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野田のだ武夫たけお

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野田のだ 武夫たけおのだ たけお
生年月日せいねんがっぴ 1895ねん2がつ8にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 熊本くまもとけん熊本くまもとみなみきゅう川口かわぐちむら
ぼつ年月日ねんがっぴ (1972-06-07) 1972ねん6月7にち(77さいぼつ
出身しゅっしんこう 早稲田大学わせだだいがく法学部ほうがくぶ
ぜんしょく 朝日新聞あさひしんぶん東京とうきょう本社ほんしゃ記者きしゃ
神奈川新聞社かながわしんぶんしゃ代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん民政みんせいとう→)
翼賛よくさん政治せいじかい→)
だい日本にっぽん政治せいじかい→)
日本にっぽん進歩しんぽとう→)
無所属むしょぞく→)
国民こくみん民主党みんしゅとう→)
新政しんせいクラブ→)
あらためしんとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
衆議院しゅうぎいん永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん
親族しんぞく むすめ婿むこ野田のだあつし

内閣ないかく だい2佐藤さとうだい2改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1968ねん11月30にち - 1970ねん1がつ14にち

内閣ないかく だい2池田いけだだい3改造かいぞうないかく
だい3池田いけだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1963ねん7がつ18にち - 1964ねん7がつ18にち

選挙せんきょ神奈川かながわけんだい2→)
熊本くまもとけんだい1
当選とうせん回数かいすう 6かい
在任ざいにん期間きかん 1955ねん2がつ27にち-1958ねん4がつ25にち
1958ねん8がつ25にち - 1972ねん6月7にち

選挙せんきょ 神奈川かながわけんだい2
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1936ねん2がつ20日はつか-1937ねん3月31にち
1942ねん4がつ30にち - 1945ねん12月18にち
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野田のだ 武夫たけお(のだ たけお、1895ねん2がつ8にち - 1972ねん6月7にち)は、昭和しょうわ日本にっぽん政治せいじ総理府そうりふ総務そうむ長官ちょうかん自治じち大臣だいじん位階いかいせいさんもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん野田のだあつしむすめ婿むこ

来歴らいれき人物じんぶつ

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熊本くまもとけん飽託ほうたくぐん川口かわぐちむらげん熊本くまもとみなみ出身しゅっしん

旧制きゅうせい熊本くまもと中学校ちゅうがっこうげん熊本くまもと県立けんりつ熊本くまもと高等こうとう学校がっこう)をて、1923ねん早稲田大学わせだだいがく法学部ほうがくぶどく法科ほうか卒業そつぎょう[1][2]国民こくみん新聞しんぶん記者きしゃ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん政治せいじ記者きしゃ神奈川新聞社かながわしんぶんしゃ社長しゃちょう町田まちだ忠治ただはる商工しょうこう大臣だいじん秘書官ひしょかんて、1936ねんだい19かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ立憲りっけん民政みんせいとう公認こうにんきゅう神奈川かながわ2より立候補りっこうほして当選とうせんたす。以後いご戦後せんごふくめて当選とうせん8かい戦前せんぜん軍需ぐんじゅ政務次官せいむじかん商工しょうこうしょう参与さんよなどをつとめた。政党せいとう解消かいしょう翼賛よくさん議員ぎいん同盟どうめい翼賛よくさん政治せいじかいだい日本にっぽん政治せいじかい所属しょぞくした。

戦後せんごだい日本にっぽん政治せいじかいながれを日本にっぽん進歩しんぽとう結成けっせい参加さんかしたが、翼賛よくさん選挙せんきょ翼賛よくさん政治せいじ体制たいせい協議きょうぎかい推薦すいせんけて当選とうせんしたため公職こうしょく追放ついほうい、解除かいじょはいったん国民こくみん民主党みんしゅとう入党にゅうとうしたのち民政みんせい旧友きゅうゆうかい分裂ぶんれつして誕生たんじょうした新政しんせいクラブ結成けっせい参加さんか。そのあらためしんとう合流ごうりゅうしたが、政界せいかいかえいたのは日本にっぽん民主党みんしゅとう公認こうにん立候補りっこうほ当選とうせんした1955ねんだい27かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょであった。保守ほしゅ合同ごうどうこう大麻たいま唯男ただお宮沢みやざわたねいさむ小泉こいずみじゅん浜野はまの清吾せいご真鍋まなべただしじゅう山本やまもと粂吉くめきち中村なかむらいさお一郎いちろうきゅう民政みんせいとうけい右派うは政治せいじ結集けっしゅうした大麻たいまぞくし、大麻たいまきし信介しんすけ合流ごうりゅうしてからはきしぞくした。さらにきし池田いけだ勇人はやと支持しじをめぐって分裂ぶんれつすると1962ねん河野こうの一郎いちろううつった。

1963ねん衆議院しゅうぎいんそう選挙せんきょ石坂いしざかしげる地盤じばん格好かっこうきゅう熊本くまもと1鞍替くらがえ、同年どうねんだい2池田いけだだい3改造かいぞうないかく総理府そうりふ総務そうむ長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかくたした。政治せいじ記者きしゃ出身しゅっしんしゃ特有とくゆうのアクのつよさをかんじさせない温厚おんこう人柄ひとがらで、1967ねんきゅう河野こうの分裂ぶんれつすると、中曽根なかそね康弘やすひろひきいる新政しんせい同志どうしかい座長ざちょうつとめ、中村なかむら梅吉うめきちとともに長老ちょうろうとしてない融和ゆうわつとめた。

1968ねんだい2佐藤さとうだい2改造かいぞうないかく自治じち大臣だいじんけん北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん。1972ねん6がつ7にち 死去しきょ。77さいぼつ

にちちゅう友好ゆうこう熱心ねっしん議員ぎいん一人ひとりであり、その政治せいじ姿勢しせいむすめ婿むこあつしにもがれている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん へん 1990, p. 490.
  2. ^ 早稲田大学わせだだいがく一覧いちらん 昭和しょうわ12ねん早稲田大学わせだだいがく、1936ねん、p.253(大学だいがくほう学科がっかどく法科ほうか大正たいしょう12ねん(1923ねん卒業そつぎょうしゃめい

参考さんこう文献ぶんけん

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衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん へん議会ぎかい制度せいどひゃくねん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』1990ねん11月。 

公職こうしょく
先代せんだい
赤沢あかざわ正道せいどう
日本の旗 自治じち大臣だいじん
だい15だい:1968ねん - 1970ねん
次代じだい
秋田あきた大助だいすけ
先代せんだい
木村きむら武雄たけお
日本の旗 北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん
だい30だい:1968ねん - 1970ねん
次代じだい
西田にしだ信一しんいち
先代せんだい
とくやすじつぞう
日本の旗 総理府そうりふ総務そうむ長官ちょうかん
だい9だいだい10代:1963ねん - 1964ねん
次代じだい
臼井うすい荘一しょういち
議会ぎかい
先代せんだい
前尾まえおしげる三郎さぶろう
森下もりした国雄くにお
日本の旗 衆議院しゅうぎいん外務がいむ委員いいんちょう
1957ねん - 1958ねん
1962ねん - 1963ねん
次代じだい
床次とこなみ徳二とくじ
赤沢あかざわ正道せいどう
先代せんだい
加藤かとう高蔵たかぞう
日本の旗 衆議院しゅうぎいん石炭せきたん対策たいさく特別とくべつ委員いいんちょう 次代じだい
多賀たがたにしんみのる