(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宇垣工作 - Wikipedia コンテンツにスキップ

宇垣うがき工作こうさく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
宇垣うがき一成いっせい

宇垣うがき工作こうさく(うがきこうさく)とは、にちちゅう戦争せんそう打開だかいのために、1938ねん5月からはじまっただい1近衛このえないかく外務がいむ大臣だいじん宇垣うがき一成いっせい大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん大将たいしょう)による和平わへい工作こうさくである。イギリス仲介ちゅうかいによるこの工作こうさく失敗しっぱいし、同年どうねん9がつ宇垣うがき外相がいしょう辞任じにんにつながった[1]

経緯けいい

[編集へんしゅう]
いししゃいの太郎たろう

1937ねんみんこく26ねん昭和しょうわ12ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけんをきっかけに、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)がはじまった。事変じへん初期しょき段階だんかいでの収拾しゅうしゅう失敗しっぱいした近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうは、1937ねん11月から12がつにかけてのトラウトマン工作こうさくちゅうはなドイツ大使たいしオスカー・トラウトマンにちなむ)の失敗しっぱいけ、軍部ぐんぶ強硬きょうこうろん影響えいきょうもあって、1938ねん1がつ、「爾後じご国民こくみん政府せいふたいトセズ」(今後こんご、蔣介せき国民こくみん政府せいふ交渉こうしょう相手あいてにしない)という趣旨しゅし近衛このえ声明せいめいだいいち)を発表はっぴょうし、和平わへい可能かのうせいをみずからってしまった[1][2][3][注釈ちゅうしゃく 1]にちちゅう戦争せんそう泥沼どろぬま懸念けねんされるなか、事態じたい憂慮ゆうりょしていた宇垣うがき一成いっせいは、1938ねん5がつ近衛このえないかく改造かいぞうさい広田ひろた弘毅こうき後任こうにん外務がいむ大臣だいじんとしての入閣にゅうかくわれると、にちちゅう和平わへい交渉こうしょう開始かいしや「たいとせず」方針ほうしん撤回てっかい条件じょうけん就任しゅうにんした[1]。この内閣ないかく改造かいぞうは、宇垣うがき外相がいしょうによって事変じへん終結しゅうけつをはかることをねらいとしており、新任しんにん陸軍りくぐん大臣だいじん不拡大ふかくだい板垣いたがき征四郎せいしろう石原いしはらかんなんじ人脈じんみゃく)としたのも同様どうよう意図いとにもとづいていた[1]内閣ないかく改造かいぞう近衛このえは、「自分じぶん広田ひろたも、あまりに蔣政権せいけん打倒だとうということを徹底的てっていてきにいいすぎた」「自分じぶんが(首相しゅしょうを)めて、宇垣うがきにやってもらいたい」と周囲しゅういらしていたという[1]外務省がいむしょう東亜とうあ局長きょくちょういししゃいの太郎たろう就任しゅうにんまもない宇垣うがきに「なにとぞ大臣だいじんのおちからで「国民こくみん政府せいふたいトセズ」をっていただきたい」と和平わへいへの努力どりょく要望ようぼうし、宇垣うがきもそれに賛意さんいしめした。

あなさち

外相がいしょう就任しゅうにんした宇垣うがきは、早々そうそう近衛このえ声明せいめいさい検討けんとう表明ひょうめいし、ちゅうにち英国えいこく大使たいしロバート・クレイギーちゅうはな英国えいこく大使たいしアーチボルド・クラーク・カー英語えいごばんなどをかいし、中村なかむら豊一とよかず香港ほんこん総領事そうりょうじつうじてあなさち国民こくみん政府せいふ行政ぎょうせい院長いんちょうあな秘書ひしょたかし輔三らと極秘ごくひ接触せっしょくし、蔣介せき政権せいけんがわからの現実げんじつてき和平わへい条件じょうけんしに成功せいこうした。しかし、これら宇垣うがきによる工作こうさくは、陸軍りくぐん出先でさき石原いしはらけいをのぞく陸軍りくぐん革新かくしんつよ反対はんたいけた[1]。また、近衛このえ首相しゅしょう蔣介せき下野げやなど和平わへい条件じょうけんげの姿勢しせいせ、だいいち近衛このえ声明せいめい維持いじされた。出先でさき陸軍りくぐん北京ぺきん当時とうじ北平きたひら)や南京なんきんたいにち協力きょうりょく政権せいけん樹立じゅりつさせ、6がつには武漢ぶかん作戦さくせん広東かんとん作戦さくせん発令はつれいして戦線せんせん拡大かくだいしており、国内こくないでは、興亜こうあいん設置せっちはたらきかけ、たいちゅう外交がいこう主導しゅどうけん外務省がいむしょうからうばうことを画策かくさく近衛このえ首相しゅしょうもこれに賛成さんせいした[1]。こうして、近衛このえ首相しゅしょうからも梯子はしごはずされたかたちとなり、1938ねん9がつ宇垣うがき外相がいしょう辞任じにんした。宇垣うがきいししゃに「事変じへん解決かいけつを、自分じぶんまかせるといっておきながら、いまいたってわたし権限けんげんぐような近衛このえないかくまりないのだ」とかたったという。 いししゃいの太郎たろうもまた宇垣うがき大臣だいじん輔弼ほひつ不充分ふじゅうぶんであったせめかんじ、東亜とうあ局長きょくちょう辞任じにんした。なお、宇垣うがき在任ざいにんちゅう発生はっせいしたソビエト連邦れんぽうとの国境こっきょう紛争ふんそうちょうほう事件じけん)を外交がいこう交渉こうしょうによって停戦ていせんさせている。

評価ひょうか

[編集へんしゅう]

宇垣うがき外相がいしょう在任ざいにんちゅうには、うしじょう信彦のぶひこらいわゆる「革新かくしん」(にちどくさんこく同盟どうめい推進すいしん)とされる若手わかて外交がいこうかん宇垣うがきたく訪問ほうもんしてたいちゅう強硬きょうこうろんとなえ、「革新かくしんのリーダー白鳥しらとり敏夫としお次官じかん就任しゅうにんに」とうったえて連判れんばんじょうをたたきつける「事件じけん」も発生はっせいしているが、外務省がいむしょうないのこうした路線ろせん対立たいりつ宇垣うがき指導しどうりょく発揮はっき困難こんなんなものにしていたとかんがえられる[4]。また、上述じょうじゅつのように宇垣うがきは、首相しゅしょう外務省がいむしょうからのサポートが充分じゅうぶんにないなかで、工作こうさく成果せいかもあげられないまま辞任じにんいたったが、目下もっか課題かだい実務じつむてき処理しょりする姿勢しせい堅実けんじつなものであったと評価ひょうかされている。

大杉おおすぎ一雄かずおは、宇垣うがき国民こくみん政府せいふからした条件じょうけん日米にちべい交渉こうしょうくらべてはるかに有利ゆうりなものであるのはもちろん、交渉こうしょうルートが確実かくじつ国民こくみん政府せいふ中枢ちゅうすうつうじた「すじい」ものであったこと、相互そうご信頼しんらい関係かんけい存在そんざいなどから、その様々さまざまかたちおこなわれたにちちゅう和平わへいこころみのなかでももっと実現じつげんせいたか貴重きちょうなものであったとの評価ひょうかくだしている[5]大杉おおすぎ自身じしんはまた、このように宇垣うがき外交がいこうたか評価ひょうかするがゆえに、途中とちゅう外務がいむ大臣だいじんしょくしたことを「無責任むせきにん」ときびしく批判ひはんするとともに、真意しんいのはっきりしない突然とつぜん外相がいしょう辞任じにんを「昭和しょうわなぞ」のひとつとしている[5]

満州まんしゅう事変じへん以来いらい日本にっぽん外交がいこうきびしく批判ひはんしていた外交がいこう評論ひょうろん清沢きよさわきよし宇垣うがき外交がいこうたか評価ひょうかしており、「日本にっぽん久々ひさびさ外交がいこうった。外交がいこうかんではない人物じんぶつによって」とひょうしている[6]

われるべきは近衛このえ文麿ふみまろ姿勢しせいであるが、宇垣うがき工作こうさくとは別個べっこに、蔣介せき国民こくみん政府せいふのナンバー2であるひろしちょうめいとのあいだ極秘ごくひうら工作こうさくひろしちょうめい工作こうさく)がすすんでいたことも、その言動げんどう振幅しんぷくおおきな影響えいきょうをあたえたものとかんがえられる[1]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ ドイツにちちゅう和平わへいけた斡旋あっせんをおこなったトラウトマン工作こうさくにおいて、1937ねん12月13にち、その斡旋あっせんあん審議しんぎすべくそう連絡れんらく会議かいぎひらかれたが、かく大臣だいじんからは日本にっぽん戦況せんきょう有利ゆうり背景はいけいに、和平わへい条件じょうけん加重かじゅうする発言はつげん相次あいつぎ、その結果けっか中国ちゅうごくがわ到底とうていめないようなきびしい案文あんぶんになった。そのにいた外務省がいむしょういししゃいの太郎たろう東亜とうあ局長きょくちょう発言はつげんけんがなかったにもかかわらず、あまりのことに「かくのごとく条件じょうけん加重かじゅうされるのでは、中国ちゅうごくがわ到底とうてい和平わへいおうじないであろう」と発言はつげんしたものの黙殺もくさつされた。絶望ぜつぼうしたいししゃは、当日とうじつ日記にっきに「こうなれば案文あんぶんなどどうでもよし。日本にっぽんしょまでって、づまらねば駄目だめ見切みきりをつける」としるした。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]