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だん作戦さくせん

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だん作戦さくせん

太平洋戦争たいへいようせんそう当時とうじビルマ現在げんざいミャンマー)の地理ちり
戦争せんそうビルマのたたかにちちゅう戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう
年月日ねんがっぴ1944ねん9月3にち 〜 1945ねん2がつ10日とおか
場所ばしょ中国ちゅうごく雲南うんなんしょう、ビルマ
結果けっか連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく 中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
本多ほんだ政材まさき まもるたて
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・スティルウェル
戦力せんりょく
2師団しだん 15師団しだん
ビルマのたたか

だん作戦さくせん(だんさくせん)とは、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう、ビルマ北部ほくぶ雲南うんなん方面ほうめんにおいて、中国ちゅうごく国民党こくみんとうへの物資ぶっし援助えんじょルート(ビルマ・ルート)を遮断しゃだんつづけることを目的もくてきとした日本にっぽん陸軍りくぐん作戦さくせん。なお、本稿ほんこうでは、だん作戦さくせん先立さきだ中国ちゅうごくぐん雲南うんなん遠征えんせいぐん反攻はんこう撃砕げきさい作戦さくせんについてもべる。

中国ちゅうごくぐん雲南うんなん遠征えんせいぐん反攻はんこう開始かいし[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくぐんらいおさむ[編集へんしゅう]

昭和しょうわ17ねんはる日本にっぽんぐんだい15ぐんのビルマ攻略こうりゃく作戦さくせん結果けっか中国ちゅうごくぐんいかこうえてとお雲南うんなん敗退はいたいした。その中国ちゅうごくぐん中国ちゅうごく・ビルマのいずれの戦域せんいきでも決戦けっせんてき攻勢こうせいようとせず、消極しょうきょくてき姿勢しせい終始しゅうしした。これは、直属ちょくぞく兵力へいりょく消耗しょうもうすることにより自身じしん勢力せいりょくうしなうことを極度きょくど警戒けいかいした蒋介石しょうかいせきが、政治せいじてき配慮はいりょにより、えいべい両国りょうこくぐん犠牲ぎせいによって作戦さくせん目的もくてき達成たっせいすることをねらったためだった[1]

しかし、昭和しょうわ19ねん3がつ日本にっぽんぐん開始かいししたインパール作戦さくせんえいしるしぐんがわ有利ゆうり展開てんかいとなったほか、フーコン方面ほうめんでは、スチルウェル中将ちゅうじょうひきいる新編しんぺんだい1ぐん日本にっぽんぐんだい18師団しだん執拗しつよう抵抗ていこう破砕はさいしつつ南下なんかつづけ、一路いちろモガウンせまっていた。また、3がつはじめに北部ほくぶビルマに降下こうかしたウィンゲート旅団りょだんは、北部ほくぶビルマの補給ほきゅう動脈どうみゃくミイトキーナ鉄道てつどう)を寸断すんだんし、かく方面ほうめんゆうげきせん展開てんかいしていた。

このような情勢じょうせい変化へんかと、米国べいこくからつよ要請ようせいけたこともあって、ながらく形勢けいせい観望かんぼう姿勢しせいたもってきた蒋介石しょうかいせきも、ついいかえて反攻はんこうてんずる決意けついかためた。そして、16からなる雲南うんなん遠征えんせいぐん司令しれいかんまもるたてうえすすむ)は、昭和しょうわ19ねん5がつ11にちして、いか西にしいかこう西岸せいがん地区ちくたいして大挙たいきょ反攻はんこう開始かいしした[2]

だい56師団しだん防衛ぼうえい態勢たいせい[編集へんしゅう]

これにたいして、いかこう正面しょうめん防衛ぼうえい担任たんにんする日本にっぽんぐんは、わずかに松山まつやま祐三ゆうぞう中将ちゅうじょうひきいるだい56師団しだん(18,820めい[3])のみだった。どう師団しだん昭和しょうわ17ねん5がつのビルマ攻略こうりゃく作戦さくせん当時とうじ敗走はいそうする中国ちゅうごくぐんっていか西にし地区ちく進出しんしゅつし、それ以来いらいまる2ねんつづどう地区ちくにあってその防衛ぼうえい担当たんとうしてきた。このあいだ師団しだんいか西にし地区ちく侵入しんにゅうする重慶たーちんぐん一部いちぶたいし、数次すうじにわたり果敢かかん掃討そうとうせん反復はんぷくし、その都度つどこのてきいか江東こうとうがん撃退げきたいした。しかし、えいしるしぐんのインパール反攻はんこう作戦さくせん呼応こおうした雲南うんなん遠征えんせいぐん侵攻しんこうは、これまでの小規模しょうきぼ掃討そうとう作戦さくせんことなり、ビルマ防衛ぼうえい死命しめいせいする重大じゅうだい作戦さくせん予想よそうされた[4]

絶対ぜったい優勢ゆうせい遠征えんせいぐん邀撃ようげきするだい56師団しだんにとっては、すくない兵力へいりょく効果こうかてき配置はいちする観点かんてんから、敵情てきじょう事前じぜん諜知し、てきしゅ攻勢こうせい方面ほうめん正確せいかく判断はんだんすることはきわめて重要じゅうようだった。そうしたなかで、昭和しょうわ19ねん2がつ中国ちゅうごくぐん飛行機ひこうき1濃霧のうむのためあがえつ不時着ふじちゃくし、だい56師団しだんしん暗号あんごうしょおよび雲南うんなん遠征えんせいぐん編成へんせい職員しょくいんひょう入手にゅうしゅすることに成功せいこうした。以後いごだい56師団しだん善戦ぜんせんは、師団しだん将兵しょうへい戦場せんじょう地形ちけいしょうしていたことにもよるが、暗号あんごう解読かいどくうところが絶大ぜつだいだった[5]実際じっさいに5がつ初頭しょとう中国ちゅうごくぐん暗号あんごう解読かいどくにより、だい56師団しだん遠征えんせいぐん反攻はんこう開始かいし期日きじつしゅおさむ方面ほうめん事前じぜん把握はあくしており、これにより師団しだん反撃はんげき態勢たいせいととのえることが可能かのうとなった[6]

なお、5がつ中旬ちゅうじゅん時点じてんで、だい56師団しだん戦力せんりょく配属はいぞく部隊ぶたいふく歩兵ほへい6大隊だいたいはん基幹きかんぎなかった。これは、苦戦くせんつづくフーコン方面ほうめんへの増援ぞうえんとミイトキーナ守備しゅびたい強化きょうかのために、逐次ちくじ兵力へいりょく抽出ちゅうしゅつされた結果けっかだった[7]

だいいち反攻はんこう撃砕げきさい作戦さくせん[編集へんしゅう]

5月11にちよる雲南うんなん遠征えんせいぐんだい20集団しゅうだんぐんいか渡河とかし、あがこし方面ほうめんけて反攻はんこう開始かいしした。これにたいしてだい56師団しだんは、だい塘子正面しょうめんぞうじゅう連隊れんたい歩兵ほへいだい148連隊れんたい主力しゅりょく)、冷水れいすいみぞ正面しょうめんにちくま大隊だいたい歩兵ほへいだい148連隊れんたいだい2大隊だいたい))、べにじゅ方面ほうめん松井まつい連隊れんたい歩兵ほへいだい113連隊れんたい主力しゅりょく)、ひら戞方めん安部あべ大隊だいたい歩兵ほへいだい146連隊れんたいだい1大隊だいたい))、ピモー正面しょうめん猪瀬いのせ大隊だいたいだい18師団しだん歩兵ほへいだい114連隊れんたいだい1大隊だいたい))、クンロン正面しょうめん捜索そうさくだい56連隊れんたい)で、それぞれ寡兵かへいよくてき大軍たいぐん撃退げきたいした。遠征えんせいぐんは5月20にちごろからあらためて全面ぜんめん攻撃こうげき再開さいかいしたが、ぞうじゅう連隊れんたい主力しゅりょく松井まつい連隊れんたい主力しゅりょく各地かくち転戦てんせんしててき撃破げきはし、さらにこうかやがい南東なんとうかた地区ちく進出しんしゅつした遠征えんせいぐんだい53ぐん主力しゅりょく南北なんぼくから挟撃きょうげきして、激戦げきせんすえ敗走はいそうさせた。

こうして、遠征えんせいぐんだいいち反攻はんこう失敗しっぱいわった[8]

だい反攻はんこう撃砕げきさい作戦さくせん[編集へんしゅう]

だい11集団しゅうだんぐん攻勢こうせい[編集へんしゅう]

あがえつ方面ほうめんへのだいいち反攻はんこう失敗しっぱいした遠征えんせいぐんは、だい11集団しゅうだんぐん全力ぜんりょくをもって、ひしげはじめ、鎮安がいりゅうりょうすすきとう目標もくひょうとして、6がつ10日とおか一斉いっせいいか渡河とかした。このころだい56師団しだんは、そのほとんど全力ぜんりょくげてだい20集団しゅうだんぐん激戦げきせんちゅうだった。だい11集団しゅうだんぐん攻勢こうせい師団しだん防備ぼうびきょいたかたちとなり、戦局せんきょくはにわかに急迫きゅうはくした。

りゅうりょうには、あがえつ方面ほうめん転用てんようされた荻尾おぎょう大隊だいたい松井まつい連隊れんたいだい3大隊だいたい)の残置ざんちしゃなど合計ごうけいやく300めいがいたにぎなかったが、ここへ遠征えんせいぐんだい71ぐんの2だい87、88)が攻撃こうげき開始かいしした。だい56師団しだんちょう松山まつやま中将ちゅうじょうは、あらたに師団しだん配属はいぞくされた藤木ふじき大隊だいたいだい2師団しだん歩兵ほへいだい29連隊れんたいだい2大隊だいたい)をりゅうりょう急派きゅうはした。りゅうりょうには過去かこ2年間ねんかん防衛ぼうえい期間きかん堅固けんご陣地じんち構築こうちくされていたが、6月12にちから開始かいしされた遠征えんせいぐん空地くうちからのそう攻撃こうげきまえに、寡弱な兵力へいりょく守備しゅびたい陣地じんちだい部分ぶぶん放棄ほうきしつつ戦線せんせん縮小しゅくしょうし、15にちごろには全滅ぜんめつ危機ききひんしていた。

だいいちりゅうりょう攻防こうぼうせん[編集へんしゅう]

こうしたなか、11にちあがえつ出発しゅっぱつし、りゅうりょうかって一路いちろ南下なんかした松井まつい連隊れんたい主力しゅりょくは、雨季うきによる道路どうろのぬかるみや河川かせん増水ぞうすいなやまされつつも、15にち早朝そうちょうからりゅうりょう北方ほっぽうかって突進とっしん開始かいしした。遠征えんせいぐん退却たいきゃくはじめ、松井まつい連隊れんたい主力しゅりょくは17にち10ごろりゅうりょうはいり、守備しゅびたいとの連絡れんらく成功せいこうした。さらに松山まつやま団長だんちょうは、あがえつ方面ほうめんから猪瀬いのせ大隊だいたい宮原みやはら大隊だいたいぞうじゅう連隊れんたいだい3大隊だいたい)、武田たけだ大隊だいたい松井まつい連隊れんたいだい1大隊だいたい)を抽出ちゅうしゅつしてりゅうりょう戦線せんせん転用てんようしたが、この結果けっか歩兵ほへいだい148連隊れんたいちょうぞうじゅう康美やすみ大佐たいさは、寡兵かへいをもってだい20集団しゅうだんぐん主力しゅりょく攻勢こうせいあがえつ陣地じんち拒止きょしすることとなり、以後いごあがえつ守備しゅびたい玉砕ぎょくさいにつながった。

松山まつやま団長だんちょうは、りゅうりょう周辺しゅうへん集結しゅうけつした師団しだん主力しゅりょくをもって遠征えんせいぐんたいして攻勢こうせいることとした。松井まつい連隊れんたい(19にち武田たけだ大隊だいたい復帰ふっきし、隷下れいか3大隊だいたいそろう)は、21にち夜半やはんごろりゅうりょうから前進ぜんしん開始かいしし、23にちよる追加ついか配属はいぞくされた猪瀬いのせ大隊だいたいおくなか部隊ぶたい捜索そうさくだい53連隊れんたい主力しゅりょくおよ野中のなか大隊だいたい歩兵ほへいだい119連隊れんたいだい1大隊だいたい))をあわ指揮しきして北進ほくしんし、だい71ぐん主力しゅりょく攻撃こうげきしたが、まもるたて煌からだい一線いっせん後退こうたい厳禁げんきんされただい71ぐん頑強がんきょう抵抗ていこうし、その逆襲ぎゃくしゅう執拗しつようをきわめた。27にち松山まつやま団長だんちょう松井まつい連隊れんたいに、あがえつ方面ほうめんから抽出ちゅうしゅつした宮原みやはら大隊だいたいぞうじゅう連隊れんたいだい3大隊だいたいおよ藤木ふじき大隊だいたい主力しゅりょく増加ぞうかし、さらに攻撃こうげき続行ぞっこうさせたが、すで戦力せんりょく限界げんかいたっしており、ついに28にち攻撃こうげき中止ちゅうし決意けついした。かく部隊ぶたいは7がつ2にちよる行動こうどう開始かいししてりゅうりょう付近ふきん後退こうたいし、逐次ちくじ兵力へいりょく集結しゅうけつした。

なお、このりゅうりょう付近ふきん戦闘せんとうあいだりゅうりょう北東ほくとう位置いちするひしげはじめ守備しゅびたい遠征えんせいぐん包囲ほういされて孤立こりつし、はげしい攻撃こうげきにさらされたが、寡兵かへい勇戦ゆうせんしててき阻止そしした。また、ひしげはじめ同様どうよう孤立こりつしたりゅうりょう南東なんとうひら守備しゅびたいも、同地どうち特有とくゆう風土病ふうどびょうくるしみつつ、てき厳重げんじゅう包囲ほういにあって孤軍こぐんよく陣地じんち保持ほじしてたたかった[9]

結果けっか[編集へんしゅう]

5月11にち雲南うんなん遠征えんせいぐん反攻はんこう開始かいし以来いらいだい56師団しだんとぼしい兵力へいりょく善戦ぜんせん敢闘かんとうし、優勢ゆうせいてき侵攻しんこう破砕はさいつとめたが、彼我ひが兵力へいりょく懸隔けんかく如何いかともしがたかった。損害そんがい増大ぞうだいともな戦力せんりょく低下ていかは、師団しだん作戦さくせん能力のうりょくいちじるしくうしなわせる結果けっかとなった。2かげつにわたる反撃はんげき作戦さくせん参加さんかしただい56師団しだん隷下れいか指揮しき部隊ぶたいそう人員じんいんやく1.1まんめいだったが、そのうち損害そんがいやく8,000めい戦死せんししゃ1,719めい戦傷せんしょうしょう戦病死せんびょうしやく200めい戦傷せんしょう1,257めいせんびょうやく4,500めい)にものぼった。

一方いっぽう惨憺さんたんたる失敗しっぱいわったインパール作戦さくせんついに7がつ3にち中止ちゅうしとなり、またフーコン方面ほうめんだい18師団しだんは、8かげつ以上いじょうにわたる悪戦苦闘あくせんくとうすえ、7がつ上旬じょうじゅんだい53師団しだん収容しゅうようされて、かろうじてサモウ付近ふきん脱出だっしゅつした。こめささえぐん包囲ほうい苦闘くとうつづけているミイトキーナ守備しゅびたい戦力せんりょく限界げんかいちかづき、ミイトキーナ陥落かんらく時間じかん問題もんだいとみられた。インパール作戦さくせん成功せいこうのぞみつつ敢闘かんとうしただい56師団しだんは、以後いごひしげはじめあがえつひら戞のかく守備しゅびたいてきちゅう孤立こりつさせたまま、りゅうりょう付近ふきん戦線せんせん収縮しゅうしゅくせざるをない状況じょうきょうとなった[10]

だい33ぐんだん作戦さくせん計画けいかく[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつ雲南うんなん遠征えんせいぐんたいする反撃はんげき作戦さくせんは、ほとんどだい56師団しだん独自どくじ判断はんだん実行じっこうされた。当時とうじどう師団しだん上級じょうきゅう司令しれいであるだい33ぐん司令しれい編成へんせい直後ちょくご昭和しょうわ19ねん4がつ29にち編成へんせい完結かんけつ)であり、かつフーコン方面ほうめん戦況せんきょう緊迫きんぱくしていたため、だい33ぐん司令しれいかん本多ほんだ政材まさき中将ちゅうじょうは、雲南うんなん方面ほうめん反撃はんげき作戦さくせんだい56師団しだん一任いちにんしていた[11]。しかし昭和しょうわ19ねん6がつまつになり、りゅうりょう地区ちくにおけるだい56師団しだん攻勢こうせい限界げんかいたっし、ひしげはじめ守備しゅびたい救出きゅうしゅつ見込みこみもたなかったため、本多ほんだ軍司ぐんじれいかんだい56師団しだん主力しゅりょくりゅうりょう南西なんせいすすき付近ふきん後退こうたいさせた。このあいだひしげはじめあがえつひら戞のかく守備しゅびたい優勢ゆうせい遠征えんせいぐん重囲じゅうい孤軍こぐん勇戦ゆうせんつづけており、まただい56師団しだん主力しゅりょく後退こうたいにより、りゅうりょうふたたてき包囲ほういするところとなった。

この当時とうじ、インパール作戦さくせん失敗しっぱいビルマ方面ほうめんぐん作戦さくせん指導しどうは、雲南うんなんいか西にし地区ちくにおいて連合れんごうぐんのインド・中国ちゅうごく連絡れんらくルート(レドおおやけ)を遮断しゃだんすることに重点じゅうてんいていた。このため、ガダルカナルとうたたかから撤退てったいしたのち、ビルマ南西なんせい沿岸えんがん防備ぼうびたっていただい2師団しだんと、あらたにビルマに増加ぞうかされただい49師団しだん一部いちぶだい33ぐん増強ぞうきょうすることとした。また、7がつ3にち大本営だいほんえい作戦さくせん班長はんちょうささえ派遣はけんぐん課長かちょう参謀さんぼう歴任れきにんしたつじ政信まさのぶ大佐たいさだい33ぐん作戦さくせん参謀さんぼう転補てんぽした[12]つじ大佐たいさ高級こうきゅう参謀さんぼう白崎しらさき嘉明よしあき大佐たいさもとで、以下いか作戦さくせん計画けいかく立案りつあんした。

  • ぐん主力しゅりょくすすき周辺しゅうへん集結しゅうけつし、雲南うんなん遠征えんせいぐん主力しゅりょくりゅうりょう方面ほうめん撃滅げきめつしていかこうせん進出しんしゅつし、ひしげはじめあがえつ守備しゅびたい救援きゅうえんするとともに、しるしささえ連絡れんらく遮断しゃだんする。
  • りゅうりょう周辺しゅうへんへの攻撃こうげきだい56師団しだんおよだい2師団しだん攻勢こうせい準備じゅんび完了かんりょうとともにすみやかに開始かいしする。
  • りゅうりょう周辺しゅうへんにおいててき主力しゅりょく撃破げきはしたのちは、一挙いっきょひしげはじめ付近ふきん急進きゅうしんしてひしげはじめ守備しゅびたいかいかこえ救出きゅうしゅつし、いであがえつ方面ほうめん攻勢こうせいあがえつ守備しゅびたいかいかこえ救出きゅうしゅつする。
  • ひら守備しゅびたい救出きゅうしゅつだい2師団しだんまただい56師団しだん一部いちぶをもっておこない、あがえつ守備しゅびたい救出きゅうしゅつ同時どうじまたはそのおこなう。
  • だい18師団しだんはインドウ付近ふきん後退こうたい、ナンカン方面ほうめん転進てんしんし、以後いごミイトキーナ方面ほうめんてきたいしてしるしささえ連絡れんらく遮断しゃだんする。
  • バーモ付近ふきんだい2師団しだん一部いちぶをもって確保かくほしつつだい18師団しだん転進てんしん掩護えんごし、ミイトキーナ方面ほうめんてき前進ぜんしん遅延ちえんさせる。
  • ミイトキーナはつとめてなが確保かくほし、スチルウェル中将ちゅうじょうこめささえぐん雲南うんなん遠征えんせいぐんとの連携れんけい遮断しゃだんする。
  • 雲南うんなん遠征えんせいぐん主力しゅりょく撃破げきはしてだいいち作戦さくせん目的もくてき達成たっせいしたのちは、だい2師団しだんおよだい18師団しだん主力しゅりょくをもってこめささえぐん方面ほうめん攻勢こうせいり、ミイトキーナおよびバーモ守備しゅびたい救出きゅうしゅつし、だい56師団しだんとともにしるしささえ連絡れんらく遮断しゃだん強化きょうかする。
  • 鉄道てつどうせん補修ほしゅう確保かくほして補給ほきゅう遺憾いかんなからしめるとともに、ワンチン・ナンカン周辺しゅうへん陣地じんち構築こうちくし、ぐん以後いご作戦さくせん準備じゅんびする。

以上いじょう作戦さくせんは、しるしささえルート遮断しゃだんの「だん」をとって、「だん作戦さくせん」と呼称こしょうすることとなった[13][14]

だい33ぐん攻勢こうせい準備じゅんび雲南うんなん戦線せんせん危急ききゅう[編集へんしゅう]

だん作戦さくせん準備じゅんび[編集へんしゅう]

だい33ぐんは、フーコン方面ほうめんから脱出だっしゅつしただい18師団しだん逐次ちくじインドウ付近ふきん後退こうたいさせ、いでナンカンに集結しゅうけつさせて、ぐん予備よび兵器へいき資材しざい交付こうふしてその再建さいけんはからせた。また、フーコン作戦さくせん末期まっきだい18師団しだん増加ぞうか配属はいぞくしていただい56師団しだん今岡いまおか連隊れんたい主力しゅりょく歩兵ほへいだい146連隊れんたいだい1大隊だいたいかけ))と、だい2師団しだんいちかり連隊れんたい主力しゅりょく歩兵ほへいだい4連隊れんたいだい3大隊だいたいかけ))、野砲やほうへいだい2連隊れんたいだい2大隊だいたいをそれぞれげん所属しょぞく復帰ふっきさせた。長期ちょうきにわたるフーコン作戦さくせんとその撤退てったい転進てんしん極度きょくど疲弊ひへいしただい18師団しだんは、9がつ中旬ちゅうじゅんから10がつ上旬じょうじゅんにかけてようやくナンカン付近ふきん集結しゅうけつし、戦力せんりょく回復かいふくつとめた。また、ビルマ南西なんせいから転用てんようされただい2師団しだん主力しゅりょくは、空襲くうしゅうによる妨害ぼうがいなやまされつつも、8がつ29にちまでにすすき南東なんとう地区ちくへの集結しゅうけつえた。

しかしこのあいだ、ミイトキーナの戦況せんきょう最悪さいあく事態じたいちかづき、8がつ3にちだい56歩兵ほへい団長だんちょう水上みずかみ源蔵げんぞう少将しょうしょう自決じけつ同地どうち失陥しっかんした(ミイトキーナのたたか)。また、ひしげはじめあがえつひら戞・りゅうりょうかく守備しゅびたいは、それぞれ優勢ゆうせい雲南うんなん遠征えんせいぐん重囲じゅうい連日れんじつ連夜れんや猛攻もうこうえており、かく守備しゅびたいから打電だでんされる刻々こっこく戦況せんきょうごとに重大じゅうだいさをし、電文でんぶん悲壮ひそうをきわめていた。8月13にちにはあがえつ守備しゅび隊長たいちょうぞうじゅう康美やすみ大佐たいさてき爆撃ばくげきにより戦死せんしするなど、戦況せんきょう最後さいご局面きょくめんいたりつつあり、ぐん攻勢こうせい開始かいしはもはやいちにち猶予ゆうよゆるされない状況じょうきょうとなっていた[15]

だい一次平戛救援作戦[編集へんしゅう]

だん作戦さくせん発動はつどう先立さきだつ7がつ中旬ちゅうじゅんだい56師団しだんにより、ひら守備しゅびたいたいする救援きゅうえん作戦さくせん実施じっしされた。歩兵ほへいだい146連隊れんたいだい1大隊だいたい安部あべ大隊だいたい)を基幹きかんとするひら守備しゅびたいは、5がつ中旬ちゅうじゅんからの遠征えんせいぐん反撃はんげきいち撃退げきたいしたが、その遠征えんせいぐん兵力へいりょく増強ぞうきょうし、守備しゅびたい包囲ほういして猛攻もうこうかえしていた。師団しだんとしては、悪疫あくえき糧食りょうしょく欠乏けつぼうなやみながら苦闘くとうつづける守備しゅびたい救援きゅうえんし、糧秣りょうまつ衛生えいせい材料ざいりょうとう補給ほきゅう患者かんじゃ収容しゅうようおこなって、同地どうちぼうもり継続けいぞくさせなければならなかった。このため松山まつやま団長だんちょうは、りゅうりょうからすすき後退こうたいしたのちすすき北方ほっぽうへの奇襲きしゅう作戦さくせんおこなったばかりの松井まつい秀治しゅうじ大佐たいさ歩兵ほへいだい113連隊れんたいちょう)に、ひら守備しゅびたい救援きゅうえん作戦さくせん指揮しきめいじた。師団しだん歩兵ほへい連隊れんたいちょうは、ぞうじゅう連隊れんたいちょうあがえつてき重囲じゅうい激戦げきせんちゅう今岡いまおか連隊れんたいちょうはフーコン作戦さくせんから帰還きかんちゅうであり、松井まつい大佐たいさ以外いがいしかるべき指揮しきかんはいなかった。

松井まつい大佐たいさ部下ぶか連隊れんたいのほか、猪瀬いのせ宮原みやはらりょう大隊だいたい池田いけだ山砲さんぽうへい大隊だいたい工兵こうへい1小隊しょうたい衛生えいせいたい輜重しちょうたい指揮しきしてひら戞へかうこととなった。しかし、過去かこ2かげつにわたる連続れんぞく不断ふだん作戦さくせんにより、これらの部隊ぶたい将兵しょうへい死傷ししょうしゃすで甚大じんだいかずのぼっており、心身しんしん疲労ひろうはげしかった。7月11にちすすき出発しゅっぱつした松井まつい部隊ぶたいは、激戦げきせんすえ14にちひら戞に到着とうちゃくし、補給ほきゅう患者かんじゃ収容しゅうよう円滑えんかつったのち悪天候あくてんこうきびしいさむさになやまされつつ19にちすすきかえいた[16]

だいりゅうりょう攻防こうぼうせん[編集へんしゅう]

だい56師団しだん主力しゅりょくりゅうりょうからすすき後退こうたいするにたり、りゅうりょうには工兵こうへいだい56連隊れんたい主力しゅりょく野中のなか大隊だいたいだい53師団しだん歩兵ほへいだい119連隊れんたいだい1大隊だいたい)、藤木ふじき大隊だいたいだい2師団しだん歩兵ほへいだい29連隊れんたいだい2大隊だいたい)、歩兵ほへいだい113連隊れんたいおよだい148連隊れんたい残留ざんりゅうたいからなる守備しゅびたい残置ざんちされた。守備しゅびたい兵力へいりょくは、だい2野戦やせん病院びょういん入院にゅういん患者かんじゃわせ、合計ごうけいやく2,500めいだった。

りゅうりょう守備しゅびたいは、6がつ中旬ちゅうじゅんだいいちりゅうりょう攻防こうぼうせんくるしい経験けいけんまえ、工兵こうへいたい主力しゅりょくとして昼夜ちゅうや兼行けんこう陣地じんち強化きょうかつとめた。しかし、師団しだん主力しゅりょく撤退てったいった雲南うんなん遠征えんせいぐんは、7がつ7にち以降いこうふたたりゅうりょう付近ふきん進出しんしゅつし、7がつ中旬ちゅうじゅんごろからはげしい攻撃こうげきおこなった。守備しゅびたい頑強がんきょう抵抗ていこうしたが、空地くうちからの猛攻もうこうりゅうりょう市街しがいはほとんど廃墟はいきょし、陣地じんち逐次ちくじ占領せんりょうされて、8がつ下旬げじゅんには守備しゅびたい玉砕ぎょくさい見込みこまれる深刻しんこく戦況せんきょうとなった。松山まつやま団長だんちょうは、いそ宮原みやはら大隊だいたい歩兵ほへいだい148連隊れんたいだい3大隊だいたい)をりゅうりょう急派きゅうはすることとし、ぐん主力しゅりょくりゅうりょう進出しんしゅつまで万策ばんさくくして同地どうち確保かくほするよう命令めいれいした。宮原みやはら大隊だいたいは8がつ25にちすすき出発しゅっぱつてき撃退げきたいしつつ27にちりゅうりょう突入とつにゅうし、守備しゅびたい合流ごうりゅうした[17]

だんだいいち作戦さくせん[編集へんしゅう]

りゅうりょう会戦かいせん[編集へんしゅう]

だい33ぐん当初とうしょだい2師団しだんすすき進出しんしゅつち、どう師団しだんだい56師団しだんとの並列へいれつ使用しようによりだん作戦さくせん開始かいしする予定よていだった。しかし、ひしげはじめあがえつ守備しゅびたい玉砕ぎょくさい寸前すんぜんとなり、またりゅうりょう守備しゅびたい重大じゅうだい危機ききひんするなかで、これらの部隊ぶたい部下ぶかとする松山まつやま団長だんちょうは、もはやぐん攻勢こうせい発起ほっき命令めいれいつことができなかった。松山まつやま団長だんちょう強硬きょうこう意見いけん具申ぐしんにより、ぐんもまた事態じたい急迫きゅうはくみとめ、ついだい56師団しだんをもってまずりゅうりょうかいかこえ作戦さくせん決行けっこうさせ、そのだい2師団しだん並列へいれつしてひしげはじめ突進とっしんさせることとした。こうしてだい56師団しだんは8がつ26にちよるすすきからりゅうりょうけて攻勢こうせい前進ぜんしん開始かいしした。

そのぐんだい56師団しだん独力どくりょく攻撃こうげき不安ふあんかんじ、だい2師団しだんにもりゅうりょう作戦さくせんへの参加さんかめいじた。しかし、当時とうじだい2師団しだん戦力せんりょくは、いちかり連隊れんたい歩兵ほへいだい4連隊れんたい)は2大隊だいたいかけさかい連隊れんたい歩兵ほへいだい16連隊れんたい)は1個いっこ大隊だいたいかけ三宅みやけ連隊れんたい歩兵ほへいだい29連隊れんたい)は2大隊だいたいかけ砲兵ほうへい連隊れんたい主力しゅりょく追及ついきゅうであり、その実力じつりょく歩兵ほへい1個いっこ連隊れんたい基幹きかん程度ていどぎなかった。8月26にちすすき進出しんしゅつしたばかりのだい2師団しだんちょう岡崎おかざき清三郎せいさぶろう中将ちゅうじょうは、きょ9がつ3にち攻勢こうせい発起ほっき命令めいれいけ、りゅうりょう南方なんぽう進出しんしゅつした。そして、猪瀬いのせ大隊だいたいだい18師団しだん歩兵ほへいだい114連隊れんたいだい1大隊だいたい)をあわ指揮しきし、同地どうちてきちからおさむしたが、優勢ゆうせいてき反撃はんげきにより甚大じんだい損害そんがいし、攻勢こうせい円滑えんかつ進捗しんちょくしなかった。

一方いっぽうだい56師団しだん今岡いまおか連隊れんたい松井まつい連隊れんたいりゅうりょう西方せいほう高地こうち占領せんりょうし、つづりゅうりょう北方ほっぽうてき攻撃こうげきする気勢きせいしめした。雲南うんなん遠征えんせいぐんだい11集団しゅうだんぐん総力そうりょくりゅうりょう付近ふきん集中しゅうちゅうし、ここにりゅうりょう会戦かいせんは、彼我ひがりょうぐん決戦けっせん様相ようそうしめすにいたった。だい56師団しだんほう協同きょうどうしたりゅうりょう市街しがい北方ほっぽうへの攻撃こうげきつづけ、ついにりゅうりょう北西方きたにしかた高地こうちにあったてきだい部分ぶぶん撃破げきはした。さらに松山まつやま団長だんちょうは、9がつ10日とおかあらたに師団しだん配属はいぞくされた吉田よしだ連隊れんたいだい49師団しだん歩兵ほへいだい168連隊れんたい基幹きかん)を松井まつい少将しょうしょう(8がつ1にちづけ進級しんきゅう)の指揮しきれ、りゅうりょう市街しがい北東ほくとう方面ほうめんへの攻勢こうせい継続けいぞくした[18]

ぐん攻勢こうせい作戦さくせん中止ちゅうし[編集へんしゅう]

以上いじょうのように、だい33ぐん攻勢こうせいは、だい56師団しだん方面ほうめんではおおむね予期よきしたとおり進捗しんちょくしたが、だい2師団しだん方面ほうめんでは戦況せんきょう進展しんてんのぞめなくなっていた。この攻勢こうせいあいだてき遠征えんせいぐん主力しゅりょくあたえた損害そんがい膨大ぼうだいなものと推定すいていされたが、彼我ひが兵力へいりょくへだたおおきく、つづ攻勢こうせい続行ぞっこうすれば、ぐん戦力せんりょく消耗しょうもうくし、長期ちょうきにわたるしるしささえ地上ちじょう連絡れんらく遮断しゃだん任務にんむ遂行すいこう不可能ふかのうおちいるおそれがあった。また、この作戦さくせんひしげはじめあがえつ守備しゅびたい救出きゅうしゅつ目的もくてきとしていたが、ひしげはじめは9月7にちあがえつは9月14にちに、つい壮烈そうれつ玉砕ぎょくさいげた(ひしげはじめあがえつたたか)。このため本多ほんだ軍司ぐんじれいかんは、あがえつ玉砕ぎょくさいをもって作戦さくせん転機てんき判断はんだんし、なみだんでだんだいいち作戦さくせんりゅうりょう会戦かいせん終結しゅうけつまで)の中止ちゅうし決意けついした。ぐんは9月14にち夕刻ゆうこくかく部隊ぶたい作戦さくせん中止ちゅうし速報そくほうするとともに、当時とうじなおてき重囲じゅうい苦戦くせんつづけているひら守備しゅびたい救出きゅうしゅつ全力ぜんりょくげることとした。

その戦線せんせん後退こうたい順調じゅんちょうすすみ、だい56師団しだんはその主力しゅりょくすすき付近ふきん集結しゅうけつさせた。また、ぐんだい2師団しだんたいし、おおむねりゅうりょう南方なんぽう高地こうちせんでの持久じきゅうめいじたが、岡崎おかざき師団しだんちょうてきりゅうりょうちからおさむさせることによって持久じきゅう日数にっすうかせぐことを決意けついし、りゅうりょう核心かくしんとしてかく連隊れんたい布陣ふじんさせた[19]りゅうりょう守備しゅびたいは、だい56師団しだん主力しゅりょく後退こうたいにより混乱こんらんしょうじつつも[20]、その頑強がんきょう抵抗ていこうつづけ、11月3にちぐんから撤退てったいめいぜられるまで、わずかな兵力へいりょくついりゅうりょうまもくことに成功せいこうした[21]

だい二次平戞救出作戦[編集へんしゅう]

9月17にちあさまでにすすき付近ふきん集結しゅうけつわっただい56師団しだん主力しゅりょくは、軍命ぐんめいれいによりつづだいひらめ作戦さくせん開始かいしした。松井まつい部隊ぶたい松井まつい少将しょうしょう指揮しき吉田よしだ部隊ぶたい配属はいぞく)は休養きゅうようひまもなく、9月17にち薄暮はくぼからすすき東方とうほうてき陣地じんち攻撃こうげきし、18にちには主要しゅよう陣地じんち奪取だっしゅした。そのあいだ今岡いまおか連隊れんたいひら戞にけて急進きゅうしんし、22にち14ひら戞に突入とつにゅうした。今岡いまおか連隊れんたいちょうは、てき重囲じゅういひら戞をまもとおした守備しゅび隊長たいちょう安部あべ少佐しょうさ今岡いまおか連隊れんたいだい1大隊だいたいちょう)と、ったまま言葉ことばもなく落涙らくるいした。守備しゅびたい接収せっしゅうした今岡いまおか連隊れんたいは22にちよるから反転はんてんし、執拗しつよう追尾ついびするてき撃退げきたいしつつ、24にちすすきから前進ぜんしんしてきていた松井まつい部隊ぶたい収容しゅうようされた[22]

だんだい作戦さくせん[編集へんしゅう]

だんだいいち作戦さくせん状況じょうきょう[編集へんしゅう]

あがえつ守備しゅびたい玉砕ぎょくさいをもってだんだいいち作戦さくせん中止ちゅうししただい33ぐんは、だい2師団しだんりゅうりょうおよびその南側みなみがわ高地こうち占領せんりょうさせて遠征えんせいぐん進撃しんげき阻止そしさせ、そのあいだだい56師団しだん主力しゅりょくをもってひら守備しゅびたい救出きゅうしゅつ作戦さくせん実施じっしし、9がつまつどう師団しだん主力しゅりょくすすき付近ふきん集結しゅうけつさせた。ぐんは、ミイトキーナを占領せんりょう(8がつ3にち)したこめささえぐんが、そのすみやかに南下なんかしてバーモを攻略こうりゃくし、雲南うんなん遠征えんせいぐん進撃しんげき呼応こおうしてナンカン方面ほうめん殺到さっとうするものと判断はんだんしていたが、ミイトキーナ方面ほうめんこめささえぐんは、損害そんがい補充ほじゅう作戦さくせん準備じゅんびとうのため、いまなおミイトキーナ付近ふきんとどまっている様子ようすだった。このため本多ほんだ軍司ぐんじれいかんは、りゅうりょうすすき地区ちくにおけるだい2師団しだん戦線せんせんだい56師団しだん交代こうたいさせ、だい2師団しだんをナンカン・ワンチンあいだのシュエリーかわりょうきし地区ちく集結しゅうけつさせて、今後こんご戦況せんきょう変転へんてんおうじられるよう攻守こうしゅ両面りょうめん準備じゅんびおこなわせることとした。また、ナンカン付近ふきん集結しゅうけつしつつあっただい18師団しだんたいしては、つづ師団しだん再建さいけん陣地じんち構築こうちく全力ぜんりょく傾注けいちゅうさせた。

だい56師団しだんひら作戦さくせんわったばかりで疲弊ひへいしていたが、9月26にちごろから逐次ちくじ行動こうどうこし、師団しだん主力しゅりょくすすき周辺しゅうへん要地ようち展開てんかいし、今岡いまおか連隊れんたいだい2師団しだん交代こうたいしてりゅうりょう地区ちく進出しんしゅつして、それぞれ陣地じんち構築こうちく着手ちゃくしゅした。だい2師団しだんはワンチン、モンユを物資ぶっし豊富ほうふなムセにうつり、体力たいりょく気力きりょく回復かいふくつとめるとともに、次期じき作戦さくせんそなえて訓練くんれんはげんだ[23]

だい2師団しだん抽出ちゅうしゅつ[編集へんしゅう]

ところで8がつ下旬げじゅん、インパール作戦さくせん失敗しっぱいともな事後じご処理しょりのためにビルマに飛来ひらいした大本営だいほんえい参謀さんぼう瀬島せじま龍三りゅうぞう少佐しょうさは、かく兵団へいだん司令しれいとの連絡れんらく現地げんち視察しさつまえ、方面ほうめんぐん作戦さくせん南部なんぶビルマの防衛ぼうえい転換てんかんさせる必要ひつようかんじた。瀬島せじま少佐しょうさは、大本営だいほんえい参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん先輩せんぱいであるつじ政信まさのぶ大佐たいさにも意見いけんもとめたが、つじどう意見いけんだった。このやりりをだい33ぐん司令しれいとくつじ大佐たいさは、だん作戦さくせん終結しゅうけつについて内々ないない検討けんとうかさね、以下いか結論けつろんいたった[24]

  • このさい南方なんぽうぐんとしては、断固だんことしてかく方面ほうめんから兵力へいりょく抽出ちゅうしゅつし、いちへいでもおお国軍こくぐんしゅ決戦けっせん戦力せんりょく集中しゅうちゅうすべきである。
  • だい33ぐんもまた最小限さいしょうげん兵力へいりょくげん任務にんむ完遂かんすいし、なしうるかぎりの兵力へいりょく方面ほうめんぐん返上へんじょうすべきものとしんずる。
  • さいわいにも、てき進撃しんげき予想よそう以上いじょうおくれている。遠征えんせいぐんりゅうりょう会戦かいせん痛手いたでおおきく、目下もっかぜんぐん整備せいび訓練くんれんちゅう模様もようであり、遠征えんせいぐん呼応こおうすべきこめささえぐんもミイトキーナ周辺しゅうへんから南進なんしん気配けはいせない。
  • よってこのさいだい2師団しだん返上へんじょうしても、本年ほんねんまつごろまでしるしささえ連絡れんらく遮断しゃだん継続けいぞくするぐん任務にんむ達成たっせい可能かのうである。

以上いじょう見地けんちから、だい33ぐんは10月5にち方面ほうめんぐんたいして、だい2師団しだん方面ほうめん転用てんようしてもつかえないむね意見いけん具申ぐしんおこなった。同様どうようだい2師団しだん南部なんぶビルマ抽出ちゅうしゅつ検討けんとうしていた方面ほうめんぐんは、だい33ぐん自主じしゅてきもう感謝かんしゃし、師団しだん主力しゅりょく南部なんぶビルマ転進てんしん命令めいれいはっした。ただし、どう師団しだんのバーモ守備しゅびたい捜索そうさくだい2連隊れんたい歩兵ほへいだい16連隊れんたいだい2大隊だいたい砲兵ほうへい1中隊ちゅうたい工兵こうへい1小隊しょうたい野戦やせん病院びょういん一部いちぶ)はぐん直轄ちょっかつとしてそのままのこされたほか、だい33ぐん方面ほうめん戦況せんきょう憂慮ゆうりょし、師団しだん転進てんしん途中とちゅういちかり連隊れんたいをメイミョウにめ、だい33ぐん直轄ちょっかつとした[25]

だい56師団しだんすすき付近ふきん持久じきゅうせん[編集へんしゅう]

だい2師団しだん配備はいび交代こうたいしただい56師団しだんは、つづりゅうりょうすすき付近ふきんにて陣地じんち強化きょうか情報じょうほう収集しゅうしゅうつとめた。このころまでに傍受ぼうじゅでんによれば、16のぼ雲南うんなん遠征えんせいぐん攻勢こうせい戦力せんりょくも、度重たびかさなる激戦げきせんにより極度きょくど低下ていかしているものと判断はんだんされたが、遠征えんせいぐん空輸くうゆとう輸送ゆそうりょく強化きょうかにより、兵員へいいん軍需ぐんじゅひん補給ほきゅうつとめていた。だい56師団しだんしょ情報じょうほう総合そうごうし、遠征えんせいぐん本格ほんかくてき攻勢こうせい開始かいしはおおむね10がつ下旬げじゅん以降いこうであり、その主力しゅりょくりゅうりょうを、一部いちぶすすき奪回だっかいすることを企図きとするものと判断はんだんした。この判断はんだん的中てきちゅうし、10月29にち遠征えんせいぐんそう攻撃こうげき開始かいしされた。

そして11月1にち以降いこう遠征えんせいぐん攻勢こうせいはいよいよ本格ほんかくし、守備しゅび兵力へいりょく過小かしょうりゅうりょうはたちまち危機ききひんした(だいさんりゅうりょう攻防こうぼうせん)。松山まつやま団長だんちょうりゅうりょう地区ちく放棄ほうきはやむをないものと判断はんだんし、今岡いまおか連隊れんたい撤退てったい命令めいれいした。今岡いまおか大佐たいさは11月3にちよる、まずりゅうりょう守備しゅびたい撤退てったいさせ、さらに5にちよるりゅう陵南りょうなんがわ戦線せんせん撤収てっしゅうした。5月の遠征えんせいぐん攻勢こうせい開始かいし以来いらいだい56師団しだんりゅうりょうさんにわたりはげしい攻防こうぼうせんひろげたが、このときをもってついりゅうりょう手放てばなすこととなった。

だい56師団しだんりゅうりょう放棄ほうきともない、遠征えんせいぐんすすきせまり、11月5にちごろからはげしい攻撃こうげき開始かいしした。師団しだん将兵しょうへい果敢かかん反撃はんげきし、遠征えんせいぐんにも損害そんがい続出ぞくしゅつした。しかしこのころ松山まつやま団長だんちょうてき無線むせんの諜知により、遠征えんせいぐん一部いちぶ兵力へいりょくをもってすすき-ワンチンのなかあいだてんであるさえぎ占領せんりょうし、師団しだん後方こうほう遮断しゃだんしたうえで、すすきよんしゅうから包囲ほういしてそう攻撃こうげきおこな意図いとであることをった。11月19にちからてき攻勢こうせいはげしくなったため、同日どうじつよる師団しだん一斉いっせいすすき撤収てっしゅうして後退こうたい開始かいしした。そしててき執拗しつよう追撃ついげき拒止きょししつつ、11月30にちにはさえぎ付近ふきんぜん戦線せんせんてっし、12月はじめにはワンチン付近ふきん逐次ちくじ集結しゅうけつした[26]

バーモ守備しゅびたい救出きゅうしゅつ作戦さくせん[編集へんしゅう]

バーモ守備しゅびたい孤立こりつ[編集へんしゅう]

ナンカンの北西ほくせい位置いちし、ミイトキーナから南下なんかするこめささえぐん正面しょうめんからふせ地点ちてんとなるバーモには、先述せんじゅつとお捜索そうさくだい2連隊れんたい基幹きかんとするバーモ守備しゅびたいかれていた。守備しゅびたい編成へんせいは、捜索そうさくだい2連隊れんたいやく350めい)、歩兵ほへいだい16連隊れんたいだい2大隊だいたいやく600めい)、野砲やほうへいだい2連隊れんたいの1中隊ちゅうたいやく100めい)、山砲さんぽうへいだい18連隊れんたいの1小隊しょうたいやく50めい)、工兵こうへいだい2連隊れんたいの1小隊しょうたいやく50めい)、ぐん通信つうしんたいの1分隊ぶんたい(10めい)、だい2師団しだん野戦やせん病院びょういん1はんやく40めい)、合計ごうけいやく1,180めいであり、守備しゅび隊長たいちょう捜索そうさくだい2連隊れんたいちょうはらこうさん大佐たいさだった。

ミイトキーナ陥落かんらくどう方面ほうめん中国ちゅうごく新編しんぺんぐん部隊ぶたい再編さいへん日数にっすうついやしていたが、そのようやく前進ぜんしん開始かいしした。そして11月9にち、バーモ北東ほくとうのミョチットにたいして攻撃こうげきおこない、同地どうち進出しんしゅつしていた捜索そうさく連隊れんたい主力しゅりょくは、バーモ北東ほくとう森林しんりんない新編しんぺんぐん混戦こんせん状態じょうたいおちいった。新編しんぺんぐん捜索そうさく連隊れんたい追尾ついびしてバーモに近接きんせつし、15にちからバーモ南東なんとうがわ陣地じんち攻撃こうげき開始かいしした。守備しゅびたい前進ぜんしん陣地じんち逐次ちくじ放棄ほうきしつつ抗戦こうせんしたが、12月はじごろからてきほうばくげきはげしさをし、市街地しがいち次々つぎつぎ奪取だっしゅされた。12月10にちごろには新編しんぺんぐんぜん正面しょうめんにわたって至近しきん距離きょり近接きんせつするにいたり、糧食りょうしょく欠乏けつぼうし、バーモ守備しゅびたい危機ききてき状況じょうきょうおちいった。

山崎やまざき支隊したいによる救援きゅうえん作戦さくせん[編集へんしゅう]

だい33ぐんは、バーモ守備しゅびたい持久じきゅう限度げんどを12月中旬ちゅうじゅん判断はんだんした。そして、だい56師団しだん撤退てったいによるせんめん収縮しゅうしゅく結果けっか兵力へいりょく余裕よゆうしょうじたこともまえ、バーモ救出きゅうしゅつ作戦さくせん決行けっこうすることとした。ところで、9がつ以降いこうナンカンで戦力せんりょく回復かいふくつとめていただい18師団しだんは、えいしるしぐんがカーサ方面ほうめんからだい33ぐんだい15ぐんなかあいだ地区ちくき、一挙いっきょにマンダレー方向ほうこう南下なんかする可能かのうせいそなえ、11月中旬ちゅうじゅんにナンカン南西なんせいのモンミットに急進きゅうしんしていたが、山崎やまざき連隊れんたい歩兵ほへいだい55連隊れんたい)を基幹きかんとする一部いちぶたいをナンカンに残置ざんちしていた。だい33ぐんは、山崎やまざき支隊したいちょうに、山崎やまざき連隊れんたい主力しゅりょく歩兵ほへいだい55連隊れんたい歩兵ほへい2大隊だいたいはんおよ連隊れんたいほう中隊ちゅうたい)、だい56師団しだん一部いちぶ歩兵ほへい1個いっこ大隊だいたい砲兵ほうへい1個いっこ大隊だいたい工兵こうへい2小隊しょうたい)、だい49師団しだん歩兵ほへい1個いっこ大隊だいたいあわ指揮しきさせ、バーモ守備しゅびたい救出きゅうしゅつたらせることとした。山崎やまざき支隊したい兵力へいりょくは、歩兵ほへいやく2,250めい砲兵ほうへいやく500めい(9もん)、工兵こうへいそのやく500めい合計ごうけいやく3,250めいだった。支隊したいにはだい33ぐん後方こうほう参謀さんぼうきびひろ少佐しょうさ配属はいぞくされ[27]のちつじ大佐たいさ同行どうこうした。

山崎やまざき支隊したい企図きと秘匿ひとくしながら逐次ちくじナンカンを出発しゅっぱつし、12月9にち、ナミュ高地こうち(バーモ-ナンカンどうなかあいだ)を急襲きゅうしゅうした。てき一時いちじ狼狽ろうばい混乱こんらんしたが、12月11にちごろ以降いこう、バーモ正面しょうめんからも相当そうとう兵力へいりょく抽出ちゅうしゅつし、1個いっこはん戦力せんりょく反撃はんげきてんじた。山崎やまざき支隊したい勇戦ゆうせんするも、日時にちじ経過けいかとともにせんぜい逆転ぎゃくてんし、漸次ぜんじ守勢しゅせいつにいたった。

バーモ守備しゅびたいてきちゅう突破とっぱ成功せいこう[編集へんしゅう]

一方いっぽう、バーモ守備しゅび隊長たいちょうげん大佐たいさは、山崎やまざき支隊したい攻勢こうせい呼応こおうし、12月14にちよるからバーモ脱出だっしゅつ開始かいしした。バーモのてき包囲ほういもう非常ひじょうあつく、どの方面ほうめんかってもすうだん陣地じんち突破とっぱしなければならなかった。守備しゅびたい脱出だっしゅつ途中とちゅうてき攻撃こうげきけ、一時いちじ危機ききひんしたが、死中しちゅうかつもとめた突撃とつげきによりてき退却たいきゃくし、奇跡きせきてき突破口とっぱこうひらくことができた。19にちから21にちにかけて、はら大佐たいさ以下いかのバーモ守備しゅびたいやく900めい逐次ちくじナンカンに到着とうちゃくした。突破とっぱ直前ちょくぜん守備しゅびたい兵力へいりょくやく930めいであり、突破とっぱあいだ損害そんがいやく30めいだった。なお、バーモ防衛ぼうえいせんにおける守備しゅびたいそう損害そんがい戦死せんしやく280めい戦傷せんしょうびょうやく300めいだった。なお、この脱出だっしゅつの14にちよるはら大佐たいさ1個いっこ分隊ぶんたい銃撃じゅうげきへい護衛ごえいれて野戦やせん病院びょういんおとずれ、歩行ほこうできない傷病しょうびょうへいらに手榴弾しゅりゅうだん自決じけつするようみずかめいじ、その表向おもてむきはきながらそとったものの、実際じっさいにはかげかくれていて、手榴弾しゅりゅうだん炸裂さくれつおんむとふたた銃撃じゅうげきへいれて病室びょうしつあらわれ、まだのうとしていなかったものじゅうすうめい射殺しゃさつさせてまわったことを、生残いきのこりの日本にっぽんへい中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐんやその従軍じゅうぐん記者きしゃ証言しょうげんしている[28]

バーモ守備しゅびたい救援きゅうえんのためナミュ付近ふきん激戦げきせんちゅう山崎やまざき支隊したいは、支隊したい苦戦くせんはバーモ守備しゅびたいたいする圧力あつりょく軽減けいげんにつながるとしんじ、あくまで敢闘かんとうつづけた。16にちあさ、バーモ守備しゅびたいからの電報でんぽうにより脱出だっしゅつ成功せいこうった支隊したいは、逐次ちくじ戦線せんせん整理せいりし、てき離脱りだつしてナンカンに帰還きかんした。山崎やまざき支隊したい損害そんがい戦死せんしやく150めい戦傷せんしょうやく300めいだった。本多ほんだ軍司ぐんじれいかんは、山崎やまざきはらりょう支隊したい感状かんじょう授与じゅよし、12月20にちよるにナンカンでおこなった戦死せんししゃ慰霊いれいさいでこれをげた。この12月20にちをもってだんだい作戦さくせん終了しゅうりょうした[29]

だんだいさん作戦さくせん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくぐん攻勢こうせい再開さいかい[編集へんしゅう]

バーモ守備しゅびたい救出きゅうしゅつしたのちだい33ぐんは、だい56師団しだんをもってワンチン付近ふきんを、山崎やまざき支隊したいをもってナンカン付近ふきん占領せんりょうして東西とうざいりょう中国ちゅうごくぐん合一ごういつ妨害ぼうがいし、あくまでレドおおやけ(レド-ミイトキーナ-バーモ-ナンカン-りゅうりょうやまこんあきらどう)の遮断しゃだんつとめた。また、方面ほうめんぐんからだい33ぐん増加ぞうかされたいちかり連隊れんたい吉田よしだ部隊ぶたいだい49師団しだん歩兵ほへいだい168連隊れんたい基幹きかん)をセンウイ周辺しゅうへんひかえおけし、だい56師団しだん後方こうほう確保かくほさせるとともに、情勢じょうせい次第しだいでいつでも方面ほうめんぐん返上へんじょうできるようにした。こうした状況じょうきょう昭和しょうわ20ねん元旦がんたんむかえた。

元旦がんたん早々そうそう雲南うんなん遠征えんせいぐんはワンチン方面ほうめんたいする攻撃こうげき再開さいかいした。遠征えんせいぐん兵力へいりょくだい56師団しだん守備しゅび兵力へいりょくじゅうすうばいおよび、陣地じんち間隙かんげきから随所ずいしょ侵入しんにゅうけて混戦こんせん状態じょうたいおちいったが、師団しだん反撃はんげきにより陣内じんないてき撃退げきたいした。一方いっぽう、バーモ撤退てったい、ナンカン方面ほうめん殺到さっとうすることが見込みこまれた新編しんぺんぐんはしばらく緩慢かんまん行動こうどうせていたが、1がつ8にちごろから南進なんしんはじめ、やく2あまりべいしき中国ちゅうごくぐんがナンカンの山崎やまざき支隊したい陣地じんち攻撃こうげきした。よんしゅうから強圧きょうあつけた陣地じんちはたちまち危殆きたいひんし、ぐんはナンカン方面ほうめん持久じきゅう困難こんなん判断はんだんした。1月18にちよる山崎やまざき支隊したいはナンカン正面しょうめんてき夜襲やしゅう決行けっこうし、てきせん突破とっぱしつつナンカン南東なんとうのナンパッカに後退こうたいした[30]

だん作戦さくせん終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

このころだい33ぐんは、中国ちゅうごくぐんそう兵力へいりょく雲南うんなん遠征えんせいぐん15新編しんぺんぐん6判断はんだんしていた。これにたいし、だい33ぐん兵力へいりょくだい56師団しだんやく9,000めい)、吉田よしだ部隊ぶたいやく1,200めい)、山崎やまざき部隊ぶたいやく1,200めい)、いちかり部隊ぶたいやく1,000めい)、ぐん直轄ちょっかつ部隊ぶたいやく3,000めい)、病院びょういん補給ほきゅうしょうとうやく4,000めい)、合計ごうけいやく19,400めいであり、彼我ひが兵力へいりょくはまさにじゅうたいいちだった。てきひとつの戦場せんじょう全力ぜんりょく集中しゅうちゅうし、かつ東西とうざい挟撃きょうげき有利ゆうり態勢たいせいにある一方いっぽう日本にっぽんぐんは、ワンチンからナンパッカにわたるたてふかやく30kmの広範囲こうはんいぜん兵力へいりょく展開てんかいしていたため、すで術策じゅっさくこうずる余地よちはなく、ぐん運命うんめいはあといち週間しゅうかん予測よそくされた。

1がつ24にちごろ、ナンパッカをまもっていたいちかり連隊れんたいてき完全かんぜん包囲ほういされ、おおやけ路上ろじょうには随所ずいしょてきへい出没しゅつぼつしていた。ぐん司令しれいは、ワンチンでてきふせいでいるだい56師団しだん撤退てったい時期じき決定けっていする目的もくてきで、ぐん参謀さんぼうちょう山本やまもと清衛きよえ少将しょうしょう師団しだん司令しれい派遣はけんした。山本やまもと参謀さんぼうちょうは、おおやけ路上ろじょう遮断しゃだんするてきたいし、みずか所在しょざい部隊ぶたい指揮しきして夜襲やしゅう決行けっこうしつつ、師団しだん司令しれいへの到達とうたつ成功せいこうした。そしてだい56師団しだんは、山本やまもと参謀さんぼうちょう指導しどうもとづき、ナンパッカ南方なんぽうのセンウイ-ラシオあいだ地区ちく後退こうたいすることとなった。師団しだん錯綜さくそうした戦線せんせん逐次ちくじ整理せいりしつつ撤退てったい開始かいしし、2がつ1にちあさまでにナンパッカ南方みなかたかなめせん態勢たいせいととのえ、2がつ10にち以降いこう、センウイ以南いなんあらたな陣地じんちがいして次期じき作戦さくせん準備じゅんびした。

1がつ27にち東西とうざい双方そうほうから進撃しんげきつづけてきた雲南うんなん遠征えんせいぐん新編しんぺんぐんりょう中国ちゅうごくぐん劇的げきてき握手あくしゅわし、連合れんごうぐん待望たいぼうのレドおおやけつい開通かいつうした。昭和しょうわ19ねん5がつ開始かいしされた雲南うんなん遠征えんせいぐん反攻はんこう以来いらいだい56師団しだん中心ちゅうしんとするだい33ぐんは、9かげつにわたり優勢ゆうせいてき進撃しんげきをよく阻止そしし、しるしささえ地上ちじょう連絡れんらく遮断しゃだん重任じゅうにんたしてきたが、ここにいたってつい力尽ちからつき、だん作戦さくせん終焉しゅうえんむかえた。このあいだぐん損害そんがいは、戦死せんし8,390めい戦傷せんしょう4,810めいせんびょうやく5,000めいだった[31]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 65–66.
  2. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, p. 67.
  3. ^ 野口のぐち 2000, p. 54.
  4. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, p. 79.
  5. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 80–81.
  6. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, p. 86.
  7. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, p. 82.
  8. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 87–95.
  9. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 95–109.
  10. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 109–110.
  11. ^ 野口のぐち 2000, p. 89.
  12. ^ 野口のぐち 2000, p. 124.
  13. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 221, 227–228.
  14. ^ 陸戦りくせん研究けんきゅう普及ふきゅうかい 1970, p. 104.
  15. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 230–232.
  16. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 237–242.
  17. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 242–246.
  18. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 246–261.
  19. ^ 岡崎おかざき 1977, pp. 128–129.
  20. ^ 野口のぐち 2000, p. 235.
  21. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 261–266.
  22. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 266–269.
  23. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 353–356.
  24. ^ つじ 1979, pp. 127–128.
  25. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 356–358.
  26. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 359–365.
  27. ^ しお書房しょぼう 1988, p. 310.
  28. ^ ちょうひとしなか『ビルマ戦線せんせん従軍じゅうぐん共栄きょうえい書房しょぼう、1980ねん11月25にち、227-228ぺーじ 
  29. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 370–386.
  30. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 390–394.
  31. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ 1969, pp. 394–397.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • しお書房しょぼう悲劇ひげき戦場せんじょう ビルマ戦記せんきしお書房しょぼう、1988ねんNCID BA70964884 
  • 岡崎おかざき, 清三郎せいさぶろう天国てんごくから地獄じごくへ』共栄きょうえい書房しょぼう、1977ねんNCID BN0637967X 
  • つじ, 政信まさのぶじゅうたいいちはら書房しょぼう、1979ねんNCID BA63804298 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ『イラワジ会戦かいせんあさくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1969ねん 
  • 陸戦りくせん研究けんきゅう普及ふきゅうかい陸戦りくせんしゅう16 雲南うんなん正面しょうめん作戦さくせんはら書房しょぼう、1970ねんNCID BN12372165 
  • 野口のぐち, しょうおのれ回想かいそうビルマ作戦さくせん光人みつひとしゃ、2000ねんNCID BA5952234X 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]