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新自由しんじゆうクラブ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の旗 日本にっぽん政党せいとう
新自由しんじゆうクラブ
New Liberal Club
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1976ねん6月25にち
解散かいさん年月日ねんがっぴ 1986ねん8がつ15にち
解散かいさん理由りゆう 自民党じみんとうへの合流ごうりゅう
政治せいじてき思想しそう立場たちば 中道右派ちゅうどううは
保守ほしゅ主義しゅぎ[1]
保守ほしゅ中道ちゅうどう[2]
しん保守ほしゅ主義しゅぎ[2]
しん自由じゆう主義しゅぎ[2][3]
あたらしい保守ほしゅ[3]
「きれいな保守ほしゅ[3]
地方ちほう分権ぶんけん[4]
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新自由しんじゆうクラブ(しんじゆうクラブ、略称りゃくしょう新自しんじえい: New Liberal Club)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん政党せいとう

1976ねん自由民主党じゆうみんしゅとう河野こうの洋平ようへい西岡にしおか武夫たけおらによるちょう派閥はばつグループ・政治せいじ工学こうがく研究所けんきゅうじょ所属しょぞく国会こっかい議員ぎいん政治せいじ倫理りんりめぐ離党りとうして結成けっせいされ、10ねん1986ねんには自民党じみんとうへの合流ごうりゅうともな解散かいさんした。ただ、その一部いちぶ党員とういんは「新自由しんじゆうクラブ」の名称めいしょう国政こくせい選挙せんきょ出馬しゅつばした。なお、しん自由党じゆうとうとはなん関係かんけいがない。

とう[編集へんしゅう]

ロッキード事件じけん田中たなか角栄かくえいまえ首相しゅしょう捜査そうさおよぶなど政治せいじ倫理りんりおおきな政治せいじ課題かだいのぼっていたころすで自民党じみんとう離党りとう[5]していた衆議院しゅうぎいん議員ぎいん河野こうの洋平ようへい田川たがわ誠一せいいち西岡にしおか武夫たけお山口やまぐち敏夫としお小林こばやし正巳まさみと、「自民党じみんとうはすでに歴史れきしてき役割やくわりえた」として、すこおくれて離党りとうした参議院さんぎいん議員ぎいん有田ありた一寿かずとし[6]1976ねん6月25にちに「保守ほしゅ政治せいじ刷新さっしん」をかかげて新自由しんじゆうクラブを結成けっせいした。

新自由しんじゆうクラブの前身ぜんしんとなったのは、河野こうの自民党じみんとうない親中しんちゅう若手わかてたかって主宰しゅさいした勉強べんきょうかい政治せいじ工学こうがく研究所けんきゅうじょ」で、離党りとうした6にんのほか、藤波ふじなみ孝生たかお橋本はしもと龍太郎りゅうたろうらも参加さんかしていた。なお、藤波ふじなみ河野こうのさそいをって自民党じみんとう残留ざんりゅうした。

ながあいだ保守ほしゅけい政党せいとう自民党じみんとういちとうのみだったなかでのしん保守ほしゅ政党せいとう結成けっせいは、革新かくしん政党せいとうへの支持しじ躊躇ちゅうちょしながらも自民党じみんとう不満ふまんっていた支持しじそうけた。永田町ながたちょう相互そうごだい10ビルの本部ほんぶには、早稲田大学わせだだいがく雄弁ゆうべんかいメンバーなど手伝てつだいをしたいと名乗なの学生がくせい次々つぎつぎあらわれた[7]結党けっとう直後ちょくごの12月におこなわれただい34かい衆議院しゅうぎいんそう選挙せんきょでは一挙いっきょ17にん当選とうせん(さらに追加ついか公認こうにん1にん)させるなど党勢とうせいばした。

しかし、あいだもなくして新自由しんじゆうクラブの中道ちゅうどう政党せいとう目指めざ河野こうの田川たがわらと、自民じみんだい保守ほしゅ政党せいとうであるべきとする西岡にしおか山口やまぐちらの政治せいじ姿勢しせいちがいから、代表だいひょう河野こうの幹事かんじちょう西岡にしおか対立たいりつはげしくなった。最後さいごにはおおやけたがいを非難ひなんしあうまでに発展はってんするが、党内とうない大半たいはん河野こうのした新人しんじん議員ぎいんめられており、山口やまぐち有田ありた説得せっとくもむなしく、西岡にしおか新自由しんじゆうクラブから離党りとうしてしまった。

運営うんえいめんでの混乱こんらん目立めだち、政策せいさくてきにも新味しんみさをせず、1979ねんだい35かいそう選挙せんきょでは4議席ぎせき惨敗ざんぱいした[8]そう選挙せんきょ首班しゅはん指名しめい選挙せんきょでは、自民党じみんとうないよんじゅうにち抗争こうそうだったなか新自由しんじゆうクラブは自民党じみんとう総裁そうさい大平おおひら正芳まさよし支持しじして[9] 自民党じみんとうとのかくない連立れんりつ政権せいけん模索もさくしたが、新自由しんじゆうクラブの支持しじしゃ野党やとうメディアから批判ひはんけて失敗しっぱいし、河野こうの代表だいひょう辞任じにん田川たがわ誠一せいいち代表だいひょう就任しゅうにんした。

一時期いちじきおな少数しょうすう会派かいは社会しゃかい民主みんしゅ連合れんごうとのはん自民じみん共闘きょうとう念頭ねんとう院内いんない会派かいは新自由しんじゆうクラブ・民主みんしゅ連合れんごうしんれん)」を結成けっせいしたが、その会派かいは解消かいしょう民社党みんしゃとう社民連しゃみんれんとの中道ちゅうどう政党せいとう合流ごうりゅう構想こうそうてるも、いきなり自民党じみんとう連携れんけいするなど、どっちつかずで政党せいとうとして明確めいかくなスタンスを確立かくりつすることができなかった。

1983ねんだい37かいそう選挙せんきょ自民党じみんとう公認こうにん候補こうほ当選とうせん過半数割かはんすうわれすると、自民党じみんとうとの連立れんりつ政権せいけん樹立じゅりつ自民党じみんとう追加ついか公認こうにんれると過半数かはんすう確保かくほしたが、予算よさん委員いいんかい委員いいんちょうのぞいても与党よとう過半数かはんすうめるためには、新自由しんじゆうクラブの8議席ぎせき必要ひつようであったためである。1983ねん12月26にち統一とういつ会派かいは自由民主党じゆうみんしゅとうしん自由じゆう国民こくみん連合れんごう」を結成けっせいし、12月27にち成立せいりつだい2中曽根なかそね内閣ないかく田川たがわ自治じち大臣だいじんとして入閣にゅうかくした[10]だい2中曽根なかそね内閣ないかく発足ほっそくにより、1955ねんから28年間ねんかんつづいた自民党じみんとう単独たんどく政権せいけん一旦いったん終了しゅうりょうした。1984ねん6がつ河野こうの代表だいひょう復帰ふっきだい2中曽根なかそね改造かいぞうないかくでは山口やまぐち敏夫としお労働ろうどう大臣だいじんだい2中曽根なかそねさい改造かいぞうないかくでは河野こうの洋平ようへい科学技術庁かがくぎじゅつちょう長官ちょうかんとしてそれぞれ入閣にゅうかくした。

しかし、1986ねんだい38かいそう選挙せんきょでは自民党じみんとう大勝たいしょうする一方いっぽうで、新自由しんじゆうクラブの結果けっかは6議席ぎせきるわなかった。ふたた自民党じみんとう単独たんどく政権せいけんとなるなかで、新自由しんじゆうクラブは解党かいとうのうえ、だい多数たすうのメンバーが自民党じみんとう復帰ふっきした。田川たがわ自民党じみんとうにはふくとうせず、「進歩しんぽとう」を結成けっせい[10]参議院さんぎいん議員ぎいん宇都宮うつのみや徳馬とくま無所属むしょぞく議員ぎいん活動かつどうつづけた。

1989ねんだい15かい参院さんいんせんでは党員とういんだった清水しみず三雄みつおクロード・チアリ(さとしゆう蔵上くらのうえじんらが政治せいじ団体だんたい新自由しんじゆうクラブ』を名乗なのって出馬しゅつばしたものの、当選とうせんしゃせずにわっている。清水しみずのち政治せいじ団体だんたいを『平成へいせい龍馬りょうまかい』と改称かいしょうした。

2006ねん8がつ都内とないで「新自由しんじゆうクラブ同窓会どうそうかい」がひらかれ、河野こうの洋平ようへい中馬ちゅうま弘毅こうき木村きむらつとむ石川いしかわ達男たつお鳩山はとやま邦夫くにお加地かじかず鈴木すずき邦彦くにひこ浅野目あさのめ義英よしひで小中こなかすすむ小島こじまひろし大中おおなか睦夫むつお竹渕たけふち康弘やすひろ小林こばやし成基せいき山上やまかみ達也たつやせいふじ博久ひろひさ鈴木すずき公子きみことう所属しょぞく議員ぎいんOB、とう本部ほんぶ職員しょくいんOB、とう所属しょぞく国会こっかい議員ぎいん秘書ひしょとう地方ちほう職員しょくいんOBや、もとばん記者きしゃ岩見いわみ隆夫たかお安広やすひろ欣記ら)といった多数たすう参加さんかして旧交きゅうこうあたため、政治せいじ刷新さっしんちかった。

役職やくしょく[編集へんしゅう]

歴代れきだい執行しっこう役員やくいんひょう[編集へんしゅう]

代表だいひょう ふく代表だいひょう 幹事かんじちょう 政策せいさく委員いいんちょう 国会こっかい対策たいさく委員いいんちょう 参議院さんぎいん代表だいひょう
河野こうの洋平ようへい 田川たがわ誠一せいいち 西岡にしおか武夫たけお 小林こばやし正巳まさみ 山口やまぐち敏夫としお 有田ありた一壽かずとし
  田川たがわ誠一せいいち 石原いしはら健太郎けんたろう
田川たがわ誠一せいいち 山口やまぐち敏夫としお 柿澤かきざわ弘治こうじ 田島たじままもる

歴代れきだい代表だいひょう一覧いちらん[編集へんしゅう]

だい 代表だいひょう 在任ざいにん期間きかん
1 河野こうの洋平ようへい 1976ねん昭和しょうわ51ねん6がつ - 1980ねん昭和しょうわ55ねん2がつ
2 田川たがわ誠一せいいち 1980ねん昭和しょうわ55ねん2がつ - 1984ねん昭和しょうわ59ねん6がつ
3 河野こうの洋平ようへい 1984ねん昭和しょうわ59ねん6がつ - 1986ねん昭和しょうわ61ねん8がつ

政権せいけんポスト経験けいけんしゃ[編集へんしゅう]

()ない入閣にゅうかく直前ちょくぜんとう役職やくしょく

党勢とうせい推移すいい[編集へんしゅう]

衆議院しゅうぎいん[編集へんしゅう]

選挙せんきょ 当選とうせん/候補者こうほしゃ 定数ていすう 備考びこう
結党けっとう 5/- 491
だい34かいそう選挙せんきょ 17/25 511 追加ついか公認こうにん+1
だい35かいそう選挙せんきょ 4/31 511
だい36かいそう選挙せんきょ 12/25 511
だい37かいそう選挙せんきょ 8/17 511
だい38かいそう選挙せんきょ 6/12 512

参議院さんぎいん[編集へんしゅう]

選挙せんきょ 当選とうせん/候補者こうほしゃ 改選かいせん 定数ていすう 備考びこう
結党けっとう 1/- - 252
だい11かい通常つうじょう選挙せんきょ 3/13 0 252 追加ついか公認こうにん+1
だい12かい通常つうじょう選挙せんきょ 0/2 2 252
だい13かい通常つうじょう選挙せんきょ 2/10 1 252 社会しゃかい民主みんしゅ連合れんごう合同ごうどう名簿めいぼ追加ついか公認こうにん+1
だい14かい通常つうじょう選挙せんきょ 1/7 0 252

参考さんこう文献ぶんけん石川いしかわ真澄ますみ一部いちぶ山口やまぐち二郎じろうによる加筆かひつ)『戦後せんご政治せいじ』2004ねん8がつ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょISBN 4-00-430904-2

  • 当選とうせんしゃ追加ついか公認こうにんふくまず。追加ついか公認こうにんには会派かいはくわわった無所属むしょぞくふくむ。

新自由しんじゆうクラブに関連かんれんするおも政治せいじ一覧いちらん[編集へんしゅう]

国政こくせい選挙せんきょ立候補りっこうほし、当選とうせんしたもの[編集へんしゅう]

衆議院しゅうぎいん[編集へんしゅう]

参議院さんぎいん[編集へんしゅう]

国政こくせい選挙せんきょ立候補りっこうほするも、落選らくせんしたもの[編集へんしゅう]

地方ちほう選挙せんきょ立候補りっこうほし、当選とうせんしたもの[編集へんしゅう]

地方ちほう選挙せんきょ立候補りっこうほするも、落選らくせんしたもの[編集へんしゅう]

すくなからず関係かんけいしたもの[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大辞林だいじりん だいさんはん
  2. ^ a b c 百科ひゃっか事典じてんマイペディア
  3. ^ a b c 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)
  4. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん
  5. ^ 昭和しょうわ51ねん6がつ 中日ちゅうにちニュース No.1171_1「政局せいきょくなつじん 中日ちゅうにち映画えいがしゃ
  6. ^ 大平おおひら正芳まさよし』 202ぺーじ
  7. ^ 手足てあし不足ふそくそう選挙せんきょ アルバイトあつまらず 日当にっとう公選法こうせんほう制約せいやく朝日新聞あさひしんぶん』1976ねん昭和しょうわ51ねん)11月17にち夕刊ゆうかん、3はん、11めん
  8. ^ 大平おおひら正芳まさよし』 249ぺーじ
  9. ^ 大平おおひら正芳まさよし』 255ぺーじ
  10. ^ a b 元新もとしん自由じゆう代表だいひょう田川たがわ誠一せいいち死去しきょ」『日本経済新聞にほんけいざいしんぶん』2009ねん8がつ8にち、14はん、39めん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 福永ふくなが文夫ふみお大平おおひら正芳まさよし…「戦後せんご保守ほしゅ」とはなにか』(初版しょはん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉(原著げんちょ2008ねん12月20にち)。ISBN 9784121019769 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]