カペー家(カペーけ、フランス語: Capétiens)は、フランスのパリ周辺、イル=ド=フランスに起源を持つ王家。2人の西フランク王を出したロベール家の後身である。家名は始祖のユーグ・カペーに由来するが、カペー(capet)とは短い外套(ケープ)のことで、元はユーグに付けられたあだ名であった。
カペー家はフランス王家となった他、その分家から他の多くのヨーロッパ諸国の君主の家系が出ている。ここではカペー家及びその分家について解説する。
カロリング朝断絶を受けて、987年に婚姻関係にあったユーグ・カペーがフランス王位に就き、1328年にシャルル4世が死去するまで15代の国王が続いた。フィリップ4世以降はナバラ王も兼ねている。
なお、カペー朝以後のフランスの王朝は皆カペー家の分家によるものであり、その支配は1789年(広義では1848年)まで続いている。
- ユーグ・カペー(987年 - 996年)
- ロベール2世(996年 - 1031年)
- アンリ1世(1031年 - 1060年)
- フィリップ1世(1060年 - 1108年)
- ルイ6世(1108年 - 1137年)
- ルイ7世(1137年 - 1180年)
- フィリップ2世(1180年 - 1223年)
- ルイ8世(1223年 - 1226年)
- ルイ9世(1226年 - 1270年)
- フィリップ3世(1270年 - 1285年)
- フィリップ4世(1285年 - 1314年)
- ルイ10世(1314年 - 1316年)
- ジャン1世(1316年)
- フィリップ5世(1316年 - 1322年)
- シャルル4世(1322年 - 1328年)
- フアナ2世(1328年 - 1349年)
ブルゴーニュは11世紀初頭に一時フランス王の支配下にあったが、アンリ1世の弟ロベール1世がブルゴーニュ公に封じられて以降、その子孫によって支配された。この家系がカペー系ブルゴーニュ家である。1361年にフィリップ1世が嗣子無くして断絶すると、ヴァロワ家のフランス王ジャン2世が公位を継承し、1363年に息子のフィリップ2世に引き継がれた(この家系はヴァロワ=ブルゴーニュ家と呼ばれる)。
ブルゴーニュ公ウード1世の弟エンリケはイベリア半島でレコンキスタに参加し、カスティーリャ王アルフォンソ6世によってポルトゥカーレ伯に封じられた。その息子アフォンソ1世は初代ポルトガル王に即位してブルゴーニュ王朝を開く。
最後の王フェルナンド1世が死ぬと、異母弟ジョアン1世がアヴィス王朝を新たに立て、この王朝の下でポルトガルは黄金時代を迎える。その断絶後にポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の統治下に入るが、1640年にアヴィス家庶系のジョアン4世がポルトガル王として独立する。以後、ブラガンサ王朝が1910年までポルトガルを支配し、ブラジル皇帝も出している。
フィリップ1世の弟ユーグは、ヴェルマンドワ伯の女子相続人と結婚してヴェルマンドワ伯となった。この家系をヴェルマンドワ家と呼ぶ。ユーグは破門中の兄に代わって第1回十字軍に参加した。
ルイ7世の弟ロベール1世はドルー伯に封じられ、その家系であるドルー家の本家は14世紀まで続いた。
ドルー伯ロベール3世の弟ピエール1世はブルターニュ公国の女公アリックス・ド・トゥアールと結婚し、この家系はフランス内で独自の勢力を築いた。しかし、最後の公フランソワ2世には娘のアンヌしかおらず、彼女がヴァロワ家のシャルル8世と結婚したことで、ブルターニュは後にフランス王領へと併合される。
ルイ7世の弟ピエール1世を祖とするクルトネー家 (en) は18世紀まで存続した。ピエールの息子ピエール2世は第四回十字軍の後に建てられたラテン帝国の皇帝位に就いた。しかし、ピエール1世の息子ボードゥアン2世の時にニカイア帝国によって駆逐された。名目上のラテン皇帝位はボードゥアン2世の子フィリップ1世とその娘カトリーヌ1世、さらにカトリーヌ1世の子孫たちに受け継がれている。
ルイ9世の弟アルトワ伯ロベール1世を祖とするアルトワ家は15世紀まで続いた。ロベール1世の娘ブランシュはナバラ王エンリケ1世と結婚して女王フアナ1世の母后となり、カペー朝末期にナバラとフランスの同君連合を成立させた。ロベール1世から4代後のロベール3世はイングランド王エドワード3世に加担して百年戦争の原因の一つを作った。
ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューはシチリア王国を支配していたホーエンシュタウフェン家を滅亡させて、1268年にシチリア王に即位する。しかし、シチリアの晩祷事件を契機としてシチリア島をアラゴン王国に奪われ、最後の君主となったジョヴァンナ2世が1435年に死去するまではナポリ王家として続いた。
一方、一族のカーロイ・ローベルトはハンガリー王となり、その息子ラヨシュ1世はポーランド王も兼ねている。ラヨシュ死後は2人の娘に王国は分割されているが、両人とも夫との間に子を生さなかったため血筋は絶えている。
ルイ10世の2番目の王妃でジャン1世を生んだクレマンス・ド・オングリー、ヴァロワ伯シャルルの最初の妃でフィリップ6世の母であるマルグリット・ダンジューはこの家系の出身である。
フィリップ3世の弟クレルモン伯ロベールを祖とするブルボン家はアンリ4世の時代にフランス王位を獲得してブルボン朝を築き、更にはスペイン・ナポリ・シチリアの王位も獲得している。
フィリップ4世の弟シャルルはヴァロワ伯となったが、その息子フィリップ6世はカペー家嫡系の断絶を受けて1328年にフランス王に即位し、ヴァロワ朝を開いた。
最後の王アンリ3世は短期間ポーランド王兼リトアニア大公に就いていた。
フィリップ4世の弟ルイはエヴルー伯に封じられたが、その息子フィリップはルイ10世の娘ジャンヌと結婚してナバラ王位を獲得した。カペー家嫡系およびヴァロワ家とは他にも複雑な婚姻関係を結んでいる。
エヴルー家はヴァロワ家に次いでカペー家嫡系に近い家系であったことから、フランス王位やブルゴーニュ公位の獲得に野心を燃やしたが果たされず、ナバラ女王ブランカ1世が1441年に死去して断絶した。