椎名 しいな 悦三郎 えつさぶろう (しいな えつさぶろう、1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )1月 がつ 16日 にち - 1979年 ねん (昭和 しょうわ 54年 ねん )9月30日 にち )は、日本 にっぽん の官僚 かんりょう 、政治 せいじ 家 か 。岸 きし 信介 しんすけ の腹心 ふくしん [3] として満 まん 洲 しゅう 国 こく の運営 うんえい に関 かか わり、また商工 しょうこう 次官 じかん として統制 とうせい 経済 けいざい を推進 すいしん 、軍需 ぐんじゅ 次官 じかん も務 つと めた。戦後 せんご は政界 せいかい 入 い りし、内閣 ないかく 官房 かんぼう 長官 ちょうかん (岸 きし 内閣 ないかく )、通商 つうしょう 産業 さんぎょう 大臣 だいじん (19代 だい ・28代 だい )、外務 がいむ 大臣 だいじん (94-95代 だい )、自由民主党 じゆうみんしゅとう において政調 せいちょう 会長 かいちょう 、総務 そうむ 会長 かいちょう 、副 ふく 総裁 そうさい を歴任 れきにん した。田中 たなか 角栄 かくえい の後継 こうけい の総裁 そうさい として三木 みき 武夫 たけお を指名 しめい した「椎名 しいな 裁定 さいてい 」を下 くだ した人物 じんぶつ として知 し られている。椎名 しいな 素夫 もとお は次男 じなん 、血縁 けつえん のない叔父 おじ に後藤 ごとう 新平 しんぺい がいる[注 ちゅう 1] 。
1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )に岩手 いわて 県 けん 胆沢 いさわ 郡 ぐん 水沢 すいざわ 町 まち (水沢 すいざわ 市 し を経 へ て、現在 げんざい の奥州 おうしゅう 市 し )に生 う まれる[4] 。父 ちち の後藤 ごとう 広 ひろ は後藤 ごとう 家 か の婿養子 むこようし で小学校 しょうがっこう の教師 きょうし から水沢 すいざわ 町 まち の助役 じょやく などを経 へ て、岩手 いわて 県 けん 会議 かいぎ 員 いん となり、後 のち に水沢 すいたく 町長 ちょうちょう を10年間 ねんかん 務 つと めた。後藤 ごとう 家 か は蘭学 らんがく 者 もの の高野 たかの 長英 ちょうえい (幼名 ようみょう 、悦三郎 えつさぶろう )の血筋 ちすじ にあたり、悦三郎 えつさぶろう の名 な も高野 たかの 長英 ちょうえい の旧名 きゅうめい より名付 なづ けられた[4] 。
父 ちち の広 ひろ は事業 じぎょう に失敗 しっぱい し、悦三郎 えつさぶろう が幼少 ようしょう 期 き の後藤 ごとう 家 か の家計 かけい は貧窮 ひんきゅう していた[4] 。そのため進学 しんがく を希望 きぼう した悦三郎 えつさぶろう は昼間 ひるま は働 はたら き夜間 やかん に夜学 やがく に通 かよ うつもりであった[4] 。悦三郎 えつさぶろう は高等 こうとう 小学校 しょうがっこう 4年 ねん 次 つぎ に単身 たんしん で上京 じょうきょう した。実業 じつぎょう 家 か の原 はら 邦造 くにぞう 家 いえ の学僕 がくぼく をしていたが、夜学 やがく に通 かよ わせてくれなかったことに憤 いきどお り主 しゅ 宅 たく を3か月 げつ で抜 ぬ け出 だ し、骨董 こっとう 店 てん に住 す み込 こ みで働 はたら きつつ夜学 やがく の研 けん 数学 すうがく 館 かん へ通 とお ったがここも3か月 げつ で辞 や めて、同郷 どうきょう の先輩 せんぱい の下宿 げしゅく 先 さき で過 す ごした[4] 。父 ちち のとりなしもあって隣 となり 町 まち の金ケ崎 かねがさき 町 まち の代議士 だいぎし 志賀 しが 和 かず 多利 たり の書生 しょせい となり昼間 ひるま の通学 つうがく が許 ゆる され[4] 、錦城 きんじょう 中学 ちゅうがく 3年 ねん の編入 へんにゅう 試験 しけん に合格 ごうかく した[5] 。同校 どうこう を卒業 そつぎょう した悦三郎 えつさぶろう は、父 ちち が水利 すいり 権 けん を得 え た胆沢川 いさわがわ の水力 すいりょく 発電 はつでん 事業 じぎょう が軌道 きどう に乗 の ったことで経済 けいざい 的 てき な余裕 よゆう ができた実家 じっか へと戻 もど った[5] 。旧制 きゅうせい 二 に 高 だか を経 へ て東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 法学部 ほうがくぶ 法律 ほうりつ 学科 がっか 独 どく 法科 ほうか へと進 すす んだ[5] 。同時 どうじ に後藤 ごとう 新平 しんぺい 実姉 じっし の初瀬 はつせ (初 はつ 勢 いきおい )の婚家 こんか である椎名 しいな 家 か に養子 ようし 入 い りし、後藤 ごとう 悦三郎 えつさぶろう から椎名 しいな 悦三郎 えつさぶろう へと名 な を改 あらた めた[5] [6] 。
二 に 高 だか の先輩 せんぱい である小島 こじま 新一 しんいち の影響 えいきょう を受 う けた椎名 しいな は帝 みかど 大 だい 在学 ざいがく 中 ちゅう に高等 こうとう 文官 ぶんかん 試験 しけん に合格 ごうかく し、1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )3月 がつ の卒業 そつぎょう 後 ご は小島 こじま のいる農 のう 商務省 しょうむしょう へ入省 にゅうしょう した[5] [注 ちゅう 2] 。工務 こうむ 局 きょく 工務 こうむ 課 か へと配属 はいぞく された椎名 しいな は事務 じむ 官 かん を勤 つと めていた小島 こじま から指導 しどう を受 う けた[7] 。翌年 よくねん に農 のう 商務省 しょうむしょう が農林省 のうりんしょう と商工 しょうこう 省 しょう に分離 ぶんり した後 のち は、工務 こうむ 課 か は商工 しょうこう 省 しょう の管轄 かんかつ となった。1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )、カルテル を助長 じょちょう するための重要 じゅうよう 輸出 ゆしゅつ 品 ひん 工業 こうぎょう 組合 くみあい 法 ほう に基 もと づき、その指導 しどう 監督 かんとく のため全国 ぜんこく に官吏 かんり が派遣 はけん されることになり、椎名 しいな は愛知 あいち 県 けん の工業 こうぎょう 組合 くみあい 監督 かんとく 官 かん 兼 けん 商工 しょうこう 課長 かちょう として以降 いこう の4年間 ねんかん を名古屋 なごや の愛知 あいち 県庁 けんちょう で勤務 きんむ した[7] 。同職 どうしょく 中 ちゅう には愛知 あいち 県 けん 見本市 みほんいち を代表 だいひょう して満州 まんしゅう を訪 おとず れ、名古屋 なごや 港 こう と大連 たいれん 港 こう を結 むす ぶ定期 ていき 便 びん の運行 うんこう を満 まん 鉄 てつ 当局 とうきょく と折衝 せっしょう している[7] 。1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )秋 あき 、緊密 きんみつ な関係 かんけい であった関西 かんさい 財閥 ざいばつ の一人 ひとり である森 もり 信 しん 敬 けい 二 に の長女 ちょうじょ 、公枝 きみえ と結婚 けっこん する[8] 。1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )に商工 しょうこう 省 しょう 工務 こうむ 局 きょく 工務 こうむ 課 か の事務 じむ 官 かん に復職 ふくしょく した[7] 。1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )8月 がつ 、欧米 おうべい 各国 かっこく の不 ふ 況 きょう 対策 たいさく や産業 さんぎょう 政策 せいさく を視察 しさつ するための出張 しゅっちょう が命 めい ぜられ、翌年 よくねん 5月 がつ に帰朝 きちょう する[7] 。翌月 よくげつ に臨時 りんじ 産業 さんぎょう 合理 ごうり 局 きょく の主任 しゅにん 事務 じむ 官 かん に任 にん じられた[7] 。
商工 しょうこう 省 しょう 文書 ぶんしょ 課 か の専任 せんにん 参事官 さんじかん を勤 つと めていた岸 きし 信介 しんすけ の求 もと めにより、1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )10月 がつ に満 まん 洲 しゅう 国 こく 実業 じつぎょう 部 ぶ 総務 そうむ 司 し 計画 けいかく 科 か 長 ちょう として満 まん 洲 しゅう の新 しん 京 きょう に赴任 ふにん した[7] [注 ちゅう 3] 。椎名 しいな は実業 じつぎょう 部 ぶ 文書 ぶんしょ 科 か 長 ちょう 兼 けん 統制 とうせい 科 か 長 ちょう に就任 しゅうにん した後 のち 、実業 じつぎょう 部 ぶ の外局 がいきょく となる臨時 りんじ 産業 さんぎょう 調査 ちょうさ 局 きょく を設置 せっち して、3年間 ねんかん に及 およ ぶ満 まん 洲 しゅう 国 こく の産業 さんぎょう 調査 ちょうさ を指揮 しき した[9] 。調査 ちょうさ は農業 のうぎょう 、林業 りんぎょう 、地下 ちか 資源 しげん 、水力 すいりょく 電源 でんげん などに亘 わた り、匪賊 ひぞく が盛 さか んな辺境 へんきょう 地 ち に対 たい しても実施 じっし された[9] 。この調査 ちょうさ を基 もと に日本 にっぽん からの満 まん 洲 しゅう 開拓 かいたく 農民 のうみん の受 う け入 い れ数 すう が見積 みつ もられ、また、第 だい 二 に 松 まつ 花江 はなえ と鴨 かも 緑 みどり 江 こう に水力 すいりょく 発電 はつでん 所 しょ の建設 けんせつ が計画 けいかく されることとなった。総 そう 投資 とうし 額 がく が25億 おく 円 えん に達 たっ した満 まん 洲 しゅう 産業 さんぎょう 開発 かいはつ 五 ご カ年 かねん 計画 けいかく に対 たい してもこの調査 ちょうさ 結果 けっか が用 もち いられている[9] 。また、椎名 しいな は重要 じゅうよう 産業 さんぎょう 統制 とうせい 法 ほう を定 さだ めて一 いち 業種 ぎょうしゅ 一 いち 社 しゃ の独占 どくせん による国策 こくさく 特殊 とくしゅ 会社 かいしゃ を中心 ちゅうしん とする徹底 てってい した統制 とうせい 経済 けいざい を目論 もくろ んだ[9] [注 ちゅう 4] 。
1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )春 はる 、満 まん 洲 しゅう 財界 ざいかい に移 うつ った高橋 たかはし 康順 こうじゅん の後任 こうにん として、関東軍 かんとうぐん の強 つよ い要請 ようせい により実業 じつぎょう 部 ぶ 次長 じちょう (次官 じかん に相当 そうとう )に岸 きし が赴任 ふにん 、以降 いこう は岸 きし の直属 ちょくぞく の部下 ぶか となる[9] 。翌年 よくねん 7月 がつ に椎名 しいな は実業 じつぎょう 部 ぶ 鉱 こう 工 こう 司 し 長 ちょう (日本 にっぽん の商工 しょうこう 省 しょう の工務 こうむ 局長 きょくちょう と鉱山 こうざん 局長 きょくちょう に相当 そうとう )に就任 しゅうにん し、岸 きし の下 した で満 まん 洲 しゅう 国 こく の経済 けいざい 統制 とうせい と産業 さんぎょう 開発 かいはつ を推進 すいしん した[9] 。1939年 ねん (昭和 しょうわ 14年 ねん )に入 はい ると椎名 しいな は岸 きし に対 たい して帰国 きこく 並 なら びに本省 ほんしょう 復帰 ふっき を申 もう し出 で た。岸 きし によって巨 きょ 大国 たいこく 策 さく 会社 かいしゃ の満 まん 洲 しゅう 重工業 じゅうこうぎょう 開発 かいはつ 会社 かいしゃ の総帥 そうすい となった鮎川 あいかわ 義介 ぎすけ から同社 どうしゃ の重役 じゅうやく になるよう説得 せっとく がなされたが、椎名 しいな はこれを断 ことわ り4月 がつ に帰国 きこく した[9] 。
岸 きし 信介 しんすけ 商工 しょうこう 大臣 だいじん と椎名 しいな 悦三郎 えつさぶろう 商工 しょうこう 次官 じかん 、昭和 しょうわ 17年 ねん 頃 ごろ
帰国 きこく 後 ご の1939年 ねん 4月 がつ に椎名 しいな は商工 しょうこう 省 しょう の臨時 りんじ 物資 ぶっし 調整 ちょうせい 局 きょく に入局 にゅうきょく した。臨時 りんじ 物資 ぶっし 調整 ちょうせい 局 きょく は国家 こっか 総動員 そうどういん 法 ほう の制定 せいてい に基 もと づく国策 こくさく に応 おう じた物資 ぶっし の統制 とうせい 調達 ちょうたつ を担当 たんとう する部局 ぶきょく である。同局 どうきょく で化学 かがく 製品 せいひん を受 う け持 も つ第 だい 五 ご 部長 ぶちょう に任 にん じられた[10] 。商工 しょうこう 省 しょう は戦時 せんじ 体制 たいせい に適応 てきおう して鉱産 こうさん 局 きょく 、鉄鋼 てっこう 局 きょく 、化学 かがく 局 きょく 、機械 きかい 局 きょく 、繊維 せんい 局 きょく や外局 がいきょく の燃料 ねんりょう 局 きょく 等 とう を設置 せっち し、それらを統 す べる総務 そうむ 局 きょく を置 お いた。同年 どうねん 6月 がつ に椎名 しいな は商工 しょうこう 省 しょう 総務 そうむ 局 きょく 総務 そうむ 課長 かちょう に任命 にんめい された[10] 。その頃 ころ の商工 しょうこう 大臣 だいじん は海軍 かいぐん 造兵 ぞうへい 中将 ちゅうじょう の伍 ご 堂 どう 卓雄 たくお が務 つと めていたが、同省 どうしょう の村瀬 むらせ 直 ただし 養 よう 次官 じかん とは相性 あいしょう が悪 わる く、軍部 ぐんぶ から満 まん 洲 しゅう 国 こく 産業 さんぎょう 部 ぶ 次長 じちょう の岸 きし を村瀬 むらせ の後任 こうにん として据 す えるよう強 つよ い要請 ようせい が有 あ った。そして軍部 ぐんぶ からの受 う けが良 よ かった椎名 しいな もまた伍 ご 堂 どう に対 たい して岸 きし を薦 すす めた[10] 。同年 どうねん 10月 がつ 、これに反対 はんたい する村瀬 むらせ の意見 いけん を押 お し切 き る形 かたち で岸 きし が次官 じかん として商工 しょうこう 省 しょう に復帰 ふっき し、時 とき を移 うつ さずに椎名 しいな は総務 そうむ 局長 きょくちょう 心得 こころえ に昇進 しょうしん し、商工 しょうこう 省 しょう の事実 じじつ 上 じょう の筆頭 ひっとう 局長 きょくちょう となった[10] 。主導 しゅどう 権 けん を軍部 ぐんぶ が掌握 しょうあく した企画 きかく 院 いん により立案 りつあん された戦時 せんじ 経済 けいざい 統制 とうせい は、商工 しょうこう 省 しょう がその実施 じっし 機関 きかん として連携 れんけい し、岸 きし と椎名 しいな の両 りょう 名 な はその中心 ちゅうしん 的 てき な役割 やくわり を担 にな った[10] 。椎名 しいな は翌年 よくねん 12月 がつ に正式 せいしき な総務 そうむ 局長 きょくちょう に就任 しゅうにん する[10] 。
総務 そうむ 局長 きょくちょう 時代 じだい の椎名 しいな は、商工 しょうこう 省 しょう が設立 せつりつ を許可 きょか しなかった水野 みずの 成夫 しげお と南 みなみ 喜一 きいち による再生 さいせい 紙 し 製造 せいぞう 会社 かいしゃ の設立 せつりつ を直談判 じかだんぱん された。当時 とうじ の商工 しょうこう 相 しょう は元 もと 王子製紙 おうじせいし 社長 しゃちょう の藤原 ふじわら 銀次 ぎんじ 郎 ろう だったので、椎名 しいな は一 いち 度 ど は設立 せつりつ を認 みと めなかったが、陸軍 りくぐん の岩畔 いわぐろ 豪雄 ひでお が2人 ふたり の背後 はいご に居 い ることも有 あ り、陸軍 りくぐん からの正式 せいしき な推薦 すいせん 状 じょう を2人 ふたり に求 もと めたうえ、新 しん 会社 かいしゃ の再生 さいせい 紙 し の使用 しよう を中国 ちゅうごく 大陸 たいりく における宣撫 せんぶ 工作 こうさく に充 あ てる様 よう 指導 しどう した。これにより国策 こくさく パルプ が設立 せつりつ された。水野 みずの は国策 こくさく パルプやフジテレビ 社長 しゃちょう を経 へ て、後 のち に「財界 ざいかい 四天王 してんのう 」の一人 ひとり と呼 よ ばれる程 ほど になった人物 じんぶつ で、後 のち に椎名 しいな が政界 せいかい に入 はい る時 とき の有力 ゆうりょく な支援 しえん 者 しゃ となっている[10] 。また、かつて叔父 おじ の後藤 ごとう 新平 しんぺい から読売新聞 よみうりしんぶん 買収 ばいしゅう のために10万 まん 円 えん を寄付 きふ してもらった正力 しょうりき 松太郎 まつたろう から声 こえ を掛 か けられたことが有 あ った。「後藤 ごとう 伯 はく の恩 おん に報 むく いるため、故郷 こきょう の水沢 すいたく に後藤 ごとう 伯 はく を記念 きねん した公会堂 こうかいどう を建 た てたい。知恵 ちえ を貸 か してほしい」と正力 しょうりき は椎名 しいな に注文 ちゅうもん を付 つ けた。しかし戦時 せんじ 下 か においては公会堂 こうかいどう 、劇場 げきじょう 、旅館 りょかん などの新築 しんちく は許 ゆる されていなかった。これに対 たい して椎名 しいな は設置 せっち が許 ゆる されるように公民館 こうみんかん としての新設 しんせつ を正力 しょうりき に対 たい して呼 よ びかけ、正力 しょうりき はこれを了承 りょうしょう した。1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )11月、建設 けんせつ 費 ひ 15万 まん 円 えん 、維持 いじ 費 ひ 5万 まん 円 えん が寄付 きふ され後藤 ごとう の故郷 こきょう の水沢 すいざわ 町 まち に「後藤 ごとう 伯 はく 記念 きねん 水沢 すいたく 公民館 こうみんかん 」が竣工 しゅんこう した。これが日本 にっぽん の公民館 こうみんかん の始 はじ まりである[10] 。
1940年 ねん (昭和 しょうわ 15年 ねん )7月 がつ 、第 だい 2次 じ 近衛 このえ 内 ない 閣 かく が発足 ほっそく した。同 どう 内閣 ないかく の小林 こばやし 一三 かずみ 商工 しょうこう 相 しょう は企画 きかく 院 いん と商工 しょうこう 省 しょう が主体 しゅたい となってまとめた経済 けいざい 新 しん 体制 たいせい 要綱 ようこう 案 あん に激 はげ しく反対 はんたい し、これを推 お し進 すす める革新 かくしん 官僚 かんりょう を非難 ひなん した。革新 かくしん 官僚 かんりょう の代表 だいひょう 的 てき 存在 そんざい である岸 きし と小林 こばやし との対立 たいりつ は深 ふか まり、同年 どうねん 末 まつ に岸 きし は次官 じかん を更迭 こうてつ された。また、平沼 ひらぬま 騏一郎 きいちろう 内務 ないむ 大臣 だいじん の意 い を受 う けた検察 けんさつ は同 おな じく革新 かくしん 官僚 かんりょう の拠点 きょてん である企画 きかく 院 いん でも強制 きょうせい 捜査 そうさ を行 おこな い、稲葉 いなば 秀三 しゅうぞう 、和田 わだ 博雄 ひろお 、勝間田 かつまた 清一 せいいち 、佐多 さた 忠 ちゅう 隆 たかし らを治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう 違反 いはん 容疑 ようぎ で逮捕 たいほ した(企画 きかく 院 いん 事件 じけん )。岸 きし の後任 こうにん の商工 しょうこう 省 しょう 次官 じかん には椎名 しいな が推 お した小島 こじま 新一 しんいち が就任 しゅうにん し、椎名 しいな は献身 けんしん 的 てき に小島 こじま を補佐 ほさ した[10] 。1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )10月 がつ 、東條 とうじょう 英機 ひでき 内閣 ないかく が発足 ほっそく すると岸 きし は商工 しょうこう 相 しょう に就任 しゅうにん した。岸 きし により椎名 しいな は商工 しょうこう 次官 じかん へと抜擢 ばってき された[10] 。
日米 にちべい 開戦 かいせん に伴 ともな い岸 きし 大臣 だいじん 、椎名 しいな 次官 じかん のコンビは軍部 ぐんぶ と協調 きょうちょう して厳 きび しい戦時 せんじ 統制 とうせい 経済 けいざい 政策 せいさく を推進 すいしん した。小林 こばやし によって中断 ちゅうだん していた経済 けいざい 新 しん 体制 たいせい 確立 かくりつ 要綱 ようこう に拠 よ って「重要 じゅうよう 産業 さんぎょう 団体 だんたい 令 れい 」が施行 しこう され、各 かく 業界 ぎょうかい に統制 とうせい 会 かい が設立 せつりつ された。また、1942年 ねん (昭和 しょうわ 17年 ねん )4月 がつ の翼賛 よくさん 選挙 せんきょ を経 へ て、企業 きぎょう 整備 せいび 令 れい が制定 せいてい され平和 へいわ 産業 さんぎょう の全面 ぜんめん 的 てき な軍需 ぐんじゅ 工業 こうぎょう 化 か が推進 すいしん された。繊維 せんい 工場 こうじょう から兵器 へいき 工場 こうじょう への転用 てんよう が頻発 ひんぱつ し、多数 たすう の中小 ちゅうしょう 企業 きぎょう は整理 せいり 統合 とうごう されて軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう の下請 したう けとなり転廃業 てんはいぎょう を強 し いられた[10] 。この企業 きぎょう 整備 せいび 令 れい に対 たい しては鳩山 はとやま 一郎 いちろう らの一部 いちぶ の議員 ぎいん から反対 はんたい されたが、椎名 しいな は商工 しょうこう 省 しょう を支援 しえん し翼賛 よくさん 政治 せいじ 会 かい とも深 ふか いつながりのある商工 しょうこう 委員 いいん 会 かい を用 もち いて議会 ぎかい に対処 たいしょ した[注 ちゅう 5] 。商工 しょうこう 委員 いいん 会 かい には、三好 みよし 英之 ひでゆき 、川島 かわしま 正次 まさつぐ 郎 ろう 、赤城 あかぎ 宗徳 むねのり 、野田 のだ 武夫 たけお 、三木 みき 武夫 たけお などがおり、三木 みき を除 のぞ いたこれらの構成 こうせい 員 いん が後 こう の自民党 じみんとう 岸 がん 派 は へと受 う け継 つ がれている[10] 。三好 みよし や川島 かわしま を岸 きし へ紹介 しょうかい したのも椎名 しいな である[10] 。
1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )11月に軍需 ぐんじゅ 省 しょう が創設 そうせつ されると東條 とうじょう 首相 しゅしょう が軍需 ぐんじゅ 大臣 だいじん を兼務 けんむ し、岸 きし が国務大臣 こくむだいじん 兼 けん 軍需 ぐんじゅ 次官 じかん に就任 しゅうにん した。椎名 しいな は軍需 ぐんじゅ 省 しょう 総動員 そうどういん 局長 きょくちょう となり、また陸軍 りくぐん 司政 しせい 長官 ちょうかん を兼務 けんむ した[10] 。1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )7月 がつ 、岸 きし が起 お こした閣 かく 内 ない 不一致 ふいっち により東條 とうじょう 内閣 ないかく が退陣 たいじん に追 お い込 こ まれ[11] 、岸 きし は国務大臣 こくむだいじん 兼 けん 軍需 ぐんじゅ 次官 じかん を退 しりぞ いた。椎名 しいな は総動員 そうどういん 局長 きょくちょう を留任 りゅうにん する。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )4月 がつ 、鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく の発足 ほっそく に伴 ともな い、椎名 しいな は軍需 ぐんじゅ 次官 じかん に昇進 しょうしん した[10] 。終戦 しゅうせん 後 ご の同年 どうねん 8月 がつ 26日 にち に軍需 ぐんじゅ 省 しょう は廃止 はいし され商工 しょうこう 省 しょう が復活 ふっかつ した。東 ひがし 久邇 くに 宮内 くない 閣 かく で軍需 ぐんじゅ 相 しょう に任用 にんよう された中島 なかじま 知久平 ちくへい の強 つよ い要請 ようせい により、椎名 しいな は商工 しょうこう 次官 じかん へと復 ふく した。椎名 しいな は省内 しょうない に在籍 ざいせき していた軍人 ぐんじん の整理 せいり をなし、戦後 せんご の経済 けいざい 再建 さいけん に向 む けた新 あら たな組織 そしき 構築 こうちく を依頼 いらい された。省 しょう の再編 さいへん 業務 ぎょうむ が落 お ち着 つ きを見 み せ、東 ひがし 久邇 くに 宮内 くない 閣 かく の退陣 たいじん に合 あ わせて同年 どうねん 10月 がつ 12日 にち に商工 しょうこう 次官 じかん を退官 たいかん して官職 かんしょく から退 しりぞ いた[12] 。岸 きし はA級 きゅう 戦犯 せんぱん 容疑 ようぎ 者 しゃ として逮捕 たいほ の上 うえ 、巣鴨 すがも 拘置 こうち 所 しょ に収容 しゅうよう された。椎名 しいな もまた市谷 いちたに の米 べい 軍 ぐん 検事 けんじ から8回 かい に亘 わた る取 と り調 しら べを受 う けたが、岸 きし の支障 ししょう になる証言 しょうげん は全 まった くしなかった。同年 どうねん 11月 がつ には連合 れんごう 国軍 こくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ に対 たい して岸 きし の釈放 しゃくほう を求 もと める上申 じょうしん 書 しょ を提出 ていしゅつ している。椎名 しいな は1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )11月に公職 こうしょく 追放 ついほう を受 う ける[12] [13] [14] [15] 。岸 きし が釈放 しゃくほう された後 のち はアメリカ軍 ぐん 政庁 せいちょう に対 たい して、岸 きし の公職 こうしょく 追放 ついほう 解除 かいじょ を懇願 こんがん した[16] 。
1947年 ねん 11月に公職 こうしょく 追放 ついほう を受 う けた椎名 しいな は同月 どうげつ に郷里 きょうり の人々 ひとびと の強 つよ い要請 ようせい により盛岡 もりおか 市 し に本社 ほんしゃ がある東北 とうほく 振興 しんこう 繊維 せんい 工業 こうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ の取締役 とりしまりやく 社長 しゃちょう に就任 しゅうにん する。同社 どうしゃ は翌年 よくねん 3月 がつ に東北 とうほく 毛織 けおり 株式会社 かぶしきがいしゃ に社名 しゃめい を改 あらた めた。椎名 しいな は大東紡織 だいとうぼうしょく の東京 とうきょう 金町 かなまち 工場 こうじょう を買収 ばいしゅう し、梳毛 そもう 機械 きかい の購入 こうにゅう や新 あら たな技術 ぎじゅつ 者 しゃ を雇用 こよう した。この財源 ざいげん に復興 ふっこう 金融 きんゆう 金庫 きんこ の融資 ゆうし を目論 もくろ んだが、1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )にインフレ 抑制 よくせい 政策 せいさく としてドッジライン が実施 じっし され、復興 ふっこう 金融 きんゆう 金庫 きんこ の融資 ゆうし は廃止 はいし されてしまった[12] [17] 。椎名 しいな は資金 しきん 獲得 かくとく に奔走 ほんそう するが、同社 どうしゃ の低 ひく 度 たび な技術 ぎじゅつ 水準 すいじゅん により朝鮮 ちょうせん 特需 とくじゅ にも乗 の れず、遂 つい に1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )5月 がつ に東北 とうほく 毛織 けおり は会社 かいしゃ 整理 せいり 法 ほう の適用 てきよう を受 う けて経営 けいえい 破綻 はたん した。椎名 しいな は同年 どうねん 7月 がつ に社長 しゃちょう を辞任 じにん し、東北 とうほく 毛織 けおり はその後 ご 呉羽 くれは 紡績 ぼうせき に吸収 きゅうしゅう された。椎名 しいな は辞任 じにん 直後 ちょくご に心労 しんろう により体調 たいちょう を崩 くず して療養 りょうよう 生活 せいかつ を送 おく った[17] 。この間 あいだ 、追放 ついほう 中 ちゅう の1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )10月 がつ 、兵器 へいき 処理 しょり 問題 もんだい に関 かん し、衆議院 しゅうぎいん 不当 ふとう 財産 ざいさん 取引 とりひき 調査 ちょうさ 特別 とくべつ 委員 いいん 会 かい に中島 なかじま 知久平 ちくへい 、多田 ただ 武雄 たけお とともに証人 しょうにん 喚問 かんもん された[18] 。
終戦 しゅうせん 直後 ちょくご から椎名 しいな の思 おも いは政界 せいかい 進出 しんしゅつ にあった[17] 。椎名 しいな は1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )に公職 こうしょく 追放 ついほう が解除 かいじょ されていた[19] 。1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )3月 がつ のバカヤロー解散 かいさん により施行 しこう された第 だい 26回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ に立候補 りっこうほ する機会 きかい を得 え たが、前年 ぜんねん に大敗 たいはい を喫 きっ していた岸 きし からは援助 えんじょ が得 え られず、自由党 じゆうとう 幹事 かんじ 長 ちょう を勤 つと めていた岸 きし の弟 おとうと の佐藤 さとう 栄作 えいさく へ相談 そうだん するよう促 うなが された。椎名 しいな は佐藤 さとう と面会 めんかい して自由党 じゆうとう の公認 こうにん を求 もと めたが了承 りょうしょう されず、党 とう の選挙 せんきょ 対策 たいさく 責任 せきにん 者 しゃ の小沢 おざわ 佐 たすく 重喜 しげよし を紹介 しょうかい された[17] 。椎名 しいな は小沢 おざわ の元 もと を訪 おとず れたが、選挙 せんきょ 区 く の岩手 いわて 県 けん 第 だい 2区 く は既 すで に3名 めい の自由党 じゆうとう の公認 こうにん が決 き まっており小沢 おざわ は椎名 しいな の公認 こうにん を断 ことわ った。また、改 あらため 進 しん 党 とう の志賀 しが 健次郎 けんじろう も当選 とうせん を重 かさ ねており、社会党 しゃかいとう 左派 さは の北山 きたやま 愛 あい 郎 ろう も労組 ろうそ を主体 しゅたい とした強力 きょうりょく な支持 しじ が有 あ った。止 や む無 な く椎名 しいな は無所属 むしょぞく で挑 いど むものの結果 けっか は惨敗 ざんぱい し、更 さら に選挙 せんきょ 違反 いはん 容疑 ようぎ で警察 けいさつ から追 お われたが、椎名 しいな はこれを逃 に げ切 き って不 ふ 起訴 きそ となっている[17] [20] 。
日本 にっぽん 民主党 みんしゅとう の幹事 かんじ 長 ちょう となっていた岸 きし の誘 さそ いで1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )の第 だい 27回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ に日本 にっぽん 民主党 みんしゅとう の公認 こうにん を受 う けて再 ふたた び立候補 りっこうほ した。今回 こんかい は岸 きし の全面 ぜんめん 的 てき な支援 しえん を受 う け、また、豊富 ほうふ な選挙 せんきょ 資金 しきん を得 え ての選挙 せんきょ となった。更 さら に日本 にっぽん 民主党 みんしゅとう は「鳩山 はとやま ブーム」が後押 あとお しをした。椎名 しいな はなんとか最下位 さいかい に滑 すべ り込 こ んで当選 とうせん する[20] (当選 とうせん 同期 どうき に愛知 あいち 揆一 ・田村 たむら 元 はじめ ・唐沢 からさわ 俊樹 としき ・高村 たかむら 坂 ざか 彦 ・渡海 とかい 元三郎 もとさぶろう ・丹羽 にわ 兵助 へいすけ など)。3月に第 だい 2次 じ 鳩山 はとやま 一郎 いちろう 内閣 ないかく が組閣 そかく された後 のち 、椎名 しいな は日本 にっぽん 民主党 みんしゅとう 政調 せいちょう 副 ふく 会長 かいちょう に就任 しゅうにん し、衆議院 しゅうぎいん 運輸 うんゆ 委員 いいん 会 かい に所属 しょぞく した[21] 。同年 どうねん 11月 がつ に民主党 みんしゅとう と自由党 じゆうとう が合同 ごうどう して自由民主党 じゆうみんしゅとう が発足 ほっそく し椎名 しいな は自民党 じみんとう の所属 しょぞく となった[20] 。
岸 きし 信介 しんすけ 内閣 ないかく [ 編集 へんしゅう ]
1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん )2月 がつ 、石橋 いしばし 内閣 ないかく が石橋 いしばし 湛山 たんざん 首相 しゅしょう の病 やまい により倒 たお れると第 だい 1次 じ 岸 きし 内閣 ないかく が組閣 そかく された。当選 とうせん 1回 かい ながらも商工 しょうこう 省 しょう 出身 しゅっしん で産業 さんぎょう 界 かい に人脈 じんみゃく があることを川島 かわしま 正次 まさつぐ 郎 ろう 幹事 かんじ 長 ちょう に見込 みこ まれて椎名 しいな は党 とう の経理 けいり 局長 きょくちょう に就任 しゅうにん する。椎名 しいな が経理 けいり 局長 きょくちょう に就 つ いてからの自民党 じみんとう に対 たい する財界 ざいかい からの献金 けんきん は、旧来 きゅうらい の2億 おく 円 えん から10億 おく 円 えん まで拡 ひろ がったと伝 つた えられている[20] 。1958年 ねん (昭和 しょうわ 33年 ねん )の第 だい 28回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ では再 ふたた び最下位 さいかい ながらも当選 とうせん を果 は たした[20] 。1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )6月 がつ に発足 ほっそく した第 だい 2次 じ 岸 きし 内閣 ないかく (改造 かいぞう ) では当選 とうせん 2回 かい ながらも内閣 ないかく 官房 かんぼう 長官 ちょうかん に就任 しゅうにん した[20] 。岸 きし は椎名 しいな の起用 きよう について、最大 さいだい の仕事 しごと となる新 しん 安保 あんぽ 条約 じょうやく 締結 ていけつ に向 む けた人選 じんせん であると説明 せつめい した[22] 。内閣 ないかく のスポークスマン であったが、記者 きしゃ 会見 かいけん では記者 きしゃ 団 だん の質問 しつもん に対 たい して「細 こま かいことは総理 そうり に聞 き いてくれ」と発言 はつげん する一方 いっぽう で日米 にちべい 安保 あんぽ 条約 じょうやく 改定 かいてい で岸 きし を支 ささ えた[22] 。1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )6月 がつ 、新 しん 安保 あんぽ 条約 じょうやく の成立 せいりつ を機 き に岸 きし 内閣 ないかく は退陣 たいじん する。椎名 しいな は後継 こうけい の総裁 そうさい として池田 いけだ 勇人 はやと を推 お し、岸 きし 派 は と佐藤 さとう 派 は の支持 しじ を受 う けた池田 いけだ は総裁 そうさい 選 せん に勝利 しょうり した[22] 。
選挙 せんきょ 違反 いはん 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 1次 じ 池田 いけだ 内閣 ないかく では、椎名 しいな の池田 いけだ 支援 しえん が評価 ひょうか されて岸 きし 派 は を代表 だいひょう して自民党 じみんとう 政務 せいむ 調査 ちょうさ 会長 かいちょう に就任 しゅうにん した[23] 。10月に池田 いけだ は衆議院 しゅうぎいん を解散 かいさん 、第 だい 29回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ が施行 しこう され椎名 しいな は三 さん 度 ど の最下位 さいかい 当選 とうせん となった[23] 。選挙 せんきょ 後 ご に組閣 そかく された第 だい 2次 じ 池田 いけだ 内閣 ないかく では通商 つうしょう 産業 さんぎょう 大臣 だいじん として入閣 にゅうかく した。通産 つうさん 相 しょう となった椎名 しいな は自身 じしん の選挙 せんきょ 違反 いはん 問題 もんだい を野党 やとう に追及 ついきゅう された。椎名 しいな の陣営 じんえい は毎回 まいかい 違反 いはん 者 しゃ を出 だ しており、また、1958年 ねん の選挙 せんきょ で買収 ばいしゅう 容疑 ようぎ をかけられた総括 そうかつ 主宰 しゅさい 者 しゃ 兼 けん 出納 すいとう 責任 せきにん 者 しゃ の松川 まつかわ 昌 あきら 藏 ぞう (元 もと 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 、一関 いちのせき 市 し 長 ちょう )が夫人 ふじん とともに逃亡 とうぼう した上 うえ 、全国 ぜんこく に指名 しめい 手配 てはい されていた[24] [25] 。国会 こっかい で椎名 しいな は松川 まつかわ 夫妻 ふさい をどこかに匿 かくま っているものとして究明 きゅうめい が求 もと められたが、椎名 しいな はこれを否定 ひてい した。しかし実際 じっさい には松川 まつかわ 夫妻 ふさい は椎名 しいな の知人 ちじん の企業 きぎょう 経営 けいえい 者 しゃ の社宅 しゃたく に匿 かくま われていた。椎名 しいな はこの選挙 せんきょ 違反 いはん 問題 もんだい が自身 じしん の政治 せいじ 活動 かつどう に与 あた える影響 えいきょう を考慮 こうりょ して、1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )6月 がつ の内閣 ないかく 改造 かいぞう による大臣 だいじん からの退任 たいにん を機 き に、松川 まつかわ 夫妻 ふさい に自首 じしゅ を求 もと めて[注 ちゅう 6] 事件 じけん の幕 まく 引 び きをはかっている[23] 。1962年 ねん (昭和 しょうわ 37年 ねん )3月 がつ 、松川 まつかわ 夫妻 ふさい に対 たい して買収 ばいしゅう の有罪 ゆうざい 判決 はんけつ がい渡 いわた された。椎名 しいな 夫人 ふじん の公枝 きみえ [注 ちゅう 7] と椎名 しいな の秘書 ひしょ 2名 めい は逃亡 とうぼう 中 ちゅう の夫妻 ふさい の生活 せいかつ 資金 しきん を供与 きょうよ し、また、椎名 しいな の知人 ちじん は潜伏 せんぷく 場所 ばしょ を提供 ていきょう していたことが認定 にんてい され、それぞれ犯人 はんにん 蔵匿 ぞうとく の罪 つみ で有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた[28] 。新聞 しんぶん 紙上 しじょう では椎名 しいな の道義 どうぎ 的 てき 責任 せきにん を厳 きび しく問 と う論説 ろんせつ が掲載 けいさい された[29] 。
1962年 ねん 11月、新 あら たに福田 ふくだ 赳夫 たけお の派閥 はばつ を作 つく ろうとした岸 きし は「十日 とおか 会 かい (岸 きし 派 は )」の解散 かいさん を宣言 せんげん した。これに対 たい して川島 かわしま 正次 まさつぐ 郎 ろう を中心 ちゅうしん としたグループが服従 ふくじゅう せず岸 きし 派 は は分裂 ぶんれつ する。福田 ふくだ や岸 きし の反 はん 池田 いけだ 方針 ほうしん に納得 なっとく のいかない椎名 しいな は、両者 りょうしゃ と袂 たもと を分 わ かち交友 こうゆう クラブ(川島 かわじま 派 は ) に参加 さんか した。また、川島 かわしま や椎名 しいな のように早 はや くから岸 きし を支 ささ えてきた人物 じんぶつ にとって、岸 きし が福田 ふくだ を重用 じゅうよう しすぎることへの不満 ふまん もあった。川島 かわじま 派 は は川島 かわしま と椎名 しいな の他 ほか に、赤城 あかぎ 宗徳 むねのり 、藤枝 ふじえだ 泉 いずみ 介 かい 、浜野 はまの 清吾 せいご 、荒 あら 舩清十 じゅう 郎 ろう 、長谷川 はせがわ 四郎 しろう 、秋田 あきた 大助 だいすけ などの衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 19名 めい で結成 けっせい された。川島 かわしま と椎名 しいな は戦前 せんぜん から関 かか わりが有 あ り、また二 に 人 にん は後藤 ごとう 新平 しんぺい を介 かい しての親類 しんるい や側近 そっきん としての繋 つな がりも持 も っていた[30] 。またこの頃 ころ の椎名 しいな は三木 みき 武夫 たけお を会長 かいちょう とする三木 みき 調査 ちょうさ 会 かい にも積極 せっきょく 的 てき に参加 さんか している。1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )11月の第 だい 30回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ では初 はつ の2位 い 当選 とうせん を果 は たした。この選挙 せんきょ について椎名 しいな は「初 はじ めて何 なに 一 ひと つ違反 いはん のない選挙 せんきょ をやり、すがすがしい気分 きぶん だった」と回想 かいそう した[30] 。
1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )の自民党 じみんとう 総裁 そうさい 選 せん は池田 いけだ と佐藤 さとう 栄作 えいさく によって争 あらそ われ、川島 かわじま 派 は は池田 いけだ を支持 しじ した。総裁 そうさい 選 せん は激戦 げきせん となったが池田 いけだ が制 せい して3選 せん された。池田 いけだ は川島 かわしま を副 ふく 総裁 そうさい に据 す え、椎名 しいな は第 だい 3次 じ 池田 いけだ 改造 かいぞう 内 ない 閣 かく の外務 がいむ 大臣 だいじん に就任 しゅうにん した[30] 。外相 がいしょう に就任 しゅうにん した際 さい はマスコミからは奇想天外 きそうてんがい 人事 じんじ と評 ひょう され、本人 ほんにん も「何 なん でこんな人事 じんじ を考 かんが えやがったんだ」と外相 がいしょう 就任 しゅうにん に難色 なんしょく を示 しめ していた。この人事 じんじ は前尾 まえお 繁 しげる 三郎 さぶろう の強 つよ い推薦 すいせん によるものであったとされる[30] 。同年 どうねん 9月 がつ 、池田 いけだ 首相 しゅしょう が喉頭 こうとう がん により入院 にゅういん し、10月25日 にち に退陣 たいじん が発表 はっぴょう された[31] 。
続 つづ いて組閣 そかく された第 だい 1次 じ 佐藤 さとう 内閣 ないかく でも外相 がいしょう に留任 りゅうにん 、「日本 にっぽん 国 こく と大韓民国 だいかんみんこく との間 あいだ の基本 きほん 関係 かんけい に関 かん する条約 じょうやく 」(日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく )の締結 ていけつ に向 む けて韓国 かんこく 側 がわ と交渉 こうしょう した[31] 。日 にち 韓 かん 交渉 こうしょう は椎名 しいな が政界 せいかい に入 はい る前 まえ の1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )から断続 だんぞく 的 てき に行 おこな われており[注 ちゅう 8] 、請求 せいきゅう 権 けん 問題 もんだい や漁業 ぎょぎょう 問題 もんだい では大筋 おおすじ で合意 ごうい していた[30] [33] [注 ちゅう 9] 。しかし、韓国 かんこく 内 ない ではこのような合意 ごうい に対 たい して野党 やとう や学生 がくせい により「対 たい 日 にち 屈辱 くつじょく 外交 がいこう 反対 はんたい 」が叫 さけ ばれており、韓国 かんこく の政情 せいじょう 不安 ふあん も有 あ って交渉 こうしょう は度々 どど 中断 ちゅうだん された[30] 。この頃 ころ に残 のこ された両国 りょうこく の問題 もんだい は、日 にち 韓 かん 併合 へいごう 条約 じょうやく の有効 ゆうこう 性 せい と韓国 かんこく 政府 せいふ の管轄 かんかつ 権 けん であった。日 にち 韓 かん 併合 へいごう 条約 じょうやく については日本 にっぽん は昭和 しょうわ 20年 ねん の無効 むこう を主張 しゅちょう し、韓国 かんこく は当初 とうしょ から違法 いほう であり無効 むこう であると主張 しゅちょう した。また、管轄 かんかつ 権 けん については、日本 にっぽん は韓国 かんこく の支配 しはい 領域 りょういき は北緯 ほくい 38度 ど 以南 いなん と主張 しゅちょう し、韓国 かんこく は朝鮮半島 ちょうせんはんとう 全域 ぜんいき を管轄 かんかつ する唯一 ゆいいつ の合法 ごうほう 正当 せいとう 政府 せいふ であると主張 しゅちょう した[31] 。これらについて椎名 しいな は交渉 こうしょう 相手 あいて の李 り 東元 ひがしもと 外務 がいむ 部 ぶ 長官 ちょうかん へ玉虫色 たまむしいろ の合意 ごうい を促 うなが すことで決着 けっちゃく を図 はか った。また、竹島 たけしま 領有 りょうゆう 権 けん 問題 もんだい も議題 ぎだい に挙 あ げなかった。李 り 東元 ひがしもと は朴 ぼく 正煕 せいき 大統領 だいとうりょう の承諾 しょうだく を得 え たうえで椎名 しいな の提案 ていあん を受 う け入 い れ、これらの問題 もんだい は棚上 たなあ げされた[34] 。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )2月 がつ 、韓国 かんこく の金浦 このうら 国際 こくさい 空港 くうこう に降 お り立 た った際 さい に、日本 にっぽん の過去 かこ を「深 ふか く反省 はんせい する」と声明 せいめい を述 の べ[注 ちゅう 10] 、また当意即妙 とういそくみょう な応答 おうとう でマスメディアを通 つう じて韓国 かんこく 世論 せろん の沈静 ちんせい 化 か に寄与 きよ し、日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく の仮調印 かりちょういん に漕 こ ぎ着 つ けた[31] [34] 。日本 にっぽん では椎名 しいな の訪韓 ほうかん に先立 さきだ って、椎名 しいな に対 たい する不信任 ふしんにん 決議 けつぎ 案 あん が日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう や民主 みんしゅ 社会党 しゃかいとう の議員 ぎいん から提出 ていしゅつ されていた[注 ちゅう 11] 。提出 ていしゅつ 理由 りゆう はこの訪韓 ほうかん は佐藤 さとう 内閣 ないかく が言明 げんめい していた懸案 けんあん の一括 いっかつ 解決 かいけつ に反 はん し、また、出発 しゅっぱつ 前 まえ の国会 こっかい 審議 しんぎ において訪韓 ほうかん の目的 もくてき を説明 せつめい せず、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 73条 じょう 違反 いはん にあたるなどとするものであったが、椎名 しいな の帰国 きこく 後 ご に決議 けつぎ 案 あん は否決 ひけつ された[37] 。椎名 しいな は請求 せいきゅう 権 けん 問題 もんだい で未 み 決定 けってい だった1億 おく ドル以上 いじょう とされた民間 みんかん 協力 きょうりょく の規模 きぼ を3億 おく ドル、また漁業 ぎょぎょう 協力 きょうりょく について4000万 まん ドルと金額 きんがく を定 さだ めた[34] 。4月3日 にち 、日 にち 韓 かん 両国 りょうこく 外相 がいしょう は東京 とうきょう で請求 せいきゅう 権 けん 、漁業 ぎょぎょう 、在日 ざいにち 韓国 かんこく 人 じん の法的 ほうてき 地位 ちい についての協定 きょうてい に仮調印 かりちょういん した。3協定 きょうてい の仮調印 かりちょういん 後 ご 、日 にち 韓 かん 両国 りょうこく では野党 やとう や学生 がくせい による反対 はんたい が相次 あいつ いだが[38] 、6月22日 にち に東京 とうきょう で日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく 及 およ び関連 かんれん 協定 きょうてい が両国 りょうこく 外相 がいしょう により正式 せいしき に調印 ちょういん された[34] [注 ちゅう 12] 。日 にち 韓 かん の新聞 しんぶん 各社 かくしゃ は妥結 だけつ 内容 ないよう に対 たい する不満 ふまん をそれぞれ社説 しゃせつ に掲載 けいさい した[39] 。
条約 じょうやく の批准 ひじゅん を巡 めぐ る、いわゆる「日 にち 韓国 かんこく 会 かい 」では日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう や日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう などの左派 さは 政党 せいとう が「朴 ほお 政権 せいけん は米国 べいこく の傀儡 かいらい 」として強硬 きょうこう に反対 はんたい していた。椎名 しいな は締結 ていけつ の責任 せきにん 者 しゃ として答弁 とうべん に立 た ったが、椎名 しいな の曖昧 あいまい な答弁 とうべん 姿勢 しせい は批判 ひはん された[34] [40] [41] 。11月9日 にち 、椎名 しいな に対 たい する不信任 ふしんにん 決議 けつぎ 案 あん が再 ふたた び提出 ていしゅつ された。提出 ていしゅつ 理由 りゆう は日 にち 韓 かん 両国 りょうこく で全 まった く意見 いけん の一致 いっち をみない重要 じゅうよう 事項 じこう について国民 こくみん に秘匿 ひとく して調印 ちょういん を行 おこな い、アメリカ 追従 ついしょう の外交 がいこう に終始 しゅうし することで日本 にっぽん の国民 こくみん 的 てき 利益 りえき とアジア の平和 へいわ に対 たい して重大 じゅうだい な障害 しょうがい を与 あた え、無責任 むせきにん で不 ふ 真面目 まじめ な国会 こっかい 答弁 とうべん をしたとされた。この不信任 ふしんにん 決議 けつぎ 案 あん の採決 さいけつ に先立 さきだ って中野 なかの 四郎 しろう らから答弁 とうべん 時間 じかん の制限 せいげん を設 もう ける動議 どうぎ が提出 ていしゅつ され可決 かけつ された。議長 ぎちょう の船田 ふなだ 中 なか は不信任 ふしんにん 決議 けつぎ 案 あん 提出 ていしゅつ 者 しゃ の楢崎 ならさき 弥之助 やのすけ 、西村 にしむら 関 せき 一 はじめ 、帆足 ほあし 計 はかる 、穂積 ほづみ 七郎 しちろう 、松本 まつもと 七郎 しちろう の趣旨 しゅし 弁明 べんめい や通告 つうこく されていた質疑 しつぎ を制限 せいげん 時間 じかん 超過 ちょうか を理由 りゆう として再三 さいさん 中止 ちゅうし させ、投票 とうひょう は翌日 よくじつ に延 のべ 会 かい された。翌 よく 10日 とおか 、椎名 しいな に対 たい する決議 けつぎ 案 あん は25票 ひょう 差 さ で否決 ひけつ され[42] [43] 、12日 にち に与党 よとう による強行 きょうこう 採決 さいけつ によって日 にち 韓 かん 基本 きほん 条約 じょうやく と諸 しょ 協定 きょうてい は衆議院 しゅうぎいん で可決 かけつ された[44] 。続 つづ いて参議院 さんぎいん でも与党 よとう の強行 きょうこう 採決 さいけつ により12月11日 にち に可決 かけつ され、波乱 はらん の国会 こっかい は幕 まく を閉 と じた[注 ちゅう 13] 。12月18日 にち にソウルで日 にち 韓 かん 条約 じょうやく 批准 ひじゅん 書 しょ 交換 こうかん 式 しき が椎名 しいな と李 り によって執 と り行 おこな われ、日 にち 韓 かん の国交 こっこう が正式 せいしき に結 むす ばれた[34] [40] [44] 。
外相 がいしょう 時代 じだい は、過去 かこ の日 にち 韓 かん 関係 かんけい に関 かん して社会党 しゃかいとう の戸 と 叶 かのう 里子 さとこ 議員 ぎいん から「深 ふか く反省 はんせい しているとはどういう意味 いみ か」と問 と われ「しみじみと反省 はんせい している、という意味 いみ でございます」と答弁 とうべん したり、日米 にちべい 安保 あんぽ 条約 じょうやく についての見解 けんかい を問 と われた際 さい に、「アメリカは日本 にっぽん の番犬 ばんけん であります」と発言 はつげん し、野党 やとう 議員 ぎいん から「大臣 だいじん 、そんなことを言 い っていいのか」と発言 はつげん の訂正 ていせい を促 うなが されると「番犬 ばんけん さまでございます」と表現 ひょうげん した[47] [48] 。こうしたおとぼけ・ユーモアは、本人 ほんにん の落語 らくご 好 す きに由縁 ゆえん している。また吉田 よしだ 書簡 しょかん 問題 もんだい では、この外交 がいこう 政策 せいさく に関 かか わった書簡 しょかん を私信 ししん と位置付 いちづ けて公表 こうひょう に反対 はんたい し続 つづ けた[48] 。この様 よう な椎名 しいな の所作 しょさ により、椎名 しいな を名 めい 外相 がいしょう と評価 ひょうか する立場 たちば からも、「ものぐさ椎名 しいな 」と揶揄 やゆ されている[40] [48] 。1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )1月 がつ には外相 がいしょう としては戦後 せんご 初 はつ となるソ連 それん へ訪問 ほうもん し、アレクセイ・コスイギン 首相 しゅしょう やアンドレイ・グロムイコ 外相 がいしょう と会談 かいだん の末 すえ 、日 にち ソ航空 こうくう 協定 きょうてい 、日 にち ソ貿易 ぼうえき 協定 きょうてい に調印 ちょういん した[48] [49] [50] 。
交友 こうゆう クラブを継承 けいしょう [ 編集 へんしゅう ]
1966年 ねん 12月の第 だい 1次 じ 佐藤 さとう 第 だい 3次 じ 改造 かいぞう 内 ない 閣 かく では椎名 しいな は外相 がいしょう を解 と かれ、自民党 じみんとう 総務 そうむ 会長 かいちょう に就任 しゅうにん した。1年 ねん 足 た らず総務 そうむ 会長 かいちょう を務 つと めた後 のち 、1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )11月の第 だい 2次 じ 佐藤 さとう 第 だい 1次 じ 改造 かいぞう 内 ない 閣 かく で再 ふたた び通産 つうさん 相 しょう に就任 しゅうにん した。1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )に川島 かわしま 正次 まさつぐ 郎 ろう 副 ふく 総裁 そうさい が急死 きゅうし する。椎名 しいな は同志 どうし から全員 ぜんいん 一致 いっち の推薦 すいせん を受 う け交友 こうゆう クラブ(川島 かわじま 派 は )を継承 けいしょう し、川島 かわじま 派 は は椎名 しいな 派 は となった。当時 とうじ の椎名 しいな 派 は は衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 19人 にん 、参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 4人 にん の中 なか 間 あいだ 派閥 はばつ であった。椎名 しいな は赤城 あかぎ 宗徳 むねのり と浜野 はまの 清吾 せいご を相談役 そうだんやく に任 にん じ、松沢 まつざわ 雄 つよし 蔵 ぞう を同派 どうは の幹事 かんじ 長 ちょう 格 かく として交友 こうゆう クラブを運営 うんえい した[49] [51] 。また、椎名 しいな は川島 かわしま が務 つと めていた日本 にっぽん プロレスリングコミッション のコミッショナー も翌年 よくねん に引 ひ き継 つ いでいる[52] 。
自民党 じみんとう 副 ふく 総裁 そうさい [ 編集 へんしゅう ]
1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )7月 がつ 、佐藤 さとう の後任 こうにん を巡 めぐ る自民党 じみんとう 総裁 そうさい 選 せん は、田中 たなか 角栄 かくえい と福田 ふくだ 赳夫 たけお を主体 しゅたい として争 あらそ われた。椎名 しいな は椎名 しいな 派 は を率 ひき いて田中 たなか を支持 しじ し、田中 たなか が総裁 そうさい に就任 しゅうにん した[51] 。翌 よく 8月 がつ 、椎名 しいな は田中 たなか により自民党 じみんとう 副 ふく 総裁 そうさい に起用 きよう された[49] [注 ちゅう 14] 。田中 たなか は日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を決断 けつだん し、9月に椎名 しいな を政府 せいふ 特使 とくし に任 にん じて台湾 たいわん に対 たい する理解 りかい を求 もと めるため訪台 ほうたい させた。椎名 しいな は蔣経国 こく 行政 ぎょうせい 院長 いんちょう 、沈昌煥 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 外交 がいこう 部長 ぶちょう らと会談 かいだん して日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 回復 かいふく の政府 せいふ 方針 ほうしん を説明 せつめい したが、反対 はんたい するデモ隊 たい から激 はげ しい抗議 こうぎ を受 う けた[49] 。椎名 しいな は中華民国 ちゅうかみんこく 民意 みんい 代表 だいひょう との座談 ざだん 会 かい において、台湾 たいわん との外交 がいこう 関係 かんけい も含 ふく めたあらゆる関係 かんけい を維持 いじ した上 うえ で、日 にち 中 ちゅう 正常 せいじょう 化 か 交渉 こうしょう を進 すす めるべきことが決定 けってい されたとする考 かんが えを公式 こうしき に示 しめ した。しかし、これは自民党 じみんとう の方針 ほうしん とは異 こと なるものであり、蔣からは厳 きび しく追及 ついきゅう され、大平 おおひら からは「儀礼 ぎれい 的 てき なもの」と突 つ き放 はな された[54] 。椎名 しいな が台湾 たいわん から帰国 きこく すると田中 たなか 首相 しゅしょう と大平 おおひら 外相 がいしょう は北京 ぺきん で周 しゅう 恩来 おんらい 首相 しゅしょう と会談 かいだん して、日 にち 中 ちゅう 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か が合意 ごうい され、文書 ぶんしょ に調印 ちょういん された。大平 おおひら は日 にち 華 はな 条約 じょうやく 破棄 はき と日 にち 台 たい 国交 こっこう 断絶 だんぜつ を宣言 せんげん した[49] 。
1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )になると金 きむ 大中 でじゅん 事件 じけん や文 ぶん 世 よ 光 こう 事件 じけん により日 にち 韓 かん 関係 かんけい は険悪 けんあく 化 か した。9月に椎名 しいな は田中 たなか の要請 ようせい を受 う けて訪韓 ほうかん し、この問題 もんだい の鎮静 ちんせい 化 か に向 む けて朴 ほお 大統領 だいとうりょう と会談 かいだん した[49] 。椎名 しいな は文 ぶん 世 よ 光 こう 事件 じけん の発生 はっせい を謝罪 しゃざい し、事件 じけん の再発 さいはつ 防止 ぼうし 策 さく 、韓国 かんこく への捜査 そうさ 協力 きょうりょく 、反 はん 韓 かん 活動 かつどう の取 と り締 し まりなどを約束 やくそく する田中 たなか の書簡 しょかん を朴 ほお に手渡 てわた した[55] 。この会談 かいだん により日 にち 韓 かん 関係 かんけい の悪化 あっか は収拾 しゅうしゅう に向 む かい、韓国 かんこく 内 ない の反日 はんにち デモは終息 しゅうそく した[56] 。
1974年 ねん 7月 がつ の第 だい 10回 かい 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 通常 つうじょう 選挙 せんきょ で自民党 じみんとう は不調 ふちょう に終 お わり、三木 みき 武夫 たけお 副 ふく 総理 そうり と福田 ふくだ 赳夫 たけお 蔵相 ぞうしょう は田中 たなか 角栄 かくえい 首相 しゅしょう の政治 せいじ 手法 しゅほう を批判 ひはん して辞任 じにん し、田中 たなか 内閣 ないかく は苦 く 況 きょう に追 お い込 こ まれた。
椎名 しいな は田中 たなか に党 とう 改革 かいかく を進言 しんげん した。田中 たなか はこの提案 ていあん を受入 うけい れ、8月 がつ 1日 にち に椎名 しいな を会長 かいちょう とする「党 とう 基本 きほん 問題 もんだい 及 およ び運営 うんえい に関 かん する調査 ちょうさ 会 かい 」(椎名 しいな 調査 ちょうさ 会 かい )が設置 せっち された。そこへは各 かく 会派 かいは の有力 ゆうりょく 者 しゃ が参加 さんか して党 とう の改革 かいかく 議論 ぎろん が行 おこな われた[57] 。田中 たなか 金脈 きんみゃく 問題 もんだい により、田中 たなか は11月に退陣 たいじん を表明 ひょうめい する[57] 。田中 たなか は後継 こうけい 総裁 そうさい の指名 しめい を椎名 しいな に委任 いにん した。椎名 しいな は総裁 そうさい 選 せん を行 おこな わずに話 はな し合 あ いによる決着 けっちゃく を目指 めざ した[57] 。12月1日 にち 、椎名 しいな は大平 おおひら 正芳 まさよし 、福田 ふくだ 赳夫 たけお といった大 だい 派閥 はばつ の領袖 りょうしゅう ではなく、少数 しょうすう 派閥 はばつ の三木 みき 武夫 たけお を新 しん 総裁 そうさい に指名 しめい する裁定 さいてい を出 だ した(椎名 しいな 裁定 さいてい )。この裁定 さいてい は三木 みき 自身 じしん が「青天 せいてん の霹靂 へきれき だ」と語 かた ったように驚 おどろ きをもって迎 むか えられた[58] [59] 。ただし三木 みき や中曽根 なかそね 康弘 やすひろ はこの裁定 さいてい を事前 じぜん に知 し っていたという説 せつ も根強 ねづよ い[60] [注 ちゅう 15] 。世論 せろん は「金権 きんけん 田中 たなか 」から代 か わる「クリーン三木 みき 」を歓迎 かんげい した[59] 。
椎名 しいな は1974年 ねん 12月9日 にち に発足 ほっそく した三木 みき 内閣 ないかく でも副 ふく 総裁 そうさい に留任 りゅうにん した[59] [62] 。「三 さん 賢人 けんじん の会 かい 」の一人 ひとり である灘 なだ 尾 お 弘吉 ひろきち を党 とう 総務 そうむ 会長 かいちょう に推挽 すいばん し三 さん 木内 きうち 閣 かく を通 つう じて党 とう 改革 かいかく に取 と り組 く もうとするが、早 はや くも三木 みき との間 あいだ に党 とう 改革 かいかく ・近代 きんだい 化 か をめぐり亀裂 きれつ が生 しょう じる。椎名 しいな は三木 みき の打 う ち出 だ した政治 せいじ 資金 しきん 規正 きせい 法 ほう 改正 かいせい 問題 もんだい に異 こと を唱 とな えた。三木 みき は企業 きぎょう 献金 けんきん 全廃 ぜんぱい を提案 ていあん したが、椎名 しいな の党 とう 改革 かいかく 思想 しそう は小 しょう 選挙 せんきょ 区 く 制 せい の導入 どうにゅう のために献金 けんきん を個人 こじん ではなく党 とう に集 あつ めることを目論 もくろ んでおり、三木 みき の姿勢 しせい は許容 きょよう できるものでは無 な かった[62] 。更 さら にロッキード事件 じけん や独占 どくせん 禁止 きんし 法 ほう 改正 かいせい 、党内 とうない 改革 かいかく をめぐり、椎名 しいな の三木 みき 首相 しゅしょう への不満 ふまん は嵩 こう じ、三木 みき の政策 せいさく を徹底 てってい して批判 ひはん した。そんな椎名 しいな に対 たい して「椎名 しいな 院政 いんせい 」という表現 ひょうげん もされた[62] 。こうした椎名 しいな の不満 ふまん はやがて「三木 みき 降 お ろし 」へと繋 つな がっていく。
1976年 ねん (昭和 しょうわ 51年 ねん )5月 がつ 、椎名 しいな は田中 たなか 、福田 ふくだ 、大平 おおひら と三木 みき 退陣 たいじん を求 もと めることで一致 いっち した。ロッキード事件 じけん の解明 かいめい に注力 ちゅうりょく していた三木 みき はこの退陣 たいじん 要求 ようきゅう を拒絶 きょぜつ した[63] 。この椎名 しいな による「三木 みき 降 お ろし」は「ロッキード隠 かく し」と受 う け止 と められ世論 せろん の激 はげ しい批判 ひはん を浴 あ びた。福田 ふくだ と大平 おおひら は椎名 しいな との会談 かいだん の事実 じじつ を隠 かく し、三木 みき の元 もと には激励 げきれい の声 こえ が溢 あふ れた[63] 。6月、灘 なだ 尾 お 総務 そうむ 会長 かいちょう の仲裁 ちゅうさい を椎名 しいな と三木 みき は受 う け入 い れ、椎名 しいな の三木 みき 降 お ろしは失敗 しっぱい に終 お わった。これにより椎名 しいな の政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく は急激 きゅうげき に減退 げんたい した[64] 。田中 たなか が逮捕 たいほ された後 のち の8月 がつ 19日 にち 、田中 たなか 派 は は大平 おおひら 派 は 、福田 ふくだ 派 は 、椎名 しいな 派 は 、船田 ふなだ 派 は 、水田 すいでん 派 は を結集 けっしゅう して挙党 きょとう 体制 たいせい 確立 かくりつ 協議 きょうぎ 会 かい (挙党 きょとう 協 きょう )を結成 けっせい し、新 あら たな三木 みき 降 お ろしを主導 しゅどう した。三木 みき は挙党 きょとう 協 きょう に解散 かいさん 権 けん を封 ふう じられたが、退陣 たいじん 要求 ようきゅう はここでも拒絶 きょぜつ し、9月に内閣 ないかく 改造 かいぞう 、党 とう 役員 やくいん 改選 かいせん を経 へ て12月5日 にち の任期 にんき 満了 まんりょう にともなう第 だい 34回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ で敗北 はいぼく し退陣 たいじん を余儀 よぎ なくされた[64] 。椎名 しいな 裁定 さいてい で三木 みき を推挙 すいきょ した椎名 しいな が三木 みき 降 お ろしに回 まわ ったことについて、椎名 しいな は「産 う みの親 おや だが、育 そだ てるとは言 い ったことはない」と答 こた えた[62] 。同年 どうねん 12月 がつ 24日 にち 、後任 こうにん の首相 しゅしょう には福田 ふくだ が就任 しゅうにん した[65] 。福田 ふくだ 政権 せいけん 発足 ほっそく とともに椎名 しいな は副 ふく 総裁 そうさい から退 しりぞ いた[64] 。
椎名 しいな は長 なが らく東京 とうきょう 都 と 渋谷 しぶや 区 く 広尾 ひろお に居住 きょじゅう していたが、1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )6月 がつ に神奈川 かながわ 県 けん 川崎 かわさき 市 し 多摩 たま 区 く 生田 いくた に居所 きょしょ を移 うつ した[64] 。同年 どうねん 10月 がつ に後援 こうえん 会 かい 幹部 かんぶ に政界 せいかい 引退 いんたい の内意 ないい を伝 つた え、椎名 しいな 後援 こうえん 会 かい は後継 こうけい 者 しゃ に次男 じなん の素夫 もとお を決定 けってい した[64] 。翌 よく 1979年 ねん (昭和 しょうわ 54年 ねん )6月 がつ に老人 ろうじん 性 せい 結核 けっかく と下半身 かはんしん の筋 すじ 萎縮 いしゅく 症 しょう の治療 ちりょう のため慶応 けいおう 病院 びょういん へ入院 にゅういん し、同年 どうねん の第 だい 35回 かい 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 総 そう 選挙 せんきょ には出馬 しゅつば せず、その選挙 せんきょ 期間 きかん 中 ちゅう の9月30日 にち に入院 にゅういん 先 さき の慶応 けいおう 病院 びょういん で死去 しきょ した[2] [64] 。81歳 さい 没 ぼつ 。
椎名 しいな の人 ひと となりは ものぐさで寡黙 かもく 、茫洋 ぼうよう 、内気 うちき な性格 せいかく として知 し られ、その様 よう は「暗闇 くらやみ の牛 うし 」と形容 けいよう された[40] [66] 。夫人 ふじん の公枝 きみえ は自著 じちょ の「秋 あき をよぶ雨 あめ 」[67] において自宅 じたく での椎名 しいな の面倒 めんどう くさがり屋 や で寡黙 かもく な逸話 いつわ を披露 ひろう している[68] 。座右 ざゆう の銘 めい は「菜根 さいこん 譚 たん 」の中 なか から「不 ふ 如省事 ごと (事 こと を省 はぶ くにしかず)」を見 み つけた「省 しょう 事 ごと 」[64] 。物事 ものごと を処理 しょり する時 とき は些細 ささい で煩雑 はんざつ なことはなるべく切 き り捨 す てて、根幹 こんかん を成 な す部分 ぶぶん を簡単 かんたん 明瞭 めいりょう に掴 つか むことが大切 たいせつ である、枝葉 えだは 末節 まっせつ にこだわり大切 たいせつ な根本 こんぽん をおろそかにしないということを人生 じんせい 訓 くん とした[64] 。商工 しょうこう 省 しょう 時代 じだい は、大 だい 酒飲 さけの みで遊 あそ び好 す きの評判 ひょうばん [10] と、愛知 あいち 県庁 けんちょう 時代 じだい は給仕 きゅうじ にハンコ押 お しをさせるなど武勇 ぶゆう 伝 でん を残 のこ している[69] 。
椎名 しいな が外相 がいしょう を勤 つと めていた1965年 ねん には吉田 よしだ 茂 しげる に対 たい してのノーベル平和 へいわ 賞 しょう 受賞 じゅしょう 運動 うんどう が吉田 よしだ の周辺 しゅうへん や外務省 がいむしょう 幹部 かんぶ の間 あいだ で秘密裏 ひみつり に展開 てんかい された。椎名 しいな は佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう 、横田 よこた 喜三郎 きさぶろう 最高 さいこう 裁判所 さいばんしょ 長官 ちょうかん ・万国 ばんこく 国際 こくさい 法 ほう 学会 がっかい 会員 かいいん 、栗山 くりやま 茂 しげる ハーグ国際 こくさい 仲裁 ちゅうさい 裁判所 さいばんしょ 判事 はんじ ・国際 こくさい 法 ほう 協会 きょうかい 会長 かいちょう と連名 れんめい で吉田 よしだ の推薦 すいせん 状 じょう に名 な を連 つら ねている[70] [71] 。
1974年 ねん の文 ぶん 世 よ 光 こう 事件 じけん の際 さい に、自民党 じみんとう 副 ふく 総裁 そうさい の身分 みぶん で謝罪 しゃざい 特使 とくし として韓国 かんこく に派遣 はけん され[56] 、青瓦台 チョンワデ で朴 ぼく 正煕 せいき 大統領 だいとうりょう を訪問 ほうもん した後 のち には、「あのような屈辱 くつじょく 的 てき な使 つか いをしたのは初 はじ めてだ」と愚痴 ぐち をこぼしていたという[要 よう 出典 しゅってん ] 。なお、やはり自民党 じみんとう 副 ふく 総裁 そうさい であった1972年 ねん には中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との国交 こっこう 樹立 じゅりつ に伴 ともな い台湾 たいわん (中華民国 ちゅうかみんこく )への釈明 しゃくめい と今後 こんご の民間 みんかん 交流 こうりゅう 維持 いじ のための特使 とくし として派遣 はけん され、日本 にっぽん の不義理 ふぎり に憤激 ふんげき するデモ隊 たい から車 くるま に投石 とうせき されたこともあった[49] 。このことが後年 こうねん 、大平 おおひら 正芳 まさよし との関係 かんけい を悪化 あっか させたといわれる[72] 。しかしながら、蔣介石 せき の秘書 ひしょ を務 つと めた柯振華 はな によると、このデモは日本 にっぽん 側 がわ を威嚇 いかく するための台湾 たいわん 政府 せいふ に命 めい じられたいわばヤラセ で、参加 さんか 者 しゃ 全員 ぜんいん が手心 てごころ を加 くわ えており、物 もの を投 な げたり車列 しゃれつ を襲 おそ う頃合 ころあ いは警備 けいび 係 がかり が目配 めくば せをして指示 しじ を出 だ していたという[73] [74] 。
三 さん 賢人 けんじん の会 かい [ 編集 へんしゅう ]
1970年 ねん 頃 ころ から、前尾 まえお 繁 しげる 三郎 さぶろう ・灘 なだ 尾 お 弘吉 ひろきち と、いわゆる「三 さん 賢人 けんじん の会 かい 」と称 しょう された集 あつ まり[注 ちゅう 16] を料亭 りょうてい で持 も っていたが、自民党 じみんとう 副 ふく 総裁 そうさい や衆議院 しゅうぎいん 議長 ぎちょう を務 つと めた三 さん 人 にん の集 あつ まりにもかかわらず「政治 せいじ の話 はなし はほとんど出 で なかった」といわれる[注 ちゅう 17] 。
東京 とうきょう 市長 しちょう 、内務 ないむ 大臣 だいじん 、帝都 ていと 復興 ふっこう 院 いん 総裁 そうさい などを歴任 れきにん した後藤 ごとう 新平 しんぺい は叔父 おじ に当 あ たる。衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん 、参議院 さんぎいん 議員 ぎいん をつとめた椎名 しいな 素夫 もとお は二男 じなん 。妻 つま は、山口銀行 やまぐちぎんこう (大阪 おおさか ) の重役 じゅうやく 、森 もり 信 しん 敬二 けいじ の長女 ちょうじょ 公枝 きみえ 。森 もり 信 しん は1882年 ねん に広島 ひろしま 県 けん の多田 おおた 盤 ばん 造 づくり の六 ろく 男 おとこ として生 う まれ、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 法科 ほうか 大学 だいがく 政治 せいじ 科 か 卒業 そつぎょう 後 ご [75] 、町田 まちだ 忠治 ただはる の部下 ぶか として山口銀行 やまぐちぎんこう の再建 さいけん に貢献 こうけん した。
『産業 さんぎょう 団体 だんたい 法案 ほうあん に就て』重要 じゅうよう 産業 さんぎょう 統制 とうせい 団体 だんたい 協議 きょうぎ 会 かい 、1941年 ねん 2月 がつ 15日 にち 。NDLJP :1439152 。
戦時 せんじ 経済 けいざい と物資 ぶっし 調整 ちょうせい (1942年 ねん 、東亜 とうあ 政経 せいけい 社 しゃ <戦時 せんじ 経済 けいざい 国策 こくさく 大系 たいけい > 第 だい 1巻 かん )
軍需 ぐんじゅ 會社 かいしゃ 法 ほう に就て(1944年 ねん 、日本 にっぽん 工業 こうぎょう 倶樂部 くらぶ <經濟 けいざい 研究 けんきゅう 叢書 そうしょ > 第 だい 132輯)
『童話 どうわ と政治 せいじ 』東洋 とうよう 政治 せいじ 経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ 、1963年 ねん 6月 がつ 1日 にち 。NDLJP :2983092 。 ※椎名 しいな はこの著作 ちょさく において日本 にっぽん 帝国 ていこく 主義 しゅぎ を「栄光 えいこう の帝国 ていこく 主義 しゅぎ 」と表現 ひょうげん している。
^ 父親 ちちおや の広 ひろ は後藤 ごとう 家 か の婿養子 むこようし であり、悦三郎 えつさぶろう は婿養子 むこようし と後妻 ごさい との間 あい の子 こ である[4] 。
^ 同期 どうき 入省 にゅうしょう には重政 しげまさ 誠之 せいし がいる[5] 。
^ 実業 じつぎょう 部 ぶ は日本 にっぽん の商工 しょうこう 省 しょう と農林省 のうりんしょう にあたる。部長 ぶちょう は満 まん 洲 しゅう 人 じん であったが実権 じっけん は日本人 にっぽんじん 官僚 かんりょう の手 て に有 あ った[7] 。
^ 日本 にっぽん の重要 じゅうよう 産業 さんぎょう 統制 とうせい 法 ほう は主要 しゅよう 産業 さんぎょう のカルテル結成 けっせい を促 うなが して産業 さんぎょう の合理 ごうり 化 か を企図 きと していたが、満 まん 洲 しゅう の同 どう 法 ほう はその対極 たいきょく を企図 きと している[9] 。
^ 川島 かわしま 正次 まさつぐ 郎 ろう は旧 きゅう 政友 せいゆう 会 かい の前田 まえだ 米蔵 よねぞう に師事 しじ し、三好 みよし 英之 ひでゆき や野田 のだ 武夫 たけお は旧 きゅう 民政 みんせい 党 とう の大麻 たいま 唯男 ただお に師事 しじ していた。前田 まえだ と大麻 たいま は翼賛 よくさん 政治 せいじ 会 かい を取 と り仕切 しき っていた[10] 。
^ 後年 こうねん 、椎名 しいな はこの時 とき のことを振 ふ り返 かえ り、「あんまり警察 けいさつ が可哀相 かわいそう だから自首 じしゅ させたよ。」と述 の べている[26] 。
^ 公枝 きみえ 夫人 ふじん は椎名 しいな の選挙 せんきょ で精力 せいりょく 的 てき に夫 おっと を支 ささ え、代理 だいり として椎名 しいな の立会 たちあい 演説 えんぜつ 会 かい に登壇 とうだん したことも有 あ った[27] 。
^ 日 にち 韓 かん 国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か は交渉 こうしょう 初期 しょき の段階 だんかい から東 ひがし アジア戦略 せんりゃく としてアメリカが深 ふか く介入 かいにゅう しており、実態 じったい はアメリカを含 ふく めた3国 こく 間 あいだ 交渉 こうしょう であった[32] 。
^ 請求 せいきゅう 権 けん 問題 もんだい は1962年 ねん に大平 おおひら 正芳 まさよし 外相 がいしょう と金鍾泌 きんしょうひつ 中央 ちゅうおう 情報 じょうほう 部 ぶ 長官 ちょうかん とで行 おこな われ、合意 ごうい 内容 ないよう は無償 むしょう 3億 おく ドル、有償 ゆうしょう 2億 おく ドル、民間 みんかん 協力 きょうりょく 1億 おく ドルであった。また、漁業 ぎょぎょう 問題 もんだい では両国 りょうこく の農相 のうしょう による会談 かいだん により、李 り 承晩 しょうばん ライン の撤廃 てっぱい 、韓国 かんこく 沿岸 えんがん 12カイリ の漁業 ぎょぎょう 専管 せんかん 水域 すいいき の設置 せっち 、その外縁 がいえん に共同 きょうどう 規制 きせい 区域 くいき を設置 せっち して日本 にっぽん が漁業 ぎょぎょう 経済 けいざい 協力 きょうりょく を行 おこな うことで合意 ごうい されていた[30] 。
^ 帰国 きこく 後 ご の日本 にっぽん では椎名 しいな の韓国 かんこく に対 たい する謝罪 しゃざい について批判 ひはん がなされた。これに対 たい して椎名 しいな は「とにかく何 なん 回 かい 謝 あやま ってもいいのです」「謝 あやま れば謝 あやま るほどいい、それが日 にち 韓 かん 関係 かんけい をよくするために必要 ひつよう なことだ」と釈明 しゃくめい している[35] 。
^ 椎名 しいな は1月 がつ 25日 にち に訪韓 ほうかん の意向 いこう を表明 ひょうめい していた[36] 。
^ ただし条約 じょうやく 本文 ほんぶん に韓国 かんこく 側 がわ が主張 しゅちょう していた謝罪 しゃざい の文言 もんごん を盛 も り込 こ む事 こと は見送 みおく られた。またこれにより戦後 せんご 賠償 ばいしょう の請求 せいきゅう 権 けん が完了 かんりょう した事 こと が明文化 めいぶんか された。
^ この強行 きょうこう 採決 さいけつ は佐藤 さとう の指示 しじ により行 おこな われた。衆議院 しゅうぎいん の強行 きょうこう 採決 さいけつ を取 と り仕切 しき った船田 ふなだ と田中 たなか 伊 い 三 さん 次 じ 正 せい 副 ふく 議長 ぎちょう は、批准 ひじゅん 書 しょ 交換 こうかん 式 しき ののちにこの責任 せきにん を取 と って辞任 じにん した[45] [46] 。
^ 副 ふく 総裁 そうさい への就任 しゅうにん 要請 ようせい は台湾 たいわん への政府 せいふ 特使 とくし 就任 しゅうにん 要請 ようせい と同時 どうじ に行 おこな われた。当時 とうじ の椎名 しいな はなんの役職 やくしょく にも就 つ いていなかった為 ため 、田中 たなか は台湾 たいわん の体面 たいめん を保 たも つべく椎名 しいな を副 ふく 総裁 そうさい としたうえで政府 せいふ 特使 とくし に任 にん じた[53] 。
^ 政治 せいじ 評論 ひょうろん 家 か の三宅 みやけ 久之 ひさゆき によると、椎名 しいな が三木 みき を指名 しめい したのは、三木 みき にこの裁定 さいてい を辞退 じたい させることを予 あらかじ め内諾 ないだく させ、椎名 しいな 自身 じしん が総裁 そうさい になるための算段 さんだん であったが、三木 みき がそれに従 したが わなかったとされる[61] 。
^ この集 あつ まりについては、城山 しろやま 三郎 さぶろう 『賢人 けんじん たちの世 よ 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 〈文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 〉、1994年 ねん 1月 がつ 。ISBN 978-4167139155 。 に詳 くわ しい。しかしながらその記述 きじゅつ 内容 ないよう の信憑 しんぴょう 性 せい は三宅 みやけ 久之 ひさゆき により疑問 ぎもん が持 も たれている[61] 。
^ 本人 ほんにん たちは「ただ飯 めし を食 く ってバカ話 はなし をするだけ」と語 かた っていた[51] 。
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