トロワ

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トロワ
Troyes


地図
行政ぎょうせい
くに フランスの旗 フランス
地域ちいきけん (Région) グラン・テスト地域ちいきけん
けん (département) オーブけん
ぐん (arrondissement) 小郡おごおりちょう所在地しょざいち
小郡おごおり (canton) 7
INSEEコード 10387
郵便ゆうびん番号ばんごう 10000
市長しちょう任期にんき フランソワ・バロワン
2014ねん - 2020ねん
自治体じちたいあいだ連合れんごう (fr) fr:Grand Troyes
人口じんこう動態どうたい
人口じんこう 60 009にん
2012ねん
人口じんこう密度みつど 4,546にん/km2
住民じゅうみん呼称こしょう Troyens
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4817ふん59びょう 東経とうけい404ふん45びょう / 北緯ほくい48.2997 東経とうけい4.07917 / 48.2997; 4.07917座標ざひょう: 北緯ほくい4817ふん59びょう 東経とうけい404ふん45びょう / 北緯ほくい48.2997 東経とうけい4.07917 / 48.2997; 4.07917
標高ひょうこう 平均へいきん:118 m
最低さいてい:235 m
最高さいこう:103m
面積めんせき : 13,20km2 (1 320ha)
トロワ Troyesの位置(フランス内)
トロワ Troyes
トロワ
Troyes
公式こうしきサイト ville-troyes.fr
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トロワTroyes)は、フランス北部ほくぶグラン・テスト地域ちいきけんコミューンで、オーブけん県庁けんちょう所在地しょざいち

地理ちり[編集へんしゅう]

セーヌがわめんし、パリ南東なんとうやく150キロ地点ちてんにある。

由来ゆらい[編集へんしゅう]

きゅう市街しがい木造もくぞう建築けんちく
サン=ピエール・エ・サン=ポール聖堂せいどう

ローマ時代じだいはアウグストボナ(Augustobona)であった。この平行へいこうしてユリオボナ(Juliobona、現在げんざいリールボンヌ)という地名ちめい存在そんざいした。-bonaとは定住ていじゅう意味いみするので、前半ぜんはんのアウグストやユリオとは当時とうじのローマ皇帝こうていあらわしている。トロワという地名ちめいはガリアけいのトリカッスぞくfr)に由来ゆらいする。4世紀せいきまちはcivitas Tricassiumであった。7世紀せいきにTrecassisとなり、9世紀せいきにTrecasadiensとなった。13世紀せいきにはTroiesとなった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

120ねん、ローマ皇帝こうていハドリアヌス遠征えんせいぐんひきいてトロワに滞在たいざいしたことがある[1]

484ねんクローヴィス1せい石灰岩せっかいがんしつ広大こうだい平野へいやひろがるトロワ周辺しゅうへん征服せいふくし、シャンパーニュ(当時とうじはカンパニア、Campania)とづけた。511ねんのクロヴィス1せいによる王国おうこく分割ぶんかつによりシャンパーニュはアウストラシア一部いちぶとされた。しかしトロワはクロドミル領地りょうちとなった。720ねん、スペインから北上ほくじょうしてきたアラブぐんによってトロワは征服せいふくされている。ルイ敬虔けいけんおう時代じだいの820ねん、アルランがトロワはくとされた。889ねんにはヴァイキングらされ、まちはいした。10世紀せいきふたたびヴァイキングがまちおそったが、トロワ司教しきょうアンスギーズがこれを退しりぞけた。

1040ねんラビであるイサーク・ベン・ソロモンがトロワで誕生たんじょうしている。このことは、町中まちなかにユダヤきょう学校がっこうがあったこと意味いみする。

12世紀せいき、トロワはくりょうモーはくりょう併合へいごうされ、シャンパーニュはくりょう誕生たんじょうした。1102ねんユーグ1せいはじめてシャンパーニュはく自称じしょうした。

1129ねん、トロワこう会議かいぎfr)がサン=ピエール・エ・サン=ポール聖堂せいどうひらかれ、ユーグ・ド・ペイヤンテンプル騎士きしだん初代しょだい総長そうちょう)らだたる聖職せいしょくしゃたちが出席しゅっせきした。このおおやけ会議かいぎで、テンプル騎士きしだん創設そうせつ決定けっていした。1188ねん最初さいしょ大火たいかまちおおくが破壊はかいされた。

1283ねんナバラ女王じょおうジャンヌ・ド・ナヴァールとフランスのフィリップ王子おうじ(のちのフィリップ4せい)の結婚けっこんによって、シャンパーニュはフランス王家おうけ密接みっせつむすびつくようになった。中世ちゅうせい商業しょうぎょう拠点きょてんとして重要じゅうよう位置いちめた。12世紀せいきから13世紀せいきにまでひらかれたシャンパーニュのだいでも主要しゅよう開催かいさい都市としとなった。1288ねん、トロワ住民じゅうみんによるユダヤじんへの中傷ちゅうしょうこり、容疑ようぎしゃとされたユダヤじんたちをあぶりにした(fr)。

『ペルスヴァル』などをあらわし、中世ちゅうせい騎士きしどう物語ものがたりアーサーおう伝説でんせつひじりはい伝説でんせつ発展はってん助力じょりょくしたことで著名ちょめい詩人しじんクレティアン・ド・トロワゆかりのというせつもある。

ひゃくねん戦争せんそうなかには、パリ高等法院こうとうほういんがトロワへ移転いてんした。1420ねんイングランドおうヘンリー5せいとフランス王女おうじょカトリーヌ結婚けっこんし、ヘンリー5せいをフランス王位おうい継承けいしょうしゃとする内容ないようの、イングランド優位ゆういトロワ条約わじょうやく締結ていけつされた。

16世紀せいきから20世紀せいきまでニット産業さんぎょうさかえた。1770ねん当時とうじ、トロワには40のニット業者ぎょうしゃ存在そんざいし、ニットの一大いちだい中心ちゅうしんであった。17世紀せいきにはあおほん出版しゅっぱんとして有名ゆうめいであった。

1910ねん1がつ21にちから1がつ23にちまでつづいたセーヌがわ洪水こうずいでトロワは甚大じんだい被害ひがいけた。

せんあいだにもニット産業さんぎょう堅調けんちょうであり、プティ・バトーラコステ、ディムをふくだい工場こうじょうがトロワに数多かずおおてられた。

1940ねん6がつ15にちナチス・ドイツぐんサンス、パリにいでオーブけん大半たいはん占領せんりょうした。ナチスによるばくげきけたトロワ住民じゅうみんはパニックにおちいり、まち脱出だっしゅつした。ナチスのトロワ制圧せいあつまちのこっていたのはやく4000にん住民じゅうみんだけだった[2]。1944ねん8がつ26にちパットン将軍しょうぐんぐんによってトロワは解放かいほうされた。解放かいほう2にちまえ、ナチス・ドイツはトロワ南部なんぶのブシェールにおいて、オラドゥール=シュル=グラヌのように 容疑ようぎあきらかにしないまま63にん住民じゅうみん処刑しょけいし、家々いえいえはなっていた(ブシェールの惨劇さんげき)。

1960年代ねんだい東南とうなんアジアやひがしアジアから輸入ゆにゅうされるニット製品せいひんとの競合きょうごうにさらされたトロワのニット産業さんぎょう打撃だげきけた。くわえて、消費しょうひしゃのストッキングばなれもきていた。それでも現在げんざいのトロワとその近郊きんこうには、250のテキスタイル関連かんれん企業きぎょうがあり、フランスのトリコット・ニット(fr)の一大いちだい生産せいさんとなっている。

経済けいざい[編集へんしゅう]

かつては繊維せんい産業さんぎょう発展はってんし、現在げんざいでもその名残なごりのこす。アパレル大手おおてラコステが本社ほんしゃく。中世ちゅうせいにおいてはシャンパーニュのだい開催かいさいひとつとしてられ、よんしゅんぶしだい2日曜日にちようびよく月曜日げつようびと、9月1にち開催かいさいされる2つのがあった。トロワの貴金属ききんぞく取引とりひきもちいられた衡量は、現在げんざいトロイオンスのもとになった[3]

交通こうつう[編集へんしゅう]

  • 道路どうろ - A5A26
  • 鉄道てつどう - TERシャンパーニュ=アルデンヌ、トロワえき

出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

美食びしょく[編集へんしゅう]

アンドゥイエット
  • トロワのアンドゥイエット(L'andouillette de Troyes) - 16世紀せいきからその確認かくにんできるという[4]ぶた腸詰ちょうづめ

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • ジョゼフ・ギース、フランシス・ギース ちょ青島あおしま淑子としこ やく中世ちゅうせいヨーロッパの都市とし生活せいかつ講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2006ねん原著げんちょ1982ねん)。ISBN 4-06-159776-0 
    シャンパーニュ地方ちほう商業しょうぎょう中心ちゅうしん都市としとしてさかえていた、1250ねんのトロワについてべられている。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Théophile Boutiot, Histoire de la ville de Troyes et de la Champagne méridionale, Volume 1, Dufey-Robert, 1870
  2. ^ Juin 1940 : L'État abandonne la cité”. L'Est Eclair (2010ねん6がつ6にち). 2010ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  3. ^ コルネリウス・ウォルフォード 『社会しゃかい』 中村なかむらまさるわけ、そしえて、1984ねん。268ぺーじ
  4. ^ chemins gourmands, le site de la collection gourmande”. Site de la collection. 2010ねん6がつ11にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]