1944年 ねん のビルマ公 おおやけ 路 ろ とレド公 おおやけ 路 ろ 。
中華民国 ちゅうかみんこく の生命 せいめい 線 せん の再 さい 開通 かいつう 。
1942年 ねん から1943年 ねん 時点 じてん での連合 れんごう 軍 ぐん の東南 とうなん アジア戦域 せんいき での連絡 れんらく 線 せん 。レド公 おおやけ 路 ろ は右 みぎ 端 はし 。
レド公 おおやけ 路 ろ とビルマ公 おおやけ 路 ろ 。
それぞれ同盟 どうめい 相手 あいて の国旗 こっき をジープ に立 た てるアメリカ軍 ぐん と中国 ちゅうごく 軍 ぐん の兵士 へいし 。再開 さいかい 後 ご 最初 さいしょ の輸送 ゆそう 車列 しゃれつ が、ほぼ3年 ねん ぶりにレド公 おおやけ 路 ろ を通過 つうか して中国 ちゅうごく 国境 こっきょう を超 こ える直前 ちょくぜん の光景 こうけい 。
レド公 おおやけ 路 ろ (レドこうろ、ヒンディー語 ご : लेडो रोड 、 ビルマ語 ご : လီဒိုလမ်းမကြီး 、中国 ちゅうごく 語 ご : 中印 なかいん 公 おおやけ 路 ろ )とは、インド のアッサム州 しゅう レド から中華民国 ちゅうかみんこく の雲南 うんなん 省 しょう 昆 こん 明 あきら までを結 むす ぶ道路 どうろ である。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか にアメリカ やイギリス が中華民国 ちゅうかみんこく に軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし を送 おく る援蔣ルート のひとつとして、1942年 ねん に日本 にっぽん 軍 ぐん に遮断 しゃだん されたビルマ公 おおやけ 路 ろ と代 か えるため建設 けんせつ した。ビルマ(現在 げんざい のミャンマー )のカチン州 しゅう シンブイヤン (zh )とミッチーナー 、バーモ を通過 つうか する[1] 。1945年 ねん 初頭 しょとう に蔣介石 せき の提案 ていあん で、ジョセフ・スティルウェル にちなみスティルウェル公 おおやけ 路 ろ (中国 ちゅうごく 語 ご : 史 ふみ 迪 すすむ 威 い 公 おおやけ 路 ろ )と改名 かいめい された。
19世紀 せいき 、イギリスの鉄道 てつどう 事業 じぎょう 者 しゃ は、インド東部 とうぶ アルナーチャル・プラデーシュ州 しゅう (当時 とうじ はアッサム州 しゅう の一部 いちぶ )のナムポン (en:Nampong )から、中 ちゅう 緬 はる 国境 こっきょう パトカイ山脈 さんみゃく の標高 ひょうこう 1136mのパンソー峠 とうげ (en )を越 こ える路線 ろせん を調査 ちょうさ していた。調査 ちょうさ 結果 けっか は、ビルマまで抜 ぬ けてフーコン渓谷 けいこく へと下 お りることが可能 かのう というものだった。その計画 けいかく は取 と り下 さ げられたものの、イギリスはパトカイ山脈 さんみゃく を抜 ぬ けてアッサムとビルマ北部 ほくぶ を結 むす ぶ経路 けいろ に見通 みとお しを持 も った。イギリスの技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちは、最初 さいしょ の80マイル (約 やく 129km)の調査 ちょうさ を終 お えた。
太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )が勃発 ぼっぱつ し、イギリス勢力 せいりょく が日本 にっぽん 軍 ぐん によってビルマからの撤退 てったい に追 お い込 こ まれると、パトカイ山脈 さんみゃく を通 とお る道路 どうろ の建設 けんせつ はアメリカにとって重要 じゅうよう 度 ど を増 ま した。援蔣物資 ぶっし の陸揚 りくあげ 港 みなと であるラングーン(現在 げんざい のヤンゴン )が日本 にっぽん に占領 せんりょう された後 のち 、レド公 おおやけ 路 ろ が開通 かいつう するまで、中華民国 ちゅうかみんこく への物資 ぶっし 輸送 ゆそう は、ハンプ越 こ え (en:the Hump )として知 し られるヒマラヤ山脈 ひまらやさんみゃく の東 ひがし 端 はし を越 こ える空路 くうろ に頼 たよ るしかなくなったためである。
アメリカ製 せい の軍用 ぐんよう トラック群 ぐん は、山肌 やまはだ に沿 そ って曲 ま がりながら、ビルマまで開 ひら かれたレド公 おおやけ 路 ろ を行 い く。
1942年 ねん 12月1日 にち 、イギリスの極東 きょくとう 戦線 せんせん 総 そう 司令 しれい 官 かん アーチボルド・ウェーヴェル 将軍 しょうぐん は、アメリカのジョセフ・スティルウェル将軍 しょうぐん の北部 ほくぶ 戦域 せんいき 司令 しれい 部 ぶ (仮 かり 訳 やく :NCAC )によるレド公 おおやけ 路 ろ 建設 けんせつ 案 あん を許可 きょか した。レド公 おおやけ 路 ろ は援蔣ルートの主力 しゅりょく に予定 よてい され、スティルウェルの指揮 しき 下 か で、鉄道 てつどう 端末 たんまつ のアッサム州 しゅう レドからビルマ公 おおやけ 路 ろ との合流 ごうりゅう 点 てん であるモンユ (芒 すすき 友 とも 、en )までを建設 けんせつ することになった。モンユから先 さき は、中国 ちゅうごく 側 がわ の最前線 さいぜんせん である畹町 (ワンチン)につながり、中国 ちゅうごく 領内 りょうない の昆 こん 明 あきら が物資 ぶっし の引 ひ き渡 わた し場所 ばしょ と定 さだ められた。スティルウェルの幕僚 ばくりょう は、レド公 おおやけ 路 ろ によってハンプ越 こ えをはるかに上回 うわまわ る毎月 まいつき 65000トンの物資 ぶっし 輸送 ゆそう が可能 かのう になると見込 みこ んでいた[3] 。一方 いっぽう 、ハンプ越 こ えを担当 たんとう しているアメリカ第 だい 14空軍 くうぐん のクレア・リー・シェンノート 将軍 しょうぐん は、スティルウェルの見積 みつ もりは楽観 らっかん 的 てき すぎると主張 しゅちょう し、密林 みつりん 地帯 ちたい に建設 けんせつ した道路 どうろ で近代 きんだい 的 てき な空輸 くうゆ と同 どう 量 りょう を運 はこ べるか疑問 ぎもん 視 し していた[4] 。
建設 けんせつ 工事 こうじ には、15000人 にん のアメリカ陸軍 りくぐん 兵士 へいし (その6割 わり はアフリカ系 けい アメリカ人 じん )と35000人 にん の現地 げんち 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ が投入 とうにゅう され、現地 げんち 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ への報酬 ほうしゅう 総額 そうがく は1億 おく 5千 せん 万 まん ドルに上 のぼ った。工事 こうじ 中 ちゅう のアメリカ軍 ぐん 兵士 へいし の死者 ししゃ は1100人 にん で、もっと多 おお くの現地 げんち 人 じん が犠牲 ぎせい となった[5] 。ビルマの大半 たいはん は日本 にっぽん 軍 ぐん 勢力 せいりょく 下 か であったため、地形 ちけい や地質 ちしつ 、河川 かせん の特質 とくしつ など工事 こうじ に必要 ひつよう な地理 ちり 的 てき 情報 じょうほう は事前 じぜん に満足 まんぞく に得 え られなかった。
スティルウェルは、工兵 こうへい の権威 けんい であるレイモンド・ウィーラー (en )少将 しょうしょう を指揮 しき 官 かん として援助 えんじょ 部 ぶ (仮 かり 訳 やく :Service of Supply, SOS)を創設 そうせつ し、レド公 おおやけ 路 ろ 建設 けんせつ を担当 たんとう させた。ウィーラー少将 しょうしょう は、ジョン・C・アロースミス (en )大佐 たいさ を現場 げんば 責任 せきにん 者 しゃ とした。アロースミス大佐 たいさ は、後 のち に、優 すぐ れた工兵 こうへい 士官 しかん のルイス・ピック (en )大佐 たいさ と交代 こうたい する。
工事 こうじ は、1942年 ねん 12月に、レドからシンブイヤンまでの最初 さいしょ の103マイル(約 やく 166km)の区間 くかん で始 はじ まった。レドまでの細 ほそ く険 けわ しい道 みち に続 つづ く形 かたち で建設 けんせつ された道路 どうろ は、パトカイ山脈 さんみゃく をパンソー峠 とうげ で越 こ える難所 なんしょ を含 ふく み、このパンソー峠 とうげ は地獄 じごく 峠 とうげ (Hell Pass)とあだ名 な された。ときに標高 ひょうこう は1400mを越 こ え、1km毎 ごと に1800立方 りっぽう メートルもの土砂 どしゃ を搬出 はんしゅつ しなければならなかった。急 きゅう 勾配 こうばい に急 きゅう カーブ、落差 らくさ 60mもの絶壁 ぜっぺき 、周囲 しゅうい を囲 かこ むうっそうとした熱帯 ねったい 雨林 うりん が最初 さいしょ の区間 くかん では当 あ たり前 まえ であった。1943年 ねん 12月27日 にち 、最初 さいしょ のブルドーザーがシンブイヤンに到達 とうたつ した。予定 よてい よりも3日 にち 早 はや い到達 とうたつ であった。
最初 さいしょ の区間 くかん の開通 かいつう により、連合 れんごう 軍 ぐん は、ビルマ北部 ほくぶ の前線 ぜんせん へ豊富 ほうふ な物資 ぶっし を供給 きょうきゅう できるようになった。ビルマ北部 ほくぶ では、日本 にっぽん の第 だい 18師団 しだん がカマイン (en )、モガウン およびミッチーナー(ミイトキーナ)付近 ふきん に主力 しゅりょく を展開 てんかい しており、フーコン作戦 さくせん にかかる戦闘 せんとう が行 おこな われていた。この地域 ちいき の連合 れんごう 軍 ぐん は、アメリカ軍 ぐん が養成 ようせい した中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 軍 ぐん の雲南 うんなん 遠征 えんせい 軍 ぐん (X Force )が主力 しゅりょく で、それまではパトカイ山脈 さんみゃく 越 こ えの空輸 くうゆ に兵站 へいたん を依存 いぞん していた。連合 れんごう 軍 ぐん は、ミイトキーナの戦 たたか い や拉 ひしげ 孟 はじめ ・騰 あが 越 えつ の戦 たたか い などにより日本 にっぽん 軍 ぐん 勢力 せいりょく 圏 けん を南 みなみ へと後退 こうたい させることに成功 せいこう し、レド公 おおやけ 路 ろ の延長 えんちょう が可能 かのう となった。シンブイヤンから先 さき の区間 くかん は、日本 にっぽん 軍 ぐん の建設 けんせつ した簡易 かんい 道路 どうろ を拡張 かくちょう する形 かたち で作業 さぎょう が行 おこな われ、工事 こうじ は容易 ようい であった。また、道路 どうろ に沿 そ って直径 ちょっけい 10cmのパイプライン 2本 ほん が敷設 ふせつ され、輸送 ゆそう 車列 しゃれつ への燃料 ねんりょう 給油 きゅうゆ に使 つか えるようになった。
シンブイヤンから先 さき の区間 くかん は、ワラズップ(Warazup)からミッチーナーを経 へ て、バーモ(レドから約 やく 600km)に伸 の びた。バーモからは旧 きゅう ビルマ公 おおやけ 路 ろ の支線 しせん に入 はい り、レドから約 やく 700kmのナムカム を経由 けいゆ 、レドから748km地点 ちてん のモンユ(芒 すすき 友 とも )合流 ごうりゅう 点 てん でビルマ公 おおやけ 路 ろ への接続 せつぞく を完了 かんりょう した。レドからモンユまでの間 あいだ 、渡 わた った河川 かせん の数 かず は主要 しゅよう なものだけで10個 こ 、小 しょう 河川 かせん は155個 こ に上 のぼ り、平均 へいきん すると4.5kmに1基 き の架橋 かきょう を要 よう したことになる。
モンユからは、右折 うせつ すれば日本 にっぽん 軍 ぐん 占領 せんりょう 地 ち 内 ない を160km南下 なんか してラシオに至 いた り、左折 させつ して100km行 い けば中国 ちゅうごく 国境 こっきょう のすぐ北 きた にある畹町(ワンチン)に着 つ くはずである。しかし、1944年 ねん 後半 こうはん の時点 じてん では中国 ちゅうごく まで未 み 開通 かいつう で、代 か わりに新鋭 しんえい 輸送 ゆそう 機 き で増強 ぞうきょう されたハンプ越 こ えが多 おお くの物資 ぶっし を運 はこ んでいた。
1944年 ねん 後半 こうはん 、スティルウェルがレド公 おおやけ 路 ろ 建設 けんせつ を任 まか されてから約 やく 2年 ねん を経 へ て、フーコン渓谷 けいこく のミッチーナー付近 ふきん ではモンスーン 被害 ひがい からの復旧 ふっきゅう 工事 こうじ が続 つづ いていたものの、ビルマ公 おおやけ 路 ろ への接続 せつぞく は一応 いちおう 終 お わった。このアッサムから昆 こん 明 あきら までの自動車 じどうしゃ 道路 どうろ の総 そう 延長 えんちょう は1736kmに及 およ んだ。1945年 ねん 1月 がつ 12日 にち 、113両 りょう から成 な る最初 さいしょ の輸送 ゆそう 車列 しゃれつ がピック将軍 しょうぐん に率 ひき いられてレドを出発 しゅっぱつ 、2月 がつ 4日 にち に昆 こん 明 あきら に到着 とうちゃく した。開通 かいつう 後 ご の半年 はんとし 間 あいだ で、12万 まん 9千 せん トンの物資 ぶっし がトラックによりインドから中国 ちゅうごく へ運 はこ ばれた[6] 。また、輸送 ゆそう に使 つか われたトラック2万 まん 6千 せん 台 だい も、そのまま中国 ちゅうごく 側 がわ に引 ひ き渡 わた されている[6] 。
シェンノート将軍 しょうぐん が予想 よそう した通 とお り、レド公 おおやけ 路 ろ を使 つか った月間 げっかん 輸送 ゆそう 量 りょう は、ハンプ越 こ えによる空輸 くうゆ 量 りょう を1度 ど も上回 うわまわ ることがなかった[7] 。終戦 しゅうせん 直前 ちょくぜん の1945年 ねん 7月 がつ には、71000トンがハンプ越 こ えで空輸 くうゆ されたのに対 たい し、レド公 おおやけ 路 ろ での陸上 りくじょう 輸送 ゆそう は6000トンにとどまった。終戦 しゅうせん までの輸送 ゆそう 総量 そうりょう は、ハンプ越 こ えの65万 まん トンに対 たい し、レド公 おおやけ 路 ろ は14万 まん 7千 せん トンに終 お わっている[4] [7] 。レド公 おおやけ 路 ろ の本格 ほんかく 運用 うんよう 以前 いぜん に、ビルマ以外 いがい での作戦 さくせん で対 たい 日 にち 戦 せん は終局 しゅうきょく への道筋 みちすじ がついていた[3] 。
レド公 おおやけ 路 ろ に設 もう けられたレドを起点 きてん とするマイル道標 どうひょう は、次 つぎ のとおりである[8] [9] 。
東南 とうなん アジア戦域 せんいき 連合 れんごう 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ の総 そう 司令 しれい 官 かん であるイギリス軍 ぐん のルイス・マウントバッテン 大将 たいしょう が、飛行機 ひこうき に乗 の ってフーコン渓谷 けいこく 上空 じょうくう を飛行 ひこう 中 ちゅう 、眼下 がんか を流 なが れる「川 かわ 」の名前 なまえ を部下 ぶか に尋 たず ねたことがある。部下 ぶか のアメリカ軍人 ぐんじん の答 こた えは、「あれは川 かわ ではありません。レド公 おおやけ 路 ろ であります。」というものだった[10] 。
レド公 おおやけ 路 ろ に関 かか わったアメリカ陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい [ 編集 へんしゅう ]
建設 けんせつ 開始 かいし 時 じ の投入 とうにゅう 部隊 ぶたい は以下 いか の通 とお りであった[11]
第 だい 45総合 そうごう 工兵 こうへい 連隊 れんたい (Engineer General Service Regiment) - アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい
第 だい 823航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい (Aviation Engineer Battalion, EAB) - アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい
1943年 ねん 中 ちゅう に以下 いか の部隊 ぶたい が加 くわ わった。
第 だい 848航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい - アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい
第 だい 849航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい - アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい
第 だい 858航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい - アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい
第 だい 1883航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい - アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい
1944年 ねん 7月 がつ には、第 だい 879空挺 くうてい 工兵 こうへい 大隊 だいたい がミッチーナーに到着 とうちゃく している[12] 。
1944年 ねん 12月 がつ 下旬 げじゅん まで、兵站 へいたん 施設 しせつ の整備 せいび 工事 こうじ は続 つづ いた。1945年 ねん 1月 がつ 時点 じてん では、上記 じょうき のアフリカ系 けい アメリカ人 じん 編制 へんせい の航空 こうくう 工兵 こうへい 大隊 だいたい (EAB)のうち4個 こ が、3個 こ の白人 はくじん 大隊 だいたい とともに拡張 かくちょう 工事 こうじ を続 つづ けていた。アフリカ系 けい アメリカ人 じん 部隊 ぶたい の一 ひと つは、中国 ちゅうごく 領内 りょうない に進出 しんしゅつ して道路 どうろ 拡張 かくちょう 工事 こうじ に従事 じゅうじ している。
イギリスの首相 しゅしょう ウィンストン・チャーチル は、巨大 きょだい で非常 ひじょう に労力 ろうりょく を要 よう し、必要 ひつよう な時 とき までに完成 かんせい しない事業 じぎょう だと見 み ていた。チャーチルは、海上 かいじょう からビルマ南部 なんぶ を経由 けいゆ してスマトラ島 すまとらとう やシンガポール 奪還 だっかん へ進 すす む反攻 はんこう 経路 けいろ を希望 きぼう しており、レド公 おおやけ 路 ろ 建設 けんせつ のためにビルマ北部 ほくぶ へ戦力 せんりょく を割 さ くことを嫌 きら っていた。中国 ちゅうごく への援助 えんじょ の必要 ひつよう 性 せい には同意 どうい していたものの、レド公 おおやけ 路 ろ が使用 しよう できた場合 ばあい の中国 ちゅうごく 軍 ぐん の戦力 せんりょく 向上 こうじょう はわずかと予想 よそう し、また、太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん からの反攻 はんこう で飛行場 ひこうじょう が確保 かくほ できれば中国 ちゅうごく の日本 にっぽん 本土 ほんど 爆 ばく 撃 げき 拠点 きょてん としての価値 かち も低下 ていか すると考 かんが えていたからである[13] 。
イギリス陸軍 りくぐん 第 だい 14軍 ぐん (en )を率 ひき いてビルマで戦 たたか ったウィリアム・スリム 元帥 げんすい は、回顧 かいこ 録 ろく に次 つぎ のように記 しる している。
この道路 どうろ を作 つく れるという点 てん については私 わたし もスティルウェルと同 どう 意見 いけん だった。適正 てきせい な装備 そうび とすぐれた指揮 しき があり、彼 かれ のレド部隊 ぶたい のように十分 じゅうぶん な数 すう 的 てき 優位 ゆうい があれば、中国 ちゅうごく 軍 ぐん は日本 にっぽん 軍 ぐん をうち破 わ れるはずだと私 わたし は考 かんが えていた。建設 けんせつ 作業 さぎょう については何 なん の疑問 ぎもん もなかった。わが軍 ぐん は同 おな じくらい困難 こんなん な場所 ばしょ に、アメリカ軍 ぐん よりずっと少 すく ない機材 きざい で道路 どうろ を作 つく ってきた実績 じっせき があった。部下 ぶか のイギリス軍 ぐん 工兵 こうへい 隊 たい は、最初 さいしょ の80マイル[130km]について経路 けいろ を調査 ちょうさ した結果 けっか 、十分 じゅうぶん に自信 じしん を持 も っていた。わが軍 ぐん にはすでに、中部 ちゅうぶ 戦線 せんせん において同様 どうよう に粗末 そまつ な連絡 れんらく 線 せん を保守 ほしゅ しているすばらしい労働 ろうどう 部隊 ぶたい があった。ここまではスティルウェルと私 わたし の意見 いけん が完全 かんぜん に一致 いっち していたが、私 わたし が同意 どうい できない点 てん がふたつあった。この道路 どうろ に戦争 せんそう に勝 か つ上 うえ で圧倒的 あっとうてき な価値 かち があるのかどうか、そしていずれにせよ場所 ばしょ が間違 まちが っているのではないかという点 てん である。編成 へんせい もまだの[新編 しんぺん ]中国 ちゅうごく 軍 ぐん を使 つか ってアジア大陸 たいりく を進 すす むよりも、太平洋 たいへいよう 方面 ほうめん で島 しま から島 しま へと跳 と んでいくアメリカ軍 ぐん の上陸 じょうりく 作戦 さくせん のほうがずっと早 はや く成果 せいか を出 だ すはずだと私 わたし は確信 かくしん していた。またいずれにせよ、この道路 どうろ が大 おお きな効果 こうか を発揮 はっき するには、物資 ぶっし を送 おく る鉄道 てつどう の出発 しゅっぱつ 点 てん はカルカッタではなくラングーンにすべきである。
ビルマの戦 たたか い終結 しゅうけつ 後 ご 、レド公 おおやけ 路 ろ の補修 ほしゅう は行 おこな われず、次第 しだい に崩壊 ほうかい していった。レドからミッチーナーまでを自動車 じどうしゃ が通行 つうこう した記録 きろく は、1955年 ねん にロンドン =シンガポール間 あいだ を陸路 りくろ で踏破 とうは したオックスフォード=ケンブリッジ極東 きょくとう 遠征 えんせい (仮 かり 訳 やく :en:Oxford and Cambridge Far Eastern Expedition )による往復 おうふく が最後 さいご である。この探検 たんけん 行 ぎょう についての著作 ちょさく Tim Slessor,“First Overland”(1957年 ねん )によれば、パンソー峠 とうげ とシンブイヤンの間 あいだ で、複数 ふくすう の橋 はし が崩落 ほうらく していたという。この地域 ちいき への旅行 りょこう は、アッサム州 しゅう の分離 ぶんり 独立 どくりつ 闘争 とうそう やインドの国境 こっきょう 紛争 ふんそう の影響 えいきょう もあって、長年 ながねん に渡 わた って妨 さまた げられてきた。インド政府 せいふ は、1962年 ねん から1990年代 ねんだい 半 なか ばまで、ミャンマーに拠点 きょてん を置 お く反 はん 政府 せいふ ゲリラの越境 えっきょう 侵入 しんにゅう 対策 たいさく などのため、対 たい ミャンマー国境 こっきょう を封鎖 ふうさ していた。
その後 ご 、インドとミャンマーの関係 かんけい 改善 かいぜん が進 すす み、パンソー峠 とうげ 付近 ふきん のナウンヤン湖 こ (仮 かり 訳 やく :Nawng Yang, en )までツアーが可能 かのう となっている。最近 さいきん のレド公 おおやけ 路 ろ 通過 つうか の試 こころ みは結果 けっか が分 わ かれている。インドのナンポン(Nampong)とパンソー村 むら の間 あいだ は四 よん 輪 りん 駆動 くどう 車 しゃ であれば通行 つうこう 可能 かのう である。ミャンマー側 がわ のルートも通行 つうこう 可能 かのう な状態 じょうたい と報告 ほうこく されている。成功 せいこう 例 れい として、ドノヴァン・ウェブスター(Donovan Webster)は、2001年 ねん にシンブイヤンまで自動車 じどうしゃ で踏破 とうは した。2005年 ねん 中 ちゅう ごろには、イギリスのビルマ戦線 せんせん 従軍 じゅうぐん 者 しゃ による戦友 せんゆう 会 かい である“Burma Star Association”の会員 かいいん らが、政治 せいじ 的 てき に良好 りょうこう な関係 かんけい にある旅行 りょこう エージェントを介 かい して回想 かいそう 旅行 りょこう に招待 しょうたい され、シンブイヤンまで行 い っている。なお、これらの近年 きんねん のレド公 おおやけ 路 ろ 通行 つうこう 者 しゃ たちは、ミャンマー軍事 ぐんじ 政権 せいけん に関 かん する人権 じんけん 問題 もんだい については何 なん らコメントしていない。
インド=ミャンマー国境 こっきょう は、周辺 しゅうへん で反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく の活動 かつどう が続 つづ き、インドのアッサム・ライフル部隊 ぶたい とミャンマー軍 ぐん がそれぞれ駐屯 ちゅうとん しているものの、現地 げんち 民 みん に対 たい しては事実 じじつ 上 じょう 開放 かいほう されている。パンソー村 むら に住 す むミャンマー人 じん は、自由 じゆう 気 き ままにインド領内 りょうない のナンポンまで交易 こうえき にやってきている。他方 たほう 、現地 げんち 人 じん の国境 こっきょう 往来 おうらい と異 こと なって、外国 がいこく 人 じん の場合 ばあい に対 たい しては双方 そうほう から厳重 げんじゅう な監視 かんし 体制 たいせい が敷 し かれ、国境 こっきょう 通過 つうか が公式 こうしき には禁止 きんし されている。無 む 許可 きょか で通過 つうか しようとすれば、官憲 かんけん に拘束 こうそく されたり、場合 ばあい によっては反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく などとのトラブルに巻 ま き込 こ まれるおそれもある。
近年 きんねん 、ミャンマー政府 せいふ は、現在 げんざい のラシオ=昆 こん 明 あきら 道 どう に替 か わるルートとして、レド公 おおやけ 路 ろ の再建 さいけん に着目 ちゃくもく している。ミャンマーを支援 しえん する中国 ちゅうごく 政府 せいふ は、2007年 ねん にミッチーナーとカンバイチ(Kambaiti)の間 あいだ の整備 せいび を終 お え、ミッチーナーからタナイ (en )までの区間 くかん もヤンゴンに拠点 きょてん を置 お くユザナ社 しゃ の手 て によって工事 こうじ が進 すす められている。しかし、インド政府 せいふ は、対 たい ミャンマー国境 こっきょう 地帯 ちたい で活動 かつどう する反 はん 政府 せいふ 武装 ぶそう 勢力 せいりょく に利用 りよう されるのではないかと恐 おそ れている[15] [16] [17] 。
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Los Angeles Times: Burma's Stilwell Road: A backbreaking WWII project is revived. [2]
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 27度 ど 41分 ふん 18秒 びょう 東経 とうけい 95度 ど 55分 ふん 57秒 びょう / 北緯 ほくい 27.68839度 ど 東経 とうけい 95.93262度 ど / 27.68839; 95.93262