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日本にっぽんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとのあいだ平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく

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日本にっぽんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとのあいだ平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく
通称つうしょう略称りゃくしょう にちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく
署名しょめい 1978ねん8がつ12にち
署名しょめい場所ばしょ 北京ぺきん
発効はっこう 1978ねん10がつ23にち
締約ていやくこく 日本にっぽんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
言語げんご 日本語にほんご/中国ちゅうごく
条文じょうぶんリンク 外務省がいむしょう
ウィキソース原文げんぶん
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日本にっぽんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとのあいだ平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく(にほんこくとちゅうかじんみんきょうわこくとのあいだのへいわゆうこうじょうやく、中国ちゅうごく: ちゅう人民じんみん共和きょうわこくかず日本国にっぽんこく和平わへい友好ゆうこうじょう)は、1978ねん8がつ12にち北京ぺきん日本にっぽんこく中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとのあいだ締結ていけつされた条約じょうやくである。一般いっぱんにちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく(にっちゅうへいわゆうこうじょうやく)とぶ。

1972ねんにちちゅう共同きょうどう声明せいめいまえて、日本にっぽん中国ちゅうごく外交がいこう関係かんけい発展はってんのために締結ていけつされた平和へいわ条約じょうやくである。

調印ちょういん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽんこく
外務がいむ大臣だいじん 園田そのだただし
  • 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
外交がいこう部長ぶちょう はな

要旨ようし[編集へんしゅう]

内容ないようは1972ねん9がつ国交こっこう回復かいふくしたときにちちゅう共同きょうどう声明せいめい文面ぶんめん基本きほんてき踏襲とうしゅうしたものとなっている。だい1じょう主権しゅけん領土りょうど相互そうご尊重そんちょう相互そうご不可侵ふかしん相互そうご内政ないせい不干渉ふかんしょう記述きじゅつされ、だい2じょうはん覇権はけんうたい、だい3じょう両国りょうこく経済けいざいてき文化ぶんかてき関係かんけい一層いっそう発展はってんべて、だい4じょうでこの条約じょうやく第三国だいさんごくとの関係かんけいについてしるされている。国交こっこう回復かいふくから6ねんぎてから平和へいわ条約じょうやく交渉こうしょう妥結だけつしたのは、「はん覇権はけん条項じょうこうと「第三国だいさんごく条項じょうこうもっと論議ろんぎんだからである。

交渉こうしょう経過けいか[編集へんしゅう]

1972ねん9がつにちちゅう国交こっこう正常せいじょうさいに、発表はっぴょうされたにちちゅう共同きょうどう声明せいめいだい8こうで「平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつ目的もくてきとして交渉こうしょうおこなうことに合意ごうい」していたが、そのうごきは難航なんこうした。

1974ねん11月にかんねんりゅう外務がいむ次官じかん来日らいにちして、事務じむレベルの予備よび交渉こうしょうはじまる。そのさい中国ちゅうごくがわたい戦略せんりゃくとしての「はん覇権はけん条項じょうこうふくまれていたが、日本にっぽんがわはこれをおおやけにしなかった。よく1975ねん1がつだい2かい予備よび交渉こうしょう開催かいさいされ、その直後ちょくご新聞しんぶん報道ほうどうで「はん覇権はけん」の文言もんごんおおきな争点そうてんになっていることがあきらかにされた[1][注釈ちゅうしゃく 1]

当時とうじちゅう対立たいりつはげしい時代じだいであり、中国ちゅうごくしゅたるてきべいソにおいていたが、アメリカとは1972ねんニクソン訪中ほうちゅう国交こっこう回復かいふくしてからべいちゅう関係かんけい改善かいぜんし、むしろたいソ連それん牽制けんせいするために「ソ連それんとの対立たいりつ論理ろんり」が明白めいはくな「はん覇権はけん」を文言もんごんなかれるようにつよ主張しゅちょうした。しかし日本にっぽん政府せいふ(この当時とうじ三木みき武夫たけお首相しゅしょう外相がいしょう宮澤みやざわ喜一きいち)は北方領土ほっぽうりょうど問題もんだいかかえ、にち平和へいわ条約じょうやく視野しやれてソ連それん交渉こうしょうすすめる立場たちばから、この「はん覇権はけん条項じょうこうにちちゅう平和へいわ条約じょうやくれることには難色なんしょくしめした。

1975ねん9がつ国連こくれん総会そうかい出席しゅっせきした宮澤みやざわ外相がいしょうは、たかしかんむりはな外相がいしょう会談かいだんして「宮澤みやざわよん原則げんそく」を提示ていじした。このよん原則げんそくとは、「アジア・太平洋たいへいようのみならず世界せかいのどこでも覇権はけんには反対はんたいする」、「覇権はけん反対はんたい特定とくてい第三国だいさんごくをにけられたものではない」、「にちちゅう共同きょうどう行動こうどう意味いみしない」、などを骨格こっかくとするものであった[2]。これは、はん覇権はけん条項じょうこうはんせい中和ちゅうわするものであった。そして11月に日本にっぽんがわからの妥協だきょうあん中国ちゅうごくがわ提示ていじした。この当時とうじ中国ちゅうごく国内こくない情勢じょうせい不安ふあんがあった。べいちゅう関係かんけいにちちゅう関係かんけい改善かいぜん尽力じんりょくしたしゅう恩来おんらい国務こくむいん総理そうりはすでに闘病とうびょうちゅうであり、毛沢東もうたくとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとう主席しゅせき老衰ろうすいがすすみ、文化ぶんかだい革命かくめい文革ぶんかく)を推進すいしんした江青こうせいをはじめよん人組にんぐみちからはまだ健在けんざいであって、中国ちゅうごく外交がいこうかたくなに原則げんそく固守こしゅするものであった。そして日本にっぽんでは1976ねん1がつソ連それんグロムイコ外相がいしょう来日らいにちしてにち外相がいしょう会談かいだんにちちゅう交渉こうしょうへの不満ふまん表明ひょうめいしてつよ日本にっぽん牽制けんせいするのであった。これ以後いごほぼ2年間ねんかん平和へいわ条約じょうやく交渉こうしょう膠着こうちゃくしたままであった。

そのあいだ中国ちゅうごくではしゅう恩来おんらい首相しゅしょう毛沢東もうたくとう主席しゅせきが1976ねん相次あいついで死去しきょ鄧小ひらたしゅう首相しゅしょう死後しごきたよん天安門てんあんもん事件じけん理由りゆうとしてよん人組にんぐみによりふたた失脚しっきゃくした。9月の毛沢東もうたくとうぼつよん人組にんぐみ逮捕たいほされて文革ぶんかくうごきが沈静ちんせいし、華国鋒かこくほう主席しゅせき時代じだいはいった。日本にっぽんではロッキード事件じけん発覚はっかくによる政治せいじ混乱こんらんなか、12月のだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自由民主党じゆうみんしゅとう議席ぎせきおおきく減少げんしょうさせて三木みき退陣たいじん福田ふくだ赳夫たけお首相しゅしょう就任しゅうにんした。1977ねん7がつに鄧小へい共産党きょうさんとうふく主席しゅせきふく首相しゅしょうとしてさい復活ふっかつし、その主導しゅどうにより経済けいざい建設けんせつ路線ろせんがスタートしてから、状況じょうきょう劇的げきてきわっていった。日本にっぽんがわは1977ねん12がつごろには平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ前向まえむきな中国ちゅうごく姿勢しせい変化へんかかんじていた[3]

としけた1978ねん昭和しょうわ53ねん)1がつ施政しせい方針ほうしん演説えんぜつで「(にちちゅう政府せいふあいだ交渉こうしょうはようやくじゅくしつつある」と福田ふくだ首相しゅしょうべている。そして3がつ公明党こうめいとう代表だいひょうだん書記しょきちょう矢野やのあやなど)が訪中ほうちゅうして廖承こころざし中日ちゅうにち友好ゆうこう協会きょうかい会長かいちょう福田ふくだ首相しゅしょう前向まえむきな意向いこうつたえると、会長かいちょうよん項目こうもくたいする見解けんかいしめし、「はん覇権はけん」が第三国だいさんごくたいするものではなく、にちちゅう共同きょうどう行動こうどう意味いみするものでないとする従来じゅうらいからの日本にっぽんがわ立場たちばへの配慮はいりょしめした。それをけて福田ふくだ首相しゅしょう本格ほんかくてき検討けんとうはいった。福田ふくだ自民党じみんとうないしん台湾たいわんへの説得せっとくし、5月26にち自民党じみんとう総務そうむかいにちちゅう交渉こうしょう再開さいかい承諾しょうだくけた[4]

そして7がつ21にちから8がつ8にちまでのあいだ北京ぺきん事務じむレベルの交渉こうしょうおこなわれたが、この交渉こうしょうはん覇権はけんは「第三国だいさんごくたいするものでない」とする日本にっぽんがわ立場たちばとそれにつよ反発はんぱつする中国ちゅうごくがわあいだふたた意見いけん対立たいりつした。園田そのだただし外相がいしょう北京ぺきん到着とうちゃくしたよく9にち外相がいしょう会談かいだんで、事務じむきょく高島たかしま益郎ますろう外務がいむ審議しんぎかん)が事前じぜんしめした「高島たかしま私案しあん」をベースに最終さいしゅうてきめの作業さぎょうをおこない、8がつ12にち調印ちょういんにこぎけた。懸案けんあんだった第三国だいさんごく条項じょうこうについて、「第三国だいさんごくとの関係かんけいかんするかく締約ていやくこく立場たちば影響えいきょうおよぼすものではない」と表現ひょうげんして、はん覇権はけん条項じょうこうについては「アジア・太平洋たいへいよう地域ちいきにおいてもまたのいずれの地域ちいきにおいても、覇権はけんもとめるべきでなく……いかなるくにまたはくに集団しゅうだんによるこころみにも反対はんたいする」と明記めいきされた。

日本にっぽんがわは「第三国だいさんごく条項じょうこうり、「はん覇権はけん条項じょうこう中国ちゅうごくったといわれている。日本にっぽん立場たちば配慮はいりょしつつも、にちちゅう共同きょうどう声明せいめいだい7こうを「はん覇権はけん」と「第三国だいさんごく」に分割ぶんかつしたことで、はん覇権はけん意義いぎはより強調きょうちょうされたという解釈かいしゃくつものであった[5]

1978ねん10月に国会こっかい衆議院しゅうぎいんおよ参議院さんぎいん両院りょういんとも圧倒的あっとうてき多数たすう批准ひじゅんされ、同年どうねん10がつ22にちに鄧小へい来日らいにちした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ だい1かい交渉こうしょう開始かいしされたこの時期じきは、にちちゅう国交こっこう回復かいふくげた田中たなか角栄かくえい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん田中たなか金脈きんみゃく問題もんだい辞任じにんした時期じきでもあった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ にちちゅう関係かんけいだい3しょう 1970年代ねんだいにちちゅう関係かんけい国際こくさい政治せいじにちちゅう関係かんけい再編さいへん 131P  
  2. ^ にちちゅう関係かんけいだい3しょう 1970年代ねんだいにちちゅう関係かんけい国際こくさい政治せいじにちちゅう関係かんけい再編さいへん 132P 国分こくぶ良成よしなり添谷そえだによししゅう高原たかはら明生あきお川島かわしましん、2013ねん
  3. ^ にちちゅう関係かんけいだい3しょう 1970年代ねんだいにちちゅう関係かんけい国際こくさい政治せいじにちちゅう関係かんけい再編さいへん 132P
  4. ^ にちちゅう関係かんけいだい3しょう 1970年代ねんだいにちちゅう関係かんけい国際こくさい政治せいじにちちゅう関係かんけい再編さいへん 133P
  5. ^ にちちゅう関係かんけいだい3しょう 1970年代ねんだいにちちゅう関係かんけい国際こくさい政治せいじにちちゅう関係かんけい再編さいへん 134P

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • にちちゅう関係かんけいだい3しょう 1970年代ねんだいにちちゅう関係かんけい国際こくさい政治せいじにちちゅう関係かんけい再編さいへん  国分こくぶ良成よしなり 添谷そえだによししゅう 高原たかはら明生あきお 川島かわしましん ちょ 有斐閣ゆうひかく 2013ねん12月発行はっこう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]