ジュゼッペ・ヴェルディの肖像 しょうぞう がデザインされている1000リラ紙幣 しへい
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ (Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年 ねん 10月 がつ 10日 とおか - 1901年 ねん 1月 がつ 27日 にち )は、イタリア の作曲 さっきょく 家 か 。19世紀 せいき を代表 だいひょう するイタリアのロマン派 は 音楽 おんがく の作曲 さっきょく 家 か であり、主 おも にオペラ を制作 せいさく した。「オペラ王 おう 」の異名 いみょう を持 も つ。
代表 だいひょう 作 さく は『ナブッコ 』、『リゴレット 』、『椿 つばき 姫 ひめ 』、『アイーダ 』などがある。彼 かれ の作品 さくひん は世界中 せかいじゅう のオペラハウス で演 えん じられ、またジャンルを超 こ えた展開 てんかい を見 み せつつ大衆 たいしゅう 文化 ぶんか に広 ひろ く根付 ねつ いている。ヴェルディの活動 かつどう はイタリア・オペラに変革 へんかく をもたらし、現代 げんだい に至 いた る最 もっと も重要 じゅうよう な人物 じんぶつ と評 ひょう される[ 1] 。1962年 ねん から1981年 ねん まで、1000リレ (リラ の複数 ふくすう 形 がた )イタリアの紙幣 しへい に肖像 しょうぞう が採用 さいよう されていた。
半島 はんとう つけ根 ね 内陸 ないりく の赤 あか い部分 ぶぶん がタロ (Taro) 地区 ちく
ヴェルディは父 ちち カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母 はは ルイジア・ウッティーニの間 あいだ に初 はじ めての子供 こども として生 う まれる[ 2] 。(後 のち に妹 いもうと も生 う まれた)生誕 せいたん 地 ち はブッセート 近郊 きんこう の小村 こむら [ 2] レ・ロン・コーレ村 むら (英語 えいご 版 ばん ) だが、ここはパルマ公国 こうこく を併合 へいごう したフランス第 だい 一 いち 帝政 ていせい のタロ地区 ちく (英語 えいご 版 ばん ) に組 く み込 こ まれていた。彼 かれ はカトリック教会 きょうかい で洗礼 せんれい を受 う け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) のラテン 名 な を受 う けた。登録 とうろく 簿 ぼ には10月11日 にち 付 づ け記録 きろく に「昨日 きのう 生 う まれた」とあるが、当時 とうじ の教会 きょうかい 歴 れき の日付 ひづけ は日没 にちぼつ で変更 へんこう されていたため、誕生 たんじょう 日 び は9日 にち と10日 とおか のいずれの可能 かのう 性 せい もある。翌々日 よくよくじつ の木曜日 もくようび 、父 ちち は3マイル 離 はな れたブッセートの町 まち で新生児 しんせいじ の名前 なまえ をジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請 しんせい し、吏員 りいん はフランス語 ふらんすご で記録 きろく した。こうしてヴェルディは、偶然 ぐうぜん にもフランス市民 しみん として誕生 たんじょう することになった。
カルロは農業 のうぎょう 以外 いがい にも小売 こうり や宿 やど 、郵便 ゆうびん 取 と り扱 あつか いなどを行 おこな い、珍 めずら しく読 よ み書 か きもできる人物 じんぶつ だった。ヴェルディも父 ちち の仕事 しごと を手伝 てつだ う利発 りはつ な少年 しょうねん だった。だが彼 かれ は早 はや くも音楽 おんがく に興味 きょうみ を覚 おぼ え、旅回 たびまわ りの楽団 がくだん や村 むら の聖 せい ミケーレ教会 きょうかい のパイプオルガン を熱心 ねっしん に聴 き いた。8歳 さい の時 とき 、両親 りょうしん は中古 ちゅうこ のスピネット を買 か い与 あた えると、少年 しょうねん は熱中 ねっちゅう して一 いち 日 にち 中 ちゅう これに向 む かった[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。請 こ われて演奏 えんそう 法 ほう を教 おし えた教会 きょうかい のオルガン弾 び きバイストロッキは、やがて小 ちい さな弟子 でし が自分 じぶん の腕前 うでまえ を上回 うわまわ ったことを悟 さと り、時 とき に自分 じぶん に代 か わってパイプオルガンを演奏 えんそう させた。やがて評判 ひょうばん は広 ひろ がり、カルロと商 しょう 取引 とりひき で関係 かんけい があった音楽 おんがく 好 す きの商人 しょうにん アントーニオ・バレッツィ (イタリア語 ご 版 ばん ) の耳 みみ にも届 とど いた。バレッツィの助言 じょげん を受 う けたカルロは、息子 むすこ の才能 さいのう を伸 の ばそうとブッセートで学 まな ばせることを決断 けつだん した[ 2] 。
1823年 ねん 、10歳 さい のヴェルディは下宿 げしゅく をしながら上級 じょうきゅう 学校 がっこう で読 よ み書 か きやラテン語 らてんご を教 おそ わり、そして音楽 おんがく 学校 がっこう でフェルディナンド・プロヴェージから音楽 おんがく の基礎 きそ を学 まな んだ。バレッツィの家 いえ にも通 かよ い、公私 こうし ともに援助 えんじょ を受 う ける一方 いっぽう で、彼 かれ を通 つう じて町 まち の音楽 おんがく 活動 かつどう にも加 くわ わるようになった。作曲 さっきょく や演奏 えんそう 、そして指揮 しき などの経験 けいけん を重 かさ ね、ヴェルディの評判 ひょうばん は町 まち に広 ひろ がった。17歳 さい になった頃 ころ にはバレッツィ家 か に住 す むようになり、長女 ちょうじょ マルゲリータ・バレッツィ (イタリア語 ご 版 ばん ) と親密 しんみつ な間柄 あいだがら になっていったこともある[ 3] 。
しかし、更 さら なる進歩 しんぽ を得 え ようと当時 とうじ の音楽 おんがく の中心地 ちゅうしんち ミラノ へ留学 りゅうがく を目指 めざ した。費用 ひよう を賄 まかな うためにモンテ・ディ・ピエタ奨学 しょうがく 金 きん [ 4] を申請 しんせい し、バレッツィからの援助 えんじょ も受 う け[ 3] 1832年 ねん 6月 がつ にミラノに移 うつ り住 す んだ[ 5] 。ヴェルディは既 すで に規定 きてい 年齢 ねんれい を超 こ えた18歳 さい であったが、これを押 お して音楽 おんがく 院 いん の入学 にゅうがく を受 う けた。しかし結果 けっか は不 ふ 合格 ごうかく に終 お わり、仕方 しかた なく音楽 おんがく 教師 きょうし のヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人 こじん 指導 しどう を受 う けた[ 5] 。
19世紀 せいき のスカラ座 すからざ 。
音楽 おんがく 院 いん でソルフェージュ 教師 きょうし を務 つと めるラヴィーニャは、またスカラ座 すからざ で作曲 さっきょく や[ 6] 演奏 えんそう も担当 たんとう していた。彼 かれ はヴェルディの才能 さいのう を認 みと め、あらゆる種類 しゅるい の作曲 さっきょく を指導 しどう し、数々 かずかず の演劇 えんげき を鑑賞 かんしょう させ、さらにスカラ座 すからざ のリハーサルまで見学 けんがく させた[ 5] 。知 し り合 あ った指揮 しき 者 しゃ のマッシーニを通 つう じて見学 けんがく したリハーサルでたまたま副 ふく 指揮 しき 者 しゃ が遅 おく れ、ヴェルディがピアノ演奏 えんそう に駆 か り出 だ されると、熱中 ねっちゅう するあまり片手 かたて で指揮 しき を執 と り始 はじ めた。絶賛 ぜっさん したマッシーニが本番 ほんばん の指揮 しき を託 たく すと、演奏 えんそう 会 かい は成功 せいこう を収 おさ め、ヴェルディにはわずかながら音楽 おんがく の依頼 いらい が舞 ま い込 こ むようになった[ 7] 。
そのような頃 ころ 、プロヴェージ死去 しきょ の報 ほう が届 とど いた。彼 かれ は大 だい 聖堂 せいどう のオルガン奏者 そうしゃ 、音楽 おんがく 学 がく 校長 こうちょう 、町 まち のフィルハーモニー指揮 しき 者 しゃ 兼 けん 音楽 おんがく 監督 かんとく などブッセートの重要 じゅうよう な音楽家 おんがくか であった。バレッツィはヴェルディを呼 よ び戻 もど して後継 こうけい させようとしたが、進歩 しんぽ 的 てき なプロヴェージを嫌 きら っていた主席 しゅせき 司祭 しさい が対立 たいりつ 候補 こうほ を立 た て、町 まち を巻 ま き込 こ んだ争 あらそ いに発展 はってん した。ミラノに後 うし ろ髪 がみ を引 ひ かれつつもバレッツィへの義理 ぎり から、1836年 ねん 2月 がつ にヴェルディはパルマ で音楽 おんがく 監督 かんとく 試験 しけん を受 う け絶賛 ぜっさん されつつ合格 ごうかく し、ブッセートへ戻 もど って職 しょく に就 つ いた[ 7] 。
22歳 さい のヴェルディは着任 ちゃくにん したブッセートでまじめに仕事 しごと に取 と り組 く み、同年 どうねん マルゲリータと結婚 けっこん し、1837年 ねん に長女 ちょうじょ ヴィルジーニアが生 う まれた。しかし心中 しんちゅうの では満足 まんぞく できず、秘 ひそ かに取 と り組 く んでいた作曲 さっきょく 『ロチェステル』を上演 じょうえん できないかとマッシーニへ働 はたら きかけたりした。1838年 ねん には長男 ちょうなん イチリオが生 う まれ、歌曲 かきょく 集 しゅう 『六 むっ つのロマンス』が出版 しゅっぱん されたが、同 おな じ頃 ごろ ヴィルジーニアが高熱 こうねつ に苦 くる しんだ末 すえ に亡 な くなった。イチリオの出産 しゅっさん 以来 いらい 体調 たいちょう が優 すぐ れないマルゲリータや、未 いま だ尾 お を引 ひ く主席 しゅせき 司祭 しさい 側 がわ とのいざこざ、自 みずか らの音楽 おんがく への探求 たんきゅう 、そして生活 せいかつ の変化 へんか を目指 めざ し、ヴェルディは再 ふたた びミラノへ行 い くことを決断 けつだん した[ 7] 。
引 ひ き続 つづ きバレッツィの支援 しえん を受 う けてミラノに居 きょ を移 うつ したヴェルディは、つてを頼 たよ って書 か き上 あ げたオペラ作曲 さっきょく 『オベルト 』をスカラ座 すからざ 支配人 しはいにん メレッリに届 とど け、小規模 しょうきぼ な慈善 じぜん 興行 こうぎょう でも公演 こうえん できないか打診 だしん した。しばらく待 ま たされたが色 いろ 好 よ い返事 へんじ を受 う け、1839年 ねん 初頭 しょとう にはソプラノ のジュゼッピーナ・ストレッポーニ やテノール のナポレオーネ・モリアーニらを交 まじ えたリハーサルが行 おこな われた。しかし、モリアーニの体調 たいちょう 不良 ふりょう を理由 りゆう に公演 こうえん は中止 ちゅうし され、ヴェルディは落胆 らくたん した[ 8] 。
ところが、今度 こんど はメレッリ側 がわ から『オベルト』をスカラ座 すからざ で本 ほん 公演 こうえん する働 はたら きかけがあった。これはストレッポーニが作品 さくひん を褒 ほ めたことが影響 えいきょう した。台本 だいほん はテミストークレ・ソレーラ の修正 しゅうせい を受 う け、秋 あき ごろにはリハーサルが始 はじ まった。この最中 さいちゅう 、息子 むすこ イチリオが高熱 こうねつ を発 はっ し、わずか1歳 さい 余 あま りで命 いのち を終 お えた。動 うご き出 だ した歯車 はぐるま を止 と める訳 わけ にはいかないヴェルディは悲 かな しみを胸 むね に秘 ひ めたまま準備 じゅんび を進 すす め、11月17日 にち に『オベルト』はスカラ座 すからざ で上演 じょうえん された[ 8] 。
ヴェルディ初 はつ 作品 さくひん は好評 こうひょう を得 え て、14回 かい 上演 じょうえん された。他 た の町 まち からも公演 こうえん の打診 だしん があり、楽譜 がくふ はリコルディ 社 しゃ から出版 しゅっぱん され、売上 うりあ げの半分 はんぶん はヴェルディの収入 しゅうにゅう となった。メレッリは新作 しんさく の契約 けいやく をヴェルディと結 むす び、今後 こんご 2年間 ねんかん に3本 ほん の製作 せいさく を約束 やくそく させた。不幸 ふこう にも遭 あ ったがこれでやっと妻 つま に楽 らく をさせられるとヴェルディは安堵 あんど していた[ 8] 。
次回 じかい 作 さく にメレッリは『追放 ついほう 者 しゃ 』というオペラ・セリア を提案 ていあん したがヴェルディは気 き が乗 の らず、代 か わりにオペラ・ブッファ (喜劇 きげき )『贋 にせ のスタラチオ』を改題 かいだい して取 と り組 く むことになった。ところが1840年 ねん 6月 がつ 18日 にち 、マルゲリータが脳炎 のうえん に罹 かか り死去 しきょ した。妻子 さいし を全 すべ て失 うしな ったヴェルディの気力 きりょく は萎 な えメレッリに契約 けいやく 破棄 はき を申 もう し入 い れたが拒否 きょひ され、どこか呆然 ぼうぜん としたまま『一 いち 日 にち だけの王様 おうさま (英語 えいご 版 ばん ) 』を仕上 しあ げた。9月5日 にち 、スカラ座 すからざ の初演 しょえん で、本 ほん 作 さく は散々 さんざん な評価 ひょうか を下 くだ され、公演 こうえん は中断 ちゅうだん された。ヴェルディは打 う ちひしがれて閉 と じこもり、もう音楽 おんがく から身 み を引 ひ こうと考 かんが えた[ 8] [ 9] 。
「行 い け、わが想 おも いよ (Va, pensiero)」の旋律 せんりつ
年 とし も押 お し迫 せま ったある日 ひ の夕方 ゆうがた 、街 まち 中 ちゅう でメレッリとヴェルディは偶然 ぐうぜん 会 あ った。メレッリは彼 かれ を強引 ごういん に事務所 じむしょ に連 つ れ、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ のナブコドノゾール王 おう を題材 だいざい にした台本 だいほん を押 お し付 つ けた。もうやる気 き の無 な いヴェルディは帰宅 きたく し台本 だいほん を放 ほう り出 だ したが、開 ひら いたページの台詞 せりふ 「行 い け、わが思 おも いよ、黄金 おうごん の翼 つばさ に乗 の って (Va, pensiero, sull'ali dorate)」が眼 め に入 はい り[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 、再 ふたた び音楽 おんがく への意欲 いよく を取 と り戻 もど した[ 8] [ 9] [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。
『ナブッコ』の舞台 ぶたい (2004年 ねん )
ソレーラに脚本 きゃくほん の改訂 かいてい を行 おこな わせ、作曲 さっきょく を重 かさ ねたヴェルディは1841年 ねん 秋 あき に完成 かんせい させた。彼 かれ は謝肉祭 しゃにくさい の時期 じき に公演 こうえん される事 こと に拘 かかわ り、様々 さまざま な準備 じゅんび を経 へ て1842年 ねん 3月 がつ 9日 にち にスカラ座 すからざ で初演 しょえん を迎 むか えた。観客 かんきゃく は第 だい 1幕 まく だけで惜 お しみない賞賛 しょうさん を贈 おく り、黄金 おうごん の翼 つばさ の合唱 がっしょう では当時 とうじ 禁止 きんし されていたアンコール を要求 ようきゅう するまで熱狂 ねっきょう した[ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。1日 にち にしてヴェルディの名声 めいせい を高 たか めたオペラ『ナブッコ 』は成功 せいこう を収 おさ めた[ 8] 。
『ナブッコ』は春 はる に8回 かい 、秋 あき にはスカラ座 すからざ 新 しん 記録 きろく となる57回 かい 上演 じょうえん された[ 9] 。ヴェルディは本人 ほんにん の好 この みに関 かか わらず社交 しゃこう 界 かい の寵児 ちょうじ となり、クララ・マッフェイ (英語 えいご 版 ばん ) の招 まね きに応 おう じてサロット・マッファイのサロン に加 くわ わった。このような場 ば で彼 かれ はイタリアを取 と り巻 ま く政治 せいじ 的 てき な雰囲気 ふんいき を感 かん じ取 と った。一方 いっぽう メレッリとは高額 こうがく な報酬 ほうしゅう で次回 じかい 作 さく の契約 けいやく を交 か わし、1843年 ねん 2月 がつ に愛国 あいこく 的 てき な筋立 すじだ ての[ 6] 『十字軍 じゅうじぐん のロンバルディア人 じん 』が上演 じょうえん され、これもミラノの観衆 かんしゅう を熱狂 ねっきょう させた。2作 さく は各地 かくち で公演 こうえん され、『ナブッコ』の譜面 ふめん はマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ に、『十字軍 じゅうじぐん のロンバルディア人 じん 』のそれはマリア・ルイーザ にそれぞれ贈 おく られた[ 10] 。
『
エルナーニ 』、1844
年 ねん 、Act 3。
出演 しゅつえん :マッティア・バッティスティーニ、エミリア・コルシ、ルイジィ・コラッツァ、アリストデモ・Sillich、
スカラ座 すからざ ・コーラス、1906
年 ねん 。
数々 かずかず の劇場 げきじょう からオファーを受 う けたヴェルディの次回 じかい 作 さく はヴィクトル・ユーゴー 原作 げんさく から『エルナーニ 』が選 えら ばれ、台本 だいほん は駆 か け出 だ しのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ が担当 たんとう した。ヴェルディは劇作 げきさく に妥協 だきょう を許 ゆる さず何 なん 度 ど もピアーヴェに書 か き直 なお しを命 めい じ、出演 しゅつえん 者 しゃ も自 みずか ら選 えら び、リハーサルを繰 く り返 かえ させた。1844年 ねん 3月 がつ にヴェネツィア のフェニーチェ劇場 げきじょう で初演 しょえん を迎 むか えた本 ほん 作 さく も期待 きたい を違 ちが えず絶賛 ぜっさん された。それでもヴェルディは次 つぎ を目指 めざ し、後 のち に「ガレー船 せん の年月 としつき 」[ 注釈 ちゅうしゃく 5] と回顧 かいこ する多作 たさく の時期 じき に入 はい った[ 10] 。
ローマ 用 よう に制作 せいさく したジョージ・ゴードン・バイロン 原作 げんさく の『二人 ふたり のフォスカリ(英語 えいご 版 ばん ) 』(1844年 ねん 11月)、ジャンヌ・ダルク が主役 しゅやく のフリードリヒ・フォン・シラー 作 さく の戯曲 ぎきょく から『ジョヴァンナ・ダルコ (英語 えいご 版 ばん ) 』(1845年 ねん 2月 がつ )、20日 はつか 程度 ていど で書 か き上 あ げた『アルツィーラ (英語 えいご 版 ばん ) 』(8月 がつ )が立 た て続 つづ けに上演 じょうえん され、どれも相応 そうおう の評価 ひょうか を受 う けた。しかしヴェルディはリウマチ [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] に苦 くる しみ、連作 れんさく の疲 つか れに疲弊 ひへい しつつあった。続 つづ く『アッティラ 』では男性 だんせい 的 てき な筋 すじ からソレーラに台本 だいほん を依頼 いらい するも仕事 しごと が遅 おそ い上 うえ に途中 とちゅう でスペイン 旅行 りょこう に出掛 でか ける始末 しまつ でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上 しあ げさせるとソレーラとは袂 たもと を分 わ けた[ 11] 。1846年 ねん 3月 がつ の封切 ふうきり でも好評 こうひょう を博 はく したが[ 11] 、過労 かろう が顕著 けんちょ になり[ 6] 医者 いしゃ からは休養 きゅうよう を取 と るようにと助言 じょげん された[ 12] 。
1846年 ねん 春 はる から、ヴェルディは完全 かんぜん に仕事 しごと から離 はな れて数 すう ヶ月 かげつ の休養 きゅうよう を取 と った。そして、ゆっくりと『マクベス 』の構想 こうそう を練 ね った。ウィリアム・シェイクスピア の同名 どうめい 戯曲 ぎきょく を題材 だいざい に、台本 だいほん を制作 せいさく するピアーヴェには何 なん 度 ど も注文 ちゅうもん をつけた。時代 じだい 考証 こうしょう のために何 なん 度 ど もロンドン へ問 と い合 あ わせ、劇場 げきじょう をフィレンツェ のベルゴラ劇場 げきじょう に決 き めると前例 ぜんれい の無 な い衣裳 いしょう リハーサルまで行 おこ なわせた。特筆 とくひつ すべきは、出演 しゅつえん 者 しゃ へ「作曲 さっきょく 家 か ではなく詩人 しじん に従 したが うこと」と繰 く り返 かえ し指示 しじ した点 てん があり、そのために予定 よてい された容姿 ようし 端麗 たんれい のソプラノ歌手 かしゅ を断 ことわ りもした[ 13] [ 注釈 ちゅうしゃく 6] 。ここからヴェルディは音楽 おんがく と演劇 えんげき の融合 ゆうごう を強 つよ く意識 いしき して『マクベス』制作 せいさく に臨 のぞ んだことが窺 うかが える。さらにはゲネプロ 中 なか に最 もっと も重要 じゅうよう と考 かんが えた二重唱 にじゅうしょう 部分 ぶぶん の稽古 けいこ をさせるなど、妥協 だきょう を許 ゆる さぬ徹底 てってい ぶりを見 み せた。1847年 ねん 3月 がつ 、初演 しょえん でヴェルディは38回 かい カーテンコールに立 た ち、その出来映 できば えに観客 かんきゃく は驚 おどろ きを隠 かく さなかった。ただし評価 ひょうか 一辺倒 いっぺんとう ではなく、華麗 かれい さばかりに慣 な れた人々 ひとびと にとって突 つ きつけられた悲劇 ひげき 的 てき テーマの重 おも さゆえに戸惑 とまど いの声 こえ も上 あ がった[ 12] 。本 ほん 作 さく の価値 かち が正 ただ しく評価 ひょうか されるには20世紀 せいき 後半 こうはん まで待 ま たされた[ 13] 。
次 つぎ の作品 さくひん 『群盗 ぐんとう (英語 えいご 版 ばん ) 』は初 はじ めてイギリス 公演 こうえん 向 む けに書 か かれた。ヴェルディはスイス経由 けいゆ でパリに入 はい り、弟子 でし のエマヌエレ・ムツィオをロンドンへ先乗 さきの りさせ、引退 いんたい して当地 とうち に移 うつ り住 す んでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニと久 ひさ しぶりに会 あ った。準備 じゅんび 状 じょう 況 きょう を知 し るとヴェルディもロイヤル・オペラ・ハウス に入 はい り最後 さいご の詰 つ めを行 おこな って、『群盗 ぐんとう 』は1847年 ねん 7月 がつ にヴィクトリア女王 じょおう も観劇 かんげき する中 なか で開演 かいえん された。観客 かんきゃく は喝采 かっさい したが評論 ひょうろん 家 か には厳 きび しい意見 いけん もあり、騒 さわ がしい、纏 まと まりが無 な いという評 ひょう もあった。これらは台本 だいほん の弱 よわ さや歌手 かしゅ への配慮 はいりょ などが影響 えいきょう した点 てん を突 つ いていたが、『群盗 ぐんとう 』には後 のち にヴェルディが得意 とくい とする低 てい 域 いき 男性 だんせい 二 に 重唱 じゅうしょう や美 うつく しい旋律 せんりつ もあり、概 がい して彼 かれ の国際 こくさい 的 てき 名声 めいせい を高 たか めた[ 14] 。
帰路 きろ 、ヴェルディはパリに止 と まってオペラ座 ざ の依頼 いらい を受 う けた。しかし完全 かんぜん な新作 しんさく を用意 ようい する余裕 よゆう は無 な く、『十字軍 じゅうじぐん のロンバルディア人 じん 』をフランス語 ふらんすご に改訂 かいてい した『イェルサレム』を制作 せいさく した。そしてこの期間 きかん 、頻繁 ひんぱん にジュゼッピーナと逢 あ い、やがて一緒 いっしょ に住 す むようになった。11月に公演 こうえん された『イェルサレム』の評判 ひょうばん はいまひとつで終 お わったが、彼 かれ は理由 りゆう をつけてパリに留 と まり、バレッツィを招待 しょうたい さえした。1848年 ねん 2月 がつ には契約 けいやく で制作 せいさく した『海賊 かいぞく (英語 えいご 版 ばん ) 』をミラノのムツィオに送 おく りつけ、彼 かれ はジュゼッピーナとの時間 じかん を楽 たの しんでいた。そして二 に 月 がつ 革命 かくめい の目撃 もくげき 者 しゃ となったが、気楽 きらく な外国 がいこく 人 じん の立場 たちば でそれを楽 たの しんでさえいた[ 15] 。
二 に 月 がつ 革命 かくめい の影響 えいきょう は周辺 しゅうへん 諸国 しょこく にも拡 ひろ がり、3月にはミラノでもデモが行 おこな われ、オーストリア軍 ぐん との衝突 しょうとつ が勃発 ぼっぱつ し、ついにはこれを追 お い出 だ し臨時 りんじ 市 し 政府 せいふ が樹立 じゅりつ された。ヴェルディがミラノに戻 もど ったのはこの騒動 そうどう が一段落 いちだんらく した4月 がつ で、「志願 しがん 兵 へい になりたかった」という感想 かんそう こそ漏 も らしたが5月 がつ には仕事 しごと を理由 りゆう にまたパリへ向 む かい、暫定 ざんてい 政権 せいけん 崩壊 ほうかい を眼 め にすることは無 な かった[ 16] 。市 し 郊外 こうがい のパッシー でジュゼッピーナと暮 く らしたヴェルディは戻 もど らず、『海賊 かいぞく 』は初演 しょえん に立 た ち会 あ わない初 はじ めてのオペラとなった。しかし彼 かれ は無 む 関心 かんしん を決 き め込 こ んでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞 けんぶん した経験 けいけん 等 とう からイタリアでも統一 とういつ の機運 きうん が高 たか まる事 こと 、しかしそれには様々 さまざま な問題 もんだい がある事 こと に思 おも いを馳 は せていた。彼 かれ の次 つぎ の作品 さくひん は祖国 そこく への愛 あい を高 たか らかに歌 うた う『レニャーノの戦 たたか い 』であり、新 あら たに共和 きょうわ 国 こく が樹立 じゅりつ されたローマ で開演 かいえん された。ジュゼッピーナを伴 ともな いヴェルディは訪問 ほうもん したが、観劇 かんげき 者 しゃ たちは興奮 こうふん して「イタリア万歳 ばんざい 」を叫 さけ び、彼 かれ を統一 とういつ のシンボルとまでみなし始 はじ めていた[ 17] 。
喧騒 けんそう の渦中 かちゅう にあり、またコレラ 蔓延 まんえん などを理由 りゆう に都市 とし 部 ぶ を嫌 きら ったヴェルディは1849年 ねん 夏 なつ にジュゼッピーナを連 つ れてブッセートに戻 もど り、オルランディ邸 てい で暮 く らし始 はじ めた。ここで彼 かれ は『ルイザ・ミラー 』や『スティッフェーリオ (英語 えいご 版 ばん ) 』を仕上 しあ げ、人間 にんげん の心 しん を掘 ほ り下 さ げる次回 じかい 作 さく に取 と り組 く んだ。一方 いっぽう 、街 まち の人々 ひとびと がふたり、特 とく にジュゼッピーナに向 む ける眼 め は厳 いかめ しかった。気 き に留 と めないヴェルディが仕事 しごと で町 まち を離 はな れる時 とき は、彼女 かのじょ はパヴィーア に母 はは を訪 たず ねて一人 ひとり 残 のこ らないようにした[ 18] 。
台本 だいほん 制作 せいさく を指示 しじ されたピアーヴェは戸惑 とまど った。ヴェルディが選 えら んだ次回 じかい 作 さく の元本 がんぽん はとてもオペラにはそぐわないと思 おも われたからだった。華 はな やかさも無 な く、強 つよ い政治 せいじ 色 しょく に、不道徳 ふどうとく 的 てき なあらすじ、そして呪 のろ いを描 えが いた本 ほん 作 さく は演劇 えんげき としてパリで上演 じょうえん 禁止 きんし となった代物 しろもの だった[ 19] 。案 あん の定 じょう 上演 じょうえん 予定 よてい のヴェネツィアの検閲 けんえつ で拒否 きょひ された。何 なん 度 ど かの修正 しゅうせい が加 くわ わったが、譲 ゆず れない所 ところ にはヴェルディは強硬 きょうこう だった[ 19] 。原作 げんさく 者 しゃ ユーゴーさえオペラ化 か に反対 はんたい した[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 作品 さくひん 『王 おう は楽 たの しむ』は、封切 ふうき り予定 よてい 1ヶ月 かげつ 前 まえ に許可 きょか が下 くだ り、1851年 ねん 3月 がつ に初演 しょえん を迎 むか えた。これが『リゴレット 』であった[ 20] 。
『リゴレット』はあらゆる意味 いみ で型破 かたやぶ りな作品 さくひん だった。皮切 かわき りでお決 き まりの合唱 がっしょう も無 な く、会話 かいわ から始 はじ まる第 だい 一幕 ひとまく 。カヴァティーナ (緩 なる )からカバレッタ (急 きゅう )の形式 けいしき を逆転 ぎゃくてん させたアリア 、朗読 ろうどく 調 ちょう の二重唱 にじゅうしょう 、アリアと見紛 みまが う劇的 げきてき なシェーナ(劇 げき 唱 )の多用 たよう [ 19] 、渾身 こんしん の自信 じしん 作 さく 「女 おんな ごころの唄 うた 」、そして『マクベス』以来 いらい ヴェルディが追 お い求 もと めた劇 げき を重視 じゅうし する姿勢 しせい 、嵐 あらし など自然 しぜん 描写 びょうしゃ の巧 たく みさ、主人公 しゅじんこう であるせむしの道化 どうけ リゴレットの怒 いか り、悲哀 ひあい 、娘 むすめ への愛情 あいじょう など感情 かんじょう を盛 も り立 た てる筋 すじ と音楽 おんがく は観衆 かんしゅう を圧倒 あっとう し、イタリア・オペラ一 いち 大 だい 傑作 けっさく が誕生 たんじょう した[ 20] 。
『リゴレット』の成功 せいこう は、ヴェルディに創作 そうさく 活動 かつどう の充実 じゅうじつ に充分 じゅうぶん な財産 ざいさん 、そして時間 じかん に追 お われず仕事 しごと を選 えら べる余裕 よゆう をもたらした。しかし私生活 しせいかつ は万事 ばんじ 順調 じゅんちょう とはいかなかった。ジュゼッピーナに向 む けられるブッセートの眼 め は相変 あいか わらず厳 きび しく、それは家族 かぞく も例外 れいがい ではなかった。しかも父 ちち カルロが息子 むすこ の管財 かんざい 人 じん になったと吹聴 ふいちょう してまわり、干渉 かんしょう を嫌 きら うヴェルディは両親 りょうしん と距離 きょり を置 お き、1851年 ねん 春 はる に以前 いぜん 購入 こうにゅう していた郊外 こうがい のサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ )にある農場 のうじょう に居 きょ を移 うつ した。6月に母 はは が亡 な くなった事 こと に悲 かな しむが、ヴェルディは次 つぎ の作品 さくひん に取 と り組 く んで気 き を紛 まぎ らわした。年末 ねんまつ にはジュゼッピーナのためパリに移 うつ り、その突然 とつぜん さからバレッツィと少々 しょうしょう 揉 も めたが、翌年 よくねん サンターガタに戻 もど った2人 ふたり と元々 もともと ジュゼッピーナに味方 みかた する義父 ぎふ は、その関係 かんけい を修復 しゅうふく できた。
『
イル・トロヴァトーレ 』、1853
年 ねん 、Act 2.。
出演 しゅつえん :ガブリエラ・ベザンツォーニ、1920
年 ねん
1853年 ねん 1月 がつ ローマのアポロ劇場 げきじょう で封切 ふうき りされた『イル・トロヴァトーレ 』は若干 じゃっかん 旧来 きゅうらい の形式 けいしき に巻 ま き戻 もど されたものだったがカヴァティーナ 形式 けいしき の傑作 けっさく として[ 21] 成功 せいこう を収 おさ め、ほぼ同時 どうじ に構想 こうそう を練 ね った次回 じかい 作 さく に取 と り組 く んだ[ 22] 。しかしこの『椿 つばき 姫 ひめ 』3月 がつ のヴェネツィア初演 しょえん は、ムツィオに宛 あ てた手紙 てがみ に書 か かれたように「失敗 しっぱい 」[ 23] となり2回 かい 公演 こうえん で打 う ち切 き られた。充分 じゅうぶん なリハーサルも取 と れなかった上 うえ 、病弱 びょうじゃく なヒロインを演 えん じるにはソプラノ歌手 かしゅ の見 み た目 め は健康 けんこう 的 てき 過 す ぎた。3幕 まく でヒロインが死 し ぬシーンでは失笑 しっしょう さえ漏 も れた[ 23] 。しかしヴェルディは雪辱 せつじょく に燃 も え、配役 はいやく などを見直 みなお して5月 がつ に同 おな じヴェネツィアで再演 さいえん すると、今度 こんど は喝采 かっさい を浴 あ びた。この作品 さくひん はヴェルディ唯一 ゆいいつ のプリマドンナ ・オペラであった[ 24] 。
しばらくの間 あいだ サンターガタで休息 きゅうそく を取 と り、ヴェルディはグランド・オペラ への挑戦 ちょうせん という野心 やしん を秘 ひ めパリに乗 の り込 こ んだ。しかしこれは成就 じょうじゅ しなかった。『シチリアの晩鐘 ばんしょう 』制作 せいさく では、オペラ座 ざ 所属 しょぞく の台本 だいほん 作家 さっか ウジェーヌ・スクリーブ に、その仕事 しごと の遅 おそ さも内容 ないよう も満足 まんぞく できなかった。この仕事 しごと は彼 かれ を1年 ねん 以上 いじょう も拘束 こうそく し、ついには契約 けいやく 破棄 はき さえ持 も ち出 だ した。同 どう 作 さく は1855年 ねん 6月 がつ に公演 こうえん され好評 こうひょう を得 え たが、結果 けっか 的 てき にヴェルディにとって身 み が入 はい らないものとなった。彼 かれ はすぐにでもイタリアに戻 もど って「キャベツを植 う えたい」と言 い ったが、過去 かこ の作品 さくひん を翻訳 ほんやく 上演 じょうえん する契約 けいやく などに縛 しば られ、サンターガタに還 かえ ったのは年末 ねんまつ になった[ 25] 。
サンターガタの農場 のうじょう はヴェルディの心 しん 休 やす まる場 ば となっていた。既 すで に多 おお くの小作 こさく 人 じん を雇 やと うまでに順調 じゅんちょう な経営 けいえい は収益 しゅうえき を上 あ げ、彼 かれ は音楽 おんがく を忘 わす れてジュゼッピーナと農作業 のうさぎょう の日々 ひび を楽 たの しんだ。しかし作曲 さっきょく に向 む かう衝動 しょうどう は抑 おさ えがたく、彼 かれ はまた制作 せいさく に身 み を投 とう じる。先 ま ず手掛 てが けたのが『スティッフェーリオ』の改訂 かいてい だった。舞台 ぶたい を中世 ちゅうせい イギリスに変更 へんこう してピアーヴェに書 か き直 なお させた本 ほん 作 さく は『アロルド (英語 えいご 版 ばん ) 』という題 だい で公開 こうかい された。この頃 ころ には上演 じょうえん に応 おう じた報酬 ほうしゅう が作曲 さっきょく 家 か に払 はら われる習慣 しゅうかん が根付 ねつ いたため、これもヴェルディの収入 しゅうにゅう を安定 あんてい させた。次 つぎ に送 おく り出 だ した新作 しんさく 『シモン・ボッカネグラ 』は朗読 ろうどく を重視 じゅうし して歌 うた を抑 おさ え、管弦楽 かんげんがく 法 ほう による特 とく に海 うみ の場面 ばめん 描写 びょうしゃ に優 すぐ れた逸品 いっぴん だったが、1857年 ねん 3月 がつ の初演 しょえん では配役 はいやく に恵 めぐ まれず[ 26] 、あまり評価 ひょうか されなかった[ 27] 。
掲 かか げられた「ヴェルディ万歳 ばんざい 」。1859年 ねん のイラスト。
ヴェルディが次回 じかい 作 さく に選 えら んだ題材 だいざい は、様々 さまざま な問題 もんだい を生 しょう じた。ウジェーヌ・スクリーブ の『グスタフ3世 せい 』は、スウェーデン 王 おう グスタフ3世 せい を題材 だいざい としており、そもそも実在 じつざい の王族 おうぞく を登場 とうじょう 人物 じんぶつ にすることはナポリでは禁 きん じられていた。しかも暗殺 あんさつ されるという筋 すじ は検閲 けんえつ 当局 とうきょく が先 ま ず認 みと めない。さらにはナポレオン3世 せい の暗殺 あんさつ 未遂 みすい 事件 じけん が起 お き、状況 じょうきょう は悪化 あっか した[ 28] 。契約 けいやく していた興行 こうぎょう 主 ぬし のアルベルティは台本 だいほん の変更 へんこう を主張 しゅちょう するがヴェルディは認 みと めず、ついには裁判 さいばん 沙汰 ざた になった。これはヴェルディに不利 ふり だったが世論 せろん が彼 かれ を後押 あとお しし、結果 けっか 『シモン・ボッカネグラ』公演 こうえん へ契約 けいやく を変更 へんこう することで和解 わかい した。ヴェルディはナポリ上演 じょうえん のためにほぼ完成 かんせい していた『グスターヴォ三 さん 世 せい 』をローマに持 も ち込 こ み、舞台 ぶたい をスウェーデンからアメリカ・ボストンに変更 へんこう した上 うえ で、いくつかのアリアを差替 さしか えるなど編曲 へんきょく した上 うえ で、アポロ劇場 げきじょう での公演 こうえん に漕 こ ぎ着 つ けた。こうして1859年 ねん 2月 がつ に改題 かいだい を加 くわ えた『仮面 かめん 舞踏 ぶとう 会 かい 』は開幕 かいまく された[ 29] 。
楽曲 がっきょく の美 うつく しさと演劇 えんげき 性 せい を高度 こうど に両立 りょうりつ させた内容 ないよう の秀逸 しゅういつ さもさることながら、その筋 すじ が時代 じだい の雰囲気 ふんいき に適合 てきごう し、『仮面 かめん 舞踏 ぶとう 会 かい 』に観客 かんきゃく は熱狂 ねっきょう した。サルデーニャ国王 こくおう ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい は、周辺 しゅうへん 諸国 しょこく との関係 かんけい 変化 へんか を受 う け1月 がつ の国会 こっかい で統一 とういつ に向 む けた演説 えんぜつ を行 おこな い、イタリア全土 ぜんど で機運 きうん が高 たか まっていた[ 28] 。このスローガンViva V ittorio E manuele R e
D 'I talia(イタリアの王 おう ヴィットーリオ・エマヌエーレ万 まん 歳 さい )が略 りゃく され「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳 ばんざい )と偶然 ぐうぜん になった[ 30] [ 31] ことが起因 きいん し、彼 かれ を時代 じだい の寵児 ちょうじ に押 お し上 あ げた[ 29] 。このオペラの成功 せいこう によってローマのアカデミア・フィラルモニカ 名誉 めいよ 会員 かいいん に選出 せんしゅつ されたヴェルディは、一方 いっぽう で聴衆 ちょうしゅう は作品 さくひん に正当 せいとう な評価 ひょうか を向 む けていないと感 かん じ、「もうオペラは書 か かない」と言 い って次 つぎ の契約 けいやく を断 ことわ り、サンターガタの農場 のうじょう へ身 み を引 ひ っ込 こ めた[ 29] 。
メルキオーレ・デルフィコ によって漫画 まんが 化 か されたヴェルディ、1860年 ねん
1859年 ねん 8月 がつ 29日 にち 、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォア のコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式 けっこんしき を挙 あ げた[ 32] 。45歳 さい の新郎 しんろう と43歳 さい の新婦 しんぷ は、馬車 ばしゃ の御者 ぎょしゃ と教会 きょうかい の鐘楼 しゅろう 守 もり だけしか参列 さんれつ しない簡単 かんたん で質素 しっそ な式 しき を挙 あ げた[ 28] 。夫妻 ふさい は平穏 へいおん な生活 せいかつ を送 おく ったが、イタリアは第 だい 二 に 次 じ 独立 どくりつ 戦争 せんそう でオーストリアに勝利 しょうり し、この知 し らせにはヴェルディも喜 よろこ んだ[ 33] 。
だがそれはすぐに失望 しつぼう へ変 か わった。同 おな じくオーストリアと対立 たいりつ しイタリアを支援 しえん したナポレオン3世 せい が秘 ひそ かにオーストリアと通 つう じヴィッラフランカの講和 こうわ に踏 ふ み切 き った。エマヌエーレ2世 せい はしぶしぶこれを呑 の み、宰相 さいしょう カミッロ・カヴール は辞任 じにん した。しかし、各 かく 公国 こうこく の領主 りょうしゅ 層 そう はことごとく亡命 ぼうめい し、民衆 みんしゅう による暫定 ざんてい 政府 せいふ が立 た ち上 あ げられていた。
カミッロ・カヴール。
パルマ公国 こうこく もモデナ と合併 がっぺい されて議会 ぎかい が開 ひら かれることになり、ブッセート市 し の当局 とうきょく は地域 ちいき の代表 だいひょう をヴェルディに打診 だしん した。政治 せいじ 家 か の資質 ししつ などないと自覚 じかく していたが、彼 かれ はイタリアのためとこれを受 う けた。9月7日 にち に開 ひら かれたパルマ議会 ぎかい はサルデーニャ王国 おうこく との合併 がっぺい を決議 けつぎ し、ヴェルディはパルマの代表 だいひょう として王国 おうこく 首都 しゅと のトリノ でエマヌエーレ2世 せい に謁見 えっけん した。さらに彼 かれ は郊外 こうがい で隠棲 いんせい し農業 のうぎょう をしていたカヴールと会 あ い、音楽 おんがく から身 み を引 ひ いた農夫 のうふ として政治 せいじ から身 み を引 ひ いた農夫 のうふ と話 はな し合 あ った[ 33] 。
その後 ご サンターガタに戻 もど ったヴェルディは妻 つま とジェノヴァ旅行 りょこう を楽 たの しむなど平穏 へいおん に過 す ごしたが、イタリア情勢 じょうせい はまた動 うご き始 はじ めた。事態 じたい を進 すす められない内閣 ないかく をエマヌエーレ2世 せい は罷免 ひめん し、カヴールが復帰 ふっき すると各 かく 小国 しょうこく との合併 がっぺい が進 すす み、1861年 ねん に統一 とういつ は成就 じょうじゅ してイタリア王国 おうこく が誕生 たんじょう した。カヴールは初代 しょだい 首相 しゅしょう に就任 しゅうにん し、彼 かれ はヴェルディに国会 こっかい 議員 ぎいん に立候補 りっこうほ するよう薦 すす めた。議会 ぎかい 中 ちゅう 静 しず かに座 すわ っている自信 じしん が無 な いと断 ことわ るヴェルディは逆 ぎゃく に説得 せっとく されしぶしぶ立 た ち、彼 かれ は当選 とうせん した[ 34] 。下院 かいん 議員 ぎいん の一員 いちいん となったヴェルディに能力 のうりょく も野心 やしん も無 な く、ただカヴールに賛成 さんせい するだけで過 す ごしたが、6月 がつ に当 とう のカヴールが亡 な くなると意欲 いよく は失 う せ、4年 ねん の任期 にんき 中 ちゅう [ 35] に特 とく に目立 めだ つ政治 せいじ 活動 かつどう は行 おこな わなかった[ 33] 。
1861年 ねん 秋 あき 、ヴェルディは音楽 おんがく 制作 せいさく に戻 もど っていた。激変 げきへん したイタリアに刺激 しげき された事 こと 、また、まだ知 し らぬロシア からのオファーが舞 ま い込 こ んだことも情熱 じょうねつ を掻 か き立 た てた。一流 いちりゅう の歌手 かしゅ が揃 そろ うペテルブルク の帝室 ていしつ 歌劇 かげき 場 じょう も期待 きたい させた。題材 だいざい をスペイン の戯曲 ぎきょく に求 もと め、書 か き上 あ げた曲 きょく を携 たずさ えて12月に夫妻 ふさい は汽車 きしゃ の乗客 じょうきゃく となった。しかし、ソプラノ歌手 かしゅ が体調 たいちょう を崩 くず して舞台 ぶたい は中止 ちゅうし され、質 しつ を落 お とす位 い ならばと数ヶ月 すうかげつ 単位 たんい の延期 えんき を決 き めて夫妻 ふさい はパリに向 む かった[ 36] 。
1862年 ねん 2月 がつ 、ヴェルディはパリでロンドン万国博覧会 ばんこくはくらんかい 用 よう の作曲 さっきょく 依頼 いらい を受 う けた。これはドイツのジャコモ・マイアベーア 、フランスのダニエル=フランソワ=エスプリ・オベール と並 なら んだ打診 だしん であり、ヴェルディはいわばイタリア代表 だいひょう とも言 い えた。彼 かれ は「諸 しょ 国民 こくみん の賛歌 さんか (Inno delle Nazioni)」を作曲 さっきょく し、見物 けんぶつ を兼 か ねてロンドンを訪問 ほうもん したが、万博 ばんぱく の音楽 おんがく 監督 かんとく を担当 たんとう したナポリ出身 しゅっしん の作曲 さっきょく 家 か が面白 おもしろ くなく思 おも ったのか「諸 しょ 国民 こくみん の賛歌 さんか 」演奏 えんそう を断 ことわ った。結果 けっか 、別 べつ に演奏 えんそう され好評 こうひょう を博 はく したが、この曲 きょく のイタリア公演 こうえん は再 ふたた び不穏 ふおん さを増 ま した政治 せいじ 情勢 じょうせい を鑑 かんが みて断 ことわ った[ 36] 。
そして秋 あき になり、再 ふたた びペテルブルクに入 はい ったヴェルディは11月に開演 かいえん した『運命 うんめい の力 ちから 』に一定 いってい の満足 まんぞく を得 え て、しかも聖 せい スタニスラス勲章 くんしょう を贈 おく られる栄誉 えいよ に授 さず かった。ただしこの作品 さくひん は他 た の都市 とし ではあまり評価 ひょうか されなかった。3人 にん が死 し を迎 むか えて終 お わるフィナーレ、場面 ばめん を強調 きょうちょう するあまり筋 すじ のつながりが悪 わる いなど、台本 だいほん に無理 むり があった。しかし音楽 おんがく では、脇役 わきやく も含 ふく めた人物 じんぶつ の特徴 とくちょう を表現 ひょうげん する多彩 たさい な合唱 がっしょう や、テーマや場面 ばめん そして人物 じんぶつ の感情 かんじょう の変化 へんか などを繋 つな ぐ音楽 おんがく はヴェルディの創意 そうい が反映 はんえい していた。数 すう 年 ねん 後 ご には台本 だいほん の改訂 かいてい を受 う けて再演 さいえん され、本 ほん 作品 さくひん は高 たか く評価 ひょうか された[ 36] 。
翌年 よくねん 、『運命 うんめい の力 ちから 』スペイン公演 こうえん を指揮 しき し、さらに『シチリアの晩鐘 ばんしょう 』再演 さいえん のためヴェルディはパリに入 はい った。だが、相変 あいか わらずオペラ座 ざ の仕事 しごと は遅 おそ くいい加減 かげん で、リハーサルを面倒臭 めんどうくさ がる団員 だんいん たちにヴェルディは怒 いか りを爆発 ばくはつ させイタリアに帰 かえ ってしまった[ 37] 。
エティエンヌ・カルジャ (英語 えいご 版 ばん ) によるヴェルディの肖像 しょうぞう 。1867年 ねん
サンターガタに引 ひ っ込 こ み、夫妻 ふさい で農場 のうじょう 経営 けいえい に精 せい を出 だ すヴェルディは「昔 むかし から私 わたし は農民 のうみん だ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽 おんがく 界 かい にはドイツから吹 ふ く新 あたら しい風 ふう に晒 さら され、若 わか い作曲 さっきょく 家 か たちはリヒャルト・ワーグナー から強 つよ い影響 えいきょう を受 う けてヴェルディを過去 かこ の人 ひと とみなし始 はじ めていた。彼 かれ はそのような評判 ひょうばん を受 う け流 なが しつつも、皮肉 ひにく を返 かえ すなど内心 ないしん は穏 おだ やかでなかった。そして興行 こうぎょう 主 ぬし からはヴェルディの才能 さいのう は依然 いぜん 高 たか く評価 ひょうか されていた。1864年 ねん 夏 なつ にパリで出版 しゅっぱん を勤 いそ しむエスキュディエから『マクベス』改訂 かいてい 版 ばん の上演 じょうえん を打診 だしん されると、これをヴェルディは受 う けた。しかし、ヴェルディの思想 しそう とフランス観衆 かんしゅう の嗜好 しこう が合 あ わず、1865年 ねん の公演 こうえん は失敗 しっぱい した[ 37] 。
だが、1867年 ねん にヴェルディは、パリ万国博覧会 ばんこくはくらんかい 記念 きねん のオペラ制作 せいさく 依頼 いらい を、しかも会場 かいじょう があのオペラ座 ざ ながら受諾 じゅだく する。フリードリヒ・フォン・シラー の戯曲 ぎきょく を題材 だいざい に選 えら び始 はじ まった制作 せいさく に彼 かれ は集中 しゅうちゅう する。傲慢 ごうまん と孤独 こどく の間 あいだ を揺 ゆ れ動 うご く主人公 しゅじんこう の心情 しんじょう を描 えが き出 だ すソロは旋律 せんりつ だけに頼 たよ らず楽器 がっき の音色 ねいろ を効果 こうか 的 てき に使 つか い、宗教 しゅうきょう と国家 こっか の対立 たいりつ と結末 けつまつ を前例 ぜんれい が無 な いバスの二重唱 にじゅうしょう で表現 ひょうげん する。劇 げき 性 せい を重視 じゅうし する姿勢 しせい はより鮮明 せんめい に打 う ち出 だ した[ 37] 。
しかし、結果 けっか はまたも惨憺 さんたん たるもので終 お わる。前作 ぜんさく 同様 どうよう パリはオペラに不 ふ 必要 ひつよう なバレエ の挿入 そうにゅう を求 もと め、また観客 かんきゃく が夕食 ゆうしょく から最終 さいしゅう 列車 れっしゃ までの間 あいだ に観劇 かんげき が終 お わるように筋 すじ の短縮 たんしゅく を迫 せま り、オペラ座 ざ の怠慢 たいまん は全 まった く変 か わらない。綿密 めんみつ な構想 こうそう も切 き り刻 きざ まれては観客 かんきゃく の心 しん は掴 つか めず、1867年 ねん 3月 がつ 開演 かいえん の『ドン・カルロ 』は酷評 こくひょう に晒 さら され、敗北 はいぼく したヴェルディはその後 ご のオペラ座 ざ からの打診 だしん を受 う けなかった[ 37] 。
またもヴェルディが音楽 おんがく 活動 かつどう を休止 きゅうし した。1868年 ねん 2月 がつ 、父 ちち カルロが亡 な くなった。彼 かれ は弟 おとうと (ヴェルディの叔父 おじ )の娘 むすめ フィロメーナを養育 よういく していたが、彼女 かのじょ はヴェルディ夫妻 ふさい が引 ひ き取 と り養女 ようじょ とした。半年 はんとし 後 ご 、今度 こんど はもうひとりの父 ちち であるアントーニオ・バレッツィの死 し を看取 みと った。病 やまい に倒 たお れてからは妻 つま ジュゼッピーナも看病 かんびょう に通 かよ っていたが回復 かいふく は叶 かな わず、ヴェルディが弾 ひ くピアノ「黄金 おうごん の翼 つばさ 」を聴 き きながら息 いき を引 ひ き取 と った[ 38] 。
テレーザ・シュトルツ (英語 えいご 版 ばん ) 。時期 じき 不 ふ 詳 しょう 。パルマ、Roberto Spocci コレクション[ 39]
同年 どうねん 秋 あき 、ヴェルディは尊敬 そんけい する同 どう 時代 じだい 人 じん のひとりジョアキーノ・ロッシーニ の死 し に、他 た の著名 ちょめい なイタリア人 じん 作曲 さっきょく 家 か たちとのレクイエム 組曲 くみきょく を共 とも 作 さく することになった。しかし彼 かれ は熱心 ねっしん に取 と り組 く んだが、無 む 報酬 ほうしゅう であったため他 た の者 もの はいまひとつ乗 の らず計画 けいかく は頓挫 とんざ した。ヴェルディは、これは長年 ながねん の友人 ゆうじん であり、指揮 しき を予定 よてい されていたアンジェロ・マリアーニ に熱意 ねつい が不足 ふそく していたためと非難 ひなん した。これにより2人 ふたり の友情 ゆうじょう は壊 こわ れた。この背景 はいけい には、ヴェルディ夫妻 ふさい が度々 たびたび ヴェネツィアを旅行 りょこう した際 さい 、マリアーニは婚約 こんやく していたソプラノ歌手 かしゅ テレーザ・シュトルツ (英語 えいご 版 ばん ) と会 あ っていたが、考 かんが え方 かた の違 ちが いなどが影響 えいきょう しマリアーニとシュトルツの関係 かんけい は段々 だんだん と悪化 あっか していった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持 きも ちを傾 かたむ け始 はじ めたためとの疑念 ぎねん を持 も っており、計画 けいかく に乗 の り気 き でなかったことがあった[ 38] 。
『アイーダ』のポスター(1908年 ねん 、オハイオ、クリーブランド)
1869年 ねん 、ヴェルディは『運命 うんめい の力 ちから 』に改訂 かいてい を施 ほどこ して久 ひさ しぶりとなるスカラ座 すからざ 公演 こうえん を行 おこな った。結末 けつまつ を変更 へんこう し、新 あたら しい曲 きょく を加 くわ えた本 ほん 作 さく は成功 せいこう した。特 とく にソプラノのテレーザ・シュトルツは輝 かがや き、ヴェルディは満足 まんぞく した。それでも音楽 おんがく の世界 せかい に戻 もど ろうとはしなかった。1871年 ねん 、何 なん 度 ど もオファーを繰 く り返 かえ していたオペラ座 ざ の監督 かんとく デュ・ロクルはエジプト から新 あたら しいオペラハウス用 よう の依頼 いらい を持 も ち込 こ んだ。遠隔 えんかく 地 ち でもあり乗 の り気 き でなかったヴェルディだが、劇場 げきじょう 側 がわ はそれならばグノー かワーグナー に話 はなし を持 も ちかけるとほのめかして焚 た きつけ、彼 かれ の受諾 じゅだく を引 ひ き出 だ した。しかしヴェルディは破格 はかく の条件 じょうけん をつけ、報酬 ほうしゅう は『ドン・カルロ』の3倍 ばい に当 あ たる15万 まん フラン、カイロ 公演 こうえん は監修 かんしゅう しない事 こと 、さらにイタリアでの初演 しょえん 権 けん を手 て にした[ 38] [ 40]
。
仕事 しごと が始 はじ まればヴェルディは集中 しゅうちゅう する。受 う け取 と ったスケッチからデュ・ロクルと共同 きょうどう で台本 だいほん を制作 せいさく し、エジプトの衣裳 いしょう や楽器 がっき 、さらには信仰 しんこう の詳細 しょうさい まで情報 じょうほう を手 て に入 い れて[ 40] 磨 みが きをかけ『アイーダ 』を仕上 しあ げた。ところが7月 がつ に普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ し、パリで準備 じゅんび していた舞台 ぶたい 装置 そうち が持 も ち出 だ せなくなり、カイロ開演 かいえん の延期 えんき を余儀 よぎ なくされた。一方 いっぽう でヴェルディはスカラ座 すからざ 公演 こうえん の準備 じゅんび を予定 よてい 通 どお り進 すす め、慌 あわ てたエジプト側 がわ はこの年 とし のクリスマスに何 なに とか開演 かいえん の目処 めど をつけた。わだかまりからマリアーニは指揮 しき を断 ことわ り、自身 じしん も立 た ち会 あ わないヴェルディは若干 じゃっかん 不安 ふあん を覚 おぼ えたが、初演 しょえん は大 だい 好評 こうひょう を博 はく した。そして1872年 ねん 2月 がつ 、アイーダ役 やく のシュトルツのために「おお、我 わ が祖国 そこく 」を加 くわ えた『アイーダ』はスカラ座 すからざ で開演 かいえん し、大 だい 喝采 かっさい を浴 あ びた[ 38] 。なお、『アイーダ』はしばしば1869年 ねん のスエズ運河 うんが 開通 かいつう を記念 きねん するために制作 せいさく されたという説 せつ が述 の べられるが、これはある有名 ゆうめい 批評 ひひょう 家 か の個人 こじん 的 てき 憶測 おくそく が元 もと になっている俗説 ぞくせつ に過 す ぎない[ 41] 。
『アイーダ』はヴェルディの集大成 しゅうたいせい と言 い える作品 さくひん である。コンチェルタート は力強 ちからづよ く明瞭 めいりょう な旋律 せんりつ で仕上 しあ げ、各 かく 楽器 がっき の音色 ねいろ を最大限 さいだいげん に生 い かした上 うえ 、「凱旋 がいせん 行進曲 こうしんきょく 」用 よう に長 なが いバルブを持 も つ特製 とくせい のアイーダ・トランペット を開発 かいはつ した[ 42] 。長年 ながねん 目指 めざ した曲 きょく と劇 げき との融合 ゆうごう では、「歌 うた 」を演劇 えんげき の大 おお きな構成 こうせい 要素 ようそ に仕立 したて て、アリア、シェーナ 、レチタティーヴォ など旧来 きゅうらい のどのような形式 けいしき にも当 あ てはまらず、劇 げき 全体 ぜんたい を繋 つな ぐ独唱 どくしょう ・合唱 がっしょう を実現 じつげん した。パリの経験 けいけん を上手 うま く消化 しょうか し、バレエも効果 こうか 的 てき に挿入 そうにゅう された。さらに『椿 つばき 姫 ひめ 』以来 いらい となる女性 じょせい を主役 しゅやく としたあらすじは、以前 いぜん のほとんどの作品 さくひん にあった悲劇 ひげき 的 てき な死 し ではない官能 かんのう 的 てき な生 せい との別 わか れで終 お え、観客 かんきゃく を強 つよ く魅了 みりょう した[ 38] 。
『アイーダ』と改訂 かいてい 版 ばん 『ドン・カルロ』はイタリアから世界 せかい 各地 かくち で上演 じょうえん され、どれも好評 こうひょう を得 え た。ヴェルディはナポリの初演 しょえん に立 た ち会 あ うが、その傍 かたわ らには妻 つま ジュゼッピーナだけでなくシュトルツも付 つ き添 そ い、新聞 しんぶん のゴシップネタとなった。これに対 たい しヴェルディは沈黙 ちんもく し、ジュゼッピーナは悩 なや みつつも醜聞 しゅうぶん が、既 すで にマリアーニとの婚約 こんやく を解消 かいしょう していたシュトルツの耳 みみ に入 はい らないよう気 き を配 くば った[ 43] 。
1873年 ねん にヴェルディは、亡 な くなった尊敬 そんけい する小説 しょうせつ 家 か であり詩人 しじん であったアレッサンドロ・マンゾーニ を讃 たた える『レクイエム 』を作曲 さっきょく した。これには、ロッシーニに捧 ささ げる「レクイエム」の一部 いちぶ を用 もち いていた。一 いち 周忌 しゅうき の1874年 ねん 5月 がつ にミラノの大 だい 聖堂 せいどう で公演 こうえん された同 どう 曲 きょく は3日 にち 後 ご にスカラ座 すからざ で再演 さいえん されるが、そこではよもや死者 ししゃ を追悼 ついとう する曲 きょく から劇場 げきじょう のそれに変貌 へんぼう し、賞賛 しょうさん と非難 ひなん が複雑 ふくざつ に飛 と び交 か った[ 43] 。それでもヴェルディの栄華 えいが は最高潮 さいこうちょう にあった。パリではレジオンドヌール勲章 くんしょう とコマンデール勲章 くんしょう を授 さず かり、作品 さくひん の著作 ちょさく 権 けん 料 りょう 収入 しゅうにゅう は莫大 ばくだい なものとなっていた[ 44] 。
農場 のうじょう 経営 けいえい も順調 じゅんちょう そのもので、買 か い増 ま した土地 とち は当初 とうしょ の倍 ばい 以上 いじょう になり、雇 やと う小作 こさく 人 じん は十 じゅう 数 すう 人 にん までになった。父 ちち が亡 な くなった際 さい に引 ひ き取 と った従妹 じゅうまい はマリアと改名 かいめい し18歳 さい を迎 むか えて結婚 けっこん した。相手 あいて はパルマの名門 めいもん 一 いち 家出 いえで のアルベルト・カルラーラであり、夫婦 ふうふ はサンターガタに同居 どうきょ した。邸宅 ていたく はヴェルディ自 みずか らが設計 せっけい し、増築 ぞうちく を繰 く り返 かえ して大 おお きな屋敷 やしき になっていた。自家製 じかせい のワイン を楽 たの しみ、冬 ふゆ のジェノヴァ旅行 りょこう も恒例 こうれい となった[ 44] 。
その一方 いっぽう で公 おおやけ の事 こと は嫌 きら い、1874年 ねん には納税 のうぜい 額 がく の多 おお さから上院 じょういん 議員 ぎいん に任命 にんめい されるが、議会 ぎかい には一 いち 度 ど も出席 しゅっせき しなかった。慈善 じぜん 活動 かつどう には熱心 ねっしん で、奨学 しょうがく 金 きん や橋 はし の建設 けんせつ に寄付 きふ をしたり、病院 びょういん の建設 けんせつ 計画 けいかく にも取 と り組 く んだ[ 44] 。その頃 ころ に彼 かれ はほとんど音楽 おんがく に手 て を出 だ さず、「ピアノの蓋 ぶた を開 あ けない」期間 きかん が5年間 ねんかん 続 つづ いた[ 44] 。
彼 かれ が音楽 おんがく の世界 せかい に戻 もど るのは1879年 ねん になる。手遊 てあそ びの作曲 さっきょく 「主 おも の祈 いの り」「アヴェ・マリア」を書 か き始 はじ めたことを聞 き いたリコルディはジュゼッピーナとともに働 はたら きかけ、シュトルツの引退 いんたい 公演 こうえん となるスカラ座 すからざ の『レクイエム』指揮 しき を引 ひ き受 う けさせた。成功 せいこう に終 お わった初演 しょえん の夜 よる 、夕食 ゆうしょく を共 とも にしたジューリオ・リコルディはヴェルディに久 ひさ しぶりの新作 しんさく を打診 だしん した。後日 ごじつ 、アッリーゴ・ボーイト が持参 じさん したシェイクスピア作品 さくひん の台本 だいほん を気 き に入 い ったが、いまひとつ踏 ふ ん切 ぎ りがつかずボーイトに改訂 かいてい の指示 しじ を与 あた え、サンターガタに送 おく るように言 い ってその場 ば を凌 しの いだ[ 44] 。
ヴェルディの肖像 しょうぞう (J.ボルデイーニ作 さく )(1886年 ねん )
1879年 ねん 11月、農場 のうじょう に届 とど いたボーイトの台本 だいほん 『オテロ 』に、ヴェルディは興味 きょうみ をそそられる。早速 さっそく ミラノに行 い き話 はな し合 あ いを行 おこな った。しかしヴェルディは数 すう 年 ねん のブランクに不安 ふあん を覚 おぼ え、なかなか契約 けいやく を結 むす ばなかった。そこでリコルディはまたも一計 いっけい を案 あん じ、ボーイトと共 とも 作 さく で『シモン・ボッカネグラ 』改訂 かいてい 版 ばん 制作 せいさく を提案 ていあん した。大胆 だいたん なボーイトの手腕 しゅわん に触発 しょくはつ されてヴェルディも新 あら たな作曲 さっきょく を加 くわ え、1881年 ねん 3月 がつ のスカラ座 すからざ 公演 こうえん はかつてとは打 う って変 か わって大盛 おおもり 況 きょう を得 え た[ 44] 。
1879年 ねん 、イギリスの雑誌 ざっし 『バニティ・フェア 』に掲載 けいさい されたヴェルディの肖像 しょうぞう 。
そして『オテロ』は動 うご き始 はじ めたが、なかなか順調 じゅんちょう に物事 ものごと は進 すす まなかった。リコルディとボーイトがサンターガタを訪問 ほうもん し台本 だいほん を詰 つ めた。しかし『ドン・カルロ』3度目 どめ の改訂 かいてい 版 ばん 制作 せいさく で半年 はんとし の足止 あしど めを受 う けた。さらに1883年 ねん 2月 がつ にワーグナーの訃報 ふほう に触 ふ れると、「悲 かな しい、悲 かな しい、悲 かな しい…。その名 な は芸術 げいじゅつ の歴史 れきし に偉大 いだい なる足跡 あしあと を残 のこ した[ 注釈 ちゅうしゃく 8] [ 45] 」と書 か き残 のこ すほどヴェルディは沈 しず んだ。彼 かれ が嫌 きら うドイツの、その音楽 おんがく を代表 だいひょう するワーグナーに、ヴェルディはライバル心 しん をむき出 だ しにすることもあった[ 注釈 ちゅうしゃく 9] が、その才能 さいのう は認 みと めていた。そして、同 どう 年齢 ねんれい のワーグナーなど、彼 かれ と時代 じだい を共 とも にした多 おお くの人物 じんぶつ が既 すで に世 よ を去 さ ったことに落胆 らくたん を隠 かく せなかった[ 44] 。
それでも1884年 ねん の『ドン・カルロ』改訂 かいてい 版 ばん 公演 こうえん を好評 こうひょう の内 うち に終 お えると作業 さぎょう にも拍車 はくしゃ がかかり始 はじ めた。ボーイトはヴェルディを尊敬 そんけい し、ヴェルディはボーイトから刺激 しげき を受 う けながら共同 きょうどう で取 と り組 く んだ。特 とく にヴェルディは登場 とうじょう 人物 じんぶつ 「ヤーゴ」へのこだわりを見 み せ、それに引 ひ き上 あ げられて作品 さくひん 全体 ぜんたい が仕上 しあ がっていった。そして1886年 ねん 11月に、7年 ねん の期間 きかん をかけた『オテロ』は完成 かんせい した[ 44] 。
1887年 ねん 2月 がつ 、ヴェルディ16年 ねん ぶりの新作 しんさく オペラ『オテロ』初演 しょえん にスカラ座 すからざ は、期待 きたい 以上 いじょう の出来映 できば えに沸 わ き立 た った。チェロ 演奏 えんそう を担当 たんとう していた若 わか きアルトゥーロ・トスカニーニ は実家 じっか のパルマに戻 もど っても興奮 こうふん が冷 さ めやらず、母親 ははおや をたたき起 お こして素晴 すば らしさを叫 さけ んだという[ 44] 。『リゴレット』を越 こ える嵐 あらし の表現 ひょうげん で開幕 かいまく し、各 かく 登場 とうじょう 人物 じんぶつ を明瞭 めいりょう に描 えが き出 だ し、彼 かれ が追求 ついきゅう した劇 げき と曲 きょく の切 き れ目 め ない融合 ゆうごう はさらに高 たか く纏 まと められた。かつての美 うつく しい旋律 せんりつ が無 な くなったとの評 ひょう もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事 こと に拘 かかわ らず、完成 かんせい 度 ど の高 たか い劇作 げきさく を現実 げんじつ のものとした[ 44] 。
『オテロ』を成功 せいこう で終 お えたヴェルディは虚脱 きょだつ 感 かん に襲 おそ われていた。ローマ開演 かいえん の招待 しょうたい を断 ことわ り、また農場 のうじょう に引 ひ っ込 こ むと、建設 けんせつ された病院 びょういん の運営 うんえい など慈善 じぜん 事業 じぎょう に取 と り組 く んだ。そして、引退 いんたい した音楽家 おんがくか らが貧困 ひんこん に塗 ぬ れて生涯 しょうがい を終 お えるさまを気 き に病 や んでいたヴェルディは、彼 かれ らのために終 おわり の棲家となる養老 ようろう 院 いん 建設 けんせつ を計画 けいかく した。これにはボーイトの弟 おとうと で建築 けんちく 家 か のカミッロ (英語 えいご 版 ばん ) が協力 きょうりょく 者 しゃ となった[ 46] 。
一方 いっぽう でボーイトは、ヴェルディの才能 さいのう は枯渇 こかつ していないことを見抜 みぬ いていた。しかし一筋縄 ひとすじなわ ではいかないと、ヴェルディの心残 こころのこ りを突 つ く事 こと にした。散々 さんざん な評価 ひょうか で終 お わった『一 いち 日 にち だけの王様 おうさま 』以来 いらい 、ヴェルディが喜劇 きげき に手 て を染 そ めたことは無 な かった。ボーイトはシェイクスピアの『ウィンザーの陽気 ようき な女房 にょうぼう たち 』を下敷 したじ きに一 いち 冊 さつ のノートを書 か き、ヴェルディに示 しめ した。そして魅力 みりょく 的 てき な数々 かずかず の言葉 ことば を投 な げた。「悲劇 ひげき は苦 くる しいが、喜劇 きげき は人 ひと を元気 げんき にする」「華 はな やかにキャリアを締 し めくくるのです」「笑 わら いで、すべてがひっくり返 かえ ります」と。ヴェルディは乗 の った[ 46] 。
『ファルスタッフ』を監修 かんしゅう するヴェルディを描 えが いたスケッチ。フランスの週刊 しゅうかん 誌 し 「ユニヴェール・イリュストレ 」が1894年 ねん に掲載 けいさい [ 47] 。
二人 ふたり は秘密裏 ひみつり に制作 せいさく を行 おこな った。ヴェルディが新作 しんさく オペラに取 と り組 く んだことが知 し れると興行 こうぎょう 主 ぬし たちが黙 だま っていない上 じょう 、既 すで に老齢 ろうれい の彼 かれ には自信 じしん が無 な かった。親 した しい友人 ゆうじん の訃報 ふほう も、彼 かれ の気力 きりょく を萎 な えさせた。しかし、ボーイトが提案 ていあん した台本 だいほん は面白 おもしろ く、シェイクスピアを楽曲 がっきょく に訳 やく す作業 さぎょう や主人公 しゅじんこう の太 ふと っちょに息吹 いぶき を吹 ふ き込 こ むことは心底 しんそこ 楽 たの しめた。途中 とちゅう 、リコリディにばれてしまったが、1年 ねん 半 はん をかけて『ファルスタッフ 』は仕上 しあ がった。次 つぎ はスカラ座 すからざ に場所 ばしょ を移 うつ し、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演 しゅえん には『シモン・ボッカネルラ』改訂 かいてい 版 ばん や『オテロ』を演 えん じた実績 じっせき を持 も つヴィクトル・モレル (英語 えいご 版 ばん ) が努 つと めることになった。ヴェルディは相変 あいか わらず完璧 かんぺき を求 もと め、7-8時 じ 間 あいだ のリハーサルも行 おこな われた[ 46] 。
そして1893年 ねん 2月 がつ 、79歳 さい になったヴェルディの新作 しんさく 『ファルスタッフ』は開幕 かいまく した。彼 かれ が目指 めざ した劇 げき と曲 きょく の融合 ゆうごう は喜劇 きげき においても健在 けんざい で、むしろ圧倒 あっとう するよりも機微 きび に富 と んだ雰囲気 ふんいき を帯 お びて繊細 せんさい さが増 ま した。アンサンブル は多種 たしゅ 多様 たよう で、対位法 たいいほう も2幕 まく のコンチェルタート で複雑 ふくざつ なポリフォニー を実現 じつげん した。最後 さいご には喜劇 きげき に似 に つかわしくないフーガ をあえて用 もち いながら、モレル演 えん じる太鼓腹 たいこばら の主人公 しゅじんこう に「最後 さいご に笑 わら えばいいのさ」と陽気 ようき に締 し めくくらせた[ 46] 。
ヴェルディが建設 けんせつ した、音楽家 おんがくか たちの「憩 いこ いの家 いえ 」
『ファルスタッフ』は上演 じょうえん された各地 かくち で喝采 かっさい を浴 あ び、他人 たにん に強制 きょうせい されることを極度 きょくど に嫌 きら っていたヴェルディも向 む かった。1894年 ねん にはフランス語 ふらんすご 版 ばん 『オテロ』がいわくつきのオペラ座 ざ で公演 こうえん されることになったが、ヴェルディは拘 かかわ らずバレエを加 くわ えた。初演 しょえん ではフランス第 だい 三 さん 共和 きょうわ 政 せい 大統領 だいとうりょう のカジミール・ペリエ から2度目 どめ のレジオンドヌール勲章 くんしょう を受 う けた。80歳 さい を越 こ えてもまだ精力 せいりょく 的 てき に見 み えるヴェルディに誰 だれ もが次回 じかい 作 さく を期待 きたい し、ボーイトも新 あたら しい台本 だいほん を秘 ひそ かに準備 じゅんび していた。しかし、彼 かれ は既 すで に引退 いんたい を決意 けつい していた[ 48] 。
ヴェルディはサンターガタに戻 もど り、音楽 おんがく ではない仕事 しごと に熱心 ねっしん に取 と り組 く んだ。構想 こうそう を暖 あたた めていた音楽家 おんがくか のためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムズィチスティ(Casa di Riposo per Musicisti、音楽家 おんがくか のための憩 いこ いの家 いえ (英語 えいご 版 ばん ) )建設 けんせつ にオペラ制作 せいさく 同様 どうよう に情熱 じょうねつ をかけた。趣味 しゅみ 的 てき に作曲 さっきょく も行 おこな い、「聖歌 せいか 四 よん 篇 へん 」もこの頃 ころ に作 つく られた。公 おおやけ のことは嫌 きら って、イタリア政府 せいふ の勲章 くんしょう もドイツ出版 しゅっぱん 社 しゃ の伝記 でんき も断 ことわ った。その中 なか でもミラノの音楽 おんがく 院 いん が校 こう 名 めい を「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽 おんがく 院 いん 」に変 か えようとする事 こと には我慢 がまん がならず声 こえ を荒 あ らげた。同校 どうこう の改名 かいめい はヴェルディの死後 しご に行 おこな われた[ 48] 。
だが1898年 ねん 秋 あき 、ヴェルディは伴侶 はんりょ ジュゼッピーナを肺炎 はいえん で失 うしな った(その後 ご もミラノにて生活 せいかつ 。Deagostini刊 かん 『The Classic Collection』第 だい 14号 ごう を見 み よ)。いまわの際 さい 、彼女 かのじょ は彼 かれ が手 て に持 も つ好 す きなスミレ を目 め にしながら息 いき を引 ひ き取 と った。ヴェルディは目 め に見 み えて落胆 らくたん し、娘 むすめ マリアやボーイト、そしてシュトルツが付 つ き添 そ った。しばらくして少 すこ し回復 かいふく し、恒例 こうれい のヴェネツィアへも出掛 でか けたが、彼 かれ 自身 じしん は自 みずか らの老 お いを感 かん じ取 と っており、1900年 ねん 4月 がつ 頃 ごろ には遺書 いしょ を用意 ようい した[ 48] 。
同年 どうねん 末 まつ 、娘 むすめ マリアと一緒 いっしょ にミラノでクリスマスを過 す ごし、定宿 じょうやど となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年 とし を越 こ していた。1月 がつ 20日 はつか の朝 あさ 、起 お きぬけのヴェルディは脳 のう 血管 けっかん 障害 しょうがい を起 お こして倒 たお れ、意識 いしき を失 うしな った。多 おお くの知人 ちじん に連絡 れんらく が届 とど き、シュトルツ、リコルディ、ボーイトらが駆 か けつけた。王族 おうぞく や政治 せいじ 家 か や彼 かれ のファンなどから見舞 みま いの手紙 てがみ が届 とど き、ホテル前 まえ の通 とお りには騒音 そうおん 防止 ぼうし に藁 わら が敷 し き詰 つ められた。しかし、1901年 ねん 1月 がつ 27日 にち 午前 ごぜん 2時 じ 45分 ふん 頃 ごろ 、偉大 いだい な作曲 さっきょく 家 か 兼 けん 農家 のうか の男 おとこ は87歳 さい で死去 しきょ した[ 48] [ 49] 。
同日 どうじつ 朝 あさ 、棺 かん がホテルを出発 しゅっぱつ して「憩 いこ いの家 いえ 」に運 はこ ばれ、ジュゼッピーナが眠 ねむ る礼拝 れいはい 堂 どう に葬 ほうむ られた。出棺 しゅっかん 時 じ にはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮 しき し820人 にん の歌手 かしゅ が「行 い け、わが想 おも いよ」を歌 うた った[ 50] 。遺言 ゆいごん では簡素 かんそ な式 しき を望 のぞ んでいたが、意 い に反 はん して1ヶ月 かげつ 後 ご には壮大 そうだい な国葬 こくそう [ 50] が行 おこな われ[ 48] [ 注釈 ちゅうしゃく 10] 、トスカニーニ指揮 しき の下 した 『イル・トロヴァトーレ』から「ミゼレーレ (Miserere)」が歌 うた われた[ 50] 。彼 かれ の墓 はか には、最初 さいしょ の妻 つま マルゲリータの墓標 ぼひょう と二人 ふたり 目 め の妻 つま ジュゼッピーナが沿 そ い、後 のち に亡 な くなったシュトルツの墓 はか は控 ひか えめに入 い り口 くち のバルコニーにある[ 48] 。
ブッセート のヴェルディ公園 こうえん (Piazza G. Verdi) にある彼 かれ の像 ぞう 。
イタリア・オペラ史 し において、1842年 ねん の『ナブッコ』から1871年 ねん の『アイーダ』までの30年間 ねんかん は特 とく に「ヴェルディの時代 じだい 」と呼 よ ばれ、歌手 かしゅ の技量 ぎりょう に依存 いぞん する度合 どあ いが高 たか いベルカント が衰退 すいたい してゆき、代 か わって劇 げき を重視 じゅうし した作品 さくひん 構成 こうせい が主流 しゅりゅう となった転換期 てんかんき に相当 そうとう する[ 51] 。これはヴェルディとワーグナーが導入 どうにゅう した手法 しゅほう によるが、イタリアの変革 へんかく は前者 ぜんしゃ による影響 えいきょう が圧倒的 あっとうてき である[ 52] 。
ヴェルディの生涯 しょうがい を通 とお したオペラ作品 さくひん は、3もしくは4区分 くぶん で解釈 かいしゃく されることが多 おお い。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までを第 だい 1期 き 、『リゴレット』から『アイーダ』までを第 だい 2期 き 、晩年 ばんねん の『オテロ』と『ファルスタッフ』を第 だい 3期 き と置 お く場合 ばあい と、晩年 ばんねん は同 どう じながら『マクベス』の存在 そんざい を重視 じゅうし して『アッティラ』までを1期 き 、『マクベス』から『椿 つばき 姫 ひめ 』までを2期 き 、『シチリアの晩鐘 ばんしょう 』から『アイーダ』までを3期 き 、残 のこ りを4期 き とする考 かんが えもある。以下 いか では4期 き 区分 くぶん を軸 じく に解説 かいせつ する[ 52] 。
1期 き のヴェルディ作品 さくひん には愛国 あいこく 精神 せいしん を高揚 こうよう させる題材 だいざい が多 おお く、『ナブッコ』で描 えが いた権力 けんりょく 者 しゃ と虐 しいた げられた人民 じんみん の対比 たいひ を皮切 かわき りに[ 53] 、特 とく にそれを意図 いと した[ 53] 『十字軍 じゅうじぐん のロンバルディア人 じん 』好評 こうひょう の主 しゅ 要因 よういん となった。当時 とうじ はウィーン会議 かいぎ (1814-1815年 ねん )以降 いこう 他国 たこく に支配 しはい された状況 じょうきょう への不満 ふまん が噴 ふ き出 だ しリソルジメント が盛 も り上 あ がりを見 み せていた。何 なん 度 ど もの反乱 はんらん の勃発 ぼっぱつ と挫折 ざせつ を見 み てきたイタリア人 じん たちは、1846年 ねん に即位 そくい したピウス9世 せい が政治 せいじ 犯 はん の特赦 とくしゃ を行 おこな ったことで光明 こうみょう を見出 みいだ していた。この時期 じき のヴェルディ作品 さくひん はそのような時流 じりゅう に乗 の り[ 6] 、エネルギッシュであり新 あたら しい時代 じだい の到来 とうらい を感 かん じさせ[ 1] 、聴衆 ちょうしゅう の欲求 よっきゅう を掻 か き立 た てた[ 53] 。それは聴衆 ちょうしゅう を魅了 みりょう することに敏感 びんかん なヴェルディの感覚 かんかく から導 みちび かれたとも言 い う[ 4] 。しかし、作品 さくひん の完成 かんせい 度 ど や登場 とうじょう 人物 じんぶつ の掘 ほ り下 さ げ、劇 げき の構成 こうせい などには劣 おと る部分 ぶぶん も指摘 してき される[ 6] 。
2期 き の始 はじ まりとなる『マクベス』は、怪奇 かいき 性 せい が全体 ぜんたい を占 し め、主人公 しゅじんこう のマクベス夫妻 ふさい の欲望 よくぼう と悲劇 ひげき が筋 すじ となる台本 だいほん であった。ヴェルディはこの特異 とくい 性 せい を最大限 さいだいげん に生 い かした細 こま かな心理 しんり 描写 びょうしゃ を重視 じゅうし し[ 53] 、ベルカント を否定 ひてい してレチタティーヴォ を中心 ちゅうしん に据 す えるなど[ 13] 合唱 がっしょう がこの雰囲気 ふんいき を壊 こわ さないことに心 しん を砕 くだ いた。当時 とうじ のオペラには演出 えんしゅつ 家 か はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回 かい を越 こ えるリハーサルを行 おこな い、シェイクスピアを表現 ひょうげん するという総合 そうごう 芸術 げいじゅつ を目指 めざ した[ 13] 。『群盗 ぐんとう 』は主役 しゅやく のジェニー・リンド を立 た てることに重点 じゅうてん が置 お かれ、気 き が進 すす まないまま制作 せいさく した[ 53] 『海賊 かいぞく 』は従来 じゅうらい からの傾向 けいこう が強 つよ かった。『レニャーノの戦 たたか い』は時局 じきょく に追随 ついずい する愛国 あいこく 路線 ろせん の最後 さいご の作品 さくひん として、それぞれ進歩 しんぽ 性 せい は鳴 な りを潜 ひそ めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物 じんぶつ の心理 しんり を書 か き表 あらわ す方向 ほうこう 性 せい が再 ふたた び示 しめ され始 はじ めた作品 さくひん で、最初 さいしょ は観客 かんきゃく から理解 りかい を得 え られなかった[ 1] 。
しかし『リゴレット』では醜 みにく いせむし男 おとこ を含 ふく む主要 しゅよう な4人物 じんぶつ それぞれの特徴 とくちょう を四重唱 しじゅうしょう で[ 53] 対比 たいひ させ、劇 げき 進行 しんこう を創 つく り上 あ げた。この傾向 けいこう は動的 どうてき な[ 53] 『イル・トロヴァトーレ』主役 しゅやく の復讐 ふくしゅう に燃 も えるジプシー女 おんな 、静的 せいてき な[ 53] 『椿 つばき 姫 ひめ 』主役 しゅやく の高級 こうきゅう 娼婦 しょうふ の悲哀 ひあい と死 し を表現 ひょうげん する劇作 げきさく において、より顕著 けんちょ なものとなった[ 54] 。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿 つばき 姫 ひめ 』は単純 たんじゅん な善悪 ぜんあく の対立 たいりつ ではなく、複雑 ふくざつ な人間 にんげん 性 せい を音楽 おんがく と融合 ゆうごう させて描 えが き出 だ した中期 ちゅうき の三 さん 大 だい 傑作 けっさく となった[ 53] 。
『アイーダ』「凱旋 がいせん 行進曲 こうしんきょく 」の旋律 せんりつ 。
『シチリアの晩鐘 ばんしょう 』の出来 でき はヴェルディに不満 ふまん を残 のこ した[ 25] が、フランス・オペラ座 ざ での仕事 しごと を通 つう じ彼 かれ はグランド・オペラの手法 しゅほう を取 と り入 い れた[ 1] 。『シモン・ボッカネグラ』『仮面 かめん 舞踏 ぶとう 会 かい 』『運命 うんめい の力 ちから 』は改訂 かいてい 版 ばん を含 ふく め劇作 げきさく 性 せい を高 たか める方向 ほうこう を強 つよ め、『ドン・カルロ』は初演 しょえん ではいま一 ひと つだったが[ 37] 、その改訂 かいてい 版 ばん および『アイーダ』ではイタリア流 りゅう グランド・オペラの成熟 せいじゅく を実現 じつげん した[ 35] 。
特 とく に『アイーダ』は多 た 国籍 こくせき の様式 ようしき を混合 こんごう させた[ 35] 。イタリア・オペラの華麗 かれい な旋律 せんりつ で満 み たしながら、声楽 せいがく を重視 じゅうし する点 てん は覆 くつがえ して管弦楽 かんげんがく とのバランスを取 と らせ、以前 いぜん から取 と り組 く んだドラマ重視 じゅうし のテーマと融合 ゆうごう させることに成功 せいこう した。舞台 ぶたい であるエジプトについて情報 じょうほう を仕入 しい れたが、楽曲 がっきょく はエジプトの音楽 おんがく ではなくヴェルディが独自 どくじ に創造 そうぞう した異国 いこく 的 てき 音楽 おんがく であった。フランスのグランド・オペラも取 と り入 い れながら、その様式 ようしき もそのままではなく工夫 くふう を凝 こ らした4幕 まく 制 せい を取 と るなど、独自 どくじ の作風 さくふう を実現 じつげん した[ 40] 。
ヴェルディの大作 たいさく は高 たか い人気 にんき を誇 ほこ り、それらを何 なん 度 ど も繰 く り返 かえ して公演 こうえん する方法 ほうほう が一般 いっぱん 化 か し、例 たと えばスカラ座 すからざ はそれまで年 とし 3本 ほん 程度 ていど のオペラを上演 じょうえん していたが、1848年 ねん 以降 いこう は平均 へいきん でほぼ年 とし 1本 ほん となった。これはレパートリー・システムと呼 よ ばれた[ 55] 。作曲 さっきょく 者 しゃ は初演 しょえん こそ慣例 かんれい 的 てき に舞台 ぶたい を監督 かんとく したが、このシステムが確立 かくりつ すると実際 じっさい の監督 かんとく は指揮 しき 者 しゃ が担 にな うことになり、オペラ専 せん 門 もん の指揮 しき 者 しゃ が現 あらわ れだした[ 55] 。この代表 だいひょう がヴェルディの友 とも で後 のち に仲違 なかたが いをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品 さくひん から始 はじ まったとも言 い えるが、指揮 しき 者 しゃ の権限 けんげん が強 つよ まると中 なか には勝手 かって に改作 かいさく を施 ほどこ す者 もの も現 あらわ れ、ヴェルディは激怒 げきど したと伝 つた わる。しかし、この流 なが れは20世紀 せいき の演奏 えんそう 重視 じゅうし の傾向 けいこう へ繋 つな がってゆく[ 56] 。
16年 ねん の空白 くうはく を経 へ て発表 はっぴょう された新作 しんさく [ 44] 『オテロ』と最後 さいご の作 さく 『ファルスタッフ』は、それぞれに独特 どくとく な作品 さくひん となったが、いずれも才能 さいのう 豊 ゆた かなアッリーゴ・ボーイトの手腕 しゅわん と、結果 けっか 的 てき に完成 かんせい することはなかったが長年 ながねん 『リア王 おう 』を温 あたた めていた[ 57] ヴェルディのシェイクスピアに対 たい する熱意 ねつい が傑作 けっさく の原動力 げんどうりょく となった[ 53] 。
『オテロ』は長 なが く目指 めざ した音楽 おんがく と演劇 えんげき の融合 ゆうごう の頂点 ちょうてん にある作品 さくひん で、同時 どうじ にワーグナーから発達 はったつ したドイツ音楽 おんがく が提示 ていじ する理論 りろん (シンフォニズム[ 1] )に対 たい するイタリア側 がわ からの回答 かいとう となった[ 53] 。演技 えんぎ に対 たい するこだわりも強 つよ く、作曲 さっきょく 家 か という範囲 はんい を超 こ えて主人公 しゅじんこう オテロが短刀 たんとう で自殺 じさつ するシーンをヴェルディは演技 えんぎ 指導 しどう し、実演 じつえん して舞台 ぶたい に転 ころ がり倒 たお れこんだ際 さい には皆 みな が驚 おどろ きの余 あま り駆 か け寄 よ ったという[ 57] 。
『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入 とうにゅう した感 かん がある。作風 さくふう はバッハ 、モーツァルト 、ベートーベン そしてロッシーニ ら先人 せんじん たちの要素 ようそ を注 そそ ぎこみ、形式 けいしき にこだわらず自由 じゆう で気 き ままな作品 さくひん に仕上 しあ げた[ 53] 。そして、自由 じゆう 人 じん ファルスタッフにヴェルディは自身 じしん を表現 ひょうげん した。過去 かこ の作品 さくひん も経験 けいけん した苦難 くなん や孤独 こどく の自己 じこ 投影 とうえい という側面 そくめん もあったが、ファルスタッフに対 たい しては若 わか い頃 ころ から他者 たしゃ からの束縛 そくばく を嫌 きら った自分 じぶん 、富 とみ と名声 めいせい を手 て にして人生 じんせい を達観 たっかん した自分 じぶん を仮託 かたく した。『ファルスタッフ』が完成 かんせい した時 とき 、ヴェルディは「行 い け、お前 まえ の道 みち を行 い けるところまで。永久 えいきゅう に誇 ほこ り高 たか き愉快 ゆかい なる小 しょう 悪党 あくとう 、さらば!」と記 しる した[ 58] 。
パレルモ のテアトロ・マッシモ (英語 えいご 版 ばん ) 前 まえ に飾 かざ られたヴェルディの胸像 きょうぞう 。アントニオ・ウゴ作 さく
音楽 おんがく の歴史 れきし には、ある神話 しんわ が永 なが く存在 そんざい した。それは『ナブッコ』第 だい 3幕 まく のコーラス曲 きょく 「行 い け、我 わ が想 おも いよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配 しはい 力 りょく を及 およ ぼしたイタリア国土 こくど に含 ふく まれていたミラノを歌 うた ったものという話 はなし であり、観客 かんきゃく は追放 ついほう される奴隷 どれい の悲嘆 ひたん に触 ふ れて国家 こっか 主義 しゅぎ 的 てき 熱狂 ねっきょう にかられ、当時 とうじ の政府 せいふ から厳 きび しく禁止 きんし されていたアンコールを求 もと め、このような行動 こうどう は非常 ひじょう に意味 いみ 深 ふか いものだったという[ 59] 。「行 い け、我 わ が想 おも いよ」は第 だい 2のイタリア国歌 こっか とまで言 い われる[ 4] 。
しかし近年 きんねん の研究 けんきゅう はその立場 たちば を取 と っていない。アンコールは事実 じじつ としても、これは「行 い け、我 わ が想 おも いよ」ではなく、ヘブライ人 じん 奴隷 どれい が同胞 どうほう の救 すく いを神 かみ に感謝 かんしゃ し歌 うた う「賛美 さんび 歌 か (Immenso Jehova)」 を求 もと めたとしている。このような新 あたら しい観点 かんてん が提示 ていじ され、ヴェルディをイタリア統一 とういつ 運動 うんどう の中 なか で音楽 おんがく を通 とお して先導 せんどう したという見方 みかた は強調 きょうちょう されなくなった[ 59] 。
その一方 いっぽう で、リハーサルの時 とき に劇場 げきじょう の労働 ろうどう 者 しゃ たちは「行 い け、我 わ が想 おも いよ」が流 なが れるとその手 て を止 と めて、音楽 おんがく が終 お わるとともに拍手 はくしゅ 喝采 かっさい した[ 60] 。その頃 ころ は、ピウス9世 せい が政治 せいじ 犯 はん 釈放 しゃくほう の恩赦 おんしゃ を下 くだ したことから、『エルナーニ』のコーラス部 ぶ に登場 とうじょう する人物 じんぶつ の名 な が「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更 へんこう されたことに関連 かんれん して、1846年 ねん 夏 なつ に始 はじ まった「ヴェルディの音楽 おんがく が、イタリアの国家 こっか 主義 しゅぎ 的 てき な政治 せいじ 活動 かつどう と連動 れんどう したと確認 かくにん される事象 じしょう 」の拡大 かくだい 期 き にあった[ 61] 。
後年 こうねん 、ヴェルディは「国民 こくみん の父 ちち 」と呼 よ ばれた。しかしこれは、彼 かれ のオペラが国威 こくい を発揚 はつよう させたためではなく、キリスト教 きょう の倫理 りんり や理性 りせい では御 ぎょ せないイタリア人 じん の情 じょう を表現 ひょうげん したためと解釈 かいしゃく される[ 9] 。
また、サルデーニャ王国 おうこく によるリソルジメントが進 すす む中 なか で、彼 かれ の名前 なまえ Verdiの綴 つづ りが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王 こくおう ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号 りゃくごう にもなっていたのも関係 かんけい している。
ヴェルディは1861年 ねん に国会 こっかい 議員 ぎいん となるが、これはカヴールの要請 ようせい によるもので、文化 ぶんか 行政 ぎょうせい に取 と り組 く んだ時期 じき もあったが[ 62] 、カヴールが亡 な くなると興味 きょうみ を失 うしな った[ 33] 。1874年 ねん には上院 じょういん 議員 ぎいん となるも、政治 せいじ に関 かか わることはなかった[ 44] 。
ブッセートのバレッツィ家 か で、子供 こども の頃 ころ のジュゼッペ・ヴェルディが演奏 えんそう した楽器 がっき は[ 63] 、アントン・トマーシェク のピアノだった[ 64] 。後 のち にヴェルディはヨハン・フリッツ のピアノを好 この み、1851年 ねん の「リゴレット 」から1871年 ねん の「アイーダ 」の頃 ころ まで、ウィーン風 ふう 6本 ほん ペダルのフリッツピアノを使用 しよう した。このピアノは現在 げんざい 、イタリア のピアチェンツァ県 けん にある作曲 さっきょく 家 か のヴェルディ邸 てい で見 み ることができる[ 65] 。
リミニ で行 おこな われた1857年 ねん のA.ガッリ劇場 げきじょう の落成 らくせい 式 しき の際 さい 、ヴェルディが演奏 えんそう したのはヨーゼフ・ダンクのグランドピアノだった[ 66] 。
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