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きむ羊毛ようもう騎士きしだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きむ羊毛ようもう勲章くんしょう
きむ羊毛ようもう勲章くんしょう(頸飾)
火口かこうかね火打石ひうちいし意匠いしょうつらなり、中央ちゅうおうひつじるされている
スペイン国王こくおうおよびハプスブルク家長かちょうによる栄典えいてん
種別しゅべつ 騎士きしだん勲章くんしょう
標語ひょうご Pretium Laborum Non Vile
われらのはたらきに報償ほうしょうあたいしないものはない
創設そうせつしゃ フィリップ3せい
状態じょうたい 存続そんぞく
主権しゅけんしゃ西にし フェリペ6せい
主権しゅけんしゃおう カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
地位ちい 騎士きし
歴史れきし統計とうけい
創立そうりつ 1430ねん (594ねんまえ) (1430)

きむ羊毛ようもう騎士きしだん(きんようもうきしだん、フランス語ふらんすご: Ordre de la Toison d'orスペイン: Orden del Toisón de Oroドイツ: Orden vom Goldenen Vliesオランダ: Orde van het Gulden Vlies英語えいご: Order of the Golden Fleece)は、ブルゴーニュこうフィリップ3せいによって創設そうせつされた世俗せぞく騎士きしだんスペイン王国おうこく最高さいこう騎士きしだん勲章くんしょうとして現存げんそんし、オーストリアでもハプスブルクによる名誉めいよとして存続そんぞくしている。

英語えいごもとづいてゴールデン・フリース騎士きしだんフランス語ふらんすごもとづいてトワゾン・ドール騎士きしだんともばれる。

概要がいよう

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創設そうせつしゃフィリップ善良ぜんりょうこう騎士きしたち

1430ねんに、フィリップ善良ぜんりょうこう(ル・ボン)がポルトガル王女おうじょイザベル結婚けっこんするさいに、イングランドガーター騎士きしだんならってつくられた。きよしアンデレ(サン・タンドレ)を守護しゅご聖人せいじんとし、異端いたん排除はいじょしてカトリック守護しゅごすることを目的もくてきの1つにしており、宗教しゅうきょう改革かいかくときにはメンバーをカトリックのみに限定げんていしていた。騎士きしだん集会しゅうかい開催かいさいされたさいには、当時とうじ騎士きしだんいん全員ぜんいん紋章もんしょうえがいたいたえがかれている。これはフランデレン地方ちほう中心ちゅうしんとして複数ふくすう教会きょうかいのこされており、きむ羊毛ようもう騎士きしだんはブルゴーニュ貴族きぞく身分みぶん地位ちいおよアイデンティティ象徴しょうちょうとなった[1]

フィリップ善良ぜんりょうこう孫娘まごむすめで、ヴァロワ=ブルゴーニュ最後さいご君主くんしゅとなったマリーおんなこうハプスブルクマクシミリアン神聖しんせいローマ皇帝こうてい)と結婚けっこんしたことで、同家どうけ君主くんしゅ騎士きしだん主権しゅけんしゃとなった。16世紀せいきにかけてハプスブルク勢力せいりょく拡大かくだいにより、権威けんい増大ぞうだいしていった[2]

ハプスブルクは、スペインとオーストリアにかれ、1700ねんカルロス2せい崩御ほうぎょしてスペイン・ハプスブルク断絶だんぜつする。スペイン継承けいしょう戦争せんそうて、王朝おうちょうブルボンあさわったため、騎士きしだんもまたスペインオーストリアかれた[3]

スペインとオーストリアで、勲章くんしょうかたちことなる。スペインは君主くんしゅせい廃止はいし王政おうせい復古ふっこかえしつつ、今日きょう同国どうこく最高さいこう勲章くんしょうとして存続そんぞくしている。一方いっぽう、オーストリアはだい1世界せかい大戦たいせんオーストリア革命かくめいにより帝政ていせい廃止はいしされ、きむ羊毛ようもう騎士きしだん地位ちい勲章くんしょう政府せいふ君主くんしゅ公認こうにんではなくなった。しかし、最後さいご皇帝こうていカール1せい子孫しそんつづ主権しゅけんしゃつとめ、カトリック諸国しょこくでの権威けんいたもっている[3]

標語ひょうご意匠いしょう

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モットーは「Pretium Laborum Non Vileわれらのはたらきに報償ほうしょうあたいしないものはない)

名称めいしょうギリシア神話しんわイアソン物語ものがたりきむ羊毛ようもう)と、旧約きゅうやく聖書せいしょギデオン物語ものがたり由来ゆらいしている[4][5]。これはフィリップ善良ぜんりょうこうが、十字軍じゅうじぐん想定そうていしていたからである[1]当初とうしょはイアソンのみだったが、ギリシャ神話しんわ、すなわち、カトリック教会きょうかいから異教いきょう由来ゆらいにしていることがこのましくないとされ、からギデオンの物語ものがたり理由りゆうづけされた[6]

なお「きむ羊毛ようもうがわ」は錬金術れんきんじゅつ達人たつじん象徴しょうちょうでもある。ただし、善良ぜんりょうこう何故なぜきむ羊毛ようもう意匠いしょうさだめたかは、騎士きしだん規約きやくにも記載きさいがない[注釈ちゅうしゃく 1][8]

衣装いしょうは、銀鼠ぎんねずしょく縁取へりとりがほどこされたひざたけ真紅しんくのローブに、おなじく真紅しんくのマントであり、マントには火口かこうかね火打石ひうちいし文様もんようほどこされた[9]。この意匠いしょうはフィリップ善良ぜんりょうこうジャンこわおおやけ(サン・プール)より継承けいしょうしたもので、敵対てきたいするオルレアン紋章もんしょうである棍棒こんぼうけずり、さらにやすという標語ひょうご由来ゆらいする[10]

騎士きしだん規約きやく集会しゅうかい

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騎士きしだん規約きやくは、1431ねん11月30にちだい1かい騎士きしだん集会しゅうかい先立さきだつ11月27にち公表こうひょうされた。当初とうしょぜん103じょうからり、騎士きしだん構成こうせいや、団員だんいん義務ぎむをはじめ組織そしき運営うんえい必要ひつよう事項じこうしめされている[11]。これはかみほんとして、団員だんいん配布はいふされた[11]。1446ねん発布はっぷされたしん規約きやくは、とくおおきな改定かいていがなされている[11]ぜん94じょうになり、66じょう団員だんいん団長だんちょう規定きていと28じょう役職やくしょくしゃ規定きてい構成こうせいになった[11]

きむ羊毛ようもう騎士きしだんきゅう規約きやくと、どう時代じだいのガーター騎士きしだん規約きやく比較ひかくすると、組織そしき枠組わくぐとう類似るいじてんられる[12]一方いっぽう相互そうご扶助ふじょ総会そうかい団員だんいん選出せんしゅつとうについては、独自どくじせいられる[12]

騎士きしだん規約きやくもとづき、きよしアンデレ祝日しゅくじつである11月30にち団長だんちょう指名しめいする都市としで、『騎士きしだん集会しゅうかい総会そうかい)』(chapitre)がひらかれる[4]のちに、3ねんごと5月2にち変更へんこうされた[4]宗教しゅうきょう行事ぎょうじ中心ちゅうしんに、騎士きしだん査問さもん裁判さいばんしん団員だんいん選出せんしゅつが1週間しゅうかんから1かげつにわたっておこなわれ、ブルゴーニュ公国こうこく壮大そうだい華麗かれい儀式ぎしきひとつとなった[4]集会しゅうかい公国こうこくほかもよおごと並行へいこうしてひらかれることもしばしばで、その華麗かれいさは欧州おうしゅう諸侯しょこう羨望せんぼうてきであったという[13]

歴史れきし

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創設そうせつ背景はいけい

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国内こくない情勢じょうせい

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1424ねんブルゴーニュ公国こうこくわか君主くんしゅフィリップ善良ぜんりょうこうは、エノー、ホラント、ゼーラントの3はくりょうめぐり、カンブレーじゅう結婚けっこん根拠こんきょとして継承けいしょう主張しゅちょうした。その結果けっかジャクリーヌ・ド・エノーおよびそのおっとグロスターこうハンフリーこうそうこる。1428ねんにフィリップによる継承けいしょう承認しょうにんされ、1432ねんにジャクリーヌが地位ちい領土りょうど放棄ほうきした。

ブルゴーニュ公国こうこく政治せいじてき対立たいりつ内包ないほう集権しゅうけんりょくよわかったため[14]騎士きしだん設立せつりつは、ブルゴーニュおよ周辺しゅうへん諸国しょこく諸侯しょこう儀礼ぎれい体系たいけいむ、外交がいこうてき意図いとがあったとも指摘してきされている[15]

国外こくがい情勢じょうせいとガーター勲章くんしょう

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ひゃくねん戦争せんそうでは、ブルゴーニュ公国こうこくイングランドみ、ブルゴーニュおう太子たいしようするアルマニャックとで対立たいりつしていた。善良ぜんりょうこう姉妹しまいも、ヘンリー6せい叔父おじとつぎ、善良ぜんりょうこうもイングランドと姻戚いんせき関係かんけいにあるポルトガル王女おうじょイザベル[注釈ちゅうしゃく 2]さい再婚さいこんする。しかし前節ぜんせつ経緯けいいから、イングランドとの関係かんけい円満えんまんではなく、1429ねんジャンヌ・ダルク登場とうじょうして戦局せんきょく急変きゅうへんすると、1431ねんにブルゴーニュはフランスと休戦きゅうせんする。

ひゃくねん戦争せんそう最初さいしょ、1348ねん(または1344ねん)にイングランドではガーター騎士きしだん結成けっせいされた。『アーサーおう伝説でんせつ』に由来ゆらいし、たいふつ戦争せんそう士気しき高揚こうようさせる目的もくてきがあった[16]どう勲章くんしょうは1400ねんはじめて外国がいこくじん授与じゅよされ[17]外交がいこうじょう意義いぎつようになる。1422ねんにはフィリップ善良ぜんりょうこうへも授与じゅよ打診だしんされたが辞退じたいしている[18][19]

他方たほう東欧とうおう情勢じょうせいでは、オスマン帝国ていこく(トルコ)がオスマン・ひがしローマ戦争せんそう渦中かちゅうであり、メフメト1せい在位ざいい:1413ねん - 1421ねん)とムラト2せい在位ざいい:1421ねん - 1444ねん)によってさい統一とういつされ、ふたた国力こくりょくしていた。

黎明れいめい

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イザベルフィリップ善良ぜんりょうこうヘント市立しりつ美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞう

1430ねん1がつ10日とおか、フィリップ善良ぜんりょうこうポルトガル王女おうじょイザベルとの婚礼こんれい祝宴しゅくえんなかで、創設そうせつ発表はっぴょうされた[13][20]

創設そうせつ前後ぜんこう記録きろくは、紋章もんしょういん長官ちょうかんであるジャン・ルフェーブル・ド・サン=レミ英語えいごばんの『年代ねんだい』に詳細しょうさいのこされている[14]創設そうせつ目的もくてきのひとつに「キリストきょう信仰しんこう擁護ようご」がかかげられ、フィリップ善良ぜんりょうこう構想こうそう十字軍じゅうじぐんがあったことをしめしている[21]。また、ガーター騎士きしだんへの対抗たいこう意識いしきから構成こうせいされたことも指摘してきされている[19][22]

だい1かい集会しゅうかいは、きよしアンデレ祝日しゅくじつである1431ねん11月30にちに、リールげんフランス)で開催かいさいされた[13][23]集会しゅうかい直前ちょくぜん11月27にち公表こうひょうされた騎士きしだん規約きやくで、団員だんいんすう団長だんちょうであるブルゴーニュこう1めい騎士きし30めいの、けい31めいさだめられ、だい1かい集会しゅうかいまでに25めい選出せんしゅつされた[13][9]

1443ねん11月30にちディジョンだい3かい集会しゅうかい開催かいさいされた[24]直前ちょくぜんの11月10にち誕生たんじょうした、フィリップ善良ぜんりょうこう嫡男ちゃくなんシャルル騎士きしだん参加さんか容易よういにするため、このとき定員ていいんを25めい主権しゅけんしゃ団員だんいん24めい)から31めいとしたとするせつもある[25]

ひゃくねん戦争せんそうにおけるアジャンクールのたたか(1415ねん以来いらい捕虜ほりょとなっていたオルレアンこうシャルルについて、フィリップ善良ぜんりょうこうがその解放かいほう尽力じんりょくしたえんで、オルレアンこうシャルルとマリー・ド・クレーヴ結婚けっこん成立せいりつさせた[26]二人ふたり結婚式けっこんしき直後ちょくご、1440ねん11月30にち開催かいさいされた、だい6かい集会しゅうかいでオルレアンこうシャルルは38番目ばんめ騎士きしとなった[27]

オスマン帝国ていこく脅威きょういせまるにつれ、1451ねん騎士きしだん集会しゅうかいではシャロン大司教だいしきょうジャン・ジェルマン(Jean Germain)が十字軍じゅうじぐん結成けっせい熱烈ねつれつ演説えんぜつおこなった[28]1453ねんコンスタンティノープル陥落かんらくによるひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼうけ、フィリップ善良ぜんりょうこうは1454ねん十字軍じゅうじぐん集会しゅうかい開催かいさいし、参列さんれつしゃ十字軍じゅうじぐん宣誓せんせい(雉の宣誓せんせい)をおこなわせた[29]。これは、ブルゴーニュ宮廷きゅうていおこなわれたもっと華麗かれい宴会えんかいとして記録きろくされている[30]食事しょくじなどその消費しょうひされる経費けいひだけでなく、出席しゅっせきしゃ衣装いしょうまでもが善良ぜんりょうこうによる支出ししゅつだった[31]。ただし、余興よきょう出演しゅつえんしゃびかけで善良ぜんりょうこう以下いか次々つぎつぎおこな演出えんしゅつがかった宣誓せんせいは、あらかじめ「不可抗力ふかこうりょくにより実行じっこう不可能ふかのう」になることも想定そうていされているものだった[32]

1456ねんローマ教皇きょうこうカリストゥス3せい十字軍じゅうじぐん結成けっせい欧州おうしゅう諸侯しょこうびかけると、フィリップ善良ぜんりょうこう遠征えんせい計画けいかく作成さくせいし、同年どうねん6がつきむ羊毛ようもう騎士きしだんだい9かい集会しゅうかいで、フランス国王こくおうたい十字軍じゅうじぐん宣誓せんせいおうじ、遠征えんせいおこなうよう要請ようせいした[33][34]。また、このだい9かい集会しゅうかいでは、かつての十字軍じゅうじぐん国家こっかであるアンティオキア公国こうこく名目めいもくじょう君主くんしゅジョアン・デ・コインブラ騎士きしだんいんとなった[35]。ただし、この十字軍じゅうじぐんは、西にしヨーロッパ情勢じょうせい善良ぜんりょうこう自身じしん健康けんこう問題もんだいから、実現じつげんしなかった[1][36]

1467ねん6がつ、フィリップ善良ぜんりょうこう逝去せいきょし、シャルル突進とっしんこう(ル・テメレール)が団長だんちょうとなる。シャルル突進とっしんこうは1468ねん4がつまつから5がつ開催かいさいされただい19かい騎士きしだん会議かいぎで、政敵せいてきであるクロワ一族いちぞく3めい大逆だいぎゃくざい告発こくはつする[37]君主くんしゅとして司法しほう裁判さいばんにかけ死刑しけいとすることも可能かのうだったが、騎士きしだんとしては名誉めいよのみをあつかうとし、かれらはりょうがい追放ついほうとなった[38]

1468ねんイングランド王国おうこく薔薇ばら戦争せんそうでブルゴーニュの支援しえんけるため[注釈ちゅうしゃく 3]、イングランドおうエドワード4せいいもうとマーガレットとシャルル突進とっしんこう結婚けっこんした。このさいにエドワード4せいとシャルルは、ガーター勲章くんしょうきむ羊毛ようもう勲章くんしょうたがいに授与じゅよしており、創設そうせつ40ねん未満みまんですでにきむ羊毛ようもう騎士きしだん国際こくさいてき重要じゅうようせいびるようになっていた[39]

1477ねんにシャルル突進とっしんこう戦死せんしし、一人娘ひとりむすめマリーハプスブルクマクシミリアン結婚けっこんした[7]。それにともない、おおやけもハプスブルク継承けいしょうされ、騎士きしだん規約きやくもとづきマクシミリアンが主権しゅけんしゃとなった[40]。ハプスブルク16世紀せいき飛躍ひやくてき勢力せいりょくばし、それにともなってきむ羊毛ようもう騎士きしだん地位ちい上昇じょうしょうした[7]当初とうしょ31めいとされていた定員ていいんは、領土りょうど拡大かくだいともな神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいにより51めい増員ぞういん。その増員ぞういんされている。

スペイン、オーストリアの分裂ぶんれつ

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神聖しんせいローマ皇帝こうていカール6せい

カール5せいは、スペインおよネーデルラント長男ちょうなんフェリペ2せいに、オーストリアハンガリーおよボヘミアおとうとフェルディナント1せい継承けいしょうさせたため、ハプスブルクはオーストリア本家ほんけスペインけい(アブスブルゴ)の2系統けいとうかれた。ブルゴーニュおおやけならびにかね羊毛ようもう騎士きしだん地位ちいもフェリペ2せいいだ。フェリペ2せいは、ローマ教皇きょうこうグレゴリウス13せい許可きょかて、騎士きしだん集会しゅうかいでの選出せんしゅつ以外いがいに、騎士きし団長だんちょうのみの叙任じょにんができるようにした[41]

その近親きんしんこん原因げんいんで、カルロス2せい先天的せんてんてき虚弱きょじゃくであり、スペイン・ハプスブルク断絶だんぜつする。このさい、カルロスの異母いぼあねでフランス王妃おうひマリー・テレーズまごであるアンジューこうフィリップ後継こうけいしゃ指名しめいけていたが、神聖しんせいローマ皇帝こうていレオポルト1せい末子まっしカール大公たいこう神聖しんせいローマ皇帝こうていカール6せい)をしたためスペイン継承けいしょう戦争せんそう勃発ぼっぱつした。最終さいしゅうてきに、フィリップが『フェリペ5せい』となることで決着けっちゃくし、今日きょうまでつづスペイン・ブルボン(ボルボン)がおこる。一方いっぽう、ネーデルラントとブルゴーニュこうくらいオーストリアりょうネーデルラントとして、オーストリアがわうつった。

その結果けっか、18世紀せいき初頭しょとう以降いこう、スペインおよびオーストリアの双方そうほうから叙任じょにん授与じゅよ)される騎士きしだん勲章くんしょうとなった[7][3]分裂ぶんれつ騎士きしだん勲章くんしょうをオーストリアに定着ていちゃくさせたてんにおいて、オーストリアきん羊毛ようもう騎士きしだん初代しょだい主権しゅけんしゃとなったカール6せいだい2の創設そうせつしゃ評価ひょうかする見方みかたもある[42]

オーストリア宮廷きゅうていにおいての騎士きしだん勲章くんしょうは、ブルゴーニュ公国こうこく時代じだいからの伝統でんとうもとづく壮麗そうれい儀式ぎしき[43]くわえ、様々さまざま儀式ぎしき式典しきてん皇帝こうていちかせきあたえられるなど、名誉めいよ特権とっけん可視かしし、たか地位ちい維持いじつづけた[42]1740ねんのカール6せい崩御ほうぎょ長女ちょうじょマリア・テレジア実質じっしつてきな『女帝にょてい』としてハプスブルク君主くんしゅこく継承けいしょう騎士きしだん主権しゅけんしゃは、おっとである皇帝こうていフランツ・シュテファン継承けいしょうしたが、運営うんえいには女帝にょてい自身じしんふか関与かんよした[44]。マリア・テレジアはオーストリア継承けいしょう戦争せんそうななねん戦争せんそう勝利しょうり目指めざし、ハウクヴィッツ伯爵はくしゃく抜擢ばってきして内政ないせい改革かいかくとうんだ。女帝にょていはハウクヴィッツ伯爵はくしゃく信頼しんらい重用じゅうようしたが、この改革かいかく高位こうい貴族きぞくからの反発はんぱつおおきかった[45]

きむ羊毛ようもう騎士きしだん勲章くんしょうには、団員だんいん選出せんしゅつ基準きじゅん明確めいかく功労こうろうさだめられておらず、高位こうい貴族きぞくのみのステータスシンボルとしてとらえられているめんもあった[44]。しかし、女帝にょていおっとつうじて、アーヘンのやくのちカウニッツ伯爵はくしゃくを、士官しかん学校がっこう創設そうせつダウン将軍しょうぐんをそれぞれきん羊毛ようもう騎士きし叙任じょにんさせ、その功労こうろうむくいている[44]。1759ねん11月29にち、フランツ・シュテファンの推薦すいせんほかの2めい貴族きぞくとともに、ハウクヴィッツ伯爵はくしゃく騎士きし叙任じょにんされた[46]騎士きしだんいん多数たすう輩出はいしゅつしてきた家系かけい貴族きぞくは、あきらかな反発はんぱつしめした[46]次代じだいヨーゼフ2せいは、騎士きしだんによる宗教しゅうきょう行事ぎょうじとう規模きぼ大幅おおはば縮小しゅくしょうした[43]

きん現代げんだい

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2014ねん撮影さつえいスペイン国王こくおうフアン・カルロス1せいフェリペおう太子たいし

オーストリア

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オーストリアでは、カトリックの男性だんせい王侯おうこう貴族きぞく限定げんていして授与じゅよおこなわれた。ただし、ナポレオン戦争せんそうのちに、カトリック教徒きょうとである英国えいこくジョージ摂政せっしょうおう太子たいし(のちに国王こくおうジョージ4せい)にたいし、外交がいこうてき理由りゆうから例外れいがいてき授与じゅよしている[注釈ちゅうしゃく 4]だいいち世界せかい大戦たいせんのちオーストリア革命かくめいにより、ハプスブルクカール1せい帝位ていいうしない、国家こっか君主くんしゅによる騎士きしだん勲章くんしょうとしては消滅しょうめつした[2]。しかし、騎士きしだん主権しゅけんしゃベルギーおうアルベール1せいぐという提案ていあんがスペインの反対はんたいでつぶれたため、もと皇太子こうたいしオットーて、その長男ちょうなんカールへと騎士きしだん主権しゅけんしゃがれ、今日きょうもハプスブルクによる「栄誉えいよ」として存続そんぞくしている。

スペイン

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スペインでは、王家おうけ授与じゅよする最高さいこう勲章くんしょうとして存在そんざいしている。かつては女性じょせい授与じゅよされておらず、たとえばヴィクトリア女王じょおうきむ羊毛ようもう勲章くんしょうカルロス3せい勲章くんしょう英語えいごばん受章じゅしょうまり、わってアルバートおうはいかね羊毛ようもう勲章くんしょうけている[47]

しかし現在げんざいは、授与じゅよ対象たいしょうはカトリック教徒きょうとおよ男性だんせい限定げんていされず、日本にっぽんでは明治天皇めいじてんのう以降いこうだい125だい天皇てんのうげん明仁あきひと上皇じょうこう)まで、近代きんだい以降いこう明治めいじから平成へいせいまでよんだい天皇てんのうがスペインきん羊毛ようもう勲章くんしょう受章じゅしょうしている。

また、スペイン君主くんしゅ称号しょうごう英語えいごばんひとつに「ブルゴーニュこう」や「きむ羊毛ようもう騎士きしだん総長そうちょうグランドマスター)」がふくまれている。

徽章きしょう

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2006ねん撮影さつえいスペイン国王こくおうフアン・カルロス1せいプーチン大統領だいとうりょう国王こくおうちゅう綬を佩用はいよう
2018ねん撮影さつえいスペイン国王こくおうフェリペ6せいアストゥリアスおんなこうレオノール王女おうじょ二人ふたりとも、ひだりむねしょう綬を佩用はいようしている。
正装せいそう佩用はいようした頸飾とちゅう綬の位置いち
頸飾(西にしおう共通きょうつう
スペインきん羊毛ようもう勲章くんしょう オーストリアきん羊毛ようもう勲章くんしょう
主権しゅけんしゃよう綬章じゅしょう 団員だんいんよう綬章じゅしょう 綬章じゅしょう

綬章じゅしょうについては、おおきさにバリエーションがあるが、くび中央ちゅうおうにつけるなか綬が肖像しょうぞうおよ写真しゃしんおおのこされている(#騎士きしだんいん参照さんしょう)。

ギャラリー

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勲章くんしょう

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会議かいぎ式典しきてん

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紋章もんしょう

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主権しゅけんしゃ

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分裂ぶんれつ以前いぜん
オーストリア
スペイン

騎士きしだんいん

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分裂ぶんれつ以前いぜん
オーストリア
スペイン

現在げんざいのスペインきん羊毛ようもう騎士きしだんいん

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主権しゅけんしゃ

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画像がぞう 紋章もんしょう 君主くんしゅごう
名前なまえ
生年せいねん
在位ざいい
叙任じょにん 備考びこう
スペイン国王こくおう
フェリペ6せい
1968ねんまれ)
2014ねん即位そくい - 在位ざいいちゅう
1981ねん 2014ねんから騎士きしだん主権しゅけんしゃ

その騎士きしだんいん

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画像がぞう 紋章もんしょう 君主くんしゅごう爵位しゃくい
名前なまえ
生年せいねん
君主くんしゅ場合ばあい在位ざいい期間きかん
叙任じょにん 備考びこう
ぜんスペイン国王こくおう
フアン・カルロス1せい
1938ねんまれ)
1975ねん即位そくい - 2014ねん退位たいい
1941ねん ぜん主権しゅけんしゃ
スウェーデン国王こくおう
カール16せいグスタフ
1946ねんまれ)
1973ねん即位そくい - 在位ざいいちゅう
1983ねん
まえ日本にっぽん天皇てんのう
明仁あきひと
1933ねんまれ)
1989ねん即位そくい - 2019ねん退位たいい
1985ねん 叙任じょにん当時とうじ皇太子こうたいし
ぜんオランダ女王じょおう
ベアトリクス
1938ねんまれ)
1980ねん即位そくい - 2013ねん退位たいい
1985ねん
デンマーク女王じょおう
マルグレーテ2せい
1940ねんまれ)
1972ねん即位そくい - 在位ざいいちゅう
1985ねん
ぜんベルギー国王こくおう
アルベール2せい
1934ねんまれ)
1993ねん即位そくい - 2013ねん退位たいい
1994ねん
ノルウェー国王こくおう
ハーラル5せい
1937ねんまれ)
1991ねん即位そくい - 在位ざいいちゅう
1995ねん
もとブルガリア国王こくおう
シメオン2せい
1937ねんまれ)
1943ねん即位そくい - 1946ねん廃位はいい
2004ねん 1946ねんにブルガリア王位おうい廃位はいい
ブルガリア首相しゅしょう(2001-2005)
ルクセンブルク大公たいこう
アンリ
1955ねんまれ)
2000ねん即位そくい - 在位ざいいちゅう
2007ねん[48]
ハビエル・ソラナ
1942ねんまれ)
2010ねん[48] スペインの政治せいじ
ヴィクター・ガルシア・デ・ラ・コンチャスペインばん
1934ねんまれ)
2010ねん[49] スペインの文献ぶんけん学者がくしゃ
ぜんアンドラ共同きょうどう大公たいこうまえフランス大統領だいとうりょう
ニコラ・サルコジ
1955ねんまれ)
2007ねん即位そくい - 2012ねん退位たいい
2011ねん[50]
エンリケ5せい・イグレシアススペインばん
1930ねんまれ)
2014ねん[51] ウルグアイ・スペインの経済けいざい学者がくしゃ政治せいじ
アストゥリアスおんなこう
レオノール・デ・ボルボン
2005ねんまれ)
2015ねん
10月30にち[52]
フェリペ6せい長女ちょうじょ
推定すいてい相続そうぞくじん

現在げんざいのオーストリアきん羊毛ようもう騎士きしだんいん

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現在げんざいハプスブルク主催しゅさいするオーストリアきん羊毛ようもう騎士きしだんは、ハプスブルク一族いちぞくきゅうドイツ諸侯しょこうなどを団員だんいんとしている。現役げんえき国家こっか元首げんしゅとしては、ベルギー国王こくおう、ルクセンブルク大公たいこうリヒテンシュタインこう在籍ざいせきする。前述ぜんじゅつとおり、ベルギー国王こくおう、ルクセンブルク大公たいこうはスペインきん羊毛ようもう騎士きしだんいんでもある。

帝政ていせい時代じだいから今日きょういたるまで、団員だんいん資格しかくをカトリック教徒きょうと男性だんせい限定げんていしている。そのため日本にっぽん皇室こうしつのみならず、おなじヨーロッパの王侯おうこうでもカトリック教徒きょうと団員だんいんとなることは原則げんそくとしてい。ただし、ナポレオン戦争せんそう英国えいこくジョージ摂政せっしょうおう太子たいし(のちに国王こくおう[注釈ちゅうしゃく 4]例外れいがいてき受章じゅしょうした。オーストリアきん羊毛ようもう勲章くんしょうけることは、現在げんざいでもドイツけい王侯おうこう貴族きぞくあいだでは格式かくしきある名誉めいよとされる。

主権しゅけんしゃ

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画像がぞう 名前なまえ
生年せいねん
叙任じょにん 番号ばんごう 備考びこう
ハプスブルク家長かちょう
カール・フォン・ハプスブルク
1961ねんまれ)
1961ねん 1269 2000ねんから騎士きしだん主権しゅけんしゃ

その騎士きしだんいん一部いちぶ

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画像がぞう 名前なまえ
生年せいねん
叙任じょにん 番号ばんごう 備考びこう
ヴィッテルスバッハ家長かちょう
フランツ・フォン・バイエルン
1933ねんまれ)
1960ねん 1262
まえベルギー国王こくおう
アルベール2せい
1934ねんまれ)
1962ねん 1274 叙任じょにん当時とうじリエージュこう
アンドレアス・サルヴァトール・ハプスブルク=ロートリンゲン
1936ねんまれ)
1972ねん 1277 フーベルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ次男じなん
カール・サルヴァトール・ハプスブルク=ロートリンゲン
1936ねんまれ)
1972ねん 1278 テオドール・サルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナフランツ・サルヴァトール大公たいこう三男さんなん)の息子むすこ
オーストリア=エステ大公たいこう
ローレンツ・フォン・エスターライヒ=エステ
1955ねんまれ)
1977ねん 1290 つまはベルギー王女おうじょアストリッド
ミヒャエル・コロマン・ハプスブルク=ロートリンゲン
1942ねんまれ)
1980ねん 1296 ヨーゼフ・フランツ大公たいこうよんなんちゅうバチカン・ハンガリー大使たいしエドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲンちち
ミヒャエル・サルヴァトール・ハプスブルク=ロートリンゲン
1949ねんまれ)
1980ねん 1297 フーベルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナなん
リヒテンシュタインこう
ハンス・アダム2せい
1945ねんまれ)
1981ねん 1300
ブラガンサ家長かちょう
ドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサ
1945ねんまれ)
1982ねん 1302
ゲオルク・ハプスブルク=ロートリンゲン
1964ねんまれ)
1987ねん 1306 オーストリアもと皇太子こうたいしオットー・フォン・ハプスブルク次男じなん
カール・クリスティアン・ハプスブルク=ロートリンゲンフランス語ふらんすごばん
1954ねんまれ)
1991ねん 1308 カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン次男じなん
シュヴァルツェンベルク英語えいごばん家長かちょう
カレル・シュヴァルツェンベルク
1937ねんまれ)
1991ねん 1309 チェコの政治せいじ
ヨーゼフ・ハプスブルク=ロートリンゲン
1960ねんまれ)
1992ねん 1310
レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク家長かちょう
アロイス・コンスタンティン・ツー・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルクドイツばん
1941ねんまれ)
1996ねん 1314
ヴィンディシュ=グレーツドイツばん家長かちょう
マリアーノ・フーゴ・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ英語えいごばん
1955ねんまれ)
2000ねん 1318
シュターレンベルクドイツばん家長かちょう
ゲオルク・アダム・シュターレンベルク
1961ねんまれ)
2001ねん 1323
シェーンブルク=ハルテンシュタインドイツばん家長かちょう
アレクサンダー・シェーンブルク=ハルテンシュタイン
1930ねんまれ)
2002ねん 1325
クブラト・サクスコブルクゴツキ
1965ねんまれ)
2002ねん 1326 ブルガリア王国おうこく最後さいご国王こくおうシメオン2せいだい3王子おうじ
ルクセンブルク大公たいこう
アンリ
1955ねんまれ)
2006ねん 1328
ベルギー国王こくおう
フィリップ
1960ねんまれ)
2008ねん 叙任じょにん当時とうじブラバントこう
リーニュ家長かちょう
ミシェル・ド・リーニュ英語えいごばん
1951ねんまれ)
2011ねん
フェルディナント・ズヴォニミル・ハプスブルク=ロートリンゲン
1997ねんまれ)
2011ねん ハプスブルク嗣子しし
ニコラウス・フォン・リヒテンシュタイン
1947ねんまれ)
2011ねん リヒテンシュタインこうフランツ・ヨーゼフ2せい三男さんなん
フェルディナント・トラウトマンスドルフ英語えいごばん
1950ねんまれ)
2011ねん ちゅうプラハ:オーストリア大使たいしきゅう伯爵はくしゃく
ザクセン=ゲッサフェ英語えいごばん家長かちょう
アレクサンダー・フォン・ザクセン=ゲッサフェ英語えいごばん
1954ねんまれ)
2012ねん
エドゥアルト・ハプスブルク=ロートリンゲン
1967ねんまれ)
2016ねん ハンガリーのちゅうバチカン・マルタ騎士きしだん大使たいし
エマヌエル・ツー・ザルム=ザルムドイツばん
1961ねんまれ)
2016ねん
シェムイェーン・ジョルトハンガリーばん
1962ねんまれ)
2022ねん ハンガリーふく首相しゅしょう(2022ねん - )

日本にっぽんとのかかわり

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日本人にっぽんじんからは明治天皇めいじてんのうからだい125だい天皇てんのうだった明仁あきひと上皇じょうこうまでの4だい天皇てんのうのみがスペイン王国おうこくかね羊毛ようもう勲章くんしょう授与じゅよされている[53]明治天皇めいじてんのう1883ねん明治めいじ16ねん)、大正天皇たいしょうてんのう皇太子こうたいし時代じだい1896ねん明治めいじ29ねん[54]昭和しょうわ天皇てんのう1928ねん昭和しょうわ3ねん[55]明仁あきひと上皇じょうこうは、皇太子こうたいし時代じだい1985ねん昭和しょうわ60ねん)に授与じゅよされた[56]

1994ねん平成へいせい6ねん)10がつ当時とうじ明仁あきひと天皇てんのう美智子みちこ皇后こうごうげんうえ皇后こうごう)とともにスペインを訪問ほうもんしたさい宮内庁くないちょう職員しょくいんきむ羊毛ようもう勲章くんしょう携行けいこうわすれ、現地げんちでの晩餐ばんさんかいでは同国どうこくより借用しゃくようして佩用はいようし、さらに日本にっぽんから急遽きゅうきょ送付そうふした勲章くんしょう紛失ふんしつする不祥事ふしょうじがあった[56]。このけんについての参議院さんぎいん議員ぎいん村上むらかみ正邦まさくに質問しつもんたいする当時とうじ宮内庁くないちょう長官ちょうかん藤森ふじもり昭一しょういち答弁とうべんによると、細部さいぶつぎとお[56]

  • 担当たんとうしゃが、かたから佩用はいようする綬、胸部きょうぶ佩用はいようするふくあきらくびから佩用はいようする頸飾の3つからなる1980ねん昭和しょうわ55ねん授与じゅよカルロス3せい勲章くんしょうスペインばんだけを用意よういし、頸飾だけのかね羊毛ようもう勲章くんしょう失念しつねんしていた。結果けっか現地げんちへはカルロス3せい勲章くんしょうのみを携行けいこうしていく事態じたいとなった。
  • 10月7にち現地げんちでスペイン当局とうきょくと10がつ13にち国王こくおう主宰しゅさい晩餐ばんさんかいについてのわせをしたとききむ羊毛ようもう勲章くんしょうはなし話題わだいにのぼった。このとき明仁あきひと天皇てんのうはフランス・トゥールーズにいたが、スペイン大使館たいしかんから現地げんち随行ずいこうしている担当たんとうしゃきむ羊毛ようもう勲章くんしょう持参じさんしてきているかねんのため照会しょうかいがあった。侍従じじゅうしょく担当たんとうしゃ調しらべるときむ羊毛ようもう勲章くんしょう持参じさんしてきていないのにづいた。
  • 宮内庁くないちょうおよ外務省がいむしょう担当たんとうしゃ協議きょうぎ結果けっか、10がつ10日とおかに「機長きちょう託送たくそう」により日本にっぽんから急送きゅうそうすることになった。日本航空にほんこうくう仲介ちゅうかいイベリア航空こうくうに「機長きちょう託送たくそう」でマドリードまでおくってもらうはずをつけ、侍従じじゅうしょくからも直接ちょくせつイベリア航空こうくう連絡れんらくして「機長きちょう託送たくそう」を依頼いらいした。しかし中身なかみ勲章くんしょうであることはげず「貴重きちょうひん」としてあづけた。その結果けっか紛失ふんしつした。
  • 日本にっぽん外務省がいむしょうはスペイン政府せいふたいして遺憾いかん表明ひょうめいするとともに、スペイン捜査そうさ当局とうきょく勲章くんしょう捜索そうさくについて協力きょうりょくをおねがいした。また宮内庁くないちょうもスペインの王宮おうきゅう長官ちょうかんたいしてじゅうふん遺憾いかんあらわした。

村上むらかみのなぜ責任せきにんある立場たちばもの直接ちょくせつっていかせなかったのかという追及ついきゅうたいして藤森ふじもり職員しょくいんっていくと出国しゅっこく手続てつづきに時間じかんられること、またこの直前ちょくぜん明仁あきひと天皇てんのうからフランスのミッテラン大統領だいとうりょうへのおくものが「機長きちょう託送たくそう」でパリにおくられていたことから「機長きちょう託送たくそう」なら安全あんぜんはやおくれると担当たんとうしゃかんがえたようであると答弁とうべんしている。また村上むらかみのなぜ中身なかみ勲章くんしょうであることをげなかったのかという追及ついきゅうたいして藤森ふじもりは「勲章くんしょう天皇陛下てんのうへいか直接ちょくせつ所有しょゆうぶつであり、また機長きちょうたくしたことから」と答弁とうべんしている。

答弁とうべんなか官房かんぼう長官ちょうかん五十嵐いがらし広三こうぞうは「このたびの問題もんだいにつきましては、天皇陛下てんのうへいか、スペイン政府せいふ大変たいへん迷惑めいわくをおかけいたしましたことをまことに遺憾いかんおもっている次第しだいであります。こののち、もちろん二度にどとこのような問題もんだいこらないように万全ばんぜん措置そちをとるよう関係かんけいしゃきびしく指示しじをしてまいりたいと、このようにおも次第しだいであります。」と謝罪しゃざいした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 一説いっせつに、ブルゴーニュのゆたかさのみなもとである毛織物けおりもの交易こうえき暗喩あんゆとしてきむ羊毛ようもうもちいられたとするものがある[7]
  2. ^ ははフィリパランカスターこうジョン・オブ・ゴーントむすめひゃくねん戦争せんそう善良ぜんりょうこう共闘きょうとうした、ベッドフォードこうジョン・オブ・ランカスターとは、祖父そふジョン・オブ・ゴーントをおなじくする従兄じゅうけいいもうと同士どうしとなる。
  3. ^ イングランドでは、1455ねん5がつ薔薇ばら戦争せんそう勃発ぼっぱつランカスターヨークこうそうなか1461ねんにヨークこうエドワード推戴すいたいされて国王こくおうエドワード4せいとなっており、ブルゴーニュ公国こうこく支援しえん背景はいけいにヨークがわ勢力せいりょく維持いじしようとしていた。
  4. ^ a b c ナポレオン戦争せんそうの1814ねん主要しゅようこく要人ようじんをロンドンで歓待かんたいしたさいに、ジョージ摂政せっしょうおう太子たいし各国かっこく最高さいこう勲章くんしょう受章じゅしょうした(オーストリアからは皇帝こうてい代理だいりとしてメッテルニヒ宰相さいしょう訪英ほうえい)。英国えいこく摂政せっしょうおう太子たいしとしての期間きかんながく、すでに主要しゅようこく君主くんしゅより年長ねんちょうだったことと、ナポレオン戦争せんそう英国えいこく重要じゅうよう役割やくわりたしたことから、異例いれい受章じゅしょうとなった。(君塚きみづか 2014 p.70-75)
  5. ^ 頸飾はエストニアテッラ・マリアナじゅう勲章くんしょう佩用はいよう

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 河原かわら 2006, p.148
  2. ^ a b 君塚きみづか 2014 p.35
  3. ^ a b c “【世界せかい勲章くんしょう物語ものがたりきむ羊毛ようもう勲章くんしょう欧州おうしゅう最高さいこう格式かくしき」の数奇すうき運命うんめい 関東学院大かんとうがくいんだい教授きょうじゅ君塚きみづか直隆なおたか. 産経さんけいニュース. (2016ねん7がつ21にち). https://www.sankei.com/article/20160721-TSTLTGOVINKB5DKYZGBWZI277E/ 2017ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん 
  4. ^ a b c d 黒木くろき 2006 p.238
  5. ^ 河原かわら 2006, p.147
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  13. ^ a b c d スレイター (2019), p. 148.
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  15. ^ えつ 1996, p.198
  16. ^ 君塚きみづか 2014 p.37
  17. ^ 君塚きみづか 2014 p.36
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  20. ^ 近藤こんどう 1996 p.131
  21. ^ 近藤こんどう 1996 p.132
  22. ^ カルメット (2023), p. 459.
  23. ^ えつ 1996, p.185
  24. ^ 近藤こんどう 2000 p.98
  25. ^ 近藤こんどう 2000 p.100
  26. ^ えつ 1996, p.187
  27. ^ えつ 1996, p.188
  28. ^ カルメット (2023), p. 327.
  29. ^ えつ 1996, p.178-179
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  31. ^ カルメット (2023), p. 449.
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  33. ^ えつ 1996, p.181-182
  34. ^ カルメット (2023), p. 328.
  35. ^ えつ 1996, p.182-183
  36. ^ カルメット (2023), p. 329.
  37. ^ えつ 1996, p.203-206
  38. ^ えつ 1996, p.210-213
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  49. ^ Spanish: [2] BOE 10-01-23, Spanish Official Journal (accessed on January 23, 2010)
  50. ^ iafrica.com | news | world news | Sarkozy to get Golden Fleece”. News.iafrica.com (2011ねん11月25にち). 2012ねん5がつ3にち閲覧えつらん
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  52. ^ Spanish: [4] BOE 15-10-31, Spanish Official Journal (accessed on October 31, 2015)
  53. ^ きむ羊毛ようもう勲章くんしょう欧州おうしゅう最高さいこう格式かくしき」の数奇すうき運命うんめい. https://www.nikkei.com. 産経新聞さんけいしんぶん. (2016ねん7がつ21にち). https://www.sankei.com/article/20160721-TSTLTGOVINKB5DKYZGBWZI277E/2/ 2020ねん5がつ23にち閲覧えつらん 
  54. ^ Herold, Stephen. “CHEVALIERS DE LA TOISON D'OR TOISON ESPAGNOLE (SPANISH FLEECE) 19th Century” (英語えいご). Confrérie Amicale de la Toison d'Or. 2020ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  55. ^ Herold, Stephen. “CHEVALIERS DE LA TOISON D'OR TOISON ESPAGNOLE (SPANISH FLEECE) 20th Century” (英語えいご). Confrérie Amicale de la Toison d'Or. 2020ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  56. ^ a b c だい131かい国会こっかい 参議院さんぎいん内閣ないかく委員いいんかい会議かいぎろくだい7ごう平成へいせい6ねん11月24にち[5]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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他国たこく世俗せぞく騎士きしだん由来ゆらいした勲章くんしょう