河本かわもと敏夫としお

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河本かわもと 敏夫としお
こうもと としお
1976ねん
生年月日せいねんがっぴ 1911ねん6月22にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 兵庫ひょうごけん赤穂あこうぐん相生あいおいむら
げん相生あいおい
ぼつ年月日ねんがっぴ (2001-05-24) 2001ねん5月24にち(89さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう新宿しんじゅく信濃しなのまち
出身しゅっしんこう 日本にっぽん大学だいがく法文学部ほうぶんがくぶ卒業そつぎょう
ぜんしょく 三光さんこう汽船きせん代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう
所属しょぞく政党せいとう民主党みんしゅとう→)
国民こくみん民主党みんしゅとう→)
あらためしんとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう せいさん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
兵庫ひょうごけん相生あいおい名誉めいよ市民しみん
親族しんぞく 三男さんなん河本かわもと三郎さぶろう

日本の旗 だい15だい 沖縄開発庁おきなわかいはつちょう長官ちょうかん
対外たいがい経済けいざい問題もんだい民間みんかん活力かつりょく導入どうにゅう担当たんとう大臣だいじん
内閣ないかく だい2中曽根なかそねだい1改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1984ねん11月1にち - 1985ねん8がつ14にち

内閣ないかく 鈴木すずき善幸ぜんこう内閣ないかく
鈴木すずき善幸ぜんこう改造かいぞうないかく
だい2中曽根なかそね内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1980ねん7がつ17にち - 1982ねん11月27にち
1983ねん12月27にち - 1984ねん11月1にち

内閣ないかく 三木みき内閣ないかく
三木みき改造かいぞうないかく
福田ふくだ赳夫たけお改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1974ねん12月9にち - 1976ねん12月24にち
1977ねん11月28にち - 1978ねん12月7にち

内閣ないかく だい2佐藤さとうだい2改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1968ねん11月30にち - 1970ねん1がつ14にち

選挙せんきょ きゅう兵庫ひょうご4
当選とうせん回数かいすう 17かい
在任ざいにん期間きかん 1949ねん1がつ23にち - 1996ねん9月27にち

その職歴しょくれき
だい26・28だい 自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
総裁そうさい福田ふくだ赳夫たけお大平おおひら正芳まさよし
(1976ねん - 1977ねん
1978ねん - 1979ねん
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河本かわもと 敏夫としお(こうもと としお、1911ねん明治めいじ44ねん6月22にち - 2001ねん平成へいせい13ねん5月24にち[1])は、日本にっぽん政治せいじ実業じつぎょう

三光さんこう汽船きせん社長しゃちょうつとめ、辞任じにん事実じじつじょうのオーナーであった[1]

沖縄開発庁おきなわかいはつちょう長官ちょうかんだい15だい)、対外たいがい経済けいざい問題もんだい民間みんかん活力かつりょく導入どうにゅう担当たんとう大臣だいじんだい2中曽根なかそねだい1改造かいぞうないかく)、経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかんだい3234だい)、通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじんだい3436だい)、郵政ゆうせい大臣だいじんだい28だい)、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(17)、自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょうなどを歴任れきにんした。

せいさん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう相生あいおい名誉めいよ市民しみん

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

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1911ねん明治めいじ44ねん6月22にち兵庫ひょうごけん赤穂あこうぐん相生あいおいむらげん相生あいおい[1])にまれる。旧制きゅうせい龍野たつの中学ちゅうがくげん兵庫ひょうご県立けんりつ龍野たつの高等こうとう学校がっこう)から姫路ひめじ高校こうこう文科ぶんかかぶとるい[2]入学にゅうがくするも、戦前せんぜん軍部ぐんぶによる戦争せんそうたいする反戦はんせん運動うんどう参加さんかして、1930ねん昭和しょうわ5ねん)に退学たいがく余儀よぎなくされた。

三光さんこう海運かいうん社長しゃちょう[編集へんしゅう]

すみ坑夫こうふ職工しょっこうなどをて、日本にっぽん大学だいがく法文学部ほうぶんがくぶ入学にゅうがく在学ざいがくちゅう義兄ぎけいらと三光さんこう海運かいうん設立せつりつして取締役とりしまりやくとなり[1]卒業そつぎょう1937ねんから社長しゃちょうとなる。(翌年よくねん三光さんこう汽船きせん社名しゃめい変更へんこう[1]

衆議院しゅうぎいん議員ぎいん[編集へんしゅう]

1949ねんだい24かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょきゅう兵庫ひょうご4から立候補りっこうほし、はつ当選とうせんする[3]以後いご連続れんぞく17かい当選とうせんたした。

閣僚かくりょう歴任れきにん[編集へんしゅう]

経済けいざい企画きかく政務次官せいむじかんなどをて、1968ねんだい2佐藤さとうさい改造かいぞうないかく郵政ゆうせい大臣だいじんとしてはつ入閣にゅうかくする。政界せいかい玄人くろうとすじからは三木みき資金しきん調達ちょうたつやくとしてられていたが、存在そんざい一躍いちやく注目ちゅうもくされるようになったのは三木みき内閣ないかく通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん就任しゅうにんしてからである。

通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん時代じだい三木みき佐橋さはししげるとともに大型おおがた工業こうぎょう技術ぎじゅつ研究けんきゅう開発かいはつ制度せいど(1966ねん11月)で産業さんぎょう政策せいさくおこなったように、河本かわもとオイルショック対応たいおうした産業さんぎょう構造こうぞう転換てんかんをすべくちょうLSI技術ぎじゅつ研究けんきゅう組合くみあい(1976ねん3がつ)やムーンライト計画けいかく(1978ねん10がつ)のような大型おおがたプロジェクトを推進すいしんした。

1976ねんに「三木みきおろし」がこり、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん三木みき武夫たけおはん三木みき勢力せいりょくたいロッキード問題もんだいかかげて解散かいさんそう選挙せんきょ考慮こうりょする政局せいきょくになったさいには、三木みき離党りとう野党やとう提携ていけい新党しんとう結成けっせいなども視野しや選挙せんきょ資金しきんあつめる一方いっぽう閣僚かくりょう罷免ひめんしてでも強行きょうこう衆議院しゅうぎいん解散かいさんするようさん進言しんげんした。三木みきとは姻戚いんせき関係かんけいでもあり、三木みきむすめ婿むこ兄弟きょうだい河本かわもとむすめ結婚けっこんしている。

三木みきのちいだ福田ふくだ赳夫たけお改造かいぞうないかくでも通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん任命にんめいされ、鈴木すずき善幸ぜんこう内閣ないかく中曽根なかそね内閣ないかくでも経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかん歴任れきにんした。

自由民主党じゆうみんしゅとう政調せいちょう会長かいちょう[編集へんしゅう]

自民党じみんとうないでも1976ねん1978ねんの2にわたって政調せいちょう会長かいちょうつとめている。日米にちべい貿易ぼうえき摩擦まさつ激化げきかにより1984ねん11月から1985ねん8がつまで対外たいがい経済けいざい問題もんだい特命とくめい事項じこう担当たんとう大臣だいじんにんじられた。自民党じみんとう屈指くっし政策せいさくどおり経済けいざいどおりとしてられ、三木みき批判ひはんてき立場たちばであった大平おおひら正芳まさよし後藤田ごとうだ正晴まさはるからも「一角いっかく人物じんぶつ」と一目いちもくかれていた。政策せいさくとしては積極せっきょく財政ざいせいろんとなえることがおおかった。

自民党じみんとう総裁そうさい予備よびせん[編集へんしゅう]

河本かわもと自民党じみんとう実力じつりょくしゃとして1970年代ねんだい政界せいかい主導しゅどうした「三角さんかく大福だいふく」に実力じつりょくしゃにもかぞえられ、なん総裁そうさい候補こうほ名前なまえがった。とく総裁そうさいせん党員とういんによる予備よび選挙せんきょ導入どうにゅうされると、しょう派閥はばつではあるが日大にちだい人脈じんみゃくおおくの党員とういんひょうつとわれる河本かわもと影響えいきょうりょく無視むしできないものとられていた[4]

1978ねんには自民党じみんとう総裁そうさい予備よび選挙せんきょはじめて出馬しゅつばする。この出馬しゅつば次回じかい以降いこう総裁そうさいせんへの布石ふせきと、三木みき他派たは草刈くさかじょうになることをふせ意味合いみあいがつよく、大平おおひら福田ふくだ赳夫たけお中曽根なかそね康弘やすひろつづ最下位さいかい敗退はいたいした。

1980ねんだい36かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ期間きかんちゅう大平おおひら急死きゅうしすると、中曽根なかそね宮澤みやざわ喜一きいちらとともに後継こうけい総裁そうさい候補こうほとしてがったが、キングメーカー田中たなか角栄かくえい鈴木すずき善幸ぜんこう総裁そうさい指名しめいした[5]鈴木すずき内閣ないかく発足ほっそく三木みき解散かいさんともない、かつての三木みき所属しょぞくした議員ぎいん大半たいはんあつめて河本かわもと旗揚はたあげした。禅譲ぜんじょうというかたちらなかったのは、三木みきかげ排除はいじょしなかった場合ばあい他派たはからの支援しえんけにくいという事情じじょうがあったためである。

1982ねんふたた自民党じみんとう総裁そうさい予備よび選挙せんきょ出馬しゅつばする。はん田中たなか勢力せいりょくざらとして序盤じょばんから順調じゅんちょう票数ひょうすうばし、有力ゆうりょく候補こうほされていたが、田中たなかしゅうひょうマシーンから支援しえんけた中曽根なかそね過半数かはんすうられて次点じてんとなり、3安倍あべすすむ太郎たろうや4中川なかがわ一郎いちろうともども国会こっかい議員ぎいんによるほん選挙せんきょへの立候補りっこうほ辞退じたいする。

三光さんこう汽船きせん倒産とうさん[編集へんしゅう]

1985ねん事実じじつじょうのオーナーであった三光さんこう汽船きせん海運かいうんきょうのあおりをけて倒産とうさんし、竹下たけしたのぼる金丸かねまるしん支援しえんにより会社かいしゃ更生こうせいほう申請しんせいにこぎつける。三光さんこう汽船きせん倒産とうさん当時とうじ戦後せんご最大さいだいきゅう」としょうされ、だい2中曽根なかそねだい1改造かいぞうないかく沖縄開発庁おきなわかいはつちょう長官ちょうかんつとめていた河本かわもとは、その責任せきにんかたち辞任じにんまれた[1]。この倒産とうさんげき政治せいじとしての河本かわもと評価ひょうかにも影響えいきょうあたえることとなった。

リクルート事件じけん竹下たけした内閣ないかく総理そうり大臣だいじん辞任じにんし、つづ宇野うの宗佑そうすけ参議院さんぎいん議員ぎいん選挙せんきょ惨敗ざんぱいけて退陣たいじんした1989ねんは、河本かわもとにとって総裁そうさい椅子いすすわ最大さいだい好機こうきとされた。しかし、竹下たけした金丸かねまる若手わかて待望たいぼうろんけ、河本かわもと番頭ばんがしらかくである海部かいふ俊樹としき総裁そうさい候補こうほ浮上ふじょうする。河本かわもと海部かいふたいし「海部かいふさん、あんたやりなさい」とうながし、みずからの総裁そうさいせん出馬しゅつば見送みおくった。河本かわもと出馬しゅつば断念だんねんしたことをり、河本かわもと側近そっきんであった大島おおしま理森ただもり号泣ごうきゅうしたという。結果けっか総裁そうさい選挙せんきょでは海部かいふはやし義郎よしお石原いしはら慎太郎しんたろう凌駕りょうがして圧勝あっしょうし、あらたな総裁そうさい選出せんしゅつされた。

1993ねんだい40かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょのちには衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう候補こうほとして名前なまえがったが、自民党じみんとう下野げやしたために実現じつげんしなかった。(自民党じみんとうからは奥野おくのまことあきら衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう選挙せんきょ立候補りっこうほしたが、社会党しゃかいとうもと党首とうしゅ土井どいたかやぶれた。)

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1996ねんだい41かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ直前ちょくぜん健康けんこうじょう理由りゆうから47年間ねんかんつとめた衆議院しゅうぎいん議員ぎいんしょく引退いんたいする。後継こうけいには当時とうじ参議院さんぎいん議員ぎいんであった三男さんなん河本かわもと三郎さぶろうえた。同年どうねん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう[6]

そのばんまち政策せいさく研究所けんきゅうじょきゅう河本かわもと名誉めいよ会長かいちょうつとめたが、2001ねん5月24にち心不全しんふぜんのため東京とうきょう新宿しんじゅく信濃しなのまち慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういんで89さい死去しきょした。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • なみさんじゅうねん三光さんこう汽船きせん、1968ねんNDLJP:3444846 
  • 郵政ゆうせい事業じぎょうしん時代じだい(1970ねん国際こくさい政治せいじ経済けいざい研究所けんきゅうじょ
  • だい商船しょうせんたい(1977ねん三光さんこう汽船きせん
  • 世界せかいなか日本にっぽん―80年代ねんだい政治せいじへの提言ていげん(1982ねんしん政策せいさく研究けんきゅうかい
  • はちじゅう年代ねんだい政治せいじへの提言ていげん(1983ねんしん政策せいさく研究けんきゅうかい
  • 世界せかいなか日本にっぽんつづけ〉―80年代ねんだい政治せいじへの提言ていげん(1983ねんしん政策せいさく研究けんきゅうかい
  • 世界せかいなか日本にっぽんだい3しゅう〉―80年代ねんだい政治せいじへの提言ていげん(1984ねんしん政策せいさく研究けんきゅうかい) 
  • 市場いちば開放かいほう民間みんかん活力かつりょく(1985ねんしん政策せいさく研究けんきゅうかい
  • 日本にっぽん進路しんろ(1985ねんしん政策せいさく研究けんきゅうかい

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

えんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f 河本かわもと 敏夫としおとは”. コトバンク. 2021ねん5がつ29にち閲覧えつらん
  2. ^ 旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこう物語ものがたり だい15」財界ざいかい評論ひょうろんしんしゃ 1968ねん
  3. ^ 当選とうせん同期どうきに、池田いけだ勇人はやと佐藤さとう栄作えいさく前尾まえおしげる三郎さぶろう橋本はしもと龍伍りゅうご小渕おぶちひかりたいら麻生あそう太賀たがきち西村にしむら英一ひでかず橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう福田ふくだあつしやすし福永ふくなが健司けんじ塚原つかはら俊郎としお木村きむら俊夫としお藤枝ふじえだいずみかい稲葉いなばおさむ森山もりやま欽司きんじ床次とこなみ徳二とくじ有田ありた喜一きいちなどがいる
  4. ^ 北岡きたおか伸一しんいち自民党じみんとう
  5. ^ [1]
  6. ^ 「96あき叙勲じょくん受章じゅしょうしゃ 勳一等くんいっとうくんとう」『読売新聞よみうりしんぶん』1996ねん11月3にち朝刊ちょうかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

議会ぎかい
先代せんだい
伊能いのう繁次郎しげじろう (代理だいり)
日本の旗 衆議院しゅうぎいん内閣ないかく委員いいんちょう
1964ねん - 1966ねん
次代じだい
木村きむら武雄たけお
先代せんだい
池田いけだ清志きよし
日本の旗 衆議院しゅうぎいん法務ほうむ委員いいんちょう
1961ねん - 1962ねん
次代じだい
高橋たかはし英吉えいきち
公職こうしょく
先代せんだい
中西なかにし一郎いちろう
日本の旗 沖縄開発庁おきなわかいはつちょう長官ちょうかん
だい15だい:1984ねん - 1985ねん
次代じだい
藤本ふじもと孝雄たかお
先代せんだい
塩崎しおざきじゅん
せいしめせけい次郎じろう
日本の旗 経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかん
だい34だい:1983ねん - 1984ねん
だい32だい:1980ねん - 1982ねん
次代じだい
金子かねこ一平いっぺい
塩崎しおざきじゅん
先代せんだい
中曽根なかそね康弘やすひろ
田中たなか龍夫たつお
日本の旗 通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん
だい34だい:1974ねん - 1976ねん
だい36だい:1977ねん - 1978ねん
次代じだい
田中たなか龍夫たつお
こう﨑真きよし
先代せんだい
小林こばやし武治たけはる
日本の旗 郵政ゆうせい大臣だいじん
だい28だい:1968ねん - 1970ねん
次代じだい
井出いで一太郎いちたろう
とうしょく
先代せんだい
三木みき武夫たけお
しん政策せいさく研究けんきゅうかいばんまち政策せいさく研究所けんきゅうじょ会長かいちょう
1980ねん - 1997ねん
次代じだい
集団しゅうだん指導しどう体制たいせい
先代せんだい
こう﨑真きよし
櫻内さくらうち義雄よしお
自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
だい28だい : 1978ねん - 1979ねん
だい26だい:1976ねん - 1977ねん
次代じだい
安倍あべすすむ太郎たろう
こう﨑真きよし