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なんはしらこく工作こうさく

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なんはしらこく

なんはしらこく工作こうさく(かちゅうこくこうさく)とは、にちちゅう戦争せんそう末期まっき1945ねん昭和しょうわ20ねんみんこく34ねん)4がつ以降いこうおこなわれた、なんはしらこく中国語ちゅうごくごばんによるにちちゅう戦争せんそう和平わへい工作こうさく[1]

経緯けいい

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小磯こいそ内閣ないかく退陣たいじんして鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく成立せいりつしてあいだもない1945ねん4がつ20日はつか大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんは、たいべいたい戦備せんびじょうあらためてにちちゅう戦争せんそう(シナ事変じへん)の収束しゅうそくはかるべくたい重慶たーちん蔣介せき政権せいけん)およびたいのべやす中国共産党ちゅうごくきょうさんとう工作こうさく準備じゅんびととのえた[1]。この時点じてんにおいては、すでに戦況せんきょう最終さいしゅう局面きょくめんたっしたとの判断はんだんから、南京なんきん国民こくみん政府せいふひろしちょうめい自身じしん前年ぜんねん11がつ名古屋なごや病死びょうし)の存在そんざいにとらわれずささえ派遣はけんぐんそう司令しれいかん独自どくじ行動こうどうみとめることとし、これを内閣ないかく総理そうり大臣だいじん陸軍りくぐん大臣だいじん海軍かいぐん大臣だいじん外務がいむ大臣だいじんによる4そう会議かいぎ了承りょうしょうし、陸相りくしょう責任せきにんにおいて実施じっしにうつすこととしたのである[1]。これにたいするそうぐん回答かいとうは「万難ばんなんはいして実行じっこうする」というもので、担当たんとうしゃえらばれたのはそうぐん参謀さんぼう副長ふくちょう今井いまい武夫たけおであった[1]

重慶たーちんぐんなんはしらこくじょうはた中国ちゅうごくだい10せんふく司令しれい長官ちょうかんけんだい15集団しゅうだんぐん司令しれいかん)の特使とくし連絡れんらくをとりつつあった今井いまい少将しょうしょうは、大本営だいほんえいたい重慶たーちん工作こうさく承認しょうにんとともに7がつ上旬じょうじゅん南京なんきん出発しゅっぱつし、中国ちゅうごくせん区内くない秘密裏ひみつり移動いどうして安徽あんきしょうさかいちか河南かなんしょう沈邱なに将軍しょうぐん会見かいけんをもった[1][2]

しかし、なんはしらこく司令しれいかんカイロ宣言せんげん1943ねん12月)のはっせられた現下げんかにおいてはにちちゅうあいだ単独たんどく和平わへいはありえないとして、これを拒否きょひした[1][2][注釈ちゅうしゃく 1]。ただし、中国ちゅうごくとしてはまんいち日本にっぽん要請ようせいがあるならば、日本にっぽん和平わへい提案ていあん連合れんごうこくがわぐことはできるとべ、日本にっぽんまんしゅう朝鮮ちょうせん台湾たいわん樺太からふと放棄ほうきしなければならないむね意見いけんつたえたという[1]南京なんきんもどった今井いまいそうぐん司令しれいかん岡村おかむらやすし事後じご報告ほうこくをしたうえ、大本営だいほんえいにも書面しょめん通告つうこくしたが大本営だいほんえいからの返答へんとうせられなかった[1]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ カイロ宣言せんげんについては、台湾たいわん独立どくりつ運動うんどう立場たちばから、その法的ほうてき有効ゆうこうせいをまったくみとめないというこえがっている[3]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 松崎まつざき昭一しょういちだい6しょう ちゅう和平わへい工作こうさく軍部ぐんぶ」『大陸たいりく侵攻しんこう戦時せんじ体制たいせい第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん昭和しょうわ軍部ぐんぶ政治せいじ2〉、1983ねん8がつ 
  • 産経新聞さんけいしんぶんしゃ へん『あの戦争せんそう 太平洋戦争たいへいようせんそうぜん記録きろく 集英社しゅうえいしゃ、2001ねん10がつISBN 4-8342-5057-1 

関連かんれん項目こうもく

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