(Translated by https://www.hiragana.jp/)
森恪 - Wikipedia コンテンツにスキップ

もりつとむ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
もりつとむ
もり かく
生年月日せいねんがっぴ 1883ねん2がつ28にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 大阪おおさか大阪おおさか西にし
ぼつ年月日ねんがっぴ (1932-12-11) 1932ねん12月11にち(49さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 神奈川かながわけん鎌倉かまくら
出身しゅっしんこう 東京とうきょう商工しょうこう中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 実業じつぎょう
所属しょぞく政党せいとう 立憲りっけん政友せいゆうかい
配偶はいぐうしゃ 瓜生うりゅう栄枝さかえ
親族しんぞく 義父ぎふ瓜生うりゅう外吉そときち貴族きぞくいん議員ぎいん

内閣ないかく いぬやしなえ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1931ねん12月13にち - 1932ねん5月26にち

選挙せんきょ神奈川かながわけんだい7選挙せんきょ→)
栃木とちぎけんだい7選挙せんきょ→)
栃木とちぎけんだい1選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 5かい
在任ざいにん期間きかん 1920ねん - 1924ねん1がつ31にち
1925ねん - 1932ねん12月11にち

その職歴しょくれき
立憲りっけん政友せいゆうかい幹事かんじちょう
1929ねん4がつ28にち - 1931ねん3月29にち
テンプレートを表示ひょうじ

もり つとむ(もり かく、1883ねん明治めいじ16ねん2がつ28にち - 1932ねん昭和しょうわ7ねん12月11にち)は、昭和しょうわ戦前せんぜん日本にっぽん実業じつぎょう政治せいじ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんの「つとむ」を「かく」ともむが、本来ほんらいみは「つとむ」[1]

東洋とうようセシル・ローズ」を自認じにんした帝国ていこく主義しゅぎもの軍部ぐんぶ提携ていけいし、日本にっぽん中国ちゅうごく侵出しんしゅつおおきな役割やくわりたした。また、三井物産みついぶっさん天津てんしん支店してんちょう中国ちゅうごく興業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょう田中たなか義一ぎいち内閣ないかく外務がいむ政務次官せいむじかん(1927ねん昭和しょうわ2ねん)4がつ22にち任命にんめい - 1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ27にちめん[2]いぬやしなえあつし内閣ないかく内閣ないかく書記官しょきかんちょう(1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月13にち任命にんめい - 1932ねん昭和しょうわ7ねん辞任じにん[3]立憲りっけん政友せいゆうかい幹事かんじちょう(1929ねん昭和しょうわ4ねん)4がつ28にち - 1931ねん昭和しょうわ6ねん)3がつ29にち[4]つとめた。

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

1883ねん2がつ28にち[5]大阪おおさか大阪おおさか西にし江戸えどまれる。ちち判事はんじ大阪おおさか市議会しぎかい議長ぎちょうつとめたもり作太郎さくたろう慶應義塾けいおうぎじゅく幼稚ようちしゃ卒業そつぎょうしたが、成績せいせき不良ふりょう素行そこう不良ふりょうのため慶應義塾けいおうぎじゅく普通ふつうすすめず、大阪おおさか帰郷ききょう。その東京とうきょう商工しょうこう中学校ちゅうがっこう最終さいしゅう学歴がくれき)を卒業そつぎょう1901ねん明治めいじ34ねん東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこうげん一橋大学ひとつばしだいがく入学にゅうがく試験しけん合格ごうかくとなる。

ちち旧知きゅうちなかであった三井物産みついぶっさん上海しゃんはい支店してんちょうで、後年こうねん立憲りっけん政友せいゆうかい幹事かんじちょうみなみ満州まんしゅう鉄道てつどう総裁そうさい歴任れきにんするやま本条ほんじょう太郎たろう縁故えんこで、どう支店してんささえ修業しゅうぎょうせい留学生りゅうがくせい)として中国ちゅうごくわたる。上海しゃんはい支店してん社員しゃいん時代じだい中国ちゅうごく北京ぺきん広東かんとん)、英語えいごつうじたほか、にち戦争せんそうでは、東シナ海ひがししなかい洋上ようじょう接近せっきんするバルチック艦隊かんたい航跡こうせきをいちはや発見はっけん打電だでんして日本海にほんかい海戦かいせん勝利しょうり民間みんかんから貢献こうけんした。また、からし革命かくめいではまごぶんたい革命かくめい資金しきん斡旋あっせんおこなった。三井物産みついぶっさん天津てんしん支店してんちょうて、1913ねん大正たいしょう2ねん中国ちゅうごく興業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ翌年よくねん中日ちゅうにち実業じつぎょう」と改称かいしょう)を創立そうりつし、1916ねん大正たいしょう5ねん)にうえなかなおあきらともとうれん炭砿たんこう鉱業こうぎょうけんると、よく1917ねん大正たいしょう6ねん)より東洋とうよう炭砿たんこう小田原おだわら紡績ぼうせき東洋とうようあいぎょう東洋とうよう製鉄せいてつなど次々つぎつぎ事業じぎょうおこして事業じぎょうとなった。

1918ねん大正たいしょう7ねん)に政友せいゆうかい入党にゅうとうして政界せいかい進出しんしゅつとう多額たがく献金けんきん推定すいてい5まんえん)をする。1920ねん大正たいしょう9ねん)に三井物産みついぶっさん退社たいしゃし、政友せいゆうかい公認こうにん神奈川かながわけんだい7足柄上あしがらかみぐん足柄下あしがらしもぐん)からだい14かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ立候補りっこうほし、大正たいしょう9ねん当時とうじとしては最年少さいねんしょうまん37さいはつ当選とうせん選挙せんきょ多額たがく資金しきんをつぎみ、かね出所しゅっしょをめぐり「まんてつ事件じけん」といわれる疑獄ぎごく事件じけん発展はってんしている。この疑惑ぎわくがたたり、つぎだい15かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは落選らくせんする。そのあいだ1923ねん大正たいしょう12ねん)には政友せいゆうかい院内いんない幹事かんじとなっている。1925ねん大正たいしょう14ねん)、栃木とちぎけん選出せんしゅつ横田よこたせんこれすけくなると、横田よこた地盤じばんいで補欠ほけつ選挙せんきょ当選とうせんし、国政こくせい復帰ふっきする。1927ねん昭和しょうわ2ねん田中たなか義一ぎいち内閣ないかく外務がいむ政務次官せいむじかん就任しゅうにんする。当選とうせん2かいでありながら政務次官せいむじかんとなるのは異例いれいのことであったため、党内とうないからは反対はんたいろん噴出ふんしゅつしたが、院外団いんがいだん支持しじと、もり地盤じばんいだ横田よこたせんこれすけ田中たなか義一ぎいち陸軍りくぐんから政界せいかい進出しんしゅつさせた立役者たてやくしゃであったため、就任しゅうにんにこぎつけた。田中たなか義一ぎいち首相しゅしょう外務がいむ大臣だいじんげん政務せいむかん)を兼摂けんせつ兼任けんにん)したため、もり外務がいむ政務次官せいむじかんながら事実じじつじょう外相がいしょうとして辣腕らつわんるう。田中たなか政権せいけんたい中国ちゅうごく強硬きょうこう外交がいこう強力きょうりょく推進すいしんし、山東さんとう出兵しゅっぺい東方とうほう会議かいぎ開催かいさいなどに奔走ほんそうした。また満蒙まもう生命せいめいろん考案こうあんし、(1927ねん昭和しょうわ2ねん)6がつ27にちから7がつ7にちまで、東京とうきょう外務がいむ大臣だいじん官邸かんていひらかれた東方とうほう会議かいぎうちにおいて、もりはじめて発言はつげん提案ていあんした(今日きょう満蒙まもう日本にっぽん生命せいめいせん」とは、1931ねん昭和しょうわ6ねん)にのちに松岡まつおか洋右ようすけ外相がいしょうはじめてとなえた[6] とされるがこれはあやまりであり当時とうじ、「外務がいむ事務次官じむじかん吉田よしだしげるほかきし信介しんすけ佐藤さとう栄作えいさく松岡まつおか洋右ようすけらは」もり部下ぶかである。)。たいはな21カ条かじょう要求ようきゅう [7]起因きいんする1922ねん山東さんとう懸案けんあん解決かいけつかんする条約じょうやくひとしにより一旦いったん解決かいけつをみた山東さんとう問題もんだい山東さんとう条項じょうこう)を山東さんとう出兵しゅっぺいによりかえし、万里ばんり長城ちょうじょう以北いほくみつるこうむ内モンゴル自治うちもんごるじちふくむ『リットン調査ちょうさだん』の報告ほうこくしょ参照さんしょう)を中国ちゅうごく本土ほんどから分離ぶんりすることを目論もくろみ、東方とうほう会議かいぎないにおいてちょうさくくらげき(やみうち)を提案ていあんし、ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん(1928ねん6がつ4にち)、満州まんしゅう事変じへん-やなぎじょうみずうみ事件じけん(1931ねん9がつ18にち)にも関係かんけいりざたされ、もり死後しご関東軍かんとうぐん軍部ぐんぶ暴走ぼうそう盧溝橋ろこうきょう事件じけん(1937ねん7がつ7にちささえ事変じへん-にちちゅう戦争せんそう開戦かいせん」)がおきることになる。

田中たなか内閣ないかくそう辞職じしょくすると、1929ねん昭和しょうわ4ねん政友せいゆうかい幹事かんじちょう就任しゅうにんする。ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくをめぐり、1931ねん昭和しょうわ6ねん)2がつ首相しゅしょう臨時りんじ代理だいりぬさはら喜重郎きじゅうろう外相がいしょう攻撃こうげきし、濱口はまぐち内閣ないかくさぶる。だい2若槻わかつき内閣ないかくて、同年どうねん12月13にち政友せいゆうかいいぬやしなえ内閣ないかく成立せいりつすると内閣ないかく書記官しょきかんちょうとなる。しかし、軍部ぐんぶとの関係かんけい政治せいじ基盤きばんとしていたもりと、生粋きっすい政党せいとう政治せいじであるいぬやしなえは、大陸たいりく政策せいさくをめぐって対立たいりつする。もりいぬようたいして内閣ないかく改造かいぞう提言ていげんするがれられず、辞表じひょう提出ていしゅつあずかりとされる。1932ねん昭和しょうわ7ねん5月15にちいち事件じけんでは、会心かいしんみをらした様子ようすかたられている。

生前せいぜんいぬやしなえはげしく対立たいりつしており、閣議かくぎせきで「軍人ぐんじんころされるぞ」とべたことや、政友せいゆうかい幹事かんじ久原くはら房之助ふさのすけが「もり兵隊へいたいころさせるという情報じょうほうはいっている」と、いぬやしなえ親族しんぞく連絡れんらくしたことから、暗殺あんさつ手引てびきしたともわれていた。

同年どうねん7がつ発病はつびょう12月11にち持病じびょう喘息ぜんそく肺炎はいえん併発へいはつし、滞在たいざいさき鎌倉かまくら海浜かいひんホテルにて十河そごう信二しんじ鳩山はとやま一郎いちろうかおる夫妻ふさい看取みとられ死去しきょ。49さいぼつ享年きょうねん50)。墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん

栄典えいてん

[編集へんしゅう]

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

つま男爵だんしゃく瓜生うりゅう外吉そときち海軍かいぐん大将たいしょう繁子しげこ夫妻ふさいさんじょである瓜生うりゅう栄枝さかえ繁子しげこ益田ますだたかしいもうと長男ちょうなんもりしん二男じなんもりたく長女ちょうじょもり禎子さだこ

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 山浦やまうら寛一かんいち 編修へんしゅう もりつとむ伝記でんき編纂へんさんかい 発行はっこうもりつとむ高山たかやま書院しょいん 1941ねん昭和しょうわ16ねん
  • 幼稚ようちしゃ家族かぞく著者ちょしゃ吉田よしだ小五郎こごろうせいきょうしゃ 非売品ひばいひん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ もりつとむ(もり つとむ) | 近代きんだい日本人にっぽんじん肖像しょうぞう - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  2. ^ 官報かんぽうだい93ごう叙任じょにん及辞れい昭和しょうわ2ねん4がつ23にち
  3. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」、昭和しょうわ6ねん12月13にち
  4. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん
  5. ^ 2がつ28にち戸籍こせきうえ誕生たんじょうで、実際じっさい誕生たんじょう前年ぜんねんの1882ねん明治めいじ15ねん12月28にち
  6. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 春秋しゅんじゅう 2015ねん4がつ10日とおか 3:30 https://www.nikkei.com/article/DGXKZO85515410Q5A410C1MM8000/
  7. ^ だいいち世界せかい大戦たいせんなか1915ねん1がつ18にち日本にっぽん中国ちゅうごくたいしてった満蒙まもうにおける日本にっぽん権益けんえき問題もんだいざいはな日本人にっぽんじん条約じょうやくじょう法益ほうえき保護ほご問題もんだいをめぐる21かじょう要求ようきゅう希望きぼうのこと江口えぐち圭一けいいち「1910-30年代ねんだい日本にっぽん アジア支配しはいへの」『岩波いわなみ講座こうざ 日本にっぽん通史つうし だい18かん 近代きんだい3』岩波書店いわなみしょてん、1994ねん7がつ28にちISBN 4-00-010568-X、18~22ぺーじ
  8. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  9. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん
先代せんだい
川崎かわさき卓吉たくきち
内閣ないかく書記官しょきかんちょう
1931ねん - 1932ねん
次代じだい
柴田しばたよし三郎さぶろう