マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア

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マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア
Maria Clotilde di Savoia
サヴォイア
1859ねん
在位ざいい 1859ねん1がつ30にち - 1891ねん3がつ17にち

ぜん Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia
称号しょうごう サヴォイアおおやけマリー・クロティルデ王女おうじょ殿下でんか (1843-1859)
マリー・クロティルデ・ボナパルト皇太子こうたいし殿下でんか (1859-1911)
敬称けいしょう ケキーナ
サヴォイアおおやけ
シスター・マリー・カテリーネ
出生しゅっしょう (1843-03-02) 1843ねん3月2にち
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国おうこくトリノ
死去しきょ (1911-06-25) 1911ねん6月25にち(68さいぼつ
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくモンカリエーリ
埋葬まいそう イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくトリノスペルガ聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト
子女しじょ ヴィクトル
ルイ
マリー・レティシア
家名かめい サヴォイア
父親ちちおや イタリアおうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい
母親ははおや マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ
宗教しゅうきょう カトリック
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ルドヴィカ・テレーザ・マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアイタリア: Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia, 1843ねん3月2にち - 1911ねん6月25にち)は、サヴォイア王女おうじょイタリアおうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいハプスブルク大公たいこうおんなマリーア・アデライデむすめである。フランス語ふらんすごルイーズ・テレーズ・マリー・クロティルド・ド・サヴォワLouise Thérèse Marie Clotilde de Savoie)。

マリーア・クロティルデは敬虔けいけんカトリック教徒きょうととしてられ、ローマ教皇きょうこうピウス12せいは1942ねん7がつ10日とおかにクロティルデをかみのしもべとすることを宣言せんげんした[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう青年せいねん[編集へんしゅう]

幼少ようしょうのクロティルデ(みぎはし)と弟妹ていまいウンベルトアマデオオッドーネマリア・ピア(1848ねん[ちゅう 1]
1852ねん当時とうじのトリノ王宮おうきゅう(1852ねん版画はんがこのころフランスではだい帝政ていせいはじまった。
モンカリエーリじょう航空こうくう写真しゃしん(2005ねん撮影さつえいクロティルデは幼少ようしょうからここでなが時間じかんごし、のちにおわりの棲家とした。

マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアは1843ねん3がつ2にちトリノ王宮おうきゅうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい当時とうじ皇太子こうたいし)とマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ長女ちょうじょとしてまれた。その夫婦ふうふにはななにん子供こどもまれた。それはウンベルト(1844ねん - 1900ねん)、アマデオ(1845ねん - 1890ねん)、オッドーネ・マリア・デ・サヴォイア(1846ねん - 1866ねんマリア・ピア・デ・サボイア(1847ねん - 1911ねん)、カルロ・アルベルト(1851ねんまれ)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ(1852ねん生後せいごあいだもなく死去しきょ)とかれ同名どうめいのもう一人ひとり(1855ねんまれ、すうねん死去しきょ。)である。アデライデは育児いくじ乳母うば看護かんごまかせず、カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイアつま義母ぎぼマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナとともにむすめモンカリエーリじょうなが時間じかんごした。クロティルデはおさなころからおだやかで決断けつだんりょくのある性格せいかくしめし、いのることをまなび、カトリックおしえにもとづいた生活せいかつスタイルをきずいた[3]

クロティルデは周囲しゅういからChechina(ケキーナ)という愛称あいしょうばれ、貴族きぞくとしてのみちあゆはじめた。彼女かのじょ日課にっか厳格げんかくさだめられ、高名こうみょう教授きょうじゅえらんだ家庭かてい教師きょうしによる授業じゅぎょうおこなわれ、精神せいしん修養しゅうようくわえて、余暇よかには彼女かのじょとくこのんだ乗馬じょうばなどをおこなった[4]。これらの日課にっかおくるにあたっては、家政かせいのパオリーナ・ディ・プリオラのささえもあった。後年こうねん、クロティルデはプリオラの曾孫そうそんむすめ一人ひとりったときのことをなつかしくおもしている[5]。その一方いっぽうで、クロティルデは最初さいしょ秘蹟ひせきける準備じゅんび注意深ちゅういぶかすすめていた。これについては聖体せいたい拝領はいりょうしき前月ぜんげつかれたさんさつのノートがのこっている。それらをむと、すでに彼女かのじょ人格じんかくはしっかりと形成けいせいされており、人生じんせいのあらゆる局面きょくめんにおいてかみ優先ゆうせんしようと決意けついしていたことがかる。いちさつのノートには、以下いか抜粋ばっすいするように10さい少女しょうじょにしてはめずらしく王女おうじょとしての敬虔けいけん態度たいどがあらわれている。

わたしは)ちいさな試練しれんとうじます:自分じぶん不快ふかいおもうことを愛想あいそよくやりげています - 毎日まいにちまった時刻じこくかみ存在そんざいおもすこと、ちいさな試練しれんれること、そしてつねまずしい人々ひとびとのためにわたしたのしみの一部いちぶ放棄ほうきすることです[6]

1853ねん6がつ11にち、ストゥピニジ教区きょうく教会きょうかいにて聖体せいたい拝領はいりょうけんしん合同ごうどう式典しきてんがジェノヴァ大司教だいしきょうのアンドレア・シャルバスによっておこなわれ、同時どうじ彼女かのじょおとうとのウンベルトにも秘蹟ひせきさづけられた[7]

あいだもなく、クロティルデ自身じしんにもいつかるであろうとひそかに予期よきしていた試練しれんおとずれる。1855ねんには日々ひび喜捨きしゃ行為こういくわえてよっつのわかれがあった。1月12にちには祖母そぼマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナ死去しきょし、その葬儀そうぎおこなわれた16にちよるははのアデライデが虫垂炎ちゅうすいえん発症はっしょうしてゆかし、クロティルデが最期さいごわかれをげたにちった[ちゅう 2]。さらに、2がつ11にちには叔父おじのジェノヴァこうフェルディナンド・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイアに、5月にはおとうとのヴィットーリオ・エマヌエーレが夭折ようせつした[9]

クロティルデは、日記にっき当時とうじ書簡しょかん、のちにかれた回想かいそうろくなどからわかるように、信仰しんこうという武器ぶきくるしみにかい、より一層いっそう信仰しんこうしんふかめた。そのドミニコかい修道しゅうどうのジョヴァンニ・トンマーゾ・ギラルディ、モンドヴィ司教しきょうのチェーザレ・ロッリ、修道院しゅうどういんちょうのスタニスラオ・ガゼッリらの協力きょうりょく精神せいしん修養しゅうようつづけた[10]同時どうじに、クロティルデはそのマナーのさでも賞賛しょうさんされた。1856ねん5がつには、クリミア戦争せんそう渦中かちゅうにあったサヴォイアとロシアとの関係かんけい改善かいぜんのためにトリノをおとずれたアレクサンドラ・フョードロヴナレセプションで、クロティルデはサヴォイアファーストレディとしての責務せきむった。さらに、1857ねん12月にはロシア皇帝こうていアレクサンドル2せいおとうとであるロシア大公たいこうコンスタンチン・ニコラエヴィチ訪問ほうもんさいにもおな役目やくめたさなければならなかった。クロティルデは、のちにこの度目どめ体験たいけんについて、随行ずいこうしていたニコラエヴィチのおさな息子むすこニコライ・コンスタンチノヴィチについて以下いかのような同情どうじょうてきなコメントをのこしている。

かえりがけに、わたしたちの親愛しんあいなる友人ゆうじんはドイツにかう途中とちゅう自分じぶん名前なまえった親族しんぞくのアルバムをせてくれました...(中略ちゅうりゃくかれはとてもやさしい好人物こうじんぶつでした[11]

結婚けっこん[編集へんしゅう]

ナポレオン・ジェロームとクロティルデ(1904ねん出版しゅっぱんぶつより)
1859ねん発行はっこうされた結婚けっこん記念きねんコイン[12]

1858ねんサルデーニャ王国おうこく首相しゅしょうカミッロ・カヴールピエモンテしゅう外交がいこう政策せいさくをたくみに運営うんえいしていた。当時とうじのフランス皇帝こうていナポレオン3せいリベラリストであり、イタリアのリソルジメント理解りかいしめしていたため、カヴールはフランスとの同盟どうめい形成けいせいちからそそぎ、7がつ21にちにんヴォージュけん温泉おんせん保養ほようとしてられるプロンビエール=レ=バン秘密ひみつうら会談かいだんし、有名ゆうめいプロンビエールの密約みつやく締結ていけつした。

ナポレオン3せいはサルデーニャにたいする援助えんじょ見返みかえりとして、ニースサヴォワ割譲かつじょう要求ようきゅうしたが、これはのちにだいイタリア独立どくりつ戦争せんそうへのがねとなった。さらに皇帝こうていはいとこのナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト(ナポレオン・ジェローム) が統治とうちする中央ちゅうおうイタリア王国おうこくへの援助えんじょ約束やくそくした。しかし、これを実現じつげんするためにはナポレオン・ジェロームとサヴォイア王女おうじょとの縁組えんぐみ必要ひつようであり、その判断はんだん花嫁はなよめ候補こうほのクロティルデにゆだねられた[13]。しかしながら、当時とうじクロティルデは15さいであり、イタリアで結婚けっこんゆるされる16さいになるまでいち年間ねんかんたなければならなかった。

皇帝こうていはこの縁組えんぐみ協定きょうてい必須ひっす条件じょうけんとはしなかったが、カヴールにはこれを拒否きょひすればどれほどおおくの支援しえん反故ほごになるか容易ようい想像そうぞうできた[14]。ナポレオン・ジェロームは花嫁はなよめ候補こうほよりも21さい年上としうえであったが、それだけではなく、この縁組えんぐみを「ゾウガゼル結婚けっこん」と揶揄やゆするものもいるほど、二人ふたり人生じんせいかんはまったくことなっていた。ナポレオン・ジェロームはわかころから自由じゆう謳歌おうかしており、性格せいかく謙虚けんきょ陽気ようきだったが、しばしばつか恋愛れんあいにのめりこんでカトリックの戒律かいりつから程遠ほどとお生活せいかつおくり、むしろ戒律かいりつ反感はんかんいていた。かれ政治せいじてき立場たちばはん教皇きょうこう民主みんしゅてきであり、周囲しゅういからは「あか王子おうじ」、「プロン=プロン」(Plon - Plon)などとばれていた。一方いっぽう、クロティルデは王女おうじょとしての義務ぎむかんと、祖国そこく父親ちちおやすくうという使命しめいかんにあふれていた。

カヴールはイタリアにもどるとヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい会談かいだんし、かれにプロンビエールの協定きょうてい詳細しょうさいについて花嫁はなよめ候補こうほ説明せつめいする任務にんむ委任いにんした。父親ちちおやからこと次第しだいいたクロティルデはガレッシオカゾット王宮おうきゅうからカヴールてに書簡しょかんおくり、この縁組えんぐみたいする生理せいりてき嫌悪けんおかん表明ひょうめいしつつ、その政治せいじてき重要じゅうようせい理解りかいし、キリストへの信仰しんこう放棄ほうきすることを非常ひじょう丁寧ていねい筆致ひっちでしたためた。

わたしはもうなんかんがえました。しかし、ナポレオン王子おうじとの結婚けっこん非常ひじょう深刻しんこく問題もんだいで、なによりもわたしかんがえとせい反対はんたいです。親愛しんあいなる伯爵はくしゃく、それがくに将来しょうらいにとって、そしてなによりもわたしちちである国王こくおうにとって有利ゆうりとなる可能かのうせいがあることもわたしっています。...わたしはもう一度いちどかんがえてみます。そして、あるじあやまりなきすくいでわたしみちびいてくださることをねがっています。いまのところはすべてをおもにゆだねているので、わたしにはなにめることができません[15]
ピエモンテしゅうガレッシオにあるカゾット王宮おうきゅう(2021ねん撮影さつえいヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい夏季かき狩猟しゅりょう離宮りきゅうとして使用しようした。

クロティルデは8がつをカゾット王宮おうきゅうごし、返答へんとうについて瞑想めいそうし、9月にラッコニージもどると宗教しゅうきょう世俗せぞくにまみれたナポレオン・ジェロームのたましいかみもとすために結婚けっこん承諾しょうだくするという最終さいしゅう決断けつだんくだした。この選択せんたく政治せいじてき理由りゆうによって条件付じょうけんづけられたものであったが、それ以上いじょうにカヴールとナポレオン3せい祖国そこくがそれぞれもとめるものを意識いしきして殉教じゅんきょうてき遵守じゅんしゅすることにより、かみしん実現じつげんするという確信かくしんからされたものであった。後年こうねん、クロティルデはこの決断けつだん他者たしゃから強要きょうようされたものではなく、「わたしはナポレオン・ジェロームがしかったから結婚けっこんした。」とけている[16]

しかし、結婚けっこん承諾しょうだくするにあたって、クロティルデはひとつだけ条件じょうけんした。それはバージンロードあゆまえ婚約こんやくしゃうというものだった。ナポレオン・ジェロームの訪問ほうもん延期えんきされたため、そのあいだ、クロティルデはラッコニージをはなれてまちもどることができた。将来しょうらい配偶はいぐうしゃとの会見かいけんは1859ねん1がつ16にちにトリノでおこなわれ、クロティルデが提示ていじした最後さいご条件じょうけんたされたことで、せまった結婚式けっこんしき公式こうしきのものとなった。婚約こんやく発表はっぴょうは15さい少女しょうじょいのち支配しはいしゃ政治せいじてき陰謀いんぼう満足まんぞくさせるための犠牲ぎせいとなったことに憤慨ふんがいしたトリノ王宮おうきゅう廷臣ていしんたちの抗議こうぎ運動うんどうこした。イタリアの貴族きぞく女流じょりゅう作家さっかコンスタンツァ・ダゼーリオ息子むすこのエマヌエーレにてた書簡しょかんで、すべての階層かいそうがこの縁組えんぐみ非難ひなんしていることを表明ひょうめいしている。

貴族きぞくたちは劇場げきじょう記念きねん公演こうえんとカヴールが主催しゅさいする舞踏ぶとうかい欠席けっせきすることでそれを表明ひょうめいしました。

しかし、このデモののち群衆ぐんしゅう劇場げきじょう宮廷きゅうていかった。しかし、それは国王こくおうのために、そしてなによりも国民こくみん敬愛けいあいしているクロティルデの機嫌きげんそこなわないようにするためだった[17]

1859ねん1がつ23にちフランス元帥げんすいアドルフ・ニール将軍しょうぐんは、花嫁はなよめ父親ちちおやたいして正式せいしき結婚けっこん要請ようせいおこない、1がつ28にちにはヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい、ナポレオン・ジェローム、ナポレオン3せいさんしゃ会談かいだんでプロンビエール協定きょうてい調印ちょういんおこなわれた。1月30にち日曜日にちようびグアリーニ礼拝れいはいどうにて、ヴェルチェッリ大司教だいしきょうのアレッサンドロ・ダンジェンヌ司教しきょうによって結婚式けっこんしきおこなわれ、カザーレ・モンフェッラートノーリピネローロスーザかく教区きょうく教会きょうかいでも挙式きょしきされた。クロティルデは正式せいしき王冠おうかんぎ、持参じさんきんとして50まんリラ現金げんきん、30まんリラの宝石ほうせき、10まんリラの衣装いしょう持参じさんした[18]。ナポレオン3せいはこのヨーロッパ最古さいこ王朝おうちょうのひとつとの縁組えんぐみで、家名かめいたかめることもできた。

サヴォイア結婚式けっこんしきにおける恒例こうれい行事ぎょうじとして、神聖しんせい儀式ぎしきつづいてトリノ市庁舎しちょうしゃでの豪華ごうかなレセプションと盛大せいだいなパーティーがもよおされた。トリノの街路がいろではパレードやショーがおこなわれ、トリノやフランスのまずしい人々ひとびと多額たがく義援金ぎえんきん寄付きふされた。新婚しんこん夫婦ふうふ結婚式けっこんしき当日とうじつちゅうにトリノをち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい、カヴール、ラ・マルモラ汽車きしゃでジェノヴァにかい、夕方ゆうがたにはカルロ・フェリーチェ劇場げきじょうでのガラ・コンサート家族かぞくとともに出席しゅっせきし、観客かんきゃくから熱狂ねっきょうてきむかえられた。ランタンのしたばんねむったあと、クロティルデは父親ちちおやわかれをげ、マルセイユきのフリゲート「オルタンス王妃おうひごう」にり、フランスのパリにかった。2月4にち午後ごご、クロティルデは宮廷きゅうてい列車れっしゃプロヴァンス出発しゅっぱつし、翌朝よくあさフォンテーヌブローいた。ここでクロティルデは義父ぎふジェローム・ボナパルト義妹ぎまいマチルド・ボナパルトい、ついに同日どうじつよるにパリに到着とうちゃくし、テュイルリー宮殿きゅうでん皇帝こうてい夫妻ふさい歓迎かんげいけた[19]

パリにて[編集へんしゅう]

フランスの画家がかエルネスト・エベールによる全身ぜんしん肖像しょうぞう(1860ねん
1859ねん2がつ27にち、テュイルリー宮殿きゅうでん新婚しんこん夫婦ふうふ歓迎かんげいするフランス皇帝こうてい夫妻ふさい

クロティルデの侍女じじょ幼少ようしょうからの友人ゆうじんでもあるヴィラマリーナ伯爵はくしゃく夫人ふじんは、トリノでのらしとはかけはなれた生活せいかつ様式ようしきえられず、だい帝政ていせい歓楽かんらくあいする煌びやかな大都市だいとしをすぐにった。クロティルデにとっても、自分じぶん宗教しゅうきょうてき精神せいしんとはほとんど、むしろまったく共通きょうつうてんのない現実げんじつ直面ちょくめんして環境かんきょうへの適応てきおう困難こんなんをきわめ、当初とうしょ市民しみん冷淡れいたん対応たいおうにも複雑ふくざつおもいをいた。クロティルデは以下いかの「敬虔けいけんな」フランスじん女性じょせい構成こうせいされたあたらしい宮廷きゅうていまかされた[20]。それはオルタンス・テイヤー夫人ふじん、ベルトラン伯爵はくしゃく、ロシエール男爵だんしゃく夫人ふじん、クレルモン・トネール夫人ふじん[21]という面々めんめんである。クロティルデはおっと理解りかいられぬまま、宮廷きゅうていはなやかさとは裏腹うらはらチャリティー活動かつどう専念せんねんしながらフランスの大都市だいとしんだ。謙虚けんきょでありながらほこたかく、王族おうぞく出身しゅっしんではないウジェニー・ド・モンティジョ政府せいふ高官こうかんとのいをらすように提案ていあんし、「あなたにとっては大変たいへんではないですか?」ともうたとき、クロティルデはこうこたえた「マダム、あなたはわたしが宮廷きゅうていまれ、ちいさいころからこういうことにはれていることをわすれていますね[22]。」と、やがてえるであろうスペイン出身しゅっしん皇后こうごう自分じぶんたいする反感はんかんしめした[ちゅう 3]

一方いっぽう、ナポレオン・ジェロームは当初とうしょから公式こうしきのレセプションや自由じゆう使つかえる私的してきアパルトマンよるごし、パリがふんだんに提供ていきょうする社交しゃこうかい利用りようしてつまだますことをためらわなかった。ナポレオン・ジェロームは、わか義理ぎりむすめ可愛かわいがっていた父親ちちおやいもうとマチルド叱責しっせき[24]にもみみさず、またクロティルデが義父ぎふとヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい、カヴールをはや安心あんしんさせたい一心いっしん努力どりょくしてきたにもかかわらず、独身どくしん時代じだいからつづけてきた恋愛れんあい遊戯ゆうぎ再開さいかいした[25]。それにもめげず、クロティルデは3がつ26にちけの友人ゆうじんての書簡しょかんに「すばらしい」、「とてもしあわせ」としるしている。彼女かのじょ信仰しんこうしんはますます強固きょうことなり、自分じぶん政治せいじこまにされている現状げんじょうおっと不貞ふていにもなんとかえ、毎日まいにちパレ・ロワイヤルにある私設しせつ礼拝れいはいどうミサき、定期ていきてき病院びょういん病人びょうにん世話せわをした。

パリにおけるクロティルデの生活せいかつ完全かんぜんキリスト教きりすときょうささげられていた。まえべたように彼女かのじょ毎日まいにち私設しせつ礼拝れいはいどうでミサをき、病院びょういん病人びょうにん見舞みまいにき、「パレ・ロワイヤルの天使てんし」とばれた。いえではおっととの距離きょりなやまされたが、おっとはめったにわか女性じょせい孤独こどくやぶることはなく、自分じぶんのアパルトマンにこもることをこのんだ。1859ねん6がつ20日はつかにクロティルデがアウグスティヌスかい修道院しゅうどういん「デ・オワゾー」で自分じぶんを「マリアのむすめ」としてひじりべつしてからはそこに定期ていきてきかようようになり、そのさんにちには地元じもと聖心せいしん修道しゅうどうかい教会きょうかい入会にゅうかいし、彼女かのじょつね愛着あいちゃくいだつづける献身けんしん開始かいしした[26]

一方いっぽう、ナポレオン3せいウジェニーもカトリック教徒きょうとになることをのぞんでおり、クロティルデとはん教皇きょうこうてき立場たちば共有きょうゆうしていたものの、クロティルデほど厳格げんかくなものではなく、両者りょうしゃ認識にんしきにずれがあった。しかし、クロティルデはナポレオン・ジェロームの側近そっきんからあいされ、ジョルジュ・サンドエルネスト・ルナンなどの、はん教皇きょうこうてき立場たちば表明ひょうめいしていたフランスの文化ぶんかじんからもその良識りょうしき資質ししつみとめられた[27] · [28] · [29]

1858ねん発行はっこうされた義父ぎふジェローム・ボナパルトのコイン

1860ねん6がつ、クロティルデと円満えんまん関係かんけいきずいていた義父ぎふジェローム・ボナパルト体調たいちょう悪化あっかした。夫婦ふうふヴィルジェニスにあるジェローム・ボナパルトの邸宅ていたくおもむき、クロティルデは毎日まいにち義父ぎふ看病かんびょうをし、ゆかにある義父ぎふ最上さいじょう治療ちりょうけられるようねがった。クロティルデはおっと反対はんたいにもかかわらず、皇帝こうてい聖職せいしょくしゃ派遣はけんもとめる嘆願たんがんしょき、6月23にち宮廷きゅうてい司祭しさいとパリ大司教だいしきょうがヴィルジェニスに到着とうちゃくした。つま行為こういおっと激怒げきどし、クロティルデをヴィルジェニスからして家族かぞくからとおざけたが、義父ぎふ枢機卿すうききょう大司教だいしきょうから死後しご赦免しゃめん病者びょうしゃぬりけることができた。クロティルデは24にちにヴィルジェニスにもどり、義父ぎふ臨終りんじゅううことができたが、このとき、ゆかにあるジェローム・ボナパルトは修道しゅうどうおんなした十字架じゅうじか微笑ほほえみかけたとつたえられている[30]

アメリカへ[編集へんしゅう]

1861ねんにボストン市長しちょうからおくられた、ボストン・ミュージックホール音楽おんがくさい招待しょうたいじょう[ちゅう 4]
ははアデライデのはか参拝さんぱいするクロティルデといもうとのマリア・ピア

そのあいだ、イタリアの政局せいきょく風雲ふううんきゅうげ、海外かいがいでもアメリカで勃発ぼっぱつした南北戦争なんぼくせんそうがフランスの政界せいかい注目ちゅうもくあつめていた。1861ねんはる、ナポレオン・ジェロームは祖国そこくとみをもたらそうとアメリカにかった。クロティルデがヨットにったというニュースをいたとき、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいは、当初とうしょリスボンくはずだったこの旅行りょこう予定よていがい展開てんかい当惑とうわくかくせなかった[31]。しかし、クロティルデはおっとのアメリカきに同行どうこうしたいとかんがえていた。おっと同意どういて、げつえる航海こうかいすえ、クロティルデはおっととともにニューヨークにいた。おっときたアメリカとカナダにかっているあいだ、クロティルデは一人ひとりでニューヨークにのこった。

ニューヨークでクロティルデはふたたび定期ていきてきにミサにかようようになり、航海こうかいちゅうおっと刺激しげきしないようにとひかえていたいのりの日課にっか再開さいかいし、聖心せいしん修道院しゅうどういんにも熱心ねっしんかよった[32]修道院しゅうどういんのマザー回想かいそうには宗教しゅうきょうてき実践じっせん行為こういもとめるクロティルデのしんのゆとりと、一人ひとりごすことへの願望がんぼう象徴しょうちょうされている。

一度いちど、クロティルデが祝福しゅくふくけるためにわたしたちの聖心せいしん修道院しゅうどういんることをったとき、かなりのかず女性じょせいたちが礼拝れいはいどうはいってきました...しかし、彼女かのじょたちがあらゆる方向ほうこう見回みまわしても彼女かのじょたちはそれをつけることができませんでした。ナポレオン王子おうじにはえず、素朴そぼくしろベールをかぶった王女おうじょ生徒せいとたちのなかじっていたので、彼女かのじょたちはとても落胆らくたんしてかえっていきました[33]

このアメリカ滞在たいざいちゅう夫妻ふさい移動いどう手段しゅだんに1856ねん完成かんせいしたばかりのイリノイ・セントラル鉄道てつどう使用しようしたが、この鉄道てつどうおとずれたシャンペーンぐんむらはのちにクロティルデのせいってサヴォイづけられている[34]。この旅行りょこうは、夫婦ふうふ親密しんみつかんふかめる貴重きちょう瞬間しゅんかんとなった。フランスにもどったクロティルデははじめて妊娠にんしんしたが、夫婦ふうふあいだ距離きょりはなれるのにそう時間じかんはかからなかった。ナポレオン・ジェロームは教会きょうかい世俗せぞく社会しゃかいへの影響えいきょうりょくよわめるように主張しゅちょうしたが、世俗せぞく国家こっかれられない貴族きぞく女性じょせいたちはミサにき、ナポレオン・ジェロームに改宗かいしゅう懇願こんがんした。ナポレオン・ジェロームのあんじるものおおく、おおくの改宗かいしゅうもとめる書簡しょかんった[35]

1862ねん7がつ18にち夫婦ふうふだい一子いっしとなるナポレオン・ヴィクトル・ボナパルトまれ、私的してき洗礼せんれいけた。クロティルデは自分じぶん子供こどもそだてたかったが、10月には短期間たんきかん子供こどもはなさざるをなくなった。クロティルデのいもうとであるマリア・ピア・デ・サボイアがポルトガルおうルイス1せい結婚けっこんすることとなり、結婚けっこん以来いらいいちかえっていなかったトリノにもどされたのである。クロティルデは父親ちちおや兄弟きょうだい幼少ようしょうごした場所ばしょ再会さいかいした。祝賀会しゅくがかいのち、1863ねんにクロティルデはおっととともにエジプトかい、みじか船旅ふなたびたのしんだ。クロティルデは聖地せいちおとずれたかったが、そのねがいはかなわなかった[36]

帝政ていせい崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

1870ねん撮影さつえいされたイタリア王室おうしつ写真しゃしんひだりからさん番目ばんめ男女だんじょナポレオン・ジェロームとクロティルデ。ひだりからはち番目ばんめヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい

1870ねん、フランスがひろしふつ戦争せんそう敗北はいぼくし、だい帝政ていせい崩壊ほうかいすると、クロティルデは祖国そこくかえるという父親ちちおや主張しゅちょうそむいてフランスにのこることを決意けついした。クロティルデはサヴォイア王女おうじょとしての義務ぎむもとづき、この記事きじ末尾まつびかかげる彼女かのじょ生涯しょうがい要約ようやくするような有名ゆうめい手紙てがみ父親ちちおや返答へんとうした。ボナパルト全員ぜんいん逃亡とうぼうし(ウジェニー皇后こうごう変装へんそうして首都しゅと脱出だっしゅつしイングランドへ逃亡とうぼう。)、共和きょうわせい宣言せんげんされたのち記章きしょうたずさえたサヴォイアこうクロティルデが9月5にち白昼はくちゅう堂々どうどう無蓋むがい馬車ばしゃ単身たんしんパリを出発しゅっぱつした。フランス共和きょうわこく親衛隊しんえいたい彼女かのじょたたえた。

セダンのたたかののち、ナポレオン王朝おうちょう衰退すいたいがパリで宣言せんげんされ、皇后こうごう摂政せっしょうクロティルデ王女おうじょは9月4にち逃亡とうぼうし、国外こくがい退去たいきょすすめる人々ひとびと忠告ちゅうこくかるんじた。いつものミサをき、ちかくの病院びょういんあいする患者かんじゃたちをいつものように見舞みまったのち翌朝よくあさまで出発しゅっぱつすることをこばんだ。そして、とおりにむらがる人々ひとびとづかれないように馬車ばしゃまどげるようにという提案ていあんたいして、彼女かのじょ高貴こうき言葉ことばこたえた。「恐怖きょうふとサヴォイアったことがありません。」そして、馬車ばしゃなかかおたかかかげ、逃亡とうぼうしゃとしてではなく王女おうじょとして反乱はんらんぐんまち出発しゅっぱつした。だれかおうとするものはおらず、たしかにだれもがひれしていた。
ジュゼッペ・フマガリ[37]
翌日よくじつ、フランスだい帝政ていせい痕跡こんせきはすべてった...。皇后こうごうについてはなにられていなかった...。クロティルデ王女おうじょ王宮おうきゅうのこっていた。彼女かのじょ挑戦ちょうせんすることもおそれることものぞまないしん王女おうじょのように、いそぐことなく馬車ばしゃって最後さいご出発しゅっぱつした。 — ピエール・ド・ラ・ゴルスちょだい帝国ていこく歴史れきしだい7かん(1905ねん
クロティルデとさんにん子供こどもたち(1879ねん[ちゅう 5]

そのもクロティルデはおっと放縦ほうしょう行動こうどうなやまされたが、おっとはのちに彼女かのじょてて経済けいざいてき苦境くきょうたされた。パリをたクロティルデは1872ねん5がつ14にちにシスター・マリー=カテリーネのでドミニコかい支部しぶであるせいドミニコ信徒しんと友愛ゆうあいかい入会にゅうかいした[38]。フランスを脱出だっしゅつした彼女かのじょはまずスイスのレマン湖畔こはんまちプランジャンにあるうつくしい邸宅ていたく[39]、1878ねん父親ちちおやるとイタリアにかえり、むすめマリー・レティシアとともにモンカリエーリじょうんだ。周囲しゅういから「モンカリエーリの聖人せいじん」とばれた彼女かのじょは、1911ねん6がつ25にちインフルエンザ死去しきょし、グラン・マドレ・ディ・ディオ教会きょうかい葬儀そうぎいとなまれ[40]、サヴォイア親族しんぞくとともにスペルガだい聖堂せいどう埋葬まいそうされた。

クロティルデからヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいへの書簡しょかん[編集へんしゅう]

いまわたしるべきときではないと保証ほしょうします...。

わたしれば、最悪さいあくかつもっともなげかわしい結果けっかしょうじるでしょう。

わたしすこしもこわくありません。わたし自分じぶんこわがることができるということさえ理解りかいしていません。なにかの? なぜ?

わたし義務ぎむはできるかぎながくここにまることであり、たとえここにいてんでしまったとしても、危険きけんからのがれることはできません...。

結婚けっこんしたとき、まだわかかったのですが、自分じぶんなにをしているのかかっていましたし、もしそうするのであれば、それは自分じぶんのぞんでいたからです。

わたしがここにまることは、おっとにとっても、子供こどもたちにとっても、祖国そこくにとってもいことなのです。わたし名前なまえさえ名誉めいよです。

親愛しんあいなるおとうさん、このように表現ひょうげんさせていただくなら、わたし祖国そこく名誉めいよです。十分じゅうぶん熟考じゅっこうしたうえで、これをすべておはなしします。

親愛しんあいなるおとうさん、わたしっているでしょう、わたし義務ぎむたさないことはなにもありません。そして、もしいまここをはなれたら、わたしさびしくなるでしょう。わたし世界せかいのこと、とみのこと、自分じぶん立場たちばのことなどにしません。

親愛しんあいなるおとうさん、わたしはそれをにしたことはありませんが、最後さいごまで自分じぶん義務ぎむたしたいとおもっています。にどうすることもできなくなったら、わたしるつもりです...。彼女かのじょはなれようとしませんでしたし、兄弟きょうだいたちもはなれようとしませんでした。

わたしはただのサヴォイア王女おうじょではありません!王子おうじたちがくにはなれることについてかれらがなにっていたかおぼえていますか?

くに危険きけんにさらされているときにることは永遠えいえん不名誉ふめいよでありずべきことだ。わたしったら、わたしたちはかくれるだけです。

深刻しんこく瞬間しゅんかんには、エネルギーと勇気ゆうき必要ひつようです。わたしにはそれらがあり、あるじはそれらをわたしにおあたえになり、さらにあたつづけています。

すみません、親愛しんあいなるおとうさん、あまりにも自由じゆうはなしてしまうかもしれませんが、わたしかんじていること、しんなかにあることをはなさないわけにはいきません。

かあさんがわたしてんからみとめてくださるとしんじてください。 — マリーア・クロティルデ
サンタ・マリア・デッラ・スカラ教会きょうかい礼拝れいはいどうひだりかたにクロティルデの彫像ちょうぞうえる。(2021ねん撮影さつえい

れつぶく大義たいぎ[編集へんしゅう]

1915ねんには彫刻ちょうこくピエトロ・カノニカ神秘しんぴてき法悦ほうえつにひざまずくクロティルデの彫像ちょうぞう制作せいさくし、モンカリエーリのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会きょうかい設置せっちした。1940ねんからはクロティルデのれつぶく調査ちょうさはじまり、1942ねん7がつ10日とおかにはローマ教皇きょうこうピウス12せいによってクロティルデはかみのしもべとなった。現在げんざいれつぶく大義たいぎつづいており、毎年まいとし6がつ25にちいわわれている[41]

栄誉えいよ[編集へんしゅう]

伝記でんき映画えいが・ドラマ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ マリー・カテリーヌ・デ・プレドル・グラシス(Marie Catherine de Predl Grassis)、トリノ王宮おうきゅうぞう[2]
  2. ^ 当時とうじ12さいのクロティルデは日記にっき以下いかのようにしるしている。
    あの部屋へや一生いっしょうわすれられません。ははよこたわっていて、はは最期さいご言葉ことばいまでもみみのこっています[8]
  3. ^ 反目はんもくするどころか、ナポレオン3せいはいとこのつまをすぐさま歓迎かんげいした[23]
  4. ^
    きょう市議会しぎかい代表だいひょうし、つつしんでもうげます。殿下でんか、ナポレオン皇太子こうたいし、クロティルデ王女おうじょたたえる公立こうりつ学校がっこう生徒せいとによる音楽おんがくさいにおしくださいますよう、ご招待しょうたいもうげます。 — ジョセフ・M・ワイトマン市長しちょう
  5. ^ ひだりから長男ちょうなんナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト(1862ねん - 1926ねん、のちのナポレオン5せい)、次男じなんのルイ(1864ねん - 1932ねん)、一人娘ひとりむすめマリー・レティシア・ボナパルト(1866ねん - 1926ねん叔父おじであるアマデオ1せい (スペインおう)結婚けっこんした。)、クロティルデ。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Serva di Dio Maria Clotilde di Savoia su santiebeati.it”. 2020ねん11月9にち閲覧えつらん
  2. ^ I FIGLI DI S.M. VITTORIO EMANUELE IN ETA' GIOVANILE. ritratto di figli di Vittorio Emanuele II di Savoia
  3. ^ C. Tessaro, Clotilde di Savoia, Milano 2012, pp. 14-15
  4. ^ C. Tessaro, cit., pp. 25-26
  5. ^ M. M. Favero, Maria Clotilde di Savoia-Napoleone, Torino 1943, p. 10
  6. ^ M. M. Favero, cit., p. 16
  7. ^ C. Tessaro, cit., p. 33
  8. ^ cfr. M. M. Favero, cit., p. 22
  9. ^ Per tutto il paragrafo cfr. C. Tessaro, pp. 38-41
  10. ^ C. Tessaro, cit., pp. 41-43
  11. ^ A. Biancotti, Maria Clotilde di Savoia, Torino 1955, p. 32
  12. ^ 裏面りめん画像がぞう
  13. ^ C. Tessaro, cit., pp. 53-54
  14. ^ C. Tessaro, cit., p. 62
  15. ^ M. Ragazzi, Clotilde di Savoia Napoleone, Assisi 1942, p. 70; la missiva fu scritta il 12 agosto
  16. ^ M. M. Favero, cit., p. 42
  17. ^ Gli eventi nelle lettere di Costanza D'Azeglio, a cura di Maria Luisa Badellino, http://www.uciimtorino.it/costanzadazeglio/ii_05_1859_parte_prima.pdf 2014ねん1がつ20日はつか閲覧えつらん 
  18. ^ C. Tessaro, cit., pp. 81-83
  19. ^ C. Tessaro, cit., pp. 84-87
  20. ^ M. Ragazzi, cit., p. 92
  21. ^ C. Tessaro, cit., pp. 94-95
  22. ^ M. Ragazzi, cit., p. 90
  23. ^ C. Tessaro, cit., p. 88
  24. ^ A. Biancotti, cit., p. 125
  25. ^ Vedere le missive riportate in M- Ragazzi, cit., alle pp. 96-98
  26. ^ C. Tessaro, cit., p. 105
  27. ^ Le prince Victor Napoléon 1862-1926, Paris,‎ , p.42.
  28. ^ (de Witt 2007, p. 47).
  29. ^ ジョルジュ・サンドからナポレオン王子おうじてた手紙てがみ、1862ねん4がつ17にちけ、「りょう世界せかい評論ひょうろん」、だい6かん、1923ねん8がつ15日刊にっかん
  30. ^ C. Tessaro, cit., pp. 114-117
  31. ^ «Ma chiel-là a l'è matt! » (Ma quello è matto!), avrebbe esclamato Vittorio Emanuele in dialetto piemontese, riferendosi al genero; C. Tessaro, c it., p. 125
  32. ^ C. Tessaro, cit., pp. 126-127
  33. ^ A. Biancotti, cit., p. 131
  34. ^ Illinois Central Magazine. Illinois Central Railroad Company. (1922). p. 46. https://books.google.com/books?id=3WI3AQAAMAAJ&pg=PT46 
  35. ^ C. Tessaro, cit., pp. 129-130
  36. ^ C. Tessaro, cit., pp. 131-133
  37. ^ Cfr. anche Lodovico (Giuseppe) Fanfani, O. P., La principessa Clotilde di Savoia: biografia e lettere, Grottaferrata, 1913, p. 29.
  38. ^ (de Witt 2007, p. 48)
  39. ^ Remsen Whitehouse, p. 313.
  40. ^ Serva di Dio Maria Clotilde di Savoia su santiebeati.it”. 2020ねん11月9にち閲覧えつらん
  41. ^ The Mad Monarchist: Servant of God Princess Maria Clotilde of Savoy” (2011ねん6がつ22にち). 2020ねん11月12にち閲覧えつらん
  42. ^ a b Mediterranean Nobility
  43. ^ a b Guía Oficial de España”. p. 159 (1904ねん). 2019ねん3がつ8にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Maria Ragazzi, Clotilde di Savoia Napoleone, Assisi, Pro Civitate Christiana, 1942
  • Michele M. Favero, Maria Clotilde di Savoia-Napoleone, Torino, L.i.c.e.-R. Berrutti & C., 1943.
  • Angiolo Biancotti, Maria Clotilde di Savoia, Torino, Società editrice internazionale, 1955
  • Tommaso Gallarati Scotti, Interpretazioni e memorie, Milano, Mondadori, 1960.
  • Valentino Brosio, Due principesse fra Torino e Parigi, Torino, Fògola editore, 1978 (biografie di Clotilde e della figlia Letizia Bonaparte).
  • Giulio Vignoli, Donne di Casa Savoia, Genova, Ecig, 2002.
  • Cristina Tessaro, Clotilde di Savoia. Il "sì" che fece l'Italia, Milano, Paoline, 2012.
  • Remsen Whitehouse, Henry (1897). The Sacrifice of a Throne: Being an Account of the Life of Amadeus, Duke of Aosta, sometime King of Spain. New York: Bonnel, Silver, and Co. https://archive.org/details/sacrificeathron02whitgoog 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]