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森田もりたはじめ

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森田もりた はじめ
もりた はじめ
2000ねん7がつ だい2森内もりうちかくにて運輸うんゆ大臣だいじん就任しゅうにんさいし、官邸かんてい公表こうひょうした肖像しょうぞう写真しゃしん
生年月日せいねんがっぴ (1934-05-17) 1934ねん5月17にち(90さい
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 香川かがわけん坂出さかいで
出身しゅっしんこう 東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶだい2るい[1]
ぜんしょく 国家こっか公務員こうむいん大蔵省おおくらしょう
衆議院しゅうぎいん議員ぎいん秘書ひしょ
所属しょぞく政党せいとう 自由民主党じゆうみんしゅとう小里おざと
称号しょうごう 衆議院しゅうぎいん永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん
法学ほうがく東京大学とうきょうだいがく
旭日大綬章あさひだいじゅしょう
配偶はいぐうしゃ つま森田もりた芳子よしこ大平おおひら長女ちょうじょ
親族しんぞく 岳父がくふ大平おおひら正芳まさよし
長女ちょうじょ渡辺わたなべ満子みつこ大平おおひらまご

内閣ないかく だい2森内もりうちかく
在任ざいにん期間きかん 2000ねん7がつ4にち - 2000ねん12月5にち

選挙せんきょきゅう香川かがわ2→)
比例ひれい四国しこくブロック
当選とうせん回数かいすう 8かい
在任ざいにん期間きかん 1980ねん6月23にち - 2005ねん8がつ8にち
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森田もりた はじめ(もりた はじめ、1934ねん昭和しょうわ9ねん5月17にち[2]- )は、日本にっぽん政治せいじ

運輸うんゆ大臣だいじんだい77だい)、北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんだい71だい)、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(8)を歴任れきにん香川かがわけん坂出さかいで出身しゅっしん大平おおひら正芳まさよしむすめ婿むこにあたる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

香川かがわけん坂出さかいで出生しゅっしょうちち内科ないか開業医かいぎょういで、森田もりたは3にん兄弟きょうだい長男ちょうなんであった。地元じもと坂出さかいで高校こうこう入学にゅうがくしたが、大学だいがく受験じゅけん考慮こうりょし、香川かがわけんのトップ進学校しんがくこうである高松たかまつ高校こうこう転校てんこうした[3]

開業医かいぎょうい長男ちょうなんである森田もりた東京大学とうきょうだいがく理科りかさんるい原則げんそくとして医学部いがくぶすすむ)に入学にゅうがくしたが、2年生ねんせいまでの成績せいせき抜群ばつぐんであったことで、教授きょうじゅたちから「森田もりたくんは、医者いしゃになるより、法学部ほうがくぶって日本にっぽんうごかすべきひとだ」とかれ、医学部いがくぶではなく、あえて法学部ほうがくぶすすんだ[4]

東京大学とうきょうだいがく法学部ほうがくぶだい2るい公法こうほうコース)卒業そつぎょうの1957ねん大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう官房かんぼう文書ぶんしょ配属はいぞく[注釈ちゅうしゃく 1])。東海とうかい財務局ざいむきょくアジア経済けいざい研究所けんきゅうじょ出向しゅっこう(1960ねん-1961ねんメルボルン大学だいがく留学りゅうがく)[6]外相がいしょう秘書官ひしょかん国際金融局こくさいきんゆうきょく課長かちょう補佐ほさ主計しゅけいきょく主計しゅけいかん補佐ほさ銀行局ぎんこうきょく保険ほけんだい課長かちょう理財りざいきょく資金しきんだい課長かちょうなどを歴任れきにん[7]

大蔵省おおくらしょう出身しゅっしん大平おおひら見込みこまれて、大平おおひらむすめ1961ねん結婚けっこん仲人なこうど坂出さかいで出身しゅっしん津島つしま壽一ひさいち大平おおひら総理そうり就任しゅうにんともな内閣ないかく総理そうり大臣だいじん政務せいむ秘書官ひしょかんなどをつとめる。1980ねんだい36かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ只中ただなか現職げんしょく総理そうり大臣だいじんのままで急死きゅうしした大平おおひらわり、きゅう香川かがわ2から急遽きゅうきょ補充ほじゅう立候補りっこうほし、ちょう選挙せんきょ大勝たいしょうはつ当選とうせんする。当選とうせん宏池会こうちかい所属しょぞく1987ねん自治じち政務次官せいむじかん1989ねんには運輸うんゆ政務次官せいむじかん就任しゅうにん1996ねんちゅう選挙せんきょせいからしょう選挙せんきょせい施行しこうされると選挙せんきょ3にたいして現職げんしょく自民党じみんとう議員ぎいんが4めいになるためコスタリカ方式ほうしきをとることなく単独たんどく比例ひれい候補こうほまわった。

2000ねんだい2森内もりうちかくにおいて運輸うんゆ大臣だいじんけん北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかく。その運輸うんゆ大臣だいじん在任ざいにんちゅうきたいわゆる加藤かとうらんでは、現職げんしょく閣僚かくりょうながら加藤かとう紘一こういち支持しじ当時とうじ法務大臣ほうむだいじんだった山崎やまざき保岡やすおかきょう事前じぜんわせをして、加藤かとう山崎やまざきたくほん会議かいぎ森内もりうちかく不信任ふしんにん投票とうひょうした場合ばあいには、その大臣だいじんして行動こうどうともにするために辞表じひょう用意よういしていた。結局けっきょく加藤かとう山崎やまざき欠席けっせき戦術せんじゅつえたため、森田もりたほん会議かいぎ出席しゅっせきして不信任ふしんにん決議けつぎ反対はんたいひょうとうじた。

そのは、少数しょうすうとなった小里おざと所属しょぞくしていたが、2005ねんそう選挙せんきょには立候補りっこうほせずに政界せいかい引退いんたいした。2005ねん11月、旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[8]

大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう同期どうき[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 最後さいごたび : のこされた唯一ゆいいつ太平たいへい宰相さいしょう日記にっき行政ぎょうせい問題もんだい研究所けんきゅうじょ出版しゅっぱんきょく、1981ねん6がつ12にち
  • 新井あらい俊三しゅんぞう文人ぶんじん宰相さいしょう大平おおひら正芳まさよし春秋しゅんじゅうしゃ、1982ねん1がつ20日はつか
  • 服部はっとり龍二りゅうじのぼり亜美あみ中島なかじま琢磨たくま へんしんいちとう : 回想かいそう大平おおひら正芳まさよしそのひと外交がいこうだいいち法規ほうき、2010ねん3がつ 
  • 福永ふくなが文夫ふみお井上いのうえ正也まさや へん大平おおひら正芳まさよし秘書官ひしょかん日記にっき東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2018ねん4がつ 

映画えいが出演しゅつえん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじ課長かちょう谷村たにむらひろし筆頭ひっとう補佐ほさ竹内たけうち道雄みちお次席じせき補佐ほさ大倉おおくらしんたかしといずれも事務次官じむじかんになっており、名門めいもんであった。森田もりた大平おおひらすでいになっていたことで推薦すいせんされた[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 東大とうだい人名じんめいろくだい1』1986ねん発行はっこう、2ページ
  2. ^ 人事じんじ興信録こうしんろく30はん』お254
  3. ^ ぜん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん森田もりたいちホームページ 時事じじコラム 同窓生どうそうせい (平成へいせい15ねん4がつ25にち
  4. ^ かみいちぎょう日本にっぽんエリート軍団ぐんだん : ドキュメント東大とうだい法学部ほうがくぶ』グリーンアロー出版しゅっぱんしゃ、1981ねん、12ぺーじ 
  5. ^ 大平おおひら正芳まさよし一般いっぱん消費しょうひぜい 日本にっぽん記者きしゃクラブ 2010ねん8がつ3にち
  6. ^ https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Info/Memorial50/Ayumi/pdf/30_07ob.pdf
  7. ^ https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784490209846
  8. ^ あき叙勲じょくん4028にん民間みんかんが42%で過去かこ最高さいこう”. asahi.com (2005ねん11月3にち). 2023ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  9. ^ 映画えいが戦車せんしゃ闘争とうそう公式こうしきHP
議会ぎかい
先代せんだい
久間くま章生あきお
日本の旗 衆議院しゅうぎいん運輸うんゆ委員いいんちょう
1993ねん
次代じだい
近江おうみ巳記夫みきお
先代せんだい
島村しまむら宜伸よしのぶ
日本の旗 衆議院しゅうぎいん地方ちほう行政ぎょうせい委員いいんちょう
1991ねん
次代じだい
中島なかじままもる
公職こうしょく
先代せんだい
かい俊博としひろ
日本の旗 運輸うんゆ大臣だいじん
2000ねん
次代じだい
おうぎ千景ちかげ
先代せんだい
かい俊博としひろ
日本の旗 北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん
2000ねん
次代じだい
おうぎ千景ちかげ