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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい
Vittorio Emanuele II
サルデーニャ国王こくおう
イタリア国王こくおう
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい
在位ざいい サルデーニャおう
1849ねん7がつ28にち - 1861ねん3月17にち
イタリアおう
1861ねん3月17にち - 1878ねん1がつ9にち
戴冠たいかんしき 1849ねん7がつ28にち(サルデーニャおう
1861ねん3月17にち(イタリアおう
べつごう ピエモンテこう
サヴォイアこう

ぜん Vittorio Emanuele Maria Alberto Eugenio Ferdinando Tommaso
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・マリーア・アルベルト・エウジェーニオ・フェルディナンド・トンマーゾ
出生しゅっしょう (1820-03-14) 1820ねん3月14にち
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国おうこくトリノ
死去しきょ (1878-01-09) 1878ねん1がつ9にち(57さいぼつ
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくローマ
埋葬まいそう パンテオン
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくローマ
おう太子たいし ウンベルト1せい
配偶はいぐうしゃ マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ
  ローザ・テレーザ・ヴェルチェラーナ・グエリエーリ
子女しじょ マリーア・クロティルデ
ウンベルト1せい
アマデオ1せい
オッドーネ・エウジェーニオ・マリーア
マリーア・ピア
カルロ・アルベルト
ヴィットーリオ・エマヌエーレ
ヴィットーリオ・エマヌエーレ
王室おうしつ 王室おうしつ行進曲こうしんきょく
父親ちちおや カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア
母親ははおや マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナ
宗教しゅうきょう ローマ・カトリックのち破門はもん
サイン
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コインの肖像しょうぞう(1859ねん

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい: Vittorio Emanuele II di Savoia, 1820ねん3月14にち[1] - 1878ねん1がつ9にち)は、サルデーニャ王国おうこく最後さいご国王こくおう在位ざいい1849ねん - 1861ねん)、のちイタリア王国おうこく初代しょだい国王こくおう在位ざいい1861ねん - 1878ねん)。サルデーニャおうカルロ・アルベルトトスカーナ大公たいこうおんなマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナ長男ちょうなんとしてサルデーニャおう即位そくいする。ちちからいだイタリア統一とういつ戦争せんそう終止符しゅうしふち、リソルジメントげたことから、王国おうこく国父こくふイタリア: Padre della Patria)とばれた。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい統一とういつイタリアの象徴しょうちょうとして国民こくみんから敬愛けいあいされ、おう頭文字かしらもじ "VERDI"(Vittorio Emanuele Re d'Italia, ヴィットーリオ・エマヌエーレ・レ・ディタリャ、 イタリアおうヴィットーリオ・エマヌエーレ)とばれた。どう時代じだいイタリア・ロマン音楽家おんがくかジュゼッペ・ヴェルディ名前なまえとも合致がっちしたことから、統一とういつ戦争せんそうころには両者りょうしゃたたえて「"viva! verdi!"」の言葉ことばがイタリア全土ぜんど流行りゅうこうした。

生涯しょうがい

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1820ねん3月14にち、サヴォイア王国おうこく首都しゅとトリノにおいて、王家おうけであるサヴォイア一族いちぞくとしてまれた。ヴィットーリオのちちカルロ・アルベルトは、サヴォイア支流しりゅうでカリニャーノこうトンマーゾ・フランチェスコとするサヴォイア=カリニャーノ当主とうしゅであった。

サルデーニャおうヴィットーリオ・アメデーオ3せい息子むすこたちは男子だんしめぐまれず、カルロ・エマヌエーレ4せいヴィットーリオ・エマヌエーレ1せい、そして末弟ばっていカルロ・フェリーチェ、と兄弟きょうだいあいだ王位おうい継承けいしょうされたすえ、サヴォイア本家ほんけ断絶だんぜつした。そこで、サリカほうるサヴォイア継承けいしょうほうもとづき、存続そんぞくしていた分家ぶんけもっと本家ほんけちかかったサヴォイア=カリニャーノのカルロ・アルベルトがサルデーニャおうとなった。同時どうじに、まだ幼少ようしょうであったヴィットーリオとおとうとアルベルト王子おうじ称号しょうごうあたえられ、王宮おうきゅう母方ははかた祖父そふであるトスカーナ大公たいこうフェルディナンド3せいした子供こども時代じだいごした。

1842ねん父方ちちかた叔母おばマリーア・エリザベッタむすめマリーア・アデライデ従兄じゅうけいいもうとこんおこなう。叔母おばおっとハプスブルク皇族こうぞくであったロンバルド=ヴェネトふくおうラニエーリ(ライナー・ヨーゼフ)大公たいこうであり、一族いちぞく結束けっそく政略せいりゃく結婚けっこん双方そうほう意図いとしていた。

ちちおう退位たいい

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ノヴァーラのたたか

ナポレオン戦争せんそう正統せいとう主義しゅぎもとづいた秩序ちつじょ支配しはいされていたヨーロッパ1848ねん革命かくめいというだい動乱どうらんこった。とく民族みんぞく牢獄ろうごくともばれた民族みんぞく国家こっかであるオーストリア帝国ていこくへの影響えいきょうおおきく、これを契機けいきにしてロンバルド=ヴェネト王国おうこくうちはんオーストリアじんはんハプスブルク反乱はんらん全土ぜんど発生はっせいした。民衆みんしゅうぐん双方そうほうからこった反乱はんらんまたたミラノヴェネツィアさえ(ミラノのたたか)、わかガリバルディくわわっていた反乱はんらんぐんは、帝国ていこくからの分離ぶんりイタリアじんによるイタリア統治とうちもとめたたたかいをはじめた。しかし、共和きょうわ主義しゅぎしゃむすびついていた1848ねん革命かくめい軍勢ぐんぜいへの支援しえん君主くんしゅ国家こっかにとってデメリットがおおきく、周辺しゅうへんこく反応はんのうおよごしであった。

そんななか、サルデーニャおうカルロ・アルベルト唯一ゆいいつ反乱はんらんぐんへの公的こうてき支援しえん約束やくそくして軍勢ぐんぜい出陣しゅつじんさせた。このときをもって、イタリア統一とういつ戦争せんそう火蓋ひぶたられた(だいいちイタリア統一とういつ戦争せんそう)。ヴィットーリオもおう太子たいしとしてぐん一翼いちよくあづけられ、パストレンゴのたたか (itゴイトのたたか (en足立あしだつオーストリアぐんやぶり、兵士へいし将校しょうこうだん捕虜ほりょにした。反乱はんらんぐん歓声かんせいともにミラノへ入城にゅうじょうしたサルデーニャぐんであったが、ここでちちカルロ・アルベルトは共和きょうわ主義しゅぎ反乱はんらんぐん真意しんいうたがい、同盟どうめいぐん合流ごうりゅう拒否きょひするという愚行ぐこうおかした。

やがて、体勢たいせいなおしたオーストリアぐんばいちかかずがえしてくると、カルロ・アルベルトは反乱はんらんぐんいて単独たんどく出陣しゅつじんしてしまう。ヴィットーリオも参加さんかしたクストーツァのたたかでサルデーニャぐん勇戦ゆうせんするもののやぶれ、ミラノに後退こうたいいられた。そしてここにいたってもガリバルディやマッツィーニ、マニンら共和きょうわ信用しんようしないカルロ・アルベルトによって、反乱はんらんぐんとサルデーニャぐん各個かっこ撃破げきはる(ノヴァーラのたたかブレシアのたたかヴェネツィアのたたか)。

戦争せんそう終結しゅうけつ権威けんい失墜しっついさせたカルロ・アルベルトは存命ぞんめいちゅう退位たいいという屈辱くつじょくれ、ヴィットーリオ・エマヌエーレに王位おういゆずった。ヴィットーリオは3だいまえ君主くんしゅもらいヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいとして即位そくいし、難局なんきょく最中さいちゅうにある王国おうこくひきいていくことになる。

クリミア戦争せんそう

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セバストポリの攻囲こういせん

1852ねんカヴールおよびチェッラレンゴおよびイゾラベッラ伯爵はくしゃくカミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ通称つうしょうカヴールはくもしくはカミッロ・カヴールだが、カヴールは爵位しゃくいめいでありせいではない。せいはベンソである。)を王国おうこく宰相さいしょう任命にんめいしたエマヌエーレ2せいは、統一とういつ事業じぎょうをいかにすすめるか、対策たいさく協議きょうぎすることになった。カヴールのもとしょ外国がいこくとの入念にゅうねん根回ねまわしがすすめられ、またさき反省はんせいから共和きょうわ勢力せいりょくとも一定いってい距離きょりきつつも協力きょうりょくはかられた。翌年よくねんロシアオスマン帝国ていこくという東方とうほう大国たいこく同士どうし衝突しょうとつはじめると、ロシアの南下なんか危機ききかんいたフランスイギリスがオスマンがわって参戦さんせんし、クリミア戦争せんそうへと発展はってんした。サルデーニャ王国おうこくえいふつへの支援しえんという名目めいもくで、1まん5000めい遠征えんせいぐんをクリミア戦争せんそう派遣はけんする決定けっていくだした。

当初とうしょ外交がいこう政策せいさくちかられていたカヴール自身じしんはオスマンがわ勝利しょうり外交がいこうてき意義いぎ疑問ぎもんいており、むしろこの遠征えんせいつよすすめたのはヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいほうであった。到着とうちゃくしたサルデーニャ王国おうこくぐん最大さいだい激戦げきせんとなっていたセバストポリ要塞ようさいへのそう攻撃こうげき投入とうにゅうされ、無傷むきず増援ぞうえん部隊ぶたいつかてていたえい仏土ぶつどぐんにとって貴重きちょう援軍えんぐんとなった(セバストポリの攻囲こういせん)。要塞ようさい陥落かんらく、フランスにおける皇帝こうてい記念きねんであり、サルデーニャにおける聖母せいぼ昇天しょうてん祭日さいじつであるにロシアぐん奇襲きしゅうおこなわれたが、サルデーニャぐんミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ将軍しょうぐん攻撃こうげきふせぎ、ロシアぐん陣地じんちへとかえ功績こうせきのこした。

期待きたい以上いじょう活躍かつやくせることに成功せいこうしたサルデーニャぐんであったが、肝心かんじんのクリミア戦争せんそう実質じっしつてきいたけという結果けっかわった。外交がいこうめんではフランスやイギリスとの友好ゆうこう関係かんけいたかめることはできたものの、この時点じてんでは具体ぐたいてき支援しえん約束やくそくするまでにはいたらなかった。だがえいふつとの協力きょうりょく関係かんけいくわえてどう戦争せんそうでのオーストリアの孤立こりつは、のちにカヴールによるプロンビエールの密約みつやくへのあしがかりともなった。協定きょうていで、オーストリアに打撃だげきあたえるためにフランスはサルデーニャを支援しえんし、またサルデーニャは参戦さんせん口実こうじつとなる相手あいてからの開戦かいせんすようにもとめられた。

予定よていどおロンバルディアヴェネト平定へいていすればサルデーニャが同地どうち併合へいごう見返みかえりにニースサヴォワがフランスへゆずられる約束やくそくとなった。

イタリア統一とういつ

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ソルフェリーノのたたか

1859ねん万全ばんぜん体勢たいせいととのえたサルデーニャぐんついに11ねんまえ復讐ふくしゅうたすべく行動こうどう開始かいし総動員そうどういんれいによってオーストリアを挑発ちょうはつし、相手あいてにも総動員そうどういんれい発動はつどうさせることに成功せいこうした。

開戦かいせん時点じてんでサルデーニャぐん7まんめいたいしてオーストリアぐんは24まんめいえており、フランスがさき密約みつやくしたがって15まんめい援軍えんぐんおくっても、まだりょうぐん上回うわまわ戦力せんりょくゆうしていた。しかし、予想よそうしていなかった増援ぞうえん混乱こんらんするオーストリアぐんは、モンテベッロのたたかすうてき有利ゆうりかせずに敗退はいたいさらガリバルディ共和きょうわ義勇ぎゆうへいアルプスりょう兵隊へいたい (en結成けっせいすると、オーストリアぐんヴァレーゼのたたか (enかれらにもやぶった。いきおいにるサルデーニャ・フランス連合れんごうぐんはオーストリアぐんをサルデーニャ国境こっきょうからはらうと、そのままロンバルディア平定へいていけたたたかいにのぞんだ。

ソルフェリーノのたたかで、サルデーニャ・フランス連合れんごうぐん激戦げきせんすえにオーストリアぐんやぶり、オーストリアぐんはロンバルディアから敗走はいそうしていった。歓喜かんきくサルデーニャぐんであったが、予想よそう以上いじょう戦果せんか自軍じぐん損害そんがいに慄いたフランス皇帝こうていナポレオン3せいは、ロンバルディアのみをサルデーニャへ割譲かつじょうするかたちたたかいをおわらせようと単独たんどく交渉こうしょうはじめた。1860ねん3がつ、やむなくヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいトリノ条約じょうやく (en締結ていけつ、フランスを経由けいゆするかたちでロンバルディア領有りょうゆうをオーストリアにみとめさせるのを優先ゆうせんした。しかしそのうえで、協定きょうてい違反いはんとしてニース・サヴォワの割譲かつじょうをフランスにげさせることにも成功せいこう、またこのフランスの裏切うらぎりともべる行為こういによってイタリア統一とういつ機運きうんたかまり、それまでサルデーニャ王国おうこく反抗はんこうてき態度たいどあらわしていた中部ちゅうぶパルマ公国こうこくモデナ公国こうこくトスカーナ大公たいこうこく住民じゅうみん投票とうひょう結果けっかサルデーニャ王国おうこくへの合流ごうりゅう決定けっていした。 サルデーニャ王国おうこく教皇きょうこうりょうレガツィオーネ地区ちく占領せんりょうしてさきの3公国こうこくわせて併合へいごう中央ちゅうおう統合とうごうしょしゅう樹立じゅりつさせるなど、対価たいか獲得かくとくした。

テアーノの握手あくしゅ

のちにヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいはニース・サヴォワの割譲かつじょう履行りこう条件じょうけんに、中部ちゅうぶイタリア連邦れんぽう併合へいごうをフランスに承認しょうにんさせ、中部ちゅうぶイタリアのだい部分ぶぶん併合へいごうした。ヴェネト領有りょうゆうはならなかったものの、サルデーニャ王国おうこくおおきく領土りょうど拡大かくだい、イタリア地方ちほうの3ぶんの1を支配しはいする大国たいこくとして存在そんざいかんしていった。イタリア統一とういつ目前もくぜんせまりつつあったが、教皇きょうこうりょう残余ざんよりょうシチリア王国おうこくたいする処遇しょぐうめぐって国内こくない対立たいりつした。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい結論けつろんまえ行動こうどうこしたのがガリバルディであった。かれはアルプスりょう兵隊へいたい一部いちぶ再編さいへんしてあかシャツたい創設そうせつすると、りょうシチリアの農民のうみん反乱はんらんぐん支援しえんするべく、シチリアとう密航みっこうした。現地げんち駐留ちゅうりゅうしていたりょうシチリアぐんはらい、農民のうみん反乱はんらんぐんまとげたガリバルディは、シチリア全土ぜんど占領せんりょうして「シチリアのまもるみんかん」への就任しゅうにん宣言せんげんした。そのまま本土ほんど部分ぶぶんんだガリバルディぐんおうナポリに入城にゅうじょうするいきおいをせると、共和きょうわ勢力せいりょく拡大かくだいおそれたヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいみずからもりょうシチリアへの進軍しんぐん決意けついした。その過程かていで、教皇きょうこうりょうはローマをのこしてすべ没収ぼっしゅうしたため、教皇きょうこうからヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい破門はもん処分しょぶんけたが、いま教会きょうかい破門はもん情勢じょうせいうごかすだけのちからかった。

教皇きょうこうりょう接収せっしゅうえるとりょうシチリアぐんとの決戦けっせんのぞみ、ガリバルディぐんともにこれを撃破げきはして、りょうシチリア王国おうこくほろぼした。事実じじつじょう、ヴェネト以外いがいすべての地域ちいきがイタリアじん支配しはいしゃしたかれたことになるが、今度こんど共和きょうわおう党派とうはという対立たいりつ再燃さいねん危惧きぐされた。サルデーニャぐんとガリバルディぐんにらみあうなか、テアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいはガリバルディとの会見かいけんおうじた。ガリバルディは謁見えっけんで「ここにイタリアのおうがおられるのだ!」と宣言せんげんすると、すべての領土りょうどをサルデーニャ王国おうこく献上けんじょうした(テアーノの握手あくしゅイタリアばん)。ガリバルディの決断けつだんによって最悪さいあく事態じたい回避かいひされ、ヴェネトとローマをのぞくイタリアのだい部分ぶぶん統合とうごうされた。

1861ねん2がつ18にち、サルデーニャ王国おうこくおうトリノでだい1かいイタリア国民こくみん議会ぎかいひらかれ、一堂いちどうかいした有力ゆうりょく諸侯しょこう政治せいじは、全会ぜんかい一致いっちでヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいのイタリアおうへの即位そくい承認しょうにんした(イタリア王国おうこく)。王国おうこく首都しゅと投票とうひょうによりフィレンツェとされた。

ヴェネツィア奪還だっかんとローマ遷都せんと

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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい記念きねんどう

イタリア王国おうこく成立せいりつも、オーストリア支配しはいにとどまったヴェネトみなみチロルなどの領域りょういき回収かいしゅうのイタリア)の統合とうごうもとめたイレデンティズモ(Irredentismo民族みんぞく統一とういつ主義しゅぎ)がかかげられ、統一とういつ戦争せんそう継続けいぞく模索もさくされた。1866ねんプロイセンみなみドイツからのハプスブルク放逐ほうちく目論もくろんでひろしおう戦争せんそう開始かいしすると、イタリア王国おうこくはプロイセンと同盟どうめい同盟どうめい)をむすんでオーストリアとの戦端せんたんひらいた(だいさんイタリア独立どくりつ戦争せんそう)。これは、サルデーニャぐん中心ちゅうしんりょうシチリアぐん中部ちゅうぶ諸侯しょこうぐん教皇きょうこうぐん統合とうごうしてあらたに結成けっせいされたイタリア王国おうこくぐん最初さいしょ戦争せんそうであった。

結論けつろんからえば、統合とうごうからすうねんぎない状況じょうきょうでは王国おうこくぐん整理せいり統合とうごう十分じゅうぶんすすんでおらず、とく指揮しきかん階層かいそうがサルデーニャ王国おうこくぐん出身しゅっしんしゃ独占どくせんされる状況じょうきょうぐんない多大ただい不和ふわまねいた。「サルデーニャばつ」の筆頭ひっとうであったサルデーニャ王国おうこくぐんもとそう司令しれいかんアルフォンソ・フェレッロ・ラ・マルモラ元帥げんすいは、12まんめいからなるミンキオ方面ほうめんぐん(Italian Mincio Army)をひきいてヴェネトへ進軍しんぐんした。緒戦しょせん順調じゅんちょうにヴェネツィア目前もくぜんまですすみ、むかアルブレヒト大公たいこう指揮しきのオーストリア南部なんぶぐん7まんめいと、因縁いんねんクストッツァで再戦さいせんした(だいクストッツァのたたか英語えいごばん)。ミンキオ方面ほうめんぐん足並あしなみがそろわず、致命ちめいてきでこそなかったものの敗北はいぼくきっする結果けっかおわった(がわ損害そんがい8147めいおうがわ損害そんがい5650めい)。どう時期じきおこなわれたリッサ海戦かいせんでも海軍かいぐん手痛ていた敗北はいぼくあじわっており、エマヌエーレ2せいぐん統合とうごうすすんでいないことを痛感つうかんすることとなった。

唯一ゆいいつガリバルディ招集しょうしゅうしたアルプスりょう兵隊へいたい英語えいごばんのみがベッツェッカのたたか勝利しょうりおさめ、トレントけて進軍しんぐんしていた。しかし、クストッツァとリッサの敗戦はいせんにより戦線せんせんなおしが必要ひつようとなったため、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいはガリバルディに撤退てったいめいじた。戦争せんそうはプロイセンの攻勢こうせいによりオーストリアが降伏ごうぶくし、イタリアは戦勝せんしょうこくおさまったため、ヴェネトはイタリアに割譲かつじょうされることとなった。エマヌエーレ2せいとガリバルディの微妙びみょう不和ふわつづき、ローマ遷都せんととも切望せつぼうしながらも、しょ外国がいこく情勢じょうせいからうごかなかったヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいたいして、ガリバルディは個人こじんてき義憤ぎふんとしてローマ占領せんりょう計画けいかくした。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいはガリバルディとかれ部隊ぶたい武装ぶそう解除かいじょもとめ、ガリバルディがこれにしたがうと丁重ていちょう根拠地こんきょちへとおくかえした。

1870ねん、プロイセンはフランスと戦争せんそう開始かいしし(ひろしふつ戦争せんそう)、教皇きょうこうりょう外交がいこうてきうしたて消失しょうしつした。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい慎重しんちょう時期じきをうかがっていたローマ占領せんりょう実行じっこううつし、これでヴェネト・ローマ併合へいごうというイレデンティズモ最大さいだい目標もくひょう達成たっせいして、みずからの統一とういつ事業じぎょう区切くぎりをつけた。1871ねん7がつ2にちクィンナーレみやあらたなサヴォイア王宮おうきゅうとして接収せっしゅうし、これをもっておうみやこはフィレンツェからローマへと遷都せんとされた。

晩年ばんねん

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晩年ばんねんのエマヌエーレ2せい統治とうちは、立憲りっけん議会ぎかい監督かんとくなど、比較的ひかくてきおだやかでしずかなものへとわった。前妻ぜんさい病没びょうぼつはローザ・テレーザ・ヴェルチェッラーナ・グエッリエーリというわらわ生活せいかつして、私生児しせいじエマヌエーレ・アルベルトをもうけた。アルベルトにはミラフィオーリおよびフォンタナフレッダ伯爵はくしゃく称号しょうごう領地りょうちあたえている。

教皇きょうこうピウス9せいは、国王こくおうたいする破門はもんのみは直前ちょくぜんすと約束やくそくしていたので、エマヌエーレ2せい危篤きとくさいして、教皇きょうこう秘跡ひせきあたえるため高位こうい聖職せいしょくしゃつかわした。しかし長年ながねん対立たいりつ教皇きょうこうへの不信ふしんかんつよめたエマヌエーレ2せいはこの聖職せいしょくしゃから秘跡ひせきけることをこばみ、みずか選定せんていした聖職せいしょくしゃから秘跡ひせきけ、のぞんだ。1878ねん、57さい波乱はらん人生じんせいまくろし、遺骸いがい古代こだいローマ時代じだい多神教たしんきょう信仰しんこうにおける中心ちゅうしんであったローマ市内しないパンテオン(まん神殿しんでん埋葬まいそうされた。

まん神殿しんでんへの埋葬まいそうローマ・カトリック教会きょうかいとの対立たいりつから、1148ねん崩御ほうぎょしたアメデーオ3せい時代じだいから伝統でんとうてきサヴォイア埋葬まいそうとしてきたオートコンブ修道院しゅうどういんへの正式せいしき埋葬まいそうおこなえなかったことたいし、王子おうじウンベルト1せい発案はつあんしたちちおうへのはからいであった。しかし結果けっかとしてヤハウェイエスしたほうむられた歴代れきだい当主とうしゅことなり、破門はもんされた異端いたんしゃであるエマヌエーレ2せいはそれらと同格どうかくかみとして盛大せいだい式典しきてんによってほうむられたのである。リソルジメント神話しんわされる過程かてい民衆みんしゅうあいだでもエマヌエーレ2せい墓所はかしょ参拝さんぱいするなど民間みんかん信仰しんこううごきもられた。

1911ねん、ローマ中心ちゅうしんにエマヌエーレ2せいまつ聖堂せいどうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい記念きねんどう、アルターレ・デッラ・パトリア)が建設けんせつされ、エマヌエーレ2せいにはdella Patria国父こくふ)の称号しょうごう追贈ついぞうされた。

一族いちぞく

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祖先そせん

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子女しじょ

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エマヌエーレ2せい愛人あいじんローザ・ヴェルチェッラーナ、そのどもたち

1842ねんハプスブルクライナー・ヨーゼフ(ラニエーリ)大公たいこう神聖しんせいローマ皇帝こうていレオポルト2せい)の末子まっし従妹じゅうまいたるマリア・アーデルハイト(マリーア・アデライデ)と結婚けっこんし、8をもうけた。

1869ねん11月7にち愛妾あいしょうローザ・テレーザ・ヴェルチェッラーナ・グエッリエーリ英語えいごばんRosa Teresa Vercellana Guerrieri)と再婚さいこん。1成人せいじんした。

何人なんにんものわらわかかえていたとされており、落胤らくいん自称じしょうするものえなかったという。

肖像しょうぞうなど

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 367にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん解説かいせつ”. コトバンク. 2018ねん2がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  •  この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Victor Emmanuel II.". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 28-30.
  • Del Boca, Lorenzo (1998). Maledetti Savoia. Casale Monferrato: Piemme 
  • Gasparetto, Pier Francesco (1984). Vittorio Emanuele II. Milan: Rusconi 
  • Godkin, G. S. (1880). Life of Victor Emmanuel II. Macmillan 
  • Mack Smith, Denis (2000). Storia d'Italia. Rome-Bari: Laterza. ISBN 88-420-6143-3 
  • Mack Smith, Denis (1995). Vittorio Emanuele II. Milan: Mondadori 
  • Pinto, Paolo (1997). Vittorio Emanuele II: il re avventuriero. Milan: Mondadori 
  • Rocca, Gianni (1993). Avanti, Savoia!: miti e disfatte che fecero l'Italia, 1848-1866. Milan: Mondadori 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
カルロ・アルベルト
サルデーニャ国王こくおう
1849ねん - 1861ねん
次代じだい
消滅しょうめつ
先代せんだい
新設しんせつ
イタリア国王こくおう
1861ねん - 1878ねん
次代じだい
ウンベルト1せい