安竹やすたけみや

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安竹やすたけみや(あんちくぐう、あんちくみや)は、中曽根なかそね康弘やすひろ政権せいけん後継こうけいめぐり、自民党じみんとううち安倍あべすすむ太郎たろう竹下たけしたのぼる宮澤みやざわ喜一きいちからとった頭字かしらじで、次世代じせだい指導しどうしゃとして頭角とうかくあらわしたことをひょうした造語ぞうご政界せいかい用語ようご中川なかがわ一郎いちろう渡辺わたなべ美智雄みちおらをふくめてニューリーダーともばれた。

世代せだいとしては三角さんかく大福だいふく(あるいは三角さんかく大福だいふくちゅう)ののちぞくし、竹下たけしたなな奉行ぶぎょうYKK世代せだいへとつづく。

概要がいよう[編集へんしゅう]

安竹やすたけみや」の3にん
名前なまえ 安倍あべすすむ太郎たろう 竹下たけしたのぼる 宮澤みやざわ喜一きいち
写真しゃしん

すで田中たなか角栄かくえい内閣ないかくころには、既成きせい実力じつりょくしゃさんかく大福だいふくちゅう[ちゅう 1]たいしてニューリーダーとして活躍かつやくし、かつ、自民党じみんとうない将来しょうらい総裁そうさい候補こうほされていたやすばいすすむ太郎たろうたけしもとうしょうさか徳三郎とくさぶろうの3めい諧謔かいぎゃくてきに「安竹やすたけしょうあんちくしょう」とばれていた[1]。しかし、この「安竹やすたけしょう」のうち、小坂こさか党内とうない最大さいだい派閥はばつ田中たなかであっても派閥はばつからくわわった外様とざまであり、運輸うんゆ大臣だいじん時代じだい国鉄こくてつ改革かいかくたいして消極しょうきょくてきられたために財界ざいかい出身しゅっしんでありながら土光どこう敏夫としお肝心かんじん財界ざいかいからの積極せっきょくてき支援しえんうしない、さら国鉄こくてつ改革かいかくすすめた中曽根なかそね康弘やすひろ首相しゅしょう不興ふきょうをもって政治せいじてき影響えいきょうりょく低下ていかさせてしまったため、小坂こさか徳三郎とくさぶろうわって鈴木すずき善幸ぜんこう内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんつとめたみやさわ喜一きいちがニューリーダーとしてくわえられるようになり、「安竹やすたけしょう」はいつしか「安竹やすたけみや」へと完全かんぜんえられるにいたった。

この「安竹やすたけみや」も各々おのおの派閥はばつ後継こうけいしゃされていた人物じんぶつであり、この3めい実際じっさい派閥はばつ継承けいしょうしている。また、中曽根なかそね康弘やすひろ総裁そうさい任期にんき満了まんりょうともなう1987ねん10がつ31にち総裁そうさいせんおよびその中曽根なかそね裁定さいていでは、「安竹やすたけみや」3めいだけが立候補りっこうほ表明ひょうめいし、どう3めいだけが後継こうけい総裁そうさい候補者こうほしゃとなっている。しかし、当時とうじ自民党じみんとうないでは、三角さんかく大福だいふくちゅう比較ひかくすると人物じんぶつ小粒こつぶさんしゃあいだ際立きわだったちがいもないとうつり、伊東いとう正義まさよし安竹やすたけみやを「金太郎飴きんたろうあめ」とかたり、後藤田ごとうだ正晴まさはるは「総理そうり100てん総裁そうさい0てん宮澤みやざわ総裁そうさい100てん総理そうり0てん竹下たけした総理そうり50てん総裁そうさい50てん安倍あべ」と多分たぶん皮肉ひにくまじえてひょうしている[よう出典しゅってん]

安竹やすたけみや」のうち、安倍あべは、もっとはやくから派閥はばつ後継こうけいしゃされ「総裁そうさい椅子いすもっとちかおとこ」という評価ひょうかもありながら、すみぶく戦争せんそう怨念おんねんによる悪影響あくえいきょうもっとつづけ、外相がいしょう時代じだい長期ちょうき激務げきむなどもあり、ついにやまいたおれ、総理そうり総裁そうさいくことはなかった。安倍あべは、1986ねん福田ふくだ清和せいわかい)を継承けいしょうして派閥はばつ領袖りょうしゅうとなり、外相がいしょうを4連続れんぞくつとめて「外交がいこう安倍あべ」とばれたが、リクルート事件じけんかかわりをっていたため、総理そうり総裁そうさいになれる実質じっしつてきなチャンスは中曽根なかそね裁定さいていとなった総裁そうさいせんの1かいのみであった。1991ねん5がつ15にち海部かいふ俊樹としき内閣ないかくの2ねん、ポスト海部かいふあらそうことなく他界たかいした。

竹下たけした田中たなか後継こうけいしゃされていたものの、ロッキード事件じけん裁判さいばん無罪むざいったあかつき復帰ふっきねら田中たなか角栄かくえいによっておさえつけられ、総裁そうさいせん出馬しゅつば田中たなか入院にゅういんたねばならなかった。1987ねん7がつ4にちみずか竹下たけした経世会けいせいかい)をげて党内とうない最大さいだい派閥はばつ派閥はばつ領袖りょうしゅうとなり[2]同年どうねん10がつ20日はつか中曽根なかそね裁定さいていによって、いちはや自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさいかつ内閣ないかく総理そうり大臣だいじんいた。

宮澤みやざわは70年代ねんだいより総裁そうさい候補こうほとして名前なまえがしばしばがっていたが、田中たなかなどに宮澤みやざわぎらいの政治せいじおお就任しゅうにんおくれた。宏池会こうちかいないでも対抗たいこうのニューリーダーである田中たなか六助ろくすけ存在そんざいしたが、田中たなか六助ろくすけぼつの1986ねん宏池会こうちかいいた。そして、竹下たけした退陣たいじん安倍あべ逝去せいきょのち、ポスト海部かいふとして総理そうり総裁そうさいとなった。ただし宮澤みやざわ改造かいぞうないかくは、経世会けいせいかい内紛ないふん政治せいじ改革かいかくおくとうのため、1955ねん結党けっとう以来いらい一貫いっかんして政権せいけん首班しゅはんであった自民党じみんとう野党やとう転落てんらくまねいた。

このほか、中曽根なかそね継承けいしょうすることになる渡辺わたなべ美智雄みちおくわえて安竹やすたけみやわたる、さらにニューリーダーよりは世代せだいふる河本かわもと敏夫としお五大ごだい派閥はばつのリーダーとしてくわえて安竹やすたけみや渡河とかばれることもあった。

リクルート事件じけんでは安竹やすたけみや3にんとも関与かんよによりダメージをけ、竹下たけした内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじんであった宮澤みやざわがまず大臣だいじん辞任じにんまれ、いで竹下たけした内閣ないかく退陣たいじんとなった。前述ぜんじゅつのように安倍あべ総裁そうさいせん出馬しゅつば機会きかいうしなこととなった。渡辺わたなべもまた同様どうよう関与かんよによって総裁そうさいせん出馬しゅつば見送みおくっている。河本かわもとはリクルート事件じけんへの関与かんよかったが、ネオ・ニューリーダー世代せだい海部かいふ俊樹としき総裁そうさい候補こうほとしてのみちゆずっている。

安倍あべは1991ねん竹下たけしたは2000ねん宮沢みやざわは2007ねんにそれぞれ死去しきょし、全員ぜんいん物故ぶっこしゃである。

2014ねんだい2安倍あべ改造かいぞうないかくでは安倍あべ息子むすこであるすすむさん内閣ないかく総理そうり大臣だいじん竹下たけしたおとうとであるわたる復興ふっこう大臣だいじん宮沢みやざわおいである洋一よういち経済けいざい産業さんぎょう大臣だいじんとなり、世襲せしゅうした次代じだいで「安竹やすたけみや」がせいぞろいした[ちゅう 2]が、わたるは2021ねんに、すすむさんは2022ねんにそれぞれ死去しきょし、現在げんざい洋一よういちだけが存命ぞんめいである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ おなじく自民党じみんとう実力じつりょくしゃであるさん武夫たけお田中たなかかくさかえだいたいら正芳まさよしぶく赳夫たけおなか曽根そね康弘やすひろの5にんをさす。
  2. ^ だい3安倍あべ内閣ないかくでも留任りゅうにんし、2015ねん改造かいぞうわたる洋一よういち退任たいにん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 昭和しょうわ宰相さいしょうだい7かん 田中たなか角栄かくえい政権せいけん構想こうそう戸川とがわいの佐武さたけちょ講談社こうだんしゃ) 90ぺーじ
  2. ^ 安藤あんどう俊裕としひろ (2011ねん8がつ28にち). 田中たなか角栄かくえい反旗はんき竹下たけした旗揚はたあげ 「政界せいかいのドン」金丸かねまるしん(5)”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1902K_V20C11A8000000/ 2020ねん8がつ2にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]