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五十嵐いがらし広三こうぞう

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五十嵐いがらし 広三こうぞう
いがらし こうぞう
1993ねん10がつ13にち赤坂あかさか迎賓館げいひんかんにて
生年月日せいねんがっぴ 1926ねん3月15にち
出生しゅっしょう 日本の旗 北海道ほっかいどう旭川あさひかわ
ぼつ年月日ねんがっぴ (2013-05-07) 2013ねん5月7にち(87さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 北海道ほっかいどう札幌さっぽろ
出身しゅっしんこう 北海道庁ほっかいどうちょうりつ旭川あさひかわ商業しょうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 北海道ほっかいどう民芸みんげいひん社長しゃちょう
ほくみん会長かいちょう
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん社会党しゃかいとう→)
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん社会党しゃかいとう→)
社会しゃかい民主党みんしゅとう
称号しょうごう 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
旭川あさひかわ名誉めいよ市民しみん
柔道じゅうどうさんだん
配偶はいぐうしゃ 五十嵐いがらし由子ゆうこ
公式こうしきサイト ほくみん [会社かいしゃ概要がいよう]

内閣ないかく 村山むらやま内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1994ねん6月30にち - 1995ねん8がつ8にち

内閣ないかく 細川ほそかわ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1993ねん8がつ9にち - 1994ねん4がつ28にち

選挙せんきょ きゅう北海道ほっかいどう2
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1980ねん - 1996ねん9月27にち

当選とうせん回数かいすう 3かい
在任ざいにん期間きかん 1963ねん - 1974ねん
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五十嵐いがらし 広三こうぞう(いがらし こうぞう、1926ねん3月15にち - 2013ねん5月7にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう政治せいじ位階いかいしたがえさん勲等くんとう勲一等くんいっとう

企業きぎょう組合くみあいほっかい民芸みんげいしゃ理事りじちょう北海道ほっかいどう民芸みんげいひん株式会社かぶしきがいしゃ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう北海道ほっかいどう旭川あさひかわ市長しちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(5)、建設けんせつ大臣だいじんだい59だい)、内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんだい58だい)、株式会社かぶしきがいしゃほくみん代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょうなどを歴任れきにん

来歴らいれき

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1926ねんまれ。1943ねん北海道庁ほっかいどうちょうりつ旭川あさひかわ商業しょうぎょう学校がっこう卒業そつぎょう愛別あいべつ村立そんりつ愛山あいざん国民こくみん学校がっこうじょきょうとして勤務きんむした[1]。その陸軍りくぐんだい7師団しだん入営にゅうえい訓練くんれんけていたが[2]1945ねん太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつした。その1953ねん民芸みんげいひん販売はんばいてんひらき、ほっかい民芸みんげいしゃ理事りじちょう北海道ほっかいどう民芸みんげいひん社長しゃちょうなどを歴任れきにんした[1]以来いらい実業じつぎょうとして、雑穀ざっこくしょう民芸みんげい会社かいしゃ地方ちほう新聞しんぶんしゃなどを手広てびろ経営けいえいした。

地方ちほう政界せいかいにて

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1963ねん、37さい日本にっぽん社会党しゃかいとうから旭川あさひかわ市長しちょう選挙せんきょ立候補りっこうほして当選とうせん[1][3]当時とうじ全国ぜんこく最年少さいねんしょう首長しゅちょうとなる[1]。アイディア市長しちょうとして全国ぜんこくられ、312ねん市長しちょう在任ざいにんちゅうには日本にっぽんはつ恒久こうきゅうてき歩行ほこうしゃ天国てんごく平和へいわどおり買物かいもの公園こうえん」の開設かいせつ1972ねん)、旭山あさひやま動物どうぶつえん開業かいぎょう1967ねん)などを実現じつげんした[1][3]地元じもと財界ざいかいとも協力きょうりょくし、北海道東海大学ほっかいどうとうかいだいがく旭川医科大学あさひかわいかだいがく誘致ゆうち成功せいこうした[1][3]。また、中原なかはら悌二郎ていじろうしょう小熊こぐま秀雄ひでおしょう創設そうせつした[1]

旭川あさひかわ市長しちょう辞職じしょくに、1975ねん1979ねんの2にわたり北海道ほっかいどう知事ちじ選挙せんきょ革新かくしん統一とういつとして立候補りっこうほするも、いずれも保守ほしゅけい現職げんしょくどう垣内かきうち尚弘なおひろやぶれた。

国政こくせいにて

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1980ねんだい36かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ日本にっぽん社会党しゃかいとうより出馬しゅつばし、きゅう北海道ほっかいどう2にてはつ当選とうせん[1][3]以後いご通算つうさん当選とうせん5かい[1][3]1991ねん日本にっぽん社会党しゃかいとう委員いいんちょう田邊たなべまこと首班しゅはんとする「社会党しゃかいとうシャドーキャビネット」において、自治じち環境かんきょう委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにんした。1992ねんからは自治じち委員いいんかい委員いいんちょうとなり、日本にっぽん社会党しゃかいとう委員いいんちょう田邊たなべから山花やまはな貞夫さだお交代こうたいして以降いこうも、つづ再任さいにんされた。

1993ねん細川ほそかわ内閣ないかくにおいて建設けんせつ大臣だいじんとしてはつ入閣にゅうかくした[1][3]歴代れきだい大臣だいじんとしてはじめて長良川ながらがわ河口かこうせき事業じぎょう見直みなおしに着手ちゃくしゅする。ただし、撤回てっかい廃止はいしとうにはいたらず、2だいあとの建設けんせつ大臣だいじんである野坂のさか浩賢こうけん運用うんよう開始かいしる。1994ねん村山むらやま内閣ないかく内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんとしてふたた入閣にゅうかくし、自社じしゃ連立れんりつ政権せいけんささえる[1][3]戦後せんご処理しょり問題もんだい地方ちほう分権ぶんけん推進すいしんんだ[3]。1955ねん以後いごはつ自民党じみんとう在籍ざいせきれきたない内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんであった。

1996ねん政界せいかい引退いんたい1997ねん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう翌年よくねん旭川あさひかわ名誉めいよ市民しみん推挙すいきょされた[4]晩年ばんねんふたた実業じつぎょうとして、自身じしん創業そうぎょうした民芸みんげい会社かいしゃ「ほくみん」の会長かいちょうつとめていた[5]2013ねん5月7にち午前ごぜん5ぎに肺炎はいえんのため札幌さっぽろうち病院びょういんにて死去しきょ。87さいぼつ[6]政府せいふは5月24にち閣議かくぎで歿日づけしたがえさんじょすることをめた。

政策せいさく

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アイヌ
旭川あさひかわ市長しちょう時代じだいからアイヌについて関心かんしんっており、政府せいふたいするはたらきかけをおこなっていた[1]衆議院しゅうぎいん議員ぎいんとなってからもアイヌ文化ぶんか振興しんこうほう制定せいてい推進すいしんした[1]。また、萱野かやのしげる国政こくせい挑戦ちょうせんするようすすめ、アイヌはつ国会こっかい議員ぎいん誕生たんじょう尽力じんりょくした[2]
サハリン残留ざんりゅう韓国かんこく朝鮮ちょうせんじん問題もんだいへの
サハリンでは、戦中せんちゅう日本にっぽん国籍こくせきつコリアンが出稼でかせぎや徴用ちょうようにより移住いじゅうしていた(くわしくはざいかばコリアンこう参照さんしょう)。1987ねんに「サハリン残留ざんりゅう韓国かんこく朝鮮ちょうせんじん問題もんだい議員ぎいん懇談こんだんかい」ががった。発足ほっそくまえから積極せっきょくてきげに尽力じんりょくした自由民主党じゆうみんしゅとうはら文兵衛ぶんべえ会長かいちょうとし、五十嵐いがらし事務じむ局長きょくちょうとなり、はらとともに問題もんだい解決かいけつ奔走ほんそうした。
女性じょせいのためのアジア平和へいわ国民こくみん基金ききん
村山むらやま政権せいけんにおいて、1995ねん6がつ14にち官房かんぼう長官ちょうかんであった五十嵐いがらしは、「女性じょせいのためのアジア平和へいわ国民こくみん基金ききん」について声明せいめい発表はっぴょうする。
日本にっぽんの「戦後せんご責任せきにん」や歴史れきし認識にんしき問題もんだいへの
これらの日本にっぽんの「戦後せんご責任せきにん」や歴史れきし認識にんしき問題もんだいについて、それに抵抗ていこうする自民党じみんとう右派うは圧力あつりょくえて、自民党じみんとうはら文兵衛ぶんべえとともにサハリン問題もんだい解決かいけつ、アジア女性じょせい基金ききんつくり、最低限さいていげんつぐないを実現じつげんすることができた。これは、当時とうじ村山むらやま政権せいけんであったこともおおきいが、はら文兵衛ぶんべえとう議員ぎいんである五十嵐いがらしを、全面ぜんめんてき信頼しんらいしていたこともおおきい。
在日ざいにち韓国かんこくじん政治せいじはん解放かいほう要望ようぼうしょについて
1989ねん在日ざいにち韓国かんこくじん政治せいじはん29めい釈放しゃくほう要望ようぼうしょ署名しょめいした。このなかには北朝鮮きたちょうせんによる日本人にっぽんじん拉致らち実行じっこうはんであるからしこうはじめとする北朝鮮きたちょうせんスパイ容疑ようぎしゃ10めいふくまれていた[7]
地方ちほう自治じち
地方ちほう分権ぶんけん推進すいしんろんしゃとしてられ、関連かんれんする著書ちょしょ複数ふくすう上梓じょうししている。衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん地方ちほう分権ぶんけん推進すいしん全会ぜんかい一致いっち議決ぎけつするようはたらきかけるとともに、地方ちほう分権ぶんけん推進すいしんほう制定せいてい尽力じんりょくした[1]村山むらやま富市とみいち五十嵐いがらし地方ちほう自治じちたいする識見しきけんたか評価ひょうかするとともに[8]内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん在任ざいにんちゅう五十嵐いがらしについて「村山むらやま内閣ないかくはじめての地方ちほう分権ぶんけん推進すいしんほうをつくったんじゃが、首長しゅちょう経験けいけんがある野中のなか広務ひろむさんが自治じち大臣だいじん自治省じちしょう出身しゅっしん石原いしはら信雄のぶおさんが官房かんぼうふく長官ちょうかんで、2人ふたりとともに五十嵐いがらしさんが官房かんぼう長官ちょうかんとしてやってくれたから成立せいりつできた」[8]かたっている。
ソビエト連邦れんぽう
旭川あさひかわ市長しちょうつとめていた1967ねんに、旭川あさひかわ本来ほんらい日本にっぽんでは所属しょぞく未定みていであるはずの「サハリンしゅうユジノサハリンスク」(樺太からふと豊原とよはら)と姉妹しまい都市としにした。ソ連それん崩壊ほうかいクレムリン秘密ひみつ文書ぶんしょ公開こうかいにより、1975ねん五十嵐いがらし北海道ほっかいどう知事ちじ選挙せんきょ出馬しゅつばには、社会党しゃかいとう北海道ほっかいどう本部ほんぶちょう当時とうじ)の関田せきた伸男のぶおからソ連それん大使館たいしかんへの最大さいだい1おく5せんまんえん秘密ひみつ選挙せんきょ資金しきん援助えんじょ要請ようせいがあった(資金しきん援助えんじょ実際じっさいおこなわれたかは不明ふめい[9]などのソ連それんとの秘密ひみつ交渉こうしょうあきらかにされた。
北方ほっぽうジャーナル事件じけん
1979ねん北海道ほっかいどう知事ちじ選挙せんきょ立候補りっこうほしたとき、『北方ほっぽうジャーナル』に中傷ちゅうしょう記事きじかれそうになったため、出版しゅっぱんまえめを裁判所さいばんしょ申請しんせいみとめられた。このけんは「北方ほっぽうジャーナル事件じけん」として、表現ひょうげん自由じゆうをめぐる判例はんれいとして著名ちょめいである。
選択せんたくてき夫婦ふうふ別姓べっせい制度せいど
選択せんたくてき夫婦ふうふ別姓べっせい制度せいど導入どうにゅう賛同さんどう[10]

人物じんぶつ

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交友こうゆう
三浦みうら綾子あやこしたしく、三浦みうら綾子あやこ記念きねん文学ぶんがくかん設立せつりつ尽力じんりょくした[1]
趣味しゅみ特技とくぎ
趣味しゅみ油彩ゆさいで、1947ねんにはみちてん自由じゆう美術びじゅつてんにて入選にゅうせんした経験けいけん[1]。また、柔道じゅうどうさんだん段位だんい[1]
首相しゅしょう直談判じかだんぱん
太平洋戦争たいへいようせんそうのさなかに北海道ほっかいどう旭川あさひかわおとずれた内閣ないかく総理そうり大臣だいじん東條とうじょう英機ひできは、視察しさつさきちりばこ調しらべ「べられるものてている。らしにまだ余裕よゆうがある」[2]発言はつげんした。この発言はつげん新聞しんぶんった五十嵐いがらしは「そんなことはない。みんな苦労くろうしながら頑張がんばっているんだ」[2]いたくなり、友人ゆうじんって東條とうじょう宿泊しゅくはくする旅館りょかんたずねたという[2]五十嵐いがらしらは東條とうじょうとの面会めんかいもとめたものの、商業しょうぎょう学校がっこう学生がくせいぎない五十嵐いがらしらの要望ようぼうってもらえず、そのまま派出所はしゅつじょしかられたという[2]

略歴りゃくれき

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表彰ひょうしょう

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  • 1984ねん - 旭川あさひかわ功労こうろうしゃ
  • 1998ねん - 旭川あさひかわ名誉めいよ市民しみん

栄典えいてん

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著作ちょさく

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  • 市民しみん運動うんどう証言しょうげん ドキュメント旭川あさひかわ』 1970ねん10がつ つる書房しょぼう
  • 人間にんげん都市とし復権ふっけん 都市とししん時代じだい先導せんどうする旭川あさひかわ方式ほうしき大成たいせい出版しゅっぱんしゃ、1973ねん6がつ10日とおかNDLJP:9634408 高橋たかはし芳郎よしおとの共編きょうへんちょ
  • 北斗七星ほくとしちせい 随筆ずいひつしゅう』 1974ねん11月 五十嵐いがらし広三こうぞうほん出版しゅっぱんするかい
  • る・たがやす・つくる 北海道ほっかいどうにひらく自治じち実践じっせん論理ろんり』 1978ねん10がつ にれ書房しょぼう
  • 官邸かんてい螺旋らせん階段かいだん 市民しみん官房かんぼう長官ちょうかん奮闘ふんとう』 1997ねん8がつ ぎょうせい ISBN 4-324-05244-1
  • 『まちづくり・くにづくり』(西尾にしおろくななとの共著きょうちょ) (北海道ほっかいどうまち村会そんかい企画きかく調査ちょうさ企画きかく編集へんしゅう地方ちほう自治じち土曜どよう講座こうざブックレットNO.9) 1997ねん2がつ 北海道ほっかいどうまち村会そんかい企画きかく調査ちょうさ ISBN 4-87555-304-8

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 訃報ふほう:五十嵐いがらし広三こうぞうさん 87さいもと官房かんぼう長官ちょうかんもと北海道ほっかいどう旭川あさひかわ市長しちょう”. 毎日まいにちjp(毎日新聞まいにちしんぶん) (2013ねん5がつ8にち). 2013ねん6がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 五十嵐いがらし広三こうぞうさん」『五十嵐いがらし広三こうぞうさん-北海道新聞ほっかいどうしんぶん[卓上たくじょう四季しき]北海道新聞社ほっかいどうしんぶんしゃ2013ねん5月8にち
  3. ^ a b c d e f g h 五十嵐いがらし広三こうぞうもと旭川あさひかわ市長しちょう死去しきょ」『五十嵐いがらし広三こうぞうもと旭川あさひかわ市長しちょう死去しきょ : 北海道ほっかいどうはつ : YOMIURI ONLINE(読売新聞よみうりしんぶん読売新聞よみうりしんぶん2013ねん5月8にち
  4. ^ 旭川あさひかわ名誉めいよ市民しみん”. 旭川あさひかわ. 2015ねん6がつ10日とおか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん8がつ23にち閲覧えつらん
  5. ^ 創業そうぎょうしゃ略歴りゃくれき」『ほくみん [会社かいしゃ概要がいよう]』ほくみん。
  6. ^ 五十嵐いがらし広三こうぞうもと官房かんぼう長官ちょうかん 死去しきょ. NHKニュース (日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい). (2013ねん5がつ7にち). オリジナルの2013ねん5がつ7にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2013-0507-1826-41/www3.nhk.or.jp/news/html/20130507/t10014397751000.html 2013ねん5がつ7にち閲覧えつらん 
  7. ^ からしこう事件じけん#在日ざいにち韓国かんこくじん政治せいじはん釈放しゃくほう要望ようぼうしょについて参照さんしょう
  8. ^ a b 「『五十嵐いがらしもと長官ちょうかん手堅てがた政治せいじだった』――村山むらやまもと首相しゅしょう」『朝日新聞あさひしんぶんデジタル:「五十嵐いがらしもと長官ちょうかん手堅てがた政治せいじだった」 村山むらやまもと首相しゅしょう - 政治せいじ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ2013ねん5月8にち
  9. ^ 1994ねん 名越なごや健郎たけお『クレムリン秘密ひみつ文書ぶんしょかたるーやみ関係かんけい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ ISBN 4-12-101207-0
  10. ^ だい123かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん法務ほうむ委員いいんかい 議事ぎじろく15ごう
  11. ^ 共同通信きょうどうつうしん2013ねん5がつ7にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ちょう明秀あきひで裏切うらぎられた楽土らくど』 1991ねん8がつ 講談社こうだんしゃ ISBN 4-06-205074-9
  • 大沼おおぬまたもつあきら『サハリン棄民―戦後せんご責任せきにん点景てんけい』 1992ねん 中公新書ちゅうこうしんしょ ISBN 4121010825
  • 新井あらい佐和子さわこ『サハリンの韓国かんこくじんはなぜかえれなかったのか 帰還きかん運動うんどうにかけたある夫婦ふうふよんじゅうねん』 1998ねん1がつ くさおもえしゃ ISBN 4-7942-0798-0
  • 北野きたの宏明ひろあきつよくによりやさしいくに もと旭川あさひかわ市長しちょうもと内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん 五十嵐いがらし広三こうぞうでん北海道新聞社ほっかいどうしんぶんしゃ、2022ねん10がつ21にちISBN 978-4867210819 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
熊谷くまがいひろし
日本の旗 内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん
だい58だい:1994ねん - 1995ねん
次代じだい
野坂のさか浩賢こうけん
先代せんだい
中村なかむら喜四郎きしろう
日本の旗 建設けんせつ大臣だいじん
だい59だい:1993ねん - 1994ねん
次代じだい
羽田はたつとむ (臨時りんじ代理だいり)
森本もりもと晃司こうじ
先代せんだい
前野まえの与三よぞうきち
日本の旗 旭川あさひかわ市長しちょう
公選こうせんだい5だい:1963ねん - 1974ねん
次代じだい
松本まつもといさむ