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綏遠事件じけん

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綏遠事件じけん
戦争せんそうないこうむ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1936ねん9月-11月
場所ばしょうちモンゴル(中華民国ちゅうかみんこく綏遠しょう)
結果けっか中華民国ちゅうかみんこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
うちこうむふる勢力せいりょく
関東軍かんとうぐん
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
徳王とくおう
おうすぐる
まもるしん
でんつくるよし
戦力せんりょく
18,000
損害そんがい
7000

綏遠事件じけん(すいえんじけん)は、1936ねんすえ徳王とくおう麾下きかうちこうむぐんまもるしんおうすぐるなどの部隊ぶたい関東軍かんとうぐん後援こうえんをたのんで綏遠しょう進出しんしゅつし、同省どうしょう主席しゅせきでんつくるよしぐん撃退げきたいされた事件じけん中国ちゅうごくがわでは綏東事件じけんともわれる。

概要がいよう

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うちこうむにおける自治じち要求ようきゅうはつとにつよいものであったが、1933ねん7がつひゃく霊廟れいびょう自治じち会議かいぎからくもおう徳王とくおう中心ちゅうしんとする自治じち運動うんどうがめざましくなった。10月のひゃく霊廟れいびょう会議かいぎ、11月の中央ちゅうおう紹雄ちょう丕廉派遣はけんて、翌年よくねん2がつ行政ぎょうせいいん直属ちょくぞくこうむ地方ちほう自治じち政務せいむ委員いいんかいこうむせいかい)をもうけて、なにおう指導しどう長官ちょうかんとし、くもおう徳王とくおうなどを委員いいんとした。

西北せいほく問題もんだいうちこうむ問題もんだい発展はってんすると、国民こくみん政府せいふはこれにやすんじることなどなく、1936ねん1がつ、綏遠しょう境内けいだいこうむかくめいはた政務せいむ委員いいんかい(綏境こうむせいかい)をもうけ、閻錫やま指導しどう長官ちょうかんとし、でんつくるよし監督かんとくしたすなおう以下いか委員いいん任命にんめいし、中央ちゅうおうてき色彩しきさいくした。これをもって勢力せいりょく二分にぶんされた。

1935ねん12月、しょう主席しゅせき代理だいりとの折衝せっしょうたからあきら、沽源、ちょうきたなど6けんうちこうむ保安ほあんたい守備しゅびとすることにきまったため、同地どうちまもるしん進出しんしゅつしていたが、徳王とくおう察哈なんじしょううちにいた。

1936ねん昭和しょうわ11ねん)5がつ12にち徳化とっかこうむぐん政府せいふ成立せいりつ主席しゅせきくもおう総裁そうさいこうむぐんそう司令しれい徳王とくおう

1936ねんなつ以来いらい事態じたいはようやくじゅくし、しょう衝突しょうとつもあった。

かくして11月、綏東一帯いったい戦禍せんか拡大かくだいした。まず9にちうちこうむぐんは綏遠しょう侵入しんにゅうする。また当時とうじにちちゅうあいだ懸案けんあん山積さんせきされ、中央ちゅうおうでは川越かわごえちょうぐん会談かいだんおこなわれており、13にち中国ちゅうごくがわはこの事件じけん背後はいご日本にっぽんぐんがあるとして、態度たいど俄然がぜん硬化こうかさせ、にちちゅう交渉こうしょう逆転ぎゃくてんした。実際じっさいうちこうむぐんは、日本にっぽんせい武器ぶき使用しようし、小濱おばまぜん予備よびやく大佐たいさ以下いかじゅうすうにん日本人にっぽんじんも、顧問こもん名義めいぎ従軍じゅうぐんしており、田中たなか隆吉りゅうきち中佐ちゅうさ現地げんち直接ちょくせつ作戦さくせん指導しどうした[1]

一方いっぽう、15にち以来いらいないこうむぐんおうすぐる麾下きか騎兵きへいは「だいかん義勇軍ぎゆうぐん英語えいごばん」としょうし、「東亜とうあより共産党きょうさんとう国民党こくみんとう駆逐くちくすべし」との出師すいしひょう発表はっぴょうした。

17にち徳王とくおうもすでに1週間しゅうかんまえ蹶起けっきしていたことが判明はんめいし、その防共ぼうきょうせんであるとの宣言せんげんなどにより、事態じたいはいよいよ明白めいはくとなった。中国ちゅうごくがわではにせ匪と命名めいめいし、また故意こい川越かわごえちょうぐん会談かいだん遷延せんえんしたのである。

19にちころ戦線せんせんは、興和こうわとうりん武川たけかわかたとうはらと250マイルにび、おのおの本拠ほんきょひゃく霊廟れいびょう平地ひらちいずみいた。

うちこうむぐん先頭せんとう部隊ぶたいおう英軍えいぐんは11月中旬ちゅうじゅん関東軍かんとうぐん飛行ひこうたい支援しえんした攻撃こうげき開始かいししたが、綏遠ぐん逆襲ぎゃくしゅうけて、綏遠ぐんひゃく霊廟れいびょう占領せんりょうされた。徳王とくおうやく4000の金甲山きんこうざん部隊ぶたいをもって12月3にちからひゃくびょうれい南方なんぽうの綏遠ぐん攻撃こうげきしたが、敗退はいたいした。うちこうむぐん撃破げきはした綏遠ぐんは12月10にちにはシラムリン占領せんりょうした。この敗戦はいせんちゅううちこうむぐん一部いちぶ反乱はんらんこし、軍事ぐんじ顧問こもん小濱おばま大佐たいさ以下いか射殺しゃさつして綏遠ぐん投降とうこうしたため、うちこうむぐん壊滅かいめつてき大敗たいはいきっし、ふたた余力よりょくもなかった[1]

11月21にち日本にっぽん外務省がいむしょうからほん事件じけん中国ちゅうごく内政ないせい問題もんだいであり帝国ていこく関知かんちせずとの非公式ひこうしき宣言せんげんをなした。一方いっぽう27にち関東軍かんとうぐん防共ぼうきょう立場たちばからだいなる関心かんしんゆう事態じたい波及はきゅう場合ばあい決意けつい当局とうきょくだんをもって発表はっぴょうじゅう外交がいこうていした。

満州まんしゅうこく関東軍かんとうぐんしたがった。

ひゃく霊廟れいびょう占拠せんきょ問題もんだいのちだいななじゅう議会ぎかいにおいて問題もんだいとなった。

中国ちゅうごくではこれよりさき抗日こうにち運動うんどうさかんで、ときあたかも日本にっぽんざいはな紡のストライキちゅうであったため、全国ぜんこくてき献金けんきん運動うんどう恤兵じゅっぺい運動うんどうをおこし、でんさくひゃく霊廟れいびょうはおおきく顕揚けんようされ、日本にっぽんぐんおそれるるにらずとおもわれた。国民こくみん政府せいふひゃく霊廟れいびょう占拠せんきょののち強硬きょうこうにも川越かわごえちょうぐん会談かいだんちゅう根本こんぽん要求ようきゅう一蹴いっしゅうし、ざいはな日本にっぽん紡績ぼうせきストライキを厳重げんじゅう取締とりしまりにちどく防共ぼうきょう協定きょうていたいして防共ぼうきょう内政ないせいてき問題もんだいであるとことさらに主張しゅちょうした。事変じへんひゃく霊廟れいびょううちこうむぐん奪還だっかんされ、ここに親日しんにち防共ぼうきょうこうむ地区ちくあたらしく誕生たんじょうした。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 今井いまい武夫たけおささえ事変じへん回想かいそう』・『にちちゅう和平わへい工作こうさく 回想かいそう証言しょうげん 1937-1947』

関連かんれん項目こうもく

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