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レドおおやけ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1944ねんビルマおおやけとレドおおやけ
中華民国ちゅうかみんこく生命せいめいせんさい開通かいつう
1942ねんから1943ねん時点じてんでの連合れんごうぐん東南とうなんアジア戦域せんいきでの連絡れんらくせん。レドおおやけみぎはし
レドおおやけとビルマおおやけ
それぞれ同盟どうめい相手あいて国旗こっきジープてるアメリカぐん中国ちゅうごくぐん兵士へいし再開さいかい最初さいしょ輸送ゆそう車列しゃれつが、ほぼ3ねんぶりにレドおおやけ通過つうかして中国ちゅうごく国境こっきょうえる直前ちょくぜん光景こうけい

レドおおやけ(レドこうろ、ヒンディー: लेडो रोडビルマ: လီဒိုလမ်းမကြီး中国ちゅうごく: 中印なかいんおおやけ)とは、インドアッサムしゅうレドから中華民国ちゅうかみんこく雲南うんなんしょうこんあきらまでをむす道路どうろである。だい世界せかい大戦たいせんなかアメリカイギリス中華民国ちゅうかみんこく軍需ぐんじゅ物資ぶっしおく援蔣ルートのひとつとして、1942ねん日本にっぽんぐん遮断しゃだんされたビルマおおやけえるため建設けんせつした。ビルマ(現在げんざいミャンマー)のカチンしゅうシンブイヤンzh)とミッチーナーバーモ通過つうかする[1]1945ねん初頭しょとう蔣介せき提案ていあんで、ジョセフ・スティルウェルにちなみスティルウェルおおやけ中国ちゅうごく: ふみすすむおおやけ)と改名かいめいされた。

背景はいけい

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19世紀せいき、イギリスの鉄道てつどう事業じぎょうしゃは、インド東部とうぶアルナーチャル・プラデーシュしゅう当時とうじはアッサムしゅう一部いちぶ)のナムポンen:Nampong)から、ちゅうはる国境こっきょうパトカイ山脈さんみゃく標高ひょうこう1136mのパンソーとうげen)をえる路線ろせん調査ちょうさしていた。調査ちょうさ結果けっかは、ビルマまでけてフーコン渓谷けいこくへとりることが可能かのうというものだった。その計画けいかくげられたものの、イギリスはパトカイ山脈さんみゃくけてアッサムとビルマ北部ほくぶむす経路けいろ見通みとおしをった。イギリスの技術ぎじゅつしゃたちは、最初さいしょの80マイルやく129km)の調査ちょうさえた。

太平洋戦争たいへいようせんそう(だい東亜とうあ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつし、イギリス勢力せいりょく日本にっぽんぐんによってビルマからの撤退てったいまれると、パトカイ山脈さんみゃくとお道路どうろ建設けんせつはアメリカにとって重要じゅうようした。援蔣物資ぶっし陸揚りくあげみなとであるラングーン(現在げんざいヤンゴン)が日本にっぽん占領せんりょうされたのち、レドおおやけ開通かいつうするまで、中華民国ちゅうかみんこくへの物資ぶっし輸送ゆそうは、ハンプen:the Hump)としてられるヒマラヤ山脈ひまらやさんみゃくひがしはしえる空路くうろたよるしかなくなったためである。

アメリカせい軍用ぐんようトラックぐんは、山肌やまはだ沿ってがりながら、ビルマまでひらかれたレドおおやけく。
映像えいぞう外部がいぶリンク
the road from Ledo (Stilwell Road); Pangsau Pass. 8:30min. Filmed in 1942-43 by Gyles Mackrell[2]

建設けんせつ作業さぎょう

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1942ねん12月1にち、イギリスの極東きょくとう戦線せんせんそう司令しれいかんアーチボルド・ウェーヴェル将軍しょうぐんは、アメリカのジョセフ・スティルウェル将軍しょうぐん北部ほくぶ戦域せんいき司令しれいかりやくNCAC)によるレドおおやけ建設けんせつあん許可きょかした。レドおおやけは援蔣ルートの主力しゅりょく予定よていされ、スティルウェルの指揮しきで、鉄道てつどう端末たんまつのアッサムしゅうレドからビルマおおやけとの合流ごうりゅうてんであるモンユすすきともen)までを建設けんせつすることになった。モンユからさきは、中国ちゅうごくがわ最前線さいぜんせんである畹町(ワンチン)につながり、中国ちゅうごく領内りょうないこんあきら物資ぶっしわた場所ばしょさだめられた。スティルウェルの幕僚ばくりょうは、レドおおやけによってハンプえをはるかに上回うわまわ毎月まいつき65000トンの物資ぶっし輸送ゆそう可能かのうになると見込みこんでいた[3]一方いっぽう、ハンプえを担当たんとうしているアメリカだい14空軍くうぐんクレア・リー・シェンノート将軍しょうぐんは、スティルウェルの見積みつもりは楽観らっかんてきすぎると主張しゅちょうし、密林みつりん地帯ちたい建設けんせつした道路どうろ近代きんだいてき空輸くうゆどうりょうはこべるか疑問ぎもんしていた[4]

建設けんせつ工事こうじには、15000にんのアメリカ陸軍りくぐん兵士へいし(その6わりアフリカけいアメリカじん)と35000にん現地げんちじん労働ろうどうしゃ投入とうにゅうされ、現地げんちじん労働ろうどうしゃへの報酬ほうしゅう総額そうがくは1おく5せんまんドルにのぼった。工事こうじちゅうのアメリカぐん兵士へいし死者ししゃは1100にんで、もっとおおくの現地げんちじん犠牲ぎせいとなった[5]。ビルマの大半たいはん日本にっぽんぐん勢力せいりょくであったため、地形ちけい地質ちしつ河川かせん特質とくしつなど工事こうじ必要ひつよう地理ちりてき情報じょうほう事前じぜん満足まんぞくられなかった。

スティルウェルは、工兵こうへい権威けんいであるレイモンド・ウィーラーen少将しょうしょう指揮しきかんとして援助えんじょかりやく:Service of Supply, SOS)を創設そうせつし、レドおおやけ建設けんせつ担当たんとうさせた。ウィーラー少将しょうしょうは、ジョン・C・アロースミスen大佐たいさ現場げんば責任せきにんしゃとした。アロースミス大佐たいさは、のちに、すぐれた工兵こうへい士官しかんルイス・ピックen大佐たいさ交代こうたいする。

工事こうじは、1942ねん12月に、レドからシンブイヤンまでの最初さいしょの103マイル(やく166km)の区間くかんはじまった。レドまでのほそけわしいみちつづかたち建設けんせつされた道路どうろは、パトカイ山脈さんみゃくをパンソーとうげえる難所なんしょふくみ、このパンソーとうげ地獄じごくとうげ(Hell Pass)とあだされた。ときに標高ひょうこうは1400mをえ、1kmごとに1800立方りっぽうメートルもの土砂どしゃ搬出はんしゅつしなければならなかった。きゅう勾配こうばいきゅうカーブ、落差らくさ60mもの絶壁ぜっぺき周囲しゅういかこむうっそうとした熱帯ねったい雨林うりん最初さいしょ区間くかんではたりまえであった。1943ねん12月27にち最初さいしょのブルドーザーがシンブイヤンに到達とうたつした。予定よていよりも3にちはや到達とうたつであった。

最初さいしょ区間くかん開通かいつうにより、連合れんごうぐんは、ビルマ北部ほくぶ前線ぜんせん豊富ほうふ物資ぶっし供給きょうきゅうできるようになった。ビルマ北部ほくぶでは、日本にっぽんだい18師団しだんカマインen)、モガウンおよびミッチーナー(ミイトキーナ)付近ふきん主力しゅりょく展開てんかいしており、フーコン作戦さくせんにかかる戦闘せんとうおこなわれていた。この地域ちいき連合れんごうぐんは、アメリカぐん養成ようせいした中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐん雲南うんなん遠征えんせいぐんX Force)が主力しゅりょくで、それまではパトカイ山脈さんみゃくえの空輸くうゆ兵站へいたん依存いぞんしていた。連合れんごうぐんは、ミイトキーナのたたかひしげはじめあがえつたたかなどにより日本にっぽんぐん勢力せいりょくけんみなみへと後退こうたいさせることに成功せいこうし、レドおおやけ延長えんちょう可能かのうとなった。シンブイヤンからさき区間くかんは、日本にっぽんぐん建設けんせつした簡易かんい道路どうろ拡張かくちょうするかたち作業さぎょうおこなわれ、工事こうじ容易よういであった。また、道路どうろ沿って直径ちょっけい10cmのパイプライン2ほん敷設ふせつされ、輸送ゆそう車列しゃれつへの燃料ねんりょう給油きゅうゆ使つかえるようになった。

シンブイヤンからさき区間くかんは、ワラズップ(Warazup)からミッチーナーをて、バーモ(レドからやく600km)にびた。バーモからはきゅうビルマおおやけ支線しせんはいり、レドからやく700kmのナムカム経由けいゆ、レドから748km地点ちてんのモンユ(すすきとも合流ごうりゅうてんでビルマおおやけへの接続せつぞく完了かんりょうした。レドからモンユまでのあいだわたった河川かせんかず主要しゅようなものだけで10しょう河川かせんは155のぼり、平均へいきんすると4.5kmに1架橋かきょうようしたことになる。

モンユからは、右折うせつすれば日本にっぽんぐん占領せんりょうないを160km南下なんかしてラシオにいたり、左折させつして100kmけば中国ちゅうごく国境こっきょうのすぐきたにある畹町(ワンチン)にくはずである。しかし、1944ねん後半こうはん時点じてんでは中国ちゅうごくまで開通かいつうで、わりに新鋭しんえい輸送ゆそう増強ぞうきょうされたハンプえがおおくの物資ぶっしはこんでいた。

1944ねん後半こうはん、スティルウェルがレドおおやけ建設けんせつまかされてからやく2ねんて、フーコン渓谷けいこくのミッチーナー付近ふきんではモンスーン被害ひがいからの復旧ふっきゅう工事こうじつづいていたものの、ビルマおおやけへの接続せつぞく一応いちおうわった。このアッサムからこんあきらまでの自動車じどうしゃ道路どうろそう延長えんちょうは1736kmにおよんだ。1945ねん1がつ12にち、113りょうから最初さいしょ輸送ゆそう車列しゃれつがピック将軍しょうぐんひきいられてレドを出発しゅっぱつ、2がつ4にちこんあきら到着とうちゃくした。開通かいつう半年はんとしあいだで、12まん9せんトンの物資ぶっしがトラックによりインドから中国ちゅうごくはこばれた[6]。また、輸送ゆそう使つかわれたトラック2まん6せんだいも、そのまま中国ちゅうごくがわわたされている[6]

シェンノート将軍しょうぐん予想よそうしたとおり、レドおおやけ使つかった月間げっかん輸送ゆそうりょうは、ハンプえによる空輸くうゆりょうを1上回うわまわることがなかった[7]終戦しゅうせん直前ちょくぜんの1945ねん7がつには、71000トンがハンプえで空輸くうゆされたのにたいし、レドおおやけでの陸上りくじょう輸送ゆそうは6000トンにとどまった。終戦しゅうせんまでの輸送ゆそう総量そうりょうは、ハンプえの65まんトンにたいし、レドおおやけは14まん7せんトンにわっている[4][7]。レドおおやけ本格ほんかく運用うんよう以前いぜんに、ビルマ以外いがいでの作戦さくせんたいにちせん終局しゅうきょくへの道筋みちすじがついていた[3]

レドおおやけもうけられたレドを起点きてんとするマイル道標どうひょうは、つぎのとおりである[8][9]

アッサムしゅうレド 0
シンブイヤン 103
ワラズップ 189
ミッチーナー 268
バーモ 372
畹町 507
りゅうりょう 560
さん 652
ながひらた 755
雲南うんなんえき 876
すわえゆう 959
こんあきら 1079

東南とうなんアジア戦域せんいき連合れんごうぐん司令しれいそう司令しれいかんであるイギリスぐんルイス・マウントバッテン大将たいしょうが、飛行機ひこうきってフーコン渓谷けいこく上空じょうくう飛行ひこうちゅう眼下がんかながれる「かわ」の名前なまえ部下ぶかたずねたことがある。部下ぶかのアメリカ軍人ぐんじんこたえは、「あれはかわではありません。レドおおやけであります。」というものだった[10]

レドおおやけかかわったアメリカ陸軍りくぐん部隊ぶたい

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建設けんせつ開始かいし投入とうにゅう部隊ぶたい以下いかとおりであった[11]

  • だい45総合そうごう工兵こうへい連隊れんたい(Engineer General Service Regiment) - アフリカけいアメリカじん部隊ぶたい
  • だい823航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい(Aviation Engineer Battalion, EAB) - アフリカけいアメリカじん部隊ぶたい

1943ねんちゅう以下いか部隊ぶたいくわわった。

  • だい848航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい - アフリカけいアメリカじん部隊ぶたい
  • だい849航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい - アフリカけいアメリカじん部隊ぶたい
  • だい858航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい - アフリカけいアメリカじん部隊ぶたい
  • だい1883航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい - アフリカけいアメリカじん部隊ぶたい

1944ねん7がつには、だい879空挺くうてい工兵こうへい大隊だいたいがミッチーナーに到着とうちゃくしている[12]

1944ねん12がつ下旬げじゅんまで、兵站へいたん施設しせつ整備せいび工事こうじつづいた。1945ねん1がつ時点じてんでは、上記じょうきのアフリカけいアメリカじん編制へんせい航空こうくう工兵こうへい大隊だいたい(EAB)のうち4が、3白人はくじん大隊だいたいとともに拡張かくちょう工事こうじつづけていた。アフリカけいアメリカじん部隊ぶたいひとつは、中国ちゅうごく領内りょうない進出しんしゅつして道路どうろ拡張かくちょう工事こうじ従事じゅうじしている。

建設けんせつへの批評ひひょう

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イギリスの首相しゅしょうウィンストン・チャーチルは、巨大きょだい非常ひじょう労力ろうりょくようし、必要ひつようときまでに完成かんせいしない事業じぎょうだとていた。チャーチルは、海上かいじょうからビルマ南部なんぶ経由けいゆしてスマトラ島すまとらとうシンガポール奪還だっかんすす反攻はんこう経路けいろ希望きぼうしており、レドおおやけ建設けんせつのためにビルマ北部ほくぶ戦力せんりょくくことをきらっていた。中国ちゅうごくへの援助えんじょ必要ひつようせいには同意どういしていたものの、レドおおやけ使用しようできた場合ばあい中国ちゅうごくぐん戦力せんりょく向上こうじょうはわずかと予想よそうし、また、太平洋たいへいよう方面ほうめんからの反攻はんこう飛行場ひこうじょう確保かくほできれば中国ちゅうごく日本にっぽん本土ほんどばくげき拠点きょてんとしての価値かち低下ていかするとかんがえていたからである[13]

イギリス陸軍りくぐんだい14ぐんen)をひきいてビルマでたたかったウィリアム・スリム元帥げんすいは、回顧かいころくつぎのようにしるしている。

この道路どうろつくれるというてんについてはわたしもスティルウェルとどう意見いけんだった。適正てきせい装備そうびとすぐれた指揮しきがあり、かれのレド部隊ぶたいのように十分じゅうぶんすうてき優位ゆういがあれば、中国ちゅうごくぐん日本にっぽんぐんをうちれるはずだとわたしかんがえていた。建設けんせつ作業さぎょうについてはなん疑問ぎもんもなかった。わがぐんおなじくらい困難こんなん場所ばしょに、アメリカぐんよりずっとすくない機材きざい道路どうろつくってきた実績じっせきがあった。部下ぶかのイギリスぐん工兵こうへいたいは、最初さいしょの80マイル[130km]について経路けいろ調査ちょうさした結果けっか十分じゅうぶん自信じしんっていた。わがぐんにはすでに、中部ちゅうぶ戦線せんせんにおいて同様どうよう粗末そまつ連絡れんらくせん保守ほしゅしているすばらしい労働ろうどう部隊ぶたいがあった。ここまではスティルウェルとわたし意見いけん完全かんぜん一致いっちしていたが、わたし同意どういできないてんがふたつあった。この道路どうろ戦争せんそううえ圧倒的あっとうてき価値かちがあるのかどうか、そしていずれにせよ場所ばしょ間違まちがっているのではないかというてんである。編成へんせいもまだの[新編しんぺん]中国ちゅうごくぐん使つかってアジア大陸たいりくすすむよりも、太平洋たいへいよう方面ほうめんしまからしまへとんでいくアメリカぐん上陸じょうりく作戦さくせんのほうがずっとはや成果せいかすはずだとわたし確信かくしんしていた。またいずれにせよ、この道路どうろおおきな効果こうか発揮はっきするには、物資ぶっしおく鉄道てつどう出発しゅっぱつてんはカルカッタではなくラングーンにすべきである。
ウィリアム・スリム[14]

だい世界せかい大戦たいせん

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ビルマのたたか終結しゅうけつ、レドおおやけ補修ほしゅうおこなわれず、次第しだい崩壊ほうかいしていった。レドからミッチーナーまでを自動車じどうしゃ通行つうこうした記録きろくは、1955ねんロンドン=シンガポールあいだ陸路りくろ踏破とうはしたオックスフォード=ケンブリッジ極東きょくとう遠征えんせいかりやくen:Oxford and Cambridge Far Eastern Expedition)による往復おうふく最後さいごである。この探検たんけんぎょうについての著作ちょさく Tim Slessor,“First Overland”(1957ねん)によれば、パンソーとうげとシンブイヤンのあいだで、複数ふくすうはし崩落ほうらくしていたという。この地域ちいきへの旅行りょこうは、アッサムしゅう分離ぶんり独立どくりつ闘争とうそうやインドの国境こっきょう紛争ふんそう影響えいきょうもあって、長年ながねんわたってさまたげられてきた。インド政府せいふは、1962ねんから1990年代ねんだいなかばまで、ミャンマーに拠点きょてんはん政府せいふゲリラの越境えっきょう侵入しんにゅう対策たいさくなどのため、たいミャンマー国境こっきょう封鎖ふうさしていた。

その、インドとミャンマーの関係かんけい改善かいぜんすすみ、パンソーとうげ付近ふきんナウンヤンかりやく:Nawng Yang, en)までツアーが可能かのうとなっている。最近さいきんのレドおおやけ通過つうかこころみは結果けっかかれている。インドのナンポン(Nampong)とパンソーむらあいだよんりん駆動くどうしゃであれば通行つうこう可能かのうである。ミャンマーがわのルートも通行つうこう可能かのう状態じょうたい報告ほうこくされている。成功せいこうれいとして、ドノヴァン・ウェブスター(Donovan Webster)は、2001ねんにシンブイヤンまで自動車じどうしゃ踏破とうはした。2005ねんちゅうごろには、イギリスのビルマ戦線せんせん従軍じゅうぐんしゃによる戦友せんゆうかいである“Burma Star Association”の会員かいいんらが、政治せいじてき良好りょうこう関係かんけいにある旅行りょこうエージェントをかいして回想かいそう旅行りょこう招待しょうたいされ、シンブイヤンまでっている。なお、これらの近年きんねんのレドおおやけ通行つうこうしゃたちは、ミャンマー軍事ぐんじ政権せいけんかんする人権じんけん問題もんだいについてはなんらコメントしていない。

インド=ミャンマー国境こっきょうは、周辺しゅうへんはん政府せいふ勢力せいりょく活動かつどうつづき、インドのアッサム・ライフル部隊ぶたいミャンマーぐんがそれぞれ駐屯ちゅうとんしているものの、現地げんちみんたいしては事実じじつじょう開放かいほうされている。パンソーむらむミャンマーじんは、自由じゆうままにインド領内りょうないのナンポンまで交易こうえきにやってきている。他方たほう現地げんちじん国境こっきょう往来おうらいことなって、外国がいこくじん場合ばあいたいしては双方そうほうから厳重げんじゅう監視かんし体制たいせいかれ、国境こっきょう通過つうか公式こうしきには禁止きんしされている。許可きょか通過つうかしようとすれば、官憲かんけん拘束こうそくされたり、場合ばあいによってははん政府せいふ勢力せいりょくなどとのトラブルにまれるおそれもある。

再建さいけん計画けいかく

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近年きんねん、ミャンマー政府せいふは、現在げんざいのラシオ=こんあきらどうわるルートとして、レドおおやけ再建さいけん着目ちゃくもくしている。ミャンマーを支援しえんする中国ちゅうごく政府せいふは、2007ねんにミッチーナーとカンバイチ(Kambaiti)のあいだ整備せいびえ、ミッチーナーからタナイen)までの区間くかんもヤンゴンに拠点きょてんくユザナしゃによって工事こうじすすめられている。しかし、インド政府せいふは、たいミャンマー国境こっきょう地帯ちたい活動かつどうするはん政府せいふ武装ぶそう勢力せいりょく利用りようされるのではないかとおそれている[15][16][17]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Bhaumik, Subir (2009ねん8がつ11にち). “India not to reopen key WWII road”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/8194622.stm 2010ねん5がつ7にち閲覧えつらん 
  2. ^ アーカイブされたコピー”. 2012ねん7がつ12にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん11月1にち閲覧えつらん
  3. ^ a b Sherry, Mark D., China Defensive 1942-1945, United States Army Center of Military History, CBI Background. Chapter: "China Defensive"
  4. ^ a b Xu, p. 191
  5. ^ Sankar, Anand (2009ねん2がつ14にち). “On the road to China”. Business Standard. http://www.business-standard.com/india/storypage.php?autono=323868 2009ねん2がつ13にち閲覧えつらん 
  6. ^ a b American Embassy in China, U.S. Embassy Marks 60th Anniversary of Ledo Road, U.S. Embassy Press Briefing and Release, February 2, 2005
  7. ^ a b Schoenherr Steven,The Burma Front, History Department at the University of San Diego
  8. ^ Staff. The Stilwell Road Archived 2008ねん10がつ13にち, at the Wayback Machine., District Administration,Tinsukia (Assam) Archived 2007ねん2がつ12にち, at the Wayback Machine., Cites Sri Surendra Baruah, Margherita, Retrieved 2008-10-01
  9. ^ Weidenburner. Ledo Road Signs
  10. ^ Moser, p. 139
  11. ^ Staff. EAB in China-Burma-India, National Museum of the U.S. Air Force, Retrieved 2008-10-01
  12. ^ 879th Airborne Engineers Official Battalion History declassified NND957710
  13. ^ ウィンストン・チャーチル(ちょ)、佐藤さとう亮一りょういちわけ) 『だい世界せかい大戦たいせん 4』 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ河出かわで文庫ぶんこ〉、1984ねん、250-252ぺーじ
  14. ^ Slim, start of Chapter XII: The Northern Front
  15. ^ Staff. Resident's homes on Ledo Road to move back 20 feet, Kachin News Group (KNG), 7 August 2008
  16. ^ Human Rights Documentation Unit, Burma Human Rights Yearbook 2007, National Coalition Government of the Union of Burma, September 2008. p. 214
  17. ^ http://ibnlive.in.com/news/stilwell-road-indochina-road-to-peace/163192-3.html

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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座標ざひょう: 北緯ほくい2741ふん18びょう 東経とうけい9555ふん57びょう / 北緯ほくい27.68839 東経とうけい95.93262 / 27.68839; 95.93262