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森田 一(もりた はじめ、1934年〈昭和9年〉5月17日[2]- )は、日本の政治家。
運輸大臣(第77代)、北海道開発庁長官(第71代)、衆議院議員(8期)を歴任。香川県坂出市出身。大平正芳の娘婿にあたる。
香川県坂出市で出生。父は内科の開業医で、森田は3人兄弟の長男であった。地元の坂出高校に入学したが、大学受験を考慮し、香川県のトップ進学校である高松高校へ転校した[3]。
開業医の長男である森田は東京大学理科三類(原則として医学部に進む)に入学したが、2年生までの成績が抜群であったことで、教授たちから「森田君は、医者になるより、法学部に行って日本を動かすべき人だ」と説かれ、医学部ではなく、あえて法学部に進んだ[4]。
東京大学法学部第2類(公法コース)卒業後の1957年大蔵省に入省(官房文書課配属[注釈 1])。東海財務局、アジア経済研究所出向(1960年-1961年メルボルン大学留学)[6]、外相秘書官、国際金融局課長補佐、主計局主計官補佐、銀行局保険第二課長、理財局資金第二課長などを歴任[7]。
大蔵省出身の大平に見込まれて、大平の娘と1961年に結婚。仲人は坂出市出身の津島壽一。大平の総理就任に伴い内閣総理大臣政務秘書官などを務める。1980年、第36回衆議院議員総選挙の真っ只中に現職総理大臣のままで急死した大平に代わり、旧香川2区から急遽補充立候補し、弔い選挙の大勝で初当選する。当選後は宏池会に所属。1987年に自治政務次官、1989年には運輸政務次官に就任。1996年、中選挙区制から小選挙区制が施行されると選挙区3に対して現職自民党議員が4名になるためコスタリカ方式をとることなく単独比例候補に回った。
2000年、第2次森内閣において運輸大臣兼北海道開発庁長官として初入閣。その運輸大臣在任中に起きたいわゆる加藤の乱では、現職閣僚ながら加藤紘一を支持。当時法務大臣だった山崎派の保岡興治と事前に打ち合わせをして、加藤と山崎拓が本会議で森内閣に不信任投票した場合には、その場で大臣を辞して行動を共にするために辞表を用意していた。結局、加藤と山崎が欠席戦術に切り替えたため、森田は本会議に出席して不信任決議に反対票を投じた。
その後は、少数派となった小里派に所属していたが、2005年の総選挙には立候補せずに政界を引退した。2005年11月、旭日大綬章を受章[8]。
大蔵省入省同期[編集]
衆議院運輸委員長 |
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衆議院地方行政委員長 |
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統合前 |
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統合後 | |
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2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。 |