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ノヴァーラのたたかい (1849ねん)

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ノヴァーラのたたか
だいいちイタリア独立どくりつ戦争せんそう
en:First Italian War of Independenceなか

ノヴァーラのたたかいにおけるラデツキーと部下ぶか
アルブレヒト・アダム作品さくひん (1855ねん)
とき1849ねん3月22にち - 3月23にち
場所ばしょサルデーニャ王国おうこく(ピエモンテ)・ノヴァーラ
現在げんざいイタリア

北緯ほくい4525ふん53びょう 東経とうけい842ふん58びょう / 北緯ほくい45.43139 東経とうけい8.71611 / 45.43139; 8.71611
結果けっか オーストリア帝国ていこく勝利しょうり
サルデーニャおうカルロ・アルベルト退位たいい
衝突しょうとつした勢力せいりょく
ピエモンテ-サルデーニャ オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ていこく
指揮しきかん
en:Wojciech Chrzanowski = ジョバンニ・デュランドイタリアばん = エンリコ・チャルディーニ オーストリア帝国の旗 ヨーゼフ・ラデツキー
戦力せんりょく
45,000 infantry
2,500 cavalry
109 guns[1][よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
70,000 infantry
5,000 cavalry
141 guns[2]
被害ひがいしゃすう
578 死者ししゃ
1,405 負傷ふしょう
409 捕虜ほりょまたは行方ゆくえ不明ふめい[3]
410 死者ししゃ
1,850 負傷ふしょう
963 捕虜ほりょまたは行方ゆくえ不明ふめい[3]

ノヴァーラのたたかまたはビコッカのたたか(ビコッカはノヴァーラの自治じち)は、イタリア統一とういつ運動うんどう時代じだいに、だいいちイタリア独立どくりつ戦争せんそうなかで、オーストリア帝国ていこくサルデーニャ王国おうこくあいだおこなわれたたたかい。

1849ねん3がつ22にち終日しゅうじつつづき、3月23にち夜明よあけにわり、ピエモンテ(サルデーニャぐん深刻しんこく敗北はいぼく撤退てったいをもたらした。

概観がいかん

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1848ねんのオーストリア帝国ていこくとサルデーニャ王国おうこく不安定ふあんてい休戦きゅうせんは7ヶ月かげつあいだつづき、サルデーニャおうカルロ・アルベルトは1849ねん3がつ12にち休戦きゅうせん終了しゅうりょう通告つうこくした。オーストリア帝国ていこくぐんがロンバルディアで軍事ぐんじてき主導しゅどうけんにぎった。陸軍りくぐん元帥げんすいヨーゼフ・ラデツキーの指揮しきで、要塞ようさいまちモルタラを占領せんりょうした。

モルタラの占領せんりょうにより、ミラノから西にしに28マイルにあるノヴァーラでオーストリアぐんとピエモンテぐんたたかいが勃発ぼっぱつした。かず武装ぶそうが45,000のピエモンテぐんよりもすぐれている、70,000のオーストリアぐんが、1848ねんのクストーツァのたたか同様どうように、てき徹底的てっていてき敗走はいそうさせた。ピエモンテはまた、イタリアのちいさなしゅうからの支援しえん不足ふそくくるしんでいた。ジロラモ・ラモリノ将軍しょうぐんは、ノヴァーラのたたかいのまえ命令めいれいしたがわなかったとして告発こくはつされ、そのおなねん処刑しょけいされた。

ピエモンテはアルプスのふもとのボルゴマネロにいやられ、オーストリアぐんはノヴァーラ、ヴェルチェッリ、トリノ占領せんりょうして、ピエモンテの首都しゅとトリノまでのみちひらかれた。

余波よは

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オーストリアの将軍しょうぐんジュリアス・ジェイコブ・フォン・ハイナウはミラノの北東ほくとう54マイルのブレジアの反乱はんらん鎮圧ちんあつして、カルロ・アルベルトは退位たいいして息子むすこヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい跡継あとつぎにした。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいのちに、統一とういつイタリアの最初さいしょ国王こくおうになった。

フリードリヒ・エンゲルスは「この敗北はいぼくでトリノ共和きょうわこく革命かくめい布告ふこく予想よそうされるが、カルロ・アルベルトが退位たいいして長男ちょうなん跡継あとつぎにしたことでそれを阻止そしせんとするこころみがなされているという事実じじつによりしょうじる」といた[4]。すでにローマ共和きょうわこくが2がつ宣言せんげんされ、ヴェネツィア共和きょうわこくサン・マルコ共和きょうわこく)も存在そんざいしていたもののピエモンテ共和きょうわこく設立せつりつされなかった。カルロ・アルベルトはポルトガル王国おうこくのポルトに亡命ぼうめいして、もなく崩御ほうぎょした。

8がつ9にち平和へいわ条約じょうやく締結ていけつされ、ピエモンテはオーストリアに6500まんフランの賠償金ばいしょうきん支払しはらうことを余儀よぎなくされた。たたかいの再現さいげん毎年まいとしこっている[5]。1857ねんから1859ねんあいだ世界せかい一周いっしゅう科学かがく遠征えんせいおこなったオーストリアのフリゲふりげト艦とかんノヴァーラは、このオーストリアの勝利しょうりにちなんで名付なづけられた[6]

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ P. Pieri, Storia militare del Risorgimento, vol. I, p. 303.
  2. ^ P. Pieri, Storia militare del Risorgimento, vol. I, p. 304.
  3. ^ a b P. Pieri, Storia militare del Risorgimento, vol. I, p. 311.
  4. ^ Engels, Friedrich (April 1849). “The Defeat of the Piedmontese”. Neue Rheinische Zeitung. オリジナルの2014ねん4がつ27にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140427210404/http://www.marxists.org/archive/marx/works/1849/03/31a.htm 2018ねん8がつ8にち閲覧えつらん 
  5. ^ Novara Risorgimentale 2007 Archived November 25, 2005, at the Wayback Machine.
  6. ^ The Austrian Imperial Frigate SMS Novara Archived 2005-06-15 at the Wayback Machine.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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