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井出いで一太郎いちたろう

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井出いで一太郎いちたろう
いで いちたろう
生年月日せいねんがっぴ 1912ねん1がつ4にち
出生しゅっしょう 長野ながのけん
ぼつ年月日ねんがっぴ (1996-06-02) 1996ねん6月2にち(84さいぼつ
死没しぼつ 長野ながのけん南佐久みなみさくぐん臼田うすだまち
出身しゅっしんこう 京都きょうと帝国ていこく大学だいがくげん京都大学きょうとだいがく
ぜんしょく たちばなくら酒造しゅぞう代表だいひょう社員しゃいん
所属しょぞく政党せいとう国民こくみん協同きょうどうとう→)
国民こくみん民主党みんしゅとう→)
あらためしんとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
紺綬こんじゅ褒章ほうしょう
衆議院しゅうぎいん永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん
親族しんぞく ちち井出いで今朝平けさだいら
あね丸岡まるおか秀子ひでこ
おとうと井出いで武三郎たけさぶろう
おとうと井出いでみなもと四郎しろう
おとうと井出いでまごろく
長男ちょうなん井出いで正一しょういち
次男じなん井出いでおっと
まご井出いでいさおせい
義父ぎふ小山こやま邦太郎くにたろう

内閣ないかく 三木みき内閣ないかく
三木みき改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1974ねん12月9にち - 1976ねん12月24にち

内閣ないかく だい3佐藤さとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1970ねん1がつ14にち - 1971ねん7がつ5にち

日本の旗 だい23-24だい 農林のうりん大臣だいじん
内閣ないかく 石橋いしばし内閣ないかく
だい1きし内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1956ねん12月23にち - 1957ねん7がつ10日とおか

選挙せんきょ 長野ながのけんだい2
当選とうせん回数かいすう 16かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん4がつ11にち - 1986ねん6月2にち
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井出いで 一太郎いちたろう(いで いちたろう、1912ねん1がつ4にち - 1996ねん6月2にち)は、日本にっぽん政治せいじ内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんだい39だい)、農林のうりん大臣だいじんだい23-24だい)、郵政ゆうせい大臣だいじんだい29だい)。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(16)。

経歴けいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

長野ながのけんきゅう南佐久みなみさくぐん臼田うすだまちげん佐久さく出身しゅっしんいえ元禄げんろく時代じだい(1688ねん~1703ねん)からつづいたふるつく酒屋ざかやたちばなくら酒造しゅぞうけん会議かいぎいんつとめた今朝平けさだいら長男ちょうなん

旧制きゅうせい野沢のざわ中学ちゅうがく長野ながのけん野沢のざわきた高等こうとう学校がっこう)をて、1931ねん旧制きゅうせい松本まつもと高校こうこう文科ぶんかかぶとるい卒業そつぎょう。10年間ねんかん家業かぎょう専念せんねんしたのち1941ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ入学にゅうがく。すでに3にん子持こもちで、家業かぎょうをみながらの大学だいがく生活せいかつだった。

1946ねんだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょきゅう長野ながの2からはつ当選とうせん連続れんぞく当選とうせん16かい翌年よくねん国民こくみん協同きょうどうとう参加さんか。そこでった三木みき武夫たけお終生しゅうせい行動こうどうともにした。石橋いしばし内閣ないかくおよだい1きし内閣ないかく農林のうりん大臣だいじんだい3佐藤さとう内閣ないかく郵政ゆうせい大臣だいじん歴任れきにん1964ねん3月、野沢のざわきた高等こうとう学校がっこう改築かいちくとして10まんえん寄付きふにより1966ねん5月28にち紺綬こんじゅ褒章ほうしょう受章じゅしょう[1]1974ねん12月、三木みき内閣ないかく誕生たんじょうすると、内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん就任しゅうにん党内とうない基盤きばんよわ三木みき首相しゅしょうささえた。三木みきおろし直面ちょくめんした三木みきが、かず圧倒あっとうするはん主流しゅりゅうてきまわかたちでの衆議院しゅうぎいん解散かいさん強行きょうこうしようとしたさいにはおもいとどまらせている。

三木みき退陣たいじんによる官房かんぼう長官ちょうかん退任たいにんはん田中たなか角栄かくえい強硬きょうこうとしてられ、よんじゅうにち抗争こうそうでははん主流しゅりゅう統一とういつ組織そしき自民党じみんとうをよくするかい」の会長かいちょうつとめた。1986ねんはる叙勲じょくん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[2]同年どうねん持病じびょう白内障はくないしょう悪化あっかにより長男ちょうなん井出いで正一しょういち後継こうけいとして政界せいかい引退いんたい[2]

歌人かじんとしてもられ、官房かんぼう長官ちょうかん時代じだいうたさくつづけた。1978ねんには歌会うたかいはじめの召人[3]つとめた。

1996ねん6がつ2にち肺炎はいえんのため長野ながのけん臼田うすだまち佐久さく総合そうごう病院びょういん死去しきょ、84さい[2]死没しぼつをもってせいさんじょされる[4]

2018ねん6がつに『井出いで一太郎いちたろう回顧かいころく』(井出いでおっと竹内たけうちかつら吉田よしだ龍太郎りゅうたろうへん吉田よしだ書店しょてん ISBN 978-4-9054-9764-6)が刊行かんこうした。

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

戦前せんぜん立憲りっけん民政みんせいとう所属しょぞく代議士だいぎしで、戦後せんご自由民主党じゆうみんしゅとう所属しょぞく参議院さんぎいん議員ぎいんとなった小山こやま邦太郎くにたろう義父ぎふあね評論ひょうろん丸岡まるおか秀子ひでこおとうと共同通信きょうどうつうしん論説ろんせつ委員いいんちょう井出いで武三郎たけさぶろう千葉大学ちばだいがく学長がくちょう井出いでみなもと四郎しろう作家さっか井出いでまごろくらがいる。厚生こうせい大臣だいじん井出いで正一しょういち長男ちょうなんもと通産つうさん官僚かんりょう井出いでおっと次男じなん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん井出いでいさおせいまご

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

  • 1946ねん 衆議院しゅうぎいん議員ぎいんはつ当選とうせん
  • 1956ねん12月 農林のうりん大臣だいじん石橋いしばし内閣ないかく
  • 1957ねん2がつ 農林のうりん大臣だいじんきし内閣ないかく
  • 1970ねん1がつ 郵政ゆうせい大臣だいじん佐藤さとう内閣ないかく
  • 1974ねん12月 内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん三木みき内閣ないかく
  • 1986ねん6がつ 政界せいかい引退いんたい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽう号外ごうがいだい68ごう22ぺーじ 昭和しょうわ41ねん6がつ11にちごう
  2. ^ a b c 訃報ふほう. 産経新聞さんけいしんぶん. (1996ねん6がつ3にち). オリジナルの2000ねん10がつ19にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20001019225512/http://www.sankei.co.jp/databox/paper/96/paper/0603/dead.html 2023ねん1がつ2にち閲覧えつらん 
  3. ^ だいはは」で、「ははまさば大内山おおうちやま初春しょしゅんのけふのふしかいのよしげましを」がまれた
  4. ^ 官報かんぽうだい1918ごう11-12ぺーじ 平成へいせい8ねん6がつ21にちごう

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 古稀こき前後ぜんこう 歌集かしゅう橄欖かんらん叢書そうしょ、1986ねん
  • 井出いで一太郎いちたろう回顧かいころく 保守ほしゅリベラル政治せいじあゆみ』井出いでおっと竹内たけうちかつら吉田よしだ龍太郎りゅうたろうへん吉田よしだ書店しょてん、2018ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

議会ぎかい
先代せんだい
植木うえきかのえろう
日本の旗 衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんちょう
1967ねん - 1968ねん
次代じだい
あら舩清じゅうろう
先代せんだい
坂田さかた英一ひでかず
日本の旗 衆議院しゅうぎいん農林のうりん委員いいんちょう
1953ねん - 1954ねん
次代じだい
綱島つなしまただしきょう
公職こうしょく
先代せんだい
竹下たけしたのぼる
日本の旗 内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん
  だい39だい:1974ねん - 1976ねん
次代じだい
園田そのだただし
先代せんだい
河本かわもと敏夫としお
日本の旗 郵政ゆうせい大臣だいじん
だい29だい:1970ねん - 1971ねん
次代じだい
広瀬ひろせ正雄まさお
先代せんだい
河野こうの一郎いちろう
日本の旗 農林のうりん大臣だいじん
だい23・24だい:1956ねん - 1957ねん
次代じだい
赤城あかぎ宗徳むねのり