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岩本いわもと信行のぶゆき

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1953ねん

岩本いわもと 信行のぶゆき(いわもと のぶゆき、1895ねん3月2にち[1]1963ねん4がつ5にち)は、日本にっぽん政治せいじ国務大臣こくむだいじん衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょうだい34・35だい)、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(5)。位階いかいせいさん勲等くんとう勲一等くんいっとう[2]

来歴らいれき人物じんぶつ

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神奈川かながわけん高座こうざぐんだい野村のむら上鶴間かみつるまげん相模原さがみはらみなみ)に、農業のうぎょう岩本いわもと左衛門さえもん長男ちょうなんとしてまれる。小学校しょうがっこう卒業そつぎょう東京とうきょう南多摩みなみたまぐん忠生ただおむらげん東京とうきょう町田まちだ)にあった漢学かんがくじゅくなお絅塾でまなぶ。大野おおの村役場むらやくば書記しょき高座こうざぐん書記しょき家業かぎょう農業のうぎょう専念せんねんし、また養蚕ようさん組合くみあい設立せつりつして組合くみあいちょうになったり、青年せいねん団長だんちょうつとめるなど、地域ちいき世話せわやくてき活動かつどう積極せっきょくてきった。

だい野村のむら会議かいぎいん1922ねん)をて、1928ねん神奈川かながわけん会議かいぎいん当選とうせんし、1946ねんまで選出せんしゅつされる。またこのあいだけんかい議長ぎちょうけい3かい通算つうさん7ねん9ヶ月かげつあいだつとめた。この県内けんない各種かくしゅ農業のうぎょう団体だんたい役員やくいん兼任けんにんし、相模原さがみはら灌漑かんがい事業じぎょう推進すいしん地元じもと特産とくさん養蚕ようさんぎょう振興しんこう地域ちいき農民のうみん福祉ふくし厚生こうせい拡充かくじゅう尽力じんりょくした。

1946ねんだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ日本にっぽん自由党じゆうとうからきゅう神奈川かながわ全県ぜんけん1だい選挙せんきょせい)にて立候補りっこうほ当選とうせんする。以後いご当選とうせん5かい1947ねん衆院しゅういん議員ぎいん選挙せんきょほう改正かいせい特別とくべつ委員いいんちょうとして、野党やとう議員ぎいん暴行ぼうこうけつつも改正かいせいあん可決かけつさせ、ちゅう選挙せんきょせいさい導入どうにゅうはこびとなった。このとき活躍かつやくりが吉田よしだしげるまり、1948ねんだい2吉田よしだ内閣ないかくにて国務大臣こくむだいじん地方ちほう財政ざいせい委員いいんかい委員いいんちょう)として入閣にゅうかくする。また1949ねん1953ねんには衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょうとしてぬさはら喜重郎きじゅうろうはやし譲治じょうじ大野おおの伴睦ばんぼくかく議長ぎちょうをサポートし、かつてのめいけんかい議長ぎちょうとしての経験けいけんかしてほん会議かいぎ運営うんえい、その手堅てがたさがたか評価ひょうかされた。

その自由民主党じゆうみんしゅとう相談役そうだんやくなどをつとめる。また1958ねん在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん帰国きこく協力きょうりょくかい」が結成けっせいされると、小泉こいずみじゅんらとともに3にん代表だいひょう委員いいん一人ひとりとなった。1960ねんだい29かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ落選らくせんし、政界せいかい引退いんたい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 衆議院しゅうぎいんだい九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院しゅうぎいん公報こうほう附録ふろく〉、1946ねん、5ぺーじ
  2. ^ だい43かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん ほん会議かいぎ だい20ごう 昭和しょうわ38ねん4がつ26にち

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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議会ぎかい
先代せんだい
田中たなかまんいっ
日本の旗 衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょう
だい34・35だい:1949ねん - 1953ねん
次代じだい
はらぴょう
公職こうしょく
先代せんだい
野溝のみぞかち
日本の旗 地方ちほう財政ざいせい委員いいんかい委員いいんちょう
だい3だい:1948ねん - 1949ねん
次代じだい
木村きむら小左衞門こざえもん