村山 富市
むらやま とみいち | |
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1924 | |
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( ( ( | |
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サイン | |
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1994 | |
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8 | |
1972 1983 | |
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3 | |
1963 | |
2 | |
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その | |
(1996 | |
(1993 |
2019
概説
[来歴 ・人物
[政界 入 り
[1924
1943
1946
1951
国会 対策 委員 長 から社会党 委員 長 へ
[1991
自社 さ連立 政権 発足
[1994
6月25
内閣 総理 大臣 在任 中
[1994
1994
5
1995
6月9
突然 の退陣
[1996
内閣 総理 大臣 退任 後
[11月、
1999
1999
政界 引退 後
[2000
2000
2000
2005
2005
2009
2013
2014
2015
2015
90
2020
2021
2024
村山 内閣 の施政
[施政 方針
[政策 綱領
[日本国 憲法 の尊重 小 選挙 区 比例 代表 並立 制 の実施 税制 改革 の前提 として行政 改革 の断行 条件 つきながら消費 税 の引 き上 げの方向 を認 める自衛隊 と日米 安全 保障 条約 を維持 国際 連合 平和 維持 活動 に積極 的 に参加 国際 連合 安全 保障 理事 会 常任 理事 国 参加 問題 には慎重 に対処
村山 談話
[1995
村山 談話 成立 の経緯
[1994
1995
村山 談話 成立 以降 の動 き
[2008
2015
村山 自身 の談話 への考 え
[オーラルヒストリー『
また1995
戦後 の総括
[被爆 者 援護 法 の制定
[「女性 のためのアジア平和 国民 基金 」設立
[1994
2000
2007
災害 ・事件 への対処
[阪神 ・淡路 大震災
[1995
危機 管理 体制 自衛隊 派遣 が遅 れた理由 に対 して「なにぶんにも初 めてのことですので」と答弁 し、それまで好々爺 のイメージで比較的 親 しまれてきた村山 は日本 国民 から強 い非難 を浴 び、内閣 支持 率 の急落 に繋 がった[2]。やがて、対応 の遅 れの全貌 が明 らかになるにつれ、法 制度 を初 めとする当時 の日本国 政府 の危機 管理 体制 そのものの杜撰 さが露呈 した。震災 発生 は午前 5時 46分 ごろであったが、当時 の総理 官邸 には、危機 管理 用 の当直 は存在 しなかった。また、災害 対策 所管 の国土庁 にも、担当 の当直 が存在 しなかった。連立 内 閣 に対 する内閣 官房 や官僚 の忠誠 心 の低 さも問題 点 として指摘 された。震災 後 、後藤田 正晴 に指示 された佐々淳行 が、総理 官邸 メンバーの前 で危機 管理 のレクチャーを行 ったが、熱心 に話 を聴 いていたのは村山 ただ一 人 であり、それ以外 の政務 ・事務 スタッフは皆 我 関 せずの態度 を取 ったため、佐々 が厳 しく戒 めたという。また、村山 が震災 直後 に国民 に向 けて記者 会見 を開 こうとしていたが、内閣 官房 職員 から止 められていた、との逸話 も佐々 の著書 [40]で紹介 されている。村山 は「初動 対応 については、今 のような危機 管理 体制 があれば、もっと迅速 にできていたと思 う。あれだけの死者 を出 してしまったことは、慚愧 (ざんき)に堪 えない。一 月 十 七 日 の朝 は毎年 、自宅 で黙 とうする」[41]と語 っている。また、「危機 管理 の対応 の機能 というのは全然 なかったんです。初動 の発動 がね、遅 れたということについてはね、これはもう弁明 のしようがないですね。ええ。本当 に申 し訳 ない」[42][43]と述 べ、い訳 や反論 のしようがなく、反省 しているとの考 えを語 っている。当時 、歴代 在任 日数 最長 の内閣 官房 副 長官 として官邸 に重 きをなしていた石原 信雄 は、「前例 のない未曾有 の災害 で、かつ法 制度 の未 整備 な状態 では、村山 以外 のだれが内閣 総理 大臣 であっても迅速 な対応 は不可能 であった。」[44]と述懐 、擁護 している。また石原 は一方 で「(内閣 が直 ちに行動 を起 こすようなシステムになっていなかったのは)その原因 は、遠 く尋 ねればやっぱり社会党 なんです。社会党 が内閣 権限 強化 にずっと反対 し続 けたわけです。内閣 が機敏 に対応 することを嫌 ったわけです」「皮肉 なことに、その社会党 から出 た総理 大臣 のときに、その危機 管理 をやらなければいけないような事態 が起 こってしまった。これは、大変 つらい話 なんですね」と回顧 している[45]。法 制度 上 の問題 自衛隊 の出動 は、法 制度 上 、地元 ・兵庫 県 知事 貝原 俊民 (当時 )の要請 がなければ命令 することができなかった。当日 午前 8時 10分 には、防衛庁 ・陸上 自衛隊 姫路駐屯地 から兵庫 県庁 に対 し出動 要請 を出 すよう打診 されている。また、午前 10時 前 には自衛隊 のヘリコプターを飛 ばし被災 地 の情報 収集 を行 っている。しかし、貝原 が登庁 したのはその後 で、さらに現 況 の把握 に時間 が費 やされた。最終 的 に、貝原 の命令 を待 たず兵庫 県 参事 (防災 担当 )が出動 要請 を午前 10時 10分 に行 い、その4分 後 の午前 10時 14分 には自衛隊 が出動 している。- 2007
年 、東京 都知事 の石原 慎太郎 は「神戸 の地震 の時 なんかは、(自衛隊 の派遣 を要請 する)首長 の判断 が遅 かったから、2000人 余計 に亡 くなったわけですよね」[46]と発言 し、地方 公共 団体 の対応 の遅 れを指摘 した。これに対 し、貝原 は「石原 さんの誤解 。たしかに危機 管理 面 で反省 はあるが、要請 が遅 れたから死者 が増 えたのではない。犠牲 者 の8割 以上 が、発生 直後 に圧死 していた」[47]と反論 しており、派遣 要請 の遅 れと犠牲 者 数 の増加 には直接 の関係 ないとしている。また、震災 後 に兵庫 県 防災 監 に就任 した斎藤 富雄 は、石原 の指摘 は「全 く根拠 のない発言 で、誠 に遺憾 」[47]と主張 している。 社会党 の内紛 当時 、山花 貞夫 ら社会党 の一部 には分裂 の動 きがあり、1月 16日 の会合 で民主 新党 クラブの海江田 万里 らも発起人 に加 わり新党 結成 を決定 [48]。1月17日 に会派 離脱 届 けの提出 を予定 していた。その早朝 に震災 が発生 したため中止 するかと思 われたが、山花 らは当日 午前 中 に会派 離脱 届 けを提出 した[49]。村山 は当日 11時 過 ぎに「山花 氏 は話 し合 いを見 て欲 しい」と記者 にコメントした[要 出典 ]。翌 1月 18日 、新党 結成 は見送 りとなり、山花 は5月 10日 に社会党 を離党 した[50]。復興 対応 震災 直後 、村山 は国土庁 長官 小澤 潔 に代 えて小里 貞利 を震災 対策 担当 相 に任命 し復興 対策 の総 指揮 に当 たらせる。また下河辺 淳 を委員 長 とする震災 復興 委員 会 を組織 し、復興 案 の策定 を進 めた。被災 者 への支援 として、16本 の法律 を改正 、および、制定 し、被災 者 に対 する税 負担 の軽減 などを図 った。
オウム真理教 に対 する破壊 活動 防止 法 適用 申請
[1995
1952
2007
ハイジャックへの警察 特殊 部隊 投入
[1995
SAPに
しかし、
サリンとされた
外交
[対 米国
[日米 安保 の維持
[1994
この
これは
内政
[原子力 発電 の容認
[これまで
リサイクル法 の制定
[スチール
水俣病 患者 救済
[成田空港 問題 への対応
[1991
選択 的 夫婦 別姓 制度
[宗教 法人 法 の改正 と創価学会 との対立
[なお、
官邸 機能 の強化 と政治 主導
[政治 思想
[原子力 政策
[エピソード
[戦後 政界 では内閣 総理 大臣 の座 を争 って幾度 も激 しい政争 が繰 り広 げられて来 た中 で、自 らの意思 に反 して周囲 の推挙 によって総理 に就 いた稀有 な存在 。村山 自身 「総理 大臣 になろうと思 ったこともなければ、なれると思 ったこともなかったし日本 中 誰 一人 僕 が総理 になると思 った人 はいない。だが首班 指名 選挙 で選 ばれれば、私 はできませんと言 う訳 にはいかないから首相 官邸 に単身 赴任 で連 れて行 かれたようなもの」と述懐 している。自 らの人生 を「めぐり合 わせの人生 」と語 った[64]。欲 の無 い性格 で大分 市議会 議員 から県議会 議員 、衆議院 議員 、社会党 委員 長 を経 て内閣 総理 大臣 を務 めたのも「全 ては自分 の意思 ではない。たまたまと偶然 、めぐり合 わせの連続 で周 りから背中 を押 されてやらされてきた。だが総理 になった以上 は一生懸命 やる以外 にないと腹 をくくった」と語 る。社会党 委員 長 と首相 に就任 した時 「なんでわしがこの席 に座 ることになったんじゃろ」と言 った。首相 在任 中 は亀井 静香 や野中 広務 など自民党 内 でも武闘 派 と称 された議員 から熱烈 に支持 され、亀井 、野中 は後年 も村山 を最高 の首相 だったと褒 めちぎっている。首相 在任 中 は「自衛隊 の日本国 憲法 との合憲 性 」という、長年 の日本 社会党 の政策 を転換 する苦渋 の選択 を迫 られた他 、阪神 ・淡路 大震災 や、オウム真理教 事件 、全日空 機 ハイジャック事件 など大 災害 、大 事件 が頻発 したことなどもあり、辞任 後 に睡眠薬 を飲 みながら首相 を務 めたと報 じられた。首相 在任 中 、妻 が持病 (腰痛 )のため、公務 に同伴 できない状態 だったため、秘書 をしていた娘 が同行 した。総理 大臣 公邸 には娘 夫婦 、孫 2人 と同居 した。首相 就任 直後 、イタリアのナポリで開 かれた先進 国 首脳 会議 に参加 した。国際 会議 への出席 は当然 ながら初 めてであったため、出発 前 に宮澤 喜一 元 首相 が「通訳 がいるので、言葉 のことは心配 いりませんよ」[65]などのアドバイスをした。首相 在任 中 は、首相 経験 者 で同 い年 の竹下 登 元 首相 が、村山 のよき相談 相手 になっていた(竹下 は1924年 2月 26日 生 まれ、村山 は同年 3月 3日 生 まれで殆 ど同 時期 に誕生 している)[要 出典 ]。なお村山 は、歴代 内 閣 総理 大臣 で大正 生 まれ最後 の総理 大臣 でもある。首相 在任 中 にベトナムの要人 と会談 した際 に「ベトナムが成長 したのは日本 のお陰 です」と、社交 辞令 を言 われた際 に「それは違 いますぞ。まずはあんたたちが頑張 ったから今 のベトナムがあるんじゃ。日本 はそのお手伝 いをしただけじゃ」と言葉 を返 した。それ以降 、ベトナムの要人 は村山 に尊敬 の念 を浮 かべて社交 辞令 を超 えた会談 となった。国会 議員 を辞 めた後 も、ベトナムに行 き来 している。- サミット
開会 前 のレセプションで、腹痛 と下痢 を起 こして中座 、翌日 も一部 の会議 を欠席 するなどし、関係 者 を心配 させた。海外 訪問 の経験 が少 ない村山 は、滞在 中 は現地 の飲食 物 に非常 に注意 しており、滞在 先 の総領事 公邸 で出 された食事 にしか手 をつけなかった。しかし会談 前 に首脳 が屋外 で歓談 した際 、ウェイターが差 し出 した桃 ジュースにうっかり手 を出 してしまい、それにあたってしまったと後 に述懐 している。同日 夕刻 のレセプションのころにはすでに体調 が悪 く一切 料理 に手 をつけていない[注釈 5]。八幡 和郎 などは、外務省 などが村山 の健康 管理 を充分 におこなっていなかったと批判 している。 自身 の政権 運営 に対 し大 きな反省 があるとする一方 で、民主党 政権 はどの内閣 も上回 るほどの史上 稀 に見 る酷 い政権 であると野田 佳彦 内閣 の消費 税 増税 方針 に対 して批判 している。- 「
拉致 問題 が片 づかないから話 が出来 ないということでは、永遠 に話 はできない。日本 はミサイルが飛 んできて全 てを断絶 したが、隣 の国 が災害 になって非常 に困 っているという時 に食糧 が足 りないと言 われれば、コメを送 るというようなことは当然 あってもいいのではないか」と発言 (1999年 ごろ)。 - トンちゃんの
愛称 で呼 ばれる[66]。社会党 は村山 をモデルとしたマスコット「とんちゃん人形 」を発売 していた。なお、総理 大臣 在任 中 の海外 メディアでの通称 は「トミー」であった。
人物 像
[村山 の後 、親 が政治 家 ではない総理 大臣 は2010年 の菅 直人 までいなかった(森 喜朗 の父 は国会 議員 ではなかったが地元 の町長 を務 めていた)。現在 の閣僚 資産 公開 制度 が始 まった1987年 以降 、村山 の資産 は歴代 総理 中 の最下位 で、明治 時代 に建造 された自宅 の時価 が「数 十 万 円 台 」と発表 されたため、清貧 というイメージを持 たれた[注釈 6][注釈 7]。庶民 派 宰相 と呼 ばれ政界 引退 後 も生活 ぶりは質素 で慎 ましく、大分 市内 を移動 する時 は自転車 を使 っている。政権 発足 後 の8月 、総理 周辺 が夏休 みの計画 を立 てようとすると、「わしは年中 無休 の漁師 の出身 。いらん」と断 り、周囲 がそんなことをすれば世界 の行政府 の物笑 いの種 になると説得 した。その後 「では民宿 に泊 まりたい」と希望 したので、関係 者 がいくつかの民宿 を探 したが、「総理 が泊 まりたい?冗談 はやめてくれ」とどこもまじめに取 り合 わず、結局 、箱根 の高級 旅館 で過 ごすことになった。長 い眉毛 がトレードマークとして知 られている。日本 テレビの『進 め!電波 少年 』では松村 邦洋 が自慢 の眉毛 を切 るという企画 に了承 した。- 2007
年 、第 21回 参議院 議員 通常 選挙 にて「村山 が比例 区 に立候補 するのか」との問 い合 わせがあり、関係 者 を困惑 させた。原因 は、大分 県 選挙 区 無所属 候補 の松本 文六 が、村山 とのツーショットの選挙 ポスター5000枚 を張 り出 したためと見 られている[67]。 身長 は173cmと、1920年代 生 まれとしては長身 である。長女 は真里 (1955年 6月 8日生 [68])、次女 はファーストレディーを務 めた中原 由利 [69]、孫 が二 人 いる[70]。大分 市 の自宅 の隣 が大関 千代 大海 (現 ・九重 親方 )の実家 で、千代 大海 が幼少 のころ、村山 から頭 を撫 でられたり、飲 み物 をくれたりしたという。
交友 関係 、他者 への評価 ・発言
[穂積 五 一 村山 が明治大学 の学生 時代 に入 っていた至 軒 寮 の寮長 。村山 は「終戦 直後 、右翼 から左翼 から色々 な人 が至 軒 寮 に出入 りしたが、穂積 さんは一切 区別 も差別 もせず、誰 とでも分 け隔 てなく接 した。説教 をされたことは一 度 もないが、こういう生 き方 が出来 れば素晴 らしいと思 った」と、穂積 五 一 から深 い薫陶 を受 けたと述懐 する。浅沼 稲次郎 - 「
大衆 とともに大衆 と学 ぶ」という村山 の政治 哲学 は、社会党 委員 長 の先輩 でもある浅沼 稲次郎 の生 き方 から学 んだ教訓 と言 い、社会党 に骨 を埋 める決意 をしたのは、浅沼 との出会 い、偉大 な存在 として極 めて深 い尊敬 の念 を抱 いている。「浅沼 さんが右翼 青年 に刺殺 されたことは、どうしても忘 れられない」「憲法 9条 を護 ることが、浅沼 の精神 が生 き続 けている証拠 」などと語 り続 ける。 一 萬田 尚登 大分 県議会 議員 時代 の村山 は、他 の大分 県議 や市町村 長 らとともに、大分 出身 である時 の大蔵 大臣 ・一 萬田 尚登 に、大分 県 への新 産業 都市 指定 を陳情 した。ところが一 萬 田 からは「国家 全体 を考慮 して可否 を判断 すべき問題 であり、陳情 には左右 されない」とたしなめられてしまった。村山 はそんな一 萬 田 に失望 するどころか、逆 に感銘 を受 けたという[71]。土井 たか子 - 1989
年 7月 の参院 選 で、日本 社会党 が大勝 して委員 長 だった土井 たか子 が「山 は動 いた」と言 った当時 を振 り返 り「土井 さんの人気 は凄 かった。当時 は土井 さんが来 るだけで人 だかりだった。ああいう人気 は、あの人 でなければ作 れなかったのではないか」と評 している。土井 は村山 が首相 時代 の衆議院 議長 であり、議長 辞任 後 に共 に社民党 を支 えるなど、盟友 関係 と言 える。2014年 9月 に逝去 した土井 のお別 れ会 で「憲法 を守 り、暮 らしに生 かすと叫 び続 け頑張 ってきた。僕 よりも若 い土井 さんに先立 たれたことは残念 だが、志 を引 き継 ぎ絶対 に守 り抜 く。おたかさん、ありがとう」と追悼 の言葉 を述 べた。 山花 貞夫 村山 の前任 の社会党 委員 長 。1993年 の総 選挙 後 に成立 した非 自民 連立 政権 の細川 内閣 に、国務大臣 (政治 改革 担当 )として初 入閣 するが、この総 選挙 で社会党 は大敗 したため、委員 長 は辞任 した。村山 政権 発足 後 、社会党 の枠 を超 えた民主 ・リベラル勢力 を結集 する新党 構想 を打 ち出 した山花 貞夫 に対 し、村山 は「なぜ急 ぐのか理解 できない」と、新党 反対 の意向 を伝 えるが、物別 れに終 わる。しかし山花 が新党 結党 のための会派 離脱 届 を提出 する予定 だった日 に、阪神 ・淡路 大震災 が発生 して、それどころではなくなり、山花 新党 は立 ち消 えとなった。久保 亘 村山 が社会党 委員 長 時代 の書記 長 。山花 貞夫 辞任 後 の社会党 委員 長 選挙 では、久保 亘 と村山 の名前 が取 り沙汰 された。村山 は自身 が委員 長 になることには断乎 反対 だったが、周囲 の説得 を受 けて出馬 を決心 し、久保 は村山 と会談 して出馬 を断念 、書記 長 に就任 した。久保 は、社会党 内 でも非 自民 連立 政権 派 の立場 であり、考 え方 の相違 はあったが、村山 は首相 時代 、党務 はほぼ久保 に任 せたと述懐 している。五十嵐 広三 村山 が思 いがけず首相 に指名 され組閣 に入 った際 、官房 長官 は躊躇 することなく五十嵐 広三 を指名 した。「手腕 、力量 、キャリア、人柄 、いずれを見 ても最適 の人 」とし、村山 政権 時代 に阪神 ・淡路 大震災 やオウム真理教 事件 といった危機 対応 などにも、手腕 を大 いに発揮 したと高 く評 している。2013年 に亡 くなった五十嵐 のお別 れ会 に出席 し「私 より2歳 若 く(87歳 )まだまだ仕事 ができる年齢 だった」と語 った。現役 時代 には、五十嵐 など数 人 の社会党 議員 と夫婦 連 れで、奈良 を一泊 旅行 したこともあるという。野坂 浩賢 村山 改造 内 閣 で官房 長官 を務 めた野坂 浩賢 は、村山 の側近 的 存在 。少数 与党 の羽田 内閣 が頓挫 して政局 が混迷 する中 、古 くから面識 があった自民党 の亀井 静香 と水面 下 で交渉 を重 ねて、自社 さ連立 政権 成立 に尽力 した。しかし村山 本人 は、1994年 6月 の首班 指名 選挙 で、自民党 が村山 への投票 で話 をまとめたことは知 らされておらず、投票 が進 む中 で、前 の席 に座 る野坂 に「わしが当選 したらどうするんじゃ」と言 ったという。野坂 は村山 から首相 退陣 の意向 を打 ち明 けられると「これが総理 と私 の唯一 の戦 いだ」と言 う程 、徹底的 に退陣 に反対 した。後藤田 正晴 村山 は、後藤田 正晴 が衆議院 初 当選 のころは田中 角栄 に近 く、金銭 不正 の印象 が強 い後藤田 に国会 で野次 を飛 ばしたが、後藤田 が野党 時代 の村山 に「蟻 の一 穴 」論 で、自衛隊 の海外 派遣 反対 だけは協力 しようと呼 びかけて以降 、ハト派 同士 で意気投合 する。村山 が首相 在任 中 、阪神 ・淡路 大震災 などに際 して後藤田 が度々 助言 を行 い、村山 も1995年 7月 の参院 選 で社会党 が敗北 した後 、進退 を相談 するなど良 き相談 相手 の一人 であった。梶山 静六 村山 が社会党 国会 対策 委員 長 を務 めていた際 、自由民主党 では梶山 静六 が国会 対策 委員 長 を務 めており、国会 運営 を巡 り両者 は度々 対立 した。その後 、梶山 は2000年 の第 42回 衆議院 議員 総 選挙 目前 で死去 し、村山 は第 42回 衆議院 議員 総 選挙 に出馬 せず衆議院 議員 を引退 した。その際 、村山 は梶山 について「決 めたことはきちっと守 る、そして実行 する」[58]と評 しており「お互 いの信頼 関係 はあった」[58]と回顧 している。また自社 さ政権 成立 前 には、梶山 からも首相 就任 を説得 されたという。なお、村山 と梶山 は、両者 とも大日本帝国 陸軍 軍曹 を経験 し、地方 政界 を経 て国政 に進出 したという共通 点 がある。石原 慎太郎 石原 慎太郎 は、村山 が社会党 国会 対策 委員 長 を務 めていた際 に「米 軍 横田 基地 の問題 は、本来 社会党 が取 り組 むべき課題 」と言 うと村山 が、素直 にき入 れて土井 たか子 委員 長 に進言 したことから親 しくなり、1994年 6月 の自社 さ政権 成立 直前 には「村山 さんで行 こうよ」と発言 。村山 事務所 を訪 ね首相 就任 を受 けるよう要請 した石原 に対 し、村山 は「人違 いじゃないのか」と一蹴 した。護憲 派 ・親中 派 筆頭 格 の村山 と、改憲 派 ・対 中国 強硬 派 筆頭 格 の石原 であるが、2013年 6月 に政界 の長老 が集 った円卓 会議 などで同席 する仲 である。亀井 静香 亀井 静香 は、社会党 で村山 の側近 だった野坂 浩賢 と水面 下 で交渉 して、自社 さ政権 の成立 に尽力 。首相 就任 を固辞 する村山 に「天命 です、あきらめて総理 を受 けて下 さい」と説得 した。ハト派 の村山 が、組閣 でタカ派 の亀井 に運輸 大臣 就任 を依頼 すると、亀井 は「私 はタカはタカでもハトを守 るタカ」と言 って入閣 した。首相 としての有能 ぶりを絶賛 する亀井 に対 し、村山 は「褒 め殺 しじゃないのかと思 うほど」と述 べている。野中 広務 社会党 の山口 鶴男 と接触 するなど、自社 さ政権 成立 に尽力 した一人 。村山 が首相 時代 の1995年 6月 に全日空 機 ハイジャック事件 が発生 した際 、村山 は国家 公安 委員 長 の野中 広務 に「あなたを全 て信頼 してお任 せします。もし何 かあったら僕 は責任 を取 って、総理 を辞 めて白装束 をして慰霊 に回 ります」と言 うほど、野中 に全幅 の信頼 を寄 せた。首相 辞任 後 、与野党 に分 かれて以降 も超党派 で訪朝 するなど活動 を共 にしている。「野中 さんは敵 に回 すと怖 いと言 われていますけど」とインタビューで質問 されても「僕 はそうは思 わないけど」と答 えている。河野 洋平 非 自民 連立 政権 の羽田 内閣 が頓挫 して政局 が混迷 する中 、自民党 総裁 だった河野 洋平 は首相 就任 を固辞 する村山 に「今 、国 を救 うことができるのは、あなたを首班 指名 するしかない。私 どもは腹 をくくった」と涙 ながらに村山 を説得 し、村山 も感動 したというが「長年 反目 してきた社会党 と自民党 が手 を結 ぶと言 う。これは大変 なことになった」と首相 就任 前 の複雑 な胸 の内 を明 かす。自社 さ政権 時代 を振 り返 り、連立 政権 のパートナーである河野 洋平 、新党 さきがけ代表 ・武村 正義 との三 党 党首 間 の信頼 関係 が強固 だったので、政権 を円滑 に運営 できたと述懐 する。同 じハト派 で思想 的 にも近 く「河野 さんには一度 首相 をやってもらいたかった」とも評 している。武村 正義 非 自民 連立 政権 の細川 内閣 で小沢 一郎 の強権 政治 への反発 を強 める中 で、新党 さきがけ代表 ・武村 正義 との協力 関係 を深 めるようになり、羽田 内閣 の成立 直前 に統一 会派 「改新 」が社会党 、新党 さきがけを外 す形 で結成 されたことにより、共 に非 自民 連立 政権 を離脱 し、以降 は共同 歩調 を取 る。羽田 内閣 の頓挫 で政局 が混乱 する中 、武村 も村山 に首相 就任 を説得 。村山 内閣 の大蔵 大臣 に就任 して、村山 を支 えた。村山 は「常 になんでも相談 してきた間柄 」と語 り、社会党 解党 後 の新党 問題 に至 るまで、協力 関係 を大切 にした。小里 貞利 小里 貞利 も、自民党 国会 対策 委員 長 として自社 さ政権 の成立 に尽力 。村山 政権 では当初 、北海道開発庁 長官 を務 めていたが、阪神 ・淡路 大震災 が発生 すると、その2日 後 に村山 は小 里 を震災 対策 担当 大臣 に任命 し、震災 復興 の権限 を与 えた。村山 は震災 当時 の小 里 を振 り返 り「よく現地 と東京 を行 き来 し、国会 答弁 でも懇切 丁寧 に答弁 した。小里 さんを任命 したことが良 かった」と高 く評 している。大島 理森 村山 が長年 の懸案 として解決 に取 り組 んだ課題 の一 つが、水俣病 被害 者 救済 問題 であった。辞任 直前 の1995年 12月に談話 を発表 して解決 を見 るが、これには大島 理森 環境庁 長官 の働 きが大 きかったと高 く評価 している。江藤 隆美 - アジア
諸国 への侵略 と植民 地 支配 を謝罪 した村山 談話 は、戦後 50年 の終戦 記念 日 である1995年 8月 15日 に閣議 決定 され、いわゆる「タカ派 」と称 される江藤 隆美 総務庁 長官 、島村 宜伸 文部 大臣 、平沼 赳夫 運輸 大臣 らも一切 の異議 なく談話 に署名 した。その後 「植民 地 時代 は日本 は良 いことをした」と発言 した江藤 隆美 総務庁 長官 を、村山 は政府 の見解 とは異 なる発言 をしたとして、更迭 した。 石原 信雄 - 1987
年 の竹下 内閣 以降 、自民党 政権 、非 自民 連立 政権 に渡 り長年 内閣 官房 副 長官 を歴任 してきた石原 信雄 は、村山 政権 成立 直後 は辞意 を固 めるが、村山 が「自分 だってなりたくて総理 になったわけではない。どうか支 えてほしい」と強 く慰留 して、1995年 2月 まで留任 した。同年 4月 の東京 都知事 選挙 に石原 が立候補 した際 は、村山 が応援 演説 を行 い「阪神 ・淡路 大震災 に対応 できたのは石原 さんの存在 が大 きかったから」と訴 えた。 大田 昌秀 - 1995
年 、沖縄 でアメリカ兵 による少女 暴行 事件 発生 後 、沖縄 の米 軍 基地 の強制 使用 手続 きによる代理 署名 を拒否 する大田 昌秀 沖縄 県知事 と長時間 会談 したが、大田 に「他人 に痛 めつけられても寝 ることはできるが、他人 を痛 みつけては寝 ることはできない」という沖縄 のい伝 えを引用 されると、なんともい返 せず、日本国 政府 が代理 署名 することとなった。沖縄 在日 米 軍 基地 問題 を自 らの手 で解決 できなかったことを、村山 は後悔 している。 岸 信介 岸 信介 首相 が日米 安保 条約 改定 を行 った1960年 、村山 は大分 市議会 議員 だったが国会 周辺 で行 われた安保 反対 デモに参加 した。「岸 内閣 のやり方 は、民主 主義 を否定 するものという意識 が強 かった」と述懐 している。ただ村山 は首相 に就任 した直後 の1995年 7月 20日 の国会 答弁 で、自衛隊 の合憲 を認 めるとともに、日米 安保 条約 の容認 も表明 し、長年 の日本 社会党 の政策 転換 を行 った。三木 武夫 三木 武夫 は村山 同様 、明治大学 出身 の首相 であり、2011年 11月、明治大学 創立 130周年 記念 事業 として行 われた「三木 武夫 シンポジウム」に村山 はパネリストの一人 として出席 し「三木 さんも私 も共 に明大 出身 の首相 は変革期 に出 たようですなあ」と語 った。村山 は2010年 には、徳島 県 にある三木 の墓参 りを行 っている。福田 赳夫 村山 は首相 在任 中 に亡 くなった福田 赳夫 元 首相 の内閣 ・自民党 合同 葬 で追悼 の辞 を読 み、「政治 は最高 の道徳 」という福田 の言葉 を称 えた。村山 は著書 でも「有権者 から選 ばれる政治 家 は、有権者 以上 に正 しい道徳 観念 を持 たなければならない」と語 っている。また村山 は首相 就任 直後 の1994年 夏 、軽井沢 で静養 する福田 を訪 ねている。竹下 登 村山 が思 いがけず首相 に就任 した際 の良 き相談 相手 の一人 は、同 い年 の竹下 登 であった。竹下 が経済 政策 に弱 い村山 にアドバイスをすると、村山 は「あんたは練習 に練習 を重 ねて総理 大臣 になられた。わしは練習 なしになったから」と述 べた。海部 俊樹 自民党 ・社会党 ・新党 さきがけの推薦 で、村山 が首班 指名 選挙 で当選 した時 、非 自民 連立 政権 で主導 権 を握 っていた小沢 一郎 は、自民党 から海部 俊樹 元 首相 を引 き抜 いて村山 の対抗 馬 に立 てた。決選 投票 にまでもつれ込 んだ時 、自 らが首相 になることを望 んでいなかった村山 は「首相 までやった海部 さんに勝 てるわけがないと思 った」と述懐 している。その後 、海部 は野党 第 一 党 の新進党 代表 に就任 し、村山 と対峙 した。2011年 11月、明治大学 主催 の恩師 ・三木 武夫 のシンポジウムで、村山 と同席 した。宮澤 喜一 経済 政策 に弱 かった村山 は首相 時代 、竹下 登 と並 び財政 通 である宮澤 喜一 にも度々 助言 を求 めた。英語 を話 せず外交 経験 もない村山 は、首相 就任 直後 にサミットに出席 する直前 に、宮澤 に挨拶 に行 き「サミットでは英語 は使 わなくていい、ちゃんと通訳 がいるんだから、日本語 で堂々 と話 せばいいですよ」と激励 され「良 いアドバイスを頂 いた」と評 している。細川 護煕 細川 内閣 当時 、細川 護煕 の記者 会見 が深夜 に行 われることが度々 あった。特 に重大 な発表 [注釈 8]ほど深夜 に行 われることが多 く、そうした折 には、一夜 明 けるとマスコミや野党 ばかりか、与党 にも大 きな驚 きを与 えることがあった。当時 連立 与党 の社会党 委員 長 だった村山 は、細川 のことを「深夜 に騒 ぐ男 じゃのう」と評 していた。橋本 龍太郎 村山 内閣 で通商 産業 大臣 を務 めた橋本 龍太郎 は、かつて村山 と同 じ社会 労働 委員 会 に所属 しており「若 くて初々 しかった」と当時 を振 り返 る。首相 辞任 後 の橋本 への政権 交代 は、マスコミなどから「禅譲 」と揶揄 されたが、村山 は「橋本 さんでいいと思 ったわけではない。僕 に後継 者 を決 める権限 はない。河野 さんに一 度 総理 になってほしかったけど」と述 べている。小渕 恵三 小渕 恵三 が首相 在任 中 に脳 梗塞 で倒 れて、2000年 5月 に亡 くなった際 、村山 が追悼 演説 を読 み、小渕 の業績 の中 でも特筆 すべきは「わが国 でサミットを開催 するに当 たり、開催 地 を沖縄 に決 めたこと」として、若 いころからの沖縄 問題 への取 り組 みを評 した。なお翌月 の総 選挙 で、村山 は政界 を引退 をしており、この追悼 演説 が最後 の国会 演説 となった。首相 経験 者 から首相 経験 者 への国会 における追悼 演説 は、これが初 である。森 喜朗 森 喜朗 は、自民党 が1993年 の総 選挙 で野党 に転落 して、辛酸 を舐 めた当時 の幹事 長 であり、自民党 の政権 復帰 のために亀井 静香 と連携 して、社会党 委員 長 である村山 を首班 とする「自社 さ連立 政権 」成立 に尽力 した。村山 は首相 就任 直後 、長年 の社会党 の政策 方針 を転換 して、自衛隊 を合憲 と認 める国会 答弁 を行 った。この政策 転換 は、村山 にとって歴代 の社会党 委員 長 の顔 を思 い出 すほど大変 苦渋 の決断 だったが、森 が御礼 に行 くと村山 は「首相 と社会党 委員 長 とどちらが大事 だ。聞 くまでもないじゃろ」と答 えたという。小泉 純一郎 山崎 拓 の著書 『YKK秘録 』によると小泉 純一郎 も村山 に首相 就任 を要請 したという。小泉 が戦後 60年 の首相 談話 として、村山 談話 を踏襲 する小泉 談話 を発表 したことは評価 する一方 、小泉 の靖国神社 参拝 については「村山 談話 と靖国 参拝 は両立 しない、実 が無 い」と断 じた。2005年 4月 、京都 迎賓館 開館 式 で小泉 が隣 に座 った村山 に「いま村山 談話 を勉強 しています」と言 うと「それは結構 なことじゃ」と冗談 半分 に言 ったという。麻生 太郎 村山 は首相 時代 、麻生 太郎 を国土庁 長官 に起用 する意向 を示 したが、野中 広務 の反対 で実現 しなかったと言 われる。鳩山 由紀夫 第 45回 衆議院 議員 総 選挙 で、自民党 から民主党 への政権 交代 は「有権者 が一票 投 じることにより、政権 を変 えることが出来 た。これは大変 画期的 なこと」と講演 したが、その後 鳩山 由紀夫 が、普天間 基地 移設 問題 で内閣 総理 大臣 を辞任 したことに触 れ、「何 か見通 しと根拠 があって移設 を唱 えたのかと思 ったが、見通 しも根拠 もなかった」と批判 した。菅 直人 東日本 大震災 の発生 翌日 に、被災 地 入 りして批判 された菅 直人 について「僕 は阪神 ・淡路 大震災 の時 、現地 入 りが遅 くて批判 され、菅 さんは翌日 に行 って批判 された。東日本 大震災 とは規模 が違 うので一概 には言 えないが、混乱 した状況 で総理 が行 くと、かえって現地 に迷惑 をかける」と述 べる。菅 が首相 辞意 を表明 しつつ、辞任 を先 延 ばしした際 には「早 く辞任 すべき」と厳 しく批判 した。野田 佳彦 - 「
政治 生命 を賭 ける」と言 って、消費 税 増税 法案 を成立 させた野田 佳彦 に対 し「私 が消費 税 増税 法案 を成立 させたときは、先行 減税 を行 った。野田 さんの場合 は、いきなり消費 税 を全面 に出 して、政治 生命 を賭 けると言 い出 した。本人 がそういう決意 をするのも必要 だが、我々 には関係 ない」と増税 を批判 した。 安倍晋三 - 2006
年 10月 、第 1次 政権 時 の安倍晋三 が首相 就任 直後 に訪中 し、小泉 政権 時代 に冷 え込 んだ日 中 関係 の打開 を図 り、中華人民共和国 との戦略 的 互恵 関係 を打 ち出 したことを高 く評価 する一方 、2013年 12月 末 に第 2次 政権 の安倍 が靖国神社 に参拝 した際 には「本人 の気持 ちを守 るために国 を売 るような首相 があるか」と厳 しく批判 した。安倍 の憲法 改正 論 や村山 談話 をめぐる発言 のブレについても批判 している。 日本 記者 クラブの講演 で「村山 談話 とアベノミクスは、総理 大臣 の名前 を冠 する路線 だが、どちらが長生 きするか」と質問 され「村山 談話 じゃろ。アベノミクスは経済 だから、目的 を達 すれば消 えて行 く。こっちは歴史 だから」と述 べた。小沢 一郎 - 1993
年 の総 選挙 で、非 自民 連立 政権 の細川 内閣 が成立 した当時 、村山 はまだ社会党 委員 長 には就任 しておらず、社会党 の連立 政権 参加 には反対 の立場 だった。小沢 一郎 が大 きな権力 を握 っていた非 自民 連立 政権 で、羽田 内閣 が成立 する直前 に社会党 を外 した統一 会派 「改新 」が結成 されたことに激 しく反発 し、「数 の力 で政治 を両断 しようとする意図 がありありと見受 けられる。これは許 しがたい」として、連立 政権 から離脱 した。また小沢 が主張 する小 選挙 区 制度 導入 にも反対 の主張 を貫 いた。 前原 誠司 - 2006
年 2月 に民主党 代表 だった前原 誠司 と会談 し、靖国神社 に参拝 する小泉 首相 (当時 )を批判 したうえで「ブレずに自分 で決断 することが大事 だ。自分 も首相 の時 そうしてきた」とアドバイスした。 広瀬 勝 貞 - 2007
年 3月 、広瀬 勝 貞 の大分 県知事 選挙 出陣 式 にて、この選挙 は「当落 を問 う選挙 ではない」[72]とスピーチし、広瀬 の「圧倒的 な勝利 」[72]の実現 を聴衆 に訴 えた。 - 2015
年 4月 12日 に行 われた大分 県知事 選挙 でも、村山 は日本国 憲法 改正 を主張 する安倍晋三 を批判 する立場 でありながら、自民 ・公明 が推薦 した広瀬 勝 貞 の支持 に回 り、広瀬 の四 選 に貢献 して、社民党 大分 県連 内 から物議 を醸 した。 田母神 俊雄 - 2008
年 11月に、村山 談話 の日本国 政府 見解 と異 なる認識 を示 した論文 を発表 したとして、自衛隊 航空 幕僚 長 を更迭 された田母神 俊雄 について「田母神 論文 は多 くの学者 が否定 している」と批評 した。 橋下 徹 - 2013
年 5月 に、橋下 徹 大阪 市長 が「従軍 慰安 婦 は当時 必要 だった」として、戦時 中 の従軍 慰安 婦 制度 を正当 化 する発言 をしたことに対 し、NHKの取材 に応 え「このように従軍 慰安 婦 が国際 問題 化 している中 で、そういう発言 するのは理解 できない」と厳 しく批判 。橋下 がこの発言 で国内外 から厳 しい非難 を受 けながら、謝罪 や発言 の撤回 をしないことについても「弁解 を繰 り返 しても問題 が大 きくなるだけ。謝罪 するなら謝罪 し、訂正 するなら訂正 することから出発 した方 が良 い」と忠告 した。
スポーツ
[- ラグビー -
早稲田大学 出身 の河野 と森 に東京大学 出身 の武村 を加 えて、ラグビーの早 明 戦 を観戦 したこともある(早 明 戦 も参照 )。 相撲 -少年 時代 に、後 の関脇 玉乃 海 と相撲 を取 ったことがある[71]。- バスケットボール - 2010
年 よりbjリーグ・大分 ヒートデビルズをサポートする「名誉 ブースター」に就任 している。
略歴
[- 1924
年 - 11人 兄弟 の六 男 として誕生 。 - 1936
年 -中島 尋常 小学校 卒業 。 - 1938
年 -大分 高等 小学校 卒業 後 、上京 し昼間 は機械 工場 、印刷所 で働 きながら夜学 に通 う。 - 1942
年 -東京 市立 商業 学校 卒業 。 - 1943
年 -旧制 明治大学 専 門部 政治 経済 科 入学 。 - 1944
年 -石川 島 造船 所 配属 。 - 1944
年 -学徒 出陣 で宮崎 県 都城 市 にある、大日本帝国 陸軍 歩兵 第 23連隊 に二等兵 で入隊 (最終 階級 :陸軍 軍曹 )。 - 1946
年 -旧制 明治大学 専 門部 政治 経済 科 卒業 。 - 1948
年 -大分 県 漁村 青年 同盟 書記 長 。 - 1951
年 -大分 市議会 議員 選挙 落選 。 - 1953
年 - ヨシヱ夫人 と結婚 。 - 1955
年 -大分 市議会 議員 選挙 当選 (当選 2回 )。 - 1963
年 -大分 県議会 議員 選挙 当選 (当選 3回 )。 - 1972
年 -第 33回 衆議院 議員 総 選挙 に旧 大分 1区 より立候補 し、当選 (以後 通算 当選 8回 )。社会 労働 委員 会 に所属 。右派 の「水曜 会 」入会 。 - 1973
年 -横路 孝弘 北海道 知事 、田 英夫 元 社民連 代表 と「新 しい流 れの会 」に参画 。 - 1976
年 -第 34回 衆議院 議員 総 選挙 当選 (2期 目 )。 - 1976
年 -大分 県 佐伯 市 の「じん肺 振動 病 問題 」で患者 救済 の道 を作 る。 - 1979
年 -第 35回 衆議院 議員 総 選挙 当選 (3期 目 )。 - 1980
年 -第 36回 衆議院 議員 総 選挙 、次点 で落選 。 - 1983
年 -第 37回 衆議院 議員 総 選挙 、トップ当選 で衆議院 議員 に返 り咲 く(4期 目 ・以後 4回 の選挙 ではいずれもトップ当選 )。 - 1986
年 -第 38回 衆議院 議員 総 選挙 当選 (5期 目 )。 - 1990
年 -第 39回 衆議院 議員 総 選挙 当選 (6期 目 )。 - 1991
年 -衆議院 物価 問題 等 に関 する特別 委員 長 。 - 1991
年 -日本 社会党 国会 対策 委員 長 。 - 1993
年 -第 40回 衆議院 議員 総 選挙 当選 (7期 目 ) - 1993
年 -日本 社会党 委員 長 。 - 1994
年 -内閣 総理 大臣 。 - 1996
年 -初 の小 選挙 区 制度 での総 選挙 となった第 41回 衆議院 議員 総 選挙 で大分 1区 から立候補 し、当選 (8期 目 )。 - 1996
年 -社会 民主党 党首 。 - 1996
年 -社会 民主党 特別 代表 。 - 2000
年 -総 選挙 前 に政界 引退 を発表 。 - 2000
年 -財団 法人 女性 のためのアジア平和 国民 基金 理事 長 。 - 2002
年 - 「八 月 のかりゆし」リウボウ役 で映画 出演 。 - 2006
年 -桐 花 大 綬章 受章 。
所属 団体 ・議員 連盟
[著作
[単 著
[金森 和行 インタビュー・構成 『村山 富市 が語 る「天命 」の五 六 一 日 』ベストセラーズ、1996年 8月 。内閣 総理 大臣 官房 監修 『村山 内閣 総理 大臣 演説 集 』日本 広報 協会 、1998年 4月 。王 雅 丹 訳 『我 的 奮闘 歴程 』2005。薬師寺 克行 編 『村山 富市 回顧 録 』岩波書店 、2012年 5月 。
共著
[辻 元 清美 インタビュー『そうじゃのう…――村山 富市 「首相 体験 」のすべてを語 る』第 三 書 館 、1998年 後藤田 正晴 ・村山 富市 ・岡野 加穂留 述 、明治大学 政治 経済学部 編 『若者 と語 る』明治 大学生 時 経済学部 、2002年 。大沼 保 昭 ・岸 俊光 編 、和田 春樹 ほか講演 『慰安 婦 問題 という問 い――東大 ゼミで「人間 と歴史 と社会 」を考 える』勁草書房 、2007年 。ISBN 9784326248391中曽根 康弘 ほか著 、『私 の後藤田 正晴 』編纂 委員 会 編 『私 の後藤田 正晴 』講談社 、2007年 。ISBN 9784062139342佐 高信 共著 『「村山 談話 」とは何 か』角川書店 、2009年 。ISBN 9784047102002梶本 幸治 ・園田 原 三 ・浜谷 惇 編 『村山 富市 の証言 録 ――自社 さ連立 政権 の実相 』新生 舎 出版 、2011年 。ISBN 9784990604004- 『
慰安 婦 問題 とアジア女性 基金 デジタル記念 館 』和田 春樹 共編 青 灯 社 2014 - 『
検証 安倍 談話 戦後 七 〇年 村山 談話 の歴史 的 意義 』山田 朗 ,藤田 高 景 共編 明石書店 2015 - 『こんなに
違 う!村山 談話 と安倍 談話 』佐 高信 共著 七 つ森 書 館 2015
寄稿
[村山 富市 稿 「私 の履歴 書 」『日本経済新聞 』日本経済新聞社 、1996年 。村山 富市 稿 「慰安 婦 問題 『河野 談話 を継承 』こそ重要 」『朝日新聞 』朝日新聞 東京 本社 、2007年 4月 5日 、15面 。村山 富市 稿 「めぐり合 わせの人生 」『文藝春秋 』89巻 13号 、文藝春秋 、2011年 11月1日 、79-81頁 。
出演
[- 『
男 はつらいよ寅次郎 紅 の花 』(山田 洋次 監督 、松竹 、1995年 ):本人 役 - 『
八 月 のかりゆし』(高橋 巖 監督 、ギャガ・コミュニケーションズ、2002年 ): リウボウ役 - 『チコちゃんに
叱 られる!』(NHK、2018年 9月 7日 ): VTRゲスト
脚注
[注釈
[- ^
非 自民 首相 であった羽田 孜 と鳩山 由紀夫 は1993年 まで自民党 衆議院 議員 であり、細川 護 熙も参議院 議員 時代 は自民党 員 で田中 派 の旗揚 げに参加 している。また、総理 退陣 後 も含 めて自民党 籍 を有 しなかった政治 家 としても片山 哲 以来 である(片山 の後任 である芦田 均 、吉田 茂 は総理 退陣 後 に発足 した自民党 に参加 した)。 また、のちの2011年 に就任 した野田 佳彦 (ただし細川 が代表 を務 めた日本新党 出身 )を含 め、1955年 の自民党 発足 以降 の内閣 総理 大臣 で自民党 所属 歴 が無 い内閣 総理 大臣 は2019年 現在 3名 である(村山 ・菅 ・野田 )。 - ^
衆議院 での与党 第 一 党 党首 経験 者 への弔辞 は野党 第 一 党 党首 が行 うのが慣例 であり、本来 なら民主党 代表 の鳩山 由紀夫 が行 うはずだが、小渕 の遺族 側 が拒 んだため、野党 の党首 経験 者 で首相 経験 もある村山 が例外 的 にこれを行 った。 - ^
村山 ・橋本 政権 当時 、与党 のさきがけに所属 していた。 - ^
当時 の日本 社会党 は社会 民主 主義 政党 を標榜 しており、共産 主義 政党 や社会 主義 政党 ではない。その英文 表記 も「Social Democratic Party of Japan(日本 社会 民主党 )」で、現在 の社会 民主党 の英文 党名 と全 く同一 であった。 - ^ マスコミ
報道 では「側 にいた大食漢 の武村 蔵相 につられて食 べ過 ぎたため」「食 べ慣 れないオリ ーブ油 を多量 に使 ったイタリア料理 を食 べたため」など諸説 が飛 びかっていた。 - ^
村山 内閣 成立 に伴 い、自宅 は観光 名所 となり、観光 バスに乗 った団体 客 が訪 れた - ^ また、『ニュースステーション』で
村山 の弟 が記者 会見 する際 の会場 にされた。 - ^ コメ
市場 の部分 開放 、河野 洋平 との政治 改革 関連 法案 の修正 合意 、国民 福祉 税 構想 など。
出典
[- ^
村山 富市 元 首相 きょう100歳 の誕生 日 「日本 がどこまでも平和 な国 であるように」 FNN、2024年 3月 3日 - ^ a b c d
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村山 富市 「私 の政治 人生 」村山 富市 ・佐 高信 『「村山 談話 」とは何 か』角川書店 、2009年 、98頁 。 - ^
村山 富市 「私 の政治 人生 」村山 富市 ・佐 高信 『「村山 談話 」とは何 か』角川書店 、2009年 、113頁 。 - ^
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村山 富市 元 首相 が中国 軍事 パレードに出席 ・・・これまで3回 、連続 してすべてに顔 出 す=中 searchaina(2015-09-03)searchinaweb魚拓 - ^ 「
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村山 元 首相 が交通 事故 自転車 の子 どもに衝突 -共同通信 、2005年 7月 16日 - ^
尖閣 問題 で意見 交換 。菅 官房 長官 「大 いに話 を」日 中 友好 協会 が訪中 2013年 1月 28日 MSN産経 ニュース - ^
村山 元 首相 、安倍 首相 に1月 末 の訪中 会談 内容 を報告 2013年 2月 1日 MSN産経 ニュース - ^
社民 が旧 党 本部 でお別 れ会 =村山 元 首相 「低迷 歯 がゆい」2013年 2月 27日 時事 ドットコム - ^
村山 談話 「継承 」安倍 首相 が軌道 修正 2013年 5月 16日 MSN産経 ニュース - ^
村山 元 首相 が訴 え「談話 を見直 せば日本 は孤立 する」2013年 7月 2日 MSN産経 ニュース - ^
村山 元 首相 、「社民党 にこだわらず。次期 衆院 選 は新党 」で2013年 8月 19日 MSN産経 ニュース - ^
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参考 文献
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関連 項目
[玉 流 館 憲法 9条 にノーベル平和 賞 を菅 直人 -自民 籍 のない総理 大臣 (次 の自民 中心 の第 1次 橋本 内閣 では閣僚 )。在任 中 に大 災害 (東日本 大震災 )が発生 。
外部 リンク
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1991 |
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