黒金くろがね泰美やすみ

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黒金くろがね 泰美やすみ
くろがね やすみ
生年月日せいねんがっぴ (1910-11-25) 1910ねん11月25にち
出生しゅっしょう 北海道ほっかいどう
ぼつ年月日ねんがっぴ (1986-10-11) 1986ねん10月11にち(75さいぼつ
死没しぼつ 東京とうきょう品川しながわ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ
ぜんしょく 仙台せんだい国税局こくぜいきょくちょう
所属しょぞく政党せいとう 自由党じゆうとう自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう

内閣ないかく だい2池田いけだだい2改造かいぞうないかく
だい2池田いけだだい3改造かいぞうないかく
だい3池田いけだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1962ねん7がつ18にち - 1964ねん7がつ18にち

選挙せんきょ きゅう山形やまがた1
当選とうせん回数かいすう 9かい
在任ざいにん期間きかん 1952ねん - 1976ねん
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黒金くろがね 泰美やすみ(くろがね やすみ、1910ねん11月25にち - 1986ねん10月11にち)は、日本にっぽん大蔵おおくら官僚かんりょう政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん1981ねん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう父親ちちおや戦前せんぜん立憲りっけん民政みんせいとう代議士だいぎし黒金くろがねやすしよし

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

山形やまがたけん米沢よねざわ出身しゅっしん[1]北海道ほっかいどうまれ)。旧制きゅうせい武蔵むさし高校こうこうて、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ入学にゅうがく肺結核はいけっかく罹患りかんし4年間ねんかん病床びょうしょうごしたため、ひとのばいをかけ大学だいがく卒業そつぎょうする[2]

高文たかふみ一番いちばん合格ごうかく[3]1935ねん大蔵省おおくらしょう入省にゅうしょう理財りざいきょくぞく[4]戦後せんご津島つしま寿一ひさいち池田いけだ勇人はやとりょう蔵相ぞうしょう秘書官ひしょかんつとめる。ちち死後しごは、米沢よねざわちか赤湯あかゆまちげん南陽なんよう出身しゅっしん結城ゆうき豊太郎ほうたろう後見こうけんやくになったほか、郷里きょうり偉材いざいである池田いけだ成彬せいひんともせっする機会きかいおおかった[2]仙台せんだい国税局こくぜいきょくちょうつとめるおり池田いけだから「米沢よねざわ父君ふくん地盤じばんもあることだし、役人やくにんをやめて政治せいじにならないか」とすすめられ、1952ねん3月で退官たいかん同年どうねん10がつだい25かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょきゅう山形やまがた1から吉田よしだしげるひきいる自由党じゆうとう公認こうにん出馬しゅつばし、当選とうせん当選とうせん同期どうき福田ふくだ赳夫たけお植木うえきかのえろう内田うちだ常雄つねお丹羽にわたかし四郎しろうなだ弘吉ひろきち宇都宮うつのみや徳馬とくま加藤かとう精三せいぞう山崎やまざきいわおいま松治郎まつじろう重政しげまさ誠之せいし町村ちょうそんきん古井ふるいなど)[2]以後いご当選とうせん9かい

当選とうせん同期どうきである大平おおひら正芳まさよし翌年よくねん政界せいかいりの宮澤みやざわ喜一きいちとともに池田いけだ側近そっきんの「三羽さんばガラス」とばれ活躍かつやくする[5]自治じち政務次官せいむじかんて、1962ねんだい2池田いけだ内閣ないかく内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんとしてはつ入閣にゅうかく大成たいせい期待きたいされた(官房かんぼう長官ちょうかんとしてかれ前任ぜんにん大平おおひら正芳まさよし後任こうにん鈴木すずき善幸ぜんこうはいずれものち首相しゅしょうとなる)。しかし、1964ねん親交しんこうのあったしビルぎょう吹原ふきはら産業さんぎょう社長しゃちょう吹原ふきはらひろせんが、黒金くろがねからあずかっていた実印じついんもちいて保証書ほしょうしょ偽造ぎぞうし、そのにせ保証書ほしょうしょ悪用あくようして銀行ぎんこうから資金しきん不正ふせいそうとした事件じけん発覚はっかくした[5]

交友こうゆう関係かんけいにおける迂闊うかつさから信用しんようとし、その目立めだった活躍かつやくもなくなる。くろきり解散かいさんわれた1967ねんそう選挙せんきょったものの、1969ねんそう選挙せんきょでは落選らくせん。その、1972ねん補欠ほけつ選挙せんきょかえく。1975ねん9月には自民党じみんとう金融きんゆう問題もんだい調査ちょうさ会長かいちょう初代しょだい)にく。しかし、1976ねんそう選挙せんきょふたた落選らくせん食道しょくどうがんわずら政界せいかいから引退いんたい[5]

1986ねん10月11にち東京とうきょう品川しながわ病院びょういん心不全しんふぜんのため死去しきょ。75さいぼつ[5]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

えんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 朝日あさひ人物じんぶつ事典じてん』、246ぺーじ
  2. ^ a b c しん人国記じんこくきだい2〉』p.57
  3. ^ 一木いちきゆたか蔵相ぞうしょう時代じだい決断けつだん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1984ねん10がつ発行はっこう、411ぺーじ
  4. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん11月発行はっこう、309ぺーじ
  5. ^ a b c d 黒金くろがね泰美やすみ死去しきょ」『朝日新聞あさひしんぶん』1986ねん10がつ12にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 朝日新聞社あさひしんぶんしゃへんしん人国記じんこくきだい2〉』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1963ねん
公職こうしょく
先代せんだい
大平おおひら正芳まさよし
日本の旗 内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかん
だい23 - 25だい:1962ねん - 1964ねん
次代じだい
鈴木すずき善幸ぜんこう