迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう

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迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう(げいひんかんあかさかりきゅう)は、東京とうきょうみなとにある日本にっぽん迎賓館げいひんかん赤坂あかさか迎賓館げいひんかんともばれる。明治めいじ以降いこう建築けんちくとしては唯一ゆいいつ国宝こくほう指定していされている[1]。イタリアさんくろしろ大理石だいりせき市松いちまつられた玄関げんかんホール、イタリアさんとフランスさん大理石だいりせきゆかかべられ、深紅しんく絨毯じゅうたんかれた中央ちゅうおう階段かいだんホール、国賓こくひんのサロンとして使つかわれるひろやく200平方へいほうメートルの「朝日あさひあいだ」など、絢爛けんらん空間くうかんひろがっている[1]

迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう
迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう本館ほんかん
地図
情報じょうほう
きゅう名称めいしょう 東宮御所とうぐうごしょ
用途ようと 国賓こくひんひとし歓迎かんげい宿泊しゅくはく施設しせつ
きゅう用途ようと 東宮御所とうぐうごしょ
設計せっけいしゃ かた山東さんとうぐま
管理かんり運営うんえい 内閣ないかく
構造こうぞう形式けいしき 鉄骨てっこつ補強ほきょう煉瓦れんが石造せきぞう
敷地しきち面積めんせき 117,000 m²
のべゆか面積めんせき 15,000 m²
たか 地上ちじょう2かい地下ちか1かい
竣工しゅんこう 1909ねん明治めいじ42ねん
所在地しょざいち 東京とうきょうみなともと赤坂あかさか丁目ちょうめ1ばん1ごう北緯ほくい3540ふん48びょう 東経とうけい13943ふん43びょう / 北緯ほくい35.68000 東経とうけい139.72861 / 35.68000; 139.72861 (赤坂あかさか迎賓館げいひんかん)
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沿革えんかく[編集へんしゅう]

東京とうきょうもと赤坂あかさかにある現在げんざい迎賓館げいひんかん建物たてものは、東宮御所とうぐうごしょとして1909ねん明治めいじ42ねん)に建設けんせつされた。鹿しかかんなどを設計せっけいしたやと外国がいこくじん建築けんちくジョサイア・コンドル弟子でしにあたる宮廷きゅうてい建築けんちくかた山東さんとうぐま(かたやまとうくま)の設計せっけいにより、もと紀州きしゅうはん屋敷やしきあと明治めいじ6ねん宮城みやぎ火災かさいから明治めいじ21ねん明治めいじ宮殿きゅうでん完成かんせいまでの15年間ねんかん明治天皇めいじてんのうかり皇居こうきょかれていた。)にてられた。しかしそのネオ・バロック様式ようしき外観がいかんがあまりにも華美かびぎたことや、住居じゅうきょとしての使つか勝手がってかならずしもくなかったことから、皇太子こうたいしよしみひとし親王しんのう大正天皇たいしょうてんのう)がこの御所ごしょ使用しようすることはほとんどなかった。よしみじん親王しんのう天皇てんのう即位そくいしたのち離宮りきゅうとしてあつかわれることとなり、その名称めいしょう赤坂あかさか離宮りきゅうあらためられた。

1924ねん大正たいしょう13ねん)、大正天皇たいしょうてんのう皇子おうじ皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)と良子りょうこ女王じょおうこうじゅん皇后こうごう)との婚儀こんぎると、そのすう年間ねんかん赤坂あかさか離宮りきゅう裕仁ひろひと親王しんのう一家いっか住居じゅうきょたる東宮御所とうぐうごしょとして使用しようされた。裕仁ひろひと親王しんのう天皇てんのう即位そくいしたのち離宮りきゅうとして使用しようされることもまれになったが、1935ねん昭和しょうわ10ねん)4がつ1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつには、訪日ほうにちした満州まんしゅうこく皇帝こうてい溥儀ふぎ宿舎しゅくしゃとなった。太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせんには高松宮たかまつのみや宣仁のぶひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのうに、宮城みやぎあと文庫ぶんこ赤坂あかさか離宮りきゅううつむことを提案ていあんしたが、天皇てんのう使つか勝手がってわる経費けいひがかさむとして拒否きょひしている。

だい世界せかい大戦たいせん赤坂あかさか用地ようち敷地しきち建物たてもの皇室こうしつからくに移管いかんされ、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん1948ねん - 1961ねん)、法務ほうむちょう法制ほうせい意見いけん長官ちょうかん(1948ねん - 1960ねん)、裁判官さいばんかん弾劾だんがい裁判所さいばんしょ(1948ねん - 1970ねん)、内閣ないかく憲法けんぽう調査ちょうさかい1956ねん - 1960ねん)、東京とうきょうオリンピック組織そしき委員いいんかい(1961 - 65ねん)などに使用しようされた。

その国際こくさい関係かんけい緊密きんみつして外国がいこく賓客ひんきゃくむかえることがおおくなり、また1955ねん昭和しょうわ30ねん)からくに公賓こうひん宿舎しゅくしゃとして使用しようしていた東京とうきょうみなとしば白金台しろかねだい白金はっきん迎賓館げいひんかんきゅう朝香あさかみややしきげん東京とうきょう庭園ていえん美術館びじゅつかん)は手狭てぜま随行ずいこういん同宿どうしゅくできないといった支障ししょうがあったため、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に当時とうじ池田いけだ勇人はやと首相しゅしょう発意はついによってあらたに迎賓げいひん施設しせつ整備せいびする方針ほうしん閣議かくぎ決定けっていされた。

これをけて、池田いけだおよ池田いけだ後継こうけいとして1964ねん昭和しょうわ39ねん)に首相しゅしょう就任しゅうにんした佐藤さとう栄作えいさくの2だい政権せいけん政府せいふない検討けんとうかさねた結果けっか、『きゅう赤坂あかさか離宮りきゅう改修かいしゅうし、これを外国がいこく賓客ひんきゃくたいする迎賓げいひん施設しせつきょうする』ことが、1967ねん昭和しょうわ42ねん)に決定けっていされた。こうして5ねん歳月さいげつと108おくえん工費こうひ101おくえん内装ないそう7おくえん)をかけて、本館ほんかん村野むらの藤吾とうご和風わふう別館べっかん谷口たにぐち吉郎よしろう設計せっけい協力きょうりょくにより、田中たなか角栄かくえい政権せいけん当時とうじの1974ねん昭和しょうわ49ねん)3がつ現在げんざい迎賓館げいひんかん完成かんせいした。新装しんそうなった迎賓館げいひんかんむかえた最初さいしょ国賓こくひんは、1974ねん11月に現職げんしょくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうとしてはつ来日らいにちしたジェラルド・フォードだった。

1979ねん昭和しょうわ54ねん6月28にち、29にちだい5かい先進せんしんこく首脳しゅのう会議かいぎ東京とうきょうサミット)の会場かいじょうとなる。サミット開催かいさいたっては反対はんたい運動うんどうひろげられ、6月8にち未明みめいには迎賓館げいひんかん正門せいもんにめがけて無人むじん小型こがたトラックが突進つきすすめ手前てまえ街路がいろじゅ衝突しょうとつして炎上えんじょうするテロ事件じけん発生はっせいした(中核ちゅうかく犯行はんこう声明せいめい[2]

2006ねん平成へいせい18ねん)から2008ねん平成へいせい20ねん)にかけて、だい規模きぼ改修かいしゅう工事こうじおこなわれた[3]工事こうじ終了しゅうりょうした2009ねん平成へいせい21ねん)12月8にちきゅう東宮御所とうぐうごしょ迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅうとして国宝こくほう指定してい明治めいじ以降いこう文化財ぶんかざいとしてははつ国宝こくほうとなった。

2011ねん平成へいせい23ねん)に3にちだけ一般いっぱん公開こうかい

2015ねん平成へいせい27ねんかんよしえら官房かんぼう長官ちょうかんは、観光かんこう立国りっこく実現じつげんけ、迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう視察しさつ来年らいねんから一般いっぱん公開こうかい大幅おおはば拡充かくじゅうすることを発表はっぴょうする。

2016ねん平成へいせい28ねん)4がつから通年つうねん一般いっぱん公開こうかい、12月にはライトアップおこなわれた。来館らいかんしゃは2016年度ねんどやく76まん5000にん、2017年度ねんどやく58まん3000にん[4]

施設しせつ[編集へんしゅう]

本館ほんかん[編集へんしゅう]

日本にっぽん独自どくじ文化ぶんかまもりながらの西洋せいよう富国強兵ふこくきょうへいすすんでいた時代じだい象徴しょうちょうして、天皇てんのうを「武勲ぶくんもの」という印象いんしょう表現ひょうげんするために、正面しょうめん玄関げんかん屋根やねかざりや内装ないそう模様もようなどによろい武者むしゃ意匠いしょうがあるなど、建物たてもの全体ぜんたい西洋せいよう宮殿きゅうでん建築けんちく日本にっぽんふう意匠いしょうじった装飾そうしょくになっている。イギリスバッキンガム宮殿きゅうでんフランスヴェルサイユ宮殿きゅうでん参考さんこうにされた[4]。また、ウィーンのホーフブルク宮殿きゅうでんしん宮殿きゅうでん)との類似るいじせいられる。

また、電気でんきめずらしかった建築けんちく当時とうじ日本にっぽんにおいて、イギリスせい自家じか発電はつでん装置そうちそなけて照明しょうめい電気でんき使つかい、アメリカせい自動じどう温度おんど調節ちょうせつ機能きのう暖房だんぼう装置そうち設置せっちした。ただし、この暖房だんぼう装置そうち正常せいじょう作動さどうせず、室温しつおん突然とつぜんがったりがったりするトラブルに幾度いくど見舞みまわれたという。煉瓦れんが石造せきぞう西欧せいおう様式ようしき建物たてもの高温こうおん多湿たしつ日本にっぽん気候きこうにはまったてきさず、晩春ばんしゅんから早秋そうしゅうにかけては天候てんこうによっては室内しつない湿度しつどいちじるしくがり、暖房だんぼうはあっても冷房れいぼうはないために居住きょじゅうせいいちじるしくひくかった。これに対処たいしょするためにかた山東さんとうぐま電気でんきしきじょ湿しめ設置せっちする計画けいかくかんがえていたが、こちらは実行じっこううつされなかった。

建築けんちく当初とうしょ調度ちょうどひんタペストリーなど日本にっぽんせいものもあったが、椅子いすなどの家具かぐおおくはドイツやフランスなどから輸入ゆにゅうしたものを使用しようしていた。この建物たてもの迎賓館げいひんかんになったさい建物たてものから放出ほうしゅつされたこれらの家具かぐ一部いちぶ現在げんざい博物館はくぶつかん明治めいじむら保存ほぞん公開こうかいされている。

1974ねん(昭和しょうわ49ねん)の改修かいしゅう金箔きんぱくりの賓客ひんきゃくようエレベーターを設置せっち[5]

あや鸞のあいだ(さいらん-の-ま)
名称めいしょう左右さゆうおおきなかがみうえと、鼠色ねずみいろ大理石だいりせきつくられた暖炉だんろりょうわきに、「」とばれる架空かくうとりをデザインした金色きんいろがあることに由来ゆらいしている。室内しつないアンピール様式ようしきであり、しろ天井てんじょうかべ金箔きんぱくほどこされた石膏せっこうりで装飾そうしょくされている。そして、10まいかがみ部屋へやひろせている。ひろさはやく160平方へいほうメートルある。この部屋へやは、表敬ひょうけい訪問ほうもんのためにおとずれた来客らいきゃく最初さいしょ案内あんないされるひかえのあいだとして使用しようされたり、晩餐ばんさんかい招待客しょうたいきゃくくに公賓こうひんとの謁見えっけん条約じょうやく協定きょうてい調印ちょういんしきくに公賓こうひんとのインタビューひとし使用しようされている。
花鳥かちょうあいだ(かちょう-の-ま)
名称めいしょう天井てんじょうえがかれた36まいや、欄間らんまられたゴブラン織ごぶらんおりふう綴織つづれおり壁面へきめんかざられた渡辺わたなべしょうてい原画げんが濤川そうすけさくの『七宝しっぽう花鳥かちょうさんじゅうがく』に由来ゆらいしている。室内しつないアンリー2せい様式ようしきであり、こしかべ茶褐色ちゃかっしょくのシオジざい板張いたばりしており、重厚じゅうこう雰囲気ふんいきかもしている。ひろさはやく330平方へいほうメートルある。この部屋へやは、おもくに公賓こうひん主催しゅさい公式こうしき晩餐ばんさんかいもよおされるだい食堂しょくどうであり、最大さいだいやく130めいせきもうけられている。
朝日あさひあいだ(あさひ-の-ま)
朝日あさひあいだ
名称めいしょう天井てんじょうえがかれた「朝日あさひにして女神めがみ香車きょうしゃチャリオット)をはしらせている姿すがた」のフレスコ由来ゆらいしている[1]天井てんじょう長径ちょうけい8.26m, たんみち5.15mのおおきな楕円だえんがたである。室内しつない古典こてん主義しゅぎ様式ようしきであり、かべには京都きょうと西陣にしじん金華山きんかさん美術びじゅつ織物おりものられている。ひろさはやく200平米へいべいある。くに公賓こうひんようのサロンとして使つかわれ、ここで表敬ひょうけい訪問ほうもん首脳しゅのう会談かいだんなどの行事ぎょうじおこなわれている。
羽衣はごろもあいだ(はごろも-の-ま)
名称めいしょう天井てんじょう謡曲ようきょくの「羽衣はごろも」の景趣けいしゅえがいた300平方へいほうメートルの曲面きょくめんほうによるだい壁画へきが(フレスコ)があることに由来ゆらいしている。ひろやく330平方へいほうメートルで、典型てんけいてきなロココ様式ようしきである[1]室内しつない朝日あさひあいだ同様どうよう古典こてん主義しゅぎ様式ようしきである。正面しょうめんなか2かいには、オーケストラボックスがある。これは、羽衣はごろもあいだ舞踏ぶとう会場かいじょうとして設計せっけいされたからである。しかし実際じっさい舞踏ぶとうかいひらかれたという記録きろくはない。迎賓館げいひんかんなかもっとおおきいシャンデリア部品ぶひん7000[4]重量じゅうりょう800キログラム)がある。ひろさはやく330平米へいべいある。この部屋へやは、雨天うてんさい歓迎かんげい行事ぎょうじおこなったり、また、晩餐ばんさんかい招待客しょうたいきゃく食前しょくぜんしゅ食後しょくごしゅきょうされたりする場所ばしょである。
ひがしあいだ(ひがし-の-ま)
建物たてものの2かいひがしはしにある。アルハンブラ宮殿きゅうでんスペイン)にならったムーリッシュ様式ようしきアラベスク装飾そうしょく特徴とくちょう。かつては喫煙きつえんしつ現在げんざいひかしつとして使つかわれている。一般いっぱん参観さんかんルートにははいっておらず、通常つうじょう非公開ひこうかい
中央ちゅうおう階段かいだん(ちゅうおうかいだん)とかいだいホール
欧州おうしゅうさん各種かくしゅ大理石だいりせきがふんだんにもちいられた階段かいだんとホール。ホールには小磯こいそ良平りょうへい絵画かいがかざられている。来訪らいほうした賓客ひんきゃく天皇てんのう皇后こうごうむかえる。

ある。

和風わふう別館べっかん[編集へんしゅう]

ゆうしんてい(ゆうしんてい)
1974ねん昭和しょうわ49ねん)に、谷口たにぐち吉郎よしろう設計せっけいにより新設しんせつされた。あるじ和室わしつは47たたみたたみじきである。現在げんざい和風わふう別館べっかんは「日本にっぽんらしいもてなしをおこな施設しせつ」として、おもくに公賓こうひん会食かいしょく茶会ちゃかいなどにきょうされてきた。めずらしいところでは2016ねん12月に将棋しょうぎだい2あきらおうせんだい2きょくおこなわれている[6]
なおこれらの施設しせつのこしつつ、あらたに宿泊しゅくはく施設しせつもうけるなどの施設しせつ拡充かくじゅう計画けいかくされている。和風わふう別館べっかんぞう改築かいちく事業じぎょうについては、安藤あんどう忠雄ただおらの設計せっけい共同きょうどうたい設計せっけいしゃとして選定せんていされた。

まもるしゃ[編集へんしゅう]

正門せいもんから本館ほんかんへとかう左右さゆう東西とうざい方向ほうこう)にきゅう衛士えじ詰所つめしょシンメトリー双方そうほうとも23.3×6.4m、地上ちじょう1かい地下ちか1かいよせとうづくりスレートき。国宝こくほう指定してい

ギャラリー[編集へんしゅう]

エピソード[編集へんしゅう]

ヨーロッパにおける貴族きぞく邸宅ていたくは、中央ちゅうおうにある大広間おおひろま食堂しょくどう部分ぶぶんだけが共有きょうゆうで、夫婦ふうふ両翼りょうよく別棟べつむねでそれぞれのらしが出来できるような構造こうぞうになっていた。そのため政略せいりゃく結婚けっこんした夫婦ふうふは、おな屋根やねしたんでいても、あか他人たにん同然どうぜんらしをしていた(事実じじつ不倫ふりんめずらしいものではなかった)。赤坂あかさか離宮りきゅう当時とうじ皇太子こうたいし夫妻ふさい新居しんきょとして造営ぞうえいされたにもかかわらず、こうしたつくりの建物たてものがモデルになっている。ヨーロッパ貴族きぞく生活せいかつ習慣しゅうかんらずに、西洋せいよう建築けんちくのモデルをそのまま真似まね設計せっけいしたことが原因げんいんであったと、建築けんちく藤森ふじもりあきらしんろんじている[7]

備考びこう[編集へんしゅう]

ゆうしんてい再現さいげん[編集へんしゅう]

石川いしかわけん金沢かなざわにある谷口たにぐち吉郎よしろう吉生よしう記念きねん金沢かなざわ建築けんちくかんには迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう和風わふう別館べっかんゆうしんてい」(谷口たにぐち吉郎よしろう設計せっけい)の広間ひろま茶室ちゃしつ再現さいげんした展示てんじがある[8]

ドキュメンタリー[編集へんしゅう]

  • ハイビジョン特集とくしゅう華麗かれいなる宮殿きゅうでんへの招待しょうたい 迎賓館げいひんかんひゃくねん物語ものがたり」(2006ねんNHK-BSP[9]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 本田ほんだ榮二えいじ『ビジュアル解説かいせつ インテリアの歴史れきし秀和しゅうわシステム、2011ねん、461ぺーじ 
  2. ^ 迎賓館げいひんかんねらい火炎かえんしゃ 中核ちゅうかくサミット・ゲリラ『朝日新聞あさひしんぶん』1979ねん昭和しょうわ54ねん)6がつ8にち夕刊ゆうかん 3はん 11めん
  3. ^ 迎賓館げいひんかん改修かいしゅう工事こうじ延長えんちょうのおらせ 内閣ないかく迎賓館げいひんかんページ
  4. ^ a b c 【ぐるっと首都しゅとけん たびするみつける】東京とうきょう 迎賓館げいひんかん赤坂あかさか離宮りきゅう最高峰さいこうほう「おもてなし」空間くうかん国内こくない観光かんこうきゃく人気にんき毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん2019ねん1がつ27にち首都しゅとけんめん)2019ねん1がつ29にち閲覧えつらん
  5. ^ 2019ねん12月22にち中日新聞ちゅうにちしんぶん朝刊ちょうかんサンデーばん8めん
  6. ^ あきらおうせんだい2きょくこぼればなし取材しゅざいじんすらビクビクするような対局たいきょくじょう国宝こくほう赤坂あかさか迎賓館げいひんかん」とは? - 日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい・2017ねん1がつ12にち
  7. ^ 鹿島かしま、p42
  8. ^ 金沢かなざわ観光かんこうガイドブック”. 金沢かなざわ観光かんこう協会きょうかい. 2021ねん11月19にち閲覧えつらん
  9. ^ 華麗かれいなる宮殿きゅうでんへの招待しょうたい 迎賓館げいひんかんひゃくねん物語ものがたり”. NHK (2021ねん1がつ8にち). 2021ねん4がつ17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2021ねん4がつ17にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]