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ミイトキーナのたたか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミイトキーナのたたか

補給ほきゅう物資ぶっし投下とうかするアメリカぐん輸送ゆそう
戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう
年月日ねんがっぴ1944ねん5月17にち - 8がつ3にち
場所ばしょ:ビルマ(現在げんざいミャンマー
結果けっか連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗水上みずかみ源蔵げんぞう
大日本帝国の旗丸山まるやまぼうやす
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・スティルウェル
損害そんがい
戦死せんししゃ790にん
負傷ふしょう1,180にん
捕虜ほりょ187にん
べいぐん戦死せんししゃ272めい傷病しょうびょう1,935めい
中国ちゅうごくぐん戦死せんししゃ972めい傷病しょうびょう3,372めい
ビルマのたたか

ミイトキーナのたたか(ミイトキーナのたたかい)は、1944ねんビルマミイトキーナミッチーナーたいする当時とうじ日本にっぽんでの呼称こしょう)とその周辺しゅうへん地域ちいきをめぐっておこなわれた戦闘せんとう日本にっぽんぐんアメリカぐん国民こくみん革命かくめいぐんとがたたかった。

当初とうしょはゲリラせんにより守備しゅびたいがわ優勢ゆうせいであったが、連合れんごうぐんがわとの物量ぶつりょうくわえ、増援ぞうえん部隊ぶたい派遣はけんがままならなかったことで次第しだい窮地きゅうちおちいり、最終さいしゅうてき制圧せいあつされた。

背景はいけい

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1942ねん日本にっぽんぐんのビルマ侵攻しんこうにより、重慶たーちん国民党こくみんとう政権せいけんへの補給ほきゅうルート(援蒋ルート)は空路くうろハンプちょう英語えいごばん)をのこして遮断しゃだんされ、中国ちゅうごく、そして連合れんごうぐんにとってだい打撃だげきあたえた。 ルーズベルトべい大統領だいとうりょうはこれについて、あたらしい陸路りくろの援蒋ルートであるレドおおやけ開設かいせつぜんビルマの奪還だっかんより重要じゅうようだと言明げんめいしていた。

同年どうねんまつ、レドおおやけ建設けんせつ英軍えいぐんにより開始かいしされ、べいぐんジョセフ・スティルウェル中将ちゅうじょう主導しゅどうわたって以降いこう工事こうじ順調じゅんちょうすすみ、1943ねん2がつまつにはビルマ国境こっきょうにまで完成かんせいしていたが、雨期うきにより工事こうじ中止ちゅうしされた。どうおおやけ雲南うんなん連結れんけつしてはじめて地上ちじょう輸送ゆそうとしての効力こうりょく発揮はっきするものであり、それに先駆さきがけてミイトキーナの占領せんりょうはハンプ空輸くうゆ効率こうりつ大幅おおはば向上こうじょうさせることが予想よそうされた。ミイトキーナはマンダレーから北上ほくじょうする鉄道てつどう路線ろせん終点しゅうてんで、イラワジがわ水運すいうん中継ちゅうけいであり、日本にっぽんぐん飛行場ひこうじょうがあった。スティルウィルとしては乾季かんきあいだにミイトキーナを占領せんりょうしたいところであり、空挺くうてい作戦さくせんによるミイトキーナ占領せんりょう計画けいかくした。

一方いっぽう日本にっぽんがわにとってもミイトキーナはきたはる防衛ぼうえいようであり、同地どうち失陥しっかんだい56師団しだんくもみなみおよびフ-コン防衛ぼうえい窮地きゅうちおとしいれ、ひいては連合れんごうぐんへの作戦さくせんわたしを意味いみしていた。当然とうぜんながら彼我ひが要点ようてんとして苛烈かれつ戦闘せんとう予測よそくされた。

雨期うきけの1943ねんまつに、スティルウェルひきいる新編しんぺん中国ちゅうごくぐん日本にっぽんぐんだい18師団しだん守備しゅびするフーコンだに侵攻しんこうし、ミイトキーナ目指めざして前進ぜんしん開始かいしした。 しかし、フーコンにおいてだい18師団しだん持久じきゅうせんおこなったため、連合れんごう国軍こくぐんはさっぱり前進ぜんしんできなかった。またルイス・マウントバッテン中将ちゅうじょうひきいるイギリスぐんきたビルマでの戦線せんせん拡大かくだい反対はんたいであり、きたビルマでの連合れんごう国軍こくぐん主力しゅりょくはスティルウェル指揮しき中国ちゅうごくぐんインド遠征えんせいぐんとアメリカぐんのガラハッド部隊ぶたいだった。

この作戦さくせんはスティルウェルの独断どくだんおこなわれ、マウントバッテン中将ちゅうじょうらイギリスぐんには事前じぜんなにらされなかったため、べいちゅう連合れんごうぐんがミイトキーナを占領せんりょうしたのち作戦さくせんらされ憮然ぶぜんとなった。

りょうぐん態勢たいせい

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日本にっぽんぐん

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ミイトキーナの守備しゅびたい歩兵ほへいだい114連隊れんたい指揮しきかん丸山まるやまぼうやす大佐たいさ)であったが、その戦力せんりょくはほとんどが周辺しゅうへん地域ちいきらばっており、当初とうしょミイトキーナにのこっていたのは歩兵ほへい2中隊ちゅうたい砲兵ほうへい機関きかんじゅう部隊ぶたいなど3小隊しょうたいで、総員そういん700にんじゃくだった。小倉こくら編成へんせいされたどう連隊れんたい筑豊ちくほう炭鉱たんこう出身しゅっしんしゃおおく、連合れんごうぐん猛攻もうこうえうる堅固けんご坑道こうどうせん展開てんかいすること出来でき[1]

このほか通信つうしんへい工兵こうへい鉄道てつどう部隊ぶたい飛行場ひこうじょう部隊ぶたい輜重しちょう憲兵けんぺいなどがけい1430にんほどと、野戦やせん病院びょういん入院にゅういん患者かんじゃが320にんほどいた。

  • 歩兵ほへいだい114連隊れんたい丸山まるやまぼうやす大佐たいさ連隊れんたい副官ふっかん平井ひらい中尉ちゅういほか本部ほんぶおよび以下いか残存ざんそん部隊ぶたいやく700めい
    • どうだい1大隊だいたい1個いっこ中隊ちゅうたい1個いっこ小隊しょうたい猪瀬いのせ重雄しげお少佐しょうさひきいる大隊だいたい本部ほんぶはトーゴー、ピモー付近ふきん展開てんかいし、そのままだい56師団しだんちょう配下はいか
    • だい2大隊だいたいの2中隊ちゅうたい山畑やまばた重盛しげもり少佐しょうさひきいる大隊だいたい本部ほんぶはソップズップ周辺しゅうへん展開てんかい、のち合流ごうりゅう
    • 機関きかんじゅう中隊ちゅうたい1個いっこ小隊しょうたい大隊だいたいほう1個いっこ分隊ぶんたい
    • 連隊れんたいほう中隊ちゅうたいはん(連隊れんたいほう1もん速射そくしゃほう2もん)および通信つうしん中隊ちゅうたい主力しゅりょく   

のち、当初とうしょシャンしゅう配属はいぞくされていただい3大隊だいたい中西なかにし徳太郎とくたろう少佐しょうさ)が合流ごうりゅう

以下いか部隊ぶたいざいミイトキーナしょ部隊ぶたいで、丸山まるやま大佐たいさとは指揮しき関係かんけいがない。

  • だい18師団しだん司令しれい残留ざんりゅう部隊ぶたい やく30めい
    • 通信つうしんたい無線むせん1分隊ぶんたい
    • きくだい2野戦やせん病院びょういん(3ぶんの1かけ戦傷せんしょう患者かんじゃ やく320めい
    • 防疫ぼうえき給水きゅうすい一部いちぶ  
  • 工兵こうへいだい12連隊れんたいだい1中隊ちゅうたい一部いちぶ
  • 船舶せんぱく工兵こうへいだい11連隊れんたいだい1中隊ちゅうたいいち分隊ぶんたい
  • 鉄道てつどうだい5連隊れんたい一部いちぶ
  • 電信でんしんだい19連隊れんたいだい3中隊ちゅうたい一部いちぶ
  • 憲兵けんぺい分遣ぶんけんたい
  • だい5飛行ひこう師団しだん地上ちじょう部隊ぶたい一部いちぶ兵站へいたん
    • だい15飛行場ひこうじょう大隊だいたい一部いちぶ
    • だい7野戦やせん飛行場ひこうじょう設営せつえいたい一部いちぶ
    • 陸上りくじょう勤務きんむだい67中隊ちゅうたい一部いちぶ
    • だい3航空こうくう情報じょうほうたいだい4中隊ちゅうたい一部いちぶ
    • だい3気象きしょう連隊れんたいだい4中隊ちゅうたい一部いちぶ

連合れんごう国軍こくぐん

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メリル挺進ていしんたい英語えいごばん(コマンド部隊ぶたい)はアメリカぐんだい5307混成こんせい部隊ぶたい隷下れいかの3大隊だいたい(ガラハット大隊だいたい)、中国ちゅうごくぐん新編しんぺんだい一軍いちぐん中国語ちゅうごくごばんの2連隊れんたいおよび砲兵ほうへい輜重しちょうへいなど4中隊ちゅうたいカチンひとゲリラで編成へんせいされていた。詳細しょうさい以下いかとお[2]

  • 司令しれいフランク・メリル英語えいごばんじゅんしょう
    • K部隊ぶたい:ヘンリー・L・キニソン大佐たいさ(Henry L. Kinnison, Jr.)
      • ガラハットだい3大隊だいたい
      • 中国ちゅうごくぐんだい30(えびすもと)だい88だん:楊毅うえこう[3]
    • H部隊ぶたいチャールズ・N・ハンター英語えいごばん大佐たいさ
      • ガラハットだい2大隊だいたい
      • 動物どうぶつ輸送ゆそう連隊れんたいだい3中隊ちゅうたい
      • 中国ちゅうごくだい22山砲さんぽうだい3れん
      • 中国ちゅうごくだい50(はんひろしこん)だい150だんはる城上じょうかみこう
    • M部隊ぶたい:ジョージ・A・マギー大佐たいさ(George M. McGee)
      • ガラハットだい1大隊だいたい
      • カチンひと300めい特別とくべつ編成へんせい中隊ちゅうたい
  • 空輸くうゆ部隊ぶたい
    • 中国ちゅうごくぐんだい30隷下れいか部隊ぶたい
      • だい89だんだい2営
      • だい90だん一部いちぶ
    • 中国ちゅうごくぐんだい14隷下れいか部隊ぶたい
      • だい41だんだい2営
      • だい42だんだい3営
    • 中国ちゅうごくぐんだい50隷下れいか部隊ぶたい
      • だい149だん一部いちぶ
    • 英軍えいぐんだい69対空たいくうけい連隊れんたいW、X部隊ぶたい
    • だい879航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい
    • だい209戦闘せんとう工兵こうへい大隊だいたい
    • だい236戦闘せんとう工兵こうへい大隊だいたい
    • だい5307混成こんせい部隊ぶたい増設ぞうせつ部隊ぶたい通称つうしょうしんガラハット大隊だいたい

なお、スティルウェルは蒋介石しょうかいせきたいし、いち師団しだん協力きょうりょく要請ようせいしたがこれを拒否きょひされている。

作戦さくせん構想こうそう

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挺進ていしんたい進路しんろ

日本にっぽんぐん

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きたビルマの日本にっぽんぐんは3がつはじめにマンダレー・ミイトキーナあいだ降下こうかし、モールに陣地じんち構築こうちくしたイギリスぐんのチンディット部隊ぶたいへの対処たいしょわれていた。

優秀ゆうしゅうてき攻勢こうせいけた場合ばあい、イラワジかわ右岸うがんすくなくとも3かげつあいだ阻止そしし、左側ひだりがわ河畔かはんうつって持久じきゅうするものとした。 また

  • 軍旗ぐんき中隊ちゅうたい主力しゅりょく野戦やせん病院びょういんけんへいとともに射撃しゃげきじょう付近ふきん占領せんりょう
  • 歩兵ほへいだい7中隊ちゅうたい鉄道てつどう線路せんろ正面しょうめん占領せんりょう
  • 通信つうしん中隊ちゅうたいふくやく200めい上部じょうぶたいみなみ連係れんけいして占領せんりょう
  • 憲兵けんぺいたいはビルマ受訓へい指揮しきさい左翼さよくのチークリン付近ふきん占領せんりょう

だい15ぐんかく師団しだんはそれぞれ、だい15師団しだんはマダヤ、だい31師団しだんはミンム、だい33師団しだんはミンギャン・パコック付近ふきんだい1せんとして配備はいびし、だい2せんとしてだい53師団しだんをキャウセ付近ふきんひかえおけした。また、だい31師団しだん一部いちぶをもってサゲイン付近ふきんだい33師団しだん一部いちぶをもってミンギャンのイラワジかわぜんきしにそれぞれ拠点きょてん形成けいせいした。

連合れんごう国軍こくぐん

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18師団しだん圧迫あっぱくしつつ南下なんかしていたスティルウェルは、雨季うき開始かいしはじまるまえにミイトキーナに部隊ぶたい派遣はけん制圧せいあついそがなければならないとかんがえていた。アメリカぐんがビルマ戦線せんせんへの援軍えんぐんとして派遣はけんしていたコマンド部隊ぶたいであるガラハッド部隊ぶたいのうち3大隊だいたいからなる挺進ていしんたい編成へんせい

メリルじゅんしょう心臓しんぞうびょうにより挺進ていしん行動こうどう不可能ふかのう判断はんだんされたため、H部隊ぶたいのハンター大佐たいさ直接ちょくせつ戦闘せんとう指揮しき。K部隊ぶたい、M部隊ぶたい、H部隊ぶたいはフーコンたに東方とうほうのクモン山系さんけいのジャングルを陸路りくろ移動いどうさせ、ハンター大佐たいさから報告ほうこくがあり次第しだい中国ちゅうごくぐん2,3だん空路くうろ飛行場ひこうじょう急襲きゅうしゅうさせる。K部隊ぶたい、H部隊ぶたいはノウラフキエトとうげとリトポングを経由けいゆしミイトキーナに直行ちょっこう、M部隊ぶたいはセンジョウガ、フカタガ、アラング方面ほうめん前進ぜんしんしてりょう部隊ぶたい右側みぎがわ援護えんごにあたる作戦さくせんだった。飛行場ひこうじょう占領せんりょう予定よていは5月12にち

経過けいか

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連合れんごうぐん強襲きょうしゅう

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ジャングル地帯ちたい作戦さくせん行動こうどうちゅうのガラハッド部隊ぶたい。ビルマの山岳さんがく地帯ちたいでは日本にっぽんぐんやイギリスぐん・アメリカぐん駄馬だうまたよった

4がつ28にちから30にちにかけて、挺進ていしんたいみっつの部隊ぶたいわかれてミイトキーナを目指めざ出発しゅっぱつした。5月5にち、リトポングに展開てんかいしていただい2大隊だいたいとK部隊ぶたい遭遇そうぐう交戦こうせん一方いっぽう部隊ぶたい・M部隊ぶたい進路しんろ同様どうよう日本にっぽんぐんしょう部隊ぶたいとの遭遇そうぐうや、駄馬だうま半数はんすううしなうほどのけわしい山越やまごえで苛烈かれつきわめ、到着とうちゃく予定よてい大幅おおはばおくれてしまった。H部隊ぶたいはアラングの日本にっぽんへい撃破げきはし、16にち、ミイトキーナ北西ほくせいかたのナムクイ付近ふきん到着とうちゃくした[4]よく17にち10だい150だん飛行場ひこうじょう突入とつにゅう一方いっぽう守備しゅびたいだい15飛行場ひこうじょう大隊だいたい所属しょぞくするやく100めい警備けいびしていたにぎず、飛行場ひこうじょうもなく占領せんりょうされた。

飛行場ひこうじょうにはドラム缶どらむかん多数たすうころがっていたものの滑走かっそう支障ししょうなく[5]挺進ていしんたい着陸ちゃくりく可能かのう判断はんだん除去じょきょコールサインである“Merchant of Venice(ヴェニスの商人しょうにん)”を発信はっしんし、それを合図あいず増援ぞうえん部隊ぶたい600にんせたグライダーを曳航えいこうするだい10、だい14航空こうくうたい輸送ゆそうじゅうすう飛来ひらい、1630ふんよりウェイコ CG-4A英語えいごばんグライダーを次々つぎつぎ飛行場ひこうじょう着陸ちゃくりくさせた[6][5]

以降いこう部隊ぶたい空輸くうゆつづき、それぞれ市街地しがいち周辺しゅうへん陣地じんち展開てんかいした。だが、てん制圧せいあつしたにすぎず、守備しゅびたいはまだ完全かんぜんかこまれたわけではなかった。丸山まるやま部隊ぶたいはミイトキーナ市街しがいもって抵抗ていこうつづけると同時どうじに、連合れんごうぐん隙間すきまって人員じんいん物資ぶっし補給ほきゅう確保かくほした。モール付近ふきんてき空挺くうてい部隊ぶたい掃討そうとうにあたっていただいさん大隊だいたいとフーコン戦線せんせん応援おうえんていただい56師団しだん水淵みずぶち大隊だいたいくわえて2000にん程度ていど兵力へいりょくとなった。また19にちよるには、列車れっしゃでの弾薬だんやく補給ほきゅう強行きょうこう。これは25にちまでおこなわれた[7]

守備しゅびたい防衛ぼうえいせん

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一方いっぽう、ミートキーナのてきがわずか300めいとの誤報ごほうしんじただい150だん団長だんちょうはる城上じょうかみこうは、先着せんちゃく兵力へいりょくだけで制圧せいあつ可能かのうかんがえ、17にち飛行場ひこうじょう突入とつにゅう直後ちょくご独断どくだんで2営を市街地しがいちすすませた[8][9]が、あやまって市街地しがいち北部ほくぶのシタプールにかい、そこでかまえていた守備しゅびたいより攻撃こうげきけた。部隊ぶたい動揺どうようして同士討どうしうちにおちいいり、敗退はいたいした[9]。このときうえこうほか営長2めい戦死せんししたとされる[ちゅう 1]連合れんごうぐん空輸くうゆ威圧いあつされていた守備しゅびたい士気しきおおいにがった。

同日どうじつ飛行場ひこうじょう攻撃こうげきめいぜられただい5中隊ちゅうたいおよびだい2機関きかんじゅう中隊ちゅうたい隷下れいか機関きかんほう小隊しょうたいは、てき輸送ゆそう飛来ひらい合間あいま利用りようして奇襲きしゅう攻撃こうげき敢行かんこう重機じゅうき4ほか展開てんかいちゅう連合れんごうぐん物資ぶっし損害そんがいあたえたとされる[10]

20日はつか午前ごぜん7だい150だん市街地しがいち南端なんたん急襲きゅうしゅう憲兵けんぺいたい陣地じんち突破とっぱえき殺到さっとうした。これをった丸山まるやま大佐たいさただちにはちこう正義まさよし中尉ちゅういひきいる情報じょうほうはんいん7にんえき急行きゅうこうさせた。えき周辺しゅうへんでは、中国ちゅうごくへいたちがたやすく制圧せいあつできたことに安心あんしん周辺しゅうへん物色ぶっしょくしていた。八江やつえ中尉ちゅういらはくさむらにかく急襲きゅうしゅうおこなった。また予備よびたい60めいくわわり、各地かくち神出鬼没しんしゅつきぼつのゲリラせん展開てんかいさせた。この戦闘せんとう中国ちゅうごくぐんがわだい混乱こんらんおちいり、同士討どうしうちのすえ撤退てったいした。この戦闘せんとうだい150だんだい3営営えいえいちょうかくぶんのきしょうこうふく団長だんちょうおう爵少こうをはじめ多数たすうぐんかん喪失そうしつする損害そんがいこうむった。

21にち中国ちゅうごくぐんわって今度こんどはガラハッド部隊ぶたいだい3大隊だいたい市街地しがいち北方ほっぽうから南下なんかして進撃しんげきするが失敗しっぱいし、24にち守備しゅびたい陣地じんち奪還だっかんされた。よく25にちには88だん、89だんをもって奪還だっかんこころみるが、これもまた失敗しっぱいした。この一連いちれん失敗しっぱいけ、ミイトキーナのべい中国ちゅうごくぐん指揮しきするマッカモンじゅんしょうは5月25にち日本にっぽんぐん陣地じんちそう攻撃こうげき仕掛しかけたが失敗しっぱいしたため、前線ぜんせん視察しさつたスティルウェル中将ちゅうじょうによって罷免ひめんさせられ、後任こうにんはボードナーじゅんしょうになった。

援軍えんぐん派遣はけん

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5月18にち事態じたいおもだい33ぐん司令しれいは、中国ちゅうごくぐん反攻はんこうひしげはじめあがえつたたか)にさいして雲南うんなん方面ほうめん派遣はけんしていた56師団しだんちょう水上すいじょう部隊ぶたい主力しゅりょくをミイトキーナに派遣はけんするようめいじ、また28にちにはミートキーナ守備しゅびたいだい18師団しだんからはなし、だい33ぐん直轄ちょっかつ部隊ぶたいとした。ぐん要請ようせい水上みずかみ源蔵げんぞう少将しょうしょう指揮しきする歩兵ほへいだい113連隊れんたい大隊だいたいとうであったが、師団しだん参謀さんぼうちょう川道かわみち富士雄ふじお大佐たいさ余裕よゆうがなかったため、いずれ増援ぞうえんるだろうと独断どくだん水上すいじょう少将しょうしょういち小隊しょうたい砲兵ほうへいいち中隊ちゅうたい指揮しきあたえてミイトキーナに派遣はけんした[11]

水上みずかみ少将しょうしょうは「命令めいれい承知しょうちした。雲南うんなん戦場せんじょう師団しだん主力しゅりょくともねないのは残念ざんねんだが、ミイトキーナではかなら任務にんむ達成たっせいする。おそらくでおにかかることはいであろう。師団しだんちょうによろしくつたえてもらいたい」とこたえた[12]

おどろいただい33ぐん司令しれいかん本多ほんだ政材まさき中将ちゅうじょうがすぐさまぐん司令しれい参謀さんぼう野口のぐちしょうおのれ少佐しょうさ派遣はけんただしたところ、川道かわみち大佐たいさは「本件ほんけん自分じぶんいち独断どくだんてき措置そちであり、ぜん責任せきにん自分じぶんる」としてぐん了承りょうしょう要請ようせいした。野口のぐち少佐しょうさ報告ほうこくいた本多ほんだは、川道かわみち不問ふもんとした[12]

名目めいもくじょう水上すいじょう少将しょうしょうがミイトキーナ守備しゅびたい指揮しきかんであったが、水上みずかみ少将しょうしょうもちの部隊ぶたいはごくわずかであったため、守備しゅびたい実質じっしつてき指揮しき丸山まるやま大佐たいさった。

6がつはいってからはかねてからだい33ぐんから通達つうたつされていた援軍えんぐんである53師団しだん主力しゅりょくがモガウン経由けいゆでミイトキーナへ進撃しんげきした。この部隊ぶたいはミイトキーナ20kmの地点ちてんたっしたが、市内しない突入とつにゅう直前ちょくぜんだい33ぐんいのちでフーコン戦線せんせん転進てんしんさせられた。

ミイトキーナのべい中国ちゅうごくぐんは6がつ13にちそう攻撃こうげき開始かいしした。ガラハットだい3大隊だいたいはマインナ渡船場とせんば遮断しゃだんしイラワジ河畔かはん展開てんかいだい150だん製材せいざいしょ制圧せいあつさら火炎かえん放射ほうしゃ使用しようしつつ200ヤード進出しんしゅつだい88だん射撃しゃげきじょうにある陣地じんちからさらに100ヤード進出しんしゅつした[13]。だが、守備しゅびたいかくたい構築こうちくした攻撃こうげき拠点きょてんあいだ隙間すきまいてぎゃく包囲ほういし、市内しない展開てんかいしていた連合れんごうぐんかく部隊ぶたい再編さいへん不能ふのうになるまでみ、これを撃退げきたいした。ボードナーじゅんしょう罷免ひめんされ、後任こうにんもと歩兵ほへい学校がっこう教官きょうかんであり、スティルウェルとも旧知きゅうちなかであるウェセルスじゅんしょう着任ちゃくにんした。ウェセルスじゅんしょう失敗しっぱい要因よういんへい訓練くんれん不足ふそくかんがえ、守備しゅびたい接触せっしょくしている部隊ぶたい毎日まいにち4あいだ、それ以外いがい部隊ぶたいは8あいだ、それぞれ訓練くんれんおこなわせることにした[14]

死守ししゅ命令めいれい

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つじ起案きあんちゅうなみだながしながら文章ぶんしょうき、わると無言むごん参謀さんぼうたちにきつけたという[15]

一方いっぽうだい18師団しだんはフーコンから撤退てったいし、中国ちゅうごくしん一軍いちぐんはモガウンを占領せんりょうし、ミイトキーナへ進撃しんげきはじめた。

ビルマ戦線せんせんでは日本にっぽんぐんインパール作戦さくせん失敗しっぱいし、ビルマ方面ほうめんぐんとしては作戦さくせん重点じゅうてん雲南うんなん方面ほうめんうつして、インド・中国ちゅうごく地上ちじょう連絡れんらくせん遮断しゃだんつづけることになった。

だい33ぐん雲南うんなん方面ほうめん中国ちゅうごくぐん決戦けっせんまじえることになったが、問題もんだいきたビルマのミイトキーナが早期そうき陥落かんらくすれば背後はいごおびやかされることであった。

だい33ぐん司令しれい雲南うんなん遠征えんせいぐんとの決戦けっせん先立さきだち、ミイトキーナ守備しゅびたいたいして電報でんぽう持久じきゅう可能かのう期間きかん見通みとおしを質問しつもんしたところ、「今後こんごヶ月かげつ持久じきゅう可能かのう」と「長期ちょうきにわたる持久じきゅう困難こんなん」という矛盾むじゅんする報告ほうこくとどいた。だい33ぐんは、まえでん水上すいじょう少将しょうしょう報告ほうこくで、こうでん丸山まるやま大佐たいさ報告ほうこくだろうと推測すいそくした。

だい33ぐんはミイトキーナ守備しゅびたいたいし「水上すいじょう少将しょうしょうはミイトキーナを死守ししゅすべし」とめいじた。だい33ぐん参謀さんぼうだった野口のぐちしょうおのれによると、この文章ぶんしょう起案きあんしたのはつじ政信まさのぶ参謀さんぼうで、同僚どうりょう安倍あべ光男みつお少佐しょうさが「水上すいじょう少将しょうしょうは」から「水上すいじょう部隊ぶたいは」に校正こうせいしようとしたが、つじ参謀さんぼう制止せいしさせられたという。後日ごじつこのけんについてはつじ参謀さんぼうから「以前いぜんノモンハン事件じけん戦場せんじょうから脱出だっしゅつしてくるへい処置しょちこまったことがあったので、水上みずかみ少将しょうしょう死守ししゅすべしとめいじておけば謹厳きんげん少将しょうしょうのことだからぐん真意しんいんで目的もくてき達成たっせいするだろうし、まんいち脱出だっしゅつする将兵しょうへいてもそれらが命令めいれい違反いはんにならないようにこの文面ぶんめんにした」と説明せつめいされたという[15]

だい56師団しだんちょう松山まつやま祐三ゆうぞう中将ちゅうじょうはこの命令めいれいつたいて激怒げきどし、川道かわみち参謀さんぼうちょうつうじて抗議こうぎしたが、すで守備しゅびたいは56師団しだん指揮しきはなれていたためっぱねられた[15]

べいちゅう連合れんごうぐんきびしい気候きこう環境かんきょうくるしめられていた。7月12にち空軍くうぐん支援しえんしたそう攻撃こうげき開始かいししたが、日本にっぽんぐん防戦ぼうせん友軍ゆうぐん誤爆ごばくだい混乱こんらんすえ失敗しっぱいした。とはいえすこしずつ日本にっぽんぐん圧迫あっぱくしていった。

撤退てったい

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7がつ下旬げじゅんには守備しゅびたい残存ざんそん兵力へいりょくやく1200めいになっていた。前述ぜんじゅつのミイトキーナ死守ししゅ命令めいれいらされていない丸山まるやま大佐たいさは「命令めいれいはミイトキーナ付近ふきん要地ようち確保かくほせよというのだから、かならずしもミイトキーナに拘泥こうでいする必要ひつようはなく、付近ふきん地点ちてんでインド・中国ちゅうごく連絡れんらく遮断しゃだんさえすれば任務にんむ達成たっせいされたことになる」と当初とうしょよりかんがえており[16]水上みずかみ少将しょうしょうたいし、いたずらに玉砕ぎょくさいはやめるよりイラワジかわ渡河とかしてマヤン高地こうち移動いどうするべきだともうべ、同意どうい[17]

ミイトキーナ守備しゅびたいは8がつ2にちから3にち満月まんげつよる渡河とか開始かいしした。水上すいじょう少将しょうしょうは、副官ふっかん丸山まるやま大佐たいさあてに「てきせん突破とっぱ脱出だっしゅつすべし」の命令めいれいぶんたくしたのち自決じけつした。

水上みずかみ少将しょうしょう副官ふっかんからことらされた丸山まるやま大佐たいさは「やっとなれたか。」と[18]軍医ぐんい水上すいじょう少将しょうしょう自決じけつ現場げんば派遣はけんし、遺体いたい埋葬まいそうしたうえ小指こゆびって遺骨いこつとしてかえった。

渡河とか現地げんちじん徴発ちょうはつした丸木舟まるきぶねや、ドラム缶どらむかんを2結束けっそくいたわたしたいかだおこなわれたが[17]、3、4にちまえばくげき大半たいはんしずめられていたためかくたいては半分はんぶん以下いかけずられた。また、雨期うき最盛さいせい増水ぞうすいはげしいイラワジかわいかだわたったのちかえ保障ほしょうはなく、現地げんちじん船頭せんどう途中とちゅう守備しゅびたい見限みかぎ逃走とうそうくわえて連合れんごうぐん岸辺きしべ要所ようしょからの探照灯たんしょうとう[17]掃海そうかいていかまえていたため、渡河とか凄惨せいさんきわめた。たとえば、最終さいしゅう渡河とかしただい3大隊だいたいではいかだ2だい丸木舟まるきぶね5せきしかてられず、ふね殺到さっとうする兵士へいし中西なかにしだい隊長たいちょうが「このざまはなにだ、貴様きさまらはそれでも軍人ぐんじんか、全員ぜんいんふねからはなれろ!命令めいれいだ。いうことかぬやつてる!」とけ、さきってしまった[19]のこった兵士へいしたちは前述ぜんじゅつ過酷かこく状況じょうきょう次々つぎつぎいのちとし、渡河とかまえは40めいだった大隊だいたい半分はんぶんっていたという。

撤退てったい部隊ぶたい援護えんごにんけた砲兵ほうへいたいちょう浅井あさい広中ひろなか中尉ちゅうい、40めい~60めい)は4にち渡河とかする予定よていであったが、そのままざん命令めいれい玉砕ぎょくさいした。だい3大隊だいたい生存せいぞんしゃによれば、浅井あさい中尉ちゅういは「自分じぶん覚悟かくごはあるが、かえれるとよろこんでいた部下ぶかたちにどうえば納得なっとくしてもらえるのか、いまからかんがえてもつらい。」とらしていたとされる[20]

その丸山まるやま大佐たいさひきいる残存ざんそん部隊ぶたいは1週間しゅうかんほどマヤン高地こうち南側みなみがわまり部隊ぶたい掌握しょうあくつとめていたが、8がつ12にちだい33ぐん本部ほんぶよりだい18師団しだんへの復帰ふっき命令めいれいけたため、てき追撃ついげきけるべく夜間やかん東方とうほう山中さんちゅう迂回うかい南進なんしんして9がつ15にちごろまでに日本にっぽんぐん勢力せいりょくのバーモ(守備しゅび隊長たいちょうはらこうさん大佐たいさ)にたどりいた。

一方いっぽう、7がつ中旬ちゅうじゅん守備しゅびたい救援きゅうえんめいじられた捜索そうさくだい53連隊れんたいちょうおくなか寿蔵じゅぞう中佐ちゅうさ)は8がつ初頭しょとう、バーモで徒歩とほ部隊ぶたい1個いっこ中隊ちゅうたいおよび通信つうしんはん編成へんせいあくなやみながら本道ほんどう沿って北進ほくしんつづけていたが、前述ぜんじゅつ理由りゆうにより遭遇そうぐうかなわず、バーモにもどった[21]

日本にっぽんぐん撤退てったいさっしたウェセルス少将しょうしょうそう攻撃こうげき計画けいかくし15じゅう装備そうび分隊ぶんたいからなる挺身ていしんたい編成へんせい日本にっぽんぐん戦線せんせんない潜入せんにゅうさせ、50主力しゅりょく攻撃こうげき残存ざんそん部隊ぶたいられているすき背後はいごから攻撃こうげきおこなわせた。8月3にち夕刻ゆうこく傷病しょうびょう患者かんじゃ慰安いあんなど187めい俘虜ふりょのこしてだい部分ぶぶん制圧せいあつ[22]、8がつ7にちまでに守備しゅびたい組織そしきてき抵抗ていこうわり、80日間にちかん死闘しとうかえしたミートキーナは水上すいじょう少将しょうしょう以下いか2100めい戦死せんししゃをもって連合れんごうぐん制圧せいあつされた。

結果けっか

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戦闘せんとう終了しゅうりょうのミイトキーナ市街地しがいち(8がつ4にち

連合れんごう国軍こくぐんがミイトキーナを占領せんりょうした結果けっか、インドから中国ちゅうごくこんあきらかう航空こうくう輸送ゆそうルートは山越やまごえをけ、より安全あんぜんなルートをることができるようになった。 さらにレドおおやけどおりにむけてバーモへ南下なんかすることができるようになった。

アメリカぐんはビルマ戦線せんせん中国ちゅうごくぐんやイギリスぐんへの援軍えんぐんとして投入とうにゅうしていただい5307混成こんせい部隊ぶたいは1943ねん後半こうはんのフーコンでのたたかいから1944ねんのミイトキーナ陥落かんらくまでに全体ぜんたいはちわり死傷ししょうするだい損害そんがいい、ビルマ戦線せんせんからアメリカの主要しゅよう地上ちじょう部隊ぶたい撤退てったいした。

ミイトキーナ守備しゅびたいべいちゅう連合れんごうぐんめているあいだ、フーコン戦線せんせんだい18師団しだんはモガウンからの脱出だっしゅつ成功せいこうした。

たたかいをモチーフにした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 歩兵ほへいだいひゃくじゅうよん連隊れんたい」によれば、指揮しき系統けいとう不備ふびべい英軍えいぐんとの意思いし疎通そつう出来できなかったためかすでに陥落かんらくしたものとおもんだらしく、喇叭らっぱたい軍旗ぐんき指揮しきかん先頭せんとう入場にゅうじょう行進こうしんはじめたため、守備しゅびたいはできるだけけて一斉いっせい射撃しゃげき敢行かんこう団長だんちょう、営長2めい以下いかやく600めい戦死せんしさせ、大量たいりょう武器ぶき鹵獲ろかくしたとしている[10]

出典しゅってん

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  1. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 38.
  2. ^ Jon Diamond (2016). Burma Road 1943–44: Stilwell's assault on Myitkyina. Osprey Publishing. ISBN 978-1472811257. https://books.google.co.jp/books?id=zYOlCwAAQBAJ&pg=PT161&lpg=PT161&dq=Galahad+battalion+5307&source=bl&ots=1GRWQKMANo&sig=V5vl4FvNaxwoHz3GKkS2sakr2ag&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjwjJX9ntHYAhUFErwKHa2OC0kQ6AEITDAJ#v=onepage&q=Galahad%20battalion%205307&f=false 
  3. ^ 军碑いちきゅうよん
  4. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 20.
  5. ^ a b Mark P. Zaitsoff. “879th ENGINEER BATTALION (AVIATION)”. CBI Unit histories. 2018ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 22.
  7. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 28.
  8. ^ みつささえだい战:中国ちゅうごく远征军驻しるし军苦战取胜记” (中国ちゅうごく). よんがつ网. (2011ねん4がつ26にち). http://app.m4.cn/print.php?contentid=1098284 2016ねん12月24にち閲覧えつらん 
  9. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 27.
  10. ^ a b 歩兵ほへいだいひゃくじゅうよん連隊れんたい 1987, p. 403.
  11. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 36.
  12. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 37.
  13. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 41.
  14. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 42.
  15. ^ a b c 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 46.
  16. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 47.
  17. ^ a b c 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 51.
  18. ^ 森山もりやま 1984, p. 72.
  19. ^ 三浦みうら 1981, p. 253.
  20. ^ 三浦みうら 1981, p. 46.
  21. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 58.
  22. ^ 戦史せんし叢書そうしょ25 1969, p. 57.
  23. ^ 向井むかいじゅんきち 1901 - 1995 MUKAI, Junkichi”. 独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん国立こくりつ美術館びじゅつかん. 2022ねん8がつ31にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ へん へん『イラワジ会戦かいせん ビルマ防衛ぼうえい破綻はたんちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ25〉、1969ねん 
  • 歩兵ほへいだいひゃくじゅうよん連隊れんたい編集へんしゅう委員いいんかい へん へん歩兵ほへいだいひゃくじゅうよん連隊れんたい』1987ねん5がつ 
  • 小林こばやし幸夫ゆきお水上みずかみ輝三てるぞう西村にしむら正人まさと ちょ歩兵ほへいだいひゃくじゅうよん聯隊れんたい将兵しょうへいたちあし書房しょぼう、1999ねん 
  • 三浦みうら徳平とくひら ちょいち下士官かしかんのビルマ戦記せんき―ミートキーナ陥落かんらく前後ぜんこうあし書房しょぼう、1981ねん 
  • 森山もりやま康平やすひら 編著へんちょ太平洋戦争たいへいようせんそう写真しゃしん フーコン・雲南うんなんたたかい』池宮いけみや商会しょうかい、1984ねん