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ねつかわ作戦さくせん

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ねつかわ作戦さくせん関内かんない作戦さくせん
うちモンゴル作戦さくせんなか

1933ねん万里ばんり長城ちょうじょう
とき1933ねん2がつ23にち - 1933ねん5月31にち
場所ばしょ万里ばんり長城ちょうじょうひがしはし
結果けっか
衝突しょうとつした勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
満洲国の旗 まんしゅうこく
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
指揮しきかん
戦力せんりょく
日本にっぽん: 50,000
まんしゅうこく: 42,000
東北とうほくぼうぐん中国語ちゅうごくごばん: 50,000+
被害ひがいしゃすう
不明ふめい 不明ふめい

ねつかわ作戦さくせん(ねっかさくせん、英語えいご: the Defense of the Great Wall中国ちゅうごく: 长城こう1933ねん2がつ23にち[1] - 1933ねん5月31にち)は、にちちゅう戦争せんそうまえおこなわれた大日本帝国だいにっぽんていこく中華民国ちゅうかみんこく軍隊ぐんたいあいだ戦闘せんとうおおくの英語えいご資料しりょうでは、英語えいご: First Battle of Hopeiだいいちねつかわたたかいとしてられている。ほんこうでは、これと連続れんぞくせい関内かんない作戦さくせんについてもれる。

このあいだ日本にっぽん軍閥ぐんばつちょうまなぶりょうからうちモンゴルねつかわしょう首尾しゅびよくり、それをあたらしく設立せつりつされたまんしゅうこく併合へいごうし、そのみなみ国境こっきょう万里ばんり長城ちょうじょうまで拡大かくだいされた。

背景はいけい

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まんしゅう南西なんせいにあったねつかわには、中国ちゅうごく本土ほんどまんしゅうける国境こっきょうとして万里ばんり長城ちょうじょう存在そんざいしており、ねつかわ作戦さくせんは、長城ちょうじょう付近ふきんでの中国ちゅうごくぐん進出しんしゅつ増加ぞうかによって、まんしゅうこく国防こくぼうじょう懸念けねん提起ていきされたことに、はしはっする[2]当時とうじ関東軍かんとうぐんによるまんしゅうこく建国けんこく計画けいかくでは、きたソビエト連邦れんぽう念頭ねんとうかれており、背後はいご中国ちゅうごくぐん長城ちょうじょうからはなしておくこと必要ひつようとされた[2]

ねつかわでは、にちちゅう小競こぜいの多発たはつにより治安ちあん悪化あっかしており、ちょうまなぶりょうがこれを利用りようして4まん抗日こうにち義勇軍ぎゆうぐん結成けっせいした[2]武藤むとう信義のぶよし関東軍かんとうぐん司令しれいは1がつ11にちねつかわ平定へいてい作戦さくせん実行じっこうめ、2がつ4にち作戦さくせん裁可さいか上奏じょうそうでは、「関内かんない進出しんしゅつせざること、関内かんない爆撃ばくげきせざること」を条件じょうけんとして裁可さいかりた[2]。こうして、2がつ9にちにはねつかわしょうまんしゅう国領こくりょうこと目論もくろんで、「ねつかわ経路けいろ計画けいかく」が立案りつあんされ[3]たいねつかわ作戦さくせん司令しれいいたまんしゅうこくも、2がつ18にちねつかわ侵攻しんこう声明せいめい発表はっぴょう、22にちにはざいねつかわ中国ちゅうごくぐんたいして24時間じかん以内いない撤収てっしゅうけたが、これがこばまれたことねつかわ侵攻しんこう開始かいしされた[4]

山海さんかいせきでの前哨ぜんしょうせん

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山海さんかいせき要塞ようさいされた万里ばんり長城ちょうじょうひがしはしであり、長城ちょうじょううみとかち場所ばしょである。1901ねん義和よしかずだんらん協定きょうてい条件じょうけんによって、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん山海さんかいせきやく200にんちいさな駐屯ちゅうとん維持いじしていた。1932ねん10がつ1にちに、まんしゅうこく国境警備隊こっきょうけいびたい中国ちゅうごくぐんあいだきた戦闘せんとう (だいいち山海さんかいせき事件じけん) と、12月8にち日本にっぽんぐん装甲車そうこうしゃ給水きゅうすい目的もくてき山海さんかいせきえきったとききた中国ちゅうごくぐんとの戦闘せんとう (だい山海さんかいせき事件じけん) は、局所きょくしょてきだったこともありすぐに解決かいけつしていた[5]。だが、1933ねん1がつ1にちよる日本にっぽんぐん駐屯ちゅうとん司令しれいは、手榴弾しゅりゅうだん数個すうこ爆発ばくはつさせ、すうはつ発砲はっぽうすることで、「事件じけん」を演出えんしゅつした[6]関東軍かんとうぐんは、山海さんかいせきまもっていた東北とうほくぼうぐん中国語ちゅうごくごばんだい626連隊れんたいに、通路つうろ防衛ぼうえいせんからの退避たいひもとめるため、これを口実こうじつとして利用りようした (だいさん山海さんかいせき事件じけん)。

中国ちゅうごく駐屯ちゅうとんへい撤退てったい拒否きょひすると、だい8師団しだん最後さいご通告つうこくはっし、装甲そうこう列車れっしゃ4りょう戦車せんしゃ10だい支援しえんとも山道さんどう攻撃こうげきした[7]日本にっぽん攻撃こうげきは、ばくげきからの近接きんせつ航空こうくう支援しえんと、沖合おきあいの12せき軍艦ぐんかんともな大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんだい艦隊かんたい砲撃ほうげきにより支援しえんされた。1月3にち攻撃こうげき抵抗ていこうできなくなった中国ちゅうごく連隊れんたいちょうは、部下ぶか半数はんすう喪失そうしつしてから、拠点きょてんからの退避たいひ余儀無よぎなくされた[6]だい8師団しだんはこの3日間にちかん攻撃こうげきに、山海さんかい関内せきうちじょう占拠せんきょした[5]まんしゅう政策せいさくとは区別くべつした、局所きょくしょてき解決かいけつこころみた関東軍かんとうぐん陸軍りくぐん中央ちゅうおうは、ちょうまなぶりょうたいして山海さんかいせきからの一定いってい範囲はんいないへの接近せっきん禁止きんしもとめることで、だい4旅団りょだんのみをのこしてぐん退しりぞけた[3]

ねつかわたたか

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2がつ23にち万里ばんり長城ちょうじょう河北かほくしょうとの境界きょうかい形作かたちづくねつかわ獲得かくとくし、北進ほくしんする中国ちゅうごくぐんおさえるため[1]政府せいふ許可きょか関東軍かんとうぐんついねつかわ作戦さくせん発動はつどうした。25にちにはだい6師団しだん作戦さくせん行動こうどう開始かいし[3]おな朝陽あさひ占領せんりょうされた[4]。3月4にちにはうけたまわとく占領せんりょう10日とおかには最前線さいぜんせん長城ちょうじょうたっし、長城ちょうじょう攻撃こうげき10日とおかからはじまった[4]

けん武装ぶそうする中国ちゅうごくへい

作戦さくせん自体じたいは3がつ16にちごろ終結しゅうけつしたものの、その関東軍かんとうぐん進撃しんげき長城ちょうじょう河北かほくしょうにまでび、北平きたひらいたまえの5がつ中国ちゅうごく停戦ていせんすることになった[1]。3月24にちには国際こくさい連盟れんめい総会そうかいでリットン報告ほうこくしょ採択さいたくされ、日本にっぽん連盟れんめい脱退だったいしめ[3]おなごろ関東軍かんとうぐんねつかわ入城にゅうじょうしていた[4]。しかし、長城ちょうじょう一帯いったい日本にっぽんぐん侵攻しんこう停止ていしすると、関内かんない退却たいきゃくしていた中国ちゅうごくぐんは20師団しだんあつめて反撃はんげきはじめ、きたきの防御ぼうぎょようつくられたかべみなみきの防御ぼうぎょ使つかったこともあり、関東軍かんとうぐん苦戦くせんいられるようになった[8]たいして関東軍かんとうぐんは、警備けいび移行いこうしつつあった部隊ぶたい再度さいど作戦さくせんもどし、4がつ10日とおかには、司令しれいから越境えっきょうきんじられていた長城ちょうじょうやぶり、河北かほくしょう灤東の中国ちゅうごくぐん撃破げきは以後いご5がつ停戦ていせんいたまで戦闘せんとうは「関内かんない作戦さくせん」とばれる[8]。12にちには秦皇島しんのうとう占領せんりょうしたが[9]昭和しょうわ天皇てんのう撤退てったい意向いこうによって、4がつ19にちには前進ぜんしん部隊ぶたい帰投きとう命令めいれいされ、23にちには撤収てっしゅうえた[10]

中国ちゅうごくぐん再度さいど反攻はんこうると、小磯こいそ国昭くにあき参謀さんぼうちょう攻撃こうげき再開さいかい許可きょか、5月3にち関内せきうちへの侵攻しんこうめいじた[8]。この「だい関内かんない作戦さくせん」は、まんしゅう国境こっきょう付近ふきん中国ちゅうごくぐん排除はいじょと、華北かほく地帯ちたい中国ちゅうごくぐんけん降伏ごうぶく目的もくてきとしており、7にち侵攻しんこう開始かいしされた[10]。15にちには、中国ちゅうごくぐん撤兵てっぺい条件じょうけん受諾じゅだくした場合ばあいに、関東軍かんとうぐん長城ちょうじょうせんまで退すさがる意図いとしめしたが、これにたいする返答へんとうく、20日はつか密雲みつうん豊潤ほうじゅんまで侵攻しんこう、21にちとおりしゅう占領せんりょうした[10]天津てんしん特務とくむ機関きかん板垣いたがき征四郎せいしろう少将しょうしょうによる工作こうさく活動かつどう甲斐かいもあり、中国ちゅうごくぐんは5月25にち密雲みつうんだい8師団しだんつい停戦ていせんもと[8]のべけいはやしちんこうやすしかわよりみなみ撤収てっしゅうすること条件じょうけんとした[10]

余波よは

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5月30にちから31にち塘沽おこなわれた停戦ていせん協定きょうていは、塘沽協定きょうていばれ、北平きたひら天津てんしんむすせんの40-60kmきたいたせんと、長城ちょうじょうあいだ中国ちゅうごくぐんれない武装ぶそう地帯ちたい創設そうせつした[8]。だが、この武装ぶそう完全かんぜんではく、中国ちゅうごくぐん撤収てっしゅう関東軍かんとうぐん撤収てっしゅうはじめるはずところを、駐屯ちゅうとんつづけて灤東とまんしゅう治安ちあん維持いじと、交通こうつう郵便ゆうびんといった通信つうしん税関ぜいかん設置せっち協定きょうてい一方いっぽうてき締結ていけつおこなうなど、エリア一帯いったいは「じゅんまんしゅうこく」した[11]

関東軍かんとうぐんはこの作戦さくせん中国ちゅうごくからの干渉かんしょうったことにより、誕生たんじょうしたばかりのまんしゅうこく盤石ばんじゃくかためることができた[8]蔣介せきにしてれば、華北かほく防衛ぼうえい危機きき直面ちょくめんしたいち大事だいじであったが、中国共産党ちゅうごくきょうさんとう打倒だとう目標もくひょうとするかれは、停戦ていせんによってだい掃共せん専念せんねん出来でき[12]

また、ねつかわ上質じょうしつアヘン産地さんちであったが、関東軍かんとうぐん同地どうちケシはたけれたことで関東かんとうぐんまんしゅうこく財源ざいげん確保かくほした。同時どうじに、ねつかわのアヘンを資金しきんげんにしていた中国ちゅうごくぐん抗日こうにちゲリラのアヘン密売みつばいルートを遮断しゃだんすることができた。[13]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c きん現代げんだい編纂へんさんかい編著へんちょ別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 戦記せんきシリーズ38 満州まんしゅう帝国ていこく興亡こうぼう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1997、p.126。
  2. ^ a b c d 平塚ひらつか 1994, p. 62.
  3. ^ a b c d 中山なかやま 2000, p. 156.
  4. ^ a b c d 平塚ひらつか 1994, p. 64.
  5. ^ a b 中山なかやま 2000, p. 155.
  6. ^ a b Battles of the Great Wall”. 13 August 2016閲覧えつらん
  7. ^ Guo Rugui, だい部分ぶぶんしたがえ"きゅういちはち"事変じへんいた西安しーあん事変じへん にれせき ねつかわしつもり 1
  8. ^ a b c d e f 中山なかやま 2000, p. 157.
  9. ^ 平塚ひらつか 1994, p. 65.
  10. ^ a b c d 平塚ひらつか 1994, p. 68.
  11. ^ 平塚ひらつか 1994, p. 69.
  12. ^ 中山なかやま 2000, pp. 157–158.
  13. ^ うちこうむいにしえ日本人にっぽんじん医師いし東條とうじょう兵団へいだん大量たいりょう虐殺ぎゃくさつ[エッセイ]|Web医事いじ新報しんぽう|日本にっぽん医事いじ新報しんぽうしゃ”. www.jmedj.co.jp. 2024ねん10がつ19にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 中山なかやま隆志たかし関東軍かんとうぐん講談社こうだんしゃ、2000ねんISBN 4-404-02542-4 
  • 平塚ひらつかまさきいとぐち事件じけんでつづる満州まんしゅう事変じへん」『満州まんしゅうこく関東軍かんとうぐん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ戦史せんししつへん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1994ねんISBN 4-404-02155-0 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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