いししゃいの太郎たろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
いししゃいの太郎たろう

いししゃ いの太郎たろう(いしい いたろう、1887ねん2がつ6にち - 1954ねん2がつ8にち)は、日本にっぽん外交がいこうかん

にちちゅう戦争せんそう初期しょき外務省がいむしょう東亜とうあ局長きょくちょうつとめた。戦争せんそう拡大かくだいはし軍部ぐんぶ抵抗ていこうし、にちちゅう和平わへいこころみたことでられる。外務省がいむしょう東亜とうあ局長きょくちょう(海外かいがい外務省がいむしょうでは、次官補じかんほクラス、のちだい東亜とうあしょう)、ちゅうタイ特命とくめい全権ぜんけん大使たいしちゅうブラジル特命とくめい全権ぜんけん大使たいしちゅうビルマ特命とくめい全権ぜんけん大使たいし歴任れきにん

外務省がいむしょう入省にゅうしょうまで[編集へんしゅう]

1887ねん福島ふくしまけん西白河にししらかわぐん川崎かわさきむらいししゃ文五郎ぶんごろう長男ちょうなんとしてまれた。福島ふくしま中学ちゅうがく(げん福島ふくしま県立けんりつ福島ふくしま高等こうとう学校がっこう)をて、1908ねん東亜とうあどう文書ぶんしょいん卒業そつぎょうまんてつ入社にゅうしゃ。そのちちいししゃ文五郎ぶんごろう[1]仕事しごと手伝てつだうべく退社たいしゃしたが、ちち事業じぎょう失敗しっぱい失業しつぎょう岳父がくふ福島ふくしまけん山白石やましらいしむら農家のうか多額たがく納税のうぜいしゃ[2])から生活せいかつ援助えんじょけながら外交がいこうかん領事りょうじかん試験しけん勉強べんきょうはげみ、2かい挑戦ちょうせん合格ごうかくした。入省にゅうしょう同期どうきなかには沢田さわだれんさん二見ふたみ甚郷富井とみいあまね富井とみい政章まさあき長男ちょうなん)などがいる。

最初さいしょ中国ちゅうごく勤務きんむ[編集へんしゅう]

1915ねん外務省がいむしょう入省にゅうしょう1916ねん領事りょうじかんとして広東かんとん赴任ふにんしたが、まもなく原因げんいん不明ふめい高熱こうねつくるしみ、静養せいようのため帰国きこくした。静養せいようさき磯部いそべ温泉おんせんで、のち陸軍りくぐんない不拡大ふかくだい中心ちゅうしん人物じんぶつとしてられるようになる柴山しばやまけんよんろう知遇ちぐうる。

病気びょうき回復かいふく同年どうねんくれには天津てんしん在勤ざいきんいのちけて赴任ふにん総領事そうりょうじ代理だいりとして領事りょうじ裁判さいばんあたり、居留民きょりゅうみんあいだ訴訟そしょう刑事けいじ事件じけんさばいた。天津てんしん時代じだい物価ぶっか高騰こうとう家族かぞく病気びょうきなどで大変たいへん窮乏きゅうぼうし、離任りにんには3000ドルの借金しゃっきんかかえたが、どう文書ぶんしょいん先輩せんぱい援助えんじょ借金しゃっきん解決かいけつすることができたという。

べいえいとう在勤ざいきん[編集へんしゅう]

1918ねんには、サンフランシスコ在勤ざいきんつづいて1920ねんにはワシントン駐米ちゅうべい大使館たいしかんさんとう書記官しょきかんとなった。当時とうじ特命とくめい全権ぜんけん大使たいしぬさはら喜重郎きじゅうろう館員かんいんには佐分利さぶり貞男さだお広田ひろた弘毅こうき山本やまもと五十六いそろく亀井かめい貫一かんいちろうひとしがいた。

1922ねん10月にはちゅうメキシコ公使館こうしかん転任てんにんした。

1924ねん6がつにはふたた本省ほんしょう勤務きんむ移民いみん業務ぎょうむ在外ざいがい居留きょりゅう邦人ほうじん保護ほごとうつかさど通商つうしょうきょくだいさん勤務きんむとなったが名義めいぎじょうのもので、実際じっさい佐分利さぶり貞男さだお通商つうしょう局長きょくちょう直属ちょくぞく局長きょくちょうしつ勤務きんむとなる。最大さいだい業務ぎょうむ同年どうねん米国べいこく成立せいりつした排日はいにち移民いみんほうへの対処たいしょであり、駐米ちゅうべい勤務きんむより移民いみん業務ぎょうむ従事じゅうじしていししゃ当時とうじ政府せいふ意図いとについて「移民いみん一人ひとりでもおおアメリカおくろうという気持きもちは政府せいふにいささかもなく」とべ、米国べいこくがわが「かりとしひゃくはちじゅう余人よにん歩合ぶあいをそのままかして、日本にっぽん移民いみんみとめたとしても…人口じんこう構成こうせい何等なんら脅威きょういとなるものではない。それをしも一気いっきすというのは、国際こくさい情誼じょうぎ無視むしするもので、遺憾いかんせんまん立法りっぽう」であり、「従来じゅうらいより厳重げんじゅう日本にっぽん政府せいふ自制じせいまかせるという形式けいしき日本にっぽんがわ面子めんつててくれさえすれば、移民いみんなどは一人ひとり渡米とべいさせずとも、政府せいふ世論せろん納得なっとくするのであった」と回想かいそうしている[3]

1925ねんには赤松あかまつ祐之ひろゆき後任こうにんとして佐分利さぶり局長きょくちょうわれ通商つうしょうきょくだいさん課長かちょうとなり[4]ブラジルをはじめとした中南米ちゅうなんべい諸国しょこくへの移民いみん業務ぎょうむ海外かいがいへの旅券りょけん発給はっきゅう業務ぎょうむ担当たんとうした。

1927ねんちゅうえい大使館たいしかん一等いっとう書記官しょきかんにんぜられ、ロンドン勤務きんむとなる。この時期じきは「将棋しょうぎとゴルフ」を趣味しゅみとしていたという。

ふたた中国ちゅうごく[編集へんしゅう]

1929ねんにはざい上海しゃんはい総領事そうりょうじめいじられ、ふたた中国ちゅうごく勤務きんむく。直後ちょくごぬさはら喜重郎きじゅうろう外務がいむ大臣だいじん意向いこうによりざいよしりん総領事そうりょうじとなった。1931ねん満州まんしゅう事変じへんでは、吉林きつりんしょう政府せいふ日本にっぽんぐんだい師団しだん仲介ちゅうかいうごき、吉林きつりんへの平和へいわ進駐しんちゅう貢献こうけんしたという。

いししゃ満州まんしゅうこく建国けんこく批判ひはんし「ひがし三省みつよし中国ちゅうごく民衆みんしゅう一人ひとりだって、独立どくりつ希望きぼうしたものがあったろうか」とかんがえていたが、リットン調査ちょうさだん調査ちょうさたいしては、立場たちばじょうってつかえない真実しんじつだけ」をつたえるにとどめざるをえなかった。

1932ねんには上海しゃんはい総領事そうりょうじ任命にんめいされた。国際こくさい都市とし上海しゃんはい平和へいわたもつことが自分じぶん使命しめいであるとかんがえ、赴任ふにん上海しゃんはいだけはいかなる場合ばあいにも無風むふう状態じょうたいくのがわたし抱負ほうふだ」と新聞しんぶん記者きしゃかたったという。

東亜とうあ局長きょくちょう時代じだい[編集へんしゅう]

その1936ねんちゅうシャム(タイ)大使たいして、1937ねん3月、外務省がいむしょう東亜とうあ局長きょくちょう抜擢ばってきされる。

盧溝橋ろこうきょう事件じけんでは不拡大ふかくだい方針ほうしんつよ主張しゅちょうし、広田ひろた弘毅こうき外相がいしょうつうじて軍部ぐんぶ主張しゅちょうするさん師団しだん動員どういん阻止そししようとしたが、7がつ11にちさん師団しだん動員どういんあん閣議かくぎ決定けっていされた。いししゃ上村うえむら伸一しんいち東亜とうあいち課長かちょうとともに辞表じひょう提出ていしゅつしようとしたが、広田ひろた慰留いりゅうされた。

いししゃはなおも拡大かくだい阻止そしうごき、陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむ課長かちょう柴山しばやまけんよんろう大佐たいさとも協力きょうりょくして和平わへいへのみちさぐったが、ろうぼう事件じけん広安ひろやすもん事件じけん発生はっせいたせず、にちちゅう全面ぜんめん衝突しょうとつすることとなった。

いししゃによると、7がつ29にち昭和しょうわ天皇てんのうから近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうに「もうこのあたり外交がいこう交渉こうしょうにより問題もんだい解決かいけつしてはどうか」との言葉ことばがあったという。これにちから和平わへいは、船津ふなつ辰一郎たついちろう上海しゃんはい派遣はけんしてこう宗武むねたけしゅうちょう会見かいけんさせ、停戦ていせん交渉こうしょうへのみちひらこうとしたが、だい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつにより工作こうさく頓挫とんざした[5]

11月には、ドイツにちちゅう和平わへいけた斡旋あっせんおこなった(トラウトマン工作こうさく)。12月13にちには、その斡旋あっせんあん審議しんぎすべくそう連絡れんらく会議かいぎひらかれ、いししゃ会議かいぎ出席しゅっせきした。かく大臣だいじんからは日本にっぽん戦況せんきょう有利ゆうり背景はいけいに、和平わへい条件じょうけん加重かじゅうする発言はつげん相次あいついだ結果けっか中国ちゅうごくがわ到底とうていめないようなきびしい案文あんぶんになった。

いししゃ発言はつげんけんのない立場たちばにもかかわらず、おもわず「かくのごとく条件じょうけん加重かじゅうされるのでは、中国ちゅうごくがわ到底とうてい和平わへいおうじないであろう」と発言はつげんしたが無視むしされた。絶望ぜつぼうしたいししゃは、当日とうじつ日記にっきに「こうなれば案文あんぶんなどどうでもよし。日本にっぽんしょまでって、づまらねば駄目だめ見切みきりをつける」としるしている。

1938ねん5がつには、広田ひろたにかわり、宇垣うがき一成いっせい陸軍りくぐん大将たいしょう外相がいしょう就任しゅうにんした。いししゃ就任しゅうにんまもない宇垣うがきに「なにとぞ大臣だいじんのおちからで「国民こくみん政府せいふ相手あいてとせず」をっていただきたい」と和平わへいへの努力どりょく要望ようぼうし、宇垣うがき賛意さんいしめしたという。外相がいしょう就任しゅうにんした宇垣うがきは、早々そうそう近衛このえ声明せいめいさい検討けんとう表明ひょうめいし、ちゅうにち英国えいこく大使たいしロバート・クレイギーちゅうはな英国えいこく大使たいしアーチボルド・クラーク・カー英語えいごばんなどをかいし、中村なかむら豊一とよかず香港ほんこん総領事そうりょうじつうじてあなさち国民こくみん政府せいふ行政ぎょうせい院長いんちょうあな秘書ひしょたかし輔三らと極秘ごくひ接触せっしょくし、蔣介せき政権せいけんがわからの現実げんじつてき和平わへい条件じょうけんしに成功せいこうした(宇垣うがき工作こうさく)。しかし、これら宇垣うがきによる工作こうさくは、陸軍りくぐん出先でさき石原いしはらけいをのぞく陸軍りくぐん革新かくしんつよ反対はんたいけた[6]宇垣うがき結局けっきょく興亜こうあいん問題もんだいをきっかけに辞任じにんした。宇垣うがきいししゃに「事変じへん解決かいけつを、自分じぶんまかせるといっておきながら、いまいたってわたし権限けんげんぐような近衛このえないかくまりないのだ」とかたったという。いししゃ大臣だいじん輔弼ほひつ不充分ふじゅうぶんであったせめかんじ、東亜とうあ局長きょくちょう辞任じにんした。

大戦たいせん終戦しゅうせんまで[編集へんしゅう]

1938ねん11月にはちゅうオランダ公使こうし転任てんにんつづいて1940ねん10月にはちゅうブラジル大使たいしとなった。1941ねん12月のにちえい日米にちべい開戦かいせんはブラジルの首都しゅとであるリオ・デ・ジャネイロむかえることとなった。日本にっぽん敵対てきたい関係かんけいになかったブラジルは当初とうしょ態度たいど保留ほりゅうしたため、いししゃ日本にっぽん同盟どうめいこくであるドイツイタリアりょう大使たいしとともにブラジルのたい枢軸すうじくこく参戦さんせん阻止そしすべく各種かくしゅ工作こうさくおこなったものの、ブラジルは1942ねん1がつにアメリカやイギリスからの政治せいじてき圧力あつりょくけて、日本にっぽんとドイツ、イタリアとの国交こっこう断絶だんぜつしその交戦こうせん状態じょうたいはいった。

いししゃ帰国きこくまでのあいだざいブラジル日本人にっぽんじん帰国きこくけた準備じゅんびおよ保護ほご活動かつどうなどを中心ちゅうしんにおこなったが、ブラジル当局とうきょく日本にっぽん政府せいふによるちゅうにちブラジル大使館たいしかんいんへの冷遇れいぐう対抗たいこう同様どうよう措置そちおこなったことから、いししゃらは1にち1あいだ監視かんし以外いがい外出がいしゅつきんじられ事実じじつじょう監禁かんきん生活せいかつおくることとなる。しかし、日本にっぽん当局とうきょくちゅうにちブラジル大使館たいしかんいんたいする待遇たいぐう軟化なんかさせたことをけて3がつ監禁かんきんかれ、8がつ戦時せんじ交換こうかんせん帰国きこくした。

えいべいとの開戦かいせん日本にっぽんおおくのくに国交こっこう断絶だんぜつしたため、大勢おおぜい待命たいめい外交がいこうかんしょうじることとなった。 1942ねん12月、これらの待命たいめい外交がいこうかんあつめるかたち外務がいむ省内しょうない戦時せんじ調査ちょうさしつ設置せっちされ、いししゃ帰国きこくにその主宰しゅさい引受ひきうけることとなった[7]

戦争せんそう帰趨きすうえてきた1944ねん8がつ突然とつぜんちゅうビルマ大使たいしめいじられる。当時とうじイギリスやアメリカ、オーストラリアなどの連合れんごうこくたいして日本にっぽん劣勢れっせいてんじていたことから、「無事ぶじかえれまい」ことを覚悟かくご赴任ふにん1945ねん8がつ終戦しゅうせんはビルマでむかえることとなった。いししゃ当時とうじ国家こっか代表だいひょう日本にっぽん協力きょうりょくてきであったバー・モウともない、逃避行とうひこうのあと、ビルマの隣国りんごく当時とうじ日本にっぽん敵対てきたい関係かんけいにあったタイ脱出だっしゅつし、そこでタイと同盟どうめい関係かんけいにあったイギリスぐん拘留こうりゅうされたが、1946ねん7がつにようやく帰国きこくたした。

帰国きこくの8がつ7にち外務省がいむしょう辞表じひょう提出ていしゅつ外交がいこうかん生活せいかつ終焉しゅうえんした。どう28にちにはちゅうビルマ大使たいしという要職ようしょくにあったことを理由りゆうGHQから公職こうしょく追放ついほうけた[8]いししゃ長男ちょうなん周蔵しゅうぞうによると「そもそもは戦後せんご公職こうしょく追放ついほう解除かいじょ訴願そがんのために自己じこ過去かこ経歴けいれきはじめたものであった」とされる回想かいそうろく外交がいこうかん一生いっしょう』を執筆しっぴつした[9]。なお東京とうきょう裁判さいばんには、弁護べんごがわ証人しょうにん出廷しゅっていしている。晩年ばんねんは、東京とうきょうきた西ヶ原にしがはらよん丁目ちょうめ自邸じていおだやかにごした。

その[編集へんしゅう]

いししゃくんとう受章じゅしょうしているが、省内しょうないには「年功ねんこうによる定期ていき叙勲じょくん」には「冷淡れいたん雰囲気ふんいき」があり、いししゃもかねてから軍人ぐんじん有利ゆうり叙勲じょくん制度せいど批判ひはんてきであったことから、「こうした連中れんちゅう軍人ぐんじん)とともにこうろんぜられるのをいさぎよしとしないが、どうにもならぬ。…わたしは、勲章くんしょうなるものに愛想あいそをつかしていたのであった」とのこしている。

昭和しょうわ天皇てんのうたいしては、「平和へいわ主義しゅぎしゃであった」とたか評価ひょうかし、みじか会見かいけん時間じかんにも「天皇てんのう円満えんまんなる人格じんかくかんた」などと自著じちょべている。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 福島ふくしまけん だい22かん (各論かくろんへん 8 人物じんぶつ)』福島ふくしまけん、1972ねん、57ぺーじ
  2. ^ 松浦まつうらいさむわたる (男性だんせい)人事じんじ興信録こうしんろくだい4はん [大正たいしょう4(1915)ねん1がつ]
  3. ^ いししゃいの太郎たろう外交がいこうかん一生いっしょう中公ちゅうこう文庫ぶんこ 1986ねん新版しんぱん2007ねん、p.142、143
  4. ^ いし、1986ねん、p.146、147
  5. ^ 戸部とべ(2018)pp.53-55
  6. ^ 有馬ありま(2002)pp.218-222
  7. ^ 省内しょうない戦時せんじ調査ちょうさしつ設置せっち昭和しょうわ17ねん12月2にち 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん夕刊ゆうかん))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p43 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  8. ^ 公職こうしょく追放ついほう該当がいとう事項じこうは「ビルマちゅう剳特いのち全権ぜんけん大使たいし」。(総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん172ぺーじNDLJP:1276156 
  9. ^ 伊藤いとうたかし解説かいせついししゃいの太郎たろう外交がいこうかん一生いっしょう中公ちゅうこう文庫ぶんこ初版しょはん1986ねん11月、510ぺーじ
  10. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち

刊行かんこう著作ちょさく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • いししゃいの太郎たろう外交がいこうかん一生いっしょう中公ちゅうこう文庫ぶんこ伊藤いとうたかし解説かいせつ)、1986ねん
    ほんこう記述きじゅつは、ほぼ同書どうしょ依拠いきょ電子でんし書籍しょせき上記じょうき新版しんぱん、およびKindleばんひびきりんしゃ文庫ぶんこ、2022ねん)でも再刊さいかん
  • 有馬ありままなぶ日本にっぽん歴史れきし23 帝国ていこく昭和しょうわ講談社こうだんしゃ、2002ねん10がつISBN 4-06-268923-5 
  • 戸部とべ良一りょういちにちちゅう戦争せんそう発端ほったん」『決定けっていばん ちゅう戦争せんそう新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう新書しんしょ〉、2018ねん11月。ISBN 4-10-610788-0 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
森島もりしま守人もりと
外務省がいむしょう東亜とうあ局長きょくちょう
1937ねん - 1938ねん
次代じだい
栗原くりはらただし