる。8世紀せいき後半こうはんにはドイツヴォルムス拠点きょてんかまえたという[1]

歴史れきしおもて舞台ぶたいかおすのは、ロベール豪胆ごうたんこうである。つかえるフランク王国おうこくヴェルダン条約じょうやくみっつにれ、かれ西にしフランク王国おうこくうつってシャルル2せいから、852ねんトゥールのマルムーティエ修道院しゅうどういんAbbaye de Marmoutierちょうを、853ねんロワールがわ河口かこういき巡察じゅんさつ使めいじられた。セーヌがわロワールがわ川口かわぐちからかえ侵入しんにゅうするノルマンじんなやんでいた時期じきで、豪胆ごうたんこう奮闘ふんとうつづけたのち、866ねん戦死せんしした[2]

長男ちょうなんウードは、885ねん - 886ねんパリ包囲ほういしたノルマンじん撃退げきたいして888ねん西にしフランクのおうされ[3]、898ねんぼっした[4]。このころから王位おういは、カロリング世襲せしゅうでなく、有力ゆうりょく諸侯しょこう聖職せいしょくしゃ選挙せんきょめるようになっていた[5]

ウードの死後しご王位おういはカロリングシャルル3せいもどったが、ウードのおとうとロベール1せいは、反乱はんらん主導しゅどうしてシャルルをい、922ねん王位おういされた。ロベール1せいよく923ねん廃位はいいおうじぬシャルルとのたたかいにぬと、むすめエマのおっとラウールおうになり、936ねんぼっした[6][7]

エマのおとうとユーグ大公たいこうは、ロワールがわとセーヌがわはさまれる地域ちいきのほとんどをだい領主りょうしゅとなり、936ねんにフランスこう[8]。936ねん、カロリングルイ4せいイングランドからの帰国きこく歓迎かんげいしたが、帰国きこくのルイ4せいとは、954ねんにルイ4せいぼっするまであらそつづけた。ルイ4せいのちかれロテールぐのには賛成さんせいし、わかおうたなげて西にしフランク王国おうこく実権じっけんにぎり、自分じぶん息子むすこユーグ・カペーカペーあさひらみちひらいた。

また、ドイツ貴族きぞくバーベンベルク(ポッポ)もロベール支流しりゅうであるといわれる。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

みぎごとに1世代せだいくだる。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 佐藤さとう、p. 17
  2. ^ Reuter 1992, p. 57.
  3. ^ 柴田しばた (1995ねん)、p. 172
  4. ^ 福井ふくい、p. 79
  5. ^ 柴田しばた(2006ねん)、p. 17
  6. ^ 柴田しばた (1995ねん)、p. 176
  7. ^ 佐藤さとう、p. 24
  8. ^ 佐藤さとう、p. 25

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 佐藤さとう賢一けんいち 『カペーあさ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん
  • 柴田しばた三千雄みちお 世界せかい歴史れきし大系たいけい フランス 1』 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1995ねん
  • 福井ふくい憲彦のりひこ へん世界せかい各国かっこく12 フランス山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん
  • 柴田しばた三千雄みちお 『フランス10こう岩波いわなみ新書しんしょ、2006ねん
  • Reuter, Timothy (trans.) (1992). The Annals of Fulda. Manchester University Press 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]