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みなみまんしゅう鉄道てつどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ
The South Manchuria Railway Co., Ltd.
社章
大連たいれんみなみまんしゅう鉄道てつどう本社ほんしゃ
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
本社ほんしゃ所在地しょざいち 清の旗 きよし大連たいれん日本にっぽん租借そしゃく関東かんとうしゅう)(1906-11)
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく大連たいれん日本にっぽん租借そしゃく関東かんとうしゅう)(1911-33)
満洲国の旗 まんしゅうこく奉天ほうてん(1933-43、鉄路てつろ総局そうきょく
満洲国の旗 まんしゅうこくしんきょう(1943-45)
本店ほんてん所在地しょざいち 関東かんとうしゅう大連たいれん東公園ひがしこうえんまち30
設立せつりつ 1906ねん11月26にち
事業じぎょう内容ないよう 旅客りょかく鉄道てつどう事業じぎょう貨物かもつ鉄道てつどう事業じぎょうほか
代表だいひょうしゃ とう項目こうもく歴代れきだい代表だいひょうしゃふし参照さんしょう
資本しほんきん とう項目こうもく資本しほんきんふし参照さんしょう
売上うりあげだか とう項目こうもく営業えいぎょう実績じっせきふし参照さんしょう
主要しゅよう株主かぶぬし 大蔵おおくら大臣だいじん 50%
主要しゅよう子会社こがいしゃ 華北かほく交通こうつう大連たいれん都市とし交通こうつうまんしゅう航空こうくう昭和しょうわ製鋼せいこうしょ
関係かんけいする人物じんぶつ 後藤ごとう新平しんぺい初代しょだい総裁そうさい
特記とっき事項じこう:1945ねん9がつ閉鎖へいさ、1957ねん清算せいさんゆいりょう
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みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ(みなみまんしゅうてつどう、きゅう字体じたいみなみ滿まんしゅう鐵道てつどう󠄁株式かぶしきかい[注釈ちゅうしゃく 1][1])は、みなみまんしゅう鉄道てつどう会社かいしゃ[2]にち戦争せんそう勝利しょうりしたのち1905ねん明治めいじ38ねん)に締結ていけつされたポーツマス条約じょうやくもとづき、あずまきよし鉄道てつどうみなみまんしゅう支線しせん長春ちょうしゅん旅順りょじゅんあいだ鉄道てつどう)やその支線しせんロシアから日本にっぽん譲渡ゆずりわたされ[3]鉄道てつどう事業じぎょうおよび付属ふぞく事業じぎょう経営けいえいする目的もくてき1906ねん明治めいじ39ねん)に設立せつりつされた半官半民はんかんはんみん企業きぎょうであり[4]日本にっぽんまんしゅう経略けいりゃくにおいて重要じゅうよう位置いちめた企業きぎょうへと発展はってんした[2]略称りゃくしょうまんてつ(まんてつ、きゅう字体じたい滿まんてつ)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

みなみまんしゅう鉄道てつどうはし列車れっしゃ

みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃまんてつ)は、にち戦争せんそう勝利しょうり1905ねん明治めいじ38ねん)9がつ締結ていけつされたポーツマス条約じょうやくによって、ロシア帝国ていこくから大日本帝国だいにっぽんていこく譲渡ゆずりわたされたあずまきよし鉄道てつどう中東ちゅうとう鉄道てつどうみなみまんしゅう支線しせん長春ちょうしゅん旅順りょじゅんあいだ鉄道てつどうやく764キロメートルとそれをふく鉄道てつどう事業じぎょう当初とうしょそう延長えんちょうやく1,100キロメートル)および付属ふぞく事業じぎょう経営けいえいする目的もくてきで、1906ねん明治めいじ39ねん)11月に設立せつりつされた半官半民はんかんはんみん国策こくさく会社かいしゃである[2]。その前身ぜんしんは、にち戦争せんそうにおけるまんしゅうぐん野戦やせん鉄道てつどうひさげであり、当初とうしょ保有ほゆうしていたのは、占領せんりょう成功せいこうし、ロシアから譲与じょうよみとめられた長春ちょうしゅん以南いなんみなみまんしゅう支線しせん鉄道てつどう施設しせつおよび付属ふぞく、そして物資ぶっし輸送ゆそうのため日本にっぽんぐん建設けんせつした軽便鉄道けいべんてつどうやすたてまつせん安東あんどう奉天ほうてんあいだ鉄道てつどう)とその付属ふぞくであった[5]まんてつは、なでじゅん炭鉱たんこうおよびけむりだい炭鉱たんこうあわせて経営けいえいし、かく鉄道てつどう駅前えきまえなどに設定せっていされた鉄道てつどう附属ふぞくまんてつ附属ふぞく)において都市とし経営けいえい一般いっぱん行政ぎょうせい土木どぼく教育きょういく衛生えいせい)をになうなど広範囲こうはんいにわたる事業じぎょう展開てんかいした[2][5]本社ほんしゃ関東かんとうしゅう大連たいれんげん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく遼寧りょうねいしょう大連たいれん)にかれた[6]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)9がつまんしゅう事変じへん勃発ぼっぱつし、1932ねん大同だいどう元年がんねん/昭和しょうわ7ねん)3がつまんしゅうこく成立せいりつすると同国どうこくない鉄道てつどう全線ぜんせん運営うんえい新設しんせつ委託いたくされた[2]1933ねん大同だいどう2ねん/昭和しょうわ8ねん)2がつまんしゅうこく管轄かんかつ鉄道てつどうは、まんてつまんしゅうこく政府せいふたいして供与きょうよする借款しゃっかん担保たんぽというかたちで、委託いたく経営けいえいがなされることとなり、3月より実施じっしされた[7]奉天ほうてんげん遼寧りょうねいしょう瀋陽しんよう)に鉄路てつろ総局そうきょく設置せっちされ、まんてつ本社ほんしゃないには鉄道てつどう建設けんせつきょくかれた[7]。また、1935ねん康徳やすのり2ねん/昭和しょうわ10ねん)にはまんあいだ鉄道てつどう売却ばいきゃく協定きょうてい成立せいりつし、形式けいしきじょうまんしゅうこく所有しょゆうすることとなった[2]

最盛さいせいには日本にっぽん国家こっか予算よさん半分はんぶん規模きぼ資本しほんきん、80あまりの関連かんれん企業きぎょうをもつ一大いちだいコンツェルンで、鉄道てつどうそう延長えんちょうは1まんキロメートル社員しゃいんすうは40まんにんようした[8]まんてつは、鉱工業こうこうぎょうをはじめとするおおくの産業さんぎょう部門ぶもん進出しんしゅつし、日本にっぽん植民しょくみん支配しはい機構きこう一翼いちよくをになったが、1945ねん康徳やすのり12ねん/昭和しょうわ20ねん)、だい世界せかい大戦たいせん末期まっきヤルタ協定きょうていによって連合れんごうこくへの接収せっしゅうまり、1945ねん9がつざらとなる中華民国ちゅうかみんこくソビエト連邦れんぽう合弁ごうべん経営けいえい主体しゅたい中国ちゅうごく長春ちょうしゅん鉄路てつろ公司こうし発足ほっそく[2]同時どうじに、みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ敗戦はいせんこく日本にっぽんにおいて閉鎖へいさ機関きかんとなった。まんてつ保有ほゆうしていた鉄道てつどうは、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ1952ねんから1955ねんにかけて、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくわたされた。

事業じぎょう内容ないよう[編集へんしゅう]

虎ノ門とらのもんにあったまんてつ東京とうきょう支社ししゃ(1936ねん撮影さつえい
大連たいれんヤマトホテル

1904ねん5がつにち戦争せんそうもまだ序盤じょばん段階だんかいで、黒木くろきためひきいるだい1ぐんかもみどりこうわたって進撃しんげきしているとき、当時とうじ参謀さんぼう次長じちょうであった児玉こだま源太郎げんたろうが、陸軍りくぐんそうにん通訳つうやくであった上田うえだ恭輔きょうすけたいし、イギリスひがしインド会社かいしゃについて調査ちょうさするよう依頼いらいした[9]上田うえだ回想かいそうによれば、これは元々もともと後藤ごとう新平しんぺいがいいだしたことを台湾たいわん総督そうとくにおけるかれ上司じょうしであった児玉こだまげたものだったという[9]

まんてつたんなる鉄道てつどう会社かいしゃにとどまらなかった。にち戦争せんそうちゅう後藤ごとう新平しんぺい影響えいきょうけて児玉こだま源太郎げんたろう献策けんさくした「まんしゅう経営けいえい梗概こうがい」に、「戦後せんごまんしゅう経営けいえい唯一ゆいいつ要訣ようけつハ、鉄道てつどう経営けいえい仮面かめんそうイ、かげ百般ひゃっぱん施設しせつ実行じっこうスルニアリ」とあるように、「百般ひゃっぱん施設しせつ」によって日本にっぽん植民しょくみん経営けいえい具体ぐたいしていくための組織そしきであった[9]。「まんしゅう経営けいえい梗概こうがい」は、児玉こだま後藤ごとうラインのまんしゅう経営けいえい方策ほうさくしめすものとして、また実際じっさいまんてつ基本きほんてき性格せいかく規定きていするにいたった文書ぶんしょとして重要じゅうようである[9]

まんてつ鉄道てつどう経営けいえいくわえてまんしゅう農産物のうさんぶついち支配しはいし、炭鉱たんこう開発かいはつなでじゅん炭鉱たんこうなど)、製鉄せいてつごう鞍山あんざん製鉄せいてつしょ)、港湾こうわん電力でんりょく供給きょうきゅう牧畜ぼくちくホテルごう大連たいれん旅順りょじゅん奉天ほうてんなどのヤマトホテル)、航空こうくう会社かいしゃなどの多様たよう事業じぎょうおこなった[10]同時どうじ鉄道てつどう付属ふぞく一般いっぱん行政ぎょうせい把握はあくし、この地域ちいき土木どぼく教育きょういく衛生えいせい事業じぎょう展開てんかいし、徴税ちょうぜいけんをも行使こうしするなど、いち企業きぎょうえた権限けんげん手中しゅちゅうおさめてみなみまんしゅう地域ちいき一大いちだい拠点きょてんとなった[10]。こうしてまんてつはその影響えいきょうりょくきょたいさから「まんてつ王国おうこく」「まんてつコンツェルン」としょうされるコングロマリットへと成長せいちょうした[10]。ただし、まんしゅうこく成立せいりつは、まんしゅうにおける最大さいだい権力けんりょくしゃ関東軍かんとうぐんそう司令しれいかんうつり、関東軍かんとうぐん工業こうぎょう部門ぶもん統制とうせいはかるため、まんてつから各種かくしゅ会社かいしゃはなしたうえで重工業じゅうこうぎょう開発かいはつがすすめられた[11]

後藤ごとう新平しんぺい発案はつあんにより1907ねん4がつもうけられたまんてつ調査ちょうさは、当時とうじ日本にっぽんした最高さいこうシンクタンクのひとつであった[12]。これは、まんてつのユニークさをあらわしているともに、後藤ごとう個性こせいとアイディアがこめられていた[12]調査ちょうさは、総務そうむ運輸うんゆ鉱業こうぎょう地方ちほう各部かくぶなら重要じゅうよう部局ぶきょくであり、当時とうじ日本にっぽん企業きぎょう調査ちょうさっていたのは三井物産みついぶっさんだけであった[12]後藤ごとう台湾たいわん総督そうとく民政みんせい長官ちょうかん時代じだいにも旧慣きゅうかん調査ちょうさなどを大々的だいだいてき展開てんかいしており、それを植民しょくみん経営けいえい活用かつようしていた[12]。また、にちせん政情せいじょう不安ふあんまんしゅう企業きぎょう活動かつどう展開てんかいするためには調査ちょうさ活動かつどう不可欠ふかけつでもあった[12]。スタッフは全員ぜんいんで100めい前後ぜんこう経済けいざい調査ちょうさ旧慣きゅうかん調査ちょうさ、ロシア調査ちょうさかれ、監査かんさはん統計とうけいはんがあった[12]。また、インフォーマルな情報じょうほう収集しゅうしゅう活動かつどうも、まんてつ各地かくちもうけたまんてつ公所ぐぞにおいてさかんにおこなわれており、ここでは日本人にっぽんじんのみならず中国人ちゅうごくじんおおはたらいていた[13] [14]

なお、当初とうしょ本社ほんしゃかれることがみことのりれいさだめられていた東京とうきょうには、1907ねん改正かいせいみことのりれい本社ほんしゃ大連たいれんあらためられたので支社ししゃかれることになった[6]東京とうきょう支社ししゃは、東京とうきょう麻布あざぶ麻布狸穴あざぶまみあなまちかれた[注釈ちゅうしゃく 2]のち、赤坂あかさかあおいまち2番地ばんち移転いてんした[注釈ちゅうしゃく 3]

鉄道てつどう附属ふぞく行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

大連たいれんだい広場ひろばまんてつ沿線えんせん近代きんだいてき都市とし計画けいかくによる都市とし建設けんせつおこなった

まんてつには、ロシア帝国ていこくからいだ鉄道てつどう附属ふぞくでの独占どくせんてき行政ぎょうせいけんあたえられていた[15]附属ふぞくには、鉄道てつどうそのものに附属ふぞくする、鉄路てつろ中心ちゅうしんとしたはば62メートルの治外法権ちがいほうけん地域ちいきえきごとにもうけられた一定いってい面積めんせき附属ふぞくがあった[15]えき附属ふぞくする土地とちひろさはえきによってことなり、やはり治外法権ちがいほうけん特権とっけんがあった[15]。それを管轄かんかつするのがまんてつ地方ちほうであり、大連たいれん奉天ほうてん長春ちょうしゅん(のちのしんきょう)などではだい規模きぼ近代きんだいてき都市とし計画けいかくすすめられた[15]日本にっぽん進出しんしゅつしたころの奉天ほうてんえき附属ふぞく墓地ぼち戦争せんそう使用しようされた塹壕ざんごう無数むすうのこり、荒涼こうりょうとした原野げんやふくまれていた[15]長春ちょうしゅんえき周囲しゅういもまた、最初さいしょはほとんど荒蕪こうぶであったという[15]。こうしたところに、まんてつ社員しゃいん日本にっぽんからの商社しょうしゃマン、日本にっぽん軍人ぐんじんらの住宅じゅうたくがい建設けんせつされ、日本人にっぽんじん相手あいて食品しょくひんてん雑貨ざっかてん理髪りはつてん百貨店ひゃっかてん宿泊しゅくはく施設しせつ娯楽ごらく施設しせつなどがつくられたのである[15]まんてつ附属ふぞくでは、上下水道じょうげすいどう電力でんりょくガス供給きょうきゅう、さらには港湾こうわん学校がっこう病院びょういん図書館としょかんなどのインフラストラクチャー整備せいびすすめられ、まんしゅう経営けいえい中心ちゅうしんとなった。

しかし、まんしゅう全域ぜんいき日本にっぽんおよび関東軍かんとうぐん勢力せいりょくはいると、鉄道てつどう付属ふぞくかぎられた軍事ぐんじ行政ぎょうせいけん必要ひつようなくなり、1937ねん康徳やすのり4ねん/昭和しょうわ12ねん)にまんしゅうこく返還へんかんされた。これにともない、地方ちほうおこなっていた付属ふぞく行政ぎょうせい土木どぼく衛生えいせい教育きょういく)はまんしゅうこく政府せいふ移管いかんされ、まんてつ地方ちほう廃止はいしされた。大量たいりょうまんてつ職員しょくいん(そのおおくは教員きょういん)がまんてつからまんしゅうこく移籍いせきした。

関東軍かんとうぐん[編集へんしゅう]

関東軍かんとうぐんは、にち戦争せんそうにロシアから獲得かくとくした租借そしゃく関東かんとうしゅうみなみまんしゅう鉄道てつどう附属ふぞく守備しゅびをしていた関東かんとうとく陸軍りくぐん前身ぜんしんである[16]1919ねん大正たいしょう8ねん)に関東かんとうとく関東かんとうちょう改組かいそされると同時どうじに、台湾たいわんぐん朝鮮ちょうせんぐんささえ駐屯ちゅうとんぐんなどとおなぐんたる関東かんとうぐんとして独立どくりつした[16]関東軍かんとうぐん司令しれい同年どうねん4がつ12にち関東かんとうしゅう旅順りょじゅん初音はつねまち設置せっちされ、翌日よくじつ13にちから事務じむ開始かいしした[17]当初とうしょ編制へんせい独立どくりつ守備しゅびたい6大隊だいたい隷属れいぞくし、また日本にっぽん内地ないちから2ねん交代こうたい派遣はけんされるちゅう1個いっこ師団しだん隷下れいかでなくあくまで指揮しき)のみの小規模しょうきぼぐんであった[18]まんしゅう事変じへんさいそう兵力へいりょく公称こうしょう1まん400であったが、実際じっさいには8,800にすぎなかった[18]

関東かんとうぐんまんてつ社員しゃいん接触せっしょく1920年代ねんだいからはじまっており、とく関東かんとうぐんまんてつ調査ちょうさロシアはんのスタッフとの交流こうりゅうはやかったが、そのうごきはけっしておおきなものではなかったという[19]まんてつほう関東軍かんとうぐんよりも歴史れきしふるく、老舗しにせ意識いしき濃厚のうこう関東かんとうぐん一段いちだんにみる風潮ふうちょうがあり、だいいち世界せかい大戦たいせん反軍はんぐんてき雰囲気ふんいきのなかではぐんたいして協力きょうりょくてき姿勢しせい顕著けんちょであった[19]。ただし、そのなかでもまんてつ調査ちょうさ課長かちょう佐田さた弘治こうじろうやロシアはん主任しゅにん宮崎みやざき正義まさよし関東軍かんとうぐんとの連携れんけい模索もさくしていた[19]宮崎みやざき関東軍かんとうぐん参謀さんぼう石原いしはら莞爾かんじ出会であうのは、1930ねんあき旅順りょじゅんヤマトホテルにおいてであった[19]

資本しほんきん[編集へんしゅう]

  • 設立せつりつ - 2おくえん。うち1おくえん政府せいふ現物げんぶつ鉄道てつどう施設しせつとその付属ふぞくぶつ出資しゅっし
  • 1920ねん大正たいしょう9ねん) - 4おく4せんまんえんだい1増資ぞうし
  • 1933ねん大同だいどう2ねん/昭和しょうわ8ねん) - 8おくえんだい2増資ぞうし
  • 1940ねん康徳やすのり7ねん/昭和しょうわ15ねん) - 14おくえんだい3増資ぞうし

歴史れきし[編集へんしゅう]

設立せつりつまでの経緯けいい[編集へんしゅう]

ポーツマス条約じょうやくかつら・ハリマン協定きょうてい[編集へんしゅう]

にち戦争せんそう勝利しょうりにより、日本にっぽん旅順りょじゅん - 長春ちょうしゅん郊外こうがいひろししろあいだ鉄道てつどうと、これに付随ふずいする炭坑たんこう利権りけんロシア帝国ていこくより獲得かくとくし、そのことは1905ねん9月5にち調印ちょういんポーツマス条約じょうやくにも明文化めいぶんかされた[20]講和こうわ会議かいぎ小村こむら寿太郎じゅたろう外相がいしょう交渉こうしょう相手あいてであったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国ていこく蔵相ぞうしょうとしてシベリア鉄道てつどうおよびあずまきよし鉄道てつどう建設けんせつ強力きょうりょくすすめた人物じんぶつであった[21]会議かいぎにおいて日本にっぽんがわ当初とうしょみなみまんしゅう支線しせん旅順りょじゅんハルビンあいだ譲渡じょうとのぞんだが、ウィッテは日本にっぽんぐん実効じっこう支配しはいする旅順りょじゅん長春ちょうしゅんあいだかぎって同意どういした[22][23]日本にっぽんはその代償だいしょうとして、ロシアが清国きよくによりすでていたよしりん長春ちょうしゅんあいだ鉄道てつどう吉長よしなが鉄道てつどう)の敷設ふせつけん譲渡じょうとけた[23][注釈ちゅうしゃく 4]

伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえかおるらの元老げんろうだい1かつら内閣ないかく首相しゅしょうかつら太郎たろうには、戦争せんそうのために資金しきん使つかいつくした当時とうじ日本にっぽんに、莫大ばくだい経費けいひようする鉄道てつどう経営けいえいしていくちからがあるか自信じしんがもてなかった[20]。そのため、講和こうわ条約じょうやく反対はんたい東京とうきょう暴動ぼうどうのきざしがみえるなか、戦争せんそうちゅう外債がいさい募集ぼしゅうにも協力きょうりょくしたアメリカの企業きぎょうエドワード・ヘンリー・ハリマンが1905ねん8がつ来日らいにちしたさい、これをおおいに歓待かんたいした[20]。ハリマンは、日本銀行にっぽんぎんこう高橋たかはし是清これきよふく総裁そうさい大蔵おおくら次官じかん阪谷さかたに芳郎よしおけたロイド・カーペンター・グリスカム英語えいごばんちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく公使こうしまねきによってジェイコブ・シフなどとともに来日らいにちした[24][25][26]

ハリマンらの来日らいにち目的もくてきは、世界せかい一周いっしゅう鉄道てつどうもう完成かんせいという遠大えんだい野望やぼうのために、みなみまんしゅう鉄道てつどうさらにはあずまきよし鉄道てつどう買収ばいしゅうすることであった[26][27]。ハリマンは、日本にっぽん財界ざいかい大物おおもの元老げんろうたち、かつら首相しゅしょうらと面会めんかいしたさい日本にっぽんロシア帝国ていこくから譲渡じょうとされたみなみまんしゅう鉄道てつどう権利けんりを、アメリカ資本しほん導入どうにゅうして経営けいえいすべきだと主張しゅちょうし、アメリカがまんしゅう発言はつげんけんてば、かりにロシアが復讐ふくしゅうせんくわだててもこれを制止せいしできるといた[26]9月12にちかれ日本にっぽん政府せいふたいし、1おくえん資金しきん提供ていきょうきかえに韓国かんこく鉄道てつどうみなみまんしゅう鉄道てつどう連結れんけつさせ、そこでの鉄道てつどう炭坑たんこうなどにたいする共同きょうどう出資しゅっし経営けいえい参加さんか提案ていあんした[20][27][28]日本にっぽん鉄道てつどう供出きょうしゅつすれば資金しきん必要ひつようはなく、所有しょゆうけんについては日米にちべい対等たいとうとはするものの、にちないしにちしんあいだ戦争せんそうこった場合ばあい日本にっぽん軍事ぐんじ利用りようみとめるというものであり[25]まんてつ日米にちべい均等きんとう権利けんりをもつシンジケート経営けいえいしようという提案ていあんであった[27][注釈ちゅうしゃく 5]。この提案ていあんを、日本にっぽん政府せいふ好意こういてきめ、元老げんろう伊藤いとう井上いのうえ山縣やまがた有朋ありともはこのあん承認しょうにんかつら首相しゅしょうみなみまんしゅう鉄道てつどう共同きょうどう経営けいえいあんかぎって賛成さんせいした[28][29]。ハリマン提案ていあん好意こういてきめられた理由りゆうは、かれみの手腕しゅわんもさることながら、「まんしゅう鉄道てつどう運営うんえいによってられる収益しゅうえきはそれほどおおきくなく、むしろ日本にっぽん経済けいざい悪影響あくえいきょうあたえる」という意見いけん大蔵省おおくらしょう官僚かんりょう日銀にちぎん幹部かんぶ一部いちぶおおきかったためであり、「ロシアが復讐ふくしゅうせんいどんできた場合ばあい日本にっぽん単独たんどく応戦おうせんするにはおもすぎる」という井上いのうえかおる危惧きぐもその理由りゆうひとつであった[25]かつらはハリマンまい直前ちょくぜん10月12にちかり契約けいやくのかたちでかつら・ハリマン協定きょうてい予備よび協定きょうてい覚書おぼえがきむすんで、ほん契約けいやく小村こむら帰国きこくしたのち、かれ了解りょうかいてからのこととした[26][28]

ポーツマス会議かいぎより帰国きこくした小村こむらは、ハリマン提案ていあん断固だんこ反対はんたいし、かつら元老げんろうたちがこれをけたのは軽率けいそつであったとして、その撤回てっかい説得せっとくしてあるいた[20][26][27][28]形式けいしきてきには、みなみまんしゅう鉄道てつどう日本にっぽんへの譲渡じょうとは、ポーツマス条約じょうやく規定きていによって清国きよくに同意どうい前提ぜんていとするものであり、そのてんからしても、協定きょうてい不適切ふてきせつだと主張しゅちょうした[20][30]小村こむら見解けんかいかつららも納得なっとくし、10月23にち閣議かくぎにおいて破棄はき決定けっていした[20][28]小村こむら報告ほうこくによって、ハリマン=クーン・ローブ連合れんごうのライバルであるモルガン商会しょうかい英語えいごばんから、より有利ゆうり条件じょうけん外資がいし導入どうにゅうすることができ、アメリカ資本しほんまんしゅうから排除はいじょしようとかんがえていたわけではなかったことも判明はんめいし、伊藤いとう井上いのうえらの元老げんろう大蔵省おおくらしょう日銀にちぎんなど財務ざいむ関係かんけいしゃ破棄はきれた[25]正式せいしき契約けいやくしょわすまえであったところから、日本にっぽん政府せいふアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽん領事館りょうじかん打電だでんし、ハリマンらのふねサンフランシスコみなと到着とうちゃくするとすぐに覚書おぼえがき破棄はきのメッセージを手交しゅこうするよう手配てはいし、同地どうち総領事そうりょうじ上野うえの季三すえぞうろう到着とうちゃくしたサイベリアごうんで、覚書おぼえがき中止ちゅうしのメッセージをつたえた[20][26][31]

よんたいらがい協定きょうていまんしゅう善後ぜんご条約じょうやく[編集へんしゅう]

1905ねん10月30にちにちりょうぐんよんたいらがいにおいて、撤兵てっぺい手続てつづきと鉄道てつどう線路せんろ引渡順序じゅんじょ議定ぎていしょ調印ちょういんした(よんたいらがい協定きょうてい[32]。これにより、長春ちょうしゅん以南いなんみなみまんしゅう支線しせん日本にっぽんがわわたされることとなったが、よんたいらがい以南いなん線路せんろ実際じっさい日本にっぽんぐん占領せんりょうはいってからやく1ねんはん経過けいかしており、車両しゃりょう施設しせつ応急おうきゅうてきなものであり、全線ぜんせんにわたって信号しんごうすらなかった[32]。ここではロシアの5フィートの広軌こうき日本にっぽん国内こくない採用さいようの3フィート6インチの狭軌きょうきあらため、軍用ぐんようきょうされており、実際じっさい野戦やせん鉄道てつどうひさげ管理かんりしていたのはあきらまでであった[32]車両しゃりょう機関きかんしゃ211りょう貨車かしゃ4,064りょう客車きゃくしゃ88りょうたっしていたが、元来がんらい国内こくないよう厳寒げんかんはしらせていたものの、防寒ぼうかん施設しせつ不足ふそくしていたため水槽すいそう給水きゅうすいかん圧力あつりょくけい氷結ひょうけつし、これによりみず不足ふそくして蒸気じょうきのぼるあが事故じここすことがおおかった[32]。このような状態じょうたい鉄道てつどう本格ほんかくてき鉄道てつどうとして運営うんえいするためには、抜本ばっぽんてき改良かいりょう必要ひつようであった[32]にち両国りょうこくあきら以北いほく公主こうしゅみねまでを1906ねん5月31にち公主こうしゅみねから長春ちょうしゅんひろししろ分界ぶんかいてんまでは8がつ31にちぐこととした[31][32]。なお、よんたいらがい以北いほく鉄道てつどうゲージは5フィートのままであり、施設しせつはロシアぐん退却たいきゃくにかなり破損はそんしていた[32]。これについては、いずれは国際こくさい標準軌ひょうじゅんき(4フィート8.5インチ)に改築かいちくする作業さぎょう必要ひつようだった。

日本国にっぽんこく外相がいしょう小村こむら寿太郎じゅたろう

小村こむら外相がいしょうはアメリカから帰国きこくしてわずか2週間しゅうかんの1905ねん11月6にち、ポーツマス条約じょうやく決定けってい事項じこう承認しょうにんさせるため清国きよくにかい、11月17にちからは北京ぺきん会議かいぎのぞんだ[31][33]日本にっぽんがわ全権ぜんけん小村こむらちゅうきよし公使こうし内田うちだ康哉こうさい清国きよくにがわ欽差全権ぜんけん大臣だいじんけい親王しんのう奕劻首席しゅせき全権ぜんけんとし、外務がいむ尚書しょうしょ瞿鴻禨中国語ちゅうごくごばんちょく隷総とく袁世凱全権ぜんけんとなって交渉こうしょうのぞんだ[31]清国きよくににち開戦かいせん直後ちょくご内田うちだちゅうきよし公使こうしからの勧告かんこくなどもあって、1896ねんしん密約みつやく鴻章こうしう・ロバノフ協定きょうてい)によってロシアとのあいだ攻守こうしゅ同盟どうめいむすばれていたにもかかわらず、中立ちゅうりつ声明せいめいしていたため、ポーツマスでなされたきよしあたましのロシア利権りけん日本にっぽんへの譲渡じょうとみとめる全然ぜんぜんなかった[25]交渉こうしょうはポーツマス会議かいぎ以上いじょう難航なんこうし、まんしゅう善後ぜんご条約じょうやく北京ぺきん条約じょうやく)がむすばれたのは12月22にちのことであった[33]

小村こむらは、この条約じょうやくにおいてしん密約みつやくからいだ鉄道てつどう利権りけん条項じょうこう遵守じゅんしゅむようはかり、その結果けっかみなみまんしゅう鉄道てつどうには日本人にっぽんじん清国きよくにじん以外いがい関与かんよできないこととなった[30][注釈ちゅうしゃく 6]租借そしゃく期間きかんはロシアのあずまきよし鉄道てつどう租借そしゃく期間きかんが36年間ねんかんであったことから、すでにロシアが租借そしゃくして3ねんぶんき33ねんとした[31]きよし長春ちょうしゅんはハルビンなど、16開放かいほう約束やくそくし、密約みつやくとしてみなみまんしゅう鉄道てつどう利益りえきさまたげる併行へいこうせん敷設ふせつしないことをみとめた[34]。さらに、ロシアから譲渡じょうとされた鉄道てつどう沿線えんせん日本にっぽん守備しゅびたい権利けんり清国きよくにみとめさせた(のちの関東軍かんとうぐん[25]

小村こむらはまた、安東あんどう奉天ほうてんあいだやすたてまつ鉄道てつどうおよび奉天ほうてんしんみんたむろあいだしんたてまつ鉄道てつどうあずまきよし鉄道てつどうみなみ支線しせん同様どうよう条件じょうけん経営けいえいすること、また、ロシアから権利けんりゆずられた吉長よしなが鉄道てつどうについては日本にっぽん敷設ふせつ優先ゆうせんけんみとめるよう要求ようきゅうした[31]やすたてまつ鉄道てつどうしんたてまつ鉄道てつどう日本にっぽんにち戦争せんそうちゅう実際じっさい敷設ふせつした路線ろせんであっただけに、日本にっぽんとしては容易ようい譲歩じょうほできず、清国きよくにがわ日本にっぽん経営けいえいけんみとめており、結果けっかとして撤兵てっぺい期間きかん1ねん改良かいりょう工事こうじ期間きかん2ねん改良かいりょう工事こうじ以後いご経営けいえいけん15年間ねんかんみとめ、けい18年間ねんかん租借そしゃくみとめた[31]しんたてまつ鉄道てつどうについては、清国きよくにはすでに1898ねん10がつきょうたてまつ鉄道てつどう借款しゃっかん契約けいやくにおいてイギリスに敷設ふせつ優先ゆうせんけんあたえていたこともあって交渉こうしょう難航なんこうしたが、結局けっきょくこれにはおうじなかった[31]吉長よしなが鉄道てつどうについても、ほぼ清国きよくに要求ようきゅうどおり清国きよくに建設けんせつすることとなった[31]結果けっかとしては、しんたてまつ鉄道てつどう日本にっぽんから清国きよくに売却ばいきゃくされ、清国きよくにによって改築かいちく経営けいえいされることとなり、りょうかわ以東いとう改築かいちく資金しきん半額はんがく日本にっぽんからの借款しゃっかんとなった[31]。そして、吉長よしなが鉄道てつどう日本にっぽん建設けんせつ半分はんぶんについて借款しゃっかん供与きょうよすることとなったのである[31]

えいべいからの抗議こうぎ西園寺さいおんじ非公式ひこうしき旅行りょこう[編集へんしゅう]

まんしゅうへおしの旅行りょこうをした首相しゅしょう西園寺さいおんじ公望きんもち

1906ねん3がつ日本にっぽんまんしゅう門戸もんこ開放かいほう実行じっこうしていないのではないか、あるいはロシアの支配しはいにあったときよりむしろ閉鎖へいさされているのではないかという正式せいしき抗議こうぎがイギリス(3がつ19にち)、アメリカ(3がつ26にち)の両国りょうこくよりもたらされ、注意ちゅういびかけられた[20][27][35]とくちゅうにちイギリス公使こうしクロード・マクドナルド直接ちょくせつ伊藤いとう博文ひろぶみ韓国かんこく統監とうかんきびしい内容ないよう書簡しょかんおくっている[36]。また、袁世凱からも日本にっぽん中国ちゅうごく東北とうほくにおけるしょ施策しさくまんしゅう善後ぜんご条約じょうやく違反いはんするとの通告つうこく伊藤いとうにもたらされた[37]

4がつ14にち首相しゅしょう西園寺さいおんじ公望きんもち極秘ごくひ東京とうきょうはなれてみずか中国ちゅうごく東北とうほくにおもむいてまんしゅう実情じつじょう把握はあくするための非公式ひこうしき旅行りょこうをおこなった[37]。これをすすめたのは児玉こだま源太郎げんたろうだといわれるが、いちこく首相しゅしょう実情じつじょう調査ちょうさのために現地げんち視察しさつおこなうことは実際じっさいむずかしく、そのため、大蔵おおくら次官じかん若槻わかつき禮次郎れいじろうまんしゅう派遣はけん辞令じれいはっし、その随員ずいいん外務省がいむしょうやま円次郎えんじろうのう商務省しょうむしょう酒匂さこ常明つねあき鉄道てつどう作業さぎょうきょく野村のむら龍太郎りゅうたろうと、もうひとり自分じぶん自身じしんくわえるというねんれようであった[37]。おしの旅行りょこう目的もくてきは、清国きよくにがわかんがえや態度たいど確認かくにんし、清国きよくに官吏かんり心証しんしょうをよくし、またかれらとの交友こうゆうつうじて戦後せんごまんしゅう経営けいえいのためのならしをしようというものであった[37]。そこで西園寺さいおんじまんしゅうたいする列強れっきょう関心かんしんつよさを実感じっかんし、清国きよくに官吏かんりがロシアぐんにかわる日本にっぽんぐん支配しはいつよ反感はんかんいていたことをるのである[37]。3週間しゅうかん旅行りょこうえた西園寺さいおんじは、まんしゅう問題もんだいについて会合かいごうひらき、方針ほうしん協議きょうぎすることとした[37]

改修かいしゅう工事こうじ[編集へんしゅう]

一方いっぽう、ロシアからみなみまんしゅう支線しせんいだ野戦やせん鉄道てつどうひさげでは、ただちに改修かいしゅう工事こうじ着手ちゃくしゅした[31]上述じょうじゅつのようにあきらよんたいらがいあいだ施設しせつがかなり損壊そんかいされており、そうびょうえき中国語ちゅうごくごばんいたってはあとかたもなく破壊はかいされていた[32]。さらに、そうびょう -よんたいらがいあいだは、枕木まくらぎもレールも撤去てっきょされており、そのあいだ橋桁はしげた場所ばしょによっては橋脚きょうきゃく破壊はかいされていた[32]野戦やせんひさげは、1906ねん9がつ6にちにはそうびょうまで、10月1にちには公主こうしゅみねまで、そして11月11にちはじめたむろ現在げんざい長春ちょうしゅんみなみえき)までのゲージを狭軌きょうき改築かいちくし、大連たいれんとのあいだ直通ちょくつう列車れっしゃ運行うんこう開始かいしした[31][32]

すでに1905ねん10がつ21にちには、奉天ほうてん以南いなん区間くかん軍用ぐんよう以外いがい運輸うんゆ営業えいぎょう開始かいししており、11月25にちにはあきらまでこれが延長えんちょうされていた[32]。1906ねんはいるとぎをえて修理しゅうり完成かんせいした区間くかんから一般いっぱんひとびとにもこれを利用りようできるようになった[32]戦争せんそう終了しゅうりょう、1905ねん年末ねんまつまで軍隊ぐんたい復員ふくいん輸送ゆそうおもであり、一般いっぱん輸送ゆそうはほとんどおこなわれなかった[32]。しかし、それがわるとしだいに中国ちゅうごく東北とうほく縦貫じゅうかん幹線かんせんとしての性格せいかくつよめ、おおくのひとびとがまんしゅうつよ関心かんしんしめすようになり、内地ないちではしょくもとめてまんしゅうかけるひと増加ぞうかした[32]。なかにはいわゆる「一旗ひとはたぐみ」もあり、旅館りょかん食料しょくりょうひんてん理髪りはつてん飲食いんしょくてん衣料いりょうひんてん遊廓ゆうかくなどの個人こじん営業えいぎょう、また企業きぎょうまんしゅう進出しんしゅつし、その職員しょくいん大連たいれん大石橋おおいしばしりょう奉天ほうてんといった都市としはもとより、ちいさなまちにもはいんで生活せいかつ基盤きばんをつくろうとしていた[32]鉄道てつどうは、こうしたひとびとの活動かつどうをささえる重要じゅうよう交通こうつう手段しゅだんでもあった[32]

まんしゅう問題もんだい協議きょうぎかい[編集へんしゅう]

まんてつ設立せつりつ委員いいんちょう児玉こだま源太郎げんたろう
まんしゅう問題もんだい協議きょうぎかい」では伊藤いとう博文ひろぶみとのあいだはげしい論争ろんそうになった。

日本にっぽんぐん撤兵てっぺい期限きげんぎりぎりまでまんしゅう軍政ぐんせいき、日本にっぽん勢力せいりょく同地どうちけようとしていた[27]。1906ねん5月22にちえいべいとの関係かんけい悪化あっか憂慮ゆうりょした伊藤いとう博文ひろぶみ中心ちゅうしんとなって元老げんろう閣僚かくりょう軍部ぐんぶ首脳しゅのうなどをあつめて首相しゅしょう官邸かんていで「まんしゅう問題もんだいかんする協議きょうぎかい」を開催かいさいした[27][35][38]。このとき、にち戦争せんそう功労こうろうによって声望せいぼうたかまり、首相しゅしょう待望たいぼうろんさえていた陸軍りくぐん参謀さんぼう総長そうちょう児玉こだま源太郎げんたろうは「兵力へいりょく運用うんようじょう便利べんりはかかげ戦争せんそう準備じゅんび」をおこなうとともに「鉄道てつどう経営けいえいなか種々しゅじゅなる手段しゅだんこうずる」という積極せっきょくてきまんしゅう経営けいえいろんとなえ、伊藤いとうらと対立たいりつした[35][38]伊藤いとう関東かんとうしゅう租借そしゃく清国きよくにへの返還へんかん軍政ぐんせい早期そうき廃止はいし方針ほうしんとなえ、山縣やまがた陸軍りくぐん関係かんけいしゃだれ児玉こだま擁護ようごしなかったので、伊藤いとう主張しゅちょうかよって軍政ぐんせい廃止はいし決定けっていした[27][35][38]

これによりえいべい警戒けいかいしんかれたが、実際じっさいには軍政ぐんせい目的もくてき達成たっせいしており、えいべい商人しょうにんちからおとろえ、まんしゅう日本にっぽん市場いちばしていった[27]児玉こだま当初とうしょ官設かんせつ機構きこうかんがえていたが、このころには民間みんかん会社かいしゃ方式ほうしきによるべきだとのかんがえにわっていた[37]

まんしゅう問題もんだい協議きょうぎかいでは、児玉こだま源太郎げんたろう元老げんろう伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえかおるとのあいだでおおきく見解けんかい相違そういしていた[39]児玉こだままんしゅう経営けいえい機関きかん中央ちゅうおう設置せっちすべきことを主張しゅちょうしたが、伊藤いとうはそれにたいし、まんしゅうはまぎれもなき清国きよくに領土りょうどであり、そこに「植民しょくみん経営けいえい」の展開てんかいする余地よちはないとの反対はんたいろんとなえた[35][39]。また、伊藤いとう韓国かんこくへの日本人にっぽんじん入植にゅうしょくにはほとんど関心かんしんはらわなかったのにたいし、児玉こだま平壌ぴょんやん以北いほくへの日本人にっぽんじん入植にゅうしょく事業じぎょう検討けんとうしており、当時とうじ児玉こだま幕下まくしたにあった新渡戸にとべ稲造いなぞうドイツ帝国ていこくにおける内国ないこく植民しょくみん政策せいさく参考さんこうにしてはどうかという意見いけん伊藤いとう児玉こだま双方そうほうけんさくした[39]伊藤いとう井上いのうえは、日米にちべい合弁ごうべんの「まんかん鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ」を設立せつりつして韓国かんこくにおける鉄道てつどう経営けいえいをも事実じじつじょうアメリカがわ譲渡じょうとしようとしており、みなみまんしゅう鉄道てつどう会社かいしゃ設立せつりつにあたっても、まんてつ文字通もじどおりの鉄道てつどう経営けいえい限定げんていすべきとの見解けんかい小満しょうまんてつ主義しゅぎ)に立脚りっきゃくしていた[39]一方いっぽう児玉こだま源太郎げんたろうとその台湾たいわんでの部下ぶかである後藤ごとう新平しんぺいは、まんてつはたんなる鉄道てつどう会社かいしゃではなく、まんてつ付属ふぞくでの徴税ちょうぜいけん行政ぎょうせいけんをもにな一大いちだい植民しょくみん会社かいしゃたるべきだとの見解けんかいまんてつ中心ちゅうしん主義しゅぎ)を標榜ひょうぼうしており、かれらはひがしインド会社かいしゃはんとしたまんしゅう経営けいえいすすめるべきだとのろんっていた[39]両者りょうしゃ意見いけん相互そうごおおきくへだたっているが、出先でさき陸軍りくぐん権力けんりょく統制とうせい必要ひつようせい伊藤いとう熟知じゅくちするところであり、児玉こだま後藤ごとうのコンビが達成たっせいした、下関しものせき条約じょうやくによる領有りょうゆう開始かいし10ねんにして本国ほんごくからの補充ほじゅうきんなしで運営うんえい可能かのうとなった台湾たいわん財政ざいせい独立どくりつ実績じっせきは、政府せいふ内外ないがいからたか評価ひょうかされたこともあって、伊藤いとうらの小満しょうまんてつ主義しゅぎちからうしなった[39]

みなみまんしゅう鉄道てつどう設立せつりつ[編集へんしゅう]

みことのりれいだい142ごう公布こうふまんてつ設立せつりつ委員いいん任命にんめい[編集へんしゅう]

1906ねん6がつ7にち明治めいじ39ねんみことのりれいだい142ごうみなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃせきスルけん」が公布こうふされた[6][40]。このみことのりれい付則ふそくをふくめて22かじょうからり、業務ぎょうむ鉄道てつどう運輸うんゆぎょうとし(だい1じょう)、株式かぶしきにちしん両国りょうこく政府せいふにちしん両国りょうこくじんかぎって所有しょゆうみとめることとし(だい2じょう)、日本にっぽん政府せいふは、炭坑たんこうをふくめたまんてつ財産ざいさんによる現物げんぶつ出資しゅっしができるものとした(だい3じょう[6]本社ほんしゃ東京とうきょう支社ししゃ大連たいれんにおくこと(だい6じょう、ただし1907ねん3月5にちみことのりれいだい22ごうにより本社ほんしゃ大連たいれん支社ししゃ東京とうきょうあらためた[41])、役員やくいん総裁そうさい1めいふく総裁そうさい1めい理事りじ4めい以上いじょうき(だい7じょう)、総裁そうさいふく総裁そうさいみことのりさい政府せいふ任命にんめいすること(だい9じょう)、政府せいふ会社かいしゃ業務ぎょうむ監視かんしのためみなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ監理かんりかんくこと(だい12じょう)がさだめられた[6]どうみことのりれい付則ふそくには設立せつりつ委員いいん規定きていがあり、定款ていかん作成さくせいだい1かい株式かぶしき募集ぼしゅうとうがその任務にんむとされた[6]

7がつ13にちだい1西園寺さいおんじ内閣ないかくは、児玉こだま設立せつりつ委員いいんちょうとする80めいにおよぶまんてつ設立せつりつ委員いいん任命にんめいした[6][35]。この委員いいんのなかにはきょうがま鉄道てつどう会社かいしゃ設立せつりつにもかかわった渋沢しぶさわ栄一えいいち竹内たけうちつなといった財界ざいかいじん、のちにまんてつ総裁そうさいとなる仙石せんごくみつぐ野戦やせん鉄道てつどうひさげだった武内たけうちとおるといった技術ぎじゅつしゃ外務省がいむしょうからはやま円次郎えんじろう政務せいむ局長きょくちょう石井いしい菊次郎きくじろう通商つうしょう局長きょくちょう関東かんとうしゅう民政みんせいしょ事務じむかん関屋せきや貞三郎ていさぶろう、ほかに大蔵省おおくらしょう逓信ていしんしょうなど関係かんけい省庁しょうちょう官僚かんりょうしゅう両院りょういん議員ぎいん、さらに軍部ぐんぶ首脳しゅのうもふくまれていた[35]。こうしたかおぶれは、純粋じゅんすい民間みんかん企業きぎょうというよりは国策こくさく会社かいしゃとしての性格せいかくいものであったことをしめしている[35]

上記じょうきのように、設立せつりつ委員いいん定款ていかん作成さくせいにあたることになっており、定款ていかん調査ちょうさ委員いいん調査ちょうさ委員いいんちょう渋沢しぶさわ栄一えいいち以下いかやま円次郎えんじろう岡野おかの敬次郎けいじろう荒井あらい賢太郎けんたろうなか小路しょうじれん山之内やまのうち一次かずつぐ和田わだ彦次郎ひこじろう堀田ほったただしよう大石おおいし正巳まさみ土居どい通夫みちお中野なかのたけ麿まろ大岡おおおか育造いくぞう佐々ささともぼうけい13めいであった[6]。このうち、やま荒井あらいなか小路こうじの3めいは1月発足ほっそくまんしゅう経営けいえい委員いいんかい委員いいんちょう児玉こだま源太郎げんたろう)の当初とうしょメンバー6めいにもつらねており、株式会社かぶしきがいしゃ組織そしきをとりながら同時どうじ政府せいふ機関きかんとしての性格せいかくをもたせる役割やくわりをになった[6]。こうしたなか、設立せつりつ委員いいんちょうだった児玉こだま源太郎げんたろうが7がつ23にち急逝きゅうせいし、24にちにははっせられた[6]。25にちしん委員いいんちょう就任しゅうにんしたのは寺内てらうち正毅まさき陸軍りくぐん大将たいしょうであった[6]

設立せつりつ命令めいれいしょ株式かぶしき募集ぼしゅう[編集へんしゅう]

1906ねん8がつ1にち外務がいむ大蔵おおくら逓信ていしん3大臣だいじん連名れんめいによる「みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ設立せつりつ命令めいれいしょ」(外務がいむ大蔵おおくら逓信ていしん大臣だいじんてつ14ごう)が下付かふされた[5][6]命令めいれいしょ全文ぜんぶん26かじょう非公開ひこうかいとされた[6]公表こうひょうされたみことのりれいよりも具体ぐたいてき業務ぎょうむ範囲はんい資本しほんきん総額そうがく政府せいふ保護ほご会社かいしゃたいする政府せいふ命令めいれいけんなどが規定きていされていた[6]設立せつりつ業務ぎょうむは、この命令めいれいしょをもとに寺内てらうち委員いいんちょうのもとですすめられた[6]

だい1かい株式かぶしき募集ぼしゅう9がつ10日とおか開始かいしされた。募集ぼしゅう株式かぶしき10まんかぶ(2,000まんえん)、りの10がつ5にちまでに役員やくいん持株もちかぶ1,000かぶのぞく9まん9,000かぶたいして、そう申込もうしこみ株数かぶすうは1おく664まん3418かぶたっし、申込もうしこみ人数にんずうは1まん1,467にんであった[6]少額しょうがく申込もうしこみの111にん402かぶについては割当わりあてからはずしたが、それでも所要しょよう株数かぶすうたいして1077ばいという株式かぶしきブームの状況じょうきょうていした[6][42]清国きよくにじんからの申込もうしこみもいくらかはあったが、このこう倍率ばいりつでは割当わりあてから排除はいじょされても疑義ぎぎをはさむ余地よちがなかった[6]。いずれにしても、この倍率ばいりつまんてつ当時とうじ植民しょくみん経営けいえい企業きぎょうとしての経済けいざいてき機能きのう一般いっぱんからひろ期待きたいされていたことを物語ものがたっていた[6]清国きよくに政府せいふ結局けっきょくりをぎても応募おうぼしてこなかった[6]。11月10にち清国きよくに政府せいふまんてつ設立せつりつについてきびしい調子ちょうし抗議こうぎせた[6]

設立せつりつ営業えいぎょう開始かいし[編集へんしゅう]

初代しょだいまんてつ総裁そうさい後藤ごとう新平しんぺい

1906ねん11月1にちまんてつ設立せつりつ逓信ていしん大臣だいじんより認可にんかされた[43]11月26にちみなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ半官半民はんかんはんみんによって設立せつりつされ、同日どうじつ創立そうりつ総会そうかい神田かんだ東京とうきょうキリスト教きりすときょう青年せいねんかい会館かいかんにおいて開催かいさいされた[43]初代しょだい総裁そうさいには台湾たいわん総督そうとく民政みんせい長官ちょうかんだった後藤ごとう新平しんぺいにんじられた[24][30][43]設立せつりつ上述じょうじゅつとおり、みことのりれいもとづいてなされ、総裁そうさいみことのりにん資本しほんきんは2おくえんであった[44]。しかし、政府せいふにち戦争せんそう戦費せんぴ処理しょり軍拡ぐんかく財源ざいげん捻出ねんしゅつくるしんでおり、巨額きょがく資金しきんすことはできなかった[44]政府せいふは、1おくえんをロシアからいだ鉄道てつどうとその附属ふぞく財源ざいげんおよびなでじゅん炭田たんでんけむりだい炭田たんでんなどの現物げんぶつ出資しゅっしとした[24][44]のこりの1おくえんは、にちしん両国りょうこく出資しゅっしとされたが、まんてつ設立せつりつ不当ふとうとする清国きよくに参加さんかせず[30]民間みんかんからの投資とうし日本にっぽんでの株式かぶしき募集ぼしゅうが2000まんえん、のこり8000まんえん外資がいしによる社債しゃさいまかなうこととした[24][44]当時とうじ日本人にっぽんじんまんてつせた期待きたいおおきく、だい1かい株式かぶしき募集ぼしゅう応募おうぼ殺到さっとうしたのは上述じょうじゅつのとおりである[6]一方いっぽう外債がいさい募集ぼしゅうは、1907ねんから1908ねんにかけて3かいにわたり、もっぱらイギリス市場いちばもとめられた[27][44]。イギリスで調達ちょうたつしたのは600まんポンド(やく6000まんえん)であり、フランス市場いちばではフランス政府せいふ支援しえんがあったにもかかわらず、条件じょうけんわずに外債がいさい募集ぼしゅう不成立ふせいりつわった[27][44]政府せいふによる事業じぎょう資金しきん日本興業銀行にほんこうぎょうぎんこうから社債しゃさいなどのかたちで投資とうしされ、まんてつへの投資とうしどう銀行ぎんこう対外たいがい投資とうし総額そうがくやく7わりめていた[45][注釈ちゅうしゃく 7]。ところがじつは、興業こうぎょう銀行ぎんこう関係かんけい対外たいがい投資とうしの74パーセントが輸入ゆにゅう外資がいしたよっており、そのしゅたる資金しきん調達ちょうたつさきえいべい両国りょうこくであった[45]。そのてんではえいべい金融きんゆう資本しほんへの従属じゅうぞくしょうじており、一見いっけん資本しほん輸入ゆにゅうによる資本しほん輸出ゆしゅつ」というべき逆説ぎゃくせつてき状況じょうきょうがみられる[45]

後藤ごとう新平しんぺいまんてつ総裁そうさい推挙すいきょしたのは、台湾たいわん総督そうとく在任ざいにんのまままんしゅうぐんそう参謀さんぼうちょうとなった児玉こだま源太郎げんたろうであった[24][38][43]後藤ごとうは、当初とうしょまんてつ総裁そうさい就任しゅうにん固辞こじしていたが、後藤ごとうにとっては恩人おんじんであった児玉こだまが1906ねん7がつ急逝きゅうせいしたので、これを天命てんめいかんがえ、児玉こだま遺志いし決心けっしんをして総裁そうさいしょくけたといわれる[24][38]後藤ごとう台湾たいわん経営けいえいでの辣腕らつわんぶりが評価ひょうかされ、ていコストでのまんしゅう経営けいえい山縣やまがた伊藤いとうらの元老げんろう立憲りっけん政友せいゆうかい西園寺さいおんじ公望きんもちはらたかしら)といったひとびとからも期待きたいされた[36][38][43]にち戦争せんそうまんしゅうは、いわゆる「さんとう政治せいじ」(関東かんとうとく奉天ほうてん総領事館そうりょうじかんみなみまんしゅう鉄道てつどう)としょうされる状況じょうきょうのもとで経営けいえい主導しゅどうけんあらそわれていたが、日本にっぽん領土りょうどではない純然じゅんぜんたる清国きよくに主権しゅけんのもとで植民しょくみん経営けいえいをおこなおうとすることにそもそもの混乱こんらん原因げんいんがあった[38]後藤ごとうには「さんとう政治せいじ」の解消かいしょうと「自営じえい自立じりつ」の実現じつげん期待きたいされた[38]後藤ごとうは、まんてつ監督かんとく官庁かんちょうである関東かんとうとく干渉かんしょうによってまんてつ自由じゆう活動かつどうできないことを懸念けねんし、総裁そうさい就任しゅうにん条件じょうけんとして、まんてつ総裁そうさい関東かんとうとく最高さいこう顧問こもん兼任けんにんすることで西園寺さいおんじ首相しゅしょう合意ごういした。また、人材じんざい確保かくほのため、官僚かんりょう出身しゅっしんしゃ在官ざいかん地位ちいのまままんてつ役職やくしょくいん就任しゅうにんすることがみとめられた。

なでじゅん炭鉱たんこう経営けいえいまんてつおこなった

開業かいぎょうは1907ねん4がつ1にちとなった[43]みなみまんしゅう鉄道てつどうは、都市とし炭坑たんこう製鉄せいてつしょから農地のうちまでを経営けいえいし、独占どくせんてき商事しょうじ部門ぶもんゆうし、さらに大学だいがく以下いか教育きょういく機関きかん研究所けんきゅうじょようしていた。日本にっぽん租借そしゃくである関東かんとうしゅうおよびみなみまんしゅう鉄道てつどう附属ふぞく行政ぎょうせいをたずさわるのが関東かんとうとく(のちの関東かんとうちょう)であり、その陸軍りくぐんがのちに関東かんとうぐんとして沿線えんせん配置はいちされるようになった。なお、ポーツマス条約じょうやく合意ごういされていたあずまきよし鉄道てつどうみなみまんしゅう支線しせん譲渡じょうと範囲はんい長春ちょうしゅんひろししろ以南いなんであったが、ひろししろ接受せつじゅ地点ちてん明確めいかくでなかったこと、にちあいだ鉄道てつどう連絡れんらく方法ほうほう未定みていであったことから、さしあたりはじめたむろ以南いなん日本にっぽん譲渡ゆずりわたされ、ひろししろはじめたむろあいだやく8キロメートルが日本にっぽん譲渡ゆずりわたされるのは、まんてつ開業かいぎょう、1907ねん7がつ21にちにちまんしゅう鉄道てつどう接続せつぞく業務ぎょうむ条約じょうやく調印ちょういんされてからであった[43]

総裁そうさいとなった後藤ごとうは、「まんてつじゅうねん計画けいかく」を策定さくていし、さっそく積極せっきょくてき経営けいえい展開てんかいし、部下ぶか中村なかむらただしおおやけとともに、戦争せんそうちゅう狭軌きょうきなおして使用しようしたレールの改築かいちくをともなうまんてつ全線ぜんせん国際こくさい標準軌ひょうじゅんき大連たいれん奉天ほうてんあいだ複線ふくせん工事こうじなでじゅんせんやすたてまつせん改築かいちく工事こうじきゅうピッチですすめる一方いっぽう、あわせて、なでじゅん炭坑たんこう拡張かくちょう大連たいれんこう拡張かくちょう上海しゃんはい航路こうろ開設かいせつ鉄道てつどう附属ふぞくないかく都市とし社会しゃかい資本しほん整備せいびなどを強力きょうりょくすすめた[24][38][44]。1907ねん10がつには星野ほしのすずにより「まんしゅう日日ひび新聞しんぶん」が大連たいれん創刊そうかんされ[46]、1907ねん8がつ以降いこう鉄道てつどう沿線えんせんにはヤマトホテル開業かいぎょうした[44]大連たいれんには、まんてつ中央ちゅうおう試験しけんしょ電気でんき公園こうえんもつくられた[47]中央ちゅうおう試験しけんしょまんてつ直営ちょくえい中国ちゅうごく東北とうほくにおける農業のうぎょう生産せいさんりょく向上こうじょう生産せいさんひん加工かこう食品しょくひん工業こうぎょう進展しんてんのための施設しせつであった[47]電気でんき公園こうえんは、電気でんき仕掛しかけによる娯楽ごらく施設しせつで、当時とうじ内地ないちにもこれにるいした施設しせつはなかった[47]

こうして、まんてつ国策こくさく遂行すいこうする株式会社かぶしきがいしゃ位置いちづけられ、その機軸きじくにおいては「文飾ぶんしょくてき武備ぶび」がとなえられた[24]。すなわち、まんてつたんなる鉄道てつどう会社かいしゃではなく、まんしゅう教育きょういく衛生えいせい学術がくじゅつなど広義こうぎ文化ぶんかてきしょ施設しせつ駆使くしして植民しょくみん統治とうちをおこない、緊急きんきゅう事態じたいには武断ぶだんてき行動こうどう援助えんじょする便びんこうじることができることを方針ほうしんとしたのであり、このようなことから創業そうぎょう当初とうしょからまんてつ調査ちょうさ組織そしきされ、調査ちょうさ活動かつどう重視じゅうしされたのであった[24]後藤ごとう新平しんぺいは「午前ごぜん8おとこでやろう」というスローガンをかかげ、台湾たいわん総督そうとく時代じだいからの腹心ふくしん当時とうじ40さい中村なかむらただしおおやけふく総裁そうさい抜擢ばってきしたほか、30だい、40だい優秀ゆうしゅう人材じんざい理事りじはじめ要職ようしょく採用さいようした[注釈ちゅうしゃく 8]三井物産みついぶっさん門司もじ支店してんちょうだった犬塚いぬづか信太郎しんたろういまだ32さいというわかさで理事りじにスカウトされた。

明治めいじまつねん様相ようそう[編集へんしゅう]

標準軌ひょうじゅんきへのあらため[編集へんしゅう]

レールの間隔かんかく変更へんこうあらため)は、初期しょきまんてつおおきな問題もんだいだった。もともとロシアのいた軌間きかんは5フィート(1,524 mm)の広軌こうきであり、にち戦争せんそうちゅう野戦やせん鉄道てつどうひさげ日本にっぽんからんだ内地ないちよう車両しゃりょう走行そうこう可能かのうなように3フィート6インチ(1,067 mm)の狭軌きょうき改築かいちくしていた[44][48]。しかし、朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごく東北とうほく長城ちょうじょう以南いなん中国ちゅうごくつうじての一貫いっかん輸送ゆそう体系たいけいととのえるという観点かんてんからすれば、この鉄道てつどう朝鮮ちょうせん中国ちゅうごく鉄道てつどうおな軌間きかん、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435 mm)の国際こくさい標準軌ひょうじゅんきあいだあらためておかなければならなかった[44][48]

みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ野戦やせん鉄道てつどうひさげから以下いか鉄道てつどう炭坑たんこう、その施設しせつ移管いかんされて営業えいぎょう開始かいししたのは、1907ねん4がつ1にちのことであった[48]

* 大連たいれん - はじめたむろげん長春ちょうしゅんみなみえき) … のちのまん鉄連てつれんきょうせん
* 南関なんかんみね - 旅順りょじゅんあいだ
* 営口支線しせん
* やなぎいつきたむろ支線しせん
* けむりだい支線しせん
* なでじゅん支線しせん
* 安東あんどう奉天ほうてんせん

まんてつたいする政府せいふ命令めいれいしょには、国際こくさい標準軌ひょうじゅんきへの改築かいちく大連たいれんたむろあいだ複線ふくせんさだめられていたが、会社かいしゃがまず着手ちゃくしゅしたのは各線かくせん軌間きかん改築かいちく工事こうじであった[48][49]。ロシア設置せっち広軌こうき狭軌きょうきあらためる工事こうじについては、枕木まくらぎはそのままで片側かたがわのレールを移動いどうすればよいだけの工事こうじであったので転轍機てんてつき以外いがい部分ぶぶん比較的ひかくてき容易よういすすめることができた[48]。しかし、狭軌きょうき標準軌ひょうじゅんきあらため軌する工事こうじ枕木まくらぎ更新こうしんをともなう場所ばしょおおく、しかも一般いっぱん列車れっしゃ運行うんこうをストップしないでおこなわなければならなかったのでけっして簡単かんたんではなかった[48]。そこで、狭軌きょうき線路せんろ敷設ふせつしてある箇所かしょにもう1ほんレールをいてさんせんしきとし、狭軌きょうき標準軌ひょうじゅんき両方りょうほう列車れっしゃ運行うんこうできるようにした[48][49]。この技術ぎじゅつはきわめて複雑ふくざつなものであったが、まんてつがのちのちまでその技術ぎじゅつほこ水準すいじゅんのものであった[49]旅順りょじゅんせんでは1907ねん12月1にちから全面ぜんめんてき標準軌ひょうじゅんき列車れっしゃ移行いこうした[48]長春ちょうしゅん大連たいれんあいだ本線ほんせんでは1908ねん5月にうつりかわりダイヤグラムをつくり、22にち長春ちょうしゅん公主こうしゅみねあいだ、23にち公主こうしゅみねてつみねあいだ、24にちてつみねりょうあいだ、25にちりょう大石おおいし橋間はしま、26にち大石橋おおいしばしかわらぼうてんあいだ、27にちかわらぼうてん大連たいれんあいだ標準軌ひょうじゅんき運転うんてんへとわり、5月30にちからは旅客りょかく貨物かもつぜん列車れっしゃ標準軌ひょうじゅんき列車れっしゃ移行いこうした[48][49]。営口せんその付属ふぞくせんもこのあいだ標準軌ひょうじゅんきあらため軌されている[49]

不要ふようになった狭軌きょうき機関きかんしゃ日本にっぽん還送かんそうされることとなった[48]やすたてまつせんのぞくと還送かんそう車両しゃりょう機関きかんしゃ217りょう貨物かもつしゃ3,659りょう客車きゃくしゃ281りょうにおよんだ[48][49]。これらをならべると延長えんちょう30キロメートルをえるながさになる計算けいさんであった[48][49]。1908ねん5がつ31にち、2,000めい以上いじょうひと参加さんかして大連たいれん港外こうがいしゅう水子みずこえき異例いれい機関きかんしゃの「告別こくべつしき」がおこなわれ、国沢くにさわ理事りじによって「告別こくべつ」もまれた[48][49]

にち戦争せんそうちゅうに2フィート6インチ(762 mm)の軍用ぐんよう軽便鉄道けいべんてつどうとして敷設ふせつされたやすたてまつせんについては、全面ぜんめんてき改築かいちく必要ひつようとした[44][48]やすたてまつせんは1906ねん4がつ1にちから狭軌きょうきでの一般いっぱん旅客りょかく貨物かもつ輸送ゆそう開始かいししていたが、中国ちゅうごくがわ改築かいちく工事こうじみとめなかった[48]1909ねん1がつから交渉こうしょう開始かいしされ、3がつ以降いこう奉天ほうてん総督そうとく衙門で交渉こうしょうがなされたものの中国ちゅうごくがわ姿勢しせい強硬きょうこうであった[48]。8月6にち日本にっぽん政府せいふ清国きよくに政府せいふたいやすたてまつせん改築かいちくにかかわる最後さいご通牒つうちょうはっし、8がつ7にちより工事こうじ着手ちゃくしゅしたが、清国きよくにがわ武装ぶそうしためぐ警隊を派遣はけんして工事こうじ中止ちゅうしもとめた[48]。しかし、まんてつがわはあくまでもあらため工事こうじ強行きょうこうして1911ねん11月1にち工事こうじ完成かんせいした[48]工事こうじ遅延ちえんしたのは、きよしとの交渉こうしょう難航なんこうしたばりではなく、まんてつ外務省がいむしょうあいだ主導しゅどうけんあらそいがしょうじたことにも原因げんいんがあった[44]並行へいこうしておこなわれていたかもみどりこう架設かせつ工事こうじ完成かんせいし、朝鮮ちょうせん縦貫じゅうかん鉄道てつどうとの直通ちょくつう連絡れんらく可能かのうとなった[48]

蒸気じょうき機関きかんしゃ「アメがた

かもみどりこう架橋かきょうについては、ジャンクせん通航つうこう障害しょうがいにならないようえいべい両国りょうこくよりもとめられていた[50]。また、のところその建設けんせつについては法的ほうてき根拠こんきょがあるわけでもなかった[50]日本にっぽん朝鮮ちょうせんがわしんしゅうがわ)から工事こうじはじめたが、中国ちゅうごくがわまんしゅうがわ安東あんどうがわ)から工事こうじすすめているのではないかとうたがい、抗議こうぎする場面ばめんもあった[50]鉄橋てっきょう一部いちぶ橋脚きょうきゃく中心ちゅうしん回転かいてんするようになっており、これによりジャンク航行こうこう障害しょうがいではなくなった[50]。また、日本にっぽんがわ当初とうしょ架橋かきょうされたはしのすべてをきょうよし鉄道てつどう所有しょゆうにしようとしたが、結局けっきょく中国ちゅうごくがわ譲歩じょうほして、かもみどりこう中心ちゅうしんから二分にぶんし、まんしゅうがわやすたてまつ鉄道てつどう同様どうよう、15ねん期限きげんをもって清国きよくにがわ売却ばいきゃくされることとなった[50]

やすたてまつせん使用しようされた車両しゃりょうについては、1911ねん11月4にちすなかわ鎮駅機関きかんしゃ81りょう客車きゃくしゃ680りょう告別こくべつしきおこなわれた[48]。こうして多数たすうのB6がた機関きかんしゃやすたてまつせん軽便けいべん機関きかんしゃまんしゅうからっていき、かわって各線かくせんはしりはじめたのはアメリカせい堂々どうどうたる大形おおがた機関きかんしゃであった[48]。また、客車きゃくしゃ貨車かしゃともに欧米おうべい水準すいじゅんえるこうしつ車両しゃりょうがそろえられていった[48]。こののち、まんてつ技術ぎじゅつは、狭軌きょうきのために内地ないちでは実現じつげんできないことを具現ぐげんするとしての意味いみゆうするようになった[48]

にちしんあいだ紛争ふんそう[編集へんしゅう]

清国きよくには、まんしゅう善後ぜんご条約じょうやく日本にっぽん獲得かくとくした利権りけん無力むりょくはかって行動こうどうしたため、にちしんあいだでは次々つぎつぎ紛争ふんそうしょうじた[51]具体ぐたいてきには、

  1. 清国きよくにがわしんたてまつ鉄道てつどうしんみんたむろ - 奉天ほうてん)の奉天ほうてん停車場ていしゃじょう奉天ほうてんじょう付近ふきんうつし、途中とちゅうまん鉄線てっせん横断おうだんする計画けいかくまんてつ打診だしんしたが、日本にっぽん貨物かもつ流通りゅうつうルートがわり、まんてつ打撃だげきけるとしてこれを拒否きょひしたけん
  2. アメリカの奉天ほうてん総領事そうりょうじウィラード・ディッカーマン・ストレイト英語えいごばん奉天ほうてんじゅんなでから紹儀うながしてイギリスのポーリング商会しょうかい新法しんぽう鉄道てつどうしんみんたむろ - ほうけん)の工事こうじ請負うけおい契約けいやくむすんだことにたいし、日本にっぽんがわ抗議こうぎしたけん
  3. 撤去てっきょ予定よてい大石橋おおいしばし営口あいだ鉄道てつどうについて、貿易ぼうえきみなとである営口とまんてつ連絡れんらくせんとして重要じゅうようであるため、しんがわにその存続そんぞくみとめさせるけん
  4. 日本にっぽん経営けいえいしていたなでじゅんけむりだい炭坑たんこう権利けんり明確めいかくであるとして、経営けいえいをつづけるために権利けんり確固かっことしたものにあらためるけん
  5. やすたてまつ鉄道てつどう沿線えんせん鉱山こうざん採掘さいくつについてにちしん両国りょうこくじん合同ごうどう事業じぎょうとするけん

などであった[51]。このけんだい1西園寺さいおんじ内閣ないかくにおいては解決かいけつをみず、だい2かつら内閣ないかくへとされた[51]

1908ねん11月、ひかりいとぐちみかど西にしふとしきさき相次あいついで逝去せいきょし、1909ねん1がつには軍機ぐんき大臣だいじん袁世凱罷免ひめんされるなど、北京ぺきん政界せいかいだい変動へんどうつづいたためもあってにちしん交渉こうしょう進展しんてんしなかった[51]清国きよくには、しん韓国かんこくさかい間島まじま問題もんだい日本にっぽんあらそいつづけるのならば、まんしゅうかんする案件あんけんをすべてハーグ常設じょうせつ仲裁ちゅうさい裁判所さいばんしょ付託ふたくすることもさないと通告つうこくしたが、きよし背後はいごにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくがあり、奉天ほうてん総領事そうりょうじから民間みんかんうつったストレイトは、ロシアのあずまきよし鉄道てつどう日本にっぽんまんてつ購入こうにゅうまでをも計画けいかくしていた[51]山縣やまがた有朋ありともらはアメリカによるまんしゅうへの干渉かんしょうこわれ、それが韓国かんこくにもおよぶ可能かのうせいがあるとの判断はんだんって間島まじま問題もんだいではきよし妥協だきょうすべくうごいた[51]かつら内閣ないかくは、間島まじま領有りょうゆうけん放棄ほうき間島まじま居住きょじゅう韓国かんこくじん対象たいしょうとする日本にっぽん領事りょうじ裁判さいばんけん要求ようきゅうげた[51]上述じょうじゅつしたやすたてまつ鉄道てつどう改築かいちく問題もんだいも、こうした譲歩じょうほによって解決かいけつされたのであり、1909ねん8がつ改築かいちく工事こうじかんする覚書おぼえがき調印ちょういんされ、標準軌ひょうじゅんきへのあらため軌がみとめられた[51]。また、1909ねん9がつ4にちには間島まじまかんするにちしん協約きょうやくまんしゅう案件あんけんかんするにちしん協約きょうやくむすばれ、きよし主張しゅちょうにそって豆満江とうまんこうしん韓国かんこくさかいとなり、間島まじまもうけられた雑居ざっきょ地区ちくひらきされて、そこに居住きょじゅうする韓国かんこくじん裁判さいばんには日本にっぽん領事りょうじうこととした[51]日本にっぽんは、こうした譲歩じょうほ代償だいしょうとしてよしりんかいやすしあいだ鉄道てつどうきちかい鉄道てつどう)の敷設ふせつけん獲得かくとくした。[51]

後藤ごとう新平しんぺい入閣にゅうかく中村なかむらただしおおやけ総裁そうさい[編集へんしゅう]

だい2だい総裁そうさい中村なかむらただしおおやけ
夏目なつめ漱石そうせきかん満所まんしょかんうえ)」(1909ねん11月5にちづけまんしゅう日日ひび新聞しんぶん」)

後藤ごとう新平しんぺいは、まんてつ経営けいえいのみでは満足まんぞくせず、まんてつ中心ちゅうしんとする一元いちげんてきまんしゅう経営けいえい目指めざしていたが、だい1西園寺さいおんじ内閣ないかくでは大蔵省おおくらしょう逓信ていしんしょう外務省がいむしょうなどの介入かいにゅうによって、なかなかかれ企図きとするようにはことはこべなかった[44]。そこで後藤ごとうかつら太郎たろう接近せっきんし、1908ねん7がつだい2かつら内閣ないかく逓信ていしん大臣だいじんとして懸案けんあん事項じこう解決かいけつはかろうとした[44]後藤ごとう総裁そうさいまんてつるにあたって名文めいぶん調ちょう告別こくべつせている[52]後藤ごとうるにあたっても、首脳しゅのうでは創業そうぎょう当時とうじ苦心くしんによって一体いったいかんされており、その団結だんけつはきわめてかたかった[52]あたらしいまんてつ総裁そうさいには、ふく総裁そうさいだった中村なかむらただしおおやけ就任しゅうにんした[47]後藤ごとうは、入閣にゅうかくして早々はやばやまんてつ監督かんとくけん逓信ていしん大臣だいじんうつし、1908ねん12月には鉄道てつどういん開設かいせつしてまんてつ監督かんとくけんをここへ移管いかんした[44]

1909ねん9月、中村なかむらしん総裁そうさい大学だいがく予備よびもん時代じだい以来いらい友人ゆうじんである文学ぶんがくしゃ夏目なつめ漱石そうせきまんしゅうまねいた[47]漱石そうせき旅行りょこうでの見聞けんぶん感想かんそう随筆ずいひつかん満所まんしょかん」および「まんかんところどころ」としてきした。当時とうじまんてつは、その事業じぎょう内容ないよう内外ないがいひろ宣伝せんでんすることにつとめており、中村なかむら総裁そうさい漱石そうせきまねいたのもたん友人ゆうじん招待しょうたいするのではなく、人気にんき作家さっかである漱石そうせきのペンをとおしてまんてつ事業じぎょう宣伝せんでんさせる目的もくてきもあったろうとかんがえられる[47]漱石そうせき大連たいれんでは中央ちゅうおう試験しけんしょ電気でんき公園こうえん案内あんないされ、同級生どうきゅうせいだった橋本はしもとひだり五郎ごろう佐藤さとうともぐま夏目なつめ書生しょせいをしていたまた野義のぎろうらと旧交きゅうこうあたためた[47]。また、旅順りょじゅん、営口、奉天ほうてんなでじゅん炭坑たんこう、ハルビン、長春ちょうしゅんなどを安東あんどう釜山ぷさん内地ないちかえった[47]。「かん満所まんしょかん」は1909ねん11月5にち11月6にちづけの「まんしゅう日日ひび新聞しんぶん」に、「まんかんところどころ」は「朝日新聞あさひしんぶん」に1909ねん10月21にちから12月30にちまで掲載けいさいされた。中村なかむらしん総裁そうさいは、豪放ごうほうなべらんめえ口調くちょうでありながら情誼じょうぎあつ親分おやぶんはだで、こまかい仕事しごと有能ゆうのう理事りじたちにまかせ、みずからはもっぱら中央ちゅうおうとの折衝せっしょうたるという姿勢しせいつらぬいた[47]理事りじ合議ごうぎせいはほぼ完全かんぜんなものとなり、中央ちゅうおう政府せいふ官僚かんりょうシステムとはことなる植民しょくみん会社かいしゃ独特どくとく合理ごうり主義しゅぎてき官僚かんりょうせい業務ぎょうむ運営うんえいにおけるつよい主体性しゅたいせいがここにはぐくまれていた[47]

一方いっぽう後藤ごとうは、1909ねん12月、韓国かんこく鉄道てつどうをも鉄道てつどういん所管しょかんとすることにいったん成功せいこうし、国内こくない鉄道てつどうふくめた鉄道てつどう一元いちげんてき管理かんり実現じつげんした[44]。しかし、韓国かんこく鉄道てつどう韓国かんこく併合へいごう直前ちょくぜん朝鮮ちょうせん総督そうとく財政ざいせい根幹こんかんをなすだろうとの寺内てらうち正毅まさきらの主張しゅちょうがこののちれられて、総督そうとく管轄かんかつあらためられた[44]後藤ごとうはなおも植民しょくみん統治とうち一元化いちげんかのために拓殖たくしょくきょく設置せっちし、かつら首相しゅしょう総裁そうさい、みずからはふく総裁そうさいとなった[44]。そのうえで後藤ごとうは、1910ねん12月、よく1911年度ねんどからの13年間ねんかん継続けいぞく事業じぎょうとして総額そうがく2おく3,000まんえん予算よさん新橋しんばし下関しものせきあいだ国際こくさい標準軌ひょうじゅんき改築かいちくあん閣議かくぎ決定けっていみ、さらにだいじゅうなな議会ぎかいへの提出ていしゅつにこぎつけた[44]かつら後藤ごとうは、国内こくない鉄道てつどう韓国かんこく清国きよくに鉄道てつどう使用しようされているゲージを統一とういつすることで、戦時せんじにおける軍事ぐんじ輸送ゆそう利便りべん向上こうじょうさせるのみならず、内地ないち外地がいち経済けいざいてきむすびつきをつよめて輸出ゆしゅつ増進ぞうしんはかろうとした[44]。そのため神戸こうべこう港湾こうわん修築しゅうちく下関しものせき陸海りくかい連絡れんらく設備せつびりょう事業じぎょう鉄道てつどういん所管しょかんとしたのであった[44]。しかし、ここでかつら太郎たろう立憲りっけん政友せいゆうかいの「情意じょうい投合とうごう」という政治せいじてき妥協だきょうにはばまれ、鉄道てつどう普及ふきゅう優先ゆうせんする政友せいゆうかい意向いこうにより、標準軌ひょうじゅんきあらためあん事実じじつじょう廃案はいあんとなってしまった[53]

なお、1911ねん7がつロンドンひらかれただい6かい国際こくさい連絡れんらく運輸うんゆ会議かいぎでは、イギリスカナダ日本にっぽんシベリアという経路けいろ世界せかい一周いっしゅうをする世界せかい周遊しゅうゆうけんにちおうむす東半球ひがしはんきゅう一周いっしゅう周遊しゅうゆうけん設置せっちまり、この周遊しゅうゆうけん1913ねんより販売はんばい開始かいしされた[54]。「新橋しんばしから倫敦ろんどんゆき」の切符きっぷは、ジャパン・ツーリスト・ビューロー購入こうにゅうすることができ、ロンドンまでの1とう運賃うんちんは433えん35せん、2とう運賃うんちんは286えん45せんであった[54]みなみまんしゅう鉄道てつどうは、この国際こくさい連絡れんらく運輸うんゆもう幹線かんせんのひとつとなったのである[54]

政党せいとう政治せいじまんてつ[編集へんしゅう]

明治めいじから大正たいしょうにかけて、藩閥はんばつ政治せいじ時代じだいから政党せいとう政治せいじ時代じだいがおとずれるとまんてつ内部ないぶにもおおきな変化へんかがもたらされた[55]1913ねん大正たいしょう2ねん12月だい2だい総裁そうさい中村なかむらただしおおやけふく総裁そうさい国沢くにさわしん兵衛ひょうえ更迭こうてつされた[55]後藤ごとう新平しんぺい中村なかむらただしおおやけ後援こうえんしてきた長州ちょうしゅうばつから立憲りっけん政友せいゆうかいけい政治せいじへと時代じだいながれが変化へんかしてきたのである[55]中村なかむら国沢くにさわ更迭こうてつ大正たいしょう政変せいへんだい3かつら内閣ないかくたおれて山本やまもと権兵衛ごんべえ内閣ないかく成立せいりつした直後ちょくごのことであり[55]、これは政友せいゆうかい総裁そうさい山本やまもと内閣ないかく内務ないむ大臣だいじんはらたかしがねであったといわれる [56]。そして、総裁そうさい政友せいゆうかいけい鉄道てつどう官僚かんりょう鉄道てつどういんふく総裁そうさいだった野村のむら龍太郎りゅうたろうが、ふく総裁そうさいには政友せいゆうかい幹部かんぶだった伊藤いとう大八だいはち就任しゅうにんした[55][56][注釈ちゅうしゃく 9]伊藤いとう大八だいはち中心ちゅうしんとなって理事りじ交代こうたい強力きょうりょくすすめられ、犬塚いぬづか信太郎しんたろうのぞくすべての理事りじ政友せいゆうかいけいえられた[55]。こうしたうごきは草創そうそうより後藤ごとうらと苦楽くらくともにしてきた社員しゃいんからは、まんてつ幹部かんぶのポストが政党せいとう利権りけん対象たいしょうになったかのようにうつり、両者りょうしゃはしばしばはげしく対立たいりつした[55]

おりしも、この時期じき鉄道てつどういん朝鮮ちょうせん鉄道てつどうまんてつ3しゃによって設定せっていされた「さんせん連絡れんらく特別とくべつ運賃うんちん」はまんてつ衰亡すいぼうまねきかねないものだったので、事態じたいはいっそう紛糾ふんきゅうした[55]野村のむら伊藤いとううごきに危機ききかんをもったまんてつ調査ちょうさ村田むらた懋麿大連たいれんえきえきつとむ助手じょしゅ竹中たけなか政一まさかずらが特別とくべつ運賃うんちん反対はんたい運動うんどう先頭せんとうち、犬塚いぬづか説得せっとくして世論せろんうったえた[55]。その結果けっか特別とくべつ運賃うんちん事実じじつじょう撤回てっかいされた[55]伊藤いとうふく総裁そうさいはそれまでおこなわれていた理事りじ合議ごうぎせい廃止はいしし、総裁そうさい権限けんげん強化きょうか提案ていあんしたが、これに創立そうりつ以来いらい理事りじであった犬塚いぬづか強硬きょうこう抵抗ていこうし、伊藤いとうたいする排斥はいせき運動うんどうこった[55][57]。その結果けっか、1914ねん7がつ犬塚いぬづかだい2大隈おおくま内閣ないかくによって罷免ひめんされた翌日よくじつ野村のむら伊藤いとうりょう罷免ひめんされた[57]

たいはな21かじょう要求ようきゅう[編集へんしゅう]

シベリア出兵しゅっぺい(1918ねんブラゴヴェシチェンスク入城にゅうじょうする日本にっぽんぐんまるって出迎でむかえる市民しみんなどをえがいた作品さくひんそらからは航空こうくうたいによりぬの告文こくぶんかれた)
すくい討獨遠征えんせいぐんほう』(1919ねん)より
1920ねん発行はっこうみなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ株券かぶけんだい1増資ぞうし

1914ねんの7がつにはまた、ヨーロッパでだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつしている[58]大戦たいせん直接ちょくせつ戦場せんじょうにならなかったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽん大戦たいせん景気けいきばれる特需とくじゅをもたらしたが、朝鮮ちょうせん台湾たいわんまんしゅうふく中国ちゅうごく大陸たいりくにも好景気こうけいきをもたらした[58]

1914年度ねんどには、大連たいれんまんてつすな河口かこう工場こうじょうでH4かたちばれる加熱かねつしき機関きかんしゃ6りょう独自どくじ製作せいさくされた[59]当初とうしょまんてつは、広漠こうばくまんしゅう原野げんや長距離ちょうきょり停車ていしゃ運転うんてんする鉄道てつどうにはアメリカで開発かいはつされた技術ぎじゅつ好適こうてきであるとしてアメリカせい機関きかんしゃ客車きゃくしゃ貨車かしゃ大量たいりょう導入どうにゅうしていたが、これは、アメリカの技術ぎじゅつつうじて独自どくじ技術ぎじゅつ水準すいじゅんかさねた成果せいかであった[59]。なお、まんてつ機関きかんしゃ自社じしゃ製造せいぞう体制たいせい確立かくりつさせるにいたるのは1921ねんのことである[59]

大隈おおくま重信しげのぶ内閣ないかくは1914ねん7がつ野村のむら伊藤いとうわり、中村なかむら雄次郎ゆうじろうまんてつ総裁そうさいおくんだ[55]1917ねん7がつまで総裁そうさいつとめる中村なかむらは、軍人ぐんじん出身しゅっしん陸軍りくぐんしょう次官じかん総務そうむ長官ちょうかん八幡やはた製鉄せいてつしょ長官ちょうかん歴任れきにんした人物じんぶつであった[55]。こうして内閣ないかく交替こうたいすると総裁そうさい以下いか幹部かんぶわるしくみができていった[55]。アジアが好景気こうけいきくなか、加藤かとう高明こうめい外相がいしょうは、1915ねん1がつ中華民国ちゅうかみんこく袁世凱政権せいけんたいし「たいはな21カ条かじょう要求ようきゅう」をきつけた[58][60]。そのだい2ごうには旅順りょじゅん大連たいれん関東かんとうしゅう)の租借そしゃく期限きげんまんてつやすたてまつ鉄道てつどう権益けんえき期限きげんを99ねん延長えんちょうすることがふくまれていた[58][60]要求ようきゅう事項じこうであるだい2ごう自体じたい問題もんだいにならなかったが、希望きぼう事項じこうとしてかかげただい5ごう漏洩ろうえいすると中国ちゅうごくナショナリズムこし、日貨にっか排斥はいせき運動うんどうこった[58][60]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくもこれには警戒けいかいしんつよめ、同盟どうめいこくであったイギリスからもだい5ごう要求ようきゅうはあきらめるよう通告つうこくがあった[60]。ナショナリズムのうごきはまんしゅう地方ちほうにも波及はきゅうし、排日はいにちねつたかまるなかで、「居留民きょりゅうみん引上ひきあげ」「なでじゅん警戒けいかいげん」(『まんしゅう日日ひび新聞しんぶん』1915ねん4がつ6にちづけ)、「大連たいれんえきだい混雑こんざつ」(どう4がつ7にちづけ)といった混乱こんらんしょうじた[58]

ロシア革命かくめいとシベリア出兵しゅっぺい[編集へんしゅう]

1917ねんロシア革命かくめいは、それにもしてまんしゅうおおきな衝撃しょうげきをあたえた[61]。そのにちべいえいふつなど15かこくによる革命かくめい干渉かんしょう戦争せんそうシベリア出兵しゅっぺい)がおこなわれたこともあって、まんしゅう戦場せんじょう一部いちぶしたのである[61]。ロシア革命かくめいたいするまんてつ反応はんのう素早すばやく、すでに1917ねん6がつ理事りじ川上かわかみ俊彦としひこをロシアに派遣はけんし、がつ革命かくめい以降いこう状況じょうきょう視察しさつさせた[61]11月15にち川上かわかみ帰国きこくして本野ほんの一郎いちろう外相がいしょうボルシェヴィキによるロシアじゅうがつ革命かくめいふくめた「こく視察しさつ報告ほうこくしょ」を提出ていしゅつした[61]。この報告ほうこくしょ寺内てらうち正毅まさきはらたかしなどにも重視じゅうしされ、当該とうがい日本にっぽん外交がいこう政策せいさく決定的けっていてき役割やくわりをあたえた[61]。そのもロシアの動向どうこうおおきな関心かんしんをいだいていたまんてつは、調査ちょうさ中心ちゅうしん調査ちょうさ活動かつどうやロシア研究けんきゅう活発かっぱつさせた[61]

まんてつ疑獄ぎごく事件じけん[編集へんしゅう]

一方いっぽうまんてつ内部ないぶでは、1917ねん総裁そうさい役職やくしょくめい理事りじちょう変更へんこうされるとともに、国沢くにさわしん兵衛ひょうえ理事りじちょう就任しゅうにんした。1918ねん大正たいしょう7ねんはらたかし内閣ないかく成立せいりつすると、はら1919ねん大正たいしょう8ねん)4がつ国沢くにさわ理事りじちょう更迭こうてつした[57]同時どうじ理事りじかい廃止はいししてトップを社長しゃちょうあらため、ふたた野村のむら龍太郎りゅうたろう起用きようふく社長しゃちょう政友せいゆうかいけい鉄道てつどう官僚かんりょう中西なかにし清一せいいち起用きようした[57][62]1920ねん中西なかにしとうれん炭坑たんこう内田うちだ汽船きせんふね相場そうばよりもたか価格かかく購入こうにゅうしたが、とうれん炭坑たんこう政友せいゆうかい幹部かんぶであるもりつとむ経営けいえいする炭坑たんこうであり、内田うちだ汽船きせん経営けいえいしゃ政友せいゆうかいけい内田うちだ信也しんやであった[57][62][63]炭坑たんこう汽船きせんまんてつ売却ばいきゃくした代金だいきん政友せいゆうかい選挙せんきょ資金しきんてられたといううたがいがもたれた(まんてつ疑獄ぎごく事件じけん[57][63]1921ねん野党やとう憲政けんせいかいはこの問題もんだい帝国ていこく議会ぎかい追及ついきゅうしたが、問責もんせき決議けつぎあん与党よとう反対はんたい成立せいりつしなかった[57][63]司法しほうでも中西なかにし背任はいにんざい告訴こくそされた[57]。また社員しゃいんなかにもしょくして抵抗ていこうしたものがあった[57]興業こうぎょう庶務しょむ課長かちょうであった山田やまだじゅんは、野村のむら中西なかにし直言ちょくげんし、これがれられないとなるとしょくして、検事けんじたい決定的けっていてき証拠しょうこ提出ていしゅつした[62]中西なかにし逮捕たいほ起訴きそされたが、東京とうきょう控訴こうそいんでの控訴こうそしんでは証拠しょうこ不十分ふじゅうぶんとして無罪むざいとなった[57][63]

1921ねん野村のむら社長しゃちょう退任たいにんのあと、まんてつ社長しゃちょうは、早川はやかわせん吉郎よしろう川村かわむら竹治たけじ安広やすひろばん一郎いちろうつとめた。社員しゃいん政党せいとう介入かいにゅうたい団結だんけつかんがえるようになり、1927ねん昭和しょうわ2ねん)には社員しゃいんかい結成けっせいされた[64]社員しゃいんかいぜん社員しゃいん加入かにゅうによって構成こうせいされており、したがって一般いっぱん労働ろうどう組合くみあい組織そしきとはことなっていたが、政党せいとう介入かいにゅう対抗たいこうする意味いみとともに当時とうじ労働ろうどう運動うんどう昂揚こうよう風潮ふうちょうもまた影響えいきょうしていたとみることができる[64]

まんてつ中興ちゅうこうやま本条ほんじょう太郎たろう[編集へんしゅう]

まんてつ中興ちゅうこう」といわれたやま本条ほんじょう太郎たろう

1926ねん7がつ1にち蔣介せき北京ぺきん政府せいふ撲滅ぼくめつ目指めざすとしてきた宣言せんげんして軍事ぐんじ行動こうどう開始かいしした[65]。蔣介せきひきいる国民こくみん革命かくめいぐん南京なんきん上海しゃんはい占領せんりょうして、1927ねん5がつ山東さんとうしょうにせまると、田中たなか義一ぎいち内閣ないかく同省どうしょう在留ざいりゅう日本人にっぽんじん保護ほご理由りゆう派兵はへい声明せいめいはっした(山東さんとう出兵しゅっぺい[66]

6月27にちから7がつ7にちにかけては東京とうきょう東方とうほう会議かいぎひらかれ、出先でさき軍人ぐんじん外交がいこうかん行政ぎょうせいかんによって中国ちゅうごく情勢じょうせい検討けんとうがなされたが、満蒙まもう政策せいさくについては、奉天ほうてん軍閥ぐんばつ領袖りょうしゅうちょうさく排除はいじょして傀儡かいらい政権せいけんまんしゅうつくるべしとする意見いけんちょうさく勢力せいりょくとは連携れんけいして日本にっぽん満蒙まもう権益けんえき維持いじ拡大かくだいしようという意見いけんとにおおきくかれていた[66]前者ぜんしゃにはのちちょうさく霖を爆殺ばくさつしてまんしゅう占領せんりょう実行じっこうにうつそうという関東軍かんとうぐん一派いっぱがふくまれており、後者こうしゃ意見いけん田中たなか義一ぎいち首相しゅしょうけん外相がいしょう陸軍りくぐんしょう首脳しゅのうのものであった[66]大陸たいりく政策せいさくふかくかかわっていた実業じつぎょう出身しゅっしん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん当時とうじはまだ当選とうせん2かい)、やま本条ほんじょう太郎たろう後者こうしゃ意見いけんっており、田中たなか首相しゅしょう東方とうほう会議かいぎののち、山本やまもとまんてつ社長しゃちょうにんじた[66]山本やまもと大胆だいたん改革かいかくおこない「まんてつ中興ちゅうこう」ともいわれ、ふく社長しゃちょうには山本やまもと腹心ふくしん松岡まつおか洋右ようすけ就任しゅうにんした[67]

山本やまもとは、三井物産みついぶっさん上海しゃんはい支店してん貿易ぼうえき手腕しゅわん発揮はっきし、帰国きこく三井物産みついぶっさん理事りじ常務じょうむ取締役とりしまりやく歴任れきにんしたのち、1920ねんには立憲りっけん政友せいゆうかい入党にゅうとうして国政こくせい選挙せんきょ立候補りっこうほして当選とうせんし、1927ねんには政友せいゆうかい幹事かんじちょうとなったものであった[67]山本やまもとは「産業さんぎょう立国りっこくろん」を持論じろんとし、人口じんこう問題もんだい食糧しょくりょう問題もんだい金融きんゆう恐慌きょうこう失業しつぎょう問題もんだい解決かいけつのため、「満蒙まもう分離ぶんり」を前提ぜんてい鉄道てつどうもう拡充かくじゅうはしらとしたまんしゅう開発かいはつ推進すいしんとなえた[67]。そのうえで、まんしゅう農業のうぎょう鉱工業こうこうぎょう移民いみんとすべく、まんてつ活用かつようしようとし、具体ぐたいてきには、製鉄せいてつ事業じぎょう製油せいゆ事業じぎょう充実じゅうじつマグネシウムアルミニウム関連かんれん工業こうぎょうならびに肥料ひりょう工業こうぎょう振興しんこう、さらに移民いみん拓殖たくしょくすすめる一方いっぽう、「経済けいざい」と「実務じつむ」をスローガンに関連かんれん企業きぎょう統廃合とうはいごうはかって経営けいえい合理ごうりすすめた[67]。さらに山本やまもと松岡まつおかふく社長しゃちょうともにまんてつ敷設ふせつ問題もんだい具体ぐたいし、

* きちかいせんあつしからろうあたまみぞ中国語ちゅうごくごばん們江(豆満江とうまんこう)にいたせん
* 長大ちょうだいせん長春ちょうしゅんからだいげん大安だいあん)にいたせん
* きちせん吉林きつりんから五常ごじょういたせん
* のべうみせん延吉えんきちからうみりんいたせん
* 洮索せん洮南からさくりん(ソロン鎮)にいたせん

けい5せん敷設ふせつちょうさく霖との交渉こうしょうつうじて基本きほん合意ごうい実現じつげんした[67]当時とうじちょうさく霖は北京ぺきんにあって南方なんぽう軍閥ぐんばつや蔣介せき戦闘せんとうしており、山本やまもと松岡まつおか北京ぺきんたずねてしんせん敷設ふせつ折衝せっしょうおこなったが、ちょうさく霖は交渉こうしょうばしをはかり、ようやく山本やまもとらの要求ようきゅうんで鉄道てつどう工事こうじ許可きょかした[19]。しかし、細目さいもく交渉こうしょうをこれからすすめようというだんになってちょうさく霖そのひとくなってしまった[67]

ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん[編集へんしゅう]

ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん現場げんば

1928ねんまんてつべいけいロシアじんから情報じょうほう提供ていきょうけ、ジャライノールなどで油田ゆでん調査ちょうさ開始かいししたところ[68]、1中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん国境こっきょう間島まじま問題もんだい深刻しんこくはじめた。

1928ねん昭和しょうわ3ねん6月4にちちょうさく霖をせた専用せんよう列車れっしゃ奉天ほうてん郊外こうがいのクロス地点ちてんきょうたてまつせんまん鉄線てっせん立体りったい交叉こうさてん付近ふきん爆破ばくはされ、北京ぺきんから奉天ほうてんかえるため乗車じょうしゃしていたちょうさく霖が重傷じゅうしょうい、2にち死亡しぼうした(ちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん[69][70][71]ちょうさく霖の爆殺ばくさつくわだてたのは、関東軍かんとうぐん高級こうきゅう参謀さんぼう河本かわもと大作だいさく大佐たいさ実行じっこうしたのは独立どくりつ守備しゅびたい東宮とうぐう鉄男てつおらであった[69][70]河本かわもとらはちょうさく霖を殺害さつがいして、父親ちちおやとの不和ふわうわさされていたちょうまなぶりょう擁立ようりつしようとしており[71]かれ土肥どいはら賢二けんじなどからは「親日しんにち権化ごんげ」とみられていた[72]東宮とうぐう中国人ちゅうごくじん苦力くーりー2人ふたり殺害さつがいし、爆破ばくはきたぐん犯行はんこうとみせかけようとしたのである[69]

この事件じけん処理しょりについて、田中たなか義一ぎいち首相しゅしょう元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもちらの意向いこうれて真相しんそう究明きゅうめいし、陸軍りくぐん軍人ぐんじん関与かんよ確認かくにんされたらきびしく処断しょだんするつもりであり、昭和しょうわ天皇てんのうにも当初とうしょそのように上奏じょうそうした[73]白川しらかわ義則よしのり陸相りくしょう田中たなかけて事件じけん真相しんそうあきらかにして処分しょぶんしようとうごいた[73]。しかし、上原うえはら勇作ゆうさく閑院みやじん親王しんのうりょう元帥げんすいはじめ陸軍りくぐん長老ちょうろう陸軍りくぐん首脳しゅのう田中たなか白川しらかわ方針ほうしん反対はんたいであり、白川しらかわ結局けっきょくちょうさく霖の列車れっしゃ爆破ばくはされた線路せんろ守備しゅび責任せきにんのみを行政ぎょうせい処分しょぶんにとどめることを陸軍りくぐん総意そういとすることとした[73]田中たなか内閣ないかくほか閣僚かくりょうも、田中たなか方針ほうしん反対はんたいしたので、田中たなかもその圧力あつりょくこうしきれず、最終さいしゅうてきには、行政ぎょうせい処分しょぶんのみにとどめる方針ほうしんてんじた[73]昭和しょうわ天皇てんのうは、この田中たなか変化へんかつよ不信ふしんをいだき、牧野まきのしんあきら鈴木すずき貫太郎かんたろうにも諮問しもんしたうえで田中たなか首相しゅしょう問責もんせきした[74]

まんしゅうちょうさく霖と中国ちゅうごく本土ほんどの蔣介せきというりょう反共はんきょう政権せいけんによる中国ちゅうごく分割ぶんかつ前提ぜんていに、その双方そうほう交渉こうしょうしつつ日本にっぽん権益けんえき擁護ようごするというのが、田中たなかの「等距離とうきょり外交がいこう」(服部はっとり龍二りゅうじ[75])ではあった[70]。しかし、この外交がいこう路線ろせん爆殺ばくさつ事件じけんによって崩壊ほうかいした[70]ちょうさく霖の子息しそくちょうまなぶりょう父親ちちおや事実じじつかくとおし、冷静れいせい対処たいしょして時間じかんかせぎながら体制たいせいなおし、奉天ほうてん軍閥ぐんばつひきいるちち後継こうけいしゃ就任しゅうにんするというはなわざをやってのけた[76]。1928ねん12月、ちょうまなぶりょう国民こくみん政府せいふ青天白日せいてんはくじつはたかかげてえきのぼりおこなった[70][76]。さらにちょうまなぶりょうは、ちょうさく霖時だいからの幕僚ばくりょう親日しんにち巨頭きょとうだった楊宇霆つねかげえんじゅを1929ねん1がつ暗殺あんさつして親日しんにち一掃いっそうした[76]田中たなか外交がいこうは、こうして完全かんぜんまってしまった[70]爆殺ばくさつ事件じけんのちやま本条ほんじょう太郎たろう臨時りんじ経済けいざい調査ちょうさ委員いいんかい発足ほっそくさせ、これを既存きそんまんてつ調査ちょうさ並存へいそんさせつつも、より実際じっさい立案りつあんにかかわる調査ちょうさ活動かつどう委託いたくせしめた[67]。1929ねん6がつ20日はつかまんてつにはふたた理事りじかい設置せっちされ、トップの役職やくしょくめい総裁そうさいもどされた。1929ねん7がつ田中たなか首相しゅしょう辞任じにんした[74]山本やまもと田中たなかといううしたてうしなったこともあり、8がつ14にちまんてつ総裁そうさいをおりた。あたらしい総裁そうさいには仙石せんごくみつぐ就任しゅうにんした。

一方いっぽうちょうさく爆殺ばくさつ事件じけんから4かげつ、1928ねん10がつには陸軍りくぐんだい学校がっこう兵学へいがく教官きょうかんであった石原いしはら莞爾かんじ中佐ちゅうさ関東軍かんとうぐん参謀さんぼう着任ちゃくにんした[77]。1929ねん5がつには板垣いたがき征四郎せいしろう河本かわもと大作だいさく後任こうにん高級こうきゅう参謀さんぼうとして着任ちゃくにんした[77]。7月、石原いしはららは「たい作戦さくせん計画けいかく研究けんきゅう」とだいする参謀さんぼうの「きたまん旅行りょこう」を実施じっしし、やく2週間しゅうかん長春ちょうしゅん、ハルビンからハイラルまんしゅうさと洮南各地かくちをまわった[77]。この旅行りょこうのなかで、石原いしはらは「戦争せんそう大観たいかん」の講義こうぎをおこない、板垣いたがきはこれにつよ共鳴きょうめいしたといわれる[77]。また、石原いしはら旅行りょこうちゅうに「国運こくうん転回てんかい根本こんぽん国策こくさくたる満蒙まもう問題もんだい解決かいけつあん」をいちぎょうしめしたが、これは日本にっぽん国内こくない不安ふあん除去じょきょのためにも、多数たすう中国ちゅうごく民衆みんしゅうのためにも満蒙まもう問題もんだい積極せっきょくてき解決かいけつ必要ひつようで、これは日本にっぽん満蒙まもう領有りょうゆうによって実現じつげんされるが、そのためにはたいべい戦争せんそうさなければならないというものであった[77]。さらに石原いしはらは、まんしゅうさとにおいて「関東軍かんとうぐん満蒙まもう領有りょうゆう計画けいかく」を一同いちどうしめしたが、それによれば、長春ちょうしゅんもしくはハルビンに総督そうとくき、だい中将ちゅうじょう総督そうとくとする軍政ぐんせいいて、「日本人にっぽんじんだい規模きぼ企業きぎょう智能ちのうもちいうる事業じぎょうに、朝鮮ちょうせんじん水田すいでん開拓かいたくに、ささえじんしょう商業しょうぎょう労働ろうどうに、各々おのおの其能りょく発揮はっき共存きょうぞん共栄きょうえいきょぐべし」というものであった[77]石原いしはら自身じしん構想こうそうまんてつないんだのは、1930ねん3月のまんてつ調査ちょうさでの講話こうわのレジュメがまんしゅう領有りょうゆう計画けいかく構想こうそうそのものであったことからもられる[77]石原いしはら関東軍かんとうぐん調査ちょうさ機能きのう不十分ふじゅうぶんであったところから、まんてつ調査ちょうさ調査ちょうさ協力きょうりょく要請ようせいしていたのである[77]

まんしゅう事変じへんまんてつ改組かいそ[編集へんしゅう]

関東軍かんとうぐん参謀さんぼう石原いしはら莞爾かんじ
関東軍かんとうぐん高級こうきゅう参謀さんぼう板垣いたがき征四郎せいしろう

関東軍かんとうぐんにおいては石原いしはら莞爾かんじ中心ちゅうしん満蒙まもう領有りょうゆうろん具体ぐたいされつつあった[78]。もとより、これ以前いぜんにも21かじょう要求ようきゅうさい明石あかし元二郎もとじろうなどのように陸軍りくぐんない領有りょうゆうろんとなえられたことはあったが、石原いしはらのそれは行政ぎょうせい組織そしきのありかたにまでんだものであり、具体ぐたいせいにおいても計画けいかくせいにおいても従前じゅうぜんではなかった[78]石原いしはら満蒙まもう領有りょうゆうろん元来がんらい世界せかい最終さいしゅうせんろん念頭ねんとうかぎりにおいて、まんしゅうプラス中国ちゅうごく本土ほんど領有りょうゆうろんであり、そうでなければ長期ちょうき持久じきゅうせんたたかくだけの自給自足じきゅうじそく体制たいせい確立かくりつしえないものであった[78]一方いっぽう関東軍かんとうぐん内部ないぶには「門戸もんこ開放かいほう機会きかい均等きんとう主義しゅぎ尊重そんちょう」しながらことすすめるべきだとのろんもあり、その中心ちゅうしん人物じんぶつ板垣いたがき征四郎せいしろうであった[78]板垣いたがき意見いけんは、事変じへん長期ちょうきによって満蒙まもう領有りょうゆうろん後退こうたいし、わって独立どくりつ国家こっか樹立じゅりつろん台頭たいとうするにおよんで、次第しだいにその発言はつげんりょくしていった[78]

まんてつ包囲ほういもう世界せかい恐慌きょうこう[編集へんしゅう]

1929ねんあきはじまった世界せかい恐慌きょうこう日本にっぽん深刻しんこく影響えいきょうをもたらしたのみならず、まんしゅうにも多大ただい影響えいきょうおよぼした[79]恐慌きょうこうによりまんてつ営業えいぎょう成績せいせきいちじるしく悪化あっかしたことにくわえ、中国ちゅうごくがわまんてつ並行へいこう鉄道てつどう建設けんせつ計画けいかくしており、もし、これが実現じつげんするとまんてつ経由けいゆ貨物かもつ輸送ゆそうがさらに減少げんしょうし、経営けいえい危機ききてき状況じょうきょうおちいることが懸念けねんされた[79]。なお、中国ちゅうごくでは、1930ねん5月から、蔣介せきはん蔣介せき連合れんごうとのあいだ中原なかはら大戦たいせんはじまっているが、その帰趨きすうけっしたのはちょうさく霖の後継こうけいしゃちょうまなぶりょうであった[80]。1930ねん9がつ閻錫やまのもとにひろしちょうめい玉祥ぎょくしょうなどはん蔣の人々ひとびと立場たちばえてあつまり政権せいけん成立せいりつさせたが、はん蔣の立場たちばから期待きたいされていたまんしゅうちょうまなぶりょうは9月18にち、蔣介せき支持しじ立場たちば鮮明せんめいにしたのである[80]ちょうまなぶりょうは、国民こくみん政府せいふとの協議きょうぎのなかで、東北とうほく政務せいむ委員いいんかい東北とうほく交通こうつう委員いいんかいは、中央ちゅうおう集権しゅうけん強化きょうか目指めざ立場たちばにははんしているとはしながらも、その存続そんぞく主張しゅちょうして蔣介せきから了解りょうかいていた[81]

ちょうまなぶりょう

東北とうほく交通こうつう委員いいんかいは、日本にっぽんまんしゅう権益けんえき中核ちゅうかくであるまんてつ中国ちゅうごく鉄道てつどう包囲ほういし、まんしゅうちゅう貨物かもつまんてつから奪還だっかんし、まんてつ機能きのう麻痺まひさせる計画けいかくてていた[81]。すなわち、まんてつをはさむ東西とうざいの2だい幹線かんせん建設けんせつし、これを北平きたひら北京ぺきん) - 奉天ほうてんあいだ集中しゅうちゅうさせて、そのルートじょうあらたに築港ちっこうして連絡れんらくさせるならば、まんてつ包囲ほういしてその死命しめいせいするのみならず、ソ連それん権益けんえき鉄道てつどうであるひがしささえ鉄道てつどうあずまきよし鉄道てつどう)にも重大じゅうだい脅威きょういあたえることができるという構想こうそうである[81]資金しきん調達ちょうたつ官民かんみん合弁ごうべんで、なおも不足ふそくする場合ばあいには、鉄道てつどう外国がいこく支配しはいまねかないようきびしい条件じょうけんしたうえで外国がいこく資本しほんとくにアメリカ資本しほん、ドイツ資本しほん)をれることとした[81]。すでに7がつよりにしきしゅう南方なんぽうにんにくあしとうではドイツ資本しほんによるだい規模きぼ海龍かいりゅう地区ちく港湾こうわん建設けんせつ工事こうじはじまっていた[81]東北とうほく交通こうつう委員いいんかい計画けいかくする2だい幹線かんせん完成かんせいすれば、まんしゅう南北なんぼく要地ようちから中国ちゅうごく鉄道てつどう経由けいゆしてにんにくあしとういた距離きょりは、まんてつ利用りよう大連たいれんくのにくらべていちじるしく短縮たんしゅくされるため、まんてつにとって一大いちだい脅威きょういとなることは充分じゅうぶん予想よそうされた[81]。すでに完成かんせいしている中国ちゅうごく鉄道てつどうは、きたやすし北平きたひら奉天ほうてんたてまつうみ奉天ほうてん - 海龍かいりゅう)、吉海よしうみ吉林きつりん - 海龍かいりゅうよしあつし吉林きつりん - あつしひがし4せんきたやすしよんよんたいらがい - 洮南)、洮昴(洮南 - すばるすばるけい)、ひとしかつチチハル - かつさん)の西にし4せん連絡れんらく運転うんてん開始かいししており、このうち、たてまつうみ吉海よしうみりょうせんについては連絡れんらく割引わりびき実施じっしするなど、まんてつ圧迫あっぱくさくつよめた[81]

世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょうまんしゅうにおいても端的たんてきにあらわれ、たとえば1930ねん昭和しょうわ5ねん大連たいれんこうあつかった輸出入ゆしゅつにゅう貨物かもつは、前年度ぜんねんどくらべて輸出ゆしゅつやく200まんトン、輸入ゆにゅうやく50まんトン減少げんしょうした[81]。これは、当然とうぜんまんてつ輸送ゆそう収入しゅうにゅう悪化あっかさせ、まんてつ鉄道てつどう事業じぎょう収益しゅうえき前年ぜんねんの3ぶんの1にみ、2,000にん従業じゅうぎょういん解雇かいこ余儀よぎなくされた。さらに、長期ちょうきてき低落ていらくしていたぎん相場そうばが1930ねんはいって暴落ぼうらくしたことも、ぎんけん運賃うんちんをとっていた中国ちゅうごく鉄道てつどうには有利ゆうりである反面はんめんきむけん運賃うんちんをとっていたまんてつにはおおきな痛手いたでであった[81]。すなわち、銀貨ぎんかこくにおいてきむけん運賃うんちん採用さいようしているまんてつにあっては、ぎん暴落ぼうらく必然ひつぜんてき運賃うんちん高騰こうとうまねくのであって、安価あんかなライバルせん貨物かもつ輸送ゆそううばわれるのは当然とうぜんのことだったのである[81]

世界せかい恐慌きょうこうぎんやすまんてつ包囲ほういもうといった悪条件あくじょうけんかさなり、1930ねん以降いこうまんてつをめぐる情勢じょうせい深刻しんこくなものとなっていった[81]1930ねん国勢調査こくせいちょうさでは、関東かんとうしゅうみなみまんしゅう鉄道てつどう付属ふぞく地帯ちたいまんてつ付属ふぞく)に居住きょじゅうする日本人にっぽんじんは、それぞれ10まんにんえていた[82]ざいまん日本人にっぽんじん22まん8,000のだい部分ぶぶんまんてつ附属ふぞくじゅうし、まんてつならびにその付属ふぞく会社かいしゃ直接ちょくせつ間接かんせつ依存いぞんして生計せいけいてていたのである[81]

浜口はまぐち雄幸ゆうこう内閣ないかく外相がいしょうぬさはら喜重郎きじゅうろうは、きた以後いご国権こっけん回復かいふく運動うんどうまんてつ包囲ほういもう形成けいせいへとかうことで「まんてつ死地しちおちいれ」るものとなるという危機ききかんをもち、1930ねん11がつ上旬じょうじゅんたいまん鉄道てつどう交渉こうしょう方針ほうしんて、懸案けんあん事項じこうかんする大幅おおはば譲歩じょうほ方針ほうしん決定けっていした[81]。つまり、田中たなか内閣ないかくのときの山本やまもとちょうさく協定きょうてい5鉄道てつどうのうち、正式せいしき請負うけおい契約けいやくいま成立せいりつしていない3鉄道てつどう、すなわちきちせん吉林きつりん - 五常ごじょう)、のべうみせん延吉えんきち - うみりん)、洮索せん(洮南 - さくりん鎮)についてはすべて中国ちゅうごく自弁じべん敷設ふせつまかせることとし、正式せいしき契約けいやく成立せいりつしている2路線ろせんについても、長大ちょうだいせん長春ちょうしゅん - だい賚)は中国ちゅうごく自弁じべん鉄道てつどう敷設ふせつするようつとめ、きちかいせんについてはあつし-ろうあたまみぞあいだのみを日本にっぽん敷設ふせつし、ろうあたまみぞ-們江にかんしては当分とうぶん権利けんり留保りゅうほするにとどめることとして、中国ちゅうごくがわ国権こっけん回復かいふくねつ沈静ちんせいはかろうとしたのである[81]。ただし、中国ちゅうごくがわ敷設ふせつ予定よていしている鉄道てつどうのうちまんてつにとって致命ちめいてきかんがえられる、ていたむろ - 長春ちょうしゅんていたむろ - あきらたけ、洮南 - ハルビン、洮南 - つうりょうについては、その敷設ふせつ阻止そしするためにあらゆる手段しゅだんこうじることとした[81]。そして、これまでまんてつ平行へいこうせんとして抗議こうぎしてきた吉海よしうみせん上述じょうじゅつ)とどおりせんとらやま - どおりりょう)については、永続えいぞくてき連絡れんらく協定きょうていまんてつ中国ちゅうごく鉄道てつどうとのあいだでむすばれることを条件じょうけん抗議こうぎ撤回てっかいすることとした[81]ぬさばらあんかならずしも全面ぜんめんてき妥協だきょうではなかったが、山本やまもとちょう協定きょうていからみればはなはだしい後退こうたいであり、また平行へいこうせん吉海よしうみどおりへの異議いぎ撤回てっかいする一方いっぽうで洮南-どおりりょうなどの建設けんせつ絶対ぜったい阻止そししうるかについてははなは疑問ぎもんであるとわざるをず、全面ぜんめんてき後退こうたい余儀よぎなくされることもかんがえられた[81]ぬさばら方針ほうしんは、11月14にちづけ訓令くんれいによって重光しげみつまもるちゅうはな代理だいり公使こうしつたえられた[81]

まんしゅうさんスケ」のひとり、松岡まつおか洋右ようすけ[注釈ちゅうしゃく 10]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)1がつぜんまんてつふく総裁そうさい政友せいゆうかい代議士だいぎし松岡まつおか洋右ようすけ帝国ていこく議会ぎかいで「満蒙まもうはわがくに生命せいめいせんである」とべて満蒙まもう重要じゅうようせい強調きょうちょうした[83]松岡まつおかによれば、満蒙まもう日本にっぽん勢力せいりょくるにいたったのは、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん独立どくりつ脅威きょういあたえ、ロシアが日本にっぽん存立そんりつおどかしたからであり、それを日本にっぽんにちしんにちりょう戦争せんそういたことで満蒙まもう権益けんえきみとめられたのであるとした[83]。しかるに、現在げんざい満蒙まもう国民こくみん経済けいざいてき自立じりつにとってかせない地域ちいきとなっているにもかかわらず、国防こくぼうじょう危機ききにさらされているとしてぬさげん外交がいこうを「軟弱なんじゃく」と批判ひはんして、武力ぶりょくによる強硬きょうこう解決かいけつ主張しゅちょうした[83]

まんしゅう事変じへん[編集へんしゅう]

1931ねん9がつ18にちから19にちにかけて関東軍かんとうぐん独立どくりつ守備しゅびたい)の攻撃こうげきをうけた北大ほくだい
日本にっぽん陸軍りくぐんだい2師団しだん奉天ほうてん入城にゅうじょう(1931ねん9がつ18にち

1931ねん9月18にち関東軍かんとうぐんは、ちょうまなぶりょう北平きたひら滞在たいざいし、奉天ほうてん軍閥ぐんばつ主力しゅりょく長城ちょうじょう以南いなん結集けっしゅう、さらに残存ざんそん留守るす部隊ぶたいひがしさんしょう分散ぶんさん配置はいちされていた間隙かんげきをぬって、奉天ほうてん郊外こうがいやなぎじょうみずうみまん鉄線てっせん爆破ばくは事件じけんやなぎじょうみずうみ事件じけん)をこした[84][85]。そして、それを中国ちゅうごくがわ仕業しわざ発表はっぴょうして懸案けんあんまんしゅう占領せんりょう作戦さくせん実行じっこうにうつした[84]関東軍かんとうぐん作戦さくせん計画けいかくは、かく部隊ぶたい迅速じんそく奉天ほうてん集中しゅうちゅうさせ、戦闘せんとう開始かいし劈頭へきとう東北とうほくぐん主力しゅりょくはたき、その権力けんりょく中枢ちゅうすう麻痺まひさせようというもので、そうすれば四分五裂しぶんごれつするちょうまなぶりょうぐん攻撃こうげきしたり、買収ばいしゅうしたりするのは比較的ひかくてき容易よういであるというかんがえであった[18]。いずれにしても、関東軍かんとうぐんだい2師団しだん独立どくりつ守備しゅびたいから公称こうしょう1まんあまり実際じっさいは8,800)の少数しょうすう兵力へいりょくをもって、留守るす部隊ぶたいとはいえ戦車せんしゃ航空機こうくうき重火器じゅうかき若干じゃっかんどくガス兵器へいき装備そうびしたちょうまなぶりょうぐん20まんあまり対峙たいじしたのである[84]関東軍かんとうぐん野戦やせん訓練くんれんかさね、24センチ榴弾りゅうだんほう秘密裏ひみつり奉天ほうてんはこれて夜襲やしゅう威嚇いかく射撃しゃげきにより相手あいてきょ軍事ぐんじ行動こうどう展開てんかいした[84]実際じっさい榴弾りゅうだんほう轟音ごうおん地響じひびきとは、東北とうほくぐんのみならず奉天ほうてん市民しみん恐怖きょうふおとしいれた[84]北平きたひらにあったちょうまなぶりょう日本にっぽんぐん挑発ちょうはつらないよう無抵抗むていこう指示しじし、そのため奉天ほうてんぐん軍事ぐんじ拠点きょてんであった北大ほくだい営と奉天ほうてんじょう短期間たんきかん占領せんりょうされた[84]

やなぎじょうみずうみ事件じけん勃発ぼっぱつのときから政府せいふ陸軍りくぐん謀略ぼうりゃくであることをつようたがっており、9月19にち本庄ほんじょうしげる関東軍かんとうぐんそう司令しれいかんからの増援ぞうえん要求ようきゅう一蹴いっしゅうされていた[86]閣議かくぎでも不拡大ふかくだい方針ほうしん確認かくにんされ、ぬさはら喜重郎きじゅうろう外相がいしょう井上いのうえ準之助じゅんのすけ蔵相ぞうしょうみなみ次郎じろう陸相りくしょうたいし、部隊ぶたいはらちゅうへの帰還きかんつよせまった[86]。そこで関東軍かんとうぐん吉長よしながせん経由けいゆ吉林きつりんだい2師団しだん主力しゅりょくおくみ、わざと奉天ほうてん警備けいび手薄てうすにして朝鮮ちょうせんぐん来援らいえん要請ようせいしたが、9月19にち金谷かなやはんさん参謀さんぼう総長そうちょう出兵しゅっぺい制止せいしした[86]関東軍かんとうぐん9月21にちには吉林きつりん占領せんりょうし、同日どうじつ、かねてより来援らいえん要請ようせいされていたはやしずくじゅうろう司令しれいかんとする朝鮮ちょうせんぐん独断どくだんかもみどりこうをわたり、まんしゅうはいった[84][86][87]本来ほんらい国境こっきょうえての出兵しゅっぺいぐん統帥とうすいけんゆうする天皇てんのう許可きょか必要ひつようだったはずだが、はやしはその規定きてい無視むしした[86][88]。そして9月28にちまでには袁金よろい奉天ほうてん地方ちほう維持いじ委員いいんかい委員いいんちょうに、ひろしひろし吉林きつりんしょう長官ちょうかんさそしてかれらをもちいて奉天ほうてんしょう吉林きつりんしょうちょうまなぶりょうからの独立どくりつ宣言せんげんさせた[84]黒竜江こくりゅうこうしょう占領せんりょうもねらったが、早期そうき占領せんりょう無理むり判断はんだんすると黒竜江こくりゅうこうしょう首席しゅせき代表だいひょううまうらないやまとは妥協だきょうし、北部ほくぶまんしゅう治安ちあん安定あんていはかった[84]当時とうじまんてつ総裁そうさいであった内田うちだ康哉こうさい以下いかまんてつ首脳しゅのう当初とうしょ事変じへん不拡大ふかくだいのぞんでいたが、理事りじなか唯一ゆいいつ事変じへん拡大かくだいであった十河そごう信二しんじ周旋しゅうせん内田うちだ本庄ほんじょう司令しれいかん面談めんだんすると、内田うちだ急進きゅうしんてき事変じへん拡大かくだい転向てんこうし、まんてつうえからしたまで事変じへん協力きょうりょくすることとなった。

ところが、まんしゅう情勢じょうせい混迷こんめい一途いっとをたどっていた[89]関東軍かんとうぐんいちげきたしかに奉天ほうてん軍閥ぐんばつ麻痺まひさせることには成功せいこうしたが、それはまんしゅう土着どちゃくの「馬賊ばぞく」や「匪賊ひぞく」の跳梁ちょうりょううながし、これに東北とうほくぐん敗残はいざんへいくわわることによって内陸ないりくはもとよりまんてつ沿線えんせん治安ちあん悪化あっか一途いっとをたどり、ハルビン占領せんりょうはおろか関東軍かんとうぐんはその主力しゅりょくまんてつ沿線えんせんにとどめて治安ちあん維持いじにかかりきりになるようなさまだったのである[89]くわえて、敗残はいざんへいによるざいみつる朝鮮ちょうせんじん虐殺ぎゃくさつ事件じけん連日れんじつほうじられており、鉄道てつどう付属ふぞくには内陸ないりくから避難ひなんしたざいみつる朝鮮ちょうせんじん陸続りくぞくとなだれんで、深刻しんこく事態じたいとなっていた[89]若槻わかつき禮次郎れいじろう内閣ないかくはしかし、ここにいたっても慎重しんちょうであり、なおも増派ぞうはみとめなかった[89]

手詰てづまり状態じょうたいおちいった石原いしはらがここでかんがえたのが、ちょうまなぶりょうたいまん反攻はんこう拠点きょてんであったにしきしゅうへの空爆くうばくである[90]。10月8にち石原いしはら莞爾かんじ本庄ほんじょう無断むだんにしきしゅうぐん政府せいふばくげきくわえた(にしきしゅう爆撃ばくげき[84][90]にしきしゅう爆撃ばくげき規模きぼとしてはちいさいものであったし、また、これによってぐん政府せいふ機能きのうしなくなったわけでもなかったが、国際こくさい社会しゃかいはこの事件じけんおおきな衝撃しょうげきけた[90]天津てんしんささえ駐屯ちゅうとんぐんは、今度こんど自分じぶんたちの出番でばんだといろめきだってにしきしゅうへの南方なんぽうからの陸路りくろ侵攻しんこうはかったが、みなみ金谷かなやはこれに機敏きびんうごき、きびしい制止せいし増派ぞうは不可ふかせんしてささえ駐屯ちゅうとんぐん暴走ぼうそうはひとまずめられた[90]。12月初旬しょじゅんごろ関東軍かんとうぐん作戦さくせん行動こうどう南北なんぼくともにまっており、昭和しょうわ天皇てんのう事変じへん不拡大ふかくだい意思いしかたかった[91]だい2若槻わかつき内閣ないかく参謀さんぼう本部ほんぶ連携れんけいして関東軍かんとうぐん策動さくどうおさんでいた[91]国際こくさい連盟れんめい論調ろんちょう風向かざむきがわり、極東きょくとうにおける安定あんてい勢力せいりょく結局けっきょく日本にっぽんなのだから、しばらく日本にっぽんちからによりまんしゅう政府せいふ状態じょうたい収拾しゅうしゅうするほかないとして、ジュネーヴではまんしゅう委任いにん統治とうち構想こうそうきゅう浮上ふじょうしていた[91]えいふつの3こくにしきしゅう一帯いったい中立ちゅうりつ地帯ちたい設定せっていし、そこに国際こくさい警察けいさつぐんのような組織そしき進駐しんちゅうさせるという打開だかいさく提示ていじうごはじめていた[91]。こうした状況じょうきょうけて若槻わかつき内閣ないかくは、奉天ほうてん内田うちだみつるてつ総裁そうさい委員いいんちょうとする「まんしゅう対策たいさく協議きょうぎ委員いいんかい」を設置せっちして、本国ほんごく政府せいふ意向いこう出先でさき周知しゅうち徹底てっていさせるためのシステムをまんてつ中心ちゅうしんつくげようとした[91]。こうして、事態じたい政党せいとうないかくによって収拾しゅうしゅうされつつあるようにみえた[92]

しかし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくヘンリー・スティムソン国務こくむ長官ちょうかん記者きしゃ発表はっぴょうによって事態じたい急転きゅうてんする[93]。スティムソンは、アメリカちゅう大使たいし経由けいゆしたぬさげん外相がいしょうだんとして今後こんご関東軍かんとうぐんにしきしゅう攻撃こうげきおこなわれないであろうとの談話だんわ発表はっぴょうするが、これが日本にっぽん国内こくないメディア報道ほうどうされるや、ぬさばら外国がいこく政権せいけん担当たんとうしゃ軍事ぐんじ作戦さくせん約束やくそくしており、これは統帥とうすいけん干犯かんぱんにあたるとして猛烈もうれつ反発はんぱつまねいたのである[93]すめらぎどう平沼ひらぬま騏一郎きいちろうらのながれを右派うは関東軍かんとうぐん行動こうどう支持しじしていたひとびとはこぞってぬさばら攻撃こうげきし、ぬさばらみなみ金谷かなや求心力きゅうしんりょく低下ていかした[93]動揺どうようした若槻わかつき内閣ないかく結局けっきょく、12月に退陣たいじんした[93]

まんしゅうこく成立せいりつまんてつ[編集へんしゅう]

まんしゅうこく執政しっせいとなったあいしんさとし溥儀ふぎ

だい2若槻わかつき内閣ないかくそう辞職じしょくによって、立憲りっけん政友せいゆうかいいぬやしなえあつし大命たいめいくだされる一方いっぽう八方はっぽうふさがりの状態じょうたいにあった関東軍かんとうぐんいきかえした[93][94]関東軍かんとうぐんは1932ねん2がつまでにひがしさんしょうのほとんどを占領せんりょうし、2がつ5にちのハルビン占領せんりょうと7にち以降いこううまうらないやま協力きょうりょく姿勢しせいをみてまんしゅう独立どくりつ政権せいけんうごきが急激きゅうげきたかまった[95]東三ひがしさんしょう要人ようじんたちは本庄ほんじょうしげる関東軍かんとうぐんそう司令しれいかん訪問ほうもんし、まんしゅうしん政権せいけんかんする協議きょうぎをはじめた[95]関東軍かんとうぐんは、2がつ16にち奉天ほうてん黒竜江こくりゅうこうしょうちょうちょうけいめぐみ奉天ほうてんしょうちょう臧式あつし吉林きつりんしょうちょうひろしひろし、そしてうまうらないやまの「よん巨頭きょとう」をあつめてちょうけいめぐみ委員いいんちょうとする東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかい組織そしきし、そこではうまうらないやま黒竜江こくりゅうこうしょう長官ちょうかん任命にんめいされた[95]。2月18にち、「とうこく政府せいふ関係かんけいだっはな東北とうほくしょう完全かんぜん独立どくりつせり」という、まんしゅう中国ちゅうごく国民党こくみんとう政府せいふからの分離ぶんり独立どくりつ宣言せんげんされた[95]。そして2がつ24にち元首げんしゅ称号しょうごう執政しっせい国号こくごうまんしゅうこく国旗こっきしんしょくはた年号ねんごう大同だいどう基本きほん構想こうそうてられた[95]

1932ねん3がつ1にちちょうけいめぐみたくにおいて、上記じょうきよん巨頭きょとう」にねつかわしょう湯玉ゆたまうちモンゴルのジェリムめいちょうチメトセムピル、ホロンバイルふくみやこみつるしのげくわえた東北とうほく行政ぎょうせい委員いいんかいひらかれ、清朝せいちょう廃帝はいていあいしんさとし溥儀ふぎ執政しっせいとするまんしゅうこく建国けんこく宣言せんげんされた[7][95][96]まんしゅうこく首都しゅと長春ちょうしゅんえらばれて「しんきょう」と命名めいめいされ、国務こくむいん総理そうり首相しゅしょう)にはていたかし就任しゅうにんした[97]人口じんこう3,400まんにん面積めんせき現在げんざい日本にっぽんやく3ばいの115まん平方へいほうキロメートル、ぞく共和きょうわのスローガンがかかげられたものの、事実じじつじょう支配しはいけん関東軍かんとうぐんにある傀儡かいらい国家こっかであった[94]。3月10にち溥儀ふぎていたかし胥のあいだ秘密ひみつ協定きょうていむすばれ、まんしゅうこく国防こくぼう治安ちあん維持いじ費用ひようまんしゅうこく政府せいふ負担ふたんすること、まんしゅうこく鉄道てつどうその社会しゃかい資本しほん日本にっぽん管理かんりすること、日本にっぽん必要ひつようとする各種かくしゅ施設しせつまんしゅうこく準備じゅんびすること、官吏かんり日本人にっぽんじん採用さいようし、選任せんにん関東軍かんとうぐん司令しれいかん推薦すいせんゆだねることが合意ごういされた[98]。これは、のちのまん議定ぎていしょ確認かくにんされることとなった[98]

いぬやしなえ内閣ないかくは、積極せっきょく外交がいこう方針ほうしんとする政友せいゆうかい中心ちゅうしん内閣ないかくであったが、それでもまんしゅうこく即座そくざには承認しょうにんしなかった[96]。3月12にちいぬやしなえは「まんしゅうこく承認しょうにん容易よういおこなわざるけん」を天皇てんのう上奏じょうそうし、天皇てんのうもそれをよろこんだ[96]いぬやしなえ首相しゅしょうはしかし、いち事件じけん暗殺あんさつされ、これにより戦前せんぜん政党せいとうないかくまくじた[99]後継こうけい首相しゅしょう斎藤さいとうみのるであった[100]斎藤さいとう内閣ないかく政友せいゆうかい民政みんせいとうからの入閣にゅうかくて「挙国一致きょこくいっちないかく」として成立せいりつしたが、世論せろんまんしゅう事変じへん熱狂ねっきょうてき支持しじしており、斎藤さいとうも1932ねん9がつにはまん議定ぎていしょむすんでまんしゅうこく承認しょうにんった[100]

1932ねん4がつ軍部ぐんぶ批判ひはんてきだった江口えぐちじょうじょうふく総裁そうさい憲政けんせいかいちかいこともあって解任かいにんされ、これをらなかった内田うちだ康哉こうさい総裁そうさい辞表じひょう提出ていしゅつする事態じたいとなったが、内田うちだ軍部ぐんぶ慰留いりゅうけて辞任じにん撤回てっかいした[101][102]内田うちだは、このとしの7がつ斎藤さいとう内閣ないかく外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんするためまんてつ総裁そうさい転出てんしゅつし、はやし博太郎ひろたろうしん総裁そうさいとなった[103]

1932ねん8がつ8にち関東軍かんとうぐん首脳しゅのう人事じんじ異動いどうがあり、ぐん司令しれいかん武藤むとう信義のぶよし大将たいしょうぐん参謀さんぼうちょう小磯こいそ国昭くにあき中将ちゅうじょう参謀さんぼう副長ふくちょう岡村おかむらやすし少将しょうしょう就任しゅうにんし、高級こうきゅう参謀さんぼう板垣いたがき征四郎せいしろう関東軍かんとうぐん司令しれいづけに、どう参謀さんぼう石原いしはら莞爾かんじ参謀さんぼう本部ほんぶづけてんじた[103]まんてつ監督かんとく官庁かんちょうまんしゅうこく建国けんこく以後いご日本にっぽんざいまんしゅうこく特命とくめい全権ぜんけん大使たいしであったが、この8がつ8にちをもって関東軍かんとうぐん司令しれいかんざい満全まんぜんけん大使たいし関東かんとうちょう長官ちょうかん兼任けんにんすることとなり、その権限けんげん飛躍ひやくてき拡大かくだいした[103][104]関東軍かんとうぐんはまた、極東きょくとうソ連それんぐん増強ぞうきょう対抗たいこうすべく、わずか1個いっこ師団しだんであった戦力せんりょく急速きゅうそく拡大かくだいされた[104]。こうしてまんてつ事実じじつじょう関東軍かんとうぐん支配しはいはいった[103]関東軍かんとうぐんのなかには、これをまんてつ組織そしき徹底的てっていてき改編かいへんしようという構想こうそうつちかわれていった[103]

まんてつしんきょうえき時刻じこくひょう中国ちゅうごく工業こうぎょう博物館はくぶつかんぞう

1932ねんちゅうまんてつ関東軍かんとうぐん作戦さくせん範囲はんい拡大かくだいおうじて装甲そうこう列車れっしゃはしらせるなど、作戦さくせん鉄道てつどうとしての機能きのう全面ぜんめんてき発揮はっきされた[7]。そして、3月のまんしゅうこく成立せいりつ以降いこう中国ちゅうごく東北とうほくにあった国有こくゆう鉄道てつどうまんしゅうこく政府せいふ管轄かんかつすることとなった[7]1933ねん2がつ9にちまんしゅうこく管轄かんかつ鉄道てつどうまんしゅうこく国有こくゆう鉄道てつどう)は、みなみまんしゅう鉄道てつどうまんしゅうこく政府せいふたいして供与きょうよする借款しゃっかん担保たんぽというかたちで、まんてつ経営けいえい委託いたくされた[7]委託いたく経営けいえいすることとなった既設きせつ鉄道てつどうは2,939.1キロメートルであった[7]。3月1にちから委託いたく経営けいえい実施じっしされ、まんてつ奉天ほうてん鉄路てつろ総局そうきょく設置せっちした[7]。また、まんてつには鉄道てつどう新設しんせつ権限けんげんもあたえられ、同日どうじつ鉄道てつどう建設けんせつきょく大連たいれん本社ほんしゃないいた[7]。これによりまんてつ本来ほんらい所有しょゆうする路線ろせんを「社線しゃせん」、国鉄こくてつせんまんしゅうこく国有こくゆう鉄道てつどう路線ろせん)を「くにせん」とぶようになった。こののちしんせん建設けんせつ計画けいかく実施じっしされたのは、長春ちょうしゅん - だい賚 - 洮安あいだなど旧来きゅうらいから懸案けんあんとなっていた路線ろせんや、関東軍かんとうぐんたい作戦さくせんのために必要ひつようみとめたあずまみつるきたみつる鉄道てつどうもうであった[7]

なお、国内こくないでは1933ねん日本にっぽん共産党きょうさんとう最高さいこう幹部かんぶだった佐野さのまなぶ鍋山なべやまさだおや獄中ごくちゅうから転向てんこう声明せいめいはっしたが、これを大量たいりょう転向てんこうあらわれた[105]。かれら転向てんこうしゃには、統制とうせい経済けいざい国家こっか官僚かんりょうつうじた計画けいかく経済けいざいあらたな期待きたいせ、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎをとなえるものおおかった[105]しん国家こっかまんしゅうあらたな理想りそうもとめた転向てんこうしゃおおく、まんてつにはすうおおくの左翼さよく運動うんどうからの転向てんこうしゃがいた[105]

まんてつ幹部かんぶ外交がいこうかん松岡まつおか洋右ようすけは1933ねん3がつ国際こくさい連盟れんめい脱退だったいし、きし清一せいいち没後ぼつご帝国ていこく弁護士べんごしかいは1934ねん軍備ぐんび拡大かくだい支持しじ声明せいめいはっ[106]日本にっぽん政府せいふワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく破棄はきした。

きたまん鉄路てつろ接収せっしゅうと「あじあごう」の登場とうじょう[編集へんしゅう]

従来じゅうらい中東ちゅうとう鉄道てつどうについては、まんしゅうこく建国けんこくの1933ねん5月30にちソ連それんまんしゅうこくとの合弁ごうべん事業じぎょうとなったが、まんてつではこの鉄道てつどうを「きたまん鉄路てつろ」としょうした[107]きたまん鉄路てつろは、ソ連それんから有償ゆうしょうゆずけ、完全かんぜんまんしゅうこく国有こくゆう鉄道てつどう移管いかんする方針ほうしんてられ、同年どうねん6がつ26にちより譲受じょうじゅ交渉こうしょうはじまった[107]きたまん鉄路てつろ中東ちゅうとう鉄道てつどうがわは、周囲しゅういまんしゅうこく国有こくゆう鉄道てつどう線路せんろもうりめぐらされて経営けいえい困難こんなんになっていたのである[107]ソ連それんがわからきたまん鉄路てつろ譲渡じょうと打診だしんされ、まん両国りょうこく代表だいひょうオブザーバーとして日本にっぽん政府せいふ代表だいひょう参加さんかしたが、譲渡じょうと価格かかくソ連それんがわ2おく5000まんルーブル(6おく2500まんえん)にたいし、まんしゅうこくがわが5000まんえんでまったくわなかった[107]結局けっきょく、1ねん以上いじょう交渉こうしょう1934ねん9月21にち譲渡じょうと価格かかく1おく4000まんえんソ連それんがわ退職たいしょくしゃ資金しきん3000まんえんけい1おく7000まんえん妥結だけつし、1935ねん1がつ22にち細目さいもく協定きょうてい成立せいりつ同年どうねん3がつ11にち仮調印かりちょういん、3月23にちには譲渡じょうと協定きょうていのほか債務さいむにかかわるまん秘密ひみつ議定ぎていしょ最終さいしゅう議定ぎていしょなど5けん正式せいしき調印ちょういん完了かんりょうしてきたまん鉄路てつろ全線ぜんせん接収せっしゅうがなされた[107]接収せっしゅうした鉄道てつどう線路せんろそう延長えんちょうは1,732.8キロメートルであった[107]

きたまん鉄路てつろ軌間きかんは5フィートであったため、標準軌ひょうじゅんきあらため軌する工事こうじ必要ひつようで、あたらしきょう・ハルビンあいだは1935ねん8がつ22にち着手ちゃくしゅし、29にち準備じゅんび終了しゅうりょう、30にち運転うんてん終了しゅうりょう作業さぎょう開始かいしし、終了しゅうりょう予定よてい翌日よくじつ8だったが全部ぜんぶ作業さぎょうを750ふん終了しゅうりょうして試運転しうんてんもおこない、ただちに平常へいじょう業務ぎょうむがなされた[107]作業さぎょう参加さんか人員じんいんは2,508めい通信つうしん設備せつびそのえもこのときなされ、この工事こうじまんてつ技術ぎじゅつりょくしめすものとしてたか評価ひょうかされた[107]

まんてつのシンボル、特急とっきゅう「あじあ」
みなみまんしゅう鉄道てつどう旅客りょかく列車れっしゃ食堂しょくどうしゃ

1934ねん大連たいれん - しん京間きょうままんてつ最初さいしょ特急とっきゅうあじあ」が登場とうじょう[108]大連たいれん - しんきょう長春ちょうしゅんあいだ700 kmあまりを8あいだはんむすんだ[108]きたまん鉄路てつろ接収せっしゅう1935ねん9月には運転うんてん区間くかん哈爾はま(ハルビン)まで延長えんちょうされた[108]

まんてつ改組かいそ[編集へんしゅう]

まんしゅうこく成立せいりつ当時とうじまんてつは、資本しほんきん4おく4000まんえん鉄道てつどう港湾こうわん炭鉱たんこうさんだい事業じぎょうくわえて附属ふぞく4まん9000ヘクタールをかかえており、傍系ぼうけい会社かいしゃは1936ねんまでに77しゃたっしていた[103]鉱山こうざん開発かいはつ森林しんりん開発かいはつまんしゅうこく成立せいりつ以前いぜんからすすめており、なかでもは鞍山あんざん製鉄せいてつしょ中心ちゅうしんとする鉄鋼てっこうぎょうなでじゅん炭坑たんこう中心ちゅうしんとする石炭せきたんについてはとくちかられてきた[11]。『まんてつコンツェルン読本とくほん』によれば、傍系ぼうけい会社かいしゃ資本しほんきんは7おくえんえ、まんてつ持株もちかぶはその49.3パーセントにたっした[103]

まんしゅうこく成立せいりつは、まんしゅう経営けいえい中心ちゅうしんまんてつから関東軍かんとうぐんうつり、まんしゅうこく政府せいふにも日本にっぽんから高級こうきゅう官僚かんりょうおくられてきてちからつようになった[11]。しかし、関東軍かんとうぐんにとってまんてつだけが支配しはいできない組織そしきであった[11]まんてつ支配しはいできなければ、まんてつ経営けいえいしている工業こうぎょう部門ぶもん統制とうせいできないとかんがえるひとびとは、まんしゅうこく経済けいざいにおけるまんてつ独占どくせんてき地位ちい問題もんだいとした[11]。そこで、まんてつ支配しはいしている各種かくしゅ会社かいしゃまんてつからはなして特殊とくしゅ会社かいしゃとし、まんてつ鉄道てつどう調査ちょうさ部門ぶもんとくさせる方向ほうこうしめされた[11]1935ねん康徳やすのり2ねん/昭和しょうわ10ねん)にはまんあいだ鉄道てつどう売却ばいきゃく協定きょうてい成立せいりつし、形式けいしきじょうまんしゅうこく所有しょゆうすることとなった。こうしたなか、1935ねんよりまんてつ総裁そうさいとなった松岡まつおか洋右ようすけだい調査ちょうさ構想こうそうかかげ、調査ちょうさ部門ぶもん強化きょうかはかった。まんしゅうこく成立せいりつ国策こくさくとしてまんしゅう移民いみん奨励しょうれいされ「開拓かいたく」がひろがったことやたい防衛ぼうえいじょう見地けんちから北部ほくぶ東部とうぶかう路線ろせん建設けんせつちからそそがれた[109]きたくろせんとらりんせんはその代表だいひょうれいである[109]まんしゅう朝鮮ちょうせん日本にっぽん連絡れんらく強化きょうか推進すいしんされた[109]

一方いっぽうまんしゅうこくにおける本格ほんかくてき重工業じゅうこうぎょう開発かいはつは、1936ねん始動しどうした産業さんぎょう開発かいはつ5かねん計画けいかく沿っておこなわれた[11]。それは25おくえんとうじて鉄鋼てっこう石炭せきたん兵器へいき自動車じどうしゃ飛行機ひこうきなどの重工業じゅうこうぎょう重点的じゅうてんてき育成いくせいすることを目標もくひょうとしていた[11]。この5かねん計画けいかく指導しどうした中心ちゅうしん人物じんぶつが、戦後せんご内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとなったきし信介しんすけであった[11]きし商工しょうこうしょう高級こうきゅう官僚かんりょうであったが、日本にっぽん政府せいふ直接ちょくせつ資本しほん投入とうにゅうすることにはさまざまな制約せいやくがあった[11]。そこで、当時とうじ新興しんこう財閥ざいばつばれた鮎川あいかわ義介ぎすけ日本にっぽん産業さんぎょう株式会社かぶしきがいしゃ日産にっさんコンツェルン)をまんしゅうれる方策ほうさくがとられた[11]日産にっさんは、傘下さんか日産自動車にっさんじどうしゃ日立製作所ひたちせいさくしょ日本にっぽん鉱業こうぎょう日本化学工業にほんかがくこうぎょうなど130しゃ従業じゅうぎょういん15まんにんようする一大いちだいコンツェルンであったが、それがそっくりまんしゅうへと移転いてんしたのである[11]。すでにシナ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)のはじまっていた1937ねん12月のことであり、社名しゃめいまんしゅう重工業じゅうこうぎょう開発かいはつ通称つうしょう、「まんぎょう」)にあらためた[11]まんぎょうは2おく2500まんえん出資しゅっしし、1938ねん3月、まんてつ鞍山あんざん製鉄せいてつしょをはじめとする重工業じゅうこうぎょう部門ぶもんまんぎょう提供ていきょうした[11]。こうして、まんぎょうには昭和しょうわ製鋼せいこうしょまんしゅう炭坑たんこうなど、重工業じゅうこうぎょうのほとんどが集中しゅうちゅうした[11]。また、満蒙まもう開拓かいたくだん入植にゅうしょく確保かくほのため、関東軍かんとうぐん指示しじ用地ようち買収ばいしゅうおこなったのはまんぎょう子会社こがいしゃ東亜とうあ勧業かんぎょうであった。

戦時せんじまんてつ[編集へんしゅう]

鉄道てつどう総局そうきょくへの改組かいそ [編集へんしゅう]

まんしゅうこく成立せいりつ本来ほんらい路線ろせん社線しゃせん)のほかに、まんしゅうこくが1935ねんソ連それんから買収ばいしゅうしたきたまん鉄路てつろふくくにせん北部ほくぶ朝鮮ちょうせん一部いちぶ鉄道てつどう運営うんえいしんせん建設けんせつ受託じゅたくし、営業えいぎょうキロかず格段かくだんばしていった[110]。これに対応たいおうするためまんてつは、1936ねん10月1にち鉄路てつろ総局そうきょく鉄路てつろ建設けんせつきょく、そしてまんてつ鉄道てつどうすべ統合とうごうし、奉天ほうてんに「鉄道てつどう総局そうきょく」を設置せっちした。これは実質じっしつてき経営けいえい統合とうごうであり、まんしゅうない鉄道てつどう統括とうかつするだい事業じぎょうしゃとして君臨くんりんすることを意味いみしていた。まんてつ国鉄こくてつ経営けいえい統合とうごうは、関東軍かんとうぐん意向いこうをくじくものであり、まんしゅう鉄道てつどう事業じぎょうにさかんに干渉かんしょうしてくる関東軍かんとうぐん一矢いっしむくいる行動こうどうであった。また、従来じゅうらいまん鉄線てっせんまんしゅう国鉄こくてつせん区別くべつしていた市販しはん時刻じこくひょうも「鉄道てつどう総局そうきょくせん」として同一どういつあつかうようになった[110]

満蒙まもう開拓かいたくだん[編集へんしゅう]

満蒙まもう開拓かいたくだん事業じぎょうは、昭和しょうわ恐慌きょうこう疲弊ひへいする内地ないち農村のうそん中国ちゅうごく大陸たいりくへの移民いみんにより救済きゅうさいするととなえる加藤かとう完治かんじらと屯田とんでんへい移民いみんによるまんしゅうこく維持いじたいせん兵站へいたん形成けいせい目指めざ関東軍かんとうぐんにより発案はつあんされ、反対はんたいつよなか試験しけん移民いみんとして発足ほっそくしたものである[111]1936ねんまでの5年間ねんかんは「試験しけんてき移民いみん」にあたり、とし平均へいきん3000にん移民いみん日本にっぽんよりおくりだされた[111]

1936ねん二・二六事件ににろくじけんにより政治せいじのヘゲモニーが政党せいとうから軍部ぐんぶうつり、高橋たかはし是清これきよ蔵相ぞうしょう暗殺あんさつされると、移民いみん反対はんたいろんよわまり、広田ひろた弘毅こうき内閣ないかくは、ほん事業じぎょうなな大国たいこくさく事業じぎょう位置いちづけ、「まんしゅう開拓かいたく移民いみん推進すいしん計画けいかく」を決議けつぎした[111]同年どうねんまつには、さき関東軍かんとうぐん作成さくせいの「まんしゅう農業のうぎょう移民いみんひゃくまん移住いじゅう計画けいかく」をもとに「じゅうカ年かねんひゃくまん送出そうしゅつ計画けいかく」が策定さくていされた[111]。これは、1936ねんから1956ねんあいだに500まんにん日本人にっぽんじん移住いじゅうさせるとともに、20年間ねんかん移民いみん住居じゅうきょを100まん建設けんせつするという計画けいかくであった。日本にっぽん政府せいふは、1936ねんには2まんにん家族かぞく移住いじゅうしゃおくんだ。移住いじゅう責任せきにんしゃ加藤かとう完治かんじで、業務ぎょうむになっていたのはまんしゅう拓殖たくしょく公社こうしゃであった。

にちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつ[編集へんしゅう]

1937ねんみなみまんしゅう鉄道てつどう広告こうこくパンフレット
鉄道てつどういちまんきろめーとる突破とっぱねん切手きって(1939ねん10がつ21にち発行はっこう

1937ねん7がつにちちゅう戦争せんそう開始かいし華北かほくひろがった日本にっぽんぐん占領せんりょう地域ちいきとの一体化いったいか企図きとしての路線ろせん建設けんせつされた[109]。1938ねん開通かいつうしたにしきいにしえせんは、きむみねてら - 北口きたぐちむす路線ろせんで、きょうたてまつせん経由けいゆすることなく関内かんないせきがいむすしん路線ろせんであった[109]

一方いっぽう開拓かいたく移民いみんは、にちちゅう戦争せんそう拡大かくだいにより国家こっかそう力戦りきせん体制たいせい拡大かくだい内地ないち農村のうそん労働ろうどうりょく不足ふそくするようになると、成人せいじん移民いみん希望きぼうしゃ激減げきげんした[111]。しかし、国策こくさくとしての送出そうしゅつ計画けいかくなん変更へんこうされることがなかった[111]。1937ねん満蒙まもう開拓かいたく青少年せいしょうねん義勇軍ぎゆうぐん義勇軍ぎゆうぐん)が発足ほっそくし、1938ねん農林省のうりんしょうひらけつとむしょうによる分村ぶんそん移民いみん開始かいし1939ねんには日本にっぽんまんしゅうりょう政府せいふによる「まんしゅう開拓かいたく政策せいさく基本きほん要綱ようこう」の発表はっぴょう矢継やつばや制度せいどととのえられた[111]にちちゅう戦争せんそうはじまる1937ねんから太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんの1941ねんまでの5年間ねんかんとし平均へいきん送出そうしゅつすうは3まん5000にんにのぼり[111]、1942ねんまでにおくまれた農業のうぎょう青年せいねん総数そうすう20まんにんにおよんだといわれる。日本にっぽん政府せいふ計画けいかくにもとづきノルマを府県ふけんあてて、府県ふけんぐん町村ちょうそんてをろし、町村ちょうそんかく組織そしき動員どういんしてノルマを達成たっせいしようとした[111]

だい規模きぼ鉄道てつどう建設けんせつのため、1939ねんまんてつ鉄道てつどう営業えいぎょうキロは1まんキロメートルをえた[109]。このときまんしゅうこくではパシナがた機関きかんしゃ図案ずあんにした記念きねん切手きって発行はっこうされ、まんてつ自身じしん盛大せいだい記念きねん式典しきてん挙行きょこうし、記念きねん映画えいが制作せいさくされた。しかし、路線ろせん計画けいかくほうはこの時点じてん一段落いちだんらくし、のち細々こまごました支線しせん建設けんせつするだけとなっていた。こうしてまんてつは、いわば全盛ぜんせい状態じょうたい太平洋戦争たいへいようせんそうむかえることとなったのである。1940ねんまんてつ資本しほんきんが14おくえん増資ぞうしされた[112]

戦局せんきょく悪化あっか[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそう泥沼どろぬまするなか、1941ねん4がつにはソ連それんにち中立ちゅうりつ条約じょうやくむすび、7がつには大本営だいほんえい関東軍かんとうぐん特別とくべつ演習えんしゅう動員どういん命令めいれいくだした[112]。これは、どくせん開始かいし呼応こおうし、たいせん準備じゅんびしたおおきなけであったが[113]結果けっかとしてはたい戦争せんそう断念だんねん南進なんしんろん採択さいたく、それによるべいえい勢力せいりょくとの対立たいりつ、さらにソ連それんによるたいにち参戦さんせん口実こうじつをまねいた。開戦かいせんにはいたらなかったものの、70まんにおよぶだい動員どういんによってぜんまんしゅう臨戦りんせん態勢たいせいのもとにおかれ、ここにおいてまんてつ軍事ぐんじ輸送ゆそう機能きのう最大限さいだいげん発揮はっきされることが要求ようきゅうされた[113]。1941ねん12月、日本にっぽんはアメリカ・イギリスにたい宣戦せんせん布告ふこくし、太平洋戦争たいへいようせんそうはじまった[112][113]

1942ねん10月、日本にっぽん国内こくない鉄道てつどう時刻じこく表示ひょうじまんしゅう朝鮮ちょうせんのそれにわせて24あいだせいとし、11月には関門かんもんトンネル開通かいつうにともなう大幅おおはば時刻じこく改正かいせいをおこなった[113]。このころは、下関しものせき釜山ぷさんをむすぶ海底かいていトンネル計画けいかくされ、一時いちじてきにではあるが「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」を鉄路てつろむすぼうという輸送ゆそう体制たいせい構築こうちく一定いってい現実味げんじつみびて構想こうそうされていた[113]。しかし、同年どうねん泰緬鉄道たいめんてつどう建設けんせつ、1944ねん大陸たいりくどおり作戦さくせんなどによりだい東亜とうあ共栄きょうえいけん構想こうそうによる交通こうつうもう形成けいせいはしだいに意味いみうしなっていき、また、戦局せんきょく悪化あっかがそれを不可能ふかのうなものにしていった[113]

1943ねんには奉天ほうてん鉄道てつどう総局そうきょくそのものが廃止はいしされた[110]まんてつ本社ほんしゃしんきょううつされ[112]鉄道てつどう総局そうきょく業務ぎょうむまんてつ本社ほんしゃ継承けいしょうされた。まんてつ看板かんばん列車れっしゃであった「あじあごう」も1943ねん2がつ突然とつぜん運休うんきゅうし、そのまま姿すがたした[108][113]満蒙まもう開拓かいたくだんは、1941ねん以降いこう統制とうせい経済けいざい政策せいさくにより失業しつぎょうした都市とし勤労きんろうしゃからも編成へんせいされるようになったが[111]日本人にっぽんじんまんしゅう移住いじゅうは、日本にっぽんぐん日本海にほんかいおよ黄海こうかい制空権せいくうけん制海権せいかいけんうしなった段階だんかい停止ていしした。戦局せんきょく悪化あっかにともない、まんしゅう在留ざいりゅう軍民ぐんみんは「こそぎ動員どういん」の対象たいしょうとなっていった。

かつて松岡まつおか洋右ようすけらによって強化きょうかされた調査ちょうさ部門ぶもんであったが、戦時せんじちゅう思想しそうまりによってまんてつ調査ちょうさ左翼さよくてきであることが問題もんだいされた。1940ねん7がつまんしゅうこく協和きょうわかい中央ちゅうおう本部ほんぶ実践じっせん主任しゅにんであった平賀ひらが貞夫さだおが、日本にっぽん共産党きょうさんとう再建さいけんグループに関与かんよしているという容疑ようぎ逮捕たいほされた[114]当時とうじまんしゅうにおける農事のうじ合作がっさくしゃ運動うんどうには、日本にっぽんにおけるいわゆる左翼さよく運動うんどうからの転向てんこうしゃおお参画さんかくしており、平賀ひらが合作がっさくしゃ運動うんどう参加さんかしゃとのあいだに日本にっぽん共産党きょうさんとう再建さいけんがあるとにらんでいた関東軍かんとうぐん憲兵けんぺいたいは、内部ないぶ偵察ていさつによっていち合作がっさくしゃ幹部かんぶ公金こうきん横領おうりょう事実じじつをつかみ、1941ねん11月、まんしゅうこく警察けいさつ協力きょうりょくして合作がっさくしゃ運動うんどう参加さんかしていた51めい朝鮮ちょうせんじん1めい中国人ちゅうごくじん3めいをふくむ)を一斉いっせい逮捕たいほした[114]。これが合作がっさくしゃ事件じけんである。

憲兵けんぺいたいゾルゲ事件じけん直後ちょくごでもあり、かならずや合作がっさくしゃ運動うんどう背後はいご共産党きょうさんとう組織そしきがあるものとみて、どうにかしてその証拠しょうこをつかもうという焦燥しょうそうかん支配しはいされていた[114]合作がっさくしゃ事件じけんは、裁判さいばん結果けっか、5にん無期むき、11にん有期ゆうき懲役ちょうえきけいくだされたが、その調しらべのなかで逮捕たいほされていた鈴木すずきしょう兵衛ひょうえ転向てんこう声明せいめいはっし、当局とうきょくへの協力きょうりょくちかって「同志どうし裏切うらぎりを敢て」おこなうとして「一切いっさい供述きょうじゅつする」とべた[114]。ただし、この供述きょうじゅつもどこまで事実じじつ正確せいかくつたえているかは不明ふめいであり、供述きょうじゅつ自体じたい一種いっしゅ辻褄つじつまわせであった可能かのうせい指摘してきされている[114]。いずれにせよ、憲兵けんぺいたいはこの供述きょうじゅつをもとに1942ねん9月と1943ねん7がつの2にわたって、まんてつ調査ちょうさ関係かんけいしゃ大量たいりょう検挙けんきょをおこなった(「まんてつ調査ちょうさ事件じけん」)[114]。これによって調査ちょうさ部門ぶもんもまた活力かつりょくうしなったが、憲兵けんぺいたいには左翼さよく運動うんどう左翼さよく思想しそうかんする予備よび知識ちしき不足ふそくしており、具体ぐたいてき容疑ようぎのところなにてこなかった[114]結局けっきょくおおくのひと手記しゅきかされ、国家こっかへの忠誠ちゅうせいちかわせられ、ほんのすうめい執行しっこう猶予ゆうよきの比較的ひかくてき軽微けいび徒刑とけい判決はんけつでこの事件じけんまくじた[114]

1945ねん5月30にち大本営だいほんえい関東軍かんとうぐん戦闘せんとう序列じょれつ下命かめいしてソ連それんたいにち参戦さんせんそなえたが、このときしめされた「まん鮮方めんたい作戦さくせん計画けいかく要領ようりょう」では、関東軍かんとうぐんきょうせんれんきょうせんよりひがし要地ようち確保かくほしながら持久じきゅうせん態勢たいせいをとる方針ほうしんられた[113]結局けっきょくのところ、まんしゅうこくだい部分ぶぶん戦略せんりゃくてき放棄ほうきされることとなったのである[113]

敗戦はいせんまんてつ閉鎖へいさ[編集へんしゅう]

最後さいご奮闘ふんとうまんてつ解体かいたい[編集へんしゅう]

1945ねん康徳やすのり12ねん/昭和しょうわ20ねん8がつ9にちソビエト連邦れんぽう宣戦せんせん布告ふこく同時どうじに、まんしゅう北朝鮮きたちょうせんたいする侵入しんにゅう開始かいしした[113]関東軍かんとうぐんは7がつ以降いこう、「こそぎ動員どういん」によって70まん兵員へいいんをそろえていたが、装備そうび練度れんど不足ふそくしていた[113]。また、関東軍かんとうぐんは、開拓かいたく農民のうみんふくめた200まんにんちかざいまん日本人にっぽんじん安全あんぜんげさせるだてをこうじなかった[113]。のみならず、関東軍かんとうぐん民間みんかんじんった列車れっしゃはなしてりにしたことさえあったという[113]まんてつは、社員しゃいん出身しゅっしんはじめての総裁そうさいとなった山崎やまざきもとみき指示しじのもと、軍隊ぐんたい撤退てったい民間みんかんじん輸送ゆそう粉骨砕身ふんこつさいしん努力どりょくかたむけた[113]。このいとなみは、8がつ15にち玉音ぎょくおん放送ほうそうこうわりなくつづけられた[113]8がつ17にち関東軍かんとうぐんそう司令しれいかん山田やまだおつさんは、最後さいごまんてつ総裁そうさいとなった山崎やまざきたいし「まんてつのことはすべて総裁そうさいまかせるほかない」とげている[113]8がつ20日はつか山崎やまざき総裁そうさいは「ざいまん邦人ほうじんまんしゅう安寧あんねい保全ほぜん挺身ていしん」「輸送ゆそう生産せいさん機能きのう確保かくほ」とをまんてつぜん社員しゃいん40まんにん(うち日本人にっぽんじんやく14まんにん)にけて訓示くんじした[113]関東軍かんとうぐん解体かいたいののちもまんてつ在留ざいりゅう日本人にっぽんじんにとっておおきなどころであった[113]

まんてつは、まんしゅう侵攻しんこうしたソ連それんぐん接収せっしゅうされた。まんてつ保有ほゆうしょ施設しせつは1945ねん8がつ27にち発表はっぴょうされたちゅう友好ゆうこう同盟どうめい条約じょうやくにより、中華民国ちゅうかみんこく政府せいふソビエト連邦れんぽう政府せいふ合弁ごうべんによる中国ちゅうごく長春ちょうしゅん鉄路てつろ移管いかんされた[115]。しかし、9月22にち中国ちゅうごく長春ちょうしゅん鉄路てつろ理事りじかいにはソ連それんがわ役員やくいん着任ちゃくにんしたものの、中国ちゅうごくがわ着任ちゃくにんできなかった[115]。この状況じょうきょうをみた山崎やまざき総裁そうさいは、まんてつ業務ぎょうむ管理かんりからくのをまずいとかんがえ、43めいまんてつ社員しゃいん主席しゅせき監察かんさつおよび補佐ほさとして早急そうきゅう各局かくきょく派遣はけんしている[115]ソ連それんがわまんてつがわはその前後ぜんごから引継ひきつぎ・わたしの作業さぎょうをおこない、9月27にちソ連それんぐんは22にちづけまんてつ消滅しょうめつしたことを通告つうこくした[115]9月28にち山崎やまざきみなみまんしゅう鉄道てつどうしんきょう本部ほんぶ標札ひょうさつはずさせた[113]中国ちゅうごくがわ役員やくいん長春ちょうしゅん到着とうちゃくしたのは10がつはいってからで、なんらなすところなかったとつたわっている[115]1946ねん1がつ15にちソ連それんぐんまんしゅうからの撤退てったい開始かいしした[115]1がつ21にちソ連それん政府せいふ中華民国ちゅうかみんこく政府せいふたいし、まんしゅうより搬出はんしゅつした産業さんぎょう施設しせつ戦利せんりひんであると通告つうこくしたという[115]

その国共こっきょう内戦ないせんによって1949ねん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうひきいる中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつし、1955ねんには中国ちゅうごく政府せいふへの路線ろせんわたしが完了かんりょうした。

日本にっぽん国内こくないにおける拠点きょてんとうは1945ねん9月30にちGHQ発出はっしゅつした「植民しょくみん銀行ぎんこう外国がいこく銀行ぎんこうおよ特別とくべつ戦時せんじ機関きかん閉鎖へいさ」にかんする覚書おぼえがきもとづき、即時そくじ閉鎖へいさ閉鎖へいさ機関きかん)がおこなわれた[116]。ただし、まんてつ東京とうきょう支社ししゃ財産ざいさんなどがのこっていたため、会社かいしゃ清算せいさんゆいりょう法人ほうじんかく消滅しょうめつ)は1957ねん4がつ13にちまでずれんでいる。

天水てんすいかいまんてつかい[編集へんしゅう]

まんてつ社員しゃいん総裁そうさい以下いか、1945ねん9がつ30にちづけ全員ぜんいん解雇かいことなった[115]。しかし実際じっさいには、現地げんち鉄道てつどう輸送ゆそう人員じんいん技術ぎじゅつしゃ不足ふそくしており、山崎やまざき総裁そうさいはじめきゅうまんてつ社員しゃいんおおくはソ連それん中華民国ちゅうかみんこく依頼いらいによって現地げんちめられ、鉄道てつどう運行うんこうなどの業務ぎょうむ従事じゅうじさせられた[115]。これは「とめよう」としょうされ、山崎やまざき総裁そうさいとめようわったのは1947ねん8がつ日本にっぽんんだのは同年どうねん10がつのことであった[115]。ほとんどすべての社員しゃいん1948ねん6月4にちもっとめようえた[115]。なお戦中せんちゅうまんてつ総裁そうさいであった大村おおむらたくいちは、1945ねん11月、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐんゲリラ逮捕たいほされ、暴行ぼうこうけたのち獄死ごくしした。

しかし、一部いちぶは1949ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこくつづき、現地げんちから地域ちいき鉄道てつどう建設けんせつへとされた[117]天水てんすい - あららぎしゅうあいだてんらんせん現在げんざい隴海せん一部いちぶ)はその成果せいかひとつであり、てんらんせん建設けんせつ従事じゅうじした人々ひとびとは、帰国きこく1953ねんに「天水てんすいかい」を組織そしきした。

一方いっぽう日本にっぽん国内こくないでは1946ねん昭和しょうわ21ねん)、未払みはら退職たいしょく手当てあて支払しはらい、きゅう社員しゃいん就職しゅうしょく斡旋あっせんなどを目的もくてきとして「まんてつ社友しゃゆう新生会しんせいかい」が発足ほっそくした[118]。その1954ねん昭和しょうわ29ねん)7がつに「財団ざいだん法人ほうじんまんてつかい」に改組かいそ[119]退職たいしょく手当てあて支払しはらいとあわせ、まんてつ社員しゃいんおよまんしゅう関係かんけい引揚しゃ援護えんご厚生こうせいまんてつ資料しりょう保有ほゆうなどをおこなった[119]まんてつかい会員かいいん最盛さいせいやく15,000にんにのぼったが[118]2016ねん平成へいせい28ねん)3がつまつをもって解散かいさんした[119]

まんてつ遺産いさん[編集へんしゅう]

大連たいれんきゅうまんてつ本社ほんしゃ(2007ねん10がつ撮影さつえい
2014ねん遼寧りょうねいしょう文物ぶんぶつ保護ほご単位たんい指定していされ、現在げんざい博物館はくぶつかんとして利用りようされている。

まんてつまんしゅうのこした各種かくしゅインフラは、日本にっぽん撤退てったいして中華民国ちゅうかみんこく返還へんかんされたのち、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくうつり、1980年代ねんだい改革かいかく開放かいほう政策せいさくはじまるまで、鞍山あんざん製鉄せいてつしょ大慶たいけい油田ゆでんとともに、不安定ふあんてい状態じょうたいながつづいた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく経済けいざいながささえた。長春ちょうしゅんあたらしきょう)や大連たいれん瀋陽しんよう奉天ほうてん)といった沿線えんせん主要しゅよう都市としでは、現在げんざいでも日本にっぽん統治とうち時代じだい建築けんちくぶつ多数たすう確認かくにんすることが出来できる。

まんてつ関連かんれん建物たてものおおくが修復しゅうふくされながら現在げんざい使つかわれており、まんてつ大連たいれん本社ほんしゃ現在げんざいでも大連たいれん鉄道てつどう有限ゆうげん責任せきにん公司こうし事務所じむしょとしてその建物たてもの使用しようしているほか、大連たいれんなどにあるきゅうヤマトホテルは現在げんざい大連たいれんまろうどかん遼寧りょうねいまろうどかんなどとして営業えいぎょうつづけている。まんてつ各線かくせん運行うんこうされていた車両しゃりょう一部いちぶは、ジハ1がたなど現在げんざい現地げんち稼働かどうするものもあるが、老朽ろうきゅうなどの理由りゆう徐々じょじょ廃車はいしゃすすんでおり、一部いちぶ静態せいたい保存ほぞんされている。

かつてまんてつ勤務きんむした田中たなか季雄すえお太平洋戦争たいへいようせんそうのちつぎのようにかたっている[120]

戦後せんごになって日本にっぽん大陸たいりくへの進出しんしゅつ侵略しんりゃくとしてとかくわるわれるが、清国きよくに衰退すいたい国家こっかかたちをしていなかった現在げんざい中国ちゅうごく東北とうほく地域ちいきあたらしいくにをつくったまんしゅうこく場合ばあいは、ぞくささえまんしゅうこうむふる日本にっぽん朝鮮ちょうせん)の民族みんぞく協和きょうわによる王道おうどう楽土らくど建設けんせつ目指めざし、まんてつはそのしん国家こっか動脈どうみゃくとして産業さんぎょう発展はってん民生みんせい向上こうじょうおおきく貢献こうけんしていたとおもう。まんてつどう地域ちいきのこした有形ゆうけい無形むけいのものはきわめておおきく、戦後せんごしん中国ちゅうごく発展はってんにもおおきくやくっているはずだ。 — 田中たなか季雄すえお日本にっぽん鉄道てつどうセミナー』(2005)「だい17しょう まんてつ興亡こうぼう」p.131

2017ねん4がつ6にち中国ちゅうごく社会しゃかい科学かがくいん長春ちょうしゅんまんてつ研究けんきゅう中心ちゅうしんとして「まんてつ研究けんきゅうセンター」を設立せつりつした[121]

鉄道てつどう事業じぎょう[編集へんしゅう]

代表だいひょうてき列車れっしゃ[編集へんしゅう]

大連たいれんすな河口かわぐちみつるてつ機関きかんしゃ工場こうじょう
1920ねん5がつみなみまんしゅう鉄道てつどう旅客りょかく列車れっしゃ運行うんこう英語えいご時刻じこくひょう

特急とっきゅう「あじあ」[編集へんしゅう]

1934ねん康徳やすのり元年がんねん/昭和しょうわ9ねん)11月、大連たいれん - しん京間きょうままんてつ最初さいしょ特別とくべつ急行きゅうこうあじあ中国人ちゅうごくじん案内あんないには「亜細亜あじあ表記ひょうき)が登場とうじょうした[108]最高さいこう速度そくどは110 km/h、おもててい速度そくどは82.5 km/hで、日本にっぽん国鉄こくてつ特急とっきゅうつばめ」の平均へいきん速度そくど66.8 km/hを上回うわまわった[108]大連たいれん - しんきょう長春ちょうしゅんあいだ701.4キロメートルを8あいだはんでむすび、従来じゅうらいどう区間くかんはし急行きゅうこう「はと」の所要しょよう時間じかんやく10あいだはんを2あいだ短縮たんしゅくさせた[108]。6りょう客車きゃくしゃおもて定時ていじそく80キロ以上いじょうはしる「あじあ」は当時とうじ代表だいひょうてきちょう高速こうそく列車れっしゃであり、世界せかいてき注目ちゅうもくびた[108]高速こうそく運転うんてん可能かのうにした理由りゆうひとつが、流線型りゅうせんけいそとをつけて空気くうき抵抗ていこうすくなくしただい出力しゅつりょく蒸気じょうき機関きかんしゃ「パシかた」とばれる車両しゃりょうによって牽引けんいんされたことである[108]客車きゃくしゃぜん車両しゃりょう空調くうちょう装置そうち完備かんびであり、このような列車れっしゃ世界せかいはじめてであった[108]1935ねん康徳やすのり2ねん/昭和しょうわ10ねん)9がつには運転うんてん区間くかん哈爾はま(ハルビン)まで延長えんちょうされた[108]。1943ねん康徳やすのり10ねん/昭和しょうわ18ねん)2がつ戦局せんきょく悪化あっかにともない突然とつぜん運休うんきゅうし、そのまま姿すがたした[108]

急行きゅうこう「はと」[編集へんしゅう]

1932ねん大同だいどう元年がんねん/昭和しょうわ7ねん)10がつ大連たいれん - 長春ちょうしゅんあいだはしっていた直通ちょくつう急行きゅうこう列車れっしゃに「はと」の愛称あいしょうけた[127]まんてつはつ愛称あいしょう急行きゅうこうであった[127]。1934ねんの「あじあ」登場とうじょうは、大連たいれんしんきょう出発しゅっぱつ午前ごぜんちゅうのダイヤを「あじあ」にゆずり、正午しょうご始発しはつ深夜しんや終着しゅうちゃく運行うんこうダイヤとなった[127]だい連発れんぱつの「あじあ」は、内地ないちからの大連たいれん航路こうろ接続せつぞくしていたものの天候てんこう不順ふじゅんなどを理由りゆうとする大連たいれんへの延着えんちゃくがしばしばあったので、定刻ていこくどお出発しゅっぱつするときゃくのこすことがあった[127]。そのため、1935ねん9がつには「はと」の大連たいれん出発しゅっぱつ時刻じこく改正かいせいされ、のこきゃく救済きゅうさい役割やくわりになうことになった[127]ちょう高速こうそく列車れっしゃではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」のほう心地ごこちがよいという旅客りょかくもあったほどで、食堂しょくどうしゃも「あじあ」より割安わりやすかんがあった[127]。1934ねん以降いこうは「パシかた」を「あじあ」と共用きょうようすることとなって「はと」そのものも高速こうそくはかられた[127]

経営けいえい路線ろせん[編集へんしゅう]

みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ腕章わんしょう中国ちゅうごく工業こうぎょう博物館はくぶつかんぞう
大連たいれんえき
1945ねんにおけるまんしゅうこく鉄道てつどう路線ろせんあか-社線しゃせんみどり-きた鮮線、あお-くにせん
大連たいれん市内しないにあるまんてつ旧址きゅうし石碑せきひ
大連たいれん市内しない現存げんそんするまんてつしゃもん(「M」とレール断面だんめん意匠いしょうりのマンホールのぶたまんてつ上下水道じょうげすいどう電力でんりょく・ガスなど都市としインフラにかかわる事業じぎょうおこなっていた。
ていたむろえき吉林きつりんしょう
りゅうえき黒竜江こくりゅうこうしょう
たむろ機関きかん遼寧りょうねいしょう
1920ねん5がつみなみまんしゅう鉄道てつどう時刻じこくひょう地図ちず

鉄道てつどうまんてつ本来ほんらい路線ろせん社線しゃせん)つまりしんきょうげん長春ちょうしゅん) - 大連たいれん旅順りょじゅんあいだまんてつ本線ほんせんやすたてまつせんのほかに、まんしゅうこく1935ねん康徳やすのり2ねん/昭和しょうわ10ねん)にソビエト連邦れんぽうから買収ばいしゅうしたしんきょう以北いほくきたまん鉄路てつろ旧称きゅうしょう中東ちゅうとう鉄道てつどう)をはじめとするまんしゅうこく国有こくゆう鉄道てつどうくにせん)や北部ほくぶ朝鮮ちょうせん一部いちぶ鉄道てつどう運営うんえいおよびしんせん建設けんせつ受託じゅたくし、営業えいぎょうキロかず格段かくだんびた[110]。これに対応たいおうするため、まんてつ1936ねん康徳やすのり3ねん/昭和しょうわ11ねん)、奉天ほうてん鉄道てつどう総局そうきょく設置せっちした[110]。それにともない、従来じゅうらいまん鉄線てっせんまんしゅう国鉄こくてつせん区別くべつしていた市販しはん時刻じこくひょうも「鉄道てつどう総局そうきょくせん」として同一どういつあつかうようになった[110]1943ねん康徳やすのり10ねん/昭和しょうわ18ねん)には鉄道てつどう総局そうきょくそのものが廃止はいしされ、その業務ぎょうむまんてつ本社ほんしゃ継承けいしょうされた[110]

以下いかは、1945ねん康徳やすのり12ねん/昭和しょうわ20ねん)8がつ時点じてんでのまんてつ経営けいえい路線ろせん一覧いちらん委託いたく経営けいえい路線ろせんふくむ)である[128]

凡例はんれい : [貨] 貨物かもつせん

社線しゃせん[編集へんしゅう]

路線ろせんめい 区間くかん キロほど きゅう路線ろせんめい備考びこう
れんきょうせん 大連たいれん - しんきょう 701.4 本線ほんせん開業かいぎょう - 1921ねん7がつ20日はつか
まんしゅう本線ほんせん ( - 1925ねん3がつ31にち
れんちょうせん ( - 1932ねん10がつ31にち
大連たいれん埠頭ふとう - すな河口かこう [貨] 6.9 通称つうしょう埠頭ふとうせん
大連たいれん - 吾妻あづま [貨] 2.9 通称つうしょう吾妻線あがつません
やすたてまつせん 安東あんどう - たむろ 260.2
入船いりふねせん [貨] すな河口かこう - 入船いりふね埠頭ふとう 5.8
旅順りょじゅんせん しゅう水子みずこ - 旅順りょじゅん 50.8
やなぎいつきたむろせん 大房おおふさ - やなぎいつきたむろ 5.8 休止きゅうしせん
あま井子いこせん [貨] 南関なんかんみね - 大連たいれんあま井子いこ埠頭ふとう 11.9
金城きんじょうせん きむしゅう - しろ 102.1
営口せん 大石橋おおいしばし - 営口 22.4
けむりだい炭礦たんこうせん けむりだい - けむりだい炭礦たんこう 15.6 営業えいぎょうせん
なでじゅんせん たむろ - なでじゅん 52.9
渾楡連絡れんらくせん [貨] 渾河 - にれじゅだい 4.1

きた鮮線[編集へんしゅう]

路線ろせんめい 区間くかん キロほど きゅう路線ろせんめい備考びこう
きた西部せいぶせん うえさんみね - 南陽なんよう 36.0 們線(朝鮮ちょうせん総督そうとく鉄道てつどう
きた東部線とうぶせん - 雄基ゆうき 147.3 們線(朝鮮ちょうせん総督そうとく鉄道てつどう
せん 雄基ゆうき - 埠頭ふとう 18.2
みなみせん [貨] - みなみ 3.0

くにせん[編集へんしゅう]

まんしゅうこく国有こくゆう鉄道てつどう委託いたく経営けいえいせん(1933ねん3がつ1にち - )

路線ろせんめい 区間くかん キロほど きゅう路線ろせんめい備考びこう
たてまつやませんげん瀋山せん 奉天ほうてん - 山海さんかいせき 419.6 たてまつやま鉄路てつろ
たてまつひろし連絡れんらくせん [貨] 奉天ほうてん - ひろしこく 17.5
于洪連絡れんらくせん [貨] 于洪信号しんごうじょう - 大成たいせい信号しんごうじょう 4.6
すめらぎしゅうとたむろ連絡れんらくせん [貨] すめらぎしゅうとたむろ - きた奉天ほうてん 2.8
こうしんせん 高台たかだいさん - 新立しんだてたむろ 60.6
だいていせん だいとらやま - ていたむろ 366.2 たてまつやま鉄路てつろだいとらやま-どおりりょう
よん鉄路てつろつうりょう-ていたむろ
しんせん 新立しんだてたむろ - よしけん 131.5
河北かほくせん みぞ幇子 - 河北かわきた 91.1 たてまつやま鉄路てつろ
にしきいにしえせん にしきけん - 北口きたぐち 542.3 たてまつやま鉄路てつろにしきけん-くちきた営子)
きたひょうせん きむみねてら - きたひょう 17.9 たてまつやま鉄路てつろ
ほうせん かしわ寿ひさし - あかほう 146.9
つぼあしとうせん にしき西にし - つぼあしとう埠頭ふとう 12.1 たてまつやま鉄路てつろ
たてまつきちせん 奉天ほうてん - 吉林きつりん 447.4 瀋海鉄路てつろ奉天ほうてん-朝陽あさひ鎮)
吉海よしうみ鉄路てつろ朝陽あさひ鎮-吉林きつりん
瀋陽しんよう連絡れんらくせん [貨] 奉天ほうてん - 瀋陽しんよう 10.7
将軍しょうぐん連絡れんらくせん [貨] なでじゅん - 将軍しょうぐん堡信ごうじょう 3.6
なでじゅんじょう連絡れんらくせん [貨] なでじゅん - なでじゅんじょう 4.5
うめ輯線 うめ河口かこう - まんうら 255.5
新通しんとおりせん つう - 新通しんとおり 4.2
だい栗子くりごせん かもえん - だい栗子りつこ 112.3
ひらうめせん よんたいら - はちすかわ 149.2 瀋海鉄路てつろ西安しーあん-はちすかわ
きょうせん しんきょう - 528.0 よし長吉ちょうきちあつし鉄路てつろあたらしきょう-あつし
あつし鉄路てつろあつし-哈爾ともえみね
りゅうゆたかせん りゅう潭山 - 大豊たいほうみつる 22.4
きむたません 江北こうほく - きむたま 18.8 吉林きつりん鉄路てつろ新吉しんよしりん-きむたま
小新こしん連絡れんらくせん [貨] 小姑こじゅうと - しん 9.1
朝開あさびらきせん 朝陽あさひがわ - うえさんみね 60.6
かずりゅうせん りゅう - かずりゅう 61.1
ごうすい連絡れんらくせん [貨] かや信号しんごうじょう - ごうすい信号しんごうじょう
けいせん 們 - けい 580.2
けい埠頭ふとうせん [貨] けい斯 - けい埠頭ふとう 3.6
きょうやすしせん 新興しんこう - しろみぞ 216.1
ひろししん連絡れんらくせん [貨] ひろしきよし - しょうひろしきよし 9.0
とらりんせん 林口はやしぐち - とらあたま 335.7
つねやません にわとりやすし - つねやま 12.4
ひしげはません さん - ひしげほう 265.5
すすかません 舒蘭 - すすかま 30.4 吉林きつりん鉄路てつろ
京浜けいひんせん しんきょう - 哈爾はま 242.0 きたまん鉄路てつろ
はましゅうせん 哈爾はま - まんしゅうさと 934.8 きたまん鉄路てつろ
はま綏線 哈爾はま - 綏芬かわ 546.4 きたまん鉄路てつろ
ひらきどうまわりせん ぬのらくあま - 横道よこみちかわ 59.2
こうぼう連絡れんらくせん [貨] こうぼう - 東門ひがしもん信号しんごうじょう 5.1
東門ひがしもん連絡れんらくせん 東門ひがしもん信号しんごうじょう - 新香しんこうぼう 6.2
しろにわとりせん 下城げじょう - 西にしにわとり 103.4 きよし棱鉄下城げじょう-なしじゅ鎮)
綏寧せん 河西かさい - あずまやすし 91.1
はまこうせん 哈爾はま - さん 8.8 きたまん鉄路てつろ(哈爾はま-はまこう
さん埠頭ふとうせん [貨] はまこう - さん 4.0
哈爾はま埠頭ふとうせん 哈爾はま - 哈爾はま埠頭ふとう 2.9 きたまん鉄路てつろ(哈爾はま-はち
江南こうなん連絡れんらくせん [貨] 太平橋たいへいばし - 江南こうなん信号しんごうじょう 2.2
浜北はまきたせん さん - きたやす 326.1 よびうみ鉄路てつろしん松浦まつうら-うみりん
うみかつ鉄路てつろうみりん-きたやす
綏佳せん 綏化 - けい 381.8
鶴岡つるおかせん はちす江口えぐち - 鶴岡つるおか 54.3
はちす江口えぐち埠頭ふとうせん [貨] はちす江口えぐち - はちす江口えぐち埠頭ふとう 3.5
きたくろせん きたやす - 黒河くろかわ 302.9
黒河くろかわ埠頭ふとうせん [貨] 黒河くろかわ - 黒河くろかわ埠頭ふとう 4.2
ひとしきたせん ひとしひとし哈爾 - きたやす 231.5 ひとしかつ鉄路てつろひとしひとし哈爾-たいやす
やすしかつ鉄路てつろたいやす-かつさん
うみかつ鉄路てつろかつさん-きたやす
やすし霍線 やすしねん - 霍龍もん 284.0 ひとしかつ鉄路てつろやすしねん-ひしげ哈)
たいらひとしせん よんたいら - ひとしひとし哈爾 571.4 よん鉄路てつろよんたいら-みなみ
のぼる鉄路てつろみなみ-さんあいだぼう
ひとしかつ鉄路てつろさんあいだぼう-ひとしひとし哈爾)
きょう白線はくせん しんきょう - 白城しらき 332.6
しろもりせん 白城しらき - もり魯爾 376.5 さく鉄路てつろ白城しらき-やすし
にれじゅせん にれじゅたむろ - のぼるのぼるけい 6.4 ひとしかつ鉄路てつろ
けいせん 宮原みやはら - もろ 86.0

しんせん[編集へんしゅう]

やすみなみせん - 渾さんせん - りょうみやせん - おおとり灌線 - 霍黒せん - そうみなもとせん - ひがしとうせん(1944ねん4がつ1にち廃止はいし

社内しゃない専用せんようせん[編集へんしゅう]

森林しんりんせん

廃止はいしせん[編集へんしゅう]

社線しゃせん
霊山れいざんせん[貨] くびやま - 霊山りょうぜん操車そうしゃじょう(1941ねん6がつ1にち廃止はいし
西にしひろしじょうせん はじめたむろ - ひろししろ(1909ねん2がつ3にち廃止はいし
くにせん
うませんくちせん松浦まつうら - うませんこうきゅうよびうみ鉄路てつろ、1936ねん7がつ1にち廃止はいし
やません[貨] (みずちかわ - さんきゅう吉長よしながよしあつし鉄路てつろ、1936ねん9がつ1にち廃止はいし
松浦まつうらせんしん松浦まつうら - 松浦まつうらきゅうよびうみ鉄路てつろ、1938ねん6がつ1にち廃止はいし
みちうらせん[貨] (哈爾はま - みちうらきゅうきたまん鉄路てつろ、1941ねん12月1にち廃止はいし
しんせん
ひがしとうせん(1944ねん4がつ1にち廃止はいし

まんてつ車両しゃりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん会社かいしゃ一覧いちらん[編集へんしゅう]

営業えいぎょう実績じっせき[編集へんしゅう]

みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ各種かくしゅ事業じぎょう収支しゅうし単位たんいまんえん[130]

会計かいけい年度ねんど西暦せいれき 鉄道てつどう ホテル 船舶せんぱく 自動車じどうしゃ 港湾こうわん 鉱業こうぎょう 製鉄せいてつ 製油せいゆ 附属ふぞく その 合計ごうけい
1907 366.7 -3.1 - - 1.2 55.3 - - -13.0 -205.5 201.7
1908 737.6 -1.2 -12.6 - 17.4 102.7 - - -12.5 -620.1 211.4
1909 919.8 -1.9 -25.5 - 24.7 123.0 - - -23.0 -439.9 577.2
1910 912.9 -7.7 -19.3 - 11.2 166.7 - - -49.7 -571.4 370.8
1911 1061.8 -4.7 -14.8 - 9.6 217.9 - - -61.5 -827.4 366.7
1912 1206.1 -3.6 -2.2 - -19.9 184.7 - - -76.8 -835.4 492.6
1913 1436.1 -2.1 -12.7 - 18.3 180.1 - - -105.1 -797.9 716.7
1914 1487.1 -5.7 -16.9 - 32.7 221.7 - - -108.6 -856.2 754.1
1915 1572.0 -4.8 4.6 - 37.1 200.7 - - -97.4 -904.2 808.0
1916 1937.9 -0.7 21.4 - 36.4 200.7 12.3 - -126.8 -1077.5 1010.8
1917 2359.9 3.7 106.3 - 39.3 602.5 - - -160.8 -1458.3 1492.6
1918 2795.4 9.8 28.6 - 3.9 713.7 - - -240.7 -1039.7 2219.3
1919 3653.2 -0.3 -25.1 - -133.5 1359.9 -148.7 - -421.6 -1876.4 2437.5
1920 4855.7 -16.8 -84.9 - -56.3 606.7 -642.3 - -616.0 -1307.0 2739.2
1921 4503.1 -21.9 -24.5 - 66.9 329.6 -287.4 - -643.2 -783.1 3138.6
1922 5364.4 -32.8 -2.2 - 128.2 671.6 -319.8 - -683.6 -500.1 3508.0
1923 5648.2 -33.7 - - 7.4 407.9 -224.1 - -829.8 -1496.4 3479.6
1924 5600.8 -24.4 - - 7.6 810.3 -295.6 - -976.4 -1640.3 3455.3
1925 5859.5 -21.5 - - 63.3 646.7 -372.0 - -1140.0 -1548.8 3486.5
1926 6197.1 -33.7 - - 99.4 548.9 -380.7 - -1256.7 -1768.7 3415.8
1927 6800.8 -26.4 - - 97.0 974.8 -15.8 - -1300.6 -1890.3 3627.4
1928 7428.1 - - - 246.2 1160.3 121.6 - -1319.5 -1834.4 4255.3
1929 7489.0 - - - 355.7 1227.5 54.3 - -1359.9 1707.3 4550.6
1930 5856.2 - - - 182.1 182.1 -66.7 3.3 -1071.9 -1066.3 2167.3
1931 4818.5 -9.7 - - 128.9 1.7 -298.0 29.0 -1087.7 -1880.4 -340.1
1932 6505.1 -8.8 - - 303.9 12.8 -390.0 53.8 -1168.7 -1150.8 6128.8
1933 7576.6 -1.3 - - 321.7 501.6 -54.4 82.5 -1067.0 -1853.0 4292.0
1934 7324.4 2.8 - - 358.0 1039.1 - 47.2 -1367.6 -2246.4 4646.8
1935 8403.0 -9.4 - - 359.5 1269.8 - 105.1 -1421.8 -3100.1 4962.4
1936 7959.7 -4.9 - - 394.6 1225.0 - 92.2 -1663.4 -1758.3 5017.4
1937 8971.3 - - - 495.1 1050.5 - 148.7 -1085.5 -3272.7 7392.9
1938 9711.1 - - - 589.5 1657.9 - 226.0 - -4897.5 7287.5
1939 10592.2 - - - 294.3 1126.0 - 127.5 - -4355.1 7784.5
1940 14494.5 - -307.1 -422.6 167.0 1348.7 - 101.9 - -7711.3 7671.1
1941 15058.9 - -111.2 5.2 136.4 1401.1 - 250.2 - -9527.4 7213.1
1942 19926.1 - -266.5 14.3 -4.4 1439.3 - 310.5 - -12930.3 8488.8
1943 22963.6 - -356.3 -419.1 -624.4 510.5 - 102.8 - -12881.4 9295.6
1944 298232.6 - -801.1 -593.5 -1141.1 -1244.5 - -549.9 - -14113.5 11379.9
合計ごうけい 260178.6 -264.2 -1922.0 -1414.7 3094.7 23242.5 -3307.3 1130.8 -21557.5 -108200.8 140703.8

歴代れきだい代表だいひょうしゃ[編集へんしゅう]

歴代れきだい代表だいひょうしゃは、以下いかひょうしめとおりである[5]。なお、代表だいひょうしゃ肩書かたがきは、4代目だいめまでは「総裁そうさい」、5代目だいめ国沢くにさわしん兵衛ひょうえは「理事りじちょう」、6代目だいめ野村のむら龍太郎りゅうたろう再任さいにん)からは理事りじかい廃止はいしともない「社長しゃちょう」となった。10代やま本条ほんじょう太郎たろう任期にんき途中とちゅうの1929ねん6がつ20日はつかからふたたび「総裁そうさい」にもど[5]

だい 氏名しめい 在任ざいにん期間きかん 出身しゅっしん 出身しゅっしんこう まえしょく備考びこうなど
1 後藤ごとう新平しんぺい 1906ねん11月13にち - 1908ねん7がつ14にち 陸奥みちのくこく 須賀川すかがわ学校がっこう 台湾たいわん総督そうとく
2 中村なかむらただしおおやけ 1908ねん12月19にち - 1913ねん12月18にち 安芸あきこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく 台湾たいわん総督そうとく
3 野村のむら龍太郎りゅうたろう 1913ねん12月19にち - 1914ねん7がつ15にち 美濃みのこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ 鉄道てつどういんふく総裁そうさい
4 中村なかむら雄次郎ゆうじろう 1914ねん7がつ15にち - 1917ねん7がつ31にち 伊勢いせこく 陸軍りくぐんへい学寮がくりょう 貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん
5 国沢くにさわしん兵衛ひょうえ 1917ねん7がつ31にち - 1919ねん4がつ12にち 江戸えど 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく工科こうか大学だいがく 鉄道てつどうしょう
6 野村のむら龍太郎りゅうたろう 1919ねん4がつ12にち - 1921ねん5月31にち再任さいにん 美濃みのこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ 再任さいにん
7 早川はやかわせん吉郎よしろう 1921ねん5月31にち - 1922ねん10月14にち 加賀かがこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく 三井みつい合名ごうめい会社かいしゃふく理事りじちょう
8 川村かわむら竹治たけじ 1922ねん10月24にち - 1924ねん6月22にち 羽後うごこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく 貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいん
9 安広やすひろばん一郎いちろう 1924ねん6月22にち - 1927ねん7がつ19にち 豊前ぶぜんこく 慶應義塾けいおうぎじゅく
香港ほんこん中央ちゅうおう書院しょいん
枢密すうみつ顧問こもんかん
10 やま本条ほんじょう太郎たろう 1927ねん7がつ19にち - 1929ねん8がつ14にち 越前えちぜんこく 共立きょうりつ学校がっこう中途ちゅうと退学たいがく 立憲りっけん政友せいゆうかい幹事かんじちょう
11 仙石せんごくみつぐ 1929ねん8がつ14にち - 1931ねん6月13にち 土佐とさこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理学部りがくぶ 九州きゅうしゅう鉄道てつどう社長しゃちょう
12 内田うちだ康哉こうさい 1931ねん6月13にち - 1932ねん7がつ6にち 肥後ひごこく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく 外務がいむ大臣だいじん
13 はやし博太郎ひろたろう 1932ねん7がつ26にち - 1935ねん8がつ2にち 東京とうきょう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく 貴族きぞくいん伯爵はくしゃく議員ぎいん
14 松岡まつおか洋右ようすけ 1935ねん8がつ2にち - 1939ねん3月24にち 山口やまぐちけん 明治めいじ法律ほうりつ学校がっこう
オレゴン大学だいがく
中華民国ちゅうかみんこく総領事そうりょうじ
15 大村おおむらたくいち 1939ねん3月24にち - 1943ねん7がつ14にち 福井ふくいけん 札幌さっぽろのう学校がっこう 関東軍かんとうぐん交通こうつう監督かんとく部長ぶちょう
16 しょう日山ひやま直登なおと 1943ねん7がつ14にち - 1945ねん4がつ11にち 福島ふくしまけん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく みなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃ
17 山崎やまざきもとみき 1945ねん5月5にち - 1945ねん9月30にち 福岡ふくおかけん 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく まんしゅうでんぎょうふく社長しゃちょう

おもまんてつ出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

役員やくいん[編集へんしゅう]

社員しゃいん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ きゅう字体じたい」のは、異体いたいセレクタもちいたUnicode符号ふごう位置いちはU+9053,U+E0101。
  2. ^ 現在げんざいみなと麻布台あざぶだい2丁目ちょうめ1ばん2ごう跡地あとちには東京とうきょうアメリカンクラブつくられた
  3. ^ 2023ねん時点じてんでは1979ねん新築しんちく商船しょうせん三井みつい本社ほんしゃビルがある。また東京とうきょう支社ししゃ売却ばいきゃくえきまんてつかい活動かつどうにあてられた
  4. ^ ポーツマス条約じょうやくだい6じょう長春ちょうしゅん以南いなんあずまきよし鉄道てつどうみなみ支線しせんのロシアから日本にっぽん譲渡じょうとすること、だい7じょう両国りょうこくまんしゅうにおける鉄道てつどうしょう工業こうぎょう目的もくてきのためにかぎって使用しようし、軍略ぐんりゃくのためにもちいないこと、だい8じょう両国りょうこくあいだ鉄道てつどう接続せつぞく業務ぎょうむについて早急そうきゅう別役べつやくもうけることを、それぞれさだめた[23]条約じょうやく本文ほんぶんは「にち講和こうわ條約じょうやく(ウィキソース)参照さんしょう
  5. ^ 日本にっぽん政府せいふ獲得かくとくセルまんしゅう鉄道てつどうなみ附属ふぞく財産ざいさん買収ばいしゅう、該鉄道てつどう復旧ふっきゅう整備せいび改築かいちく延長えんちょうなみ大連たいれんニ於ケル鉄道てつどう終端しゅうたん完成かんせい改良かいりょうため資金しきんせいフルノ目的もくてきヲ以テいちノシンジケートヲ組織そしきスルコト」「りょう当事とうじしゃハ其取得しゅとくシタル財産ざいさんたい共同きょうどう且均とう所有しょゆうけんゆうスベキモノトス」が、その骨子こっしであった[20]
  6. ^ ロシアと清国きよくにあいだでは旅順りょじゅん大連たいれん租借そしゃくかんするしん条約じょうやく(1898ねん)・まんしゅうかんするしん協定きょうてい(1900ねん)がむすばれ、そこではロシア・清国きよくに両国りょうこくじん以外いがい鉄道てつどう関与かんよできないこととなっていた[30]
  7. ^ のこりは、東洋とうよう拓殖たくしょく会社かいしゃ韓国かんこく政府せいふへの貸付かしつけなどに投資とうしされた[45]
  8. ^ 午前ごぜん8おとこでやろう」とは、ようするに若手わかて起用きようしようということ。後藤ごとう新平しんぺいは、世間せけんったはたらきざかりの「午後ごご3」ではなく、経験けいけんあさくても新鮮しんせんなやるちた年代ねんだいひともちいることを人事じんじだい方針ほうしんとした。
  9. ^ まんてつ重役じゅうやく地位ちいは、このころから政党せいとう利権りけん対象たいしょうとなりつつあり、政党せいとう植民しょくみん企業きぎょう支配しはいしようといううごきも表面ひょうめんしてきた[56]朝鮮ちょうせん東洋とうよう拓殖たくしょく株式会社かぶしきがいしゃふく総裁そうさいにも、このとき、政友せいゆうかいから野田のだ卯太郎うたろうおくまれている[56]
  10. ^ (ニ)キ」とは東条とうじょう英機ひでき星野ほしの直樹なおき、「さんさん)スケ」とは松岡まつおか洋右ようすけ鮎川あいかわ義介ぎすけきし信介しんすけ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 渡辺わたなべりょうまんてつ余話よわ龍溪りゅうけいしょしゃまんてつかい叢書そうしょ2〉。 
  • 財団ざいだん法人ほうじん まんてつかい へんみなみまんしゅう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃじゅうねんはら書房しょぼう、1974ねん12月。ISBN 978-4562003334 大正たいしょう8年版ねんばん復刊ふっかん
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  • 松岡まつおか洋右ようすけまんてつかたる』慧文けいぶんしゃ、2007ねん12月。ISBN 978-4905849841 復刊ふっかん
  • まんてつとはなにだったのか」『別冊べっさつたまきだい12かん藤原ふじわら書店しょてん、2006ねん11月、ISBN 978-4818819474 まんてつ創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん出版しゅっぱん

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