椎名しいな悦三郎えつさぶろう

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椎名しいな 悦三郎えつさぶろう
しいな えつさぶろう
生年月日せいねんがっぴ 1898ねん1がつ16にち[1]
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 岩手いわてけん胆沢いさわぐん水沢すいざわまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1979-09-30) 1979ねん9月30にち(81さいぼつ[1]
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう新宿しんじゅく信濃しなのまち[2]
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく
ぜんしょく のう商務省しょうむしょう官僚かんりょう
商工しょうこうしょう官僚かんりょう
まんしゅうこく実業じつぎょう官僚かんりょう
軍需ぐんじゅしょう官僚かんりょう
東北とうほく毛織けおり株式会社かぶしきがいしゃ取締役とりしまりやく社長しゃちょう
所属しょぞく政党せいとう日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとうきし椎名しいな
称号しょうごう したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
衆議院しゅうぎいん永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん
法学ほうがく
親族しんぞく 次男じなん椎名しいな素夫もとお
叔父おじ後藤ごとう新平しんぺい

内閣ないかく だい2池田いけだ内閣ないかく
だい2佐藤さとうだい1改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1960ねん12月8にち - 1961ねん7がつ18にち
1967ねん11月25にち - 1968ねん11月30にち

日本の旗 だい87-88だい 外務がいむ大臣だいじん
内閣ないかく だい3池田いけだ改造かいぞうないかく
だい1佐藤さとう内閣ないかく
だい1佐藤さとうだい1改造かいぞうないかく
だい1佐藤さとうだい2改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1964ねん7がつ18にち - 1966ねん12月3にち

内閣ないかく だい2きし改造かいぞうないかく
在任ざいにん期間きかん 1959ねん6月18にち - 1960ねん7がつ19にち

選挙せんきょ 岩手いわてけんだい2
当選とうせん回数かいすう 8かい
在任ざいにん期間きかん 1955ねん2がつ28にち - 1979ねん9月7にち

その職歴しょくれき
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
総裁そうさい: 田中たなか角栄かくえい三木みき武夫たけお
1972ねん8がつ - 1976ねん12月
だい13だい 自由民主党じゆうみんしゅとう総務そうむ会長かいちょう
総裁そうさい佐藤さとう栄作えいさく
1966ねん - 1967ねん
だい7だい 自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
総裁そうさい: 池田いけだ勇人はやと
1960ねん - 1960ねん
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椎名しいな 悦三郎えつさぶろう(しいな えつさぶろう、1898ねん明治めいじ31ねん1がつ16にち - 1979ねん昭和しょうわ54ねん9月30にち)は、日本にっぽん官僚かんりょう政治せいじきし信介しんすけ腹心ふくしん[3] としてまんしゅうこく運営うんえいかかわり、また商工しょうこう次官じかんとして統制とうせい経済けいざい推進すいしん軍需ぐんじゅ次官じかんつとめた。戦後せんご政界せいかいりし、内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんきし内閣ないかく)、通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん(19だい・28だい)、外務がいむ大臣だいじん(94-95だい)、自由民主党じゆうみんしゅとうにおいて政調せいちょう会長かいちょう総務そうむ会長かいちょうふく総裁そうさい歴任れきにんした。田中たなか角栄かくえい後継こうけい総裁そうさいとして三木みき武夫たけお指名しめいした「椎名しいな裁定さいてい」をくだした人物じんぶつとしてられている。椎名しいな素夫もとお次男じなん血縁けつえんのない叔父おじ後藤ごとう新平しんぺいがいる[ちゅう 1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

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1898ねん明治めいじ31ねん)に岩手いわてけん胆沢いさわぐん水沢すいざわまち水沢すいざわて、現在げんざい奥州おうしゅう)にまれる[4]ちち後藤ごとうひろ後藤ごとう婿養子むこようし小学校しょうがっこう教師きょうしから水沢すいざわまち助役じょやくなどをて、岩手いわてけん会議かいぎいんとなり、のち水沢すいたく町長ちょうちょうを10年間ねんかんつとめた。後藤ごとう蘭学らんがくもの高野たかの長英ちょうえい幼名ようみょう悦三郎えつさぶろう)の血筋ちすじにあたり、悦三郎えつさぶろう高野たかの長英ちょうえい旧名きゅうめいより名付なづけられた[4]

ちちひろ事業じぎょう失敗しっぱいし、悦三郎えつさぶろう幼少ようしょう後藤ごとう家計かけい貧窮ひんきゅうしていた[4]。そのため進学しんがく希望きぼうした悦三郎えつさぶろう昼間ひるまはたら夜間やかん夜学やがくかようつもりであった[4]悦三郎えつさぶろう高等こうとう小学校しょうがっこう4ねんつぎ単身たんしん上京じょうきょうした。実業じつぎょうはら邦造くにぞういえ学僕がくぼくをしていたが、夜学やがくかよわせてくれなかったことにいきどおしゅたくを3かげつし、骨董こっとうてんみではたらきつつ夜学やがくけん数学すうがくかんとおったがここも3かげつめて、同郷どうきょう先輩せんぱい下宿げしゅくさきごした[4]ちちのとりなしもあってとなりまち金ケ崎かねがさきまち代議士だいぎし志賀しがかず多利たり書生しょせいとなり昼間ひるま通学つうがくゆるされ[4]錦城きんじょう中学ちゅうがくねん編入へんにゅう試験しけん合格ごうかくした[5]同校どうこう卒業そつぎょうした悦三郎えつさぶろうは、ちち水利すいりけん胆沢川いさわがわ水力すいりょく発電はつでん事業じぎょう軌道きどうったことで経済けいざいてき余裕よゆうができた実家じっかへともどった[5]旧制きゅうせいだか東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ法律ほうりつ学科がっかどく法科ほうかへとすすんだ[5]同時どうじ後藤ごとう新平しんぺい実姉じっし初瀬はつせはついきおい)の婚家こんかである椎名しいな養子ようしりし、後藤ごとう悦三郎えつさぶろうから椎名しいな悦三郎えつさぶろうへとあらためた[5][6]

官僚かんりょう時代じだい[編集へんしゅう]

だか先輩せんぱいである小島こじま新一しんいち影響えいきょうけた椎名しいなみかどだい在学ざいがくちゅう高等こうとう文官ぶんかん試験しけん合格ごうかくし、1923ねん大正たいしょう12ねん)3がつ卒業そつぎょう小島こじまのいるのう商務省しょうむしょう入省にゅうしょうした[1][5][ちゅう 2]工務こうむきょく工務こうむへと配属はいぞくされた椎名しいな事務じむかんつとめていた小島こじまから指導しどうけた[7]翌年よくねんのう商務省しょうむしょう農林省のうりんしょう商工しょうこうしょう分離ぶんりしたのちは、工務こうむ商工しょうこうしょう管轄かんかつとなった。1925ねん大正たいしょう14ねん)、カルテル助長じょちょうするための重要じゅうよう輸出ゆしゅつひん工業こうぎょう組合くみあいほうもとづき、その指導しどう監督かんとくのため全国ぜんこく官吏かんり派遣はけんされることになり、椎名しいな愛知あいちけん工業こうぎょう組合くみあい監督かんとくかんけん商工しょうこう課長かちょうとして以降いこうの4年間ねんかん名古屋なごや愛知あいち県庁けんちょう勤務きんむした[7]同職どうしょくちゅうには愛知あいちけん見本市みほんいち代表だいひょうして満州まんしゅうおとずれ、名古屋なごやこう大連たいれんこうむす定期ていき便びん運行うんこうまんてつ当局とうきょく折衝せっしょうしている[7]1926ねん大正たいしょう15ねんあき緊密きんみつ関係かんけいであった関西かんさい財閥ざいばつ一人ひとりであるもりしんけい長女ちょうじょ公枝きみえ結婚けっこんする[8]1929ねん昭和しょうわねん)に商工しょうこうしょう工務こうむきょく工務こうむ事務じむかん復職ふくしょくした[7]1932ねん昭和しょうわ7ねん)8がつ欧米おうべい各国かっこくきょう対策たいさく産業さんぎょう政策せいさく視察しさつするための出張しゅっちょうめいぜられ、翌年よくねん5がつ帰朝きちょうする[7]翌月よくげつ臨時りんじ産業さんぎょう合理ごうりきょく主任しゅにん事務じむかんにんじられた[7]

まんしゅうこく[編集へんしゅう]

商工しょうこうしょう文書ぶんしょ専任せんにん参事官さんじかんつとめていたきし信介しんすけもとめにより、1933ねん昭和しょうわ8ねん)10がつまんしゅうこく実業じつぎょう総務そうむ計画けいかくちょうとしてまんしゅうしんきょう赴任ふにんした[7][ちゅう 3]椎名しいな実業じつぎょう文書ぶんしょちょうけん統制とうせいちょう就任しゅうにんしたのち実業じつぎょう外局がいきょくとなる臨時りんじ産業さんぎょう調査ちょうさきょく設置せっちして、3年間ねんかんおよまんしゅうこく産業さんぎょう調査ちょうさ指揮しきした[9]調査ちょうさ農業のうぎょう林業りんぎょう地下ちか資源しげん水力すいりょく電源でんげんなどにわたり、匪賊ひぞくさかんな辺境へんきょうたいしても実施じっしされた[9]。この調査ちょうさもと日本にっぽんからのまんしゅう開拓かいたく農民のうみんすう見積みつもられ、また、だいまつ花江はなえかもみどりこう水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつ計画けいかくされることとなった。そう投資とうしがくが25おくえんたっしたまんしゅう産業さんぎょう開発かいはつカ年かねん計画けいかくたいしてもこの調査ちょうさ結果けっかもちいられている[9]。また、椎名しいな重要じゅうよう産業さんぎょう統制とうせいほうさだめていち業種ぎょうしゅいちしゃ独占どくせんによる国策こくさく特殊とくしゅ会社かいしゃ中心ちゅうしんとする徹底てっていした統制とうせい経済けいざい目論もくろんだ[9][ちゅう 4]

1936ねん昭和しょうわ11ねんはるまんしゅう財界ざいかいうつった高橋たかはし康順こうじゅん後任こうにんとして、関東軍かんとうぐんつよ要請ようせいにより実業じつぎょう次長じちょう次官じかん相当そうとう)にきし赴任ふにん以降いこうきし直属ちょくぞく部下ぶかとなる[9]翌年よくねん7がつ椎名しいな実業じつぎょうこうこうちょう日本にっぽん商工しょうこうしょう工務こうむ局長きょくちょう鉱山こうざん局長きょくちょう相当そうとう)に就任しゅうにんし、きししたまんしゅうこく経済けいざい統制とうせい産業さんぎょう開発かいはつ推進すいしんした[9]1939ねん昭和しょうわ14ねん)にはいると椎名しいなきしたいして帰国きこくならびに本省ほんしょう復帰ふっきもうた。きしによってきょ大国たいこくさく会社かいしゃまんしゅう重工業じゅうこうぎょう開発かいはつ会社かいしゃ総帥そうすいとなった鮎川あいかわ義介ぎすけから同社どうしゃ重役じゅうやくになるよう説得せっとくがなされたが、椎名しいなはこれをことわり4がつ帰国きこくした[9]

帰国きこく[編集へんしゅう]

きし信介しんすけ商工しょうこう大臣だいじん椎名しいな悦三郎えつさぶろう商工しょうこう次官じかん昭和しょうわ17ねんごろ

帰国きこくの1939ねん4がつ椎名しいな商工しょうこうしょう臨時りんじ物資ぶっし調整ちょうせいきょく入局にゅうきょくした。臨時りんじ物資ぶっし調整ちょうせいきょく国家こっか総動員そうどういんほう制定せいていもとづく国策こくさくおうじた物資ぶっし統制とうせい調達ちょうたつ担当たんとうする部局ぶきょくである。同局どうきょく化学かがく製品せいひんだい部長ぶちょうにんじられた[10]商工しょうこうしょう戦時せんじ体制たいせい適応てきおうして鉱産こうさんきょく鉄鋼てっこうきょく化学かがくきょく機械きかいきょく繊維せんいきょく外局がいきょく燃料ねんりょうきょくとう設置せっちし、それらをべる総務そうむきょくいた。同年どうねん6がつ椎名しいな商工しょうこうしょう総務そうむきょく総務そうむ課長かちょう任命にんめいされた[10]。そのころ商工しょうこう大臣だいじん海軍かいぐん造兵ぞうへい中将ちゅうじょうどう卓雄たくおつとめていたが、同省どうしょう村瀬むらせただしよう次官じかんとは相性あいしょうわるく、軍部ぐんぶからまんしゅうこく産業さんぎょう次長じちょうきし村瀬むらせ後任こうにんとしてえるようつよ要請ようせいった。そして軍部ぐんぶからのけがかった椎名しいなもまたどうたいしてきしすすめた[10]同年どうねん10がつ、これに反対はんたいする村瀬むらせ意見いけんかたちきし次官じかんとして商工しょうこうしょう復帰ふっきし、ときうつさずに椎名しいな総務そうむ局長きょくちょう心得こころえ昇進しょうしんし、商工しょうこうしょう事実じじつじょう筆頭ひっとう局長きょくちょうとなった[10]主導しゅどうけん軍部ぐんぶ掌握しょうあくした企画きかくいんにより立案りつあんされた戦時せんじ経済けいざい統制とうせいは、商工しょうこうしょうがその実施じっし機関きかんとして連携れんけいし、きし椎名しいなりょうはその中心ちゅうしんてき役割やくわりになった[10]椎名しいな翌年よくねん12がつ正式せいしき総務そうむ局長きょくちょう就任しゅうにんする[10]

総務そうむ局長きょくちょう時代じだい椎名しいなは、商工しょうこうしょう設立せつりつ許可きょかしなかった水野みずの成夫しげおみなみ喜一きいちによる再生さいせい製造せいぞう会社かいしゃ設立せつりつ直談判じかだんぱんされた。当時とうじ商工しょうこうしょうもと王子製紙おうじせいし社長しゃちょう藤原ふじわら銀次ぎんじろうだったので、椎名しいないち設立せつりつみとめなかったが、陸軍りくぐん岩畔いわぐろ豪雄ひでお2人ふたり背後はいごることもり、陸軍りくぐんからの正式せいしき推薦すいせんじょう2人ふたりもとめたうえ、しん会社かいしゃ再生さいせい使用しよう中国ちゅうごく大陸たいりくにおける宣撫せんぶ工作こうさくてるよう指導しどうした。これにより国策こくさくパルプ設立せつりつされた。水野みずの国策こくさくパルプやフジテレビ社長しゃちょうて、のちに「財界ざいかい四天王してんのう」の一人ひとりばれるほどになった人物じんぶつで、のち椎名しいな政界せいかいはいとき有力ゆうりょく支援しえんしゃとなっている[10]。また、かつて叔父おじ後藤ごとう新平しんぺいから読売新聞よみうりしんぶん買収ばいしゅうのために10まんえん寄付きふしてもらった正力しょうりき松太郎まつたろうからこえけられたことがった。「後藤ごとうはくおんむくいるため、故郷こきょう水沢すいたく後藤ごとうはく記念きねんした公会堂こうかいどうてたい。知恵ちえしてほしい」と正力しょうりき椎名しいな注文ちゅうもんけた。しかし戦時せんじにおいては公会堂こうかいどう劇場げきじょう旅館りょかんなどの新築しんちくゆるされていなかった。これにたいして椎名しいな設置せっちゆるされるように公民館こうみんかんとしての新設しんせつ正力しょうりきたいしてびかけ、正力しょうりきはこれを了承りょうしょうした。1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月、建設けんせつ15まんえん維持いじ5まんえん寄付きふされ後藤ごとう故郷こきょう水沢すいざわまちに「後藤ごとうはく記念きねん水沢すいたく公民館こうみんかん」が竣工しゅんこうした。これが日本にっぽん公民館こうみんかんはじまりである[10]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつだい2近衛このえないかく発足ほっそくした。どう内閣ないかく小林こばやし一三かずみ商工しょうこうしょう企画きかくいん商工しょうこうしょう主体しゅたいとなってまとめた経済けいざいしん体制たいせい要綱ようこうあんはげしく反対はんたいし、これをすすめる革新かくしん官僚かんりょう非難ひなんした。革新かくしん官僚かんりょう代表だいひょうてき存在そんざいであるきし小林こばやしとの対立たいりつふかまり、同年どうねんまつきし次官じかん更迭こうてつされた。また、平沼ひらぬま騏一郎きいちろう内務ないむ大臣だいじんけた検察けんさつおなじく革新かくしん官僚かんりょう拠点きょてんである企画きかくいんでも強制きょうせい捜査そうさおこない、稲葉いなば秀三しゅうぞう和田わだ博雄ひろお勝間田かつまた清一せいいち佐多さたちゅうたかしらを治安ちあん維持いじほう違反いはん容疑ようぎ逮捕たいほした(企画きかくいん事件じけん)。きし後任こうにん商工しょうこうしょう次官じかんには椎名しいなした小島こじま新一しんいち就任しゅうにんし、椎名しいな献身けんしんてき小島こじま補佐ほさした[10]1941ねん昭和しょうわ16ねん)10がつ東條とうじょう英機ひでき内閣ないかく発足ほっそくするときし商工しょうこうしょう就任しゅうにんした。きしにより椎名しいな商工しょうこう次官じかんへと抜擢ばってきされた[10]

日米にちべい開戦かいせんともなきし大臣だいじん椎名しいな次官じかんのコンビは軍部ぐんぶ協調きょうちょうしてきびしい戦時せんじ統制とうせい経済けいざい政策せいさく推進すいしんした。小林こばやしによって中断ちゅうだんしていた経済けいざいしん体制たいせい確立かくりつ要綱ようこうって「重要じゅうよう産業さんぎょう団体だんたいれい」が施行しこうされ、かく業界ぎょうかい統制とうせいかい設立せつりつされた。また、1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ翼賛よくさん選挙せんきょて、企業きぎょう整備せいびれい制定せいていされ平和へいわ産業さんぎょう全面ぜんめんてき軍需ぐんじゅ工業こうぎょう推進すいしんされた。繊維せんい工場こうじょうから兵器へいき工場こうじょうへの転用てんよう頻発ひんぱつし、多数たすう中小ちゅうしょう企業きぎょう整理せいり統合とうごうされて軍需ぐんじゅ工場こうじょう下請したうけとなり転廃業てんはいぎょういられた[10]。この企業きぎょう整備せいびれいたいしては鳩山はとやま一郎いちろうらの一部いちぶ議員ぎいんから反対はんたいされたが、椎名しいな商工しょうこうしょう支援しえん翼賛よくさん政治せいじかいともふかいつながりのある商工しょうこう委員いいんかいもちいて議会ぎかい対処たいしょした[ちゅう 5]商工しょうこう委員いいんかいには、三好みよし英之ひでゆき川島かわしま正次まさつぐろう赤城あかぎ宗徳むねのり野田のだ武夫たけお三木みき武夫たけおなどがおり、三木みきのぞいたこれらの構成こうせいいんこう自民党じみんとうがんへとがれている[10]三好みよし川島かわしまきし紹介しょうかいしたのも椎名しいなである[10]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)11月に軍需ぐんじゅしょう創設そうせつされると東條とうじょう首相しゅしょう軍需ぐんじゅ大臣だいじん兼務けんむし、きし国務大臣こくむだいじんけん軍需ぐんじゅ次官じかん就任しゅうにんした。椎名しいな軍需ぐんじゅしょう総動員そうどういん局長きょくちょうとなり、また陸軍りくぐん司政しせい長官ちょうかん兼務けんむした[10]1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつきしこしたかくない不一致ふいっちにより東條とうじょう内閣ないかく退陣たいじんまれ[11]きし国務大臣こくむだいじんけん軍需ぐんじゅ次官じかん退しりぞいた。椎名しいな総動員そうどういん局長きょくちょう留任りゅうにんする。1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく発足ほっそくともない、椎名しいな軍需ぐんじゅ次官じかん昇進しょうしんした[10]終戦しゅうせん同年どうねん8がつ26にち軍需ぐんじゅしょう廃止はいしされ商工しょうこうしょう復活ふっかつした。ひがし久邇くに宮内くないかく軍需ぐんじゅしょう任用にんようされた中島なかじま知久平ちくへいつよ要請ようせいにより、椎名しいな商工しょうこう次官じかんへとふくした。椎名しいな省内しょうない在籍ざいせきしていた軍人ぐんじん整理せいりをなし、戦後せんご経済けいざい再建さいけんけたあらたな組織そしき構築こうちく依頼いらいされた。しょう再編さいへん業務ぎょうむきをせ、ひがし久邇くに宮内くないかく退陣たいじんわせて同年どうねん10がつ12にち商工しょうこう次官じかん退官たいかんして官職かんしょくから退しりぞいた[12]きしAきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎしゃとして逮捕たいほうえ巣鴨すがも拘置こうちしょ収容しゅうようされた。椎名しいなもまた市谷いちたにべいぐん検事けんじから8かいわた調しらべをけたが、きし支障ししょうになる証言しょうげんまったくしなかった。同年どうねん11がつには連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいたいしてきし釈放しゃくほうもとめる上申じょうしんしょ提出ていしゅつしている。椎名しいな1947ねん昭和しょうわ22ねん)11月に公職こうしょく追放ついほうける[12][13][14][15]きし釈放しゃくほうされたのちアメリカぐん政庁せいちょうたいして、きし公職こうしょく追放ついほう解除かいじょ懇願こんがんした[16]

社長しゃちょうぎょう[編集へんしゅう]

1947ねん11月に公職こうしょく追放ついほうけた椎名しいな同月どうげつ郷里きょうり人々ひとびとつよ要請ようせいにより盛岡もりおか本社ほんしゃがある東北とうほく振興しんこう繊維せんい工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ取締役とりしまりやく社長しゃちょう就任しゅうにんする。同社どうしゃ翌年よくねん3がつ東北とうほく毛織けおり株式会社かぶしきがいしゃ社名しゃめいあらためた。椎名しいな大東紡織だいとうぼうしょく東京とうきょう金町かなまち工場こうじょう買収ばいしゅうし、梳毛そもう機械きかい購入こうにゅうあらたな技術ぎじゅつしゃ雇用こようした。この財源ざいげん復興ふっこう金融きんゆう金庫きんこ融資ゆうし目論もくろんだが、1949ねん昭和しょうわ24ねん)にインフレ抑制よくせい政策せいさくとしてドッジライン実施じっしされ、復興ふっこう金融きんゆう金庫きんこ融資ゆうし廃止はいしされてしまった[12][17]椎名しいな資金しきん獲得かくとく奔走ほんそうするが、同社どうしゃひくたび技術ぎじゅつ水準すいじゅんにより朝鮮ちょうせん特需とくじゅにもれず、つい1952ねん昭和しょうわ27ねん)5がつ東北とうほく毛織けおり会社かいしゃ整理せいりほう適用てきようけて経営けいえい破綻はたんした。椎名しいな同年どうねん7がつ社長しゃちょう辞任じにんし、東北とうほく毛織けおりはその呉羽くれは紡績ぼうせき吸収きゅうしゅうされた。椎名しいな辞任じにん直後ちょくご心労しんろうにより体調たいちょうくずして療養りょうよう生活せいかつおくった[17]。このあいだ追放ついほうちゅう1948ねん昭和しょうわ23ねん)10がつ兵器へいき処理しょり問題もんだいかんし、衆議院しゅうぎいん不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい中島なかじま知久平ちくへい多田ただ武雄たけおとともに証人しょうにん喚問かんもんされた[18]

政界せいかい[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん直後ちょくごから椎名しいなおもいは政界せいかい進出しんしゅつにあった[17]椎名しいな1951ねん昭和しょうわ26ねん)に公職こうしょく追放ついほう解除かいじょされていた[19]1953ねん昭和しょうわ28ねん)3がつバカヤロー解散かいさんにより施行しこうされただい26かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ立候補りっこうほする機会きかいたが、前年ぜんねん大敗たいはいきっしていたきしからは援助えんじょられず、自由党じゆうとう幹事かんじちょうつとめていたきしおとうと佐藤さとう栄作えいさく相談そうだんするよううながされた。椎名しいな佐藤さとう面会めんかいして自由党じゆうとう公認こうにんもとめたが了承りょうしょうされず、とう選挙せんきょ対策たいさく責任せきにんしゃ小沢おざわたすく重喜しげよし紹介しょうかいされた[17]椎名しいな小沢おざわもとおとずれたが、選挙せんきょ岩手いわてけんだい2すでに3めい自由党じゆうとう公認こうにんまっており小沢おざわ椎名しいな公認こうにんことわった。また、あらためしんとう志賀しが健次郎けんじろう当選とうせんかさねており、社会党しゃかいとう左派さは北山きたやまあいろう労組ろうそ主体しゅたいとした強力きょうりょく支持しじった。椎名しいな無所属むしょぞくいどむものの結果けっか惨敗ざんぱいし、さら選挙せんきょ違反いはん容疑ようぎ警察けいさつからわれたが、椎名しいなはこれをって起訴きそとなっている[17][20]

日本にっぽん民主党みんしゅとう幹事かんじちょうとなっていたきしさそいで1955ねん昭和しょうわ30ねん)のだい27かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ日本にっぽん民主党みんしゅとう公認こうにんけてふたた立候補りっこうほした。今回こんかいきし全面ぜんめんてき支援しえんけ、また、豊富ほうふ選挙せんきょ資金しきんての選挙せんきょとなった。さら日本にっぽん民主党みんしゅとうは「鳩山はとやまブーム」が後押あとおしをした。椎名しいなはなんとか最下位さいかいすべんで当選とうせんする[20]当選とうせん同期どうき愛知あいち揆一田村たむらはじめ唐沢からさわ俊樹としき高村たかむらざか渡海とかい元三郎もとさぶろう丹羽にわ兵助へいすけなど)。3月にだい2鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかく組閣そかくされたのち椎名しいな日本にっぽん民主党みんしゅとう政調せいちょうふく会長かいちょう就任しゅうにんし、衆議院しゅうぎいん運輸うんゆ委員いいんかい所属しょぞくした[21]同年どうねん11がつ民主党みんしゅとう自由党じゆうとう合同ごうどうして自由民主党じゆうみんしゅとう発足ほっそく椎名しいな自民党じみんとう所属しょぞくとなった[20]

きし信介しんすけ内閣ないかく[編集へんしゅう]

1957ねん昭和しょうわ32ねん)2がつ石橋いしばし内閣ないかく石橋いしばし湛山たんざん首相しゅしょうやまいによりたおれるとだい1きし内閣ないかく組閣そかくされた。当選とうせん1かいながらも商工しょうこうしょう出身しゅっしん産業さんぎょうかい人脈じんみゃくがあることを川島かわしま正次まさつぐろう幹事かんじちょう見込みこまれて椎名しいなとう経理けいり局長きょくちょう就任しゅうにんする。椎名しいな経理けいり局長きょくちょういてからの自民党じみんとうたいする財界ざいかいからの献金けんきんは、旧来きゅうらいの2おくえんから10おくえんまでひろがったとつたえられている[20]1958ねん昭和しょうわ33ねん)のだい28かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょではふたた最下位さいかいながらも当選とうせんたした[20]1959ねん昭和しょうわ34ねん)6がつ発足ほっそくしただい2きし内閣ないかく (改造かいぞう)では当選とうせん2かいながらも内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん就任しゅうにんした[20]きし椎名しいな起用きようについて、最大さいだい仕事しごととなるしん安保あんぽ条約じょうやく締結ていけつけた人選じんせんであると説明せつめいした[22]内閣ないかくスポークスマンであったが、記者きしゃ会見かいけんでは記者きしゃだん質問しつもんたいして「こまかいことは総理そうりいてくれ」と発言はつげんする一方いっぽう日米にちべい安保あんぽ条約じょうやく改定かいていきしささえた[22]1960ねん昭和しょうわ35ねん)6がつしん安保あんぽ条約じょうやく成立せいりつきし内閣ないかく退陣たいじんする。椎名しいな後継こうけい総裁そうさいとして池田いけだ勇人はやとし、きし佐藤さとう支持しじけた池田いけだ総裁そうさいせん勝利しょうりした[22]

選挙せんきょ違反いはん問題もんだい[編集へんしゅう]

だい1池田いけだ内閣ないかくでは、椎名しいな池田いけだ支援しえん評価ひょうかされてきし代表だいひょうして自民党じみんとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう就任しゅうにんした[23]。10月に池田いけだ衆議院しゅうぎいん解散かいさんだい29かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ施行しこうされ椎名しいなさん最下位さいかい当選とうせんとなった[23]選挙せんきょ組閣そかくされただい2池田いけだ内閣ないかくでは通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじんとして入閣にゅうかくした。通産つうさんしょうとなった椎名しいな自身じしん選挙せんきょ違反いはん問題もんだい野党やとう追及ついきゅうされた。椎名しいな陣営じんえい毎回まいかい違反いはんしゃしており、また、1958ねん選挙せんきょ買収ばいしゅう容疑ようぎをかけられた総括そうかつ主宰しゅさいしゃけん出納すいとう責任せきにんしゃ松川まつかわあきらぞうもと衆議院しゅうぎいん議員ぎいん一関いちのせきちょう)が夫人ふじんとともに逃亡とうぼうしたうえ全国ぜんこく指名しめい手配てはいされていた[24][25]国会こっかい椎名しいな松川まつかわ夫妻ふさいをどこかにかくまっているものとして究明きゅうめいもとめられたが、椎名しいなはこれを否定ひていした。しかし実際じっさいには松川まつかわ夫妻ふさい椎名しいな知人ちじん企業きぎょう経営けいえいしゃ社宅しゃたくかくまわれていた。椎名しいなはこの選挙せんきょ違反いはん問題もんだい自身じしん政治せいじ活動かつどうあたえる影響えいきょう考慮こうりょして、1961ねん昭和しょうわ36ねん)6がつ内閣ないかく改造かいぞうによる大臣だいじんからの退任たいにんに、松川まつかわ夫妻ふさい自首じしゅもとめて[ちゅう 6]事件じけんまくきをはかっている[23]1962ねん昭和しょうわ37ねん)3がつ松川まつかわ夫妻ふさいたいして買収ばいしゅう有罪ゆうざい判決はんけつがいいわたされた。椎名しいな夫人ふじん公枝きみえ[ちゅう 7]椎名しいな秘書ひしょ2めい逃亡とうぼうちゅう夫妻ふさい生活せいかつ資金しきん供与きょうよし、また、椎名しいな知人ちじん潜伏せんぷく場所ばしょ提供ていきょうしていたことが認定にんていされ、それぞれ犯人はんにん蔵匿ぞうとくつみ有罪ゆうざい判決はんけつけた[28]新聞しんぶん紙上しじょうでは椎名しいな道義どうぎてき責任せきにんきびしく論説ろんせつ掲載けいさいされた[29]

きし分裂ぶんれつ[編集へんしゅう]

1962ねん11月、あらたに福田ふくだ赳夫たけお派閥はばつつくろうとしたきしは「十日とおかかいきし)」の解散かいさん宣言せんげんした。これにたいして川島かわしま正次まさつぐろう中心ちゅうしんとしたグループが服従ふくじゅうせずきし分裂ぶんれつする。福田ふくだきしはん池田いけだ方針ほうしん納得なっとくのいかない椎名しいなは、両者りょうしゃたもとかち交友こうゆうクラブ(川島かわじま参加さんかした。また、川島かわしま椎名しいなのようにはやくからきしささえてきた人物じんぶつにとって、きし福田ふくだ重用じゅうようしすぎることへの不満ふまんもあった。川島かわじま川島かわしま椎名しいなほかに、赤城あかぎ宗徳むねのり藤枝ふじえだいずみかい浜野はまの清吾せいごあら舩清じゅうろう長谷川はせがわ四郎しろう秋田あきた大助だいすけなどの衆議院しゅうぎいん議員ぎいん19めい結成けっせいされた。川島かわしま椎名しいな戦前せんぜんからかかわりがり、またにん後藤ごとう新平しんぺいかいしての親類しんるい側近そっきんとしてのつながりもっていた[30]。またこのころ椎名しいな三木みき武夫たけお会長かいちょうとする三木みき調査ちょうさかいにも積極せっきょくてき参加さんかしている。1963ねん昭和しょうわ38ねん)11月のだい30かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでははつの2当選とうせんたした。この選挙せんきょについて椎名しいなは「はじめてなにひと違反いはんのない選挙せんきょをやり、すがすがしい気分きぶんだった」と回想かいそうした[30]

外相がいしょう[編集へんしゅう]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)の自民党じみんとう総裁そうさいせん池田いけだ佐藤さとう栄作えいさくによってあらそわれ、川島かわじま池田いけだ支持しじした。総裁そうさいせん激戦げきせんとなったが池田いけだせいして3せんされた。池田いけだ川島かわしまふく総裁そうさいえ、椎名しいなだい3池田いけだ改造かいぞうないかく外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんした[30]外相がいしょう就任しゅうにんしたさいはマスコミからは奇想天外きそうてんがい人事じんじひょうされ、本人ほんにんも「なんでこんな人事じんじかんがえやがったんだ」と外相がいしょう就任しゅうにん難色なんしょくしめしていた。この人事じんじ前尾まえおしげる三郎さぶろうつよ推薦すいせんによるものであったとされる[30]同年どうねん9がつ池田いけだ首相しゅしょう喉頭こうとうがんにより入院にゅういんし、10月25にち退陣たいじん発表はっぴょうされた[31]

つづいて組閣そかくされただい1佐藤さとう内閣ないかくでも外相がいしょう留任りゅうにん、「日本にっぽんこく大韓民国だいかんみんこくとのあいだ基本きほん関係かんけいかんする条約じょうやく」(にちかん基本きほん条約じょうやく)の締結ていけつけて韓国かんこくがわ交渉こうしょうした[31]にちかん交渉こうしょう椎名しいな政界せいかいはいまえ1951ねん昭和しょうわ26ねん)から断続だんぞくてきおこなわれており[ちゅう 8]請求せいきゅうけん問題もんだい漁業ぎょぎょう問題もんだいでは大筋おおすじ合意ごういしていた[30][33][ちゅう 9]。しかし、韓国かんこくないではこのような合意ごういたいして野党やとう学生がくせいにより「たいにち屈辱くつじょく外交がいこう反対はんたい」がさけばれており、韓国かんこく政情せいじょう不安ふあんって交渉こうしょう度々どど中断ちゅうだんされた[30]。このころのこされた両国りょうこく問題もんだいは、にちかん併合へいごう条約じょうやく有効ゆうこうせい韓国かんこく政府せいふ管轄かんかつけんであった。にちかん併合へいごう条約じょうやくについては日本にっぽん昭和しょうわ20ねん無効むこう主張しゅちょうし、韓国かんこく当初とうしょから違法いほうであり無効むこうであると主張しゅちょうした。また、管轄かんかつけんについては、日本にっぽん韓国かんこく支配しはい領域りょういき北緯ほくい38以南いなん主張しゅちょうし、韓国かんこく朝鮮半島ちょうせんはんとう全域ぜんいき管轄かんかつする唯一ゆいいつ合法ごうほう正当せいとう政府せいふであると主張しゅちょうした[31]。これらについて椎名しいな交渉こうしょう相手あいて東元ひがしもと外務がいむ長官ちょうかん玉虫色たまむしいろ合意ごういうながすことで決着けっちゃくはかった。また、竹島たけしま領有りょうゆうけん問題もんだい議題ぎだいげなかった。東元ひがしもとぼく正煕せいき大統領だいとうりょう承諾しょうだくたうえで椎名しいな提案ていあんれ、これらの問題もんだい棚上たなあげされた[34]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)2がつ韓国かんこく金浦このうら国際こくさい空港くうこうったさいに、日本にっぽん過去かこを「ふか反省はんせいする」と声明せいめい[ちゅう 10]、また当意即妙とういそくみょう応答おうとうでマスメディアをつうじて韓国かんこく世論せろん沈静ちんせい寄与きよし、にちかん基本きほん条約じょうやく仮調印かりちょういんけた[31][34]日本にっぽんでは椎名しいな訪韓ほうかん先立さきだって、椎名しいなたいする不信任ふしんにん決議けつぎあん日本にっぽん社会党しゃかいとう民主みんしゅ社会党しゃかいとう議員ぎいんから提出ていしゅつされていた[ちゅう 11]提出ていしゅつ理由りゆうはこの訪韓ほうかん佐藤さとう内閣ないかく言明げんめいしていた懸案けんあん一括いっかつ解決かいけつはんし、また、出発しゅっぱつまえ国会こっかい審議しんぎにおいて訪韓ほうかん目的もくてき説明せつめいせず、日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい73じょう違反いはんにあたるなどとするものであったが、椎名しいな帰国きこく決議けつぎあん否決ひけつされた[37]椎名しいな請求せいきゅうけん問題もんだい決定けっていだった1おくドル以上いじょうとされた民間みんかん協力きょうりょく規模きぼを3おくドル、また漁業ぎょぎょう協力きょうりょくについて4000まんドルと金額きんがくさだめた[34]。4月3にちにちかん両国りょうこく外相がいしょう東京とうきょう請求せいきゅうけん漁業ぎょぎょう在日ざいにち韓国かんこくじん法的ほうてき地位ちいについての協定きょうてい仮調印かりちょういんした。3協定きょうてい仮調印かりちょういんにちかん両国りょうこくでは野党やとう学生がくせいによる反対はんたい相次あいついだが[38]、6月22にち東京とうきょうにちかん基本きほん条約じょうやくおよ関連かんれん協定きょうてい両国りょうこく外相がいしょうにより正式せいしき調印ちょういんされた[34][ちゅう 12]にちかん新聞しんぶん各社かくしゃ妥結だけつ内容ないようたいする不満ふまんをそれぞれ社説しゃせつ掲載けいさいした[39]

条約じょうやく批准ひじゅんめぐる、いわゆる「にち韓国かんこくかい」では日本にっぽん社会党しゃかいとう日本にっぽん共産党きょうさんとうなどの左派さは政党せいとうが「ほお政権せいけん米国べいこく傀儡かいらい」として強硬きょうこう反対はんたいしていた。椎名しいな締結ていけつ責任せきにんしゃとして答弁とうべんったが、椎名しいな曖昧あいまい答弁とうべん姿勢しせい批判ひはんされた[34][40][41]。11月9にち椎名しいなたいする不信任ふしんにん決議けつぎあんふたた提出ていしゅつされた。提出ていしゅつ理由りゆうにちかん両国りょうこくまった意見いけん一致いっちをみない重要じゅうよう事項じこうについて国民こくみん秘匿ひとくして調印ちょういんおこない、アメリカ追従ついしょう外交がいこう終始しゅうしすることで日本にっぽん国民こくみんてき利益りえきアジア平和へいわたいして重大じゅうだい障害しょうがいあたえ、無責任むせきにん真面目まじめ国会こっかい答弁とうべんをしたとされた。この不信任ふしんにん決議けつぎあん採決さいけつ先立さきだって中野なかの四郎しろうらから答弁とうべん時間じかん制限せいげんもうける動議どうぎ提出ていしゅつされ可決かけつされた。議長ぎちょう船田ふなだなか不信任ふしんにん決議けつぎあん提出ていしゅつしゃ楢崎ならさき弥之助やのすけ西村にしむらせきはじめ帆足ほあしはかる穂積ほづみ七郎しちろう松本まつもと七郎しちろう趣旨しゅし弁明べんめい通告つうこくされていた質疑しつぎ制限せいげん時間じかん超過ちょうか理由りゆうとして再三さいさん中止ちゅうしさせ、投票とうひょう翌日よくじつのべかいされた。よく10日とおか椎名しいなたいする決議けつぎあんは25ひょう否決ひけつされ[42][43]、12にち与党よとうによる強行きょうこう採決さいけつによってにちかん基本きほん条約じょうやくしょ協定きょうてい衆議院しゅうぎいん可決かけつされた[44]つづいて参議院さんぎいんでも与党よとう強行きょうこう採決さいけつにより12月11にち可決かけつされ、波乱はらん国会こっかいまくじた[ちゅう 13]。12月18にちにソウルでにちかん条約じょうやく批准ひじゅんしょ交換こうかんしき椎名しいなによっておこなわれ、にちかん国交こっこう正式せいしきむすばれた[34][40][44]

外相がいしょう時代じだいは、過去かこにちかん関係かんけいかんして社会党しゃかいとうかのう里子さとこ議員ぎいんから「ふか反省はんせいしているとはどういう意味いみか」とわれ「しみじみと反省はんせいしている、という意味いみでございます」と答弁とうべんしたり、日米にちべい安保あんぽ条約じょうやくについての見解けんかいわれたさいに、「アメリカは日本にっぽん番犬ばんけんであります」と発言はつげんし、野党やとう議員ぎいんから「大臣だいじん、そんなことをっていいのか」と発言はつげん訂正ていせいうながされると「番犬ばんけんさまでございます」と表現ひょうげんした[47][48]。こうしたおとぼけ・ユーモアは、本人ほんにん落語らくごきに由縁ゆえんしている。また吉田よしだ書簡しょかん問題もんだいでは、この外交がいこう政策せいさくかかわった書簡しょかん私信ししん位置付いちづけて公表こうひょう反対はんたいつづけた[48]。このよう椎名しいな所作しょさにより、椎名しいなめい外相がいしょう評価ひょうかする立場たちばからも、「ものぐさ椎名しいな」と揶揄やゆされている[40][48]1966ねん昭和しょうわ41ねん)1がつには外相がいしょうとしては戦後せんごはつとなるソ連それん訪問ほうもんし、アレクセイ・コスイギン首相しゅしょうアンドレイ・グロムイコ外相がいしょう会談かいだんすえにち航空こうくう協定きょうていにち貿易ぼうえき協定きょうてい調印ちょういんした[48][49][50]

交友こうゆうクラブを継承けいしょう[編集へんしゅう]

1966ねん12月のだい1佐藤さとうだい3改造かいぞうないかくでは椎名しいな外相がいしょうかれ、自民党じみんとう総務そうむ会長かいちょう就任しゅうにんした。1ねんらず総務そうむ会長かいちょうつとめたのち1967ねん昭和しょうわ42ねん)11月のだい2佐藤さとうだい1改造かいぞうないかくふたた通産つうさんしょう就任しゅうにんした。1970ねん昭和しょうわ45ねん)に川島かわしま正次まさつぐろうふく総裁そうさい急死きゅうしする。椎名しいな同志どうしから全員ぜんいん一致いっち推薦すいせん交友こうゆうクラブ(川島かわじま)を継承けいしょうし、川島かわじま椎名しいなとなった。当時とうじ椎名しいな衆議院しゅうぎいん議員ぎいん19にん参議院さんぎいん議員ぎいん4にんなかあいだ派閥はばつであった。椎名しいな赤城あかぎ宗徳むねのり浜野はまの清吾せいご相談役そうだんやくにんじ、松沢まつざわつよしぞう同派どうは幹事かんじちょうかくとして交友こうゆうクラブを運営うんえいした[49][51]。また、椎名しいな川島かわしまつとめていた日本にっぽんプロレスリングコミッションコミッショナー翌年よくねんいでいる[52]

自民党じみんとうふく総裁そうさい[編集へんしゅう]

1972ねん昭和しょうわ47ねん)7がつ佐藤さとう後任こうにんめぐ自民党じみんとう総裁そうさいせんは、田中たなか角栄かくえい福田ふくだ赳夫たけお主体しゅたいとしてあらそわれた。椎名しいな椎名しいなひきいて田中たなか支持しじし、田中たなか総裁そうさい就任しゅうにんした[51]よく8がつ椎名しいな田中たなかにより自民党じみんとうふく総裁そうさい起用きようされた[1][49][ちゅう 14]田中たなかにちちゅう国交こっこう正常せいじょう決断けつだんし、9月に椎名しいな政府せいふ特使とくしにんじて台湾たいわんたいする理解りかいもとめるため訪台ほうたいさせた。椎名しいな蔣経こく行政ぎょうせい院長いんちょう沈昌煥中国語ちゅうごくごばん外交がいこう部長ぶちょうらと会談かいだんしてにちちゅう国交こっこう回復かいふく政府せいふ方針ほうしん説明せつめいしたが、反対はんたいするデモたいからはげしい抗議こうぎけた[49]椎名しいな中華民国ちゅうかみんこく民意みんい代表だいひょうとの座談ざだんかいにおいて、台湾たいわんとの外交がいこう関係かんけいふくめたあらゆる関係かんけい維持いじしたうえで、にちちゅう正常せいじょう交渉こうしょうすすめるべきことが決定けっていされたとするかんがえを公式こうしきしめした。しかし、これは自民党じみんとう方針ほうしんとはことなるものであり、蔣からはきびしく追及ついきゅうされ、大平おおひらからは「儀礼ぎれいてきなもの」とはなされた[54]椎名しいな台湾たいわんから帰国きこくすると田中たなか首相しゅしょう大平おおひら外相がいしょう北京ぺきんしゅう恩来おんらい首相しゅしょう会談かいだんして、にちちゅう国交こっこう正常せいじょう合意ごういされ、文書ぶんしょ調印ちょういんされた。大平おおひらにちはな条約じょうやく破棄はきにちたい国交こっこう断絶だんぜつ宣言せんげんした[49]

1974ねん昭和しょうわ49ねん)になるときむ大中でじゅん事件じけんぶんこう事件じけんによりにちかん関係かんけい険悪けんあくした。9月に椎名しいな田中たなか要請ようせいけて訪韓ほうかんし、この問題もんだい鎮静ちんせいけてほお大統領だいとうりょう会談かいだんした[49]椎名しいなぶんこう事件じけん発生はっせい謝罪しゃざいし、事件じけん再発さいはつ防止ぼうしさく韓国かんこくへの捜査そうさ協力きょうりょくはんかん活動かつどうまりなどを約束やくそくする田中たなか書簡しょかんほお手渡てわたした[55]。この会談かいだんによりにちかん関係かんけい悪化あっか収拾しゅうしゅうかい、韓国かんこくない反日はんにちデモは終息しゅうそくした[56]

椎名しいな裁定さいてい[編集へんしゅう]

1974ねん7がつだい10かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ自民党じみんとう不調ふちょうわり、三木みき武夫たけおふく総理そうり福田ふくだ赳夫たけお蔵相ぞうしょう田中たなか角栄かくえい首相しゅしょう政治せいじ手法しゅほう批判ひはんして辞任じにんし、田中たなか内閣ないかくきょうまれた。 椎名しいな田中たなかとう改革かいかく進言しんげんした。田中たなかはこの提案ていあん受入うけいれ、8がつ1にち椎名しいな会長かいちょうとする「とう基本きほん問題もんだいおよ運営うんえいかんする調査ちょうさかい」(椎名しいな調査ちょうさかい)が設置せっちされた。そこへはかく会派かいは有力ゆうりょくしゃ参加さんかしてとう改革かいかく議論ぎろんおこなわれた[57]田中たなか金脈きんみゃく問題もんだいにより、田中たなかは11月に退陣たいじん表明ひょうめいする[57]田中たなか後継こうけい総裁そうさい指名しめい椎名しいな委任いにんした。椎名しいな総裁そうさいせんおこなわずにはないによる決着けっちゃく目指めざした[57]。12月1にち椎名しいな大平おおひら正芳まさよし福田ふくだ赳夫たけおといっただい派閥はばつ領袖りょうしゅうではなく、少数しょうすう派閥はばつ三木みき武夫たけおしん総裁そうさい指名しめいする裁定さいていした(椎名しいな裁定さいてい)。この裁定さいてい三木みき自身じしんが「青天せいてん霹靂へきれきだ」とかたったようにおどろきをもってむかえられた[58][59]。ただし三木みき中曽根なかそね康弘やすひろはこの裁定さいてい事前じぜんっていたというせつ根強ねづよ[60][ちゅう 15]世論せろんは「金権きんけん 田中たなか」からわる「クリーン三木みき」を歓迎かんげいした[59]

三木みきおろし[編集へんしゅう]

椎名しいなは1974ねん12月9にち発足ほっそくした三木みき内閣ないかくでもふく総裁そうさい留任りゅうにんした[59][62]。「さん賢人けんじんかい」の一人ひとりであるなだ弘吉ひろきちとう総務そうむ会長かいちょう推挽すいばんさん木内きうちかくつうじてとう改革かいかくもうとするが、はやくも三木みきとのあいだとう改革かいかく近代きんだいをめぐり亀裂きれつしょうじる。椎名しいな三木みきした政治せいじ資金しきん規正きせいほう改正かいせい問題もんだいこととなえた。三木みき企業きぎょう献金けんきん全廃ぜんぱい提案ていあんしたが、椎名しいなとう改革かいかく思想しそうしょう選挙せんきょせい導入どうにゅうのために献金けんきん個人こじんではなくとうあつめることを目論もくろんでおり、三木みき姿勢しせい許容きょようできるものではかった[62]さらロッキード事件じけん独占どくせん禁止きんしほう改正かいせい党内とうない改革かいかくをめぐり、椎名しいな三木みき首相しゅしょうへの不満ふまんこうじ、三木みき政策せいさく徹底てっていして批判ひはんした。そんな椎名しいなたいして「椎名しいな院政いんせい」という表現ひょうげんもされた[62]。こうした椎名しいな不満ふまんはやがて「三木みきろし」へとつながっていく。

1976ねん昭和しょうわ51ねん)5がつ椎名しいな田中たなか福田ふくだ大平おおひら三木みき退陣たいじんもとめることで一致いっちした。ロッキード事件じけん解明かいめい注力ちゅうりょくしていた三木みきはこの退陣たいじん要求ようきゅう拒絶きょぜつした[63]。この椎名しいなによる「三木みきろし」は「ロッキードかくし」とめられ世論せろんはげしい批判ひはんびた。福田ふくだ大平おおひら椎名しいなとの会談かいだん事実じじつかくし、三木みきもとには激励げきれいこえあふれた[63]。6月、なだ総務そうむ会長かいちょう仲裁ちゅうさい椎名しいな三木みきれ、椎名しいな三木みきろしは失敗しっぱいわった。これにより椎名しいな政治せいじてき影響えいきょうりょく急激きゅうげき減退げんたいした[64]田中たなか逮捕たいほされたのちの8がつ19にち田中たなか大平おおひら福田ふくだ椎名しいな船田ふなだ水田すいでん結集けっしゅうして挙党きょとう体制たいせい確立かくりつ協議きょうぎかい挙党きょとうきょう)を結成けっせいし、あらたな三木みきろしを主導しゅどうした。三木みき挙党きょとうきょう解散かいさんけんふうじられたが、退陣たいじん要求ようきゅうはここでも拒絶きょぜつし、9月に内閣ないかく改造かいぞうとう役員やくいん改選かいせんて12月5にち任期にんき満了まんりょうにともなうだい34かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ敗北はいぼく退陣たいじん余儀よぎなくされた[64]椎名しいな裁定さいてい三木みき推挙すいきょした椎名しいな三木みきろしにまわったことについて、椎名しいなは「みのおやだが、そだてるとはったことはない」とこたえた[62]同年どうねん12がつ24にち後任こうにん首相しゅしょうには福田ふくだ就任しゅうにんした[65]福田ふくだ政権せいけん発足ほっそくとともに椎名しいなふく総裁そうさいから退しりぞいた[64]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

椎名しいなながらく東京とうきょう渋谷しぶや広尾ひろお居住きょじゅうしていたが、1978ねん昭和しょうわ53ねん)6がつ神奈川かながわけん川崎かわさき多摩たま生田いくた居所きょしょうつした[64]同年どうねん10がつ後援こうえんかい幹部かんぶ政界せいかい引退いんたい内意ないいつたえ、椎名しいな後援こうえんかい後継こうけいしゃ次男じなん素夫もとお決定けっていした[64]よく1979ねん昭和しょうわ54ねん)6がつ老人ろうじんせい結核けっかく下半身かはんしんすじ萎縮いしゅくしょう治療ちりょうのため慶応けいおう病院びょういん入院にゅういんし、同年どうねんだい35かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょには出馬しゅつばせず、その選挙せんきょ期間きかんちゅう9月30にち入院にゅういんさき慶応けいおう病院びょういん死去しきょした[2][64]。81さいぼつ

人物じんぶつ逸話いつわ[編集へんしゅう]

人柄ひとがら[編集へんしゅう]

椎名しいなひととなりは ものぐさで寡黙かもく茫洋ぼうよう内気うちき性格せいかくとしてられ、そのようは「暗闇くらやみうし」と形容けいようされた[40][66]夫人ふじん公枝きみえ自著じちょの「あきをよぶあめ[67] において自宅じたくでの椎名しいな面倒めんどうくさがり寡黙かもく逸話いつわ披露ひろうしている[68]座右ざゆうめいは「菜根さいこんたん」のなかから「如省ごとことはぶくにしかず)」をつけた「しょうごと[64]物事ものごと処理しょりするとき些細ささい煩雑はんざつなことはなるべくてて、根幹こんかん部分ぶぶん簡単かんたん明瞭めいりょうつかむことが大切たいせつである、枝葉えだは末節まっせつにこだわり大切たいせつ根本こんぽんをおろそかにしないということを人生じんせいくんとした[64]商工しょうこうしょう時代じだいは、だい酒飲さけのみであそきの評判ひょうばん[10] と、愛知あいち県庁けんちょう時代じだい給仕きゅうじにハンコしをさせるなど武勇ぶゆうでんのこしている[69]

椎名しいな外相がいしょうつとめていた1965ねんには吉田よしだしげるたいしてのノーベル平和へいわしょう受賞じゅしょう運動うんどう吉田よしだ周辺しゅうへん外務省がいむしょう幹部かんぶあいだ秘密裏ひみつり展開てんかいされた。椎名しいな佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょう横田よこた喜三郎きさぶろう最高さいこう裁判所さいばんしょ長官ちょうかん万国ばんこく国際こくさいほう学会がっかい会員かいいん栗山くりやましげるハーグ国際こくさい仲裁ちゅうさい裁判所さいばんしょ判事はんじ国際こくさいほう協会きょうかい会長かいちょう連名れんめい吉田よしだ推薦すいせんじょうつらねている[70][71]

1974ねんぶんこう事件じけんさいに、自民党じみんとうふく総裁そうさい身分みぶん謝罪しゃざい特使とくしとして韓国かんこく派遣はけんされ[56]青瓦台チョンワデぼく正煕せいき大統領だいとうりょう訪問ほうもんしたのちには、「あのような屈辱くつじょくてき使つかいをしたのははじめてだ」と愚痴ぐちをこぼしていたという[よう出典しゅってん]。なお、やはり自民党じみんとうふく総裁そうさいであった1972ねんには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの国交こっこう樹立じゅりつともな台湾たいわん中華民国ちゅうかみんこく)への釈明しゃくめい今後こんご民間みんかん交流こうりゅう維持いじのための特使とくしとして派遣はけんされ、日本にっぽん不義理ふぎり憤激ふんげきするデモたいからくるま投石とうせきされたこともあった[49]。このことが後年こうねん大平おおひら正芳まさよしとの関係かんけい悪化あっかさせたといわれる[72]。しかしながら、蔣介せき秘書ひしょつとめた柯振はなによると、このデモは日本にっぽんがわ威嚇いかくするための台湾たいわん政府せいふめいじられたいわばヤラセで、参加さんかしゃ全員ぜんいん手心てごころくわえており、ものげたり車列しゃれつおそ頃合ころあいは警備けいびがかり目配めくばせをして指示しじしていたという[73][74]

さん賢人けんじんかい[編集へんしゅう]

1970ねんころから、前尾まえおしげる三郎さぶろうなだ弘吉ひろきちと、いわゆる「さん賢人けんじんかい」としょうされたあつまり[ちゅう 16]料亭りょうていっていたが、自民党じみんとうふく総裁そうさい衆議院しゅうぎいん議長ぎちょうつとめたさんにんあつまりにもかかわらず「政治せいじはなしはほとんどなかった」といわれる[ちゅう 17]

家系かけい[編集へんしゅう]

東京とうきょう市長しちょう内務ないむ大臣だいじん帝都ていと復興ふっこういん総裁そうさいなどを歴任れきにんした後藤ごとう新平しんぺい叔父おじたる。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん参議院さんぎいん議員ぎいんをつとめた椎名しいな素夫もとお二男じなんつまは、山口銀行やまぐちぎんこう (大阪おおさか)重役じゅうやくもりしん敬二けいじ長女ちょうじょ公枝きみえもりしんは1882ねん広島ひろしまけん多田おおたばんづくりろくおとことしてまれ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ卒業そつぎょう[75]町田まちだ忠治ただはる部下ぶかとして山口銀行やまぐちぎんこう再建さいけん貢献こうけんした。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 産業さんぎょう団体だんたい法案ほうあんに就て』重要じゅうよう産業さんぎょう統制とうせい団体だんたい協議きょうぎかい、1941ねん2がつ15にちNDLJP:1439152 
  • 戦時せんじ経済けいざい物資ぶっし調整ちょうせい(1942ねん東亜とうあ政経せいけいしゃ戦時せんじ経済けいざい国策こくさく大系たいけいだい1かん
  • 軍需ぐんじゅ會社かいしゃほうに就て(1944ねん日本にっぽん工業こうぎょう倶樂部くらぶ經濟けいざい研究けんきゅう叢書そうしょだい132輯)
  • 童話どうわ政治せいじ東洋とうよう政治せいじ経済けいざい研究所けんきゅうじょ、1963ねん6がつ1にちNDLJP:2983092 椎名しいなはこの著作ちょさくにおいて日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎを「栄光えいこう帝国ていこく主義しゅぎ」と表現ひょうげんしている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 父親ちちおやひろ後藤ごとう婿養子むこようしであり、悦三郎えつさぶろう婿養子むこようし後妻ごさいとのあいである[4]
  2. ^ 同期どうき入省にゅうしょうには重政しげまさ誠之せいしがいる[5]
  3. ^ 実業じつぎょう日本にっぽん商工しょうこうしょう農林省のうりんしょうにあたる。部長ぶちょうまんしゅうじんであったが実権じっけん日本人にっぽんじん官僚かんりょうった[7]
  4. ^ 日本にっぽん重要じゅうよう産業さんぎょう統制とうせいほう主要しゅよう産業さんぎょうのカルテル結成けっせいうながして産業さんぎょう合理ごうり企図きとしていたが、まんしゅうどうほうはその対極たいきょく企図きとしている[9]
  5. ^ 川島かわしま正次まさつぐろうきゅう政友せいゆうかい前田まえだ米蔵よねぞう師事しじし、三好みよし英之ひでゆき野田のだ武夫たけおきゅう民政みんせいとう大麻たいま唯男ただお師事しじしていた。前田まえだ大麻たいま翼賛よくさん政治せいじかい仕切しきっていた[10]
  6. ^ 後年こうねん椎名しいなはこのときのことをかえり、「あんまり警察けいさつ可哀相かわいそうだから自首じしゅさせたよ。」とべている[26]
  7. ^ 公枝きみえ夫人ふじん椎名しいな選挙せんきょ精力せいりょくてきおっとささえ、代理だいりとして椎名しいな立会たちあい演説えんぜつかい登壇とうだんしたこともった[27]
  8. ^ にちかん国交こっこう正常せいじょう交渉こうしょう初期しょき段階だんかいからひがしアジア戦略せんりゃくとしてアメリカがふか介入かいにゅうしており、実態じったいはアメリカをふくめた3こくあいだ交渉こうしょうであった[32]
  9. ^ 請求せいきゅうけん問題もんだいは1962ねん大平おおひら正芳まさよし外相がいしょう金鍾泌きんしょうひつ中央ちゅうおう情報じょうほう長官ちょうかんとでおこなわれ、合意ごうい内容ないよう無償むしょう3おくドル、有償ゆうしょう2おくドル、民間みんかん協力きょうりょく1おくドルであった。また、漁業ぎょぎょう問題もんだいでは両国りょうこく農相のうしょうによる会談かいだんにより、承晩しょうばんライン撤廃てっぱい韓国かんこく沿岸えんがん12カイリ漁業ぎょぎょう専管せんかん水域すいいき設置せっち、その外縁がいえん共同きょうどう規制きせい区域くいき設置せっちして日本にっぽん漁業ぎょぎょう経済けいざい協力きょうりょくおこなうことで合意ごういされていた[30]
  10. ^ 帰国きこく日本にっぽんでは椎名しいな韓国かんこくたいする謝罪しゃざいについて批判ひはんがなされた。これにたいして椎名しいなは「とにかくなんかいあやまってもいいのです」「あやまればあやまるほどいい、それがにちかん関係かんけいをよくするために必要ひつようなことだ」と釈明しゃくめいしている[35]
  11. ^ 椎名しいなは1がつ25にち訪韓ほうかん意向いこう表明ひょうめいしていた[36]
  12. ^ ただし条約じょうやく本文ほんぶん韓国かんこくがわ主張しゅちょうしていた謝罪しゃざい文言もんごんこと見送みおくられた。またこれにより戦後せんご賠償ばいしょう請求せいきゅうけん完了かんりょうしたこと明文化めいぶんかされた。
  13. ^ この強行きょうこう採決さいけつ佐藤さとう指示しじによりおこなわれた。衆議院しゅうぎいん強行きょうこう採決さいけつ仕切しきった船田ふなだ田中たなかさんせいふく議長ぎちょうは、批准ひじゅんしょ交換こうかんしきののちにこの責任せきにんって辞任じにんした[45][46]
  14. ^ ふく総裁そうさいへの就任しゅうにん要請ようせい台湾たいわんへの政府せいふ特使とくし就任しゅうにん要請ようせい同時どうじおこなわれた。当時とうじ椎名しいなはなんの役職やくしょくにもいていなかったため田中たなか台湾たいわん体面たいめんたもつべく椎名しいなふく総裁そうさいとしたうえで政府せいふ特使とくしにんじた[53]
  15. ^ 政治せいじ評論ひょうろん三宅みやけ久之ひさゆきによると、椎名しいな三木みき指名しめいしたのは、三木みきにこの裁定さいてい辞退じたいさせることをあらかじ内諾ないだくさせ、椎名しいな自身じしん総裁そうさいになるための算段さんだんであったが、三木みきがそれにしたがわなかったとされる[61]
  16. ^ このあつまりについては、城山しろやま三郎さぶろう賢人けんじんたちの文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1994ねん1がつISBN 978-4167139155 くわしい。しかしながらその記述きじゅつ内容ないよう信憑しんぴょうせい三宅みやけ久之ひさゆきにより疑問ぎもんたれている[61]
  17. ^ 本人ほんにんたちは「ただめしってバカはなしをするだけ」とかたっていた[51]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
石井いしい光次郎みつじろう
菅野かんの和太郎わたろう
日本の旗 通商つうしょう産業さんぎょう大臣だいじん
だい19だい:1960ねん - 1961ねん
だい28だい:1967ねん - 1968ねん
次代じだい
佐藤さとう榮作えいさく
大平おおひら正芳まさよし
先代せんだい
大平おおひら正芳まさよし
日本の旗 外務がいむ大臣だいじん
だい94・95だい:1964ねん - 1966ねん
次代じだい
三木みき武夫たけお
先代せんだい
赤城あかぎ宗徳むねのり
日本の旗 内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん
だい20だい:1959ねん - 1960ねん
次代じだい
大平おおひら正芳まさよし
とうしょく
先代せんだい
川島かわしま正次まさつぐろう
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
1972ねん - 1976ねん
次代じだい
船田ふなだなか
先代せんだい
福永ふくなが健司けんじ
自由民主党じゆうみんしゅとう総務そうむ会長かいちょう
だい13だい:1966ねん - 1967ねん
次代じだい
橋本はしもと登美とみ三郎さぶろう
先代せんだい
船田ふなだなか
自由民主党じゆうみんしゅとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
だい7だい:1960ねん
次代じだい
福田ふくだ赳夫たけお
先代せんだい
川島かわしま正次まさつぐろう
交友こうゆうクラブ会長かいちょう
だい2だい:1970ねん - 1979ねん
次代じだい
解散かいさん