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水田みずた三喜男みきお

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水田みずた 三喜男みきお
みずた みきお
1962ねんごろ撮影さつえい
生年月日せいねんがっぴ 1905ねん4がつ13にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 千葉ちばけん安房あわぐんりょむら
げん千葉ちばけん鴨川かもがわ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1976-12-22) 1976ねん12月22にち(71さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう文京ぶんきょう
出身しゅっしんこう 京都きょうと帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
げん京都大学きょうとだいがく法学部ほうがくぶ
ぜんしょく 大同だいどう石油せきゆ取締役とりしまりやく
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん自由党じゆうとう→)
民主みんしゅ自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう 勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
子女しじょ 次女じじょ水田みずた宗子むねこ
親族しんぞく ちち水田みずた信太郎しんたろう(りょ村長そんちょう)

日本の旗 だい65-66・71-72・75だい 大蔵おおくら大臣だいじん
内閣ないかく だい1池田いけだ内閣ないかく
だい2池田いけだ内閣ないかく
だい2池田いけだだい1改造かいぞうないかく
だい1佐藤さとうだい3改造かいぞうないかく
だい2佐藤さとう内閣ないかく
だい2佐藤さとうだい1改造かいぞうないかく
だい3佐藤さとう改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1960ねん7がつ19にち - 1962ねん7がつ18にち
1966ねん12月3にち - 1968ねん11月30にち
1971ねん7がつ5にち - 1972ねん7がつ7にち

内閣ないかく 石橋いしばし内閣ないかく
だい1きし内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1956ねん12月23にち - 1957ねん7がつ10日とおか

内閣ないかく だい4吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1953ねん3月3にち - 1953ねん5月21にち

選挙せんきょ千葉ちばけん全県ぜんけん→)
きゅう千葉ちば3
当選とうせん回数かいすう 13かい
在任ざいにん期間きかん 1946ねん4がつ11にち - 1976ねん12月22にち

その職歴しょくれき
だい22だい 自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
総裁そうさい: 田中たなか角栄かくえい
1973ねん - 1974ねん
だい14・18だい 自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
総裁そうさい: 佐藤さとう栄作えいさく
1966ねん
1970ねん - 1971ねん
初代しょだい 自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
総裁そうさい: 鳩山はとやま一郎いちろう
1955ねん - 1956ねん
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水田みずた 三喜男みきお(みずた みきお、1905ねん4がつ13にち - 1976ねん12月22にち)は、日本にっぽん政治せいじ城西大学じょうさいだいがく創立そうりつしゃ自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう初代しょだい)。大蔵おおくら大臣だいじんすうにわたりつとめたほか、経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかん通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじんなど経済けいざい閣僚かくりょう歴任れきにんした。戦後せんご日本にっぽん代表だいひょうてき財政ざいせいでもある。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

千葉ちばけん安房あわぐんりょむらげん鴨川かもがわ出身しゅっしん水田すいでんは400ねんほどまえ讃岐さぬき現在げんざい香川かがわけん)のから移住いじゅうしてきた家系かけいとされる。祖父そふ竹蔵たけぞうちち信太郎しんたろうはいずれも村長そんちょうつとめた。きゅう運輸うんゆ事務次官じむじかん日本航空にほんこうくうふく社長しゃちょうつとめた町田まちだただしつま実弟じっていである。実家じっかは、きゅう水田すいでん住宅じゅうたくとして保存ほぞんされている。

旧制きゅうせい安房あわ中学校ちゅうがっこうげん千葉ちば県立けんりつ安房あわ高等こうとう学校がっこう)、旧制きゅうせい水戸みと高等こうとう学校がっこう茨城大学いばらきだいがく前身ぜんしんこう)をて、京都きょうと帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ入学にゅうがく瀧川たきがわ幸辰ゆきとし京大きょうだい総長そうちょう)の刑法けいほう竹田たけだしょう手形てがたほう宮本みやもとえいおさむ刑事けいじ訴訟そしょうほうなどをまな[1]学生がくせい時代じだいマルクスボーイで、柔道じゅうどう5だん剣道けんどう3だん腕前うでまえから当時とうじ京大きょうだい教授きょうじゅ河上かわかみはじめのボディーガードをってて、1ならず検挙けんきょされた。

1931ねん卒業そつぎょうは、東京とうきょう職員しょくいんしに、専修大学せんしゅうだいがく講師こうし北越ほくえつ石油せきゆ監査かんさやく日本にっぽん鋼板こうはん常務じょうむ大同だいどう石油せきゆ取締役とりしまりやくて、1946ねんだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ当選とうせんした[2]以後いご13かい連続れんぞく当選とうせんたす。

1953ねんだい4吉田よしだ内閣ないかく経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかく自由党じゆうとうではなん政調せいちょう会長かいちょうえらばれ、義理ぎり人情にんじょう党人とうじんおお大野おおの伴睦ばんぼくにあって政策せいさくどおりとして活躍かつやく保守ほしゅ合同ごうどう直後ちょくご1955ねん自民党じみんとうとうさんやくひとつである初代しょだい政調せいちょう会長かいちょう就任しゅうにん1956ねん1957ねん石橋いしばし内閣ないかく通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん産業さんぎょう計画けいかく会議かいぎ委員いいん議長ぎちょう松永まつながやすしひだりもん)に就任しゅうにん1957ねんだい1きし内閣ないかくでも通産つうさんしょうつとめる。

1960ねんだい1池田いけだ勇人はやと内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじん就任しゅうにん積極せっきょく財政ざいせい論者ろんしゃとして池田いけだ所得しょとく倍増ばいぞう政策せいさく共鳴きょうめいし、推進すいしんやくとなる。

だい2池田いけだ内閣ないかくつづ留任りゅうにんし、輸入ゆにゅう増大ぞうだいともな国際こくさい収支しゅうし悪化あっかふせぐべく、財政ざいせい金融きんゆうめをおこなった[3]つづ佐藤さとう栄作えいさく政権せいけんではだい1だい3内閣ないかくわたって福田ふくだ赳夫たけお交互こうご蔵相ぞうしょうつとめた[4]。1967ねん8がつには、ロンドンで開催かいさいされた先進せんしん10かこく蔵相ぞうしょう会議かいぎ出席しゅっせき帰国きこく直後ちょくごからは公定歩合こうていぶあいげなど景気けいき抑制よくせいさくした[5]

福田ふくだならんでわば日本にっぽん高度こうど経済けいざい成長せいちょう象徴しょうちょうする財政ざいせい一人ひとりであった。こと佐藤さとう栄作えいさく政権せいけん末期まっきこった、いわゆるニクソン・ショックでは為替かわせ相場そうば安定あんてい腐心ふしんし、変動へんどう相場そうばせいへとうご過渡かと国際こくさい金融きんゆう情勢じょうせい日本にっぽん財政ざいせい舵取かじとりした人物じんぶつとしてられる。

大野おおの死後しご大野おおのむつみせいかい)が船田ふなだなか一新いっしんかい)と村上むらかみいさむ一陽いちようかい)に分裂ぶんれつしたさいには船田ふなだ参加さんかする。しかし1971ねん村上むらかみきゅう大野おおの大同団結だいどうだんけつうごくと、これに呼応こおうして船田ふなだから離脱りだつさら藤山ふじやま愛一郎あいいちろう愛正あいせいかい)まで包含ほうがんして水田すいでんたつみかい)を結成けっせいし、中間なかま領袖りょうしゅうとして影響えいきょうりょくった(こう﨑真きよし藤山ふじやまだい部分ぶぶん水田すいでん合流ごうりゅうしたが、藤山ふじやま竹内たけうちはじむいち参加さんかせず派閥はばつとなった)。1975ねん11月、スペインフランコ総統そうとう国葬こくそう特派とくは大使たいしとして派遣はけんされた。

1976ねんだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょで13かい当選とうせんたした直後ちょくご穿孔せんこうせい腹膜炎ふくまくえんのため[6]急逝きゅうせいする。71さいぼつ財政ざいせい実務じつむ経験けいけん豊富ほうふ水田すいでん死去しきょは「巨星きょせい堕つ」と形容けいようされた。佐藤さとう栄作えいさく夫人ふじん佐藤さとう寛子ひろこ水田すいでん追悼ついとうしゅうで「大蔵おおくら大臣だいじんといえば、戦前せんぜん高橋たかはし是清これきよ戦後せんご水田みずた三喜男みきお」とひょうしている[7]政治せいじ活動かつどうのかたわら教育きょういくにもつよ関心かんしんいだつづけ、1965ねん城西大学じょうさいだいがく創立そうりつした。墓所はかしょ文京ぶんきょう護国寺ごこくじ

エピソード[編集へんしゅう]

  • 池田いけだ内閣ないかく入閣にゅうかくしたころからがく大仏だいぶつようこぶ出来でき一時いちじ水田すいでんのトレードマークとしてられ長谷川はせがわ町子まちこの『いじわるばあさん』でネタにされ[8]たりもしている。ただ、1973ねん手術しゅじゅつこぶ切除せつじょしている。
  • 東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらくをはじめとする浮世絵うきよえのコレクターとしてもられ、現在げんざいでも城西大学じょうさいだいがく城西国際大学じょうさいこくさいだいがくにそれぞれてられた水田すいでん美術館びじゅつかんでそのコレクションをることができる。
  • 経団連けいだんれん会長かいちょう石坂いしざか泰三たいぞうの「もう、きみにはたのまない」という有名ゆうめい言葉ことばは、水田すいでん蔵相ぞうしょう在任ざいにんちゅうに、石坂いしざか要望ようぼうかりむずかしさをったさいに、びせられたものである。
  • 1971ねん8がつ20日はつか那須なす御用邸ごようていでの昭和しょうわ天皇てんのうへの進講しんこうにおいて、水田すいでん大蔵おおくら大臣だいじんが「ニクソンショックともなえんだかによって日本にっぽん大変たいへんなことになっております」ともうげたところ、昭和しょうわ天皇てんのうから「えんげを国内こくないでは非常ひじょうくらいことのようにっているが、日本円にほんえん評価ひょうか国際こくさいてきたかまり、いいことであるとおもう。そういうあかるいめん国民こくみんらせる必要ひつようがあるのではないか。えんたかくなるということは日本人にっぽんじん価値かちたかくなるという意味いみではないのか。」との下問かもんがあった。1931ねん11月に1ドルが2えんだったものが、1932ねん11月には1ドルが5えんにまで急激きゅうげきえんやすになり[9]物価ぶっか上昇じょうしょう国民こくみんくるしんだことを昭和しょうわ天皇てんのう経験けいけんしていたからである。この下問かもん水田すいでん返答へんとうすることができなかった[10][11][12][13]

家族かぞく[編集へんしゅう]

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • ふきのとう わたし履歴りれきしょ日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1971ねん
    • 新版しんぱんふきのとう 水田みずた三喜男みきお自伝じでん城西大学じょうさいだいがく出版しゅっぱんかい、2000ねん
  • 『おもひ 水田みずた三喜男みきお追想ついそうしゅうどう刊行かんこう委員いいんかい、1977ねん
  • 春光しゅんこう 水田みずた三喜男みきお写真しゃしんどう刊行かんこう委員いいんかい、1988ねん
  • 水田みずた三喜男みきおとその時代じだい城西大学じょうさいだいがく出版しゅっぱんかい、2015ねん
  • 鈴木すずき健二けんじ寒椿かんつばき 水田みずた三喜男みきおでん城西大学じょうさいだいがく出版しゅっぱんかい、2015ねん著者ちょしゃもと毎日新聞まいにちしんぶん政治せいじ記者きしゃ
  • 斉藤さいとうつよし大蔵おおくら大臣だいじん水田みずた三喜男みきお その生涯しょうがい時代じだいともつづる』中央公論ちゅうおうこうろん事業じぎょう出版しゅっぱん、2016ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 『おもひ 水田みずた三喜男みきお追想ついそうしゅう』1977ねん、767ぺーじ
  2. ^ 当選とうせん同期どうきに、小坂こさか善太郎ぜんたろう二階堂にかいどうすすむ江崎えざき真澄ますみ小沢おざわたすく重喜しげよし石井いしい光次郎みつじろう坂田さかたみちふとしはら健三郎けんざぶろう川崎かわさき秀二しゅうじ井出いで一太郎いちたろう早川はやかわたかし中野なかの四郎しろうなど
  3. ^ 1962ねん1がつ19にち演説えんぜつ 東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ田中たなか明彦あきひこ研究けんきゅうしつ
  4. ^ 自分じぶんさく国際こくさい収支しゅうしくすると、その大盤振おおばんぶいしていいになれるのが福田ふくだくんであり田中たなかくんだ」とかたっていたという。水田みずた宗子むねこ人生じんせいノート
  5. ^ 水田すいでん蔵相ぞうしょう帰国きこく」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ42ねん(1967ねん)8がつ29にち夕刊ゆうかん、3はん、1めん
  6. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)27ぺーじ
  7. ^ 岸本きしもと正人まさと急募きゅうぼ平成へいせい水田すいでん』」 『毎日新聞まいにちしんぶん』、2009ねん12がつ10日とおか、12はん、9めん
  8. ^ ニクソン・ショックでの日米にちべい蔵相ぞうしょう会談かいだんについて会話かいわしていたのをふと物忘ものわすれし、いていたもちふくらんで水田すいでんこぶ連想れんそうしておもしたというもの。
  9. ^ せんあいだ日本にっぽん為替かわせレート変動へんどう輸出ゆしゅつ―1930年代ねんだい前半ぜんはん為替かわせレート急落きゅうらく影響えいきょう中心ちゅうしんに― 畑瀬はたせ真理子まりこ金融きんゆう研究けんきゅう、p.99, p.100図表ずひょう2、日本銀行にっぽんぎんこう金融きんゆう研究所けんきゅうじょ、2002ねん6がつ
  10. ^ 巨人きょじん渡部わたなべ昇一しょういちまなぶ「これだけはっておきたいほんとうの昭和しょうわ 致知出版しゅっぱんしゃ、2020ねん3がつ19にち
  11. ^ えんやす信仰しんこうはスペードのエース 国際こくさい協力きょうりょく銀行ぎんこう総裁そうさい 渡辺わたなべ博史ひろふみ 日本にっぽん経済けいざい研究けんきゅうセンター、p.14、2014ねん4がつごう
  12. ^ ニクソン・ショック狂騒きょうそうげきだいしょう) 変動へんどう相場そうばせい移行いこう 取材しゅざいノート、松尾まつお好治こうじ日本にっぽん記者きしゃクラブ、2014ねん4がつ
  13. ^ ニクソン・ショック50ねんえんだか恐怖症きょうふしょうまねいた「やす日本にっぽん nippon.com、土谷つちたに英夫ひでお、2021ねん8がつ10日とおか
  14. ^ a b 水田みずた宗子むねこ人生じんせいノート -『いつわらず、あざむかず、へつらわず』「水田みずた三喜男みきお次女じじょとして」 (PDF) 埼玉さいたま新聞しんぶん 水田みずた宗子むねこ人生じんせいノート 2010ねん1がつ18にちづけ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
佐藤さとう栄作えいさく
福田ふくだ赳夫たけお
福田ふくだ赳夫たけお
日本の旗 大蔵おおくら大臣だいじん
だい65・66だい:1960ねん - 1962ねん
だい71・72だい:1966ねん - 1968ねん
だい75だい:1971ねん - 1972ねん
次代じだい
田中たなか角栄かくえい
福田ふくだ赳夫たけお
植木うえきかのえろう
先代せんだい
石橋いしばし湛山たんざん (臨時りんじ代理だいり)
日本の旗 通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん
だい13・14だい:1956ねん - 1957ねん
次代じだい
前尾まえおしげる三郎さぶろう
先代せんだい
小笠原おがさわらさんきゅうろう
日本の旗 経済けいざい審議庁しんぎちょう長官ちょうかん
だい5だい:1953ねん
次代じだい
岡野おかのきよしごう
議会ぎかい
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 衆議院しゅうぎいん公職こうしょく選挙せんきょほう改正かいせいかんする調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんちょう
1951ねん - 1952ねん
次代じだい
小沢おざわたすく重喜しげよし
先代せんだい
新設しんせつ
日本の旗 衆議院しゅうぎいん経済けいざい安定あんてい委員いいんちょう
1948ねん
次代じだい
小野瀬おのせ忠兵衛ちゅうべえ
とうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
赤城あかぎ宗徳むねのり
根本ねもと龍太郎りゅうたろう
倉石くらいし忠雄ただお
自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
初代しょだい:1955ねん - 1956ねん
だい14だい:1966ねん
だい18だい:1970ねん - 1971ねん
だい22だい:1973ねん - 1974ねん
次代じだい
塚田つかだ十一郎とりひこ
西村にしむら直己なおき
小坂こさか善太郎ぜんたろう
山中やまなかさだのり