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山東さんとう出兵しゅっぺい

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山東さんとう出兵しゅっぺい

すみ南市みなみいち城門じょうもんまえ日本にっぽんへい
戦争せんそうきた
年月日ねんがっぴ1927ねん5月28にち - 1929ねん3がつ
場所ばしょ中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく山東さんとうしょう
結果けっか事態じたい鎮静ちんせい
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふ
指導しどうしゃ指揮しきかん
田中たなか義一ぎいち 蔣介せき
損害そんがい
在留ざいりゅう邦人ほうじんやく20めい死亡しぼう日本にっぽん陸軍りくぐん将兵しょうへいやく30めい死亡しぼう[注釈ちゅうしゃく 1] 民間みんかんじんおよび将兵しょうへいやく6,120めい死亡しぼうかずせんめい負傷ふしょう[注釈ちゅうしゃく 2]

山東さんとう出兵しゅっぺい(さんとうしゅっぺい)は、大日本帝国だいにっぽんていこく1927ねん昭和しょうわ2ねんみんこく16ねん)から1928ねん昭和しょうわ3ねんみんこく17ねん)にかけて、3にわたってった中華民国ちゅうかみんこく山東さんとうしょうへの派兵はへいと、そのこった戦闘せんとう

背景はいけい[編集へんしゅう]

1919ねんにドイツ帝国ていこく日本にっぽんふく連合れんごうこくとのあいだでヴェルサイユ条約じょうやく締結ていけつされ、どう条約じょうやくだい156じょう山東さんとうしょうにあったドイツの租借そしゃく日本にっぽん継承けいしょうすることが国際こくさい社会しゃかいみとめられた。

しかし、中華民国ちゅうかみんこくはこれを不服ふふくとしてヴェルサイユ条約じょうやく調印ちょういんしなかった。そして、ちゅうどく平和へいわ回復かいふく協定きょうていを1921ねん5がつ20日はつか北京ぺきん条約じょうやく締結ていけつし、これにより山東さんとうしょうはドイツから中華民国ちゅうかみんこく返還へんかんされるものとされ、ヴェルサイユ条約じょうやく矛盾むじゅんする二枚舌にまいじた外交がいこうとなった。

この結果けっか日本にっぽんはヴェルサイユ条約じょうやく法的ほうてき根拠こんきょとした山東さんとうしょう統治とうちけん主張しゅちょうし、中華民国ちゅうかみんこくちゅうどく平和へいわ回復かいふく協定きょうてい法的ほうてき根拠こんきょにした統治とうちけん主張しゅちょうする対立たいりつ構造こうぞうとなった。

大日本帝国だいにっぽんていこくは、にち戦争せんそう(1904ねん - 1905ねん)の勝利しょうりて、まんしゅうおよび関東かんとうしゅう租界そかいなどの権益けんえきロシア帝国ていこくより継承けいしょう清朝せいちょうとも条約じょうやくにて継承けいしょう確認かくにん以降いこう日本にっぽん同地どうちへの投資とうしすすめ、旅順りょじゅん大連たいれんなどの大都市だいとし相次あいついで発展はってんした。

1912ねんからし革命かくめいにより、清朝せいちょうわり中華民国ちゅうかみんこく誕生たんじょうしたとき中華民国ちゅうかみんこく清朝せいちょう継承けいしょうこくとして条約じょうやくじょう義務ぎむ条約じょうやく順守じゅんしゅ能力のうりょくがあるかが、安定あんていてき大陸たいりく経緯けいい観点かんてんから問題もんだいとなる。1914ねん欧州おうしゅう大戦たいせんだいいち世界せかい大戦たいせん開戦かいせん日本にっぽんドイツ帝国ていこく権益けんえきであった山東さんとうしょう租借そしゃく青島ちんたおにかわしゅうわん租借そしゃく)、植民しょくみんである南洋なんよう群島ぐんとう攻略こうりゃくよく1915ねん日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこく袁世凱だい総統そうとうと、ドイツ権益けんえき引継ひきつぎについて交渉こうしょうおこない(たいはな21ヶ条かじょう要求ようきゅう)、5月25にち山東さんとうしょうかんする条約じょうやく山東さんとうしょうける都市とし開放かいほうかんする交換こうかん公文こうぶんにかわしゅうわん租借そしゃくかんする交換こうかん公文こうぶんとして承認しょうにんされた。

しかしその、1916ねんに袁大総統そうとうぼっすると、清朝せいちょう滅亡めつぼう中原なかはらりまとめる統一とういつ権力けんりょくがなくなり、各地かくち軍閥ぐんばつ群雄割拠ぐんゆうかっきょ列強れっきょう各国かっこく連携れんけいしながら離合りごう集散しゅうさんかえ動乱どうらん時代じだいはいる。すると、革命かくめい直後ちょくご条約じょうやく順守じゅんしゅ問題もんだいがまたわれる事態じたいいたる。1919ねんいち大戦たいせん講和こうわ会議かいぎヴェルサイユ会議かいぎ)がひらかれるが、袁直けい軍閥ぐんばつひきいただん祺瑞は、大戦たいせん末期まっきたいどく宣戦せんせん布告ふこくをしたことを根拠こんきょに、"戦勝せんしょうこく"の立場たちばで、一旦いったん日本にっぽんに遷った山東さんとうしょうどく利権りけん返還へんかん要求ようきゅう、4ねんまえ締結ていけつした「21かじょう要求ようきゅう」の継承けいしょう拒否きょひする意向いこうしめした。

これとどう時期じきロシア革命かくめい成功せいこうけて共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう中原なかはら知識ちしきそうにもはいんでおり、共産きょうさん主義しゅぎ分子ぶんしにより、義和よしかずだんらんきたきよし事変じへん以来いらい列強れっきょうによるぐん駐留ちゅうりゅうたいする反感はんかんわさり、日本にっぽんをはじめとする列強れっきょうたいするはん帝国ていこく主義しゅぎ闘争とうそう慢性まんせいてきひろげられるようになる。マルクス経済けいざい学者がくしゃであったちんどくしゅう北京ぺきん大学だいがく教授きょうじゅおよびどう大学生だいがくせいよん運動うんどうこし、1920ねん5がつには中国共産党ちゅうごくきょうさんとう結党けっとうされる。

状況じょうきょう打開だかいすべく、日本にっぽん政府せいふ中国ちゅうごく交渉こうしょうすえ1922ねんにち中山東なかやまひがし条約じょうやくおよにち中山東なかやまひがし還付かんぷ条約じょうやくによって青島ちんたおふくんだ山東さんとうしょう中国ちゅうごく還付かんぷすることとなったが、にかわずみ鉄道てつどう日本にっぽん借款しゃっかん鉄道てつどうとされ、どう鉄道てつどう沿線えんせん鉱山こうざんにちちゅう合弁ごうべん会社かいしゃ経営けいえいとなるなど、日本にっぽん山東さんとうしょう一定いってい権益けんえき確保かくほした。これは軍縮ぐんしゅく会議かいぎ以来いらい世界せかい規模きぼすす軍縮ぐんしゅくながれによるものでもある(シベリア出兵しゅっぺい本年ほんねん終了しゅうりょう)が、中国ちゅうごくは21かじょう廃棄はいきするようもとめ、日本にっぽんはこれを拒否きょひした。

1927ねんはいると、イギリス租界そかい奪取だっしゅ事件じけん上海しゃんはいクーデターをはじめとした中国ちゅうごく民衆みんしゅうによる暴動ぼうどう事件じけんきるなど危険きけん地帯ちたいにあった。山東さんとうしょうにおける日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみんすうは、昭和しょうわ2ねんまつ外務省がいむしょう調査ちょうさによれば、総計そうけいやく16940にんたっし、そのうち青島ちんたお付近ふきんやく13640にんすみみなみやく2160にんであり、投資とうし総額そうがくやく1おく5せんまんえんたっしていた[1]

だいいち出兵しゅっぺい[編集へんしゅう]

中原なかはら軍閥ぐんばつかく勢力せいりょくうち広東かんとん地盤じばんとした中国ちゅうごく国民党こくみんとうソビエト連邦れんぽうコミンテルン)とむすびついており(だいいち国共こっきょう合作がっさく)、ソ連それん派遣はけんされていた蒋介石しょうかいせきソ連それんしき軍隊ぐんたい組織そしき軍事ぐんじ委員いいんかい統率とうそつしゃとなる。1926ねん3がつ、蒋ひきいる国民こくみん革命かくめいぐんみなみぐん)は、軍事ぐんじりょくによる中原なかはら統一とういつとく北京ぺきん進出しんしゅつしていたちょうさく軍閥ぐんばつきたぐん)の打倒だとうこころざしてきた開始かいしする。その過程かていで、1927ねん昭和しょうわ2ねん3月24にち南京なんきん事件じけん4がつ3にちかんこう事件じけんこって、日本人にっぽんじん生命せいめい財産ざいさん侵害しんがいされた[2]

おなじく租界そかい攻撃こうげきされた英国えいこくはじ各国かっこく公使こうし会議かいぎひらき、守備しゅび兵力へいりょく倍増ばいぞうフランス公使こうしによって提議ていぎされた。このとき日本にっぽん政権せいけんだい1若槻わかつき内閣ないかくであり、ぬさはら喜重郎きじゅうろう外務がいむ大臣だいじん不干渉ふかんしょう主義しゅぎ保持ほじしていた(ぬさげん外交がいこう)。ぬさげん外相がいしょう列強れっきょうあいだ共同きょうどう歩調ほちょうには否定ひていてきであり、芳沢よしざわ謙吉けんきち日本にっぽん公使こうし政府せいふ方針ほうしんもとづき共同きょうどう歩調ほちょうについて明答めいとうけた。4がつ18にちには英国えいこく公使こうしが2師団しだん増派ぞうは提議ていぎしたが、日本にっぽんがわはいまだその必要ひつようがないむね回答かいとうした[1]英国えいこくオースティン・チェンバレン外相がいしょうは「ぬさげん男爵だんしゃく楽観らっかん主義しゅぎすくいがたい」と批判ひはんしている。

4がつ17にち若槻わかつき内閣ないかく昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこうへの対処たいしょあやまってそう辞職じしょくし、与党よとう憲政けんせいかい憲政けんせい常道じょうどうによって下野げや4がつ20日はつか立憲りっけん政友せいゆうかい田中たなか義一ぎいち総裁そうさい首班しゅはんとする田中たなか義一ぎいち内閣ないかく誕生たんじょうした(外相がいしょう田中たなか兼任けんにん)。みなみぐん山東さんとうしょう接近せっきんすると、5月27にち政府せいふ山東さんとうしょう日本にっぽん権益けんえきと2まんにん日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみん保護ほごおよ治安ちあん維持いじのため、陸海りくかいぐん派遣はけんすることを決定けってい田中たなか首相しゅしょう英国えいこく米国べいこく、フランス、イタリアの代表だいひょうまねいて出兵しゅっぺい主旨しゅし説明せつめいしたが、とく異見いけんはなかった。5月28にち陸軍りくぐん中央ちゅうおうざいまんしゅう歩兵ほへいだい33旅団りょだん青島ちんたお派遣はけん待機たいきさせるむね命令めいれいくだす。どう旅団りょだん5月30にち大連たいれん出発しゅっぱつし、翌日よくじつ青島ちんたお入港にゅうこう6月1にち上陸じょうりく完了かんりょうした[1]

7がつ3にちきたぐんまごでんかおるけいしゅうかげじん指揮しきぐん離反りはんしてみなみぐん加担かたんして、青島ちんたお奪取だっしゅ企図きとする。すみみなみにあったきたぐんちょうそうあきらぐんがこれを討伐とうばつしようとしたが、にかわずみ鉄道てつどう電線でんせん切断せつだんされるなど、状況じょうきょう悪化あっかし、歩兵ほへいだい33旅団りょだんすみ南進なんしん不可能ふかのうになるおそれがてきた。そのため、7がつ4にち藤田ふじた栄介えいすけすみみなみ総領事そうりょうじ田中たなか外相がいしょう旅団りょだん西進せいしん申請しんせいし、7がつ5にち閣議かくぎでその必要ひつようみとめられ、旅団りょだん7がつ8にちすみみなみ進出しんしゅつした。またどう8にち閣議かくぎ兵力へいりょく増派ぞうは要請ようせい承認しょうにんされ、ざいまんだい10師団しだん残余ざんよだい14師団しだん一部いちぶ内地ないちより鉄道てつどう電信でんしんかくいちはん7がつ12にち青島ちんたお上陸じょうりくした。

7がつはいると、武漢ぶかん拠点きょてんいていたひろしちょうめい[注釈ちゅうしゃく 3]による武漢ぶかんぐんが蔣介せきぐん側面そくめんおどかしたため、蔣介せき7がつ10日とおかちょうそうあきら停戦ていせんもうれたが、きたぐんおうじず、7がつまつから8がつはじめにかけて、みなみぐんきたぐん決戦けっせんして大敗たいはいした。蔣は、ひろし共産党きょうさんとう絶縁ぜつえん合作がっさく崩壊ほうかい)したのをけて、国民党こくみんとうさい合流ごうりゅう優先ゆうせんさせて8がつ13にち下野げや宣言せんげんし、きた一時いちじてき中断ちゅうだんした。こうした状況じょうきょうから、日本にっぽん政府せいふ8がつ24にち閣議かくぎ撤兵てっぺい決定けってい9月8にちまでに撤兵てっぺい完了かんりょうした[1][3]

これらの出兵しゅっぺい日本人にっぽんじん日本にっぽん権益けんえき保護ほご目的もくてきとしていて、中国ちゅうごく民族みんぞく主義しゅぎ伸長しんちょうおそれるえいまい無条件むじょうけん歓迎かんげいした[4]

だいだいさん出兵しゅっぺい[編集へんしゅう]

下野げやした蒋は同年どうねんあき訪日ほうにち田中たなか首相しゅしょう私邸してい田中たなか意見いけん交換こうかんおこなう。会談かいだんにおいて蔣は、日本にっぽん後援こうえんするはりさく霖軍ばつへの支援しえんるようもとめるが、田中たなかは、あくまでまんしゅう治安ちあん維持いじのための後援こうえんであるとしてゆずらず、会談かいだん物別ものわかれにわった[5]

1928ねん昭和しょうわ3ねん)4がつ8にち、蔣はきた再開さいかい、4がつまつに10まんにんきたぐん山東さんとうしょう突入とつにゅうしたため、ささえ駐屯ちゅうとんぐん天津てんしん部隊ぶたい3中隊ちゅうたい臨時りんじずみみなみ派遣はけんたい)と内地ないちからだい6師団しだん一部いちぶ派遣はけんされ、4がつ20にち午後ごご820ふん臨時りんじずみみなみ派遣はけんたいすみみなみ到着とうちゃく、4がつ26にち午前ごぜん2時半じはんだい6師団しだん先行せんこう部隊ぶたい斎藤さいとうりゅう少将しょうしょう指揮しき混成こんせいだい11旅団りょだんすみみなみ到着とうちゃくし、6せんにん山東さんとうしょう展開てんかいした(だい山東さんとう出兵しゅっぺい[6]やま省内しょうない日本にっぽんぐんきたぐん対峙たいじし、にらいながらも当初とうしょりょうぐんともに規律きりつたもたれていた。

しかし、5月3にち午前ごぜんきた軍兵ぐんびょうによる日本人にっぽんじん家屋かおくならびに日本人にっぽんじんへの、集団しゅうだんてきかつ計画けいかくてきな、略奪りゃくだつ暴行ぼうこう陵辱りょうじょく殺人さつじん事件じけんである、すみみなみ事件じけん発生はっせいした。5月5にちすみみなみちかくの鉄道てつどうえき日本人にっぽんじん9にん惨殺ざんさつ死体したい日本にっぽんぐんによって発見はっけんされた。5月4にち午前ごぜん日本にっぽん緊急きんきゅう閣議かくぎひらいて、関東軍かんとうぐんより歩兵ほへい1旅団りょだん野砲やほうへい1中隊ちゅうたい朝鮮ちょうせんより混成こんせい1旅団りょだん飛行ひこう1中隊ちゅうたい増派ぞうは決定けっていした。5月8にち午後ごご閣議かくぎにおいて、動員どういん1師団しだん山東さんとう派遣はけんおよびきょう方面ほうめんへの兵力へいりょく増派ぞうは承認しょうにんし、5月9にちだい3師団しだん山東さんとう派遣はけんめいじられた (だいさん山東さんとう出兵しゅっぺい)。日本にっぽんぐんは、市内しないに2せんにんいる日本人にっぽんじん保護ほごのためにすみ南城なんじょう攻撃こうげきし、5がつ10日とおかから11にちにかけてのよるきたぐんしろがい脱出だっしゅつきた再開さいかいしたため、5月11にちすみ南城なんじょうならびにすみみなみ全域ぜんいき占領せんりょうした(すみみなみ事変じへん)。この事件じけんにより日本にっぽん世論せろん憤激ふんげき中国ちゅうごくたいする感情かんじょう悪化あっかした。[6]

5がつ中旬ちゅうじゅんきたぐんちょうさく霖軍ばつせってきしてこれに勝利しょうりし、ちょうぐん敗勢はいせいおおがたくなる。日本にっぽんは、ちょう奉天ほうてんへの一時いちじ撤退てったい進言しんげんし、説得せっとくけたちょうは6がつ3にち北京ぺきんはなれる。しかし、よく4にち奉天ほうてんへの帰途きとちょう乗車じょうしゃした列車れっしゃばくげきけ、ちょう落命らくめいする(満州まんしゅうぼう重大じゅうだい事件じけん)。直後ちょくごより、ちょう軍閥ぐんばつ弱体じゃくたいねらった関東軍かんとうぐん謀略ぼうりゃくであったとされたが、いだちょうまなぶりょう日本にっぽんたもとわかち、12月、蔣ひきいる国民こくみん政府せいふとの合流ごうりゅう宣言せんげんした。

蔣介せききた終了しゅうりょうし、1929ねん昭和しょうわ4ねん)3がつ山東さんとう全域ぜんいきから日本にっぽんぐん撤退てったいした。

展開てんかい[編集へんしゅう]

当時とうじ田中たなか義一ぎいち内閣ないかく東方とうほう会議かいぎひらいて、中国ちゅうごく内戦ないせんであるきたへの不干渉ふかんしょうめており、ぐんもこの決定けっていしたがって不用意ふようい戦線せんせん拡大かくだいすることはなかった。つまり、当時とうじ文民ぶんみん統制とうせい実行じっこうされていたわけである。一方いっぽう蔣介せききた戦争せんそう妨害ぼうがいされたことをにもったらしく、このときから日本にっぽんとの戦争せんそう覚悟かくごしていたといわれる。

一方いっぽうで、関東かんとうしゅう日本にっぽんぐんは、上述じょうじゅつ満州まんしゅうぼう重大じゅうだい事件じけんをはじめ、露骨ろこつ満州まんしゅう政策せいさくおこなはじめてもいた。これは日本にっぽん政府せいふすすめていた軍縮ぐんしゅく路線ろせん不戦ふせん条約じょうやく宣布せんぷロンドン軍縮ぐんしゅく条約じょうやく)と相反あいはんするものであり、政府せいふ関東軍かんとうぐん中心ちゅうしんとした軍部ぐんぶ軋轢あつれき次第しだいふかまっていくことになる。

ちょうさく霖はまんてつ併行へいこうせん禁止きんし条項じょうこうはんして鉄道てつどう建設けんせつすすめ、満州まんしゅう善後ぜんご条約じょうやく日本にっぽん清朝せいちょうむすんでいた関東かんとうしゅう権益けんえきについて、中華民国ちゅうかみんこくがわ解釈かいしゃく相違そうい露呈ろていしはじめる。ちょうまなぶりょうは、条約じょうやくにもちちちょうさく関東軍かんとうぐんむすんだ地域ちいきかんする契約けいやくにも違反いはんしないと主張しゅちょうし、開発かいはつすすめられた[7]。このころ、ドイツの退役たいえき将校しょうこうマックス・バウアー大佐たいさが蔣介せき軍事ぐんじ顧問こもんとなり、軍事ぐんじ顧問こもんだん形成けいせいした[8]。これ以降いこう、ドイツの最新さいしん兵器へいき中華民国ちゅうかみんこくにもたらされる(ちゅうどく合作がっさく参照さんしょう)。1929ねん昭和しょうわ4ねん)2がつそうひとしらんきた。4月に山東さんとう全域ぜんいきから日本にっぽんぐん撤退てったいした。5月16にちに馮玉祥ぎょくしょうぐん挙兵きょへい宣言せんげんした。1929ねん6がつ日本にっぽん国民こくみん政府せいふ正式せいしき承認しょうにんする[9]。このときの協定きょうてい文書ぶんしょで蔣介せきは「ささえ」でなく「中華民国ちゅうかみんこく呼称こしょうにするよう要求ようきゅう日本にっぽん承諾しょうだくした[9]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ すみみなみ事件じけん
  2. ^ すみみなみ事件じけん
  3. ^ 蒋とひろし元々もともと国民党こくみんとう同志どうしであったが、国共こっきょう合作がっさく是非ぜひめぐって蔣は反共はんきょうひろし容共ようきょう立場たちばがわかれ、ひろし武漢ぶかんに遷ったことにより国民党こくみんとう軍閥ぐんばつ事実じじつじょう分裂ぶんれつ状態じょうたいにあった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d ほしすぐる芸林げいりん』「昭和しょうわ初年しょねんにおける山東さんとう出兵しゅっぺい問題もんだいてん
  2. ^ ますあじ, pp. 154–156.
  3. ^ ますあじ, pp. 157–158.
  4. ^ 山東さんとう出兵しゅっぺい①/クリック20世紀せいき
  5. ^ ますあじ, pp. 158–159.
  6. ^ a b 石川いしかわ, pp. 48–50.
  7. ^ 臼井うすい勝美かつみ (1995). ちょうまなぶりょう昭和しょうわ最後さいご証言しょうげん. 臼井うすい勝美かつみ. ISBN 978-4041954027 [ようページ番号ばんごう]
  8. ^ おもね健一けんいちにちちゅう戦争せんそうはドイツが仕組しくんだ―上海しゃんはいせんとドイツ軍事ぐんじ顧問こもんだんのナゾ』小学館しょうがくかん、2008ねん、28ぺーじ
  9. ^ a b 石川いしかわ, pp. 55–58.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]