ルドヴィカ・テレーザ・マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア (イタリア語 ご : Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia , 1843年 ねん 3月2日 にち - 1911年 ねん 6月25日 にち )は、サヴォイア家 か の王女 おうじょ 。イタリア王 おう ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい とハプスブルク家 か の大公 たいこう 女 おんな マリーア・アデライデ の娘 むすめ である。フランス語 ふらんすご 名 な はルイーズ・テレーズ・マリー・クロティルド・ド・サヴォワ (Louise Thérèse Marie Clotilde de Savoie )。
マリーア・クロティルデは敬虔 けいけん なカトリック教徒 きょうと として知 し られ、ローマ教皇 きょうこう ピウス12世 せい は1942年 ねん 7月 がつ 10日 とおか にクロティルデを神 かみ のしもべ とすることを宣言 せんげん した[1] 。
幼少 ようしょう 期 き と青年 せいねん 期 き [ 編集 へんしゅう ]
幼少 ようしょう 期 き のクロティルデ(右 みぎ 端 はし )と弟妹 ていまい のウンベルト 、アマデオ 、オッドーネ 、マリア・ピア (1848年 ねん )[注 ちゅう 1]
1852年 ねん 当時 とうじ のトリノ王宮 おうきゅう (1852年 ねん の版画 はんが ) この頃 ころ フランスでは第 だい 二 に 帝政 ていせい が始 はじ まった。
モンカリエーリ城 じょう の航空 こうくう 写真 しゃしん (2005年 ねん 撮影 さつえい ) クロティルデは幼少 ようしょう 期 き からここで長 なが い時間 じかん を過 す ごし、のちに終 おわり の棲家とした。
マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアは1843年 ねん 3月 がつ 2日 にち にトリノ王宮 おうきゅう でヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい (当時 とうじ は皇太子 こうたいし )とマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ の長女 ちょうじょ として生 う まれた。その後 ご 、夫婦 ふうふ には他 た に七 なな 人 にん の子供 こども が生 う まれた。それはウンベルト (1844年 ねん - 1900年 ねん )、アマデオ (1845年 ねん - 1890年 ねん )、オッドーネ・マリア・デ・サヴォイア(1846年 ねん - 1866年 ねん ) マリア・ピア・デ・サボイア (1847年 ねん - 1911年 ねん )、カルロ・アルベルト(1851年 ねん 生 う まれ)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ(1852年 ねん に生後 せいご 間 あいだ もなく死去 しきょ )と彼 かれ と同名 どうめい のもう一人 ひとり (1855年 ねん に生 う まれ、数 すう 年 ねん 後 ご に死去 しきょ 。)である。アデライデは育児 いくじ を乳母 うば や看護 かんご 師 し に任 まか せず、カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア の妻 つま で義母 ぎぼ のマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナ とともに娘 むすめ とモンカリエーリ城 じょう で長 なが い時間 じかん を過 す ごした。クロティルデは幼 おさな い頃 ころ から穏 おだ やかで決断 けつだん 力 りょく のある性格 せいかく を示 しめ し、祈 いの ることを学 まな び、カトリック の教 おし えに基 もと づいた生活 せいかつ スタイルを築 きず いた[3] 。
クロティルデは周囲 しゅうい からChechina(ケキーナ)という愛称 あいしょう で呼 よ ばれ、貴族 きぞく としての道 みち を歩 あゆ み始 はじ めた。彼女 かのじょ の日課 にっか は厳格 げんかく に定 さだ められ、高名 こうみょう な教授 きょうじゅ が選 えら んだ家庭 かてい 教師 きょうし による授業 じゅぎょう が行 おこ なわれ、精神 せいしん 修養 しゅうよう に加 くわ えて、余暇 よか には彼女 かのじょ が特 とく に好 この んだ乗馬 じょうば などを行 おこ なった[4] 。これらの日課 にっか を送 おく るにあたっては、家政 かせい 婦 ふ のパオリーナ・ディ・プリオラの支 ささ えもあった。後年 こうねん 、クロティルデはプリオラの曾孫 そうそん 娘 むすめ の一人 ひとり に会 あ ったときのことを懐 なつ かしく思 おも い出 だ している[5] 。その一方 いっぽう で、クロティルデは最初 さいしょ の秘蹟 ひせき を受 う ける準備 じゅんび を注意深 ちゅういぶか く進 すす めていた。これについては聖体 せいたい 拝領 はいりょう 式 しき の前月 ぜんげつ に書 か かれた三 さん 冊 さつ のノートが残 のこ っている。それらを読 よ むと、すでに彼女 かのじょ の人格 じんかく はしっかりと形成 けいせい されており、人生 じんせい のあらゆる局面 きょくめん において神 かみ を優先 ゆうせん しようと決意 けつい していたことが分 わ かる。一 いち 冊 さつ 目 め のノートには、以下 いか に抜粋 ばっすい するように10歳 さい の少女 しょうじょ にしては珍 めずら しく王女 おうじょ としての敬虔 けいけん な態度 たいど があらわれている。
(
私 わたし は)
小 ちい さな
試練 しれん に
身 み を
投 とう じます:
自分 じぶん が
不快 ふかい に
思 おも うことを
愛想 あいそ よくやり
遂 と げています -
毎日 まいにち 決 き まった
時刻 じこく に
神 かみ の
存在 そんざい を
思 おも い
出 だ すこと、
小 ちい さな
試練 しれん を
受 う け
入 い れること、そして
常 つね に
貧 まず しい
人々 ひとびと のために
私 わたし の
楽 たの しみの
一部 いちぶ を
放棄 ほうき することです
[6] 。
1853年 ねん 6月 がつ 11日 にち 、ストゥピニジ教区 きょうく 教会 きょうかい にて聖体 せいたい 拝領 はいりょう と堅 けん 信 しん の合同 ごうどう 式典 しきてん がジェノヴァ大司教 だいしきょう のアンドレア・シャルバスによって執 と り行 おこな われ、同時 どうじ に彼女 かのじょ の弟 おとうと のウンベルトにも秘蹟 ひせき が授 さづ けられた[7] 。
間 あいだ もなく、クロティルデ自身 じしん にもいつか来 く るであろうとひそかに予期 よき していた試練 しれん が訪 おとず れる。1855年 ねん には日々 ひび の喜捨 きしゃ 行為 こうい に加 くわ えて四 よっ つの別 わか れがあった。1月12日 にち には祖母 そぼ のマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナ が死去 しきょ し、その葬儀 そうぎ が行 おこ なわれた16日 にち の夜 よる に母 はは のアデライデが虫垂炎 ちゅうすいえん を発症 はっしょう して床 ゆか に伏 ふ し、クロティルデが最期 さいご の別 わか れを告 つ げた二 に 日 にち 後 ご に世 よ を去 さ った[注 ちゅう 2] 。さらに、2月 がつ 11日 にち には叔父 おじ のジェノヴァ公 こう フェルディナンド・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイア が死 し に、5月には弟 おとうと のヴィットーリオ・エマヌエーレが夭折 ようせつ した[9] 。
クロティルデは、日記 にっき や当時 とうじ の書簡 しょかん 、のちに書 か かれた回想 かいそう 録 ろく などからわかるように、信仰 しんこう という武器 ぶき で苦 くる しみに立 た ち向 む かい、より一層 いっそう 信仰 しんこう 心 しん を深 ふか めた。その後 ご もドミニコ会 かい 修道 しゅうどう 士 し のジョヴァンニ・トンマーゾ・ギラルディ、モンドヴィ司教 しきょう のチェーザレ・ロッリ、修道院 しゅうどういん 長 ちょう のスタニスラオ・ガゼッリらの協力 きょうりょく を得 え て精神 せいしん 修養 しゅうよう を続 つづ けた[10] 。同時 どうじ に、クロティルデはそのマナーの良 よ さでも賞賛 しょうさん された。1856年 ねん 5月 がつ には、クリミア戦争 せんそう の渦中 かちゅう にあったサヴォイア家 か とロシアとの関係 かんけい 改善 かいぜん のためにトリノを訪 おとず れたアレクサンドラ・フョードロヴナ のレセプション で、クロティルデはサヴォイア家 か のファーストレディ としての責務 せきむ を負 お った。さらに、1857年 ねん 12月にはロシア皇帝 こうてい アレクサンドル2世 せい の弟 おとうと であるロシア大公 たいこう コンスタンチン・ニコラエヴィチ の訪問 ほうもん の際 さい にも同 おな じ役目 やくめ を果 は たさなければならなかった。クロティルデは、のちにこの二 に 度目 どめ の体験 たいけん について、随行 ずいこう していたニコラエヴィチの幼 おさな い息子 むすこ ニコライ・コンスタンチノヴィチ について以下 いか のような同情 どうじょう 的 てき なコメントを残 のこ している。
帰 かえ りがけに、わたしたちの
親愛 しんあい なる
友人 ゆうじん はドイツに
向 む かう
途中 とちゅう で
自分 じぶん の
名前 なまえ が
載 の った
親族 しんぞく のアルバムを
見 み せてくれました...(
中略 ちゅうりゃく )
彼 かれ はとても
優 やさ しい
好人物 こうじんぶつ でした
[11] 。
ナポレオン・ジェローム とクロティルデ(1904年 ねん の出版 しゅっぱん 物 ぶつ より)
1859年 ねん に発行 はっこう された結婚 けっこん 記念 きねん コイン[12]
1858年 ねん 、サルデーニャ王国 おうこく 首相 しゅしょう のカミッロ・カヴール はピエモンテ州 しゅう の外交 がいこう 政策 せいさく をたくみに運営 うんえい していた。当時 とうじ のフランス皇帝 こうてい ナポレオン3世 せい はリベラリスト であり、イタリアのリソルジメント に理解 りかい を示 しめ していたため、カヴールはフランスとの同盟 どうめい 形成 けいせい に力 ちから を注 そそ ぎ、7月 がつ 21日 にち に二 に 人 にん はヴォージュ県 けん の温泉 おんせん 保養 ほよう 地 ち として知 し られるプロンビエール=レ=バン で秘密 ひみつ 裡 うら に会談 かいだん し、有名 ゆうめい なプロンビエールの密約 みつやく を締結 ていけつ した。
ナポレオン3世 せい はサルデーニャに対 たい する援助 えんじょ の見返 みかえ りとして、ニース とサヴォワ の割譲 かつじょう を要求 ようきゅう したが、これはのちに第 だい 二 に 次 じ イタリア独立 どくりつ 戦争 せんそう への引 ひ き金 がね となった。さらに皇帝 こうてい はいとこのナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト (ナポレオン・ジェローム) が統治 とうち する中央 ちゅうおう イタリア王国 おうこく への援助 えんじょ を約束 やくそく した。しかし、これを実現 じつげん するためにはナポレオン・ジェロームとサヴォイア家 か の王女 おうじょ との縁組 えんぐみ が必要 ひつよう であり、その判断 はんだん は花嫁 はなよめ 候補 こうほ のクロティルデに委 ゆだ ねられた[13] 。しかしながら、当時 とうじ クロティルデは15歳 さい であり、イタリアで結婚 けっこん が許 ゆる される16歳 さい になるまで一 いち 年間 ねんかん 待 ま たなければならなかった。
皇帝 こうてい はこの縁組 えんぐみ を協定 きょうてい の必須 ひっす 条件 じょうけん とはしなかったが、カヴールにはこれを拒否 きょひ すればどれほど多 おお くの支援 しえん が反故 ほご になるか容易 ようい に想像 そうぞう できた[14] 。ナポレオン・ジェロームは花嫁 はなよめ 候補 こうほ よりも21歳 さい 年上 としうえ であったが、それだけではなく、この縁組 えんぐみ を「ゾウ とガゼル の結婚 けっこん 」と揶揄 やゆ する者 もの もいるほど、二人 ふたり の人生 じんせい 観 かん はまったく異 こと なっていた。ナポレオン・ジェロームは若 わか い頃 ころ から自由 じゆう を謳歌 おうか しており、性格 せいかく は謙虚 けんきょ で陽気 ようき だったが、しばしば束 つか の間 ま の恋愛 れんあい にのめりこんでカトリックの戒律 かいりつ から程遠 ほどとお い生活 せいかつ を送 おく り、むしろ戒律 かいりつ に反感 はんかん を抱 だ いていた。彼 かれ の政治 せいじ 的 てき な立場 たちば は反 はん 教皇 きょうこう 派 は で民主 みんしゅ 的 てき であり、周囲 しゅうい からは「赤 あか い王子 おうじ 」、「プロン=プロン」(Plon - Plon)などと呼 よ ばれていた。一方 いっぽう 、クロティルデは王女 おうじょ としての義務 ぎむ 感 かん と、祖国 そこく と父親 ちちおや を救 すく うという使命 しめい 感 かん にあふれていた。
カヴールはイタリアに戻 もど るとヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい と会談 かいだん し、彼 かれ にプロンビエールの協定 きょうてい の詳細 しょうさい について花嫁 はなよめ 候補 こうほ に説明 せつめい する任務 にんむ を委任 いにん した。父親 ちちおや から事 こと の次第 しだい を聞 き いたクロティルデはガレッシオ のカゾット王宮 おうきゅう からカヴール宛 あ てに書簡 しょかん を送 おく り、この縁組 えんぐみ に対 たい する生理 せいり 的 てき な嫌悪 けんお 感 かん を表明 ひょうめい しつつ、その政治 せいじ 的 てき な重要 じゅうよう 性 せい を理解 りかい し、キリストへの信仰 しんこう を放棄 ほうき することを非常 ひじょう に丁寧 ていねい な筆致 ひっち でしたためた。
わたしはもう
何 なん 度 ど も
考 かんが えました。しかし、ナポレオン
王子 おうじ との
結婚 けっこん は
非常 ひじょう に
深刻 しんこく な
問題 もんだい で、なによりも
私 わたし の
考 かんが えと
正 せい 反対 はんたい です。
親愛 しんあい なる
伯爵 はくしゃく 、それが
我 わ が
国 くに の
将来 しょうらい にとって、そしてなによりも
私 わたし の
父 ちち である
国王 こくおう にとって
有利 ゆうり となる
可能 かのう 性 せい があることも
私 わたし は
知 し っています。...
私 わたし はもう
一度 いちど 考 かんが えてみます。そして、
主 あるじ が
誤 あやま りなき
救 すく いで
私 わたし を
導 みちび いてくださることを
願 ねが っています。
今 いま のところはすべてを
主 おも の
手 て にゆだねているので、
私 わたし には
何 なに も
決 き めることができません
[15] 。
ピエモンテ州 しゅう ガレッシオ にあるカゾット王宮 おうきゅう (2021年 ねん 撮影 さつえい ) ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい が夏季 かき の狩猟 しゅりょう 離宮 りきゅう として使用 しよう した。
クロティルデは8月 がつ をカゾット王宮 おうきゅう で過 す ごし、返答 へんとう について瞑想 めいそう し、9月にラッコニージ に戻 もど ると無 む 宗教 しゅうきょう で世俗 せぞく にまみれたナポレオン・ジェロームの魂 たましい を神 かみ の許 もと に帰 き すために結婚 けっこん を承諾 しょうだく するという最終 さいしゅう 決断 けつだん を下 くだ した。この選択 せんたく は政治 せいじ 的 てき な理由 りゆう によって条件付 じょうけんづ けられたものであったが、それ以上 いじょう にカヴールとナポレオン3世 せい 、祖国 そこく がそれぞれ求 もと めるものを意識 いしき して殉教 じゅんきょう 的 てき に遵守 じゅんしゅ することにより、神 かみ の御 ご 心 しん を実現 じつげん するという確信 かくしん から生 う み出 だ されたものであった。後年 こうねん 、クロティルデはこの決断 けつだん は他者 たしゃ から強要 きょうよう されたものではなく、「私 わたし はナポレオン・ジェロームが欲 ほ しかったから結婚 けっこん した。」と打 う ち明 あ けている[16] 。
しかし、結婚 けっこん を承諾 しょうだく するにあたって、クロティルデはひとつだけ条件 じょうけん を出 だ した。それはバージンロード を歩 あゆ む前 まえ に婚約 こんやく 者 しゃ に会 あ うというものだった。ナポレオン・ジェロームの訪問 ほうもん は延期 えんき されたため、その間 あいだ 、クロティルデはラッコニージを離 はな れて街 まち に戻 もど ることができた。将来 しょうらい の配偶 はいぐう 者 しゃ との会見 かいけん は1859年 ねん 1月 がつ 16日 にち にトリノで行 おこな われ、クロティルデが提示 ていじ した最後 さいご の条件 じょうけん が満 み たされたことで、差 さ し迫 せま った結婚式 けっこんしき が公式 こうしき のものとなった。婚約 こんやく 発表 はっぴょう は15歳 さい の少女 しょうじょ の命 いのち が支配 しはい 者 しゃ の政治 せいじ 的 てき 陰謀 いんぼう を満足 まんぞく させるための犠牲 ぎせい となったことに憤慨 ふんがい したトリノ王宮 おうきゅう の廷臣 ていしん たちの抗議 こうぎ 運動 うんどう を引 ひ き起 お こした。イタリアの貴族 きぞく で女流 じょりゅう 作家 さっか のコンスタンツァ・ダゼーリオ は息子 むすこ のエマヌエーレに宛 あ てた書簡 しょかん で、すべての階層 かいそう がこの縁組 えんぐみ を非難 ひなん していることを表明 ひょうめい している。
貴族 きぞく たちは劇場 げきじょう の記念 きねん 公演 こうえん とカヴールが主催 しゅさい する舞踏 ぶとう 会 かい を欠席 けっせき することでそれを表明 ひょうめい しました。
しかし、このデモの後 のち で群衆 ぐんしゅう は劇場 げきじょう と宮廷 きゅうてい に向 む かった。しかし、それは国王 こくおう のために、そして何 なに よりも国民 こくみん が敬愛 けいあい しているクロティルデの機嫌 きげん を損 そこ なわないようにするためだった[17] 。
1859年 ねん 1月 がつ 23日 にち 、フランス元帥 げんすい アドルフ・ニール将軍 しょうぐん は、花嫁 はなよめ の父親 ちちおや に対 たい して正式 せいしき な結婚 けっこん の要請 ようせい を行 おこ ない、1月 がつ 28日 にち にはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい 、ナポレオン・ジェローム、ナポレオン3世 せい の三 さん 者 しゃ 会談 かいだん でプロンビエール協定 きょうてい の調印 ちょういん が行 おこ なわれた。1月30日 にち の日曜日 にちようび 、グアリーニ礼拝 れいはい 堂 どう にて、ヴェルチェッリ大司教 だいしきょう 区 く のアレッサンドロ・ダンジェンヌ司教 しきょう によって結婚式 けっこんしき が行 おこ なわれ、カザーレ・モンフェッラート 、ノーリ 、ピネローロ 、スーザ の各 かく 教区 きょうく 教会 きょうかい でも挙式 きょしき された。クロティルデは正式 せいしき に王冠 おうかん を脱 ぬ ぎ、持参 じさん 金 きん として50万 まん リラ の現金 げんきん 、30万 まん リラの宝石 ほうせき 、10万 まん リラの衣装 いしょう を持参 じさん した[18] 。ナポレオン3世 せい はこのヨーロッパ最古 さいこ の王朝 おうちょう のひとつとの縁組 えんぐ みで、家名 かめい を高 たか めることもできた。
サヴォイア家 か の結婚式 けっこんしき における恒例 こうれい 行事 ぎょうじ として、神聖 しんせい な儀式 ぎしき に続 つづ いてトリノ市庁舎 しちょうしゃ での豪華 ごうか なレセプションと盛大 せいだい なパーティーが催 もよお された。トリノの街路 がいろ ではパレードやショーが行 おこ なわれ、トリノやフランスの貧 まず しい人々 ひとびと に多額 たがく の義援金 ぎえんきん が寄付 きふ された。新婚 しんこん 夫婦 ふうふ は結婚式 けっこんしき 当日 とうじつ 中 ちゅう にトリノを発 た ち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい 、カヴール、ラ・マルモラ は汽車 きしゃ でジェノヴァに向 む かい、夕方 ゆうがた にはカルロ・フェリーチェ劇場 げきじょう でのガラ・コンサート に家族 かぞく とともに出席 しゅっせき し、観客 かんきゃく から熱狂 ねっきょう 的 てき に迎 むか えられた。ランタンの下 した で二 に 晩 ばん 眠 ねむ ったあと、クロティルデは父親 ちちおや に別 わか れを告 つ げ、マルセイユ 行 い きのフリゲート 「オルタンス王妃 おうひ 号 ごう 」に乗 の り、フランスのパリに向 む かった。2月4日 にち の午後 ごご 、クロティルデは宮廷 きゅうてい 列車 れっしゃ でプロヴァンス を出発 しゅっぱつ し、翌朝 よくあさ フォンテーヌブロー に着 つ いた。ここでクロティルデは義父 ぎふ のジェローム・ボナパルト と義妹 ぎまい のマチルド・ボナパルト に会 あ い、ついに同日 どうじつ の夜 よる にパリに到着 とうちゃく し、テュイルリー宮殿 きゅうでん で皇帝 こうてい 夫妻 ふさい の歓迎 かんげい を受 う けた[19] 。
フランスの画家 がか 、エルネスト・エベール による全身 ぜんしん 肖像 しょうぞう 画 が (1860年 ねん )
1859年 ねん 2月 がつ 27日 にち 、テュイルリー宮殿 きゅうでん で新婚 しんこん 夫婦 ふうふ を歓迎 かんげい するフランス皇帝 こうてい 夫妻 ふさい
クロティルデの侍女 じじょ で幼少 ようしょう 期 き からの友人 ゆうじん でもあるヴィラマリーナ伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん は、トリノでの暮 く らしとはかけ離 はな れた生活 せいかつ 様式 ようしき に耐 た えられず、第 だい 二 に 帝政 ていせい 下 か で歓楽 かんらく を愛 あい する煌びやかな大都市 だいとし をすぐに去 さ った。クロティルデにとっても、自分 じぶん の宗教 しゅうきょう 的 てき な精神 せいしん とはほとんど、むしろまったく共通 きょうつう 点 てん のない現実 げんじつ に直面 ちょくめん して環境 かんきょう への適応 てきおう は困難 こんなん をきわめ、当初 とうしょ は市民 しみん の冷淡 れいたん な対応 たいおう にも複雑 ふくざつ な想 おも いを抱 だ いた。クロティルデは以下 いか の「敬虔 けいけん な」フランス人 じん 女性 じょせい で構成 こうせい された新 あたら しい宮廷 きゅうてい を任 まか された[20] 。それはオルタンス・テイヤー夫人 ふじん 、ベルトラン伯爵 はくしゃく 、ロシエール男爵 だんしゃく 夫人 ふじん 、クレルモン・トネール夫人 ふじん [21] という面々 めんめん である。クロティルデは夫 おっと の理解 りかい を得 え られぬまま、宮廷 きゅうてい の華 はな やかさとは裏腹 うらはら にチャリティー 活動 かつどう に専念 せんねん しながらフランスの大都市 だいとし に住 す んだ。謙虚 けんきょ でありながら誇 ほこ り高 たか く、王族 おうぞく 出身 しゅっしん ではないウジェニー・ド・モンティジョ が政府 せいふ の高官 こうかん との付 つ き合 あ いを減 へ らすように提案 ていあん し、「あなたにとっては大変 たいへん ではないですか?」と申 もう し出 で たとき、クロティルデはこう答 こた えた「マダム、あなたはわたしが宮廷 きゅうてい で生 う まれ、小 ちい さい頃 ころ からこういうことには馴 な れていることを忘 わす れていますね[22] 。」と、やがて消 き えるであろうスペイン出身 しゅっしん の皇后 こうごう の自分 じぶん に対 たい する反感 はんかん を示 しめ した[注 ちゅう 3] 。
一方 いっぽう 、ナポレオン・ジェロームは当初 とうしょ から公式 こうしき のレセプションや自由 じゆう に使 つか える私的 してき なアパルトマン で夜 よる を過 す ごし、パリがふんだんに提供 ていきょう する社交 しゃこう 界 かい を利用 りよう して妻 つま を騙 だま すことをためらわなかった。ナポレオン・ジェロームは、若 わか い義理 ぎり の娘 むすめ を可愛 かわい がっていた父親 ちちおや と妹 いもうと のマチルド の叱責 しっせき [24] にも耳 みみ を貸 か さず、またクロティルデが義父 ぎふ とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい 、カヴールを早 はや く安心 あんしん させたい一心 いっしん で努力 どりょく してきたにもかかわらず、独身 どくしん 時代 じだい から続 つづ けてきた恋愛 れんあい 遊戯 ゆうぎ を再開 さいかい した[25] 。それにもめげず、クロティルデは3月 がつ 26日 にち 付 づ けの友人 ゆうじん 宛 あ ての書簡 しょかん に「すばらしい」、「とても幸 しあわ せ」と記 しる している。彼女 かのじょ の信仰 しんこう 心 しん はますます強固 きょうこ となり、自分 じぶん が政治 せいじ の駒 こま にされている現状 げんじょう や夫 おっと の不貞 ふてい にもなんとか耐 た え、毎日 まいにち パレ・ロワイヤル にある私設 しせつ 礼拝 れいはい 堂 どう でミサ を聞 き き、定期 ていき 的 てき に病院 びょういん で病人 びょうにん の世話 せわ をした。
パリにおけるクロティルデの生活 せいかつ は完全 かんぜん にキリスト教 きりすときょう に捧 ささ げられていた。前 まえ に述 の べたように彼女 かのじょ は毎日 まいにち 私設 しせつ 礼拝 れいはい 堂 どう でミサを聞 き き、病院 びょういん に病人 びょうにん を見舞 みま いに行 い き、「パレ・ロワイヤルの天使 てんし 」と呼 よ ばれた。家 いえ では夫 おっと との距離 きょり に悩 なや まされたが、夫 おっと はめったに若 わか い女性 じょせい の孤独 こどく を破 やぶ ることはなく、自分 じぶん のアパルトマンにこもることを好 この んだ。1859年 ねん 6月 がつ 20日 はつか にクロティルデがアウグスティヌス会 かい 修道院 しゅうどういん 「デ・オワゾー」で自分 じぶん を「マリアの娘 むすめ 」として聖 ひじり 別 べつ してからはそこに定期 ていき 的 てき に通 かよ うようになり、その三 さん 日 にち 後 ご には地元 じもと の聖心 せいしん 修道 しゅうどう 会 かい 教会 きょうかい に入会 にゅうかい し、彼女 かのじょ が常 つね に愛着 あいちゃく を抱 いだ き続 つづ ける献身 けんしん を開始 かいし した[26] 。
一方 いっぽう 、ナポレオン3世 せい の妃 ひ ウジェニーもカトリック教徒 きょうと になることを望 のぞ んでおり、クロティルデと反 はん 教皇 きょうこう 的 てき な立場 たちば を共有 きょうゆう していたものの、クロティルデほど厳格 げんかく なものではなく、両者 りょうしゃ の認識 にんしき にずれがあった。しかし、クロティルデはナポレオン・ジェロームの側近 そっきん から愛 あい され、ジョルジュ・サンド やエルネスト・ルナン などの、反 はん 教皇 きょうこう 的 てき な立場 たちば を表明 ひょうめい していたフランスの文化 ぶんか 人 じん からもその良識 りょうしき と資質 ししつ を認 みと められた[27] · [28] · [29] 。
1858年 ねん に発行 はっこう された義父 ぎふ ジェローム・ボナパルトのコイン
1860年 ねん 6月 がつ 、クロティルデと円満 えんまん な関係 かんけい を築 きず いていた義父 ぎふ のジェローム・ボナパルト の体調 たいちょう が悪化 あっか した。夫婦 ふうふ はヴィルジェニス にあるジェローム・ボナパルトの邸宅 ていたく に赴 おもむ き、クロティルデは毎日 まいにち 義父 ぎふ の看病 かんびょう をし、死 し の床 ゆか にある義父 ぎふ が最上 さいじょう の治療 ちりょう を受 う けられるよう願 ねが った。クロティルデは夫 おっと の反対 はんたい にもかかわらず、皇帝 こうてい に聖職 せいしょく 者 しゃ の派遣 はけん を求 もと める嘆願 たんがん 書 しょ を書 か き、6月23日 にち に宮廷 きゅうてい の司祭 しさい とパリ市 し の大司教 だいしきょう がヴィルジェニスに到着 とうちゃく した。妻 つま の行為 こうい に夫 おっと は激怒 げきど し、クロティルデをヴィルジェニスから追 お い出 だ して家族 かぞく から遠 とお ざけたが、義父 ぎふ は枢機卿 すうききょう 大司教 だいしきょう から死後 しご の赦免 しゃめん と病者 びょうしゃ の塗 ぬり 油 ゆ を受 う けることができた。クロティルデは24日 にち にヴィルジェニスに戻 もど り、義父 ぎふ の臨終 りんじゅう に立 た ち会 あ うことができたが、このとき、死 し の床 ゆか にあるジェローム・ボナパルトは修道 しゅうどう 女 おんな が差 さ し出 だ した十字架 じゅうじか に微笑 ほほえ みかけたと伝 つた えられている[30] 。
1861年 ねん にボストン市長 しちょう から贈 おく られた、ボストン・ミュージックホール 音楽 おんがく 祭 さい の招待 しょうたい 状 じょう [注 ちゅう 4]
母 はは アデライデの墓 はか を参拝 さんぱい するクロティルデと妹 いもうと のマリア・ピア
その間 あいだ 、イタリアの政局 せいきょく は風雲 ふううん 急 きゅう を告 つ げ、海外 かいがい でもアメリカで勃発 ぼっぱつ した南北戦争 なんぼくせんそう がフランスの政界 せいかい で注目 ちゅうもく を集 あつ めていた。1861年 ねん の春 はる 、ナポレオン・ジェロームは祖国 そこく に富 とみ をもたらそうとアメリカに向 む かった。クロティルデがヨットに乗 の ったというニュースを聞 き いた時 とき 、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい は、当初 とうしょ リスボン に行 い くはずだったこの旅行 りょこう の予定 よてい 外 がい の展開 てんかい に当惑 とうわく を隠 かく せなかった[31] 。しかし、クロティルデは夫 おっと のアメリカ行 い きに同行 どうこう したいと考 かんが えていた。夫 おっと の同意 どうい を得 え て、二 に か月 げつ を越 こ える航海 こうかい の末 すえ 、クロティルデは夫 おっと とともにニューヨークに着 つ いた。夫 おっと が北 きた アメリカとカナダに向 む かっている間 あいだ 、クロティルデは一人 ひとり でニューヨークに残 のこ った。
ニューヨークでクロティルデはふたたび定期 ていき 的 てき にミサに通 かよ うようになり、航海 こうかい 中 ちゅう は夫 おっと を刺激 しげき しないようにと控 ひか えていた祈 いの りの日課 にっか を再開 さいかい し、聖心 せいしん 修道院 しゅうどういん にも熱心 ねっしん に通 かよ った[32] 。修道院 しゅうどういん のマザー の回想 かいそう には宗教 しゅうきょう 的 てき な実践 じっせん 行為 こうい を求 もと めるクロティルデの心 しん のゆとりと、一人 ひとり で過 す ごすことへの願望 がんぼう が象徴 しょうちょう されている。
一度 いちど 、クロティルデが
祝福 しゅくふく を
受 う けるためにわたしたちの
聖心 せいしん 修道院 しゅうどういん に
来 く ることを
知 し った
時 とき 、かなりの
数 かず の
女性 じょせい たちが
礼拝 れいはい 堂 どう に
入 はい ってきました...しかし、
彼女 かのじょ たちがあらゆる
方向 ほうこう を
見回 みまわ しても
彼女 かのじょ たちはそれを
見 み つけることができませんでした。ナポレオン
王子 おうじ には
会 あ えず、
素朴 そぼく な
白 しろ い
ベール をかぶった
王女 おうじょ が
生徒 せいと たちの
中 なか に
混 ま じっていたので、
彼女 かのじょ たちはとても
落胆 らくたん して
帰 かえ っていきました
[33] 。
このアメリカ滞在 たいざい 中 ちゅう 、夫妻 ふさい は移動 いどう 手段 しゅだん に1856年 ねん に完成 かんせい したばかりのイリノイ・セントラル鉄道 てつどう を使用 しよう したが、この鉄道 てつどう で訪 おとず れたシャンペーン郡 ぐん の村 むら はのちにクロティルデの姓 せい を採 と ってサヴォイ と名 な づけられている[34] 。この旅行 りょこう は、夫婦 ふうふ の親密 しんみつ 感 かん を深 ふか める貴重 きちょう な瞬間 しゅんかん となった。フランスに戻 もど ったクロティルデは初 はじ めて妊娠 にんしん したが、夫婦 ふうふ 間 あいだ の距離 きょり が離 はな れるのにそう時間 じかん はかからなかった。ナポレオン・ジェロームは教会 きょうかい の世俗 せぞく 社会 しゃかい への影響 えいきょう 力 りょく を弱 よわ めるように主張 しゅちょう したが、世俗 せぞく 国家 こっか を受 う け入 い れられない貴族 きぞく の女性 じょせい たちはミサに行 い き、ナポレオン・ジェロームに改宗 かいしゅう を懇願 こんがん した。ナポレオン・ジェロームの身 み を案 あん じる者 もの は多 おお く、多 おお くの改宗 かいしゅう を求 もと める書簡 しょかん を受 う け取 と った[35] 。
1862年 ねん 7月 がつ 18日 にち 、夫婦 ふうふ に第 だい 一子 いっし となるナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト が生 う まれ、私的 してき に洗礼 せんれい を受 う けた。クロティルデは自分 じぶん で子供 こども を育 そだ てたかったが、10月には短期間 たんきかん 子供 こども を手 て 離 はな さざるを得 え なくなった。クロティルデの妹 いもうと であるマリア・ピア・デ・サボイア がポルトガル王 おう ルイス1世 せい と結婚 けっこん することとなり、結婚 けっこん 以来 いらい 一 いち 度 ど も帰 かえ っていなかったトリノに呼 よ び戻 もど されたのである。クロティルデは父親 ちちおや と兄弟 きょうだい 、幼少 ようしょう 期 き を過 す ごした場所 ばしょ と再会 さいかい した。祝賀会 しゅくがかい の後 のち 、1863年 ねん にクロティルデは夫 おっと とともにエジプト に向 む かい、短 みじか い船旅 ふなたび を楽 たの しんだ。クロティルデは聖地 せいち を訪 おとず れたかったが、その願 ねが いは叶 かな わなかった[36] 。
帝政 ていせい の崩壊 ほうかい [ 編集 へんしゅう ]
1870年 ねん に撮影 さつえい されたイタリア王室 おうしつ の写真 しゃしん 。左 ひだり から三 さん 番目 ばんめ の男女 だんじょ がナポレオン・ジェローム とクロティルデ。左 ひだり から八 はち 番目 ばんめ がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい 。
1870年 ねん 、フランスが普 ひろし 仏 ふつ 戦争 せんそう に敗北 はいぼく し、第 だい 二 に 帝政 ていせい が崩壊 ほうかい すると、クロティルデは祖国 そこく に帰 かえ るという父親 ちちおや の主張 しゅちょう に背 そむ いてフランスに残 のこ ることを決意 けつい した。クロティルデはサヴォイア家 か の王女 おうじょ としての義務 ぎむ に基 もと づき、この記事 きじ の末尾 まつび に掲 かか げる彼女 かのじょ の生涯 しょうがい を要約 ようやく するような有名 ゆうめい な手紙 てがみ で父親 ちちおや に返答 へんとう した。ボナパルト家 か 全員 ぜんいん が逃亡 とうぼう し(ウジェニー皇后 こうごう は変装 へんそう して首都 しゅと を脱出 だっしゅつ しイングランドへ逃亡 とうぼう 。)、共和 きょうわ 制 せい が宣言 せんげん された後 のち 、記章 きしょう を携 たずさ えたサヴォイア公 こう クロティルデが9月5日 にち に白昼 はくちゅう 堂々 どうどう 、無蓋 むがい 馬車 ばしゃ で単身 たんしん パリを出発 しゅっぱつ した。フランス共和 きょうわ 国 こく 親衛隊 しんえいたい は彼女 かのじょ を讃 たた えた。
セダンの戦 たたか い ののち、ナポレオン
王朝 おうちょう の
衰退 すいたい がパリで
宣言 せんげん され、
皇后 こうごう 摂政 せっしょう クロティルデ
王女 おうじょ は9月4
日 にち に
逃亡 とうぼう し、
国外 こくがい 退去 たいきょ を
勧 すす める
人々 ひとびと の
忠告 ちゅうこく を
軽 かる んじた。いつものミサを
聞 き き、
近 ちか くの
病院 びょういん で
愛 あい する
患者 かんじゃ たちをいつものように
見舞 みま った
後 のち 、
翌朝 よくあさ まで
出発 しゅっぱつ することを
拒 こば んだ。そして、
通 とお りに
群 むら がる
人々 ひとびと に
気 き づかれないように
馬車 ばしゃ の
上 あ げ
込 こ み
窓 まど を
上 あ げるようにという
提案 ていあん に
対 たい して、
彼女 かのじょ は
高貴 こうき な
言葉 ことば で
答 こた えた。「
恐怖 きょうふ とサヴォイア
家 か は
会 あ ったことがありません。」そして、
馬車 ばしゃ の
中 なか で
顔 かお を
高 たか く
掲 かか げ、
逃亡 とうぼう 者 しゃ としてではなく
王女 おうじょ として
反乱 はんらん 軍 ぐん の
街 まち を
出発 しゅっぱつ した。
誰 だれ も
立 た ち
向 む かおうとする
者 もの はおらず、
確 たし かに
誰 だれ もがひれ
伏 ふ していた。
翌日 よくじつ 、フランス第 だい 二 に 帝政 ていせい の痕跡 こんせき はすべて消 き え去 さ った...。皇后 こうごう については何 なに も知 し られていなかった...。クロティルデ王女 おうじょ は王宮 おうきゅう に残 のこ っていた。彼女 かのじょ は挑戦 ちょうせん することも恐 おそ れることも望 のぞ まない真 しん の王女 おうじょ のように、急 いそ ぐことなく馬車 ばしゃ に乗 の って最後 さいご に出発 しゅっぱつ した。
— ピエール・ド・ラ・ゴルス著 ちょ 「第 だい 二 に 帝国 ていこく の歴史 れきし 」第 だい 7巻 かん (1905年 ねん )
クロティルデと三 さん 人 にん の子供 こども たち(1879年 ねん )[注 ちゅう 5]
その後 ご もクロティルデは夫 おっと の放縦 ほうしょう な行動 こうどう に悩 なや まされたが、夫 おっと はのちに彼女 かのじょ を捨 す てて経済 けいざい 的 てき な苦境 くきょう に立 た たされた。パリを出 で たクロティルデは1872年 ねん 5月 がつ 14日 にち にシスター・マリー=カテリーネの名 な でドミニコ会 かい の支部 しぶ である聖 せい ドミニコ信徒 しんと 友愛 ゆうあい 会 かい に入会 にゅうかい した[38] 。フランスを脱出 だっしゅつ した彼女 かのじょ はまずスイスのレマン湖畔 こはん の街 まち 、プランジャン にある美 うつく しい邸宅 ていたく に住 す み[39] 、1878年 ねん に父親 ちちおや が世 よ を去 さ るとイタリアに帰 かえ り、娘 むすめ のマリー・レティシア とともにモンカリエーリ城 じょう に住 す んだ。周囲 しゅうい から「モンカリエーリの聖人 せいじん 」と呼 よ ばれた彼女 かのじょ は、1911年 ねん 6月 がつ 25日 にち にインフルエンザ で死去 しきょ し、グラン・マドレ・ディ・ディオ教会 きょうかい で葬儀 そうぎ が営 いとな まれ[40] 、サヴォイア家 か の親族 しんぞく とともにスペルガ大 だい 聖堂 せいどう に埋葬 まいそう された。
クロティルデからヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい への書簡 しょかん [ 編集 へんしゅう ]
今 いま は
私 わたし が
去 さ るべきときではないと
保証 ほしょう します...。
私 わたし が去 さ れば、最悪 さいあく かつ最 もっと もなげかわしい結果 けっか が生 しょう じるでしょう。
私 わたし は少 すこ しも怖 こわ くありません。私 わたし は自分 じぶん が怖 こわ がることができるということさえ理解 りかい していません。なにかの? なぜ?
私 わたし の義務 ぎむ はできる限 かぎ り長 なが くここに留 と まることであり、たとえここにいて死 し んでしまったとしても、危険 きけん から逃 のが れることはできません...。
結婚 けっこん したとき、まだ若 わか かったのですが、自分 じぶん が何 なに をしているのか分 わ かっていましたし、もしそうするのであれば、それは自分 じぶん が望 のぞ んでいたからです。
私 わたし がここに留 と まることは、夫 おっと にとっても、子供 こども たちにとっても、祖国 そこく にとっても良 よ いことなのです。私 わたし の名前 なまえ さえ名誉 めいよ です。
親愛 しんあい なるお父 とう さん、このように表現 ひょうげん させていただくなら、私 わたし の祖国 そこく の名誉 めいよ です。十分 じゅうぶん に熟考 じゅっこう した上 うえ で、これをすべてお話 はな しします。
親愛 しんあい なるお父 とう さん、私 わたし を知 し っているでしょう、私 わたし が義務 ぎむ を果 は たさないことは何 なに もありません。そして、もし今 いま ここを離 はな れたら、私 わたし は寂 さび しくなるでしょう。私 わたし は世界 せかい のこと、富 とみ のこと、自分 じぶん の立場 たちば のことなど気 き にしません。
親愛 しんあい なるお父 とう さん、私 わたし はそれを気 き にしたことはありませんが、最後 さいご まで自分 じぶん の義務 ぎむ を果 は たしたいと思 おも っています。他 た にどうすることもできなくなったら、私 わたし は去 さ るつもりです...。彼女 かのじょ も離 はな れようとしませんでしたし、兄弟 きょうだい たちも離 はな れようとしませんでした。
私 わたし はただのサヴォイア家 か の王女 おうじょ ではありません!王子 おうじ たちが国 くに を離 はな れることについて彼 かれ らが何 なに と言 い っていたか覚 おぼ えていますか?
国 くに が危険 きけん にさらされているときに去 さ ることは永遠 えいえん に不名誉 ふめいよ であり恥 は ずべきことだ。私 わたし が去 さ ったら、私 わたし たちは隠 かく れるだけです。
深刻 しんこく な瞬間 しゅんかん には、エネルギーと勇気 ゆうき が必要 ひつよう です。私 わたし にはそれらがあり、主 あるじ はそれらを私 わたし にお与 あた えになり、さらに与 あた え続 つづ けています。
すみません、親愛 しんあい なるお父 とう さん、あまりにも自由 じゆう に話 はな してしまうかもしれませんが、私 わたし が感 かん じていること、心 しん の中 なか にあることを話 はな さないわけにはいきません。
お
母 かあ さんが
私 わたし を
天 てん から
認 みと めてくださると
信 しん じてください。
— マリーア・クロティルデ
サンタ・マリア・デッラ・スカラ教会 きょうかい の礼拝 れいはい 堂 どう 。左 ひだり 方 かた にクロティルデの彫像 ちょうぞう が見 み える。(2021年 ねん 撮影 さつえい )
1915年 ねん には彫刻 ちょうこく 家 か のピエトロ・カノニカ が神秘 しんぴ 的 てき な法悦 ほうえつ にひざまずくクロティルデの彫像 ちょうぞう を制作 せいさく し、モンカリエーリのサンタ・マリア・デッラ・スカラ教会 きょうかい に設置 せっち した。1940年 ねん からはクロティルデの列 れつ 福 ぶく 調査 ちょうさ が始 はじ まり、1942年 ねん 7月 がつ 10日 とおか にはローマ教皇 きょうこう ピウス12世 せい によってクロティルデは神 かみ のしもべ となった。現在 げんざい も列 れつ 福 ぶく の大義 たいぎ は続 つづ いており、毎年 まいとし 6月 がつ 25日 にち に祝 いわ われている[41] 。
伝記 でんき 映画 えいが ・ドラマ[ 編集 へんしゅう ]
^ マリー・カテリーヌ・デ・プレドル・グラシス(Marie Catherine de Predl Grassis)画 が 、トリノ王宮 おうきゅう 蔵 ぞう [2]
^ 当時 とうじ 12歳 さい のクロティルデは日記 にっき に以下 いか のように記 しる している。あの
部屋 へや は
一生 いっしょう 忘 わす れられません。
母 はは は
横 よこ たわっていて、
母 はは の
最期 さいご の
言葉 ことば が
今 いま でも
耳 みみ に
残 のこ っています
[8] 。
^ 反目 はんもく するどころか、ナポレオン3世 せい はいとこの妻 つま をすぐさま歓迎 かんげい した[23] 。
^ 卿 きょう 。市議会 しぎかい を代表 だいひょう し、つつしんで申 もう し上 あ げます。殿下 でんか 、ナポレオン皇太子 こうたいし 、クロティルデ王女 おうじょ を讃 たた える公立 こうりつ 学校 がっこう の生徒 せいと による音楽 おんがく 祭 さい にお越 こ しくださいますよう、ご招待 しょうたい 申 もう し上 あ げます。 — ジョセフ・M・ワイトマン市長 しちょう 。
^ 左 ひだり から長男 ちょうなん のナポレオン・ヴィクトル・ボナパルト (1862年 ねん - 1926年 ねん 、のちのナポレオン5世 せい )、次男 じなん のルイ(1864年 ねん - 1932年 ねん )、一人娘 ひとりむすめ のマリー・レティシア・ボナパルト (1866年 ねん - 1926年 ねん 、叔父 おじ であるアマデオ1世 せい (スペイン王 おう ) と結婚 けっこん した。)、クロティルデ。
^ “Serva di Dio Maria Clotilde di Savoia su santiebeati.it ”. 2020年 ねん 11月9日 にち 閲覧 えつらん 。
^ I FIGLI DI S.M. VITTORIO EMANUELE IN ETA' GIOVANILE. ritratto di figli di Vittorio Emanuele II di Savoia
^ C. Tessaro, Clotilde di Savoia , Milano 2012, pp. 14-15
^ C. Tessaro, cit., pp. 25-26
^ M. M. Favero, Maria Clotilde di Savoia-Napoleone , Torino 1943, p. 10
^ M. M. Favero, cit., p. 16
^ C. Tessaro, cit., p. 33
^ cfr. M. M. Favero, cit., p. 22
^ Per tutto il paragrafo cfr. C. Tessaro, pp. 38-41
^ C. Tessaro, cit., pp. 41-43
^ A. Biancotti, Maria Clotilde di Savoia , Torino 1955, p. 32
^ 裏面 りめん の画像 がぞう
^ C. Tessaro, cit., pp. 53-54
^ C. Tessaro, cit., p. 62
^ M. Ragazzi, Clotilde di Savoia Napoleone , Assisi 1942, p. 70; la missiva fu scritta il 12 agosto
^ M. M. Favero, cit., p. 42
^ Gli eventi nelle lettere di Costanza D'Azeglio, a cura di Maria Luisa Badellino , http://www.uciimtorino.it/costanzadazeglio/ii_05_1859_parte_prima.pdf 2014年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ C. Tessaro, cit., pp. 81-83
^ C. Tessaro, cit., pp. 84-87
^ M. Ragazzi, cit., p. 92
^ C. Tessaro, cit., pp. 94-95
^ M. Ragazzi, cit., p. 90
^ C. Tessaro, cit., p. 88
^ A. Biancotti, cit., p. 125
^ Vedere le missive riportate in M- Ragazzi, cit., alle pp. 96-98
^ C. Tessaro, cit., p. 105
^ Le prince Victor Napoléon 1862-1926 , Paris, 2007 , p.42 .
^ (de Witt 2007 , p. 47).
^ ジョルジュ・サンド からナポレオン王子 おうじ に宛 あ てた手紙 てがみ 、1862年 ねん 4月 がつ 17日 にち 付 つ け、「両 りょう 世界 せかい 評論 ひょうろん 」、第 だい 6巻 かん 、1923年 ねん 8月 がつ 15日刊 にっかん 。
^ C. Tessaro, cit., pp. 114-117
^ «Ma chiel-là a l'è matt! » (Ma quello è matto!), avrebbe esclamato Vittorio Emanuele in dialetto piemontese, riferendosi al genero; C. Tessaro, c it., p. 125
^ C. Tessaro, cit., pp. 126-127
^ A. Biancotti, cit., p. 131
^ Illinois Central Magazine . Illinois Central Railroad Company. (1922). p. 46. https://books.google.com/books?id=3WI3AQAAMAAJ&pg=PT46
^ C. Tessaro, cit., pp. 129-130
^ C. Tessaro, cit., pp. 131-133
^ Cfr. anche Lodovico (Giuseppe) Fanfani, O. P., La principessa Clotilde di Savoia: biografia e lettere , Grottaferrata, 1913, p. 29.
^ (de Witt 2007 , p. 48)
^ Remsen Whitehouse, p. 313.
^ “Serva di Dio Maria Clotilde di Savoia su santiebeati.it ”. 2020年 ねん 11月9日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “The Mad Monarchist: Servant of God Princess Maria Clotilde of Savoy ” (2011年 ねん 6月 がつ 22日 にち ). 2020年 ねん 11月12日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Mediterranean Nobility
^ a b “Guía Oficial de España ”. p. 159 (1904年 ねん ). 2019年 ねん 3月 がつ 8日 にち 閲覧 えつらん 。
Maria Ragazzi, Clotilde di Savoia Napoleone , Assisi, Pro Civitate Christiana, 1942
Michele M. Favero, Maria Clotilde di Savoia-Napoleone , Torino, L.i.c.e.-R. Berrutti & C., 1943.
Angiolo Biancotti, Maria Clotilde di Savoia , Torino, Società editrice internazionale, 1955
Tommaso Gallarati Scotti, Interpretazioni e memorie , Milano, Mondadori, 1960.
Valentino Brosio, Due principesse fra Torino e Parigi , Torino, Fògola editore, 1978 (biografie di Clotilde e della figlia Letizia Bonaparte).
Giulio Vignoli, Donne di Casa Savoia , Genova, Ecig, 2002.
Cristina Tessaro, Clotilde di Savoia. Il "sì" che fece l'Italia , Milano, Paoline, 2012.
Remsen Whitehouse, Henry (1897). The Sacrifice of a Throne: Being an Account of the Life of Amadeus, Duke of Aosta, sometime King of Spain . New York: Bonnel, Silver, and Co. https://archive.org/details/sacrificeathron02whitgoog
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