田中たなかまんいっ

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田中たなか まんいっ
たなか まんいつ
生年月日せいねんがっぴ 1882ねん9月23にち
出生しゅっしょう 大阪おおさか富田林とんだばやし
ぼつ年月日ねんがっぴ (1963-12-05) 1963ねん12月5にち(81さいぼつ
出身しゅっしんこう 早稲田大学わせだだいがく中退ちゅうたい
所属しょぞく政党せいとう憲政けんせいかい→)
立憲りっけん民政みんせいとう→)
日本にっぽん進歩しんぽとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
無所属むしょぞく同志どうしクラブ→)
無所属むしょぞく民主みんしゅクラブ→)
民主みんしゅ自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう
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田中たなか まんいっ(たなか まんいつ、1882ねん明治めいじ15ねん9月23にち - 1963ねん昭和しょうわ38ねん12月5にち)は、日本にっぽん政治せいじ国務大臣こくむだいじん衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょう

来歴らいれき[編集へんしゅう]

現在げんざい大阪おおさか富田林とんだばやしまれる。早稲田大学わせだだいがく中退ちゅうたい報知ほうち新聞しんぶん記者きしゃて、1916ねん故郷こきょう大阪おおさかから衆議院しゅうぎいん補欠ほけつ選挙せんきょ当選とうせん以後いご当選とうせん14かい戦前せんぜん憲政けんせいかい立憲りっけん民政みんせいとう所属しょぞくし、1939ねん阿部あべ内閣ないかくにて逓信ていしん政務次官せいむじかんつとめる。

戦後せんご日本にっぽん進歩しんぽとう結党けっとう参加さんか幹事かんじちょうつとめる。1947ねんだい1吉田よしだ内閣ないかく発足ほっそくすると、とう総裁そうさいぬさはら喜重郎きじゅうろう推挙すいきょにより国務大臣こくむだいじん無任所むにんしょ)として入閣にゅうかく同年どうねんしん憲法けんぽうしたはつ衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょうとなる。民主党みんしゅとう結党けっとう参加さんかしたが吉田よしだしげるつぎ首班しゅはんたるべきと主張しゅちょうして離党りとう1948ねん2がつ同志どうしクラブ参加さんか同志どうしクラブは民主みんしゅクラブを日本にっぽん自由党じゆうとう合同ごうどう民主みんしゅ自由党じゆうとう結党けっとうしたので田中たなか民自党みんじとう所属しょぞくした。同年どうねん炭鉱たんこうこくかん疑獄ぎごく起訴きそされるも、1951ねん無罪むざい確定かくてい[1]。そのあいだ1950ねんからは自由党じゆうとう所属しょぞく

名文めいぶんにして野次やじ名手めいしゅであり、またいきみち達人たつじんとしてられ、とく女流じょりゅう奇術きじゅつ松旭斎天勝しょうきょくさいてんかつ初代しょだい)との艶聞えんぶん有名ゆうめいである。ただ生活せいかつ態度たいど質素しっそであり、さけもタバコもたしなまなかった。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

編集へんしゅう[編集へんしゅう]

共著きょうちょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 田中たなか二郎じろう佐藤さとういさお野村のむら二郎じろうへん戦後せんご政治せいじ裁判さいばんろく 1』第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1980ねん、341、347-350ぺーじ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

議会ぎかい
先代せんだい
井上いのうえ知治ともはる
日本の旗 衆議院しゅうぎいんふく議長ぎちょう
だい33だい:1947ねん - 1948ねん
次代じだい
岩本いわもと信行のぶゆき
公職こうしょく
先代せんだい
創設そうせつ
日本の旗 国務大臣こくむだいじん無任所むにんしょ
1947ねん
次代じだい
廃止はいし