『ナブッコ』序曲 じょきょく 冒頭 ぼうとう (総譜 そうふ 冒頭 ぼうとう )
『ナブッコ 』(Nabucco )、原題 げんだい 『ナブコドノゾール 』(Nabucodonosor )は、ジュゼッペ・ヴェルディ が作曲 さっきょく した全 ぜん 4幕 まく からなるオペラ である。題材 だいざい を旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ (ユダヤ教 きょう 聖書 せいしょ )の『エレミヤ書 しょ 』と『ダニエル書 しょ 』から取 と っている。
1842年 ねん にミラノ ・スカラ座 すからざ で初演 しょえん された。ヴェルディにとって3作 さく 目 め のオペラだが、初 はじ めて大 だい 成功 せいこう を得 え た出世 しゅっせ 作 さく として知 し られ、特 とく にその第 だい 3幕 まく での合唱 がっしょう 「行 い け、我 わ が想 おも いよ、黄金 おうごん の翼 つばさ に乗 の って(Va, pensiero)」は今日 きょう のイタリア において国歌 こっか 並 な みに、あるいはそれ以上 いじょう に有名 ゆうめい な旋律 せんりつ となった。ナブッコとは、日本 にっぽん では普通 ふつう ネブカドネザル として知 し られるバビロニア の王 おう の名前 なまえ である。
作曲 さっきょく と初演 しょえん の経緯 けいい [ 編集 へんしゅう ]
1842年 ねん 初演 しょえん 当時 とうじ の台本 だいほん
このオペラの作曲 さっきょく の経緯 けいい は意外 いがい なほど判明 はんめい していない。通説 つうせつ では、第 だい 2作 さく 『一 いち 日 にち だけの王様 おうさま 』の初演 しょえん で失敗 しっぱい し、私生活 しせいかつ では2人 ふたり の子供 こども と妻 つま を相次 あいつ いで亡 な くし、絶望 ぜつぼう のあまり作曲 さっきょく の筆 ふで を折 お ろうとまで考 かんが えていたヴェルディに対 たい して、スカラ座 すからざ の支配人 しはいにん バルトロメオ・メレッリが紹介 しょうかい したテミストークレ・ソレーラ 作成 さくせい の台本 だいほん (もともとドイツ 出身 しゅっしん の新進 しんしん 作曲 さっきょく 家 か オットー・ニコライ にあてがわれたが、ニコライが「作曲 さっきょく に値 あたい しない」として返却 へんきゃく したもの)に1841年 ねん 秋 あき 頃 ごろ までに作曲 さっきょく がなされたとされている。
ソレーラの台本 だいほん は、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 中 ちゅう の記述 きじゅつ 、それを戯曲 ぎきょく 化 か した1836年 ねん 初演 しょえん のフランス語 ふらんすご の舞台劇 ぶたいげき 、ならびにその戯曲 ぎきょく に基 もと づき1838年 ねん アントニオ・コルテージ の作曲 さっきょく したバレエ のすべてに依拠 いきょ していると考 かんが えられており、特 とく にバレエは同 おな じスカラ座 すからざ での上演 じょうえん でもあり、その舞台 ぶたい 装置 そうち 、衣装 いしょう など多 おお くのものがオペラ初演 しょえん 時 じ には流用 りゅうよう されたともいう。
題名 だいめい 役 やく ナブッコにジョルジョ・ロンコーニ(バリトン )、アビガイッレ役 やく にヴェルディの理解 りかい 者 しゃ でもあり、後年 こうねん その伴侶 はんりょ ともなったジュゼッピーナ・ストレッポーニ (ソプラノ )など実力 じつりょく 派 は 歌手 かしゅ を配 はい した初演 しょえん は1842年 ねん 3月9日 にち に挙行 きょこう された。当夜 とうや は稀 まれ に見 み る大 だい 成功 せいこう であり、ヴェルディは一躍 いちやく 、ドニゼッティ などに比肩 ひけん しうるオペラ作曲 さっきょく 界 かい の新星 しんせい との評価 ひょうか を勝 か ち取 と った。
初演 しょえん 当時 とうじ のナブコドノゾール王 おう (ナブッコ)衣装 いしょう スケッチ
主 おも な登場 とうじょう 人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
ナブコドノゾール王 おう (バリトン ):バビロニア の王 おう 、史実 しじつ 上 じょう のネブカドネザル2世 せい 。歌劇 かげき 中 ちゅう ではナブッコと呼 よ ばれる。
イズマエーレ(テノール ):エルサレム王 おう ゼデキヤ の甥 おい 。
ザッカリーア(バス ):ヘブライ人 じん の大 だい 祭司 さいし 。
アビガイッレ(ソプラノ ):恐 おそ らくナブッコと女 おんな 奴隷 どれい の間 あいだ に生 う まれた子 こ 。ナブッコは王女 おうじょ 中 ちゅう の長女 ちょうじょ として育 そだ てている。
フェネーナ(ソプラノ、但 ただ し声域 せいいき 的 てき にはメゾソプラノ も可 か ):ナブッコとその正妻 せいさい (の一人 ひとり )との間 あいだ に生 う まれた子 こ 。アビガイッレからみると妹 いもうと 分 ぶん とされている。イズマエーレとは恋仲 こいなか 。
合唱 がっしょう
音楽 おんがく ・音声 おんせい 外部 がいぶ リンク
序曲 じょきょく のみ試聴 しちょう する
G.Verdi:Nabucco (obertura) - Pietro Rizzo指揮 しき ガリシア交響 こうきょう 楽団 がくだん ユース・オーケストラ(Orquesta Joven de la Sinfónica de Galicia)による演奏 えんそう 。ガリシア交響 こうきょう 楽団 がくだん 公式 こうしき YouTube。
Giuseppe Verdi - overture Nabucco Vladimir Lande指揮 しき Siberian State Symphony Orchestraによる演奏 えんそう 。当該 とうがい 指揮 しき 者 しゃ 自身 じしん の公式 こうしき YouTube。
Giuseppe Verdi - Nabucco Overture - Zygmunt Nitkiewicz指揮 しき Symphony Orchestra Of The Józef Marcin Żebrowski Music School in Częstochowaによる演奏 えんそう 。Akademia Filmu i Telewizji《映像 えいぞう 制作 せいさく 者 しゃ 》公式 こうしき YouTube。
全 ぜん 4幕 まく
原 はら 台本 だいほん では「幕 まく 」(atto)でなく「部 ぶ 」(parte)で区切 くぎ られているため、厳密 げんみつ には「全 ぜん 4部 ぶ 構成 こうせい 」のオペラと称 しょう するべきだが、ここではより一般 いっぱん 的 てき な「幕 まく 」表記 ひょうき を用 もち いる。
序曲 じょきょく
第 だい 1幕 まく 「エルサレム」(Gerusalemme ):ソロモン神殿 しんでん の内部 ないぶ
第 だい 2幕 まく 「不信心 ふしんじん 者 しゃ 」(L'Empio )
第 だい 1場 じょう バビロンの宮殿 きゅうでん の一室 いっしつ
第 だい 2場 じょう 宮殿 きゅうでん の大広間 おおひろま
第 だい 3幕 まく 「予言 よげん 」(La Profezia )
第 だい 1場 じょう バビロンの空中 くうちゅう 庭園 ていえん
第 だい 2場 じょう ユーフラテス河畔 かはん
第 だい 4幕 まく 「壊 こわ れた偶像 ぐうぞう 」(L'Idolo Infranto )
第 だい 1場 じょう 宮殿 きゅうでん の一室 いっしつ
第 だい 2場 じょう 空中 くうちゅう 庭園 ていえん
時 とき と場所 ばしょ :紀元前 きげんぜん 587年 ねん 、エルサレム およびバビロン
演奏 えんそう 時間 じかん 7分 ふん 少々 しょうしょう 。はじめヴェルディは本格 ほんかく 的 てき な序曲 じょきょく を書 か くべきかどうか迷 まよ っていたが、義兄 ぎけい (亡妻 ぼうさい の兄 あに )ジョヴァンニ・バレッツィの勧 すす めもあってこの序曲 じょきょく をまとめたと伝 つた えられる。内容 ないよう 的 てき にはオペラ曲 きょく 中 ちゅう で用 もち いられる各 かく テーマを要約 ようやく したもの。
第 だい 1幕 まく 舞台 ぶたい 情景 じょうけい (1958年 ねん )
バビロニア国王 こくおう ナブッコと、勇猛 ゆうもう なその王女 おうじょ アビガイッレに率 ひき いられたバビロニアの軍勢 ぐんぜい がエルサレムを総 そう 攻撃 こうげき しようとしている。ヘブライ人 じん たちは周章 しゅうしょう 狼狽 ろうばい の態 たい だが、大 だい 祭司 さいし ザッカリーアは「当方 とうほう はナブッコの娘 むすめ フェネーナを人質 ひとじち としているので安心 あんしん 」と人々 ひとびと を静 しず める。
そのフェネーナとエルサレム王 おう の甥 おい 、イズマエーレは相思相愛 そうしそうあい の仲 なか であるが、アビガイッレもまたイズマエーレに想 おも いを寄 よ せている。アビガイッレは神殿 しんでん を制圧 せいあつ し、イズマエーレに「自分 じぶん の愛 あい を受 う け入 い れれば民衆 みんしゅう を助 す けよう」と取引 とりひき を提案 ていあん するが、イズマエーレはそれを拒絶 きょぜつ する。
やがてナブッコも神殿 しんでん に現 あらわ れる。ザッカリーアは人質 ひとじち フェネーナに剣 けん を突 つ きつけて軍勢 ぐんぜい の退去 たいきょ を促 うなが すが、イズマエーレがフェネーナを救 すく おうとしたためその試 こころ みは失敗 しっぱい する。ヘブライの民衆 みんしゅう はイズマエーレの裏切 うらぎ りを非難 ひなん 、勝利 しょうり を収 おさ めたナブッコは町 まち と神殿 しんでん の完全 かんぜん な破壊 はかい を命 めい ずる。
アビガイッレは自分 じぶん の出自 しゅつじ の秘密 ひみつ を記 しる した文書 ぶんしょ を発見 はっけん 、ナブッコ王 おう は王女 おうじょ フェネーナに王位 おうい を譲 ゆず るつもりであることを知 し り激 はげ しく嫉妬 しっと する。バビロニアの神官 しんかん たちは「フェネーナはヘブライ人 じん の囚人 しゅうじん たちを解放 かいほう しようとしている。自分 じぶん たちはナブッコ王 おう が死亡 しぼう したとの虚報 きょほう を流布 るふ するので、この隙 すき に王位 おうい を奪 うば ってほしい」とアビガイッレを焚 た きつける。
ザッカリーアは破壊 はかい された神殿 しんでん と祖国 そこく 、そして人々 ひとびと の心 しん の中 なか の信仰 しんこう 心 しん の復活 ふっかつ を祈 いの る。ヘブライ人 じん たちはイズマエーレの裏切 うらぎ りを問責 もんせき するが、ザッカリーアは人々 ひとびと に「今 いま やフェネーナもユダヤ教 きょう に改宗 かいしゅう した」と告 つ げ、若 わか い二人 ふたり をかばう。
アビガイッレとバビロニアの神官 しんかん たちが現 あらわ れ、フェネーナから王冠 おうかん を奪 うば おうとする。そこに死 し んだはずのナブッコ王 おう が登場 とうじょう 、「自分 じぶん はただの王 おう ではない。今 いま や神 かみ だ」と誇 ほこ る。その驕慢 きょうまん は神 かみ の怒 いか りに触 ふ れ、ナブッコの頭上 ずじょう に落雷 らくらい 、彼 かれ は精神 せいしん 錯乱 さくらん 状態 じょうたい となり、力 ちから を失 うしな う。こうして王冠 おうかん はアビガイッレが手 て に入 い れる。
アビガイッレは今 いま や玉座 ぎょくざ に座 すわ っている。彼女 かのじょ は異教徒 いきょうと たちを死刑 しけい とする命令 めいれい を作成 さくせい 、力 ちから を失 うしな ったナブッコに玉 たま 璽を押 お すように強 し いる。押印 おういん したナブッコは、改宗 かいしゅう した実 み の娘 むすめ フェネーナも死刑 しけい となることを知 し りアビガイッレに取 と り消 け しを懇願 こんがん するが、彼女 かのじょ は聞 き かない。
ユーフラテス河畔 かはん で、ヘブライ人 じん たちが祖国 そこく への想 おも いを歌 うた う。ここで歌 うた われるのが有名 ゆうめい な合唱 がっしょう 曲 きょく 「行 い け、我 わ が想 おも いよ、黄金 おうごん の翼 つばさ に乗 の って 」Va, pensiero, sull'ali dorate である。ザッカリーアは祖国 そこく の最終 さいしゅう 的 てき な勝利 しょうり とバビロニアの滅亡 めつぼう を予言 よげん 、人々 ひとびと を勇気付 ゆうきづ けようとする。
監禁 かんきん されているナブッコはエホバの神 かみ に許 ゆる しを請 こ う。遂 つい に忠臣 ちゅうしん たちが彼 かれ を解放 かいほう する。ナブッコはフェネーナを救 すく い、王位 おうい を回復 かいふく することを誓 ちか う。
ヘブライ人 じん たちがまさに処刑 しょけい されようとする刹那 せつな 、ナブッコが登場 とうじょう 、彼 かれ はバビロニアの神 かみ 々を祀 まつ った祭壇 さいだん の偶像 ぐうぞう の破壊 はかい を命 めい ずる。偶像 ぐうぞう はひとりでに崩壊 ほうかい する。ナブッコはこれを奇蹟 きせき であるとし、エホバの神 かみ を讃 たた え、ヘブライ人 じん たちの釈放 しゃくほう と祖国 そこく への帰還 きかん を宣言 せんげん する。群衆 ぐんしゅう はエホバ神 しん 賛美 さんび を唱和 しょうわ する。形勢 けいせい 不利 ふり であると悟 さと ったアビガイッレは服毒 ふくどく し、ナブッコとフェネーナに許 ゆる しを乞 こ いつつ絶命 ぜつめい 、ザッカリーアはナブッコを「王 おう の中 なか の王 おう 」と讃 たた えて、幕 まく 。
上演 じょうえん 小史 しょうし [ 編集 へんしゅう ]
イタリア各地 かくち での再演 さいえん [ 編集 へんしゅう ]
初演 しょえん の行 おこな われた1842年 ねん 3月9日 にち はスカラ座 すからざ 同年 どうねん のシーズン終了 しゅうりょう 直前 ちょくぜん であったが、同 どう オペラはそこからシーズン終了 しゅうりょう までに7回 かい の再演 さいえん がなされた。また1842年 ねん 夏 なつ -冬 ふゆ には臨時 りんじ のシーズンがもたれ、『ナブコドノゾール』はそこで記録 きろく 破 やぶ りの57回 かい の再演 さいえん がなされている。ミラノ外 がい では1843年 ねん 春 はる のヴェネツィア ・フェニーチェ劇場 げきじょう を皮 かわ 切 せつ に各地 かくち での上演 じょうえん がもたれている。
イタリア半島 はんとう 外 がい [ 編集 へんしゅう ]
『ナブコドノゾール』はイタリア半島 はんとう 外 がい でも早 はや くから上演 じょうえん がなされたオペラのひとつである(もっとも第 だい 5作 さく 『エルナーニ 』の方 ほう が初演 しょえん 後 ご の流布 るふ は急速 きゅうそく だった)。1843年 ねん 4月 がつ 、ウィーン での上演 じょうえん がイタリア半島 はんとう 外 がい での初演 しょえん であり、同年 どうねん 秋 あき にはリスボン 、1844年 ねん にはバルセロナ 、ベルリン 、シュトゥットガルト 、コルフ (今日 きょう ギリシャ 領 りょう )、1845年 ねん にはパリ 、ハンブルク 、1846年 ねん にはコペンハーゲン 、ロンドン 、1848年 ねん にはニューヨーク での上演 じょうえん がなされた。
なおこのうち1844年 ねん 、コルフでの上演 じょうえん が題名 だいめい を『ナブッコ』に短縮 たんしゅく して行 おこな われた最初 さいしょ のものであり、以後 いご イタリア半島 はんとう の内外 ないがい でこの短縮 たんしゅく 題名 だいめい が慣例 かんれい 化 か して今日 きょう に至 いた っている。
1846年 ねん 3月 がつ 3日 にち 、ロンドン、ハー・マジェスティーズ劇場 げきじょう での英国 えいこく 初演 しょえん では、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の内容 ないよう を舞台 ぶたい 化 か することへの反対 はんたい 論 ろん に配慮 はいりょ して、題名 だいめい を『ニーノ』Nino とするなどの変更 へんこう が加 くわ えられている。
日本 にっぽん での初演 しょえん は「声 こえ 専 せん オペラ研究 けんきゅう 会 かい 」による1971年 ねん 6月25日 にち の演奏 えんそう 会 かい 形式 けいしき による公演 こうえん ( 訳詞 やくし 上演 じょうえん ?)で、指揮 しき は星 ほし 出 いずる 豊 ゆたか 、管弦楽 かんげんがく は新星 しんせい 日本 にっぽん 交響 こうきょう 楽団 がくだん [1] 。
「行 い け、我 わ が想 おも いよ」 [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 3幕 まく 第 だい 2場 じょう で歌 うた われる合唱 がっしょう 「行 い け、我 わ が想 おも いよ、金色 きんいろ の翼 つばさ に乗 の って」は、このオペラ『ナブッコ』で最 もっと も有名 ゆうめい なナンバーで、『旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 』(ユダヤ教 きょう 聖書 せいしょ )の『詩篇 しへん 』137 「バビロンの流 なが れのほとりに座 すわ り、シオンを思 おも って、わたしたちは泣 な いた。」に題材 だいざい を取 と った歌 うた である。
歌詞 かし とその試 ためし 訳 やく [ 編集 へんしゅう ]
Va, pensiero, sull'ali dorate;
Va, ti posa sui clivi, sui colli,
Ove olezzano tepide e molli
L'aure dolci del suolo natal!
Del Giordano le rive saluta,
Di Sïonne le torri atterrate...
Oh, mia patria sì bella e perduta!
Oh, membranza sì cara e fatal!
Arpa d'or dei fatidici vati,
Perché muta dal salice pendi?
Le memorie nel petto raccendi,
Ci favella del tempo che fu!
O simile di Solima ai fati
Traggi un suono di crudo lamento,
O t'ispiri il Signore un concento
Che ne infonda al patire virtù!
行 い け、想 おも いよ、金色 きんいろ の翼 つばさ に乗 の って
行 い け、斜面 しゃめん に、丘 おか に憩 いこ いつつ
そこでは薫 かお っている。暖 あたた かく柔 やわら かい
故国 ここく の甘 あま いそよ風 かぜ が!
ヨルダンの河岸 かわぎし に挨拶 あいさつ を、
そして破壊 はかい されたシオンの塔 とう にも…
おお、あんなにも美 うつく しく、そして失 うしな われた我 わ が故郷 こきょう !
おお、あんなにも懐 なつ かしく、そして酷 ひど い思 おも い出 で !
運命 うんめい を予言 よげん する預言 よげん 者 しゃ の金色 きんいろ の竪琴 たてごと よ、
何故 なぜ 黙 だま っている、柳 やなぎ の木 き に掛 か けられたまま?
胸 むね の中 なか の思 おも い出 で に再 ふたた び火 ひ を点 つ けてくれ
過 す ぎ去 さ った時 とき を語 かた ってくれ!
あるいはエルサレムの運命 うんめい と同 おな じ
辛 つら い悲嘆 ひたん の響 ひび きをもった悲劇 ひげき を語 かた れ
あるいは主 あるじ によって美 うつく しい響 ひび きが惹 ひ き起 お こされ
それが苦痛 くつう に耐 た える勇気 ゆうき を我々 われわれ に呼 よ び覚 さ ますように!
「行 い け、我 わ が想 おも いよ」合唱 がっしょう 部分 ぶぶん 冒頭 ぼうとう (簡易 かんい 表記 ひょうき )
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(
歌詞 かし はGarzanti
社 しゃ 版 ばん "Tutti i libretti di Verdi"
ISBN 88-11-41061-4 より
引用 いんよう 。
試 ためし 訳 やく は
引用 いんよう 者 しゃ による)
初演 しょえん 時 じ の評判 ひょうばん ――伝説 でんせつ とその検証 けんしょう [ 編集 へんしゅう ]
この合唱 がっしょう 曲 きょく に関 かん しては有名 ゆうめい な伝説 でんせつ がある。すなわち;
初演 しょえん 時 じ のミラノ・スカラ座 すからざ の聴衆 ちょうしゅう はこのナンバー、とりわけ"Oh, mia patria sì bella e perduta!"(おお、あんなにも美 うつく しく、そして失 うしな われた我 わ が故郷 こきょう !)の部分 ぶぶん に、オーストリア に支配 しはい された自 みずか らの運命 うんめい (イタリア独立 どくりつ 戦争 せんそう )を重 かさ ね合 あ わせた。突発 とっぱつ 的 てき に発生 はっせい したこの詞 し 曲 きょく への共感 きょうかん は熱烈 ねつれつ なアンコールの要求 ようきゅう となった。劇場 げきじょう に居合 いあ わせたオーストリア官憲 かんけん もこの歌詞 かし の意味 いみ するところを理解 りかい していたが、聴衆 ちょうしゅう の暴動 ぼうどう を恐 おそ れアンコールは許可 きょか された。やがて、このオペラはイタリア半島 はんとう 全土 ぜんど で再演 さいえん され、そこでは常 つね に、「行 い け、我 わ が想 おも いよ」への熱烈 ねつれつ な反応 はんのう が再現 さいげん された。
この伝説 でんせつ は、ヴェルディの伝記 でんき には必 かなら ずといっていいほど無 む 批判 ひはん 的 てき に採用 さいよう され(例 たと えばフランコ・アッビアーティ著 ちょ の1959年刊 ねんかん の伝記 でんき 、あるいはジュリアン・バッデン著 ちょ の下 しも 掲書)、ヴェルディを「リソルジメント の代表 だいひょう 的 てき なオペラ作曲 さっきょく 家 か 」と位置付 いちづ ける根拠 こんきょ として用 もち いられてきた。1938年 ねん 、あるいは1953年 ねん にイタリアで撮影 さつえい されたヴェルディの伝記 でんき 映画 えいが でもこのエピソードはヴェルディ初期 しょき の著名 ちょめい な出来事 できごと としてドラマティックに描 えが かれている。
しかし、近年 きんねん の研究 けんきゅう はこういった伝説 でんせつ に対 たい して疑問 ぎもん を投 な げかけている。ロジャー・パーカーは『ナブッコ』の1842年 ねん の初演 しょえん 時 じ より1848年 ねん に至 いた るまでのイタリアでの演奏 えんそう 評 ひょう を詳細 しょうさい に調査 ちょうさ したが、結論 けつろん として、
スカラ座 すからざ での初演 しょえん 時 じ 、聴衆 ちょうしゅう がアンコールを求 もと めた合唱 がっしょう 曲 きょく はこの「行 い け、我 わ が想 おも いよ」ではなく、第 だい 4幕 まく 第 だい 2場 じょう の「偉大 いだい なるエホバ」Immenso Jeovha であった
その後 ご のスカラ座 すからざ での再演 さいえん 、イタリア半島 はんとう 各地 かくち での再演 さいえん 時 じ にも「行 い け、我 わ が想 おも いよ」を賞賛 しょうさん する記事 きじ は皆無 かいむ である
イタリア各地 かくち (そしてヨーロッパ各地 かくち )で革命 かくめい 運動 うんどう が活発 かっぱつ 化 か した1848年 ねん になると、『ナブッコ』を(『十字軍 じゅうじぐん のロンバルディア人 じん 』のようなイタリア人 じん そのものずばりを題材 だいざい としたオペラと対比 たいひ して)、「異国 いこく の遠 とお い過去 かこ のドラマであり、イタリア人 じん にとって縁遠 えんどお いもの」と、むしろ酷評 こくひょう するものもみられる
としており(下 しも 掲書参照 さんしょう )、この伝説 でんせつ はもっと後世 こうせい の産物 さんぶつ 、つまりヴェルディの大家 たいか としての地位 ちい も確立 かくりつ し、一方 いっぽう イタリアの統一 とういつ が完成 かんせい した1870年代 ねんだい 以降 いこう に形成 けいせい されたのではないか、との考察 こうさつ を行 おこな っている。
以上 いじょう のような疑問 ぎもん は残 のこ るものの、この「行 い け、我 わ が想 おも いよ」は今日 きょう のイタリア国民 こくみん にとって「第 だい 二 に の国歌 こっか 」的 てき 位置付 いちづ けにあるのは間違 まちが いない。実際 じっさい に正規 せいき の国歌 こっか とする提案 ていあん も数 すう 度 ど にわたって行 おこな われたともいう。なおイタリアでは、正統 せいとう の国歌 こっか はイタリア政体 せいたい の変遷 へんせん に伴 ともな い「王室 おうしつ 行進曲 こうしんきょく 」から「マメーリの賛歌 さんか 」に移 うつ り、その間 あいだ ファシスト党 とう の党 とう 歌 か 「ジョヴィネッツァ 」が国歌 こっか 同然 どうぜん の位置付 いちづ けで歌 うた われる時代 じだい もあった。
1901年 ねん 1月 がつ 27日 にち ヴェルディが87歳 さい で長逝 ちょうせい した際 さい 、彼 かれ の遺志 いし により葬儀 そうぎ では一切 いっさい の音楽 おんがく 演奏 えんそう が禁 きん じられたが、それでもその棺 かん が運 はこ ばれる早朝 そうちょう 、ミラノ の沿道 えんどう に参集 さんしゅう した群衆 ぐんしゅう は自然 しぜん とこの「行 い け、我 わ が想 おも いよ」を歌 うた ったという。その1か月 げつ 後 ご 、彼 かれ と妻 つま ジュゼッピーナの遺骸 いがい が彼 かれ らの建 た てた音楽家 おんがくか のための養老 ようろう 院 いん 「憩 いこ いの家 いえ 」Casa di Riposoに改葬 かいそう される際 さい には、800人 にん の合唱 がっしょう 隊 たい および30万 まん 人 にん にも及 およ ぶ群衆 ぐんしゅう が改 あらた めて「行 い け、我 わ が想 おも いよ」を歌 うた ってこの偉大 いだい な作曲 さっきょく 家 か 夫妻 ふさい を偲 しの んだ(一般 いっぱん 群衆 ぐんしゅう の25,000人 にん あるいは30,000人 にん が唱和 しょうわ したともいうが、イタリアにおけるこの種 たね の伝説 でんせつ は常 つね に割 わ り引 び いて考 かんが える必要 ひつよう がある)。指揮 しき をとったのは若 わか き日 ひ のアルトゥーロ・トスカニーニ であった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか の、ドイツ軍 ぐん の事実 じじつ 上 じょう の占領 せんりょう 下 か にあったミラノに対 たい する連合 れんごう 国軍 こくぐん による空襲 くうしゅう による破壊 はかい (1943年 ねん )から再建 さいけん なったスカラ座 すからざ の再開 さいかい 記念 きねん コンサートが1946年 ねん 5月11日 にち 、やはりトスカニーニのタクトで挙行 きょこう されたとき、「行 い け、我 わ が想 おも いよ」は当然 とうぜん のようにそのプログラムの中 なか にあった。
北部 ほくぶ イタリアの分離 ぶんり ・独立 どくりつ を党是 とうぜ とする右派 うは 政党 せいとう 北部 ほくぶ 同盟 どうめい (レガ・ノルド) はこの合唱 がっしょう 曲 きょく を党 とう 歌 か のように扱 あつか っており、党 とう の行事 ぎょうじ では参加 さんか 者 しゃ による斉唱 せいしょう がなされるという。
ナナ・ムスクーリ の歌 うた う、Je chante avec toi liberte, Song for liberty, Libertad, が、1980年代 ねんだい フランスのヒットチャートで永 なが くトップを飾 かざ った。
近年 きんねん では2006年 ねん 2月 がつ 26日 にち 、トリノオリンピック の閉会 へいかい 式 しき でもこの合唱 がっしょう が用 もち いられていた。
Scott L. Balthazar(Ed.), "The Cambridge Companion to Verdi", Cambridge Univ. Press (ISBN 0-521-63535-7 )
Julian Budden, "The Operas of Verdi (Volume 1)", Cassell, (ISBN 0-304-31058-1 )
Charles Osbone, "The Complete Operas of Verdi", Indigo, (ISBN 0-575-40118-4 )
Roger Parker, "Leonora's Last Act", Princeton, (ISBN 0-691-01557-0 )
Pierluigi Petrobelli, Roger Parker(Tr.), "Music in the Theater", Princeton, (ISBN 0-691-02710-2 )
Teatro alla Scala, "Verdi e la Scala", Rizzoli, (ISBN 88-17-86622-9 )
永 えい 竹 ちく 由幸 よしゆき 「ヴェルディのオペラ――全 ぜん 作品 さくひん の魅力 みりょく を探 さぐ る」 音楽之友社 おんがくのともしゃ (ISBN 4-2762-1046-1 )
日本 にっぽん オペラ振興 しんこう 会 かい (編 へん )「日本 にっぽん のオペラ史 し 」 信 しん 山 やま 社 しゃ (1986年刊 ねんかん 。書籍 しょせき 情報 じょうほう コードなし)