フアナ (Juana, 1479年 ねん 11月6日 にち - 1555年 ねん 4月 がつ 12日 にち )は、カスティーリャ 女王 じょおう 。カトリック両 りょう 王 おう の第 だい 2王女 おうじょ で、ブルゴーニュ公 こう フィリップ4世 せい の妃 ひ 。
兄 あに フアン 、姉 あね イサベル 及 およ びその子 こ ミゲル の早世 そうせい により、王位 おうい 継承 けいしょう 順位 じゅんい が1位 い となる。しかし、結婚 けっこん 後 ご から精神 せいしん 異常 いじょう が顕著 けんちょ となり、母 はは の崩御 ほうぎょ に伴 ともな う即位 そくい を経 へ て、特 とく に夫 おっと と死別 しべつ して以後 いご さらに悪化 あっか したため[1] 、約 やく 40年 ねん の長期間 ちょうきかん にわたり幽閉 ゆうへい された。この間 あいだ 、公文書 こうぶんしょ のサインは女王 じょおう フアナとカルロス1世 せい の2つのサインが添 そ えられ、名目 めいもく 上 じょう の共同 きょうどう 統治 とうち 者 しゃ であり続 つづ けた[2] 。この長男 ちょうなん カルロス1世 せい の統治 とうち 下 か でスペイン帝国 ていこく は隆盛 りゅうせい を極 きわ めることとなる。
「狂女 きょうじょ フアナ 」(Juana la Loca)という異名 いみょう でも知 し られ、芸術 げいじゅつ 作品 さくひん の題材 だいざい ともなっている。
1479年 ねん 、カスティーリャ女王 じょおう イサベル1世 せい の夫 おっと で共同 きょうどう 国王 こくおう であるフェルナンド5世 せい がアラゴン 国王 こくおう フェルナンド2世 せい として即位 そくい し、カスティーリャ・アラゴン連合 れんごう 王国 おうこく (スペイン王国 おうこく )が成立 せいりつ する。同年 どうねん 、フアナは2人 ふたり の間 あいだ の次女 じじょ として誕生 たんじょう 。
幼少 ようしょう 期 き は、内気 うちき な性格 せいかく で一人 ひとり で過 す ごすことを好 この み、読書 どくしょ 好 す きで多数 たすう の言語 げんご を習得 しゅうとく した[3] 。そして、非常 ひじょう に信仰 しんこう 深 ふか く育 そだ つが[4] 、政治 せいじ には全 まった く関心 かんしん を示 しめ さなかったため母 はは イサベル女王 じょおう を落胆 らくたん させた[5] 。
第 だい 一 いち 次 じ イタリア戦争 せんそう における対 たい 仏 ふつ 同盟 どうめい のため、父 ちち フェルナンド5世 せい 側 がわ からローマ王 おう マクシミリアン に熱心 ねっしん に二 に 重 じゅう 結婚 けっこん の働 はたら きかけがあった[6] 。マクシミリアン側 がわ は躊躇 ちゅうちょ していたが、フランス王 おう シャルル8世 せい による1495年 ねん 10月 がつ のミラノ侵攻 しんこう を受 う けて同年 どうねん 11月 がつ に結婚 けっこん の約束 やくそく が成立 せいりつ した[7] 。
フィリップ美 よし 公 おおやけ との結婚 けっこん [ 編集 へんしゅう ]
(1500年 ねん 、フアン・デ・フランデス 画 が )
1496年 ねん 10月 がつ 20日 はつか にハプスブルク家 か の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい マクシミリアン1世 せい の長男 ちょうなん であるブルゴーニュ公 こう フィリップ (美 び 公 こう 、端麗 たんれい 公 こう )と結婚 けっこん した。兄 あに のアストゥリアス公 こう フアン はフィリップの妹 いもうと マルグリット (マルガリータ)と翌 よく 1497年 ねん 4月 がつ 3日 にち に結婚 けっこん しており、いわゆる二 に 重 じゅう 結婚 けっこん であった。
結婚 けっこん にあたり、フアナは2万 まん 2000人 にん の従者 じゅうしゃ 、130隻 せき にも及 およ ぶ大 だい 規模 きぼ な船団 せんだん を伴 ともな ってネーデルラント へ渡航 とこう した[8] 。ゼーラント に到着 とうちゃく した一 いち 行 ぎょう をフィリップ美 よし 公 おおやけ は出迎 でむか えず、フアナを落胆 らくたん させる[9] 。しかし、フィリップの妹 いもうと でスペインに嫁 とつ ぐ予定 よてい のマルグリットが暖 あたた かく歓迎 かんげい した[10] 。
婚礼 こんれい の前日 ぜんじつ 、フィリップとフアナは初 はじ めて対面 たいめん する。美 び 公 こう という通称 つうしょう 通 どお り、金髪 きんぱつ 碧眼 へきがん の美 うつく しい姿 すがた にフアナは惹 ひ かれ、またフィリップにとってもカスティーリャ人 じん のフアナは初 はじ めて見 み るタイプの女性 じょせい であり、2人 ふたり は正式 せいしき な婚礼 こんれい に先立 さきだ ち、対面 たいめん に立 た ち会 あ ったスペイン人 じん 司祭 しさい に命 めい じて、その場 ば で簡素 かんそ な結婚 けっこん の儀式 ぎしき を行 おこな った[11] 。結婚 けっこん 当初 とうしょ は、2人 ふたり は情熱 じょうねつ 的 てき に愛 あい し合 あ った。しかし元来 がんらい 真面目 まじめ なフアナは夫 おっと の不実 ふじつ を許 ゆる すことが出来 でき ず、人目 ひとめ をはばからず夫 おっと や相手 あいて の女 おんな に激昂 げっこう することもしばしばで、フィリップの心 しん は離 はな れていった。夫 おっと への猜疑心 さいぎしん へ駆 か られ、次第 しだい にフアナの精神 せいしん 状態 じょうたい は不安定 ふあんてい になっていった。
当初 とうしょ 、この縁組 えんぐみ は両家 りょうけ の絆 きずな を深 ふか めるという以上 いじょう のものではなかった。しかし1497年 ねん 、フアナの兄 あに フアンが結婚 けっこん から間 ま もなく夭折 ようせつ 、残 のこ された身重 みおも の王 おう 太子 たいし 妃 ひ マルグリット(マルガリータ)は男児 だんじ を死産 しざん した。さらに1498年 ねん にはポルトガル 王 おう マヌエル1世 せい [注釈 ちゅうしゃく 1] の妃 ひ となっていた姉 あね のイサベル が、1500年 ねん にはその子 こ ミゲル が相次 あいつ いで亡 な くなり、フアナがカスティーリャの王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ に指名 しめい された。
王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ として[ 編集 へんしゅう ]
1501年 ねん 11月、フアナは夫 おっと フィリップとともにカスティーリャへ渡 わた ることとなる。フィリップは海路 かいろ を嫌 きら い、ハプスブルク家 か の宿敵 しゅくてき となるフランス経由 けいゆ で向 む かうこととなった[12] 。フィリップの父 ちち マクシミリアン1世 せい と時 とき のフランス王 おう ルイ12世 せい の妃 ひ アンヌ・ド・ブルターニュ の間 あいだ には過去 かこ の因縁 いんねん があったが[注釈 ちゅうしゃく 2] 、フィリップは全 まった く気 き にせずフランス宮廷 きゅうてい での歓待 かんたい を謳歌 おうか した。一方 いっぽう 、フアナは過去 かこ の因縁 いんねん に加 くわ えフランス王家 おうけ の悪習 あくしゅう を聞 き いて育 そだ ったため、怒 いか りと屈辱 くつじょく を感 かん じていた[13] 。
スペイン 到着 とうちゃく 後 ご 、フィリップはフアナの両親 りょうしん であるイサベル女王 じょおう とフェルナンド王 おう に対 たい し、フアナが精神 せいしん 異常 いじょう をきたしていると喧伝 けんでん した上 うえ で、自身 じしん の王位 おうい 継承 けいしょう を要求 ようきゅう した[14] 。しかしフィリップは、スペインの乾 かわ ききった土地 とち と謹厳 きんげん で信心 しんじん 深 ふか い人々 ひとびと を嫌 きら い、翌年 よくねん には臨月 りんげつ の妻 つま を一人 ひとり カスティーリャに残 のこ し、故郷 こきょう のネーデルラントへ帰 かえ った。
フアナはショックを受 う け、さらに病状 びょうじょう が悪化 あっか する。子 こ どもの養育 よういく は困難 こんなん な状態 じょうたい であった。ネーデルラント 総督 そうとく となっていた兄嫁 あによめ マルグリット が、長男 ちょうなん カルロス(のちのカルロス1世 せい =皇帝 こうてい カール5世 せい )の他 ほか 、レオノール 、イサベル 、マリア を養育 よういく した。フアナの父 ちち フェルナンド2世 せい が次男 じなん フェルナンド(後 ご の皇帝 こうてい フェルディナント1世 せい )を育 そだ てた[15] 。その出産 しゅっさん 後 ご 、フアナは一度 いちど ネーデルラントに戻 もど る。
カスティーリャ女王 じょおう として即位 そくい した後 のち に生 う まれた四 よん 女 じょ のカタリナ のみがフアナの手元 てもと に留 と め置 お かれた。
イサベル女王 じょおう はフィリップが君主 くんしゅ の資質 ししつ に欠 か けることを見抜 みぬ くと、「娘 むすめ フアナとその夫 おっと フェリペをカスティーリャの後継 こうけい 者 しゃ とする。」と明確 めいかく に遺言 ゆいごん した[16] 一方 いっぽう で、フアナのスペイン到着 とうちゃく まで、または統治 とうち 困難 こんなん な場合 ばあい はフェルナンドが摂政 せっしょう としてカルロスの成人 せいじん まで政務 せいむ を執 と り行 おこな う旨 むね の但 ただ し書 が きを遺 のこ した[17] [18] 。すなわち、フアナに統治 とうち 能力 のうりょく がなければ、フィリップ(西 にし :フェリペ)の共同 きょうどう 統治 とうち 権 けん 事態 じたい も存在 そんざい しない[19] 。一方 いっぽう 、フィリップであれば容易 ようい に担 かつ ぎ上 あ げることが出来 でき ると目論 もくろ む貴族 きぞく たちもいた[20] 。
フィリップとフアナ女王 じょおう (1505年 ねん )
父 ちち と夫 おっと の間 あいだ で[ 編集 へんしゅう ]
1504年 ねん 11月にイサベル1世 せい が崩御 ほうぎょ した。先述 せんじゅつ の遺言 ゆいごん の存在 そんざい が明 あき らかになると、フィリップは激怒 げきど し、フアナを脅迫 きょうはく したり、あるいは結婚 けっこん 当初 とうしょ のように愛情 あいじょう を装 よそお って懐柔 かいじゅう しようとしたが、フアナは頑 かたく なにこれを退 しりぞ けた[21] 。また、父 ちち アラゴン王 おう フェルナンド2世 せい は翌 よく 1505年 ねん にジェルメーヌ・ド・フォワ と再婚 さいこん し、嗣子 しし をもうけようとしていた。もし嗣子 しし が誕生 たんじょう すれば、アラゴンの王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん はフアナから消滅 しょうめつ する事態 じたい となった。
スペイン王国 おうこく は、カスティーリャ=レオン王国 おうこく とアラゴン=カタルーニャ 王国 おうこく が統一 とういつ されて日 ひ が浅 あさ く、多数 たすう 派 は であり絶大 ぜつだい な支持 しじ を集 あつ めたイサベル女王 じょおう の崩御 ほうぎょ によって国内 こくない は混乱 こんらん に陥 おちい った。フィリップはスペインを訪 おとず れて、フェルナンドと対決 たいけつ してでもフアナの実権 じっけん を手 て に入 い れる野心 やしん があった[22] 。
フアナは再度 さいど カスティーリャに渡 わた る。1506年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、フリシンゲン 港 みなと より海路 かいろ で出発 しゅっぱつ する。この航海 こうかい の途上 とじょう 、暴風 ぼうふう に見舞 みま われた一 いち 行 ぎょう はイングランド に漂着 ひょうちゃく し、イングランド王 おう ヘンリー7世 せい の保護 ほご を受 う ける。1月31日 にち 、フィリップとフアナ一 いち 行 ぎょう はウィンザー城 じょう に到着 とうちゃく し、歓待 かんたい を受 う ける。期 き せずしてフィリップとヘンリー7世 せい は会談 かいだん の機会 きかい を得 え 、両者 りょうしゃ の政治 せいじ ・軍事 ぐんじ 面 めん での連携 れんけい を約束 やくそく した条約 じょうやく を結 むす ぶ[23] 。条約 じょうやく 締結 ていけつ に伴 ともな い、フィリップの妹 いもうと マルグリット とヘンリー王子 おうじ (のちのヘンリー8世 せい )、フィリップとフアナの長男 ちょうなん カール (カルロス)とメアリー 王女 おうじょ の婚約 こんやく が決定 けってい された[24] 。
フィリップは口実 こうじつ をつけて、フアナを表 おもて 舞台 ぶたい に出 で そうとせず、イングランド王 おう 太子 たいし 未亡人 みぼうじん である妹 いもうと カタリナ (キャサリン)[注釈 ちゅうしゃく 3] と対面 たいめん する機会 きかい もほとんどなかった。
4月 がつ 末 まつ になって、フアナら一 いち 行 ぎょう はラ・コルーニャ港 こう に到着 とうちゃく する。カスティーリャ貴族 きぞく 達 たち は、再婚 さいこん 問題 もんだい への反発 はんぱつ からフェルナンド2世 せい への不満 ふまん を口 くち にし、夫妻 ふさい を熱烈 ねつれつ に歓迎 かんげい して恭順 きょうじゅん した[25] 。首都 しゅと バリャドリッド へ向 む かう道中 どうちゅう 、一 いち 貴族 きぞく に扮 ふん した父 ちち フェルナンド2世 せい が出迎 でむか えた[26] 。フェルナンド2世 せい は、フィリップと対立 たいりつ して内戦 ないせん に陥 おちい らせるより、フアナの王位 おうい 継承 けいしょう を認 みと めてネーデルラントへ帰還 きかん させ、スペインの実権 じっけん だけを握 にぎ ろうとしていた[27] 。そしてフェルナンドは、道中 どうちゅう の教会 きょうかい でフアナのカスティーリャ女王 じょおう 即位 そくい とブルゴーニュ公 こう フィリップの摂政 せっしょう 就任 しゅうにん を認 みと めることを表明 ひょうめい し、両者 りょうしゃ は和解 わかい したかに見 み えた[28] 。こうしてフアナはカスティーリャ王位 おうい に就 つ いた。夫 おっと フィリップは「カスティーリャ王 おう フェリペ1世 せい 」を名乗 なの り、妻 つま との共同 きょうどう 統治 とうち を主張 しゅちょう するが、コルテス (議会 ぎかい )では「王 おう の配偶 はいぐう 者 しゃ 」(王 おう 配 はい )としか認 みと められなかった。
夫 おっと との死別 しべつ と幽閉 ゆうへい [ 編集 へんしゅう ]
フィリップの死去 しきょ (19世紀 せいき 画 が )
『狂女 きょうじょ フアナ 』フランシスコ・プラディーリャ(1877年 ねん )マドリード、プラド美術館 びじゅつかん
1506年 ねん 、フィリップはブルゴス でペロタ をした直後 ちょくご に飲 の んだ冷水 れいすい にあたり、9月25日 にち に急死 きゅうし した[29] 。ナポリ 滞在 たいざい 中 ちゅう だったフェルナンド2世 せい は、出国 しゅっこく 前 まえ にシスネロス 枢機卿 すうききょう を国王 こくおう 代理 だいり に指名 しめい していたため、混乱 こんらん を防止 ぼうし することが出来 でき た[30] 。
衝撃 しょうげき を受 う けたフアナは完全 かんぜん に正気 しょうき を失 うしな った。夫 おっと の埋葬 まいそう を許 ゆる さず、その棺 かん を運 はこ び出 だ して馬車 ばしゃ に乗 の せ、数 すう 年間 ねんかん カスティーリャ国内 こくない をさまよい続 つづ けた。王室 おうしつ 礼拝 れいはい 堂 どう のあるグラナダ を目指 めざ したとも言 い われている。
1507年 ねん 頃 ごろ 、イングランド 王 おう ヘンリー7世 せい から再嫁 さいか の話 はなし [31] [32] が浮上 ふじょう する。ヘンリー7世 せい は男子 だんし の後継 こうけい 者 しゃ が1人 にん しかおらず、薔薇 ばら 戦争 せんそう 後 ご の国内 こくない 情勢 じょうせい の安定 あんてい のため再婚 さいこん に熱心 ねっしん だった。しかし、未亡人 みぼうじん のままイングランドに留 と まる実妹 じつまい カタリナの一 いち 件 けん もあり、縁談 えんだん はまとまらないまま、ヘンリー7世 せい は1509年 ねん に崩御 ほうぎょ する。
1508年 ねん 、フアナは父 ちち 王 おう によってトルデシリャス の聖 せい クララ王立 おうりつ 修道院 しゅうどういん (英語 えいご 版 ばん ) に隣接 りんせつ した城 しろ 館 かん に幽閉 ゆうへい された。女王 じょおう は政治 せいじ の場 ば から忘 わす れ去 さ られ、「狂女 きょうじょ 」(La Loca)と呼 よ ばれる。ネーデルラントで出産 しゅっさん した4子 し の記憶 きおく はないが、末 すえ 娘 むすめ カタリナに対 たい しては異常 いじょう な執着 しゅうちゃく を見 み せ、カタリナの惨状 さんじょう を見 み た長子 ちょうし カルロスが彼女 かのじょ を脱出 だっしゅつ させるとフアナは狂乱 きょうらん して暴 あば れたため、カタリナはトルデシリャスに戻 もど されたとされる[33] 。
1516年 ねん には父 ちち フェルナンド2世 せい も死去 しきょ し、長男 ちょうなん カルロスがフランドルから迎 むか えられ、カスティーリャ=レオンとアラゴン=カタルーニャなどを統合 とうごう したスペイン王 おう カルロス1世 せい として政務 せいむ を代行 だいこう することになる。ここからスペイン・ハプスブルク朝 あさ の時代 じだい を迎 むか えることとなる。ネーデルラント育 そだ ちのカルロスと側近 そっきん に対 たい する反発 はんぱつ や、スペイン育 そだ ちの次男 じなん フェルディナントを推 お す勢力 せいりょく も背景 はいけい にあり、1520年 ねん にコムネロスの反乱 はんらん が勃発 ぼっぱつ する。この時 とき 、反逆 はんぎゃく 者 しゃ たちはフアナと会談 かいだん し、女王 じょおう の承認 しょうにん を得 え て正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう しようとしたが、フアナは全 まった く政治 せいじ に関心 かんしん を示 しめ さず、以後 いご 反乱 はんらん は自然 しぜん 瓦解 がかい に向 む かい、国王 こくおう 軍 ぐん の勝利 しょうり で終結 しゅうけつ した[34] 。
フアナは40年 ねん 以上 いじょう の幽閉 ゆうへい 生活 せいかつ の末 すえ 、1555年 ねん に生涯 しょうがい を閉 と じたが、正式 せいしき には崩御 ほうぎょ するまで退位 たいい を拒 こば み、女王 じょおう であり続 つづ けた。またカルロス1世 せい は、遠征 えんせい からの帰国 きこく のたびに母 はは を見舞 みま い、存命 ぞんめい であることに安堵 あんど していた[35] 。サインをする際 さい も、フアナは最期 さいご まで「ヨ・ラ・レイナ」(Yo la reina:我 わが 、女王 じょおう )としていた。政治 せいじ 的 てき には母 はは 譲 ゆず りの芯 しん の強 つよ さを発揮 はっき し、「王 おう は我 わが のみ」(solo yo)と宣言 せんげん して、無能 むのう な夫 おっと とは対照 たいしょう 的 てき であったと(その統治 とうち 能力 のうりょく の有無 うむ は別 べつ として)評価 ひょうか する向 む きもある[誰 だれ によって? ] 。
1555年 ねん 4月 がつ 12日 にち 、フアナが崩御 ほうぎょ すると、すでに老境 ろうきょう に入 はい っていたカルロス1世 せい に強 つよ い精神 せいしん 的 てき 打撃 だげき を与 あた え[36] 、同年 どうねん 10月 がつ 、カルロス1世 せい は金 きむ 羊毛 ようもう 騎士 きし 団 だん 長 ちょう の職 しょく やネーデルラント 統治 とうち を息子 むすこ (フアナの孫 まご )フェリペ2世 せい に譲位 じょうい し、隠棲 いんせい に入 はい ることとなる。
映画 えいが ・書籍 しょせき など[ 編集 へんしゅう ]
^ 後 のち に妹 いもうと マリア 、長女 ちょうじょ レオノール の夫 おっと にもなった。
^ マクシミリアンとアンヌは代理 だいり 結婚 けっこん していたが、先代 せんだい のフランス王 おう シャルル8世 せい がマクシミリアンの娘 むすめ マルグリットとの結婚 けっこん を無効 むこう にしてアンヌを王妃 おうひ にした。その後 ご 、シャルル8世 せい の急死 きゅうし 後 ご に王位 おうい を継 つ いだルイ12世 せい は、最初 さいしょ の王妃 おうひ ジャンヌ (シャルル8世 せい の姉 あね )を離婚 りこん してアンヌと再婚 さいこん した。
^ 当時 とうじ は王 おう 太子 たいし 未亡人 みぼうじん としてイングランドに留 と め置 お かれ、イングランドからもスペインからも冷遇 れいぐう されており、フアナの助力 じょりょく を期待 きたい していた。その後 ご 、イングランド王 おう ヘンリー8世 せい 妃 ひ となる。
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^ 江村 えむら 2013 ,p29
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^ 江村 えむら 2013 ,p40-41
^ 江村 えむら 2013 ,p195
^ 江村 えむら 2013 ,p353
先代 せんだい ミゲル・デ・ラ・パス フアン(フアナの異母弟 いぼてい )
ジローナ女 おんな 公 こう 1502年 ねん - 1509年 ねん 1509年 ねん - 1516年 ねん
次代 じだい フアン(フアナの異母弟 いぼてい )カルロス1世 せい
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