中村 寅 太
なかむら とらた | |
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1947 |
来歴 ・人物
[1947
1949
1972
エピソード
[運輸 大臣 着任 早々 の1965年 6月 16日 、中村 は新 東京 国際 空港 候補 地 を空 から視察 した[1]。新 空港 建設 問題 において富里 と霞ヶ浦 を再度 にわたり視察 し、反対 派 農民 とも話 し合 った大臣 は中村 のみであり、友 納 武人 千葉 県知事 からは「誠実 の人 だった」と評価 されている[1]。「ボクの代 で新 空港 問題 は解決 したい。あとの人 に迷惑 を掛 けたくない」[2]と語 った中村 は建設 地 の閣議 決定 まで漕 ぎつけたが、結果 として急転直下 の決定 は大 規模 な反対 運動 を招 き、空港 問題 は長年 の懸案 として歴代 政権 に持 ち越 された。運輸 大臣 在任 中 の1966年 (昭和 41年 )2月 及 び3月 に立 て続 けに起 こった全日空 羽田 沖 墜落 事故 とカナダ太平洋 航空 402便 着陸 失敗 事故 、英国 海外 航空機 空中 分解 事故 では、穴守稲荷 神社 の旧 「一 の鳥居 」が羽田空港 に遺 され放置 されていることを取 り上 げ、その祟 りであるかのような噂 が流布 した[3]。そのような中 、品川 区 にある穴守稲荷 神社 講社 の講 元 が「穴守稲荷 神社 を空港 の中 に祀 らないと、事故 がこれからも多発 する」と世間 に訴 え、神社 の復興 を国会 議員 に陳情 した。この陳情 に「祟 りはともかく、神社 復興 は必要 だ。」と、当時 の瀬戸山 三男 建設 大臣 などとともに中村 も賛同 し、大臣 等 を会長 ・顧問 とした「穴守稲荷 復元 奉賛 会 」が設立 されたが[4]、最終 的 には社殿 再建 後 であることやターミナルビルの屋上 に分社 が祀 られていることなどから、空港 内 に穴守稲荷 神社 を復興 する計画 は頓挫 した[3][5]。- 1971
年 、第 3次 佐藤 内閣 の改造 で再 入閣 するが、当時 の佐藤 栄作 首相 は内閣 改造 で三木 派 冷遇 の人事 を行 う。また、中村 が三木 派 の中 で親 佐藤 ・親 福田 だったことから、佐藤 は福田 赳夫 に「この中 で君 が(三木 派 の中 で)親 しいのは誰 かね」と言 うと「中村 寅 太 さんでしょう」と返事 が返 り、三木 派 から一本釣 りで中村 が行 管 庁 長官 ・国家 公安 委員 会 に起用 された。 国家 公安 委員 長 在任 中 にあさま山荘 事件 が発生 し、警察庁 長官 の後藤田 正晴 のバックアップを行 った。記者 会見 で2人 の警官 が殉職 していることを告 げ、涙 を流 した[6]。一方 、「銃器 を使 うと人質 に当 たるといけないというなら短刀 をもっていって(犯人 を)グサッとやってしまえ」と強硬 論 を主張 していたという[7]。- 1976
年 、新自由 クラブ結成 が報 じられた時 、中村 は政治 評論 家 の浅川 博 忠 と歓談 していたが、報道 を耳 にするやいなや「苦労 知 らずでわがままな世襲 のお坊 ちゃまたちではいずれケンカ別 れしてしまうさ。もってせいぜい2〜3年 で分 党 か解党 だろう。長続 きするものではないさ」と、即座 に予言 した[8]。
脚注
[- ^ a b
東京 新聞 千葉 支局 /大坪 景 章 編 『ドキュメント成田空港 』東京 新聞 出版 局 、1978年 、27頁 - ^
朝日新聞社 朝日 ジャーナル編集 部 『三里塚 ―反 権力 の最後 の砦 』三 一 新書 (1970年 )、26頁 。 - ^ a b 『
穴守稲荷 神社 史 』穴守稲荷 神社 、2008年 3月 31日 、124頁 。 - ^ 『
日刊 観光 』日本 観光新聞社 、1966年 3月 25日 。 - ^
大田 区史 編纂 委員 会 『大田 の史話 』東京 都 大田 区 、1981年 3月 、330頁 。 - ^
保阪 正 康 『後藤田 正晴 異色 官僚 政治 家 の軌跡 』文藝春秋 、2009年 - ^
佐々淳行 『連合赤軍 「あさま山荘 」事件 』文藝春秋 、1996年 - ^
浅川 博 忠 『「新党 」盛衰 記 新自由 クラブから国民 新党 まで』講談社 (講談社 文庫 )、2005年 、58頁
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