日 中 戦争
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呼称 [編集 ]
時期 区分 [編集 ]
前史 [編集 ]
「安 内 攘外」と「和協 外交 」[編集 ]
1931
北 支 自治 運動 ―華北 分離 工作 [編集 ]
「内戦 停止 、一致 抗戦 」[編集 ]
1935
川越 茂 ・張 群 会談 [編集 ]
1936
林内 閣 の「対 支 実行 策 」[編集 ]
1937
北 支 事変 [編集 ]
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閻錫 | |
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1937
盧溝橋 事件 と北 支 事変 [編集 ]
1937
日本 政府 が不拡大 方針 と軍 の増派 を同時 に決定
国民 政府 の対 日 武力 行使 決定
日本 軍 の総 攻撃
7
7
通 州 事件
7
日本 軍 の北平 (北京 )・天津 占領 とチャハル作戦
7
「日 中 全面 戦争 」[編集 ]
第 二 次 上海 事変 [編集 ]
上海 での中国 側 報復 と日本 軍 増派
1937
8
このような
その
渡洋 爆撃
8
8
8
8
ニューヨーク・タイムズの1937
1937
- 9月2
日 -日本 、北 支 事変 を支 那 事変 と改称 。 - 9月5
日 -日本 海軍 、中国 大陸 沿岸 の封鎖 を宣言 。 - 9月9
日 -山西 省 の陽 高 で、関東軍 が中国人 を虐殺 する陽 高 事件 が発生 する。 - 9月13
日 、国民 政府 、日本 軍 の行為 を国際 連盟 に提訴 。 - 9月14
日 -日本 軍 (北 支 那 方面 軍 )、北平 ・天津 より南進 を開始 。保 定 攻略 。 - 9月15
日 -22日 -日本 海軍 航空 隊 、広東 方面 攻撃 [42]。22日 までに中国 空軍 、全滅 [要 出典 ][注釈 10]。広東 空襲 に際 し国民 政府 は赤 と緑 の明 かりを点滅 させて空爆 の為 の指示 を出 したとして、一 週間 で100人 以上 がスパイ容疑 で処刑 される(漢奸 狩 り)[47]。 - 9月21
日 -22日 -日本 陸軍 航空 部隊 、太 原 飛行場 を爆撃 。同 21日 には国際 連盟 の日 中 紛争 諮問 委員 会 が開催 [42]。
- 9月2
- 9月22
日 、第 二 次 国共 合作 が成立 する[32]。 日本 海軍 航空 隊 は9月23日 に南 昌 を、翌日 の9月24日 に漢 口 を爆撃 する[42]。
国際 連盟 の日本 空爆 への非難 決議
1937
和平 交渉 決裂 ・南京 占領 [編集 ]
- 1937
年 11月5日 -日本 軍 第 10軍 、杭州 湾 に上陸 。- 11月7
日 -中 支 那 方面 軍 編成 。 - 11月8
日 -日本 軍 (北 支 那 方面 軍 )、太 原 占領 。 - 11月9
日 - 蔣介石 、上海 から撤退 命令 。 - 11月11
日 、日本 軍 、上海 の最後 の拠点 南市 を占領 する[45]。同日 、ソビエト連邦 共産党 書記 長 ヨシフ・スターリンは蔣介石 に即時 参戦 の拒否 を伝 え、中国 が不利 になればソ連 は日本 と開戦 すると述 べた[43]。 - 11月19
日 には中 支 那 方面 軍 が蘇州 攻略 。 - 11月20
日 -日本 、大本営 設置 。同 11月 20日 、国民 政府 (蔣介石 )、南京 より重慶 移駐 を決定 [51]。 - 11月21
日 、ソ連 機 が南京 で対 日 戦 に参加 [43]。12月末 までに南京 のソ連 義勇 兵 は3665人 となった[43]。 - 11月22
日 -日本 、内 蒙 古 に蒙 疆連合 委員 会 を樹立 させる(後 に蒙 古 連合 自治 政府 )。
- 11月7
日本 軍 中 支 那 方面 軍 、11月27日 に無 錫 、11月29日 、常 州 を攻略 。11月28日 、日本 軍 は上海 の電信 、無線 局 、中国 政府 機関 を押 さえた[30]。
南京 戦
- 12月1
日 -大本営 、中 支 那 方面 軍 に南京 攻略 を許可 (南京 戦 )。 - 12月1
日 - 蔣介石 からの参戦 の催促 に対 してソ連 のスターリン共産党 書記 長 は、「日本 の挑戦 もなく参戦 すると侵略 行動 とみなされ、国際 世論 で日本 が有利 になる」と返答 し、単独 参戦 を拒否 した[43]。 - 12月10
日 -日本 軍 (中 支 那 方面 軍 )、南京 攻撃 開始 。 - 12月12
日 -中華民国 (国民党 )軍 南京 防衛 司令 官 の唐 生 智 大将 が南京 から逃走 。同日 、パナイ号 事件 が起 きるが、アメリカは日本 側 の謝罪 と賠償 を受 け入 れた。 - 12月13
日 -日本 軍 が南京 を占領 した[52]。国府 軍 捕虜 、敗残 兵 、便衣 兵 、民間 人 の大量 殺害 や強姦 を日本 軍 が行 った南京 事件 が起 きたが、事件 について論争 がある。 - 12月14
日 、日本 、北京 に中華民国 臨時 政府 を樹立 。 - 12月17
日 、中 支 那 方面 軍 、南京 入城 式 。12月18日 、日本 の陸海 軍 合同 慰霊 祭 を南京 故 宮 飛行場 において挙行 [53]。 - 12月23
日 、南京 で自治 委員 会 が設立 、治安 が回復 する[54][55]。
華北
華北 では12月23日 、第 十 師団 が黄河 を渡 り、12月27日 には山東 省 済 南 を占領 、翌 1938年 1月 11日 には山東 省 済 寧 を占領 する[56]。- 1938
年 1月 1日 、南京 自治 委員 会 の発会 式 が挙行 される。- 1
月 10日 -海軍 陸戦 隊 が青島 を占領 [56]。 - 1
月 11日 -御前 会議 、「支 那 事変 処理 根本 方針 」を決定 。 - 1
月 16日 、日本 政府 は「国民 政府 を対 手 とせず」の声明 (第 一 次 近衛 声明 )を出 し、日 中 和平 工作 が打 ち切 られた[50]。 - 2
月 7日 -中 ソ航空 協定 締結 。3月1日 、中 ソ間 で3000万 米 ドルの借款 が締結 された[43]。1937年 9月 から1941年 6月 までの間 にソ連 は中国 に、飛行機 924機 (爆 撃 機 318、戦闘 機 562ほか)、戦車 82両 、大砲 1140門 、機関 銃 9720丁 、歩兵 銃 50000丁 、弾薬 1億 8000万 発 、トラクター602両 、自動車 1516両 であった[43]。 - 2
月 14日 -中 支 那 方面 軍 ・上海 派遣 軍 ・第 10軍 を廃止 、中 支 那 派遣 軍 が編成 される[56]。 - 3月28
日 -日本 、南京 に中華民国 維新 政府 を樹立 させる。 - 4
月 1日 -日本 、国家 総動員 法 公布 。
- 1
徐 州 攻略 [編集 ]
4
- 5
月 20日 -中国 軍機 2機 が九州 へ飛来 してビラ散布 。 - 5月26
日 -近衛 内閣 改造 によって6月 3日 には中国 戦線 の板垣 征四郎 が陸軍 大臣 、次官 に東条 英機 関東軍 参謀 長 が起用 され、中央 政府 に関東軍 勢力 が入 った [56]。関東軍 は華北 分離 をめざし、また蔣介石 への不信 を持 っていたが、宇垣 一成 外務 大臣 は蔣介石 を高 く評価 しており、対 中 観 が対立 していた [56]。宇垣 一成 外務 大臣 は香港 の中村 豊一 領事 に、国民党 孔 祥 熙の秘書 喬 輔三との和平 工作 (宇垣 工作 )を6月 から9月 まで進行 させた[56]。
漢 口 ・広東 攻略 [編集 ]
1938
- 10月27
日 -日本 軍 (中 支 那 派遣 軍 )、武漢 三 鎮を占領 。武漢 作戦 の兵力 は35万 、第 2軍 戦死 2300、戦傷 7300、第 11軍 戦死 4506、戦傷 17380人 だった[58]。武漢 と、広東 の占領 によって日本 の軍事 行動 は頂点 に達 した[58]。武漢 陥落 によって蔣介石 は重慶 に政府 を移 した[51]。
日本 の東亜 新 秩序 宣言
- 1938
年 11月3日 -近衛 首相 は、国民 政府 はすでに一 地方 政府 にすぎず、抗日 政策 を続 けるならば壊滅 するまで矛 を納 めないと述 べたうえで、日本 の目的 は「東亜 永遠 の安定 を確保 すべき新 秩序 の建設 に在 り」、国民 政府 が抗日 政策 を放棄 すれば新 秩序 参加 を拒 まないとの東亜 新 秩序 声明 (第 二 次 近衛 声明 )を出 した[58]。蔣介石 は12月28日 、「東亜 新 秩序 」は中国 の奴隷 化 と世界 の分割 支配 を意図 していると批判 、アメリカ合衆国 も承認 できないと日本 を批判 した[58]。
12月6
汪 兆 銘 の重慶 脱出 と日本 の対応
12月18
1939
1939
- 4
月 -中国 軍 、南 支 で春季 反撃 作戦 。
5月3
- 5
月 初 め -日本 軍 、襄 東 作戦 。 - 5月7
日 、板垣 陸相 は、支 那 事変 が解決 されないのはソ連 とイギリスの援助 によるとして、ドイツとイタリアとの軍事 同盟 が必要 と五 相 会議 で述 べた[59]。 - 5月11
日 、ノモンハン事件 勃発 (日 ソ武力 衝突 )。 - 6月13
日 -ソ連 、国民 政府 に対 し1億 5000万 ドルの借款 を供与 。
6月14
- 6月21
日 -日本 軍 、汕頭占領 。
イギリスが
- 8
月 23日 -独 ソ不可侵 条約 締結 。8月28日 、平沼 内閣 、総 辞職 、阿部 信行 内閣 となる[59]。 - 9月1
日 -欧州 で第 二 次 世界 大戦 勃発 。阿部 内閣 は不 介入 を声明 する[59]。 - 9月15
日 - ノモンハン事件 停戦 協定 成立 。 - 9
月 下旬 -日本 軍 、贛湘作戦 、(贛は、江西 地域 のこと)。 - 10月 -
日本 軍 、翁 英 作戦 。 - 11月7
日 -北 支 で日本 兵 捕虜 が日本 兵士 覚醒 連盟 を結成 。 - 11月 -
日本 軍 、援蔣ルート遮断 を目的 とする南 寧 作戦 を実施 。24日 に南 寧 占領 。 - 11月30
日 -日本 政府 、フランスに仏 印 経由 での援蔣行為 の停止 を要求 。 - 12月 -
中国 軍 、全 戦線 で冬季 大 攻勢 を開始 。崑 崙関の戦 い。 - 12月13
日 -日本 軍 、九 宮山 作戦 。 - 12月 -
日本 軍 、陸 水 作戦 。 - 12月25
日 -桂 林 で鹿地 亘 らが日本人 民 反戦 同盟 を結成 。
汪 兆 銘 南京 政府 樹立 [編集 ]
1939
1940
- 1
月 下旬 -日本 軍 、賓 陽 作戦 。 - 2
月 2日 -日本 、衆議院 で斎藤 隆夫 議員 が対 中国 政策 を批判 (反軍 演説 。3月7日 議員 除名 )。 - 3月30
日 -汪 兆 銘 、南京 で親日 政府 樹立 (中華民国 南京 国民 政府 )[60]。
三 国 同盟 と英 米 交渉 [編集 ]
1940
5月18
- 1940
年 7月 11日 、アメリカは日本 に対 して、武力 による領土 獲得 政策 を堅持 する諸国 と協調 するのか、という確認 をしたが、米 内内 閣 は答弁 することがないまま、陸軍 の総意 によって[60]倒壊 し、7月 21日 に第 二 次 近衛 内 閣 が成立 する[59]。
7
- 8
月 20日 〜12月5日 - 20万 の八 路 軍 が、山西 から河北 にかけての鉄道 、通信 網 、日本 軍 警備 拠点 を一斉 攻撃 し、大 攻勢 をかけた百 団 大戦 が展開 される[62]。日本 軍 は不意 をつかれ、以後 「敵性 住民 」の死滅 も認 めた報復 攻撃 によって八 路 軍 の抗日 根拠地 の掃討 作戦 を開始 し、中国 はこれを三光 作戦 と呼 んだ[62]。この掃討 作戦 では毒 ガスも使用 されたといわれ、八 路 軍 の抗日 根拠地 のなかには人口 が3分 の2になった地区 もあった[62]。 - 1940
年 9月 14日 、松岡 外相 は陸海 軍 首脳 会議 において「英 米 との連携 は不可能 ではないが、しかしそのためには支 那 事変 を処理 しなくてはならず」「残 された道 は独 伊 との提携 」と主張 、陸海 首脳 はこれに同意 した[51]。9月23日 、日本 軍 、北部 仏 印 進駐 。9月25日 、米国 、国民 政府 に対 し2500万 ドルの借款 を供与 。9月27日 には日 独 伊 三 国 同盟 が締結 される[51]。9月30日 、米国 、鉄鋼 ・屑鉄 の対 日 輸出 を禁止 する法令 を発布 [51]。日本 はこれに抗議 したが、ハル国務 長官 は、アメリカの国防 上 の判断 であるとして抗議 を拒絶 した[51]。 - 9
月 末 -日本 陸軍 今井 武夫 大佐 らの蔣介石 夫人 宋 美 齢 の弟 宋 子 良 への日 中 和平 工作 (桐 工作 )を行 っていたが、進展 せず、断念 (のちに宋 子 良 を称 した人物 は偽物 で、この和平 工作 は藍 衣 社 の戴笠の指揮 下 に行 われていたことが分 かっている)[51]。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/Second_Sino-Japanese_War_WW2.png/220px-Second_Sino-Japanese_War_WW2.png)
- 10月4
日 、イギリスはビルマルート再開 を中国 側 に通知 する[51]。同日 、日本 軍 731部隊 が衢県において細菌 戦 を実行 したとされる[63]。 - 10月23
日 、日本 首脳 会議 で英 米 依存 経済 から自給 圏 確立 のために南方 問題 を武力 解決 する方針 が確認 された[51]。 - 11月〜12月 -
日本 軍 、漢 水 作戦 。11月には支 那 派遣 軍 の兵力 は20個 中隊 、総計 72万 8000人 であった[51]。11月23日 日本 は御前 会議 で支 那 事変 処理 要綱 を決定 、これは1938年 11月30日 の日 支 新 関係 調整 方針 と比較 すると宥和 的 なものであった[51]。11月30日 、日本 は汪 兆 銘 南京 政府 と日 華 基本 条約 に調印 し日 満 華 共同 宣言 を発表 、南京 政府 を中国 中央 政府 として正式 承認 した[51]。米 英 は即座 に汪 兆 銘 政府 を否認 、米国 は国民 政府 に対 して借款 の追加 供与 1億 ドル、12月10日 には英国 も国民 政府 に一 千 万 ポンドの借款 を供与 すると発表 した[51]。12月11日 、ソ連 も国民 政府 に対 し1億 元 の借款 を供与 (バーター決済 )。12月13日 、蔣介石 はアメリカに航空機 5〜10%の提供 、日本 本土 遠距離 爆 撃 のためにB17戦略 爆撃 機 を要請 した[51]。 - 12月18
日 -英国 、援蔣ルート(ビルマルート)を再開 。 - 1941
年 (昭和 16年 )1月 7日 、国民 政府 の移動 命令 に応 じなかった共産党 との間 で対立 が激化 し、国民党 軍 の包囲 作戦 によって共産党 軍 は壊滅 的 打撃 を受 けた(皖南事変 )[51]。1月25日 、蔣介石 はスターリンに軍律 の問題 に過 ぎないと答 えた[51]。 - 1
月 〜2月 -日本 軍 、予 南 作戦 、3月15日 、錦江 作戦 。 - 4
月 -米国 、国民 政府 に5千 万 ドル借款 成立 、中 ソ中立 条約 成立 [要 出典 ]。 - 4
月 13日 -日 ソ中立 条約 調印 。蔣介石 は衝撃 を受 けるが、ソ連 は軍事 援助 はこれまで通 り継続 するとした[64]。
アジア太平洋戦争 下 の中国 戦線 [編集 ]
日米 交渉 と太平洋戦争 (第 二 次 世界 大戦 )[編集 ]
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking%2C_China.jpg/220px-Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking%2C_China.jpg)
1941
- 5月 - アメリカ、
対 中 武器 貸与 法 発動 。 - 5月 -
日本 軍 、江北 作戦 。5月7日 〜6月15日 -北 支 那 方面 軍 、中原 会戦 (百 号 作戦 )。5月〜8月 末 -日本 軍 、再 び重慶 を大 空襲 (一 〇二 号 作戦 )。8月、遠藤 三郎 第 三 飛行 団長 は重慶 爆 撃 の有効 性 に疑問 を呈 し、再 検討 を要請 した[51]。 - 6
月 - シンガポールで英 ・蔣軍事 会議 。
6月22
- 9月5
日 〜11月6日 -第 一 次長 沙 作戦 (加 号 作戦 )。 - 10月 - マニラで
英 米 蘭 中 の軍事 会談 。 - 10月16
日 、近衛 内閣 総 辞職 、18日 、東条 内閣 成立 [65]。11月1日 から翌日 午前 1時半 までの会議 で、自存 自衛 を完 し大 東亜 新 秩序 を建設 するための米 英 蘭 戦争 を決意 するとともに、対 米 交渉 が12月1日 までに成功 すれば武力 発動 を中止 するという帝国 国策 遂行 要領 が採択 された[65]。対 米 案 では甲乙 二 案 が了承 され、甲 案 では、これまでに日 中 提携 が消 えて、中国 での通商 無 差別 原則 の無条件 承認 を認 める譲歩 をし、また和平 成立 後 2年 で撤兵 するとされ、満 洲 については議題 として触 れないというものであった[65]。乙 案 は、南方 に限定 したもので仏 印 南部 の日本 軍 の北部 移駐 、在米 資産 の凍結 復帰 などが書 かれ、11月7日 に甲 案 が11月20日 に乙 案 がハル国務 長官 に提示 された[65]。 - 11月22
日 -米 国務 長官 ハル、暫定 協定 案 を纏 め、ワシントンの英 蘭 濠 中 代表 に日本 の乙 案 を提示 したうえで、南部 仏 印 からの日本 軍 撤退 と対 日 禁輸 の一部 解除 というアメリカの対案 を提示 したが、中国 の胡 適 大使 はこれでは日本 は対 中 戦争 を自由 に遂行 することが可能 だとして強 く反対 した[65]。11月24日 、ハルは英 蘭 濠 中 代表 の説得 を再度 行 ったが中国 側 は北部 仏 印 の日本 軍 25000を5000にするよう求 めて譲 らなかった[65]。蔣介石 はアメリカは中国 を犠牲 にして日本 と妥協 しようとしているとして激怒 、ラティモアは蔣介石 がここまで怒 るのははじめてだと米 大統領 に報告 した[65]。さらに蔣介石 はスティムソン陸軍 長官 、ノックス海軍 長官 にも親書 を送 り、チャーチルももし中国 が崩壊 すれば英国 も危機 に瀕 するとしてルーズベルト大統領 を説得 した[65]。11月26日 -米 国務 長官 ハルは暫定 協定 案 を放棄 し、ハル・ノートを作成 。同日 野村 ・来栖 両 大使 へ手交 。日本 はこれを最後 通牒 と解 し、対 米 開戦 に傾 く。 - 12月〜
翌年 1月 -第 二 次長 沙 作戦 。
大 東亜 戦争 (太平洋戦争 )開戦
- 12月8
日 -日本 、上海 で降伏 勧告 に応 じなかったイギリス砲艦 ペトレル号 を撃沈 、華北 では天津 英 仏 租界 の接収 、華南 沙 面 イギリス租界 へも進駐 、マレ ー半島 上陸 、及 び真珠湾 攻撃 。広東 第 23軍 、香港 攻略 開始 (香港 の戦 い)。こうして第 二 次 世界 大戦 (大 東亜 戦争 /太平洋戦争 )が勃発 する。日米 開戦 のニュースに重慶 の国民 政府 は狂喜 した[65]。12月9日 -中華民国 (重慶 政府 、蔣介石 政権 )、日 独 伊 に宣戦 布告 [65]。 - 12月12
日 -日本 、対 米 英 戦争 を支 那 事変 (対 中国 戦線 )も含 めて「大 東亜 戦争 」と呼称 することを閣議 決定 する。同日 、スターリンは蔣介石 の参戦 催促 に対 して兵力 を極東 にさくことはできないため対 日 参戦 は考 えられないと答 えた[65]。 - 12月25
日 -日本 軍 、香港 占領 。 - 12月31
日 、アメリカの要請 で蔣介石 は中国 戦 区 連合 軍 総 司令 官 に就任 、蔣介石 の希望 でジョセフ・スティルウェルが中国 国民党 軍 参謀 長 に就任 する[65]。
1942
- 1
月 31日 -日本 軍 、ビルマ攻略 開始 (援蔣ルートの遮断 )。 - 3月 -
米国 、国民 政府 に5億 ドル借款 成立 。 - 5月〜9月 - 浙贛
作戦 (せ号 作戦 )、浙は浙江 省 、贛は江西 省 の旧称 。 - 5
月 末 -日本 軍 、ビルマ全域 を占領 。 - 10月 -
英 米 、中国 における治外法権 を撤廃 (不平等 条約 の廃止 )。
- 1943
年 (昭和 18年 )
- 1
月 -延 安 で「日本人 解放 連盟 」成立 、前線 の日本 兵 へ投降 の呼 びかけ。 - 1
月 9日 -日本 ・南京 国民 政府 (汪 兆 銘 政権 )は、日 華 共同 声明 を発表 。汪 兆 銘 政権 、米 英 に宣戦 布告 。日 華 協定 を締結 (日本 の南京 政府 への租界 返還 ・治外法権 撤廃 など)。 - 1
月 11日 -国民 政府 、英 米 両国 と治外法権 撤廃 についての条約 を締結 。 - 1
月 14日 - イタリア、南京 政府 に対 し租界 返還 ・治外法権 撤廃 を通告 。 - 2
月 21日 -日本 軍 、フランス(ヴィシー政府 )側 の了解 (広州 湾 共同 防衛 協議 )を得 て、広州 湾 のフランス租界 (広州 湾 租借 地 )に進駐 。 - 2
月 〜3月 -江北 殲滅 作戦 、江北 は武漢 の西方 、揚子江 の北側 。 - 5月〜6月 -
江南 殲滅 作戦 。 - 10月30
日 -日本 ・南京 政府 が新 たな同盟 条約 に調印 。 - 11月〜
翌年 1月 -常徳 殲滅 作戦 、常徳 は武漢 の南西 。 - 11月22
日 〜11月26日 - カイロで英 米 中 首脳 会談 (カイロ会談 )。 - 11月25
日 -台湾 を米 中 連合 航空 隊 が空襲 (新 竹 空襲 )。
- 1944
年 (昭和 19年 )
- 6月2
日 〜9月14日 -拉 孟 ・騰 越 の戦 いにおいて日本 軍 守備 隊 の玉砕 。同地 の失陥 によって援蔣ルート(ビルマルート)再開 。 - 6月16
日 -成都 を基地 とするアメリカ軍 B-29爆撃 機 が、日本 本土 を空襲 開始 (八幡 空襲 )。 - 6月18
日 -日本 軍 、長 沙 を攻略 。 - 7
月 2日 - インパール作戦 の失敗 により、援蔣ルート遮断 の継続 を目的 とする断 作戦 を新 たに発令 。 - 7
月 7日 - サイパン陥落 。アメリカ軍 は成都 に替 わるB-29による日本 本土 爆 撃 拠点 を確保 。 - 11月10
日 -汪 兆 銘 が客死 。
- 1945
年 (昭和 20年 )
- 1
月 -新 たな援蔣ルートであるレド公 路 が開通 。 - 1
月 7日 -成都 から出撃 したB-29爆撃 機 が大村 を空襲 。これを最後 に成都 からの日本 本土 空襲 は打 ち切 り。 - 2
月 4日 〜2月 11日 - ヤルタ会談 での戦後 処理 議題 で蔣介石 は満 洲 支配 の権益 をソ連 に譲 ることを約束 。 - 3月3
日 〜4月 11日 -老 河口 作戦 。日本 軍 が老 河口 飛行場 を占領 。 - 4
月 15日 〜5月9日 - 芷江作戦 (二 〇号 作戦 )。中国 軍 の反撃 を受 けた日本 軍 は芷江飛行場 の手前 、白馬山 付近 までしか進 めず死傷 2万 8000の損害 を被 って敗退 。 - 5月25
日 -日本 軍 、南 寧 を放棄 - 8
月 6日 、8月 9日 - アメリカ、広島 ・長崎 へ原子 爆 弾 を投下 。(日本 への原子 爆 弾 投下 ) - 8
月 8日 -ソ連 、日 ソ中立 条約 を破棄 し、満 洲 国 ・朝鮮半島 に侵攻 。 - 8
月 14日 -葛根 廟 事件 (ソ連 軍 、日本人 避難 民 を虐殺 )[66][67]、ポツダム宣言 受諾 。 - 8
月 15日 -日本 、連合 国 に対 しポツダム宣言 の受諾 を正式 に表明 。(日本 の降伏 ) - 8
月 17日 -満 洲 国 皇帝 溥儀 が退位 宣言 。満 洲 国 が消滅 。 - 9月2
日 -日本 、連合 国 、米 戦艦 ミズーリ号 にて降伏 文書 に調印 。 - 9月9
日 -南京 にて連合 国 主催 の調印 式 が行 われ、支 那 派遣 軍 総 司令 官 岡村 寧 次 大将 、中華民国 陸軍 総 司令 何 応 欽、降伏 文書 に調印 。
登場 勢力 の立場 と目的 [編集 ]
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大日本帝国 満 洲 国 独立 によって日 中 は安定 し、東 アジアの平和 秩序 が図 られるとした(天羽 声明 )[68]。また、日 中 戦争 (支 那 事変 )は明確 な開戦 決意 でなく偶発 的 に開戦 したため戦争 目的 を確立 するまでに時間 がかかった[69]。そのため、対 英 米 蘭 戦 の大 東亜 戦争 (日 中 戦争 (支 那 事変 )および太平洋戦争 )の際 には開戦 目的 が明確 化 され、日本 側 の戦争 目的 は「自存 自衛 」と「(西洋 帝国 主義 からの)アジア解放 」を柱 とした[69]。東亜 新 秩序 ・大 東亜 共栄 圏 の確立 によってアジア解放 は実現 されると主張 された[69]。日本 軍 は中国 軍 の戦意 を過小 評価 し、短期間 で戦争 が終結 すると考 えていたが、12月の首都 南京 陥落 後 も、国民 政府 は首都 を内陸 部 の重慶 に移 して徹底 抗戦 の構 えを見 せ、戦争 は長期 化 の兆候 を示 し始 めた。これに対 して、不拡大 派 の石原 莞爾 作戦 部長 はソビエト連邦 への警戒 を第 一 とし中国 での戦争 を拡大 するべきでないと主張 。戦争 の早期 終結 を目指 す参謀 本部 も長期 化 に反対 の姿勢 を見 せた。駐 華 ドイツ大使 トラウトマンによる和平 工作 も模索 され、蔣介石 も一時 講和 に前向 きな姿勢 を見 せたものの、南京 陥落 で強硬 姿勢 に転 じた近衛 内閣 が和平 条件 の要求 を過重 なものにしたため、蔣介石 は態度 を硬化 させることとなった。大本営 政府 連絡 会議 の中 で、参謀 本部 は近衛 内 閣 政府 の和平 交渉 打切 り案 に激 しく反対 したが、米 内海 相 などからの戦時 中 に内閣 退陣 を起 すことを避 けるべしとの意見 に折 れた[70]。近衛 内 閣 は蔣介石 との和平 交渉 を打 ち切 り、「帝國 政府 は爾後 国民 政府 を対 手 とせず」との声明 を出 す一方 、蔣介石 と対立 する汪 兆 銘 と講和 することで問題 解決 を図 ろうとした。その後 、戦争 終結 のため援蔣ルートの遮断 を狙 い、ヴィシー政権 のフランスと合意 の上 、フランス領 インドシナへと進駐 したが、このことが東南 アジアを植民 地 にしていたアメリカやイギリス、オランダなどを刺激 することとなり、アメリカは経済 制裁 を発動 し、太平洋戦争 (大 東亜 戦争 )に至 る[要 出典 ]。満 洲 国 - ソビエト
連邦 と対峙 する関東軍 の後方 支援 に終始 し、蔣介石 中華民国 政府 とはほとんど交戦 しなかった。 蒙 古 聯合 自治 政府 盧溝橋 事件 勃発 後 、内 蒙 古 へ本格 出兵 した日本 軍 に応 じる形 で1937年 に樹立 された蒙 古 連盟 ・察南・晋 北 の3自治 政府 を、1939年 に統合 して蒙 古 連合 自治 政府 が樹立 された。名目 としては汪 兆銘中華民国南京国民政府下 の自治 政府 という位置 づけだった。冀東
防共 自治 政府 - 1935
年 から1938年 まで殷 汝 耕 によって河北 省 に存在 した地方 政権 。中華民国 臨時 政府 に合流 。 中華民国 臨時 政府 (北京 )- 1937
年 から1940年 まで王 克敏 を首脳 として北京 に存在 した。日本 に同調 し、日本 の傀儡 政権 ともいわれた。汪 兆 銘 政権 (南京 政府 )が成立 すると華北 政務 委員 会 となった。 中華民国 維新 政府 - 1938
年 から1940年 まで南京 に存在 した。日本 の傀儡 政権 。汪 兆 銘 政権 (南京 政府 )へ編入 。 中華民国 (汪 兆 銘 政権 )日本 との徹底 抗戦 を主張 する蔣介石 に対 して、当時 の日本 の首相 近衛 文麿 は「帝国 政府 は爾後 国民 政府 を対 手 とせず」「新興 支 那 政権 の成立 発展 を期待 する」との近衛 声明 を出 し、自 ら和平 の道 を閉 ざした。その後 、蔣介石 に代 わる新 たな交渉 相手 として国民党 No.2である汪 兆 銘 による中国 国民党 政権 を樹立 させた。汪 は蔣介石 の督戦 隊 戦法 やゲリラ戦術 、清野 戦術 などの中国 民衆 を巻 き込 んだ戦法 に強 い反発 と孫 文 による「日 中 戦 うべからず」の遺訓 から「一 面 抵抗 、一 面 交渉 」の基本 姿勢 のもと、反共 ・和平 解決 を掲 げ、1938年 に蔣介石 の中華民国 政府 から離反 した。汪 は日本 の力 を背景 として北平 の中華民国 臨時 政府 や南京 の中華民国 維新 政府 などを集結 して、1940年 に蔣介石 とは別個 の国民 政府 を設立 したが、蔣介石 の国民 政府 から汪 兆 銘 に追随 するものがいなかった上 、北 支 ・中 支 などの一部 の軍閥 を除 き、中国 各地 を支配 していた多 くの諸 軍閥 に支持 されず、国際 的 な承認 も得 られなかった[71]。主 に共産党 軍 を相手 に戦 った。中華民国 (蔣介石 政権 )孫 文 死後 、国内 は再 び分裂 状態 となり、国民党 右派 の中心 人物 である蔣介石 率 いる国民 革命 軍 と影響 力 を強 める中国 国民党 などの間 で内戦 が繰 り広 げられた。1927年 (昭和 2年 )蔣は北 伐 で大敗 し最大 の危機 を迎 えると恩人 である松井 石 根 を通 じ時 の田中 義一 首相 と会談 し、蒙 古 ・満 洲 問題 を引 き換 えに日本 から北 伐 の援助 を引 き出 し、張 作 霖を満 洲 に引 き上 げさせることに成功 した。この際 、張 作 霖が関東軍 に謀殺 され、張 学 良 は国民党 に合流 。1931年 (昭和 6年 )満 洲 事変 が発生 した。1932年 (昭和 7年 )汪 兆 銘 と蔣介石 の見方 が一致 すると両者 は協力 して南京 で国民 政府 を組織 する。1933年 (昭和 8年 )には日本 との間 で塘沽停戦 協定 が締結 されると1935年 (昭和 10年 )、広田 弘毅 外相 が議会 姿勢 演説 で「日 中 双方 の不 脅威 ・不 侵略 」を強調 、日本 はアジアの諸国 と共 に東洋 平和 および、秩序 維持 の重責 を分担 すると発言 。汪 兆 銘 と蔣の指導 する中華民国 はこれを受 け入 れ、反日 感情 を戒 め、日 中 和平 路線 が着々 と進 められたが、中国共産党 などは一部 はこれを喜 ばず、1935年 11月、国民党 六 中 全国 大会 中 に汪 はカメラマンに扮 した中国共産党 の刺客 から狙撃 され負傷 、療養 のためヨーロッパへ渡航 。1936年 には日本 に強 い不信 を持 っていた張 学 良 は西安 事件 を起 こして蔣に対 共 姿勢 から対 日 姿勢 への改心 を求 め中国 国民党 と中国共産党 の間 で第 二 次 国共 合作 が成立 した。蔣は当時 北 支 に駐屯 していた日本 軍 との間 で起 きた盧溝橋 事件 を発端 に「最後 の関頭 」演説 を宣言 、中国 国内 では国民党 勢力 下 の兵士 や市民 が抗日 事件 を起 こし一 層 日 中 関係 は逼迫 した。郎 坊 事件 、広安 門 事件 などの紛争 をきっかけに戦火 は各地 に飛 び火 し、中国 全土 で国民 革命 軍 の存亡 をかけた徹底 抗戦 (ゲリラ戦 )が展開 された。装備 などの面 で劣勢 にあった国民 革命 軍 は国民党 中央 宣伝 部 国際 宣伝 処 [72] を組織 し謀略 をして国際 世論 を味方 につけてアメリカ合衆国 から支援 (援蔣ルート等 )を引 き出 した。1941年 (昭和 16年 )11月、アメリカ合衆国 は日本 に仏 印 兵力 の現状 維持 を含 む暫定 協定 を提示 する意向 であったが、半 ば見捨 てられる形 となった蔣は、英 首相 ウィンストン・チャーチルのコネクションを通 じて抗議 した[注釈 11]。これが一因 となり暫定 協定 は撤回 され、ハル・ノートが通告 され、太平洋戦争 (大 東亜 戦争 )に至 る[73]。中国共産党 (八 路 軍 、新 四 軍 )- 蔣介
石 国民党 政府 以前 の1932年 に中華 ソビエト共和 国 として日本 に宣戦 布告 を行 ったが、当時 は主権 国家 としての規模 はなく、また日本 よりも前 に国民党 を打倒 しなければならないとしていた[74]。国民党 とは国共 内戦 を戦 っていたが第 二 次 国共 合作 によって共産党 支配 地区 はソビエト(蘇 維埃)区 から辺 区 へと改名 し、共産党 軍 は労農 (工 農 )紅 軍 から国民党 八 路 軍 、新 四 軍 として蔣介石 政権 とともに抗日 戦争 、日本 帝国 主義 と戦 うとした。 アメリカ合衆国 日 中 戦争 (支 那 事変 )勃発 当初 はアジアで膨張 を続 ける日本 に対 する牽制 を狙 い、援蔣ルートを通 じて中華民国 に武器 をはじめとする軍事 物資 と人材 (訓練 教官 の派遣 など)を提供 。アメリカ合衆国 議会 は戦争 状態 にある国 への武器 輸出 を禁 じる中立 法 を維持 していたが、日 中 戦争 (支 那 事変 )の勃発 により、ルーズベルト大統領 はイギリス国籍 の船 がアメリカ製 の武器 を中国 へ輸送 することを許可 した。日本 も石油 をアメリカに大 きく依存 しており日 中共 に米国 に依存 しなければ戦争 継続 は困難 であった。その後 、仏 印 進駐 を機 に対 日 石油 輸出 を停止 し、ABCD包囲 網 、ハル・ノートが通告 を経 て真珠湾 攻撃 によって太平洋戦争 (大 東亜 戦争 )が勃発 すると本格 的 に日本 と戦争 関係 となる。ソビエト
連邦 公式 にソ連 軍 が参戦 するのは太平洋戦争 (大 東亜 戦争 )末期 の1945年 8月 8日 だが、すでに1920年代 より中国 で共産 勢力 を拡大 するため紅 軍 ら共産 主義 勢力 にたいして長期間 にわたり支援 を行 い、また国共 合作 が成立 してからは対 日 戦線 を全面 的 に支援 、張 鼓 峰 事件 やノモンハン事件 では関東軍 と交戦 している。なお、日本 は日 ソ中立 条約 を締結 していたソ連 を通 じ連合 国 との講和 を目指 したが、ソ連 対 日 参戦 により破綻 した。ドイツ
国 第 一 次 世界 大戦 の際 に日本 が東 アジア・太平洋 地域 におけるドイツの権益 を奪取 したという事実 とプロイセン(ドイツ皇帝 ヴィルヘルム2世 )時代 の黄禍 論 主義 思想 が対 日 政策 に影響 を及 ぼしていた。1935年 より中華民国 に対 して在 華 ドイツ軍事 顧問 団 を派遣 し陣地 構築 の指導 、軍事 訓練 や武器 の輸出 を行 った(中 独 合作 )。一方 、1936年 には日 独 防共 協定 を締結 するなど、日本 にも接近 しつつあった。1937年 に勃発 した第 2次 上海 事変 の際 には、ヒトラー承認 済 のもと[75]、蔣介石 の軍事 顧問 を務 めたファルケンハウゼンが直接 作戦 指導 にあたっている。日 中 間 の和平 交渉 を仲介 (トラウトマン工作 )するが、交渉 は決裂 。軍事 顧問 団 を引 き上 げることになる。日本 は日 独 関係 の悪化 を憂慮 し、鹵獲 したドイツ製 の武器 を「ソ連 製 または某国 製 」と偽 って公表 した。イギリス
基本 的 にアメリカ寄 りの政策 を取 ったが日本 側 の要請 で援蒋ルートを一時 閉鎖 する[51] などの独自 路線 も取 った。タイ
日本 の同盟 国 としてタイ国 外征 軍 、通称 パヤップ軍 を滇緬国境 方面 に派遣 した。オランダ
中立 国 だったが第 二 次 世界 大戦 を受 け米 英 に接近 し日本 と対立 日 蘭 会商 の決裂 により完全 な敵対 関係 に、アメリカ主導 のABCD包囲 網 にも参加 し蘭 印 作戦 により日本 と戦争 状態 になる。
参戦 勢力 の概要 [編集 ]
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日本 軍 軍装 ・装備 戦法 ・戦術 華北 の共産党 勢力 下 における治安 戦 において徹底的 な掃討 作戦 を実施 したと言 われる。参加 部隊
国民 革命 軍 :1937年 時点 で198師団 、総 兵力 225万 人 [24]。中国共産党 軍 :1937年 時点 で総 兵力 20万 人 [24]。戦法 ・戦術 日本 の中国 進出 に対 して国際 社会 の干渉 を生 じさせる「遠 くの敵 を近 くの敵 にけしかける」「蛮族 を制 するに蛮族 をもってする」という中国 伝統 の戦術 によってソ連 やアメリカ合衆国 の支援 をとりつけた[76]。国民党 軍 では赤軍 の手法 を模倣 し、督戦 隊 制度 を導入 した。また、兵士 には戦争 目的 の認識 や士気 が低 かったことから兵士 の戦闘 意欲 高揚 と戦線 離脱 防止 を目的 として、トーチカを守備 する兵士 や民間 人 (民兵 )の足 に鎖 をつけ、後方 から督戦 隊 を配置 して逃亡 を防 ぎ、最後 まで交戦 をさせた[注釈 12]。当時 、中国 では分裂 国家 で統一 国家 ではなく、日本 のような教育 や軍事 教練 なども十分 に行 われなかったこともあり、中国共産党 軍 は便衣 兵 ・ゲリラ戦 による奇襲 攻撃 を主 な戦法 とした。
参加 部隊 戦闘 序列 については以下 を参照 中国 住民 の徴発
皇 協 軍 軍装 ・装備 戦法 ・戦術 主 に共産党 勢力 と交戦 。参加 部隊 和平 建国 軍 満 洲 国軍 内 蒙 軍 華北 治安 軍 ソ連 軍 軍装 ・装備 戦法 ・戦術 参加 部隊 ソ連 空軍 志願 隊 - イギリス
軍 ・アメリカ軍 軍装 ・装備 戦法 ・戦術 参加 部隊 アメリカ合衆国 義勇軍 (AVG)
被害 [編集 ]
日本 軍 の犠牲 者 数
総計 44万 6500人 (陸軍 38万 4900人 、海軍 7600人 、終戦 後 の死亡 5万 4000人 )[78]——70万 人 とも[79]。また関東軍 はソ連 軍 に降伏 し、60万 がシベリアなどに抑留 、6万 人 が犠牲 になった[78]。
中国 の犠牲 者 数
1946 |
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1947 |
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1947 |
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1985 |
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1995 |
終戦 時 132万 人 - 1948
年 438万 人 - 1950
年 1000万 人 - 【
共産党 発表 】蔣介石 が1947年 に言 った「軍民 犠牲 者 一 千 万 人 」が始 まりで、概数 である[82]。 - 【
国民 政府 統計 】1947年 5月 中華民国 行政 院 賠償 委員 会 によると、軍人 死傷 者 365万 0405、一般人 死傷 者 913万 4569。ただし共産党 軍 と共産党 根拠地 の数字 は含 まれていないと思 われる。
- 【
- 1985
年 2100万 人 - 【
共産党 発表 】原文 は発見 されていない。おそらく「全国 軍民 死亡 」者 数 を指 すであろう。軍隊 戦死 者 100万 余 り、民間 人 約 2000万 。詳細 は次 に述 べる。
- 【
- 1995
年 3500万 人
国共 内戦 [編集 ]
残留 日本 兵 と残留 日本人 [編集 ]
戦後 処理 と戦争 賠償 [編集 ]
中華民国 軍 の四国 占領 計画 [編集 ]
サンフランシスコ平和 条約 [編集 ]
- フィリピンに5
億 5千 万 ドル - ベトナムに3900
万 ドル相当 の役務 と生産物 連合 国領 域内 の約 40億 ドル(日本円 で1兆 4400億 円 、昭和 26年 での一般 会計 歳入 は約 8954億 円 )の日本人 資産 は連合 国 に没収 され、収益 は各国 国民 に分配 。中立 国 および連合 国 の敵国 にある財産 と等価 の資金 として450万 ポンドを赤十字 国際 委員 会 に引 き渡 し、14国 合計 20万 人 の日本 軍 元 捕虜 に分配 。日本 財産 は朝鮮 702億 5600万 円 、台湾 425億 4200万 円 、中華民国 東北 1465億 3200万 円 、華北 554億 3700万 円 、華中 華南 が367億 1800万 円 、その他 樺太 、南洋 など280億 1400万 円 、合計 3794億 9900万 円 が連合 国 に引 き渡 された。
1945
このように
日 華 平和 条約 (1952)[編集 ]
サンフランシスコ
日 中 共同 声明 (1972)[編集 ]
1971
また
評価 [編集 ]
また
関連 作品 [編集 ]
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^
谷崎 潤一郎 『細雪 』「日 華 事変 が三 年 越 し片付 かないところへ持 って来 て」[4] - ^
日 支 事変 (満 洲 事変 と上海 事変 の総称 として使用 された例 もある)や日 華 事変 とも呼称 される。 - ^
中国語 圏 では、抗日 戦争 [6]、八 年 抗戰 、中日 戰爭 、中国 抗日 戦争 、中国 人民 抗日 战争、八 年 抗戦 などと呼称 される。 - ^
英語 圏 では、1894年 - 1895年 の日 清 戦争 を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第 一 次 支 那 日本 戦争 ")」などと称 し、1937年 - 1945年 の日 中 戦争 は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第 二 次 支 那 日本 戦争 ")」などと呼称 される。 - ^
当時 の朝日新聞 報道 では7月 10日 動員 令 、7月 17日 までに配備 完了 [25] - ^ 「
第 2次 上海 事変 はついに日 中 全面 戦争 に発展 するにいたった。」[33] - ^ 「
第 二 次 上海 事変 により (中略 )日 中 戦争 は日 中 全面 戦争 化 、長期 戦 化 する様相 となった」[35] - ^ 「[
全面 化 ]八 月 一 四 日 、国民 政府 は「自衛 抗戦 声明 書 」を発表 、翌 一 五 日 中国共産党 も「抗日 救国 十 大綱 領 」を提起 した。」[36] - ^ 「
八 月 に入 って第 二 次 上海 事変 が起 こり、戦火 は華中 一帯 にひろがった。中国 全土 を巻 きこんだ日本 と中国 との全面 戦争 となった。」[37] - ^ 『
皇国 暦日 史談 』は「「我 が海軍 航空 部隊 は支 那 事変 開始 直後 の9月 22日 月明 の3時 大挙 広東 を襲 い、更 に7時 、13時半 並 びに14時 の4回 に亙 り矢継早 に空襲 を繰 り返 したが敵 空軍 は己 に全滅 し高射 砲 も大半 破壊 して防空 の役立 たず、我 が空軍 は無人 の境 を行 くが如 くリレー式 に広東 市 の西北 より東 にかけ天 河 、白雲 両 飛行場 、兵器廠 、淨 塔 水源 池 、其 の他 工場 地帯 、政府 軍事 各 機関 、遠東 軍 管 学校 、中山 大学 、中山 紀 念 堂 外 重要 建設 物 を片 つ端 から徹底的 に爆撃 した。此のため広東 全市 は殆んど猛火 の巷 と化 し猛火 盛 んに上 り大 混乱 に陥 った。革命 の震源 地 、排日 の総 本家 たりし広東 も我 が正義 の前 に完膚 なきまでに叩 きのめされた。」と記 している。日置 英 剛 編 『年表 太平洋戦争 全 史 』国書刊行会 (2005)[要 ページ番号 ] - ^
当時 、英国 は劣勢 にあり、戦局 打開 のため欧州 戦線 への米国 の介入 を強 く希望 していた - ^ この
状況 は1939年 に作成 された日本 映画 『土 と兵隊 』(田坂 具 隆 監督 )にも描写 されている。 - ^
日本 国 との平和 条約 第 14条 (b)「連合 国 は、連合 国 の全 ての賠償 請求 権 、戦争 の遂行 中 に日本 国 及 びその国民 がとった行動 から生 じた連合 国 及 びその国民 の他 の請求 権 、占領 の直接 軍事 費 に関 する連合 国 の請求 権 を放棄 」 - ^ 「
中華民国 は日本 国民 に対 する寛厚 と善意 の表徴 として、日本 国 が提供 すべき役務 の利益 (賠償 )を自発 的 に放棄 する」[95] - ^
第 174回 国会 衆議院 法務 委員 会 (2010年 5月 11日 )における西村 智 奈美 外務 大臣 政務 官 の発言 「サンフランシスコ平和 条約 十 四 条 と日 華 平和 条約 の関係 からまず申 し上 げますと、日 華 平和 条約 第 十 一 条 及 びサンフランシスコ平和 条約 第 十 四 条 (b)により、中国 及 びその国民 の日本 国 及 びその国民 に対 する請求 権 は放棄 されております。一 九 七 二 年 の日 中 共同 声明 第 五 項 に言 うところの戦争 賠償 の請求 は、中国 及 びその国民 の日本 国 及 びその国民 に対 する請求 権 を含 むものとして、中華人民共和国 政府 がその放棄 を宣言 したものでございます。したがって、さきの大戦 に係 る日 中 間 における請求 権 の問題 につきましては、個人 の請求 権 の問題 も含 めて、一 九 七 二 年 の日 中 共同 声明 発出 後 、存在 しておらず、このような認識 は中国 側 も同様 であるというふうに認識 をしております。」[102] - ^ 「サンフランシスコ
平和 条約 の枠組 みと異 なる処理 が行 われたものと解 することはできない」。また条約 法 に関 するウィーン条約 34条 では第三国 の義務 や権利 を当該 国 の同意 なしに創設 できない、35条 では当該 国 が書面 により当該 義務 を明示 的 に受 け入 れる場合 に限 って義務 を負 うと定 めており、中国 はサンフランシスコ平和 条約 と日 中 共同 声明 の枠組 みを肯定 しており、それ以外 の義務 を書面 で確約 したことはない。
出典 [編集 ]
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参考 文献 [編集 ]
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関連 項目 [編集 ]
外部 リンク[編集 ]
日 中 歴史 共同 研究 (概要 ) (外務省 )- 『
日本 外交 文書 日 中 戦争 』(全 4冊 ) (外務省 ) - 「
特別 展示 日 中 戦争 と日本 外交 〈展示 史料 解説 〉 (外務省 ) - 『
日 中 戦争 』 - コトバンク