オペラ・ブッファ

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オペラ・ブッファイタリア:opera buffa)は、オペラいち形態けいたい18世紀せいき前半ぜんはんナポリまれ、そのローマイタリア北部ほくぶでもひろられるようになった。18世紀せいき後半こうはんにはゆたかに発展はってんし、パイジェッロチマローザモーツァルトによって頂点ちょうてんむかえ、19世紀せいき前半ぜんはんドニゼッティころまでさかんにかれた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

オペラ発展はってん歴史れきしなかで、オペラ・ブッファは、それまで主流しゅりゅうであったオペラ・セリア(ただしこの用語ようごはブッファとの対比たいひにおいてのみもちいられはじめたあたらしい用語ようごであり、そもそもはドランマ・ペル・ムージカとばれる)の様式ようしきたいする反動はんどうとして形成けいせいされた。オペラ・セリアが王侯おうこう貴族きぞくのためにつくられた贅沢ぜいたく娯楽ごらくであったのにたいし、オペラ・ブッファは市民しみんてきで、より身近みぢか問題もんだいあつかうものであった。

滑稽こっけい登場とうじょう人物じんぶつ状況じょうきょう(しばしば使用人しようにんふくまれる)は、モンテヴェルディチェスティカヴァッリなど、17世紀せいきのヴェネツィア・オペラのなかですでに登場とうじょうしていたが、転機てんきとなるのは、1707ねんにナポリの主権しゅけんスペインからオーストリアへとうつったことにある。スペインからの「解放かいほう」を題目だいもくかかげたオーストリアは文化ぶんか緩和かんわさくり、それまで規制きせいされていたナポリ方言ほうげんによる文学ぶんがくたいしても理解りかいせると、カラーファ・キウザーノ侯爵こうしゃくていにおいて市民しみん題材だいざいとした3まく音楽おんがくづけ喜劇きげき『チッラ』が私的してき上演じょうえんされた。

どう時代じだい市民しみんをオペラの題材だいざいとするこころみは非常ひじょう成功せいこうはくし、それまでは演劇えんげきや17世紀せいき宮廷きゅうていしきオペラを上演じょうえんしていたナポリの市民しみん劇場げきじょうフィオレンティーニ劇場げきじょうは、1709ねんよりこのあたらしい演目えんもくである3まく喜劇きげきオペラの定期ていき上演じょうえん開始かいしする。初期しょきのオペラ・ブッファの登場とうじょう人物じんぶつは8にんから10にん程度ていどおおいが、すべて「喜劇きげき」をになうわけではない。セリアやくとしての「上級じょうきゅう市民しみん」と、その「下男げなん下女げじょ」(ブッファやく)が、それぞれの社会しゃかい身分みぶんせいもとづく役割やくわりをそれぞれげきちゅうでもにない、その構図こうず宮廷きゅうていオペラであったドランマ・ペル・ムージカ(dramma per musica)、つまり、オペラ・セリアとインテルメッゾの関係かんけいわらないものであった。

従来じゅうらいべられてきた「オペラ・セリアの幕間まくあいおこなわれるみじかい1まくものの幕間まくあいげきである「インテルメッツォ」が発展はってんしてオペラ・ブッファとなる」という記述きじゅつまったくの錯誤さくごであり、1970年代ねんだい以降いこう欧米おうべい研究けんきゅうにおいては否定ひていされている。

インテルメッゾは、宮廷きゅうていオペラである「オペラ・セリア」のなかでのみ見出みいだされるみじか笑劇しょうげきであり、2人ふたり歌手かしゅによる2仕立したてが基本形きほんけいである。これが独立どくりつした「作品さくひん」として製作せいさくされていたのは1710年代ねんだいから1730年代ねんだいにかけてのみであり、ペルゴレージ作曲さっきょくの『奥様おくさま女中じょちゅう』はじめ30さくほどしかない。というのも、17世紀せいきの「ドランマ・ペル・ムージカ」でもそうであったように、そもそもインテルメッゾ喜劇きげきやくになうのは、オペラ本編ほんぺん登場とうじょう人物じんぶつ下男げなん下女げじょであり、1710ねんごろまで本編ほんぺんとインテルメッゾは分化ぶんかであったためである。その、1710年代ねんだい後半こうはんより独立どくりつしたものとなり、サッロハッセ、ペルゴレージらがこれを発展はってんさせるが、1730年代ねんだいナポリおうカルロ7せい個人こじんてき趣味しゅみによってインテルメッゾはすべて禁止きんしされ、そのかわりに2さくバレエ挿入そうにゅうされるようになると、地域ちいきでもその慣習かんしゅうひろがり、以後いご幕間まくあいバレエ」が一般いっぱんてき宮廷きゅうてい劇場げきじょうでの「インテルメッゾ」となってゆく。

ペルゴレージの『奥様おくさま女中じょちゅう』は、ブフォン論争ろんそうげられたことも手伝てつだって、18世紀せいき後半こうはんにも各地かくち(フランス、ドイツなどおもきたイタリア)での上演じょうえんつづくが、新作しんさくがもはやつくられなくなった「インテルメッゾ」は必然ひつぜんてき消滅しょうめつする方向ほうこうにあった。しかし、わずかにローマにおいて、例外れいがいてき発展はってんつづけることとなる。これは、19世紀せいき初頭しょとうまで民間みんかん劇場げきじょうであるヴァッレ劇場げきじょう中心ちゅうしん上演じょうえんされることになり、その構成こうせいは2男性だんせいのみの5ごえという構成こうせいで、当初とうしょ2人ふたり・2仕立したての「インテルメッゾ」から、世紀せいきちゅうごろに発展はってんしたものとかんがえられている。オペラ・ブッファとして有名ゆうめいピッチンニの『ニーナ』なども、当初とうしょこの「インテルメッゾ」として男性だんせいだけで上演じょうえんされていることをかんがえれば、18世紀せいき後半こうはんにはローマ教皇きょうこうちょうたいする建前たてまえとしてこのジャンルめい機能きのうしているだけで、事実じじつじょう地域ちいきのオペラ・ブッファと同質どうしつなものであるとみとめられよう。サッキーニ、ピッチンニ、チマローザトリットなどにおおくの「インテルメッゾ」の作品さくひん確認かくにんできるが、すべてはこのローマしきのインテルメッゾである。

18世紀せいき前半ぜんはんのオペラ・ブッファ初期しょき著名ちょめい作曲さっきょくには、オレーフィチェヴィンチレーオログローシノインサングイネアウレッタヨンメッリラティッラグリエルミピッチンニガルッピがいるが、現存げんそんする楽譜がくふは1750ねんまでのもので、ペルゴレージの『いもうとこいしたあに』など有名ゆうめい作品さくひんれても、わずか10さくにもたない。うち、自筆じひつのこるヴィンチの『ガレーせん新婦しんぷ』、モンテカッシーノ写本しゃほんもとづくレーオの『アリドーロ』、ラティッラの『にせ女中じょちゅう』(1738ねん)はすべてナポリの古楽こがくオーケストラピエタ・デイ・トゥルキーニによって現代げんだい復活ふっかつ初演しょえんされてCD/DVDされている。かれらはいずれもナポリヴェネツィア拠点きょてんとして活動かつどうしたが、オペラ・ブッファのれいではないにせよ、1770ねん王立おうりつサン・カルロ劇場げきじょうからガルッピにオペラ『オリンピーアデ』がしょくされるも、そのスコアを歌手かしゅから駄目だめしがあり、急遽きゅうきょインサングイネの作品さくひんえられたというエピソードからて、りょう地域ちいき音楽おんがく趣味しゅみおおきくことなっていたものとかんがえられる。

オペラ・セリアがかみ古代こだい英雄えいゆうといった神話しんわてき要素ようそあつかい、滑稽こっけい場面ばめん挿話そうわてきもちいられるのみであったのにたいし、オペラ・ブッファはそういった滑稽こっけい場面ばめん主要しゅよう部分ぶぶんときにはオペラそのものの前提ぜんていとしてもちいている。使用しようされる音楽おんがく民衆みんしゅうほういたものとなってきており、一般いっぱん民衆みんしゅうたのしむことの出来でき主題しゅだい物語ものがたりなによりもてきしたものであった。オペラにおける滑稽こっけい物語ものがたりは、音楽おんがく娯楽ごらく要素ようそくわえるめんがあった。

伝統でんとうてき形式けいしきのオペラ・セリアは3まく構成こうせいされ、女声じょせいカストラートといったこう音域おんいきこえ中心ちゅうしんもちいた。テノールバスバリトン脇役わきやく端役はやくとして使つかわれるのみであった。オペラ・セリアの標準ひょうじゅんてき配役はいやく女声じょせいまたはカストラート4、テノール1、バスまたはバリトン1、といったものであり、ほとんどのオペラ・セリアは、カストラートを参加さんかさせることを前提ぜんていとしてかれていた。

一方いっぽう、オペラ・ブッファの基本きほんてき形式けいしきもまた3まくであるが、カストラートは使つかわれることはなく、とくにバスである「バッソ・ブッフォ」(basso buffo, 道化どうけてきバス)が重視じゅうしされている。バッソ・ブッフォはてい音域おんいき男性だんせい歌手かしゅで、滑稽こっけい場面ばめん中心ちゅうしんてき役割やくわりになう。かれうたアリア独唱どくしょうきわめてはやテンポをもち、滑稽こっけいさを演出えんしゅつするために音符おんぷあいだ跳躍ちょうやく非常ひじょうおおもちいられている。有名ゆうめいなバッソ・ブッフォのキャラクターとしては、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に登場とうじょうするレポレロがげられる。

ナポリのオペラ・ブッファ作品さくひん(すべて)においては方言ほうげんもちいられるが、その度合どあいは話者わしゃ身分みぶんおうじるもので、さらに世紀せいき後半こうはんになるとその度合どあいは全体ぜんたいてきよわまり、バス・ブッフォなど喜劇きげきやくのみが方言ほうげんはなすのみとなる。これはジャンルの国際こくさいともかかわってくるが、実際じっさい地方ちほう」へ輸出ゆしゅつされる場合ばあいには標準ひょうじゅんイタリアへと翻訳ほんやくされるのが一般いっぱんてきであった。なお、当時とうじヴェネツィアとナポリのみがオペラ・ブッファの製作せいさく拠点きょてんであり、ミラノフィレンツェパレルモなどの都市としはほとんど「輸入ゆにゅうひん」にたよっていた。

オペラ・ブッファは音楽おんがく内容ないようがより単純たんじゅん、ひいては貧弱ひんじゃくであり、ながさや想像そうぞうりょくかぎりがあり、高尚こうしょうなジャンルにふくまれないと当初とうしょわれたこともあった。しかし1768ねん5がつ音楽おんがく愛好あいこうでもあったオーストリア皇女おうじょマリア・カロリーナがナポリおうフェルディナンド4せいのもとにとついで以降いこう、ナポリの宮廷きゅうていはオペラ・ブッファをえんずる民間みんかん劇場げきじょう一座いちざ宮廷きゅうていまねき、これを奨励しょうれいしており、ここから急速きゅうそくにオペラ・ブッファの「高踏こうとう」がはじまったとみることができる。すでにブフォン論争ろんそうである程度ていどオペラ・ブッファが紹介しょうかいされていたフランスのほか、ナポリを見習みならった地域ちいき宮廷きゅうていでも同様どうようにオペラ・ブッファが急速きゅうそくこのまれはじめ、のちにモーツァルトの名作めいさくフィガロの結婚けっこん』や『ドン・ジョヴァンニ』など、「芸術げいじゅつてき」なブッファがされる土壌どじょうつくした。この時期じき重要じゅうよう作曲さっきょくが、サッキーニ、ピッチンニ、グリエルミ、パイジエッロマリネッリチマローザトリットパルマヴァレンティーノ・フィオラヴァンティなどである。

喜劇きげき形式けいしきはさまざまで、非常ひじょう幅広はばひろいものである。ロッシーニの『セビリアの理髪りはつ』(1816ねん)が純粋じゅんすい喜劇きげきてき作品さくひんである一方いっぽう、モーツァルトの『フィガロの結婚けっこん』(1786ねん)には劇的げきてき効果こうか悲哀ひあいかんくわえられている。『コジ・ファン・トゥッテ』も同様どうようであり、『ドン・ジョヴァンニ』となると、音楽おんがくめん、ドラマめんともに、もはや喜劇きげきるかすら微妙びみょうなところまでている。モーツァルトのさん作品さくひんはイタリア作品さくひんながら作曲さっきょくしゃ初演しょえん場所ばしょなどをふくめてかみきよしマ帝国まていこくはぐくまれてドイツオペラの歴史れきしつよ影響えいきょうおよぼし、今日きょうもなお非常ひじょうたか人気にんきほこる。結果けっかとして、ロッシーニ作品さくひんやドニゼッティ作品さくひんなどとともに、オペラ・ブッファは今日きょう歌劇かげきじょうレパートリーで重要じゅうよう一角いっかくつづけている。

その、19世紀せいき前半ぜんはんからは、製作せいさく拠点きょてんあらたにミラノがくわわりながら、ファリネッリヴィンツェンツォ・フィオラヴァンティ、ロッシーニ、モスカ、パヴェージ、そしてドニゼッティによって、ブッファのだい3の黄金おうごんむかえる。そのイタリア統一とういつ運動うんどうなか社会しゃかい混乱こんらんすると、とくにブッファを上演じょうえんしていた民間みんかん劇場げきじょうではそれぞれ愛国あいこくてき喜劇きげきオペラがこのまれ、統一とういつたいする文化ぶんかてきとりでとなっていたが、その興味深きょうみぶかいのが、この時期じきの「パロディ・オペラ」である。ヴェルディの『トロヴァトーレ』や『アイーダ』が宮廷きゅうてい劇場げきじょう上演じょうえんされる一方いっぽうちかくの民間みんかん劇場げきじょうでは、これらをパロディにした喜劇きげきオペラが上演じょうえんされている。しかし、これらの研究けんきゅうはいまだすすんでおらず、今後こんご研究けんきゅう期待きたいされる。そのポンキエッリなどを最後さいごに、このジャンルは19世紀せいき後半こうはんには衰退すいたいし、一般いっぱんには1893ねん発表はっぴょうされたヴェルディの『ファルスタッフ』が最後さいごのオペラ・ブッファであるとなされているが、20世紀せいき前半ぜんはんしん古典こてん主義しゅぎ音楽おんがく時代じだいにはブッファのスタイルをれた近代きんだいてきオペラもかれている。

オペラ・ブッファの重要じゅうよう様相ようそうひとつは、18世紀せいき後半こうはんには宮廷きゅうていでの地位ちい確立かくりつしたことであり、これによりオペラ・セリアもまたオペラ・ブッファの様式ようしきから影響えいきょうけることになった。とりわけ、1780年代ねんだい以降いこうのオペラ・セリアには、ブッファの語法ごほうであった「イントロドゥツィオーネ」、「アンサンブル・フィナーレ」が導入どうにゅうされているが、そのいきおいはイタリアで上演じょうえんされたセリア作品さくひん総数そうすう半分はんぶん以上いじょうにまでおよんでいたことが、ロレンツォ・マッテイによる浩瀚こうかん博士はかせ論文ろんぶんローマ大学だいがく、2003ねん)により実証じっしょうされている。これは、ブッファの人気にんき反比例はんぴれいするかのように斜陽しゃようとなっていた宮廷きゅうてい劇場げきじょう経営けいえい改善かいぜんのために、興行こうぎょう意図いとしてブッファ様式ようしき導入どうにゅうさせたものと推測すいそくされ、作品さくひん作曲さっきょくがわからの研究けんきゅうだけでなく、劇場げきじょう経営けいえい動向どうこうから研究けんきゅうすすめる必要ひつようがある。

フランスの百科全書ひゃっかぜんしょはオペラ・ブッファを、当時とうじもちいられていた不可避ふかひ体制たいせいへの明確めいかく反発はんぱつであり、作曲さっきょく自由じゆう象徴しょうちょうとなったとなしていた。実際じっさい、オペラ・ブッファの製作せいさく拠点きょてんであったナポリのれいでは、喜劇きげきオペラを振興しんこうしたマリア・カロリーナ王妃おうひをはじめ、民間みんかん劇場げきじょう予約よやくしゃたちの貴族きぞくおおくは「自由じゆう平等びょうどう博愛はくあい」を標榜ひょうぼうするフリーメイソン参加さんかしており、そこで上演じょうえんされる作品さくひんぐんにもまた「自由じゆう平等びょうどう博愛はくあい」というサインがしめされている。1768ねんから1780年代ねんだいにかけて、ナポリのヌォーヴォ劇場げきじょうで「異国いこくオペラ」が数多かずおお上演じょうえんされたのも、それがジェームズ・クックタヒチ到着とうちゃくなど社会しゃかい反映はんえいだけでなく、さらには東洋とうよう意味いみする「オリエント」という言葉ことばがフリーメイソンてきには「ひかり」を意味いみするからともかんがえることができる。これは、収支しゅうしバランスをとるべく、観客かんきゃく意向いこう重要じゅうようであったオペラ・ブッファにとりわけ必要ひつようとなる観客かんきゃくのニーズにこたえようとする、興行こうぎょう方針ほうしんだったものと推測すいそくされるが、さらに、あるケースでは興行こうぎょうそのものがフリーメイソン貴族きぞくによって「やとわれていた」という事実じじつ発見はっけんできる。

オペラ・ブッファを作曲さっきょくしたおも作曲さっきょく[編集へんしゅう]

本文ほんぶん記載きさいのある人物じんぶつのぞく。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  • Opera buffa by Piero Weiss and Julian Budden, in "The New Grove Dictionary of Opera", ed. Stanley Sadie (London, 1992) ISBN 0-333-73432-7

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]