ミイトキーナの戦 たたか い (ミイトキーナのたたかい)は、1944年 ねん にビルマ のミイトキーナ (ミッチーナー に対 たい する当時 とうじ の日本 にっぽん での呼称 こしょう )とその周辺 しゅうへん 地域 ちいき をめぐって行 おこな われた戦闘 せんとう 。日本 にっぽん 軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん ・国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん とが戦 たたか った。
当初 とうしょ はゲリラ戦 せん により守備 しゅび 隊 たい 側 がわ が優勢 ゆうせい であったが、連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ との物量 ぶつりょう 差 さ に加 くわ え、増援 ぞうえん 部隊 ぶたい の派遣 はけん がままならなかったことで次第 しだい に窮地 きゅうち に陥 おちい り、最終 さいしゅう 的 てき に制圧 せいあつ された。
1942年 ねん の日本 にっぽん 軍 ぐん のビルマ侵攻 しんこう により、重慶 たーちん の国民党 こくみんとう 政権 せいけん への補給 ほきゅう ルート(援蒋ルート )は空路 くうろ (ハンプ超 ちょう え (英語 えいご 版 ばん ) )を残 のこ して遮断 しゃだん され、中国 ちゅうごく 、そして連合 れんごう 軍 ぐん にとって大 だい 打撃 だげき を与 あた えた。
ルーズベルト米 べい 大統領 だいとうりょう はこれについて、新 あたら しい陸路 りくろ の援蒋ルートであるレド公 おおやけ 路 ろ の開設 かいせつ は全 ぜん ビルマの奪還 だっかん より重要 じゅうよう だと言明 げんめい していた。
同年 どうねん 末 まつ 、レド公 おおやけ 路 ろ の建設 けんせつ は英軍 えいぐん により開始 かいし され、米 べい 軍 ぐん のジョセフ・スティルウェル 中将 ちゅうじょう の主導 しゅどう に渡 わた って以降 いこう 、工事 こうじ は順調 じゅんちょう に進 すす み、1943年 ねん 2月 がつ 末 まつ にはビルマ国境 こっきょう にまで完成 かんせい していたが、雨期 うき により工事 こうじ は中止 ちゅうし された。同 どう 公 おおやけ 路 ろ は雲南 うんなん 路 ろ に連結 れんけつ して初 はじ めて地上 ちじょう 輸送 ゆそう 路 ろ としての効力 こうりょく を発揮 はっき するものであり、それに先駆 さきが けてミイトキーナの占領 せんりょう はハンプ空輸 くうゆ の効率 こうりつ を大幅 おおはば に向上 こうじょう させることが予想 よそう された。ミイトキーナはマンダレー から北上 ほくじょう する鉄道 てつどう 路線 ろせん の終点 しゅうてん で、イラワジ川 がわ の水運 すいうん の中継 ちゅうけい 地 ち であり、日本 にっぽん 軍 ぐん の飛行場 ひこうじょう があった。スティルウィルとしては乾季 かんき の間 あいだ にミイトキーナを占領 せんりょう したいところであり、空挺 くうてい 作戦 さくせん によるミイトキーナ占領 せんりょう を計画 けいかく した。
一方 いっぽう 、日本 にっぽん 側 がわ にとってもミイトキーナは北 きた 緬 はる 防衛 ぼうえい の要 よう であり、同地 どうち の失陥 しっかん は第 だい 56師団 しだん の雲 くも 南 みなみ およびフ-コン防衛 ぼうえい を窮地 きゅうち に陥 おとしい れ、ひいては連合 れんごう 軍 ぐん への作戦 さくせん 路 ろ の明 あ け渡 わた しを意味 いみ していた。当然 とうぜん ながら彼我 ひが の要点 ようてん として苛烈 かれつ な戦闘 せんとう が予測 よそく された。
雨期 うき 明 あ けの1943年 ねん 末 まつ に、スティルウェル率 ひき いる新編 しんぺん 中国 ちゅうごく 軍 ぐん が日本 にっぽん 軍 ぐん の第 だい 18師団 しだん が守備 しゅび するフーコン谷 だに に侵攻 しんこう し、ミイトキーナ目指 めざ して前進 ぜんしん を開始 かいし した。
しかし、フーコンにおいて第 だい 18師団 しだん は持久 じきゅう 戦 せん を行 おこな ったため、連合 れんごう 国軍 こくぐん はさっぱり前進 ぜんしん できなかった。またルイス・マウントバッテン 中将 ちゅうじょう 率 ひき いるイギリス軍 ぐん は北 きた ビルマでの戦線 せんせん 拡大 かくだい に反対 はんたい であり、北 きた ビルマでの連合 れんごう 国軍 こくぐん の主力 しゅりょく はスティルウェル指揮 しき 下 か の中国 ちゅうごく 軍 ぐん インド遠征 えんせい 軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん のガラハッド部隊 ぶたい だった。
この作戦 さくせん はスティルウェルの独断 どくだん で行 おこな われ、マウントバッテン中将 ちゅうじょう らイギリス軍 ぐん には事前 じぜん に何 なに も知 し らされなかったため、米 べい 中 ちゅう 連合 れんごう 軍 ぐん がミイトキーナを占領 せんりょう した後 のち で作戦 さくせん を知 し らされ憮然 ぶぜん となった。
ミイトキーナの守備 しゅび 隊 たい は歩兵 ほへい 第 だい 114連隊 れんたい (指揮 しき 官 かん :丸山 まるやま 房 ぼう 安 やす 大佐 たいさ )であったが、その戦力 せんりょく はほとんどが周辺 しゅうへん 地域 ちいき に散 ち らばっており、当初 とうしょ ミイトキーナに残 のこ っていたのは歩兵 ほへい 2個 こ 中隊 ちゅうたい と砲兵 ほうへい や機関 きかん 銃 じゅう 部隊 ぶたい など3個 こ 小隊 しょうたい で、総員 そういん 700人 にん 弱 じゃく だった。小倉 こくら で編成 へんせい された同 どう 連隊 れんたい は筑豊 ちくほう の炭鉱 たんこう 出身 しゅっしん 者 しゃ が多 おお く、連合 れんごう 軍 ぐん の猛攻 もうこう に耐 た えうる堅固 けんご な坑道 こうどう 戦 せん を展開 てんかい する事 こと が出来 でき た。
この他 ほか に通信 つうしん 兵 へい ・工兵 こうへい ・鉄道 てつどう 部隊 ぶたい ・飛行場 ひこうじょう 部隊 ぶたい ・輜重 しちょう ・憲兵 けんぺい などが計 けい 1430人 にん ほどと、野戦 やせん 病院 びょういん の入院 にゅういん 患者 かんじゃ が320人 にん ほどいた。
歩兵 ほへい 第 だい 114連隊 れんたい (丸山 まるやま 房 ぼう 安 やす 大佐 たいさ )連隊 れんたい 副官 ふっかん 平井 ひらい 中尉 ちゅうい ほか本部 ほんぶ および以下 いか 残存 ざんそん 部隊 ぶたい 約 やく 700名 めい
同 どう 第 だい 1大隊 だいたい の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい と1個 いっこ 小隊 しょうたい (猪瀬 いのせ 重雄 しげお 少佐 しょうさ 率 ひき いる大隊 だいたい 本部 ほんぶ はトーゴー、ピモー付近 ふきん に展開 てんかい し、そのまま第 だい 56師団 しだん 長 ちょう の配下 はいか )
第 だい 2大隊 だいたい の2個 こ 中隊 ちゅうたい (山畑 やまばた 重盛 しげもり 少佐 しょうさ 率 ひき いる大隊 だいたい 本部 ほんぶ はソップズップ周辺 しゅうへん に展開 てんかい 、のち合流 ごうりゅう )
機関 きかん 銃 じゅう 中隊 ちゅうたい の1個 いっこ 小隊 しょうたい ・大隊 だいたい 砲 ほう 1個 いっこ 分隊 ぶんたい
連隊 れんたい 砲 ほう 中隊 ちゅうたい の半 はん 部 ぶ (連隊 れんたい 砲 ほう 1門 もん ・速射 そくしゃ 砲 ほう 2門 もん )および通信 つうしん 中隊 ちゅうたい 主力 しゅりょく
のち、当初 とうしょ シャン州 しゅう に配属 はいぞく されていた第 だい 3大隊 だいたい (中西 なかにし 徳太郎 とくたろう 少佐 しょうさ )が合流 ごうりゅう 。
以下 いか の部隊 ぶたい は在 ざい ミイトキーナ所 しょ 部隊 ぶたい で、丸山 まるやま 大佐 たいさ とは指揮 しき 関係 かんけい がない。
第 だい 18師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ 残留 ざんりゅう 部隊 ぶたい 約 やく 30名 めい
通信 つうしん 隊 たい 無線 むせん 1分隊 ぶんたい
「菊 きく 」第 だい 2野戦 やせん 病院 びょういん (3分 ぶん の1欠 かけ )戦傷 せんしょう 患者 かんじゃ 約 やく 320名 めい
防疫 ぼうえき 給水 きゅうすい 部 ぶ の一部 いちぶ
工兵 こうへい 第 だい 12連隊 れんたい 第 だい 1中隊 ちゅうたい の一部 いちぶ
船舶 せんぱく 工兵 こうへい 第 だい 11連隊 れんたい 第 だい 1中隊 ちゅうたい の一 いち 分隊 ぶんたい
鉄道 てつどう 第 だい 5連隊 れんたい の一部 いちぶ
電信 でんしん 第 だい 19連隊 れんたい 第 だい 3中隊 ちゅうたい の一部 いちぶ
憲兵 けんぺい 分遣 ぶんけん 隊 たい
第 だい 5飛行 ひこう 師団 しだん 地上 ちじょう 部隊 ぶたい の一部 いちぶ 、兵站 へいたん 部 ぶ
第 だい 15飛行場 ひこうじょう 大隊 だいたい の一部 いちぶ
第 だい 7野戦 やせん 飛行場 ひこうじょう 設営 せつえい 隊 たい の一部 いちぶ
陸上 りくじょう 勤務 きんむ 第 だい 67中隊 ちゅうたい の一部 いちぶ
第 だい 3航空 こうくう 情報 じょうほう 隊 たい 第 だい 4中隊 ちゅうたい の一部 いちぶ
第 だい 3気象 きしょう 連隊 れんたい 第 だい 4中隊 ちゅうたい の一部 いちぶ
メリル挺進 ていしん 隊 たい (英語 えいご 版 ばん ) (コマンド部隊 ぶたい )はアメリカ軍 ぐん 第 だい 5307混成 こんせい 部隊 ぶたい 隷下 れいか の3個 こ 大隊 だいたい (ガラハット大隊 だいたい )、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 新編 しんぺん 第 だい 一軍 いちぐん (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の2個 こ 連隊 れんたい および砲兵 ほうへい や輜重 しちょう 兵 へい など4個 こ 中隊 ちゅうたい 、カチン人 ひと ゲリラで編成 へんせい されていた。詳細 しょうさい は以下 いか の通 とお り[ 2] 。
司令 しれい :フランク・メリル (英語 えいご 版 ばん ) 准 じゅん 将 しょう
K部隊 ぶたい :ヘンリー・L・キニソン大佐 たいさ (Henry L. Kinnison, Jr.)
ガラハット第 だい 3大隊 だいたい
中国 ちゅうごく 軍 ぐん 第 だい 30師 し (胡 えびす 素 もと )第 だい 88団 だん :楊毅上 うえ 校 こう [ 3]
H部隊 ぶたい :チャールズ・N・ハンター (英語 えいご 版 ばん ) 大佐 たいさ
ガラハット第 だい 2大隊 だいたい
動物 どうぶつ 輸送 ゆそう 連隊 れんたい 第 だい 3中隊 ちゅうたい
中国 ちゅうごく 第 だい 22師 し 山砲 さんぽう 第 だい 3連 れん
中国 ちゅうごく 第 だい 50師 し (潘 はん 裕 ひろし 昆 こん )第 だい 150団 だん :黄 き 春 はる 城上 じょうかみ 校 こう
M部隊 ぶたい :ジョージ・A・マギー大佐 たいさ (George M. McGee)
ガラハット第 だい 1大隊 だいたい
カチン人 ひと 300名 めい 特別 とくべつ 編成 へんせい 中隊 ちゅうたい
空輸 くうゆ 部隊 ぶたい
中国 ちゅうごく 軍 ぐん 第 だい 30師 し 隷下 れいか 部隊 ぶたい
第 だい 89団 だん 第 だい 2営
第 だい 90団 だん の一部 いちぶ
中国 ちゅうごく 軍 ぐん 第 だい 14師 し 隷下 れいか 部隊 ぶたい
第 だい 41団 だん 第 だい 2営
第 だい 42団 だん 第 だい 3営
中国 ちゅうごく 軍 ぐん 第 だい 50師 し 隷下 れいか 部隊 ぶたい
英軍 えいぐん 第 だい 69対空 たいくう 軽 けい 連隊 れんたい W、X部隊 ぶたい
第 だい 879航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい
第 だい 209戦闘 せんとう 工兵 こうへい 大隊 だいたい
第 だい 236戦闘 せんとう 工兵 こうへい 大隊 だいたい
第 だい 5307混成 こんせい 部隊 ぶたい 増設 ぞうせつ 部隊 ぶたい (通称 つうしょう :新 しん ガラハット大隊 だいたい )
なお、スティルウェルは蒋介石 しょうかいせき に対 たい し、一 いち 個 こ 師団 しだん の協力 きょうりょく も要請 ようせい したがこれを拒否 きょひ されている。
挺進 ていしん 隊 たい の進路 しんろ
北 きた ビルマの日本 にっぽん 軍 ぐん は3月 がつ 初 はじ めにマンダレー・ミイトキーナ間 あいだ に降下 こうか し、モールに陣地 じんち を構築 こうちく したイギリス軍 ぐん のチンディット部隊 ぶたい への対処 たいしょ に追 お われていた。
優秀 ゆうしゅう な敵 てき の攻勢 こうせい を受 う けた場合 ばあい 、イラワジ河 かわ 右岸 うがん で少 すく なくとも3か月 げつ 間 あいだ は阻止 そし し、左側 ひだりがわ 河畔 かはん に移 うつ って持久 じきゅう するものとした。
また
軍旗 ぐんき 中隊 ちゅうたい 主力 しゅりょく は野戦 やせん 病院 びょういん の健 けん 兵 へい とともに射撃 しゃげき 場 じょう 付近 ふきん を占領 せんりょう
歩兵 ほへい 第 だい 7中隊 ちゅうたい は鉄道 てつどう 線路 せんろ 正面 しょうめん を占領 せんりょう
通信 つうしん 中隊 ちゅうたい を含 ふく む約 やく 200名 めい は上部 じょうぶ 隊 たい の南 みなみ に連係 れんけい して占領 せんりょう
憲兵 けんぺい 隊 たい はビルマ受訓兵 へい を指揮 しき し最 さい 左翼 さよく のチークリン付近 ふきん を占領 せんりょう
第 だい 15軍 ぐん 各 かく 師団 しだん はそれぞれ、第 だい 15師団 しだん はマダヤ、第 だい 31師団 しだん はミンム、第 だい 33師団 しだん はミンギャン・パコック付近 ふきん に第 だい 1線 せん として配備 はいび し、第 だい 2線 せん として第 だい 53師団 しだん をキャウセ付近 ふきん に控 ひかえ 置 おけ した。また、第 だい 31師団 しだん の一部 いちぶ をもってサゲイン付近 ふきん 、第 だい 33師団 しだん の一部 いちぶ をもってミンギャンのイラワジ河 かわ 前 ぜん 岸 きし にそれぞれ拠点 きょてん を形成 けいせい した。
18師団 しだん を圧迫 あっぱく しつつ南下 なんか していたスティルウェルは、雨季 うき の開始 かいし が始 はじ まる前 まえ にミイトキーナに部隊 ぶたい を派遣 はけん し制圧 せいあつ を急 いそ がなければならないと考 かんが えていた。アメリカ軍 ぐん がビルマ戦線 せんせん への援軍 えんぐん として派遣 はけん していたコマンド部隊 ぶたい であるガラハッド部隊 ぶたい のうち3個 こ 大隊 だいたい からなる挺進 ていしん 隊 たい を編成 へんせい 。
メリル准 じゅん 将 しょう は心臓 しんぞう 病 びょう により挺進 ていしん 行動 こうどう が不可能 ふかのう と判断 はんだん されたため、H部隊 ぶたい のハンター大佐 たいさ が直接 ちょくせつ 戦闘 せんとう を指揮 しき 。K部隊 ぶたい 、M部隊 ぶたい 、H部隊 ぶたい はフーコン谷 たに 東方 とうほう のクモン山系 さんけい のジャングルを陸路 りくろ で移動 いどう させ、ハンター大佐 たいさ から報告 ほうこく があり次第 しだい 、中国 ちゅうごく 軍 ぐん 2,3個 こ 団 だん を空路 くうろ で飛行場 ひこうじょう に急襲 きゅうしゅう させる。K部隊 ぶたい 、H部隊 ぶたい はノウラフキエト峠 とうげ とリトポングを経由 けいゆ しミイトキーナに直行 ちょっこう 、M部隊 ぶたい はセンジョウガ、フカタガ、アラング方面 ほうめん に前進 ぜんしん して両 りょう 部隊 ぶたい の右側 みぎがわ 援護 えんご にあたる作戦 さくせん だった。飛行場 ひこうじょう 占領 せんりょう 予定 よてい 日 び は5月12日 にち 。
ジャングル地帯 ちたい で作戦 さくせん 行動 こうどう 中 ちゅう のガラハッド部隊 ぶたい 。ビルマの山岳 さんがく 地帯 ちたい では日本 にっぽん 軍 ぐん やイギリス軍 ぐん ・アメリカ軍 ぐん も駄馬 だうま に頼 たよ った
4月 がつ 28日 にち から30日 にち にかけて、挺進 ていしん 隊 たい は三 みっ つの部隊 ぶたい に別 わか れてミイトキーナを目指 めざ し出発 しゅっぱつ した。5月5日 にち 、リトポングに展開 てんかい していた第 だい 2大隊 だいたい とK部隊 ぶたい が遭遇 そうぐう し交戦 こうせん 。一方 いっぽう H部隊 ぶたい ・M部隊 ぶたい の進路 しんろ も同様 どうよう に日本 にっぽん 軍 ぐん 小 しょう 部隊 ぶたい との遭遇 そうぐう や、駄馬 だうま の半数 はんすう を失 うしな うほどの険 けわ しい山越 やまご えで苛烈 かれつ を極 きわ め、到着 とうちゃく 予定 よてい 日 び は大幅 おおはば に遅 おく れてしまった。H部隊 ぶたい はアラングの日本 にっぽん 兵 へい を撃破 げきは し、16日 にち 、ミイトキーナ北西 ほくせい 方 かた のナムクイ付近 ふきん に到着 とうちゃく した。翌 よく 17日 にち 10時 じ に第 だい 150団 だん が飛行場 ひこうじょう に突入 とつにゅう 。一方 いっぽう の守備 しゅび 隊 たい は第 だい 15飛行場 ひこうじょう 大隊 だいたい に所属 しょぞく する約 やく 100名 めい が警備 けいび していたに過 す ぎず、飛行場 ひこうじょう は間 ま もなく占領 せんりょう された。
飛行場 ひこうじょう にはドラム缶 どらむかん が多数 たすう 転 ころ がっていたものの滑走 かっそう 路 ろ は支障 ししょう なく[ 5] 、挺進 ていしん 隊 たい は着陸 ちゃくりく 可能 かのう と判断 はんだん 、除去 じょきょ 後 ご コールサインである“Merchant of Venice(ヴェニスの商人 しょうにん )”を発信 はっしん し、それを合図 あいず に増援 ぞうえん 部隊 ぶたい 600人 にん を載 の せたグライダーを曳航 えいこう する第 だい 10、第 だい 14航空 こうくう 隊 たい の輸送 ゆそう 機 き 二 に 十 じゅう 数 すう 機 き が飛来 ひらい 、16時 じ 30分 ふん よりウェイコ CG-4A (英語 えいご 版 ばん ) グライダーを次々 つぎつぎ と飛行場 ひこうじょう に着陸 ちゃくりく させた[ 5] 。
以降 いこう も部隊 ぶたい の空輸 くうゆ は続 つづ き、それぞれ市街地 しがいち 周辺 しゅうへん に陣地 じんち を展開 てんかい した。だが、点 てん を制圧 せいあつ したにすぎず、守備 しゅび 隊 たい はまだ完全 かんぜん に囲 かこ まれたわけではなかった。丸山 まるやま 部隊 ぶたい はミイトキーナ市街 しがい に立 た て篭 こ もって抵抗 ていこう を続 つづ けると同時 どうじ に、連合 れんごう 軍 ぐん の隙間 すきま を縫 ぬ って人員 じんいん と物資 ぶっし の補給 ほきゅう を確保 かくほ した。モール付近 ふきん で敵 てき 空挺 くうてい 部隊 ぶたい の掃討 そうとう にあたっていた第 だい 三 さん 大隊 だいたい とフーコン戦線 せんせん に応援 おうえん に来 き ていた第 だい 56師団 しだん の水淵 みずぶち 大隊 だいたい を加 くわ えて2000人 にん 程度 ていど の兵力 へいりょく となった。また19日 にち 夜 よる には、列車 れっしゃ での弾薬 だんやく 補給 ほきゅう を強行 きょうこう 。これは25日 にち まで行 おこな われた。
一方 いっぽう 、ミートキーナの敵 てき がわずか300名 めい との誤報 ごほう を信 しん じた第 だい 150団 だん 団長 だんちょう の黄 き 春 はる 城上 じょうかみ 校 こう は、先着 せんちゃく 兵力 へいりょく だけで制圧 せいあつ 可能 かのう と考 かんが え、17日 にち の飛行場 ひこうじょう 突入 とつにゅう 直後 ちょくご に独断 どくだん で2個 こ 営を市街地 しがいち に進 すす ませた[ 8] が、誤 あやま って市街地 しがいち 北部 ほくぶ のシタプールに向 む かい、そこで待 ま ち構 かま えていた守備 しゅび 隊 たい より攻撃 こうげき を受 う けた。部隊 ぶたい は動揺 どうよう して同士討 どうしう ちに陥 おちい いり、敗退 はいたい した。この時 とき 、黄 き 上 うえ 校 こう ほか営長2名 めい が戦死 せんし したとされる[ 注 ちゅう 1] 。連合 れんごう 軍 ぐん の空輸 くうゆ に威圧 いあつ されていた守備 しゅび 隊 たい の士気 しき は大 おお いに上 あ がった。
同日 どうじつ 、飛行場 ひこうじょう の攻撃 こうげき を命 めい ぜられた第 だい 5中隊 ちゅうたい および第 だい 2機関 きかん 銃 じゅう 中隊 ちゅうたい 隷下 れいか 機関 きかん 砲 ほう 小隊 しょうたい は、敵 てき 輸送 ゆそう 機 き 飛来 ひらい の合間 あいま を利用 りよう して奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき を敢行 かんこう 、重機 じゅうき 4ほか展開 てんかい 中 ちゅう の連合 れんごう 軍 ぐん 物資 ぶっし に損害 そんがい を与 あた えたとされる。
20日 はつか 午前 ごぜん 7時 じ 、第 だい 150団 だん は市街地 しがいち 南端 なんたん を急襲 きゅうしゅう し憲兵 けんぺい 隊 たい 陣地 じんち を突破 とっぱ 、駅 えき に殺到 さっとう した。これを知 し った丸山 まるやま 大佐 たいさ は直 ただ ちに八 はち 江 こう 正義 まさよし 中尉 ちゅうい 率 ひき いる情報 じょうほう 班 はん 員 いん 7人 にん を駅 えき に急行 きゅうこう させた。駅 えき 周辺 しゅうへん では、中国 ちゅうごく 兵 へい たちがたやすく制圧 せいあつ できたことに安心 あんしん し周辺 しゅうへん を物色 ぶっしょく していた。八江 やつえ 中尉 ちゅうい らは草 くさ むらに隠 かく れ急襲 きゅうしゅう を行 おこな った。また予備 よび 隊 たい 60名 めい も加 くわ わり、各地 かくち で神出鬼没 しんしゅつきぼつ のゲリラ戦 せん を展開 てんかい させた。この戦闘 せんとう で中国 ちゅうごく 軍 ぐん 側 がわ は大 だい 混乱 こんらん に陥 おちい り、同士討 どうしう ちの末 すえ 撤退 てったい した。この戦闘 せんとう で第 だい 150団 だん は第 だい 3営営 えいえい 長 ちょう ・郭 かく 文 ぶん 軒 のき 少 しょう 校 こう 、副 ふく 団長 だんちょう ・欧 おう 陽 ひ 爵少校 こう をはじめ多数 たすう の軍 ぐん 官 かん を喪失 そうしつ する損害 そんがい を被 こうむ った。
21日 にち 、中国 ちゅうごく 軍 ぐん に代 か わって今度 こんど はガラハッド部隊 ぶたい の第 だい 3大隊 だいたい が市街地 しがいち 北方 ほっぽう から南下 なんか して進撃 しんげき するが失敗 しっぱい し、24日 にち 、守備 しゅび 隊 たい に陣地 じんち を奪還 だっかん された。翌 よく 25日 にち には88団 だん 、89団 だん をもって奪還 だっかん を試 こころ みるが、これもまた失敗 しっぱい した。この一連 いちれん の失敗 しっぱい を受 う け、ミイトキーナの米 べい ・中国 ちゅうごく 軍 ぐん を指揮 しき するマッカモン准 じゅん 将 しょう は5月25日 にち に日本 にっぽん 軍 ぐん 陣地 じんち に総 そう 攻撃 こうげき を仕掛 しか けたが失敗 しっぱい したため、前線 ぜんせん に視察 しさつ に来 き たスティルウェル中将 ちゅうじょう によって罷免 ひめん させられ、後任 こうにん はボードナー准 じゅん 将 しょう になった。
5月18日 にち 、事態 じたい を重 おも く見 み た第 だい 33軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は、中国 ちゅうごく 軍 ぐん の反攻 はんこう (拉 ひしげ 孟 はじめ ・騰 あが 越 えつ の戦 たたか い )に際 さい して雲南 うんなん 方面 ほうめん に派遣 はけん していた56師団 しだん 長 ちょう に水上 すいじょう 部隊 ぶたい の主力 しゅりょく をミイトキーナに派遣 はけん するよう命 めい じ、また28日 にち にはミートキーナ守備 しゅび 隊 たい を第 だい 18師団 しだん から離 はな し、第 だい 33軍 ぐん の直轄 ちょっかつ 部隊 ぶたい とした。軍 ぐん の要請 ようせい は水上 みずかみ 源蔵 げんぞう 少将 しょうしょう の指揮 しき する歩兵 ほへい 第 だい 113連隊 れんたい の二 に 個 こ 大隊 だいたい 等 とう であったが、師団 しだん 参謀 さんぼう 長 ちょう の川道 かわみち 富士雄 ふじお 大佐 たいさ は余裕 よゆう がなかったため、いずれ増援 ぞうえん が来 く るだろうと独断 どくだん で水上 すいじょう 少将 しょうしょう に一 いち 個 こ 小隊 しょうたい と砲兵 ほうへい 一 いち 個 こ 中隊 ちゅうたい を指揮 しき 下 か に与 あた えてミイトキーナに派遣 はけん した。
水上 みずかみ 少将 しょうしょう は「命令 めいれい は承知 しょうち した。雲南 うんなん の戦場 せんじょう で師団 しだん 主力 しゅりょく と共 とも に死 し ねないのは残念 ざんねん だが、ミイトキーナでは必 かなら ず任務 にんむ を達成 たっせい する。恐 おそ らく是 ぜ でお目 め にかかることは無 な いであろう。師団 しだん 長 ちょう によろしく伝 つた えてもらいたい」と答 こた えた。
驚 おどろ いた第 だい 33軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の本多 ほんだ 政材 まさき 中将 ちゅうじょう がすぐさま軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ 参謀 さんぼう の野口 のぐち 省 しょう 己 おのれ 少佐 しょうさ を派遣 はけん し問 と い正 ただ したところ、川道 かわみち 大佐 たいさ は「本件 ほんけん は自分 じぶん 一 いち 個 こ の独断 どくだん 的 てき 措置 そち であり、全 ぜん 責任 せきにん は自分 じぶん に有 あ る」として軍 ぐん の了承 りょうしょう を要請 ようせい した。野口 のぐち 少佐 しょうさ の報告 ほうこく を聞 き いた本多 ほんだ は、川道 かわみち を不問 ふもん とした。
名目 めいもく 上 じょう は水上 すいじょう 少将 しょうしょう がミイトキーナ守備 しゅび 隊 たい の指揮 しき 官 かん であったが、水上 みずかみ 少将 しょうしょう の手 て もちの部隊 ぶたい はごくわずかであったため、守備 しゅび 隊 たい の実質 じっしつ 的 てき な指揮 しき は丸山 まるやま 大佐 たいさ が執 と った。
6月 がつ に入 はい ってからはかねてから第 だい 33軍 ぐん から通達 つうたつ されていた援軍 えんぐん である53師団 しだん 主力 しゅりょく がモガウン経由 けいゆ でミイトキーナへ進撃 しんげき した。この部隊 ぶたい はミイトキーナ20kmの地点 ちてん に達 たっ したが、市内 しない 突入 とつにゅう の直前 ちょくぜん に第 だい 33軍 ぐん の命 いのち でフーコン戦線 せんせん に転進 てんしん させられた。
ミイトキーナの米 べい ・中国 ちゅうごく 軍 ぐん は6月 がつ 13日 にち に総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし した。ガラハット第 だい 3大隊 だいたい はマインナ渡船場 とせんば を遮断 しゃだん しイラワジ河畔 かはん に展開 てんかい 、第 だい 150団 だん は製材 せいざい 所 しょ を制圧 せいあつ し更 さら に火炎 かえん 放射 ほうしゃ 器 き を使用 しよう しつつ200ヤード進出 しんしゅつ 、第 だい 88団 だん は射撃 しゃげき 場 じょう にある陣地 じんち から更 さら に100ヤード進出 しんしゅつ した。だが、守備 しゅび 隊 たい は各 かく 隊 たい の構築 こうちく した攻撃 こうげき 拠点 きょてん の間 あいだ の隙間 すきま を突 つ いて逆 ぎゃく に包囲 ほうい し、市内 しない に展開 てんかい していた連合 れんごう 軍 ぐん 各 かく 部隊 ぶたい を再編 さいへん 不能 ふのう になるまで追 お い込 こ み、これを撃退 げきたい した。ボードナー准 じゅん 将 しょう も罷免 ひめん され、後任 こうにん は元 もと 歩兵 ほへい 学校 がっこう 教官 きょうかん であり、スティルウェルとも旧知 きゅうち の仲 なか であるウェセルス准 じゅん 将 しょう が着任 ちゃくにん した。ウェセルス准 じゅん 将 しょう は失敗 しっぱい の要因 よういん を兵 へい の訓練 くんれん 不足 ふそく と考 かんが え、守備 しゅび 隊 たい と接触 せっしょく している部隊 ぶたい は毎日 まいにち 4時 じ 間 あいだ 、それ以外 いがい の部隊 ぶたい は8時 じ 間 あいだ 、それぞれ訓練 くんれん を行 おこな わせることにした。
辻 つじ は起案 きあん 中 ちゅう 、涙 なみだ を流 なが しながら文章 ぶんしょう を書 か き、終 お わると無言 むごん で参謀 さんぼう たちに突 つ きつけたという
一方 いっぽう 、第 だい 18師団 しだん はフーコンから撤退 てったい し、中国 ちゅうごく 新 しん 一軍 いちぐん はモガウンを占領 せんりょう し、ミイトキーナへ進撃 しんげき を始 はじ めた。
ビルマ戦線 せんせん では日本 にっぽん 軍 ぐん のインパール作戦 さくせん が失敗 しっぱい し、ビルマ方面 ほうめん 軍 ぐん としては作戦 さくせん の重点 じゅうてん を雲南 うんなん 方面 ほうめん に移 うつ して、インド・中国 ちゅうごく の地上 ちじょう 連絡 れんらく 線 せん の遮断 しゃだん を続 つづ けることになった。
第 だい 33軍 ぐん は雲南 うんなん 方面 ほうめん で中国 ちゅうごく 軍 ぐん と決戦 けっせん を交 まじ えることになったが、問題 もんだい は北 きた ビルマのミイトキーナが早期 そうき に陥落 かんらく すれば背後 はいご を脅 おびや かされることであった。
第 だい 33軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ は雲南 うんなん 遠征 えんせい 軍 ぐん との決戦 けっせん に先立 さきだ ち、ミイトキーナ守備 しゅび 隊 たい に対 たい して電報 でんぽう で持久 じきゅう 可能 かのう 期間 きかん の見通 みとお しを質問 しつもん したところ、「今後 こんご 二 に ヶ月 かげつ の持久 じきゅう は可能 かのう 」と「長期 ちょうき にわたる持久 じきゅう は困難 こんなん 」という矛盾 むじゅん する報告 ほうこく が届 とど いた。第 だい 33軍 ぐん は、前 まえ 電 でん は水上 すいじょう 少将 しょうしょう の報告 ほうこく で、後 こう 電 でん は丸山 まるやま 大佐 たいさ の報告 ほうこく だろうと推測 すいそく した。
第 だい 33軍 ぐん はミイトキーナ守備 しゅび 隊 たい に対 たい し「水上 すいじょう 少将 しょうしょう はミイトキーナを死守 ししゅ すべし」と命 めい じた。第 だい 33軍 ぐん の参謀 さんぼう だった野口 のぐち 省 しょう 己 おのれ によると、この文章 ぶんしょう を起案 きあん したのは辻 つじ 政信 まさのぶ 参謀 さんぼう で、同僚 どうりょう の安倍 あべ 光男 みつお 少佐 しょうさ が「水上 すいじょう 少将 しょうしょう は」から「水上 すいじょう 部隊 ぶたい は」に校正 こうせい しようとしたが、辻 つじ 参謀 さんぼう に制止 せいし させられたという。後日 ごじつ この件 けん については辻 つじ 参謀 さんぼう から「以前 いぜん ノモンハン事件 じけん で戦場 せんじょう から脱出 だっしゅつ してくる兵 へい の処置 しょち に困 こま ったことがあったので、水上 みずかみ 少将 しょうしょう は死守 ししゅ すべしと命 めい じておけば謹厳 きんげん な少将 しょうしょう のことだから軍 ぐん の真意 しんい を酌 く んで目的 もくてき を達成 たっせい するだろうし、万 まん 一 いち 脱出 だっしゅつ する将兵 しょうへい が出 で てもそれらが命令 めいれい 違反 いはん にならないようにこの文面 ぶんめん にした」と説明 せつめい されたという。
第 だい 56師団 しだん 長 ちょう の松山 まつやま 祐三 ゆうぞう 中将 ちゅうじょう はこの命令 めいれい を伝 つた え聞 き いて激怒 げきど し、川道 かわみち 参謀 さんぼう 長 ちょう を通 つう じて抗議 こうぎ したが、既 すで に守備 しゅび 隊 たい は56師団 しだん の指揮 しき を離 はな れていたため突 つ っぱねられた。
米 べい 中 ちゅう 連合 れんごう 軍 ぐん も厳 きび しい気候 きこう 環境 かんきょう に苦 くる しめられていた。7月12日 にち に空軍 くうぐん の支援 しえん の下 した に総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし したが、日本 にっぽん 軍 ぐん の防戦 ぼうせん と友軍 ゆうぐん の誤爆 ごばく で大 だい 混乱 こんらん の末 すえ に失敗 しっぱい した。とはいえ少 すこ しずつ日本 にっぽん 軍 ぐん を圧迫 あっぱく していった。
7月 がつ 下旬 げじゅん には守備 しゅび 隊 たい の残存 ざんそん 兵力 へいりょく は約 やく 1200名 めい になっていた。前述 ぜんじゅつ のミイトキーナ死守 ししゅ 命令 めいれい を知 し らされていない丸山 まるやま 大佐 たいさ は「命令 めいれい はミイトキーナ付近 ふきん の要地 ようち を確保 かくほ せよというのだから、必 かなら ずしもミイトキーナに拘泥 こうでい する必要 ひつよう はなく、付近 ふきん の地点 ちてん でインド・中国 ちゅうごく 連絡 れんらく 路 ろ を遮断 しゃだん さえすれば任務 にんむ は達成 たっせい されたことになる」と当初 とうしょ より考 かんが えており、水上 みずかみ 少将 しょうしょう に対 たい し、いたずらに玉砕 ぎょくさい を早 はや めるよりイラワジ川 かわ を渡河 とか してマヤン高地 こうち に移動 いどう するべきだと申 もう し述 の べ、同意 どうい を得 え た。
ミイトキーナ守備 しゅび 隊 たい は8月 がつ 2日 にち から3日 にち の満月 まんげつ の夜 よる に渡河 とか を開始 かいし した。水上 すいじょう 少将 しょうしょう は、副官 ふっかん に丸山 まるやま 大佐 たいさ 宛 あて に「敵 てき 線 せん を突破 とっぱ 脱出 だっしゅつ すべし」の命令 めいれい 文 ぶん を託 たく した後 のち 、自決 じけつ した。
水上 みずかみ 少将 しょうしょう の副官 ふっかん から事 こと を知 し らされた丸山 まるやま 大佐 たいさ は「やっと死 し なれたか。」と言 い い、軍医 ぐんい を水上 すいじょう 少将 しょうしょう 自決 じけつ の現場 げんば に派遣 はけん し、遺体 いたい を埋葬 まいそう した上 うえ で小指 こゆび を切 き って遺骨 いこつ として持 も ち帰 かえ った。
渡河 とか は現地 げんち 人 じん を徴発 ちょうはつ した丸木舟 まるきぶね や、ドラム缶 どらむかん を2個 こ 結束 けっそく し板 いた を渡 わた した筏 いかだ で行 おこな われたが、3、4日 にち 前 まえ に爆 ばく 撃 げき で大半 たいはん を沈 しず められていたため各 かく 隊 たい の割 わ り当 あ ては半分 はんぶん 以下 いか に削 けず られた。また、雨期 うき の最盛 さいせい 期 き で増水 ぞうすい 激 はげ しいイラワジ川 かわ を筏 いかだ で渡 わた った後 のち 引 ひ き返 かえ す保障 ほしょう はなく、現地 げんち 人 じん の船頭 せんどう は途中 とちゅう で守備 しゅび 隊 たい を見限 みかぎ り逃走 とうそう 、加 くわ えて連合 れんごう 軍 ぐん が岸辺 きしべ の要所 ようしょ からの探照灯 たんしょうとう や掃海 そうかい 艇 てい で待 ま ち構 かま えていたため、渡河 とか は凄惨 せいさん を極 きわ めた。例 たと えば、最終 さいしゅう 日 び に渡河 とか した第 だい 3大隊 だいたい では筏 いかだ 2台 だい 、丸木舟 まるきぶね 5隻 せき しか割 わ り当 あ てられず、舟 ふね に殺到 さっとう する兵士 へいし を中西 なかにし 大 だい 隊長 たいちょう が「このざまは何 なに だ、貴様 きさま らはそれでも軍人 ぐんじん か、全員 ぜんいん 舟 ふね から離 はな れろ!命令 めいれい だ。いう事 こと を聞 き かぬ奴 やつ は切 き り捨 す てる!」と押 お し抜 ぬ け、真 ま っ先 さき に乗 の ってしまった。残 のこ った兵士 へいし たちは前述 ぜんじゅつ の過酷 かこく な状況 じょうきょう で次々 つぎつぎ 命 いのち を落 お とし、渡河 とか 前 まえ は40余 よ 名 めい だった大隊 だいたい は半分 はんぶん に減 へ っていたという。
撤退 てったい 部隊 ぶたい 援護 えんご の任 にん を受 う けた砲兵 ほうへい 隊 たい (長 ちょう :浅井 あさい 広中 ひろなか 中尉 ちゅうい 、40名 めい ~60名 めい )は4日 にち 目 め に渡河 とか する予定 よてい であったが、そのまま残 ざん 地 ち 命令 めいれい を受 う け玉砕 ぎょくさい した。第 だい 3大隊 だいたい の生存 せいぞん 者 しゃ によれば、浅井 あさい 中尉 ちゅうい は「自分 じぶん は死 し ぬ覚悟 かくご はあるが、帰 かえ れると喜 よろこ んでいた部下 ぶか たちにどう言 い えば納得 なっとく してもらえるのか、今 いま から考 かんが えても辛 つら い。」と漏 も らしていたとされる。
その後 ご 、丸山 まるやま 大佐 たいさ の率 ひき いる残存 ざんそん 部隊 ぶたい は1週間 しゅうかん ほどマヤン高地 こうち 南側 みなみがわ に留 と まり部隊 ぶたい の掌握 しょうあく に努 つと めていたが、8月 がつ 12日 にち に第 だい 33軍 ぐん 本部 ほんぶ より第 だい 18師団 しだん への復帰 ふっき 命令 めいれい を受 う けたため、敵 てき の追撃 ついげき を避 さ けるべく夜間 やかん に東方 とうほう 山中 さんちゅう を迂回 うかい 南進 なんしん して9月 がつ 15日 にち ごろまでに日本 にっぽん 軍 ぐん の勢力 せいりょく 下 か のバーモ(守備 しゅび 隊長 たいちょう :原 はら 好 こう 三 さん 大佐 たいさ )にたどり着 つ いた。
一方 いっぽう 、7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に守備 しゅび 隊 たい 救援 きゅうえん を命 めい じられた捜索 そうさく 第 だい 53連隊 れんたい (長 ちょう :奥 おく 仲 なか 寿蔵 じゅぞう 中佐 ちゅうさ )は8月 がつ 初頭 しょとう 、バーモで徒歩 とほ 部隊 ぶたい 1個 いっこ 中隊 ちゅうたい および通信 つうしん 班 はん を編成 へんせい 、悪 あく 路 ろ に悩 なや みながら本道 ほんどう に沿 そ って北進 ほくしん を続 つづ けていたが、前述 ぜんじゅつ の理由 りゆう により遭遇 そうぐう 叶 かな わず、バーモに戻 もど った。
日本 にっぽん 軍 ぐん の撤退 てったい を察 さっ したウェセルス少将 しょうしょう は総 そう 攻撃 こうげき を計画 けいかく し15個 こ 重 じゅう 装備 そうび 分隊 ぶんたい からなる挺身 ていしん 隊 たい を編成 へんせい 、日本 にっぽん 軍 ぐん の戦線 せんせん 内 ない に潜入 せんにゅう させ、50師 し 主力 しゅりょく の攻撃 こうげき に残存 ざんそん 部隊 ぶたい が気 き を取 と られている隙 すき に背後 はいご から攻撃 こうげき を行 おこな わせた。8月3日 にち 夕刻 ゆうこく 、傷病 しょうびょう 患者 かんじゃ や慰安 いあん 婦 ふ など187名 めい の俘虜 ふりょ を残 のこ して大 だい 部分 ぶぶん を制圧 せいあつ 、8月 がつ 7日 にち までに守備 しゅび 隊 たい の組織 そしき 的 てき な抵抗 ていこう は終 お わり、80日間 にちかん の死闘 しとう を繰 く り返 かえ したミートキーナは水上 すいじょう 少将 しょうしょう 以下 いか 2100名 めい の戦死 せんし 者 しゃ をもって連合 れんごう 軍 ぐん に制圧 せいあつ された。
戦闘 せんとう 終了 しゅうりょう 後 ご のミイトキーナ市街地 しがいち (8月 がつ 4日 にち )
連合 れんごう 国軍 こくぐん がミイトキーナを占領 せんりょう した結果 けっか 、インドから中国 ちゅうごく の昆 こん 明 あきら に向 む かう航空 こうくう 輸送 ゆそう ルートは山越 やまご えを避 さ け、より安全 あんぜん なルートを取 と ることができるようになった。
さらにレド公 おおやけ 路 ろ 打 だ 通 どおり にむけてバーモへ南下 なんか することができるようになった。
アメリカ軍 ぐん はビルマ戦線 せんせん の中国 ちゅうごく 軍 ぐん やイギリス軍 ぐん への援軍 えんぐん として投入 とうにゅう していた第 だい 5307混成 こんせい 部隊 ぶたい は1943年 ねん 後半 こうはん のフーコンでの戦 たたか いから1944年 ねん のミイトキーナ陥落 かんらく までに全体 ぜんたい の八 はち 割 わり が死傷 ししょう する大 だい 損害 そんがい を負 お い、ビルマ戦線 せんせん からアメリカの主要 しゅよう な地上 ちじょう 部隊 ぶたい は撤退 てったい した。
ミイトキーナ守備 しゅび 隊 たい が米 べい ・中 ちゅう 連合 れんごう 軍 ぐん を食 く い止 と めている間 あいだ 、フーコン戦線 せんせん の第 だい 18師団 しだん はモガウンからの脱出 だっしゅつ に成功 せいこう した。
^ 「歩兵 ほへい 第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 四 よん 連隊 れんたい 史 し 」によれば、指揮 しき 系統 けいとう の不備 ふび や米 べい 英軍 えいぐん との意思 いし 疎通 そつう が出来 でき なかったためかすでに陥落 かんらく したものと思 おも い込 こ んだらしく、喇叭 らっぱ 隊 たい 、軍旗 ぐんき 、指揮 しき 官 かん を先頭 せんとう に入場 にゅうじょう 行進 こうしん を始 はじ めたため、守備 しゅび 隊 たい はできるだけ引 ひ き付 つ けて一斉 いっせい 射撃 しゃげき を敢行 かんこう 、団長 だんちょう 、営長2名 めい 以下 いか 約 やく 600名 めい を戦死 せんし させ、大量 たいりょう の武器 ぶき を鹵獲 ろかく したとしている。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 編 へん 『イラワジ会戦 かいせん ビルマ防衛 ぼうえい の破綻 はたん 』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 25〉、1969年 ねん 。
歩兵 ほへい 第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 四 よん 連隊 れんたい 編集 へんしゅう 委員 いいん 会 かい 編 へん 編 へん 『歩兵 ほへい 第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 四 よん 連隊 れんたい 史 し 』1987年 ねん 5月 がつ 。
小林 こばやし 幸夫 ゆきお 、水上 みずかみ 輝三 てるぞう 、西村 にしむら 正人 まさと 著 ちょ 『歩兵 ほへい 第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 四 よん 聯隊 れんたい の将兵 しょうへい 達 たち 』葦 あし 書房 しょぼう 、1999年 ねん 。
三浦 みうら 徳平 とくひら 著 ちょ 『一 いち 下士官 かしかん のビルマ戦記 せんき ―ミートキーナ陥落 かんらく 前後 ぜんこう 』葦 あし 書房 しょぼう 、1981年 ねん 。
森山 もりやま 康平 やすひら 編著 へんちょ 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 写真 しゃしん 史 し フーコン・雲南 うんなん の戦 たたか い』池宮 いけみや 商会 しょうかい 、1984年 ねん 。