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青嵐会せいらんかい

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青嵐会せいらんかい(せいらんかい)は、1973ねん7がつ17にち自由民主党じゆうみんしゅとう派閥はばつ横断おうだんてき結成けっせいされた衆参しゅうさんりょう若手わかて議員ぎいん31めい公称こうしょう)からなる保守ほしゅ政策せいさく集団しゅうだん

趣意しゅい

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  1. 自由じゆう社会しゃかいまもり、外交がいこう自由じゆう主義しゅぎ国家こっかぐんとの緊密きんみつなる連携れんけい堅持けんじする。
  2. 国民こくみん道義どうぎ高揚こうようはかるため、物質ぶっしつ万能ばんのう風潮ふうちょうあらため、教育きょういく正常せいじょう断行だんこうする。
  3. 勤労きんろうたっとび、めぐまれぬ人々ひとびとをいたわり、あたらしい社会しゃかい正義まさよし確立かくりつするために、とみ偏在へんざい是正ぜせいし、不労所得ふろうしょとく排除はいじょする。
  4. 平和へいわ国家こっか建設けんせつのため、平和へいわみずかそなえることによってのみられるとの自覚じかくのっとり、国民こくみん国防こくぼう治安ちあん必要ひつようせいうったえ、この問題もんだい積極せっきょくてきむ。
  5. あたらしい歴史れきしにおける日本にっぽん民族みんぞくしん自由じゆう安全あんぜん繁栄はんえいするために自主じしゅ独立どくりつ憲法けんぽう制定せいていする。
  6. とう運営うんえい安易あんい妥協だきょう官僚かんりょう日和見ひよりみ旧来きゅうらい弊習へいしゅう打破だはする。

概要がいよう

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1973ねん昭和しょうわ48ねん)7がつ10日とおか衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいん若手わかて議員ぎいん31にん公称こうしょう)により、ホテルニューオータニで「青嵐会せいらんかい」の結団けつだんしきおこなわれた。石原いしはら発案はつあんにより、各々おのおの左手ひだりて小指こゆびかみそりり、会員かいいん名簿めいぼ血判けっぱんじょうした[1]青嵐あおあらし寒冷前線かんれいぜんせん意味いみで、かいめいは「渾沌こんとん停滞ていたいした政界せいかいさわやかなかぜおくもう」という意味いみめて石原いしはら慎太郎しんたろう命名めいめいした。設立せつりつ趣意しゅいしょには「いたずらに議論ぎろんすることなく、一命いちめいして、みぎ実践じっせんする」とあった[2]

中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん支持しじ立場たちばをとり、とき内閣ないかく総理そうり大臣だいじん田中たなか角栄かくえいによるにちちゅう国交こっこう正常せいじょうともな中華民国ちゅうかみんこくとの断交だんこう絶対ぜったい反対はんたい姿勢しせいつらぬき、自民党じみんとう外交がいこう部会ぶかいなどで強硬きょうこう主張しゅちょうした。

同年どうねん9がつの「にちちゅう国交こっこう正常せいじょう1周年しゅうねん記念きねん」に対抗たいこうして「中華民国ちゅうかみんこく断絶だんぜつ1周年しゅうねん訪問ほうもんだん」を結成けっせいし、台北たいぺい訪問ほうもんした。自民党じみんとう議員ぎいんによる北朝鮮きたちょうせん訪問ほうもん実力じつりょく阻止そししたこともある[2]

冷戦れいせんしたにあって西側にしがわ自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえい諸国しょこくとの連帯れんたい強化きょうかとなえていたため、中華民国ちゅうかみんこく蔣介せき政権せいけんだけでなく、韓国かんこくぼく正煕せいき政権せいけんとも友好ゆうこう関係かんけいった。とく中川なかがわ一郎いちろうは、はつ当選とうせん直後ちょくご1963ねん昭和しょうわ38ねん)12月にぼく正煕せいき大統領だいとうりょう就任しゅうにん慶祝けいしゅくだん一員いちいんとして訪韓ほうかん1965ねん昭和しょうわ40ねん)のにちかん国交こっこう樹立じゅりつ交渉こうしょうにもタッチしており、ほお政権せいけんたよりとする議員ぎいん一人ひとりとされる。[3]

1974ねん昭和しょうわ49ねん)1がつ日本武道館にほんぶどうかんおこなった「青嵐会せいらんかい主張しゅちょうする国民こくみん集会しゅうかい」では、大韓民国だいかんみんこく在日ざいにち居留民きょりゅうみんだん民団みんだん)にも動員どういんれいがかかり、「朝鮮ちょうせんふくないで出席しゅっせきせよ」との指令しれいていたという。[4] 同年どうねん浜田はまだ幸一こういち中国ちゅうごく国民党こくみんとう擁護ようご立場たちばから、在日ざいにち台湾たいわんどく立派りっぱきむよしよわい論戦ろんせんおこなったが、この番組ばんぐみ毎日放送まいにちほうそうMBSテレビ制作せいさく東京とうきょう12チャンネル放映ほうえい予定よていだった)は中国ちゅうごく国民党こくみんとう圧力あつりょく放映ほうえい中止ちゅうしとなった。

結成けっせい当初とうしょより、集会しゅうかいでは会場かいじょうとなった日本武道館にほんぶどうかん満員まんいんにするほどの人気にんきており[2]夕刊ゆうかんフジ創刊そうかんごうで「慎太郎しんたろう新党しんとうおどる」とほうじた。しかし大方おおかたマスコミからは「自民党じみんとう右翼うよく集団しゅうだん」「極右きょくう集団しゅうだん」などと批判ひはんされた[2]。マスコミの批判ひはんてき報道ほうどう神経質しんけいしつになっていた中川なかがわは、取材しゅざいけるさいには記事きじこまかい注文ちゅうもんをつけていた[2]。また、思想しそうめんちかいことから「福田ふくだ赳夫たけお親衛隊しんえいたい」などとわれることもあった。福田ふくだ中曽根なかそね議員ぎいんくわえて、中間なかま派閥はばつでも中川なかがわ石原いしはら玉置たまき和郎かずおらの福田ふくだきし系列けいれつちか人間にんげんおおく、福田ふくだ敵対てきたいした田中たなかおよびその同盟どうめい派閥はばつである大平おおひら議員ぎいんふくまなかったことから、それらの指摘してきたっている側面そくめん存在そんざいする。ただし、渡辺わたなべ美智雄みちお浜田はまだといった、他派たはながら大平おおひら正芳まさよしちか議員ぎいん青嵐会せいらんかい加入かにゅうしていた。

憲法けんぽう問題もんだいについては、昭和しょうわ憲法けんぽう主権しゅけん喪失そうしつした占領せんりょう制定せいていされたものであり、自衛隊じえいたい憲法けんぽうじょう根拠こんきょくことを問題もんだいし、集団しゅうだんてき自衛じえいけん行使こうし自主じしゅ憲法けんぽう制定せいていおな次元じげんとらえていた。また、「たい国連こくれん外交がいこう実質じっしつ」として自衛隊じえいたい国連こくれんぐん参加さんか検討けんとう課題かだいげるなど、外交がいこう安全あんぜん保障ほしょう政策せいさくめんでは冷戦れいせん国際こくさい政治せいじ力学りきがくつよ反映はんえいした主張しゅちょうゆうしていた[5]。なお、メンバーには地方ちほう選出せんしゅつ代議士だいぎしおおかったことから、国土こくど開発かいはつについては政府せいふ主導しゅどうによる開発かいはつ政治せいじ志向しこうするめんつよかった。このため、「国土こくど均衡きんこうある発展はってん」を志向しこうするてんでは田中たなか角栄かくえいの『日本にっぽん列島れっとう改造かいぞうろん』と共通きょうつうしており、青嵐会せいらんかい代表だいひょう世話人せわにん一人ひとりだった玉置たまきは、のちにだい2中曽根なかそね内閣ないかく1985ねん昭和しょうわ60ねん)、議員ぎいん立法りっぽう半島はんとう振興しんこうほう』の制定せいてい実現じつげんした。これには、当時とうじ衆院しゅういん建設けんせつ委員いいんちょう青嵐会せいらんかい同志どうしだった浜田はまだ尽力じんりょくおおきかったといわれる[6]

結成けっせいからあいだもなくして、中国ちゅうごく大陸たいりく中国共産党ちゅうごくきょうさんとうたいする強硬きょうこうろん反発はんぱつした山崎やまざきたく中川なかがわ度重たびかさなる説得せっとくにも翻意ほんいせず脱会だっかいし、それにつづいて野田のだあつし綿貫わたぬき民輔たみすけ内海うつみ英男ひでお離脱りだつしゃつづいた。1977ねん昭和しょうわ52ねん)になると、中川なかがわ農林のうりん大臣だいじん就任しゅうにんをきっかけとして、中川なかがわ渡辺わたなべ対立たいりつするようになった[2]

福田ふくだ内閣ないかく1978ねん昭和しょうわ53ねん)ににちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく国会こっかい上程じょうていされると、青嵐会せいらんかい内部ないぶでは福田ふくだとの関係かんけいから批准ひじゅん同調どうちょうするメンバーと、あくまでもはん中共ちゅうきょう姿勢しせいつらぬこうとするメンバーで対応たいおうかれるかたちになり、最終さいしゅうてきにはかい分裂ぶんれつ拍車はくしゃをかけることになる。同年どうねん11がつのち清和せいわかい会長かいちょうになる三塚みつづかひろし主導しゅどうするかたち中川なかがわ旗揚はたあげがまり、浜田はまだ排除はいじょされた。これと前後ぜんごして浜田はまだ在籍ざいせきしていた椎名しいな解散かいさんもあり、以後いご浜田はまだ1993ねん平成へいせい5ねん)の政界せいかい引退いんたいまで派閥はばつとなった。1979ねん昭和しょうわ54ねん)5がつ中川なかがわ結成けっせいともない、青嵐会せいらんかい消滅しょうめつした。

結成けっせい議員ぎいん

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衆議院しゅうぎいん議員ぎいん26めい参議院さんぎいん議員ぎいん5めい人物じんぶつ当選とうせん回数かいすう所属しょぞく派閥はばつ当時とうじのもの)。

衆議院しゅうぎいん議員ぎいん

参議院さんぎいん議員ぎいん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 経済けいざい時代じだい』1973ねん8がつごう経済けいざい時代じだいしゃ、9ぺーじ
  2. ^ a b c d e f 河内かわうちたかし悲観ひかんてき悲観ひかんろんしゃ」だった中川なかがわ一郎いちろう昭一しょういち親子おやこの「憂国ゆうこく」『SAPIOだい21かんだい20ごう小学館しょうがくかん、2009ねん11月25にち2010ねん3がつ25にち閲覧えつらん 
  3. ^ 河内かわうちたかし政治せいじ 青嵐会せいらんかいという物語ものがたり』(新潮しんちょう新書しんしょ)96p
  4. ^ 河内かわうちたかし政治せいじ 青嵐会せいらんかいという物語ものがたり』(新潮しんちょう新書しんしょ)108p
  5. ^ 菅谷すがや幸浩ゆきひろ青嵐会せいらんかいにおける自主じしゅ憲法けんぽう制定せいてい構想こうそう展開てんかい挫折ざせつ」(『憲法けんぽう研究けんきゅうだい53ごう、2021ねん)。
  6. ^ 菅谷すがや幸浩ゆきひろ戦後せんご日本にっぽん国土こくど開発かいはつ構想こうそう自民党じみんとう政治せいじについての覚書おぼえがき─『日本にっぽん列島れっとう改造かいぞうろん』と青嵐会せいらんかい比較ひかくから─」(『高崎たかさき商科しょうか大学だいがく紀要きようだい36ごう、2021ねん)。

関連かんれん項目こうもく

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