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にちちゅう戦争せんそう

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きたささえ事変じへんから転送てんそう
にちちゅう戦争せんそう

左上ひだりうえから時計とけいまわりにだい上海しゃんはい事変じへんでのガスマスク装着そうちゃくした日本にっぽん海軍かいぐん上海しゃんはい特別とくべつ陸戦りくせんたい大陸たいりくどおり作戦さくせんでの日本にっぽん陸軍りくぐん部隊ぶたい南京なんきん事件じけん被害ひがいしゃとされる写真しゃしん武漢ぶかん作戦さくせんでの中国ちゅうごくぐん部隊ぶたい重慶たーちんばくげきおこな日本にっぽん陸軍りくぐんきゅうななしきじゅう爆撃ばくげきビルマのたたかでの中国ちゅうごくぐん行進こうしん
戦争せんそうにちちゅう戦争せんそう1941ねん12月8にちより太平洋戦争たいへいようせんそう一部いちぶとなる。)[1]
年月日ねんがっぴ1937ねん7がつ7にち1945ねん8がつ15にち[1]
場所ばしょ中国ちゅうごくえいりょうビルマなど[1]
結果けっか中国ちゅうごくがわ勝利しょうり日本にっぽん降伏ごうぶく[1]
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
満洲国の旗 まんしゅうこく
蒙古聯合自治政府の旗 こうむ聯合れんごう自治じち政府せいふ
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
タイ王国の旗 タイ王国おうこく
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう(1937-1941,1945)
イギリスの旗 イギリス帝国ていこく
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく(1937-1938)
オランダの旗 オランダ(1942-1945)
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 近衛このえ文麿ふみまろ
大日本帝国の旗 平沼ひらぬま騏一郎きいちろう
大日本帝国の旗 阿部あべ信行のぶゆき
大日本帝国の旗 米内よない光政みつまさ
大日本帝国の旗 東條とうじょう英機ひでき
大日本帝国の旗 小磯こいそ國昭くにあき
大日本帝国の旗 鈴木すずき貫太郎かんたろう
大日本帝国の旗 香月かつき清司せいじ
大日本帝国の旗 松井まついいし
大日本帝国の旗 朝香あさかみやばと彦王
大日本帝国の旗 寺内てらうち寿一ひさいち
大日本帝国の旗 杉山すぎやまはじめ
大日本帝国の旗 西尾にしお寿ひさしづくり
大日本帝国の旗 はた俊六しゅんろく
大日本帝国の旗 岡村おかむらやすし
大日本帝国の旗 多田ただ駿しゅん
大日本帝国の旗 岡部おかべ直三郎なおさぶろう
大日本帝国の旗 下村しもむらじょう
大日本帝国の旗 山田やまだおつさん
大日本帝国の旗 安藤あんどう利吉としきち
大日本帝国の旗 後宮こうきゅうあつし
満洲国の旗 あいしんさとし溥儀ふぎ
満洲国の旗 ちょうけいめぐみ
蒙古聯合自治政府の旗 デムチュクドンロブ
蒙古聯合自治政府の旗 まもるしん
中華民国の旗 ひろしちょうめい
中華民国の旗 ちん公博きみひろ
中華民国の旗 しゅうふつうみ
タイ王国の旗 プレーク・ピブーンソンクラーム
中華民国の旗 蔣介せき
中華民国の旗 そうよしよわい
中華民国の旗 なにおう
中華民国の旗 はくたかし
中華民国の旗 じょ永昌えいしょう
中華民国の旗 ちんまこと
中華民国の旗 ほどせん
中華民国の旗 閻錫やま
中華民国の旗 玉祥ぎょくしょう
中華民国の旗 そうひとし
中華民国の旗 まもるたて
中華民国の旗 顧祝同こしゅくどう
中華民国の旗 薛岳
中華民国の旗 えびすそうみなみ
中華民国の旗 りゅう
中華民国の旗 まごれんなか
中華民国の旗 かんはかりごと
中華民国の旗 しゅ紹良
中華民国の旗 ひんせん
中華民国の旗 でんつくるよし
中華民国の旗中国共産党の旗 毛沢東もうたくとう
中華民国の旗中国共産党の旗 しゅいさお
中華民国の旗中国共産党の旗 彭徳ふところ
中華民国の旗中国共産党の旗 つるぎえい
アメリカ合衆国の旗 フランクリン・ルーズベルト
アメリカ合衆国の旗ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国の旗 クレア・リー・シェンノート
アメリカ合衆国の旗ジョセフ・スティルウェル
アメリカ合衆国の旗アルバート・ウェデマイヤー
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 パーヴェル・ルィチャゴフ
ナチス・ドイツの旗 アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン
戦力せんりょく
陸軍りくぐん105まん5700にん
海軍かいぐん6まん9200にん[2]
500まんにん - すうせんまんにん[3]
損害そんがい
やく43まんにん戦死せんしやく100まんにん負傷ふしょう[1] 300まんにん - 3500まんにん戦死せんし不明ふめい(やく1おくにんとも推測すいそくされる)負傷ふしょう[1]

にちちゅう戦争せんそうにっちゅうせんそうは、盧溝橋ろこうきょう事件じけんにより発生はっせいした、1937ねん昭和しょうわ12ねん7がつ7にちから1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ15にちまで、大日本帝国だいにっぽんていこく蔣介せきひきいる中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふあいだおこなわれた戦争せんそうである。ささえ事変じへん(しなじへん)、にちはな事変じへん(にっかじへん)[注釈ちゅうしゃく 1]ささえ事変じへん(にっしじへん)ともばれる[5][注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]

呼称こしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんがわでは、紛争ふんそう勃発ぼっぱつした当初とうしょきたささえ事変じへん(ほくしじへん)としょう[7]戦線せんせん拡大かくだいしていくと、にちはな事変じへん(にっかじへん)やささえ事変じへん(にっしじへん)とぶようになった。

日本にっぽん政府せいふは、1937ねん昭和しょうわ12ねん)9がつだい1近衛このえないかく近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょう)の閣議かくぎ決定けっていささえ事変じへん正式せいしき呼称こしょうとした[8]

戦争せんそうでなく事変じへんしょうされたのは、盧溝橋ろこうきょう事件じけんのち本格ほんかくてき戦闘せんとうおこなわれても、1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月にだい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう)がにちえいべいらんとのあいだ勃発ぼっぱつするまで、両国りょうこく宣戦せんせん布告ふこくおこなわなかったからである。その理由りゆうとして、にちちゅう両国りょうこくアメリカ中立ちゅうりつほう発動はつどうによる経済けいざい制裁せいさい回避かいひしたかったことがげられる。

日本にっぽんがわ事態じたい早期そうき収拾しゅうしゅうねらっており[7]、また、戦争せんそうともなれば天皇てんのう許可きょか勅許ちょっきょ)が必要ひつようになるからであった。一方いっぽう中国ちゅうごくがわは、国内こくないでの近代きんだい兵器へいき量産りょうさん体制たいせいととのわないままであることから、開戦かいせんにより軍需ぐんじゅ物資ぶっし輸入ゆにゅう問題もんだいしょうずる懸念けねんがあった[9]ことにくわえ、軍閥ぐんばつ毛沢東もうたくとうひきいる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとの内戦ないせん国共こっきょう内戦ないせん)の行方ゆくえ不透明ふとうめいであったことから、中国ちゅうごく国民党こくみんとう蒋介石しょうかいせきは「やすない攘外(あんないじょうがい)」政策せいさくをとり、国内こくない統一とういつ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうとの決着けっちゃく)を優先ゆうせんすべき問題もんだいとらえていた[10]

だい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう)が開戦かいせんすると、蔣介せき重慶たーちん政府せいふえいべいらんとともに日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくし、事変じへん戦争せんそうにエスカレートしたことをけ、日本にっぽんがわ東條とうじょう内閣ないかく10日とおか閣議かくぎで「今次こんじたいべいえい戦争せんそう今後こんご情勢じょうせい推移すいいとも生起せいきスルコトアルヘキ戦争せんそうささえ事変じへんヲモ含メだい東亜とうあ戦争せんそう呼称こしょうス」ことを決定けっていした[11]

時期じき区分くぶん[編集へんしゅう]

にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の期間きかん一般いっぱんてき見解けんかいは1937ねん昭和しょうわ12ねん) - 1945ねん昭和しょうわ20ねん)までであるが[12]日本にっぽんでは歴史れきし認識にんしきちがいによって「さき大戦たいせん」の呼称こしょうだい東亜とうあ戦争せんそうじゅうねん戦争せんそうアジア・太平洋戦争たいへいようせんそうなど)がかれており[13]にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の位置いちづけには様々さまざま解釈かいしゃくがある。臼井うすい勝美かつみは、「前史ぜんし: 塘沽協定きょうていから盧溝橋ろこうきょう事件じけんまで、1933ねん6がつ - 1937ねん7がつ」、「だいいち盧溝橋ろこうきょう事件じけんから太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつまで、1937ねん7がつ - 1941ねん12がつ)」、「だい太平洋戦争たいへいようせんそうから敗北はいぼくまで、1941ねん12月 - 1945ねん8がつ」のさん区分くぶんしている[14]小林こばやし英夫ひでおは、「前史ぜんし まんしゅう事変じへんから盧溝橋ろこうきょう事件じけん勃発ぼっぱつまえまで」、「だいいち 盧溝橋ろこうきょう事件じけんから武漢ぶかん作戦さくせんまで」、「だい 武漢ぶかん作戦さくせんから太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつまで」、「だいさん 太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつから終戦しゅうせんまで」のよん区分くぶんしている[15]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう公式こうしき見解けんかいは、1935ねん抗日こうにち人民じんみん宣言せんげんからはじまり、1937ねん盧溝橋ろこうきょう事件じけんなななな事変じへん)からとされていたが、2017ねん1がつ中国ちゅうごく教育きょういくしょう中国ちゅうごく教科書きょうかしょ使つかわれている「日本にっぽん侵略しんりゃくたいする中国ちゅうごく人民じんみんの8年間ねんかん抗戦こうせん」という表現ひょうげんを、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)のはじまりを1931ねんの「やなぎじょうみずうみ事件じけん」まで6ねんさかのぼらせて「14年間ねんかん抗戦こうせん」にあらためると発表はっぴょうした[16]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

やすない攘外」と「和協わきょう外交がいこう[編集へんしゅう]

1931ねん昭和しょうわ6ねん9月18にちやなぎじょうみずうみ事件じけんはしはっするまんしゅう事変じへんは、1932ねん昭和しょうわ7ねん3月1にちまんしゅうこく樹立じゅりつて、ねつかわ作戦さくせん終結しゅうけつの1933ねん昭和しょうわ8ねん)5がつ31にち締結ていけつされた塘沽協定きょうていによりいちおう終結しゅうけつした。どう協定きょうていで、長城ちょうじょうせん以南いなん武装ぶそう地帯ちたい設定せっていされ、大日本帝国だいにっぽんていこくきたささえしょう独立どくりつ自治じち運動うんどう拠点きょてん獲得かくとくし、まんしゅうこく中華民国ちゅうかみんこくにより黙認もくにんされた。国民党こくみんとうは、ひろしちょうめい両国りょうこく関係かんけい改善かいぜん希望きぼうもあり、共産党きょうさんとうたいするかこえ剿戦に全力ぜんりょくかたむけ、国内こくない統一とういつしてから日本にっぽんたたかう「やすない攘外」を基本きほん方針ほうしん採用さいようした。広田ひろた弘毅こうき外相がいしょうは「和協わきょう外交がいこう」を提唱ていしょうし、排日はいにちはい日貨にっか運動うんどう沈静ちんせいし、両国りょうこく公使館こうしかん大使館たいしかん昇格しょうかくさせた[17][18]

きたささえ自治じち運動うんどう華北かほく分離ぶんり工作こうさく[編集へんしゅう]

ささえ駐屯ちゅうとんぐん関東軍かんとうぐんなど日本にっぽん現地げんちぐんは、1935ねん昭和しょうわ10ねん)5がつ2にち深夜しんや天津てんしん日本にっぽん租界そかい事件じけん契機けいきに、河北かほくしょう察哈なんじしょうから国民党こくみんとう排除はいじょはかり、6がつ所謂いわゆる梅津うめづなにおう協定きょうてい締結ていけつし、あいころもしゃきたささえからの撤退てったい河北かほくしょう主席しゅせき于学ただし罷免ひめんなどを実現じつげんさせた。国民こくみん政府せいふは、「くに交敦むつみれい」をはっ排日はいにち行為こうい禁止きんしした。その現地げんち日本にっぽんぐんは、じゅうきゅうぐん日本人にっぽんじん拘禁こうきんしたちょうきた事件じけん中国語ちゅうごくごばんなどを理由りゆうに、土肥どいげんはたいさおじゅん協定きょうてい締結ていけつし、察哈なんじしょう東北とうほくじゅうきゅうぐん河北かほくしょう移駐いちゅうさせることを了承りょうしょうさせた[17][18]。そして、きゅう軍閥ぐんばつじゅうきゅうぐんちょうそうあきらもと中心ちゅうしんきたささえしょう独立どくりつ政権せいけん樹立じゅりつさせ、国民こくみん政府せいふから分離ぶんりさせるため「きたささえ自治じち運動うんどう」を展開てんかいした。11月25にち武装ぶそう地帯ちたいいんなんじこう委員いいんちょうとする冀東防共ぼうきょう自治じち委員いいんかい設立せつりつさせ、そうあきらもと中心ちゅうしんにして「きたささえ自治じち政権せいけん」を設立せつりつさせていんなんじこう合流ごうりゅうさせる計画けいかくてた。しかし、国民こくみん政府せいふは、そうあきらもとを冀察綏靖主任しゅにんけん河北かほくしょう主席しゅせき任命にんめいし、12月18にち冀察政務せいむ委員いいんかい設置せっちし、自治じち独立どくりつ運動うんどう阻止そし一応いちおう成功せいこうした。このため、12月25にち日本にっぽん現地げんちぐんは、冀東の冀察への合流ごうりゅう放棄ほうきして冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふ成立せいりつさせた[17][18]

内戦ないせん停止ていし一致いっち抗戦こうせん[編集へんしゅう]

1935ねん12月、中華民国ちゅうかみんこくでは自治じち政権せいけん反対はんたいいちきゅう運動うんどう契機けいきに「内戦ないせん停止ていし一致いっち抗戦こうせん」の機運きうん拡大かくだいした。ちょうただし途上とじょうにあった共産きょうさんぐんは、はちいち宣言せんげんして「抗日こうにち救国きゅうこく」、「はん蔣抗」の統一とういつ戦線せんせんけ、陝西せんせいしょうのべやす根拠地こんきょち建設けんせつ開始かいしし、1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつから3がつ、「抗日こうにち実践じっせん」をしめすため、彭徳ふところはやしぴょう指揮しきする共産きょうさんぐん2まん山西さんせいしょう侵入しんにゅうした。共産きょうさんぐん閻錫やまぐんと蔣介せき増援ぞうえんにより敗退はいたいし、しゅう恩来おんらい会談かいだんしたちょうまなぶりょう説得せっとくにより「はん蔣抗」から「逼蔣抗日こうにち」への転換てんかんれ、通電つうでんはっし「停戰ていせん一致いっち抗日こうにち」をうったえた。一方いっぽう、4がつ18にち共産きょうさんぐん侵攻しんこう契機けいき廣田ひろた内閣ないかく広田ひろた弘毅こうき首相しゅしょう)はささえ駐屯ちゅうとんぐん増強ぞうきょうした[17][18]

川越かわごえしげるちょうぐん会談かいだん[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)8がつ23にち成都せいと事件じけんと9月3にち北海ほっかい事件じけんけ、大日本帝国だいにっぽんていこく外務省がいむしょうは、国民こくみん政府せいふたいにち態度たいど是正ぜせい要求ようきゅうし、9月8にちから川越かわごえちょうぐん会談かいだん開始かいしされた。大日本帝国だいにっぽんていこく防共ぼうきょう協定きょうてい締結ていけつ日本人にっぽんじん顧問こもん招聘しょうへいなどを要求ようきゅうし、国民こくみん政府せいふが冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふ解消かいしょう要求ようきゅうしたため、交渉こうしょう平行へいこうせん辿たどった。その、9月19にちかんこう、9月23にち上海しゃんはい日本人にっぽんじん殺害さつがいされ、11月上旬じょうじゅんうちこうむぐんによる綏遠事件じけん勃発ぼっぱつし、12月3にち交渉こうしょう決裂けつれつした。12月12にちちょうまなぶりょうらによる蔣介せき監禁かんきん事件じけん西安しーあん事件じけんて、1937ねん昭和しょうわ12ねん初頭しょとうには国共こっきょう合作がっさく事実じじつじょう成立せいりつした[17][18]

林内りんないかくの「たいささえ実行じっこうさく[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)2がつ2にち大日本帝国だいにっぽんていこく廣田ひろた内閣ないかくから林内りんないかくはやしずくじゅうろう首相しゅしょう)へ交替こうたいすると、佐藤さとう尚武なおたけ外相がいしょうは、たいちゅう優越ゆうえつ観念かんねん放棄ほうき中華民国ちゅうかみんこくへの軍事ぐんじてき威嚇いかく方針ほうしんをやめ、平和へいわ交渉こうしょううつるよう外交がいこう方針ほうしん変更へんこう[19]陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ戦争せんそう指導しどう課長かちょう石原いしはら莞爾かんじは、「華北かほく分離ぶんり工作こうさく」など従来じゅうらい帝国ていこく主義しゅぎてき侵寇しんこう政策せいさく放棄ほうきとなえた[19]。4月16にち外務がいむ大蔵おおくら陸軍りくぐん海軍かいぐん大臣だいじんよんそうにより決定けっていされたたいささえ実行じっこうさくだいさんきたささえ処理しょり要綱ようこう)では、きたささえぶん中国ちゅうごく内政ないせいみだ政治せいじ工作こうさくおこなわないとされ、にちちゅう防共ぼうきょう軍事ぐんじ同盟どうめい項目こうもく削除さくじょされた[19]一方いっぽうで、関東軍かんとうぐんは、たいちゅうだかあつ政策せいさく、「たいささえいちげきろん」を変更へんこうしなかった[19]。5月3にち中華民国ちゅうかみんこくは、イギリス財政ざいせい基盤きばん強化きょうかのための借款しゃっかん供与きょうよ要請ようせいし、イギリスは、大日本帝国だいにっぽんていこくにも参加さんか要請ようせいした[20]。1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ31にち林内りんないかくそう辞職じしょくし、6がつ近衛このえ文麿ふみまろ内閣ないかくだい1)が成立せいりつした[19]7がつ5にち川越かわごえしげるちゅう中国ちゅうごく大使たいし政府せいふにイギリスからの借款しゃっかん供与きょうよ提案ていあん受諾じゅだくするよう上申じょうしんし、電報でんぽう盧溝橋ろこうきょう事件じけん前日ぜんじつ7がつ6にちとどいた[20]

きたささえ事変じへん[編集へんしゅう]

きたささえ事変じへん

1937ねん昭和しょうわ12ねん盧溝橋ろこうきょう近郊きんこう戦闘せんとう経過けいか要図ようず
戦争せんそうにちちゅう戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1937ねん7がつ7にち1937ねん9月閣議かくぎ呼称こしょう変更へんこう
場所ばしょ中国ちゅうごく華北かほく地域ちいき
結果けっかにちちゅう戦争せんそう拡大かくだい
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
満洲国の旗 まんしゅうこく
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
近衛このえ文麿ふみまろ
香月かつき清司せいじ
東条とうじょう英機ひでき
蒋介石しょうかいせき
そうあきらもと
でんつくるよし
閻錫やま
おんはく

1937ねん昭和しょうわ12ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけんから8がつだい上海しゃんはい事変じへんによる全面ぜんめん戦争せんそうまでの猶予ゆうよ期間きかんきた軍事ぐんじ衝突しょうとつきたささえ事変じへんばれた。

盧溝橋ろこうきょう事件じけんきたささえ事変じへん[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん7がつ7にち当時とうじきたささえ駐屯ちゅうとんしていた日本にっぽんぐん北平きたひらげん北京ぺきん)での夜間やかん演習えんしゅうなか実弾じつだん発射はっしゃされた。翌日よくじつ午前ごぜん530ふん攻撃こうげき命令めいれいけ、中国ちゅうごくぐん陣地じんちたい攻撃こうげき前進ぜんしんしてった[21]。その中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐん衝突しょうとつし、盧溝橋ろこうきょう事件じけん勃発ぼっぱつした[22]。この日本にっぽんぐん駐留ちゅうりゅうしていたゆたかだいは、義和よしかずだんらん事後じご処理しょりさだめた北京ぺきん議定ぎていしょさだめられた駐留ちゅうりゅう可能かのうではなく、法的ほうてき根拠こんきょのない駐留ちゅうりゅうだった[23][よう出典しゅってん]当時とうじこの地区ちく居留民きょりゅうみん保護ほごのため駐留ちゅうりゅうしていた外国がいこく部隊ぶたい日本にっぽんへい4,080、フランスへい1,839、米兵べいへい1,227、えいへい999、イタリアへい384であり、日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみんは17,000にんべいおう居留民きょりゅうみんけい10338にんであった[24]7がつ8にち、蔣介せき日記にっきに「やまと寇の挑発ちょうはつたいして応戦おうせんすべき」と[22]7がつ9にち動員どういんれいし、よん師団しだん戦闘せんとう華北かほく派遣はけんした[24]7がつ19にちまでにきたささえ周辺しゅうへんに30師団しだんそう兵力へいりょく20まんにん配備はいびした[24][注釈ちゅうしゃく 5]7がつ11にちにちちゅう現地げんちぐん同士どうし停戦ていせん協定きょうてい締結ていけつされ(松井まつい-はたいさおじゅん協定きょうてい)、中華民国ちゅうかみんこくがわ遺憾いかん意思いし表明ひょうめいし、責任せきにんしゃ処分しょぶんすること、盧溝橋ろこうきょう付近ふきんには中国ちゅうごくぐんにかわって保安ほあんたい駐留ちゅうりゅうすること、事件じけんあいころもしゃ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうなどこうにち団体だんたい指導しどうしたとみられるため今後こんごしまる、という内容ないよう停戦ていせん協定きょうてい締結ていけつされた[22][24]事態じたい収拾しゅうしゅうむかうごきがえたことから内地ないち師団しだん動員どういん一時いちじ見合みあわせとなった。

日本にっぽん政府せいふ不拡大ふかくだい方針ほうしんぐん増派ぞうは同時どうじ決定けってい

一方いっぽう同年どうねん7がつ11にち午前ごぜん会議かいぎだい1近衛このえないかく関東軍かんとうぐん独立どくりつ混成こんせいだい11旅団りょだん独立どくりつ混成こんせいだい1旅団りょだん旅団りょだん朝鮮ちょうせんぐんだい20師団しだんきたささえ派兵はへい発令はつれい[22]ささえ駐屯ちゅうとんぐん編入へんにゅうされる。近畿きんき以西いせいぜん陸軍りくぐん部隊ぶたい除隊じょたい延期えんき決定けっていする。同日どうじつおもとくとなった田代たしろ一郎いちろうささえ駐屯ちゅうとんぐん司令しれいかんえ、香月かつき清司せいじ中将ちゅうじょうしん司令しれいかんおや。また近衛このえないかく現地げんち解決かいけつ不拡大ふかくだい方針ほうしん閣議かくぎ決定けってい[26]、さらに「きたささえ派兵はへいかんする政府せいふ声明せいめい」を発表はっぴょうし、事件じけんを「きたささえ事変じへん」と名付なづけ、今回こんかい事件じけん中国ちゅうごくがわ計画けいかくてき武力ぶりょく行使こうしであり、大日本帝国だいにっぽんていこくはこれにたいして自衛じえいけん行使こうしするために派兵はへい増員ぞういん)するとした[22]。7月13にち北平きたひら北京ぺきん)のだいべにもん日本にっぽんぐんトラックが中国ちゅうごくへい爆破ばくはされ日本にっぽんへい4にん死亡しぼうするだいべにもん事件じけん発生はっせい

国民こくみん政府せいふたいにち武力ぶりょく行使こうし決定けってい

中国共産党ちゅうごくきょうさんとう7がつ15にち国共こっきょう合作がっさくによる全面ぜんめん抗戦こうせんびかける。蔣介せき7がつ17にちいおりやま談話だんわかいにおいて、中華民国ちゅうかみんこく弱国じゃっこくであり戦争せんそうもとめてはならないが、やむをえない場合ばあい徹底てってい抗戦こうせんすると表明ひょうめいする[22]中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ7がつ19にち国民党こくみんとうだい29ぐん代表だいひょうちょうちゅうらが盧溝橋ろこうきょう事件じけん停戦ていせん協定きょうてい細目さいもく実施じっしもう共産党きょうさんとう策動さくどう徹底的てっていてき弾圧だんあつすること、排日はいにち職員しょくいんしまること、排日はいにち団体だんたい撤去てっきょすること、排日はいにち運動うんどう排日はいにち教育きょういくしまることを日本にっぽん誓約せいやくする[22] 一方いっぽうで、盧溝橋ろこうきょう事件じけんかんする地域ちいきレベルでの決着けっちゃくみとめないと日本にっぽんがわ通告つうこくした[24]。7がつ20日はつかには中国ちゅうごくぐんだい37部隊ぶたいふたた盧溝橋ろこうきょう付近ふきん日本にっぽんぐん攻撃こうげきした[24]。7月21にち、蔣介せき南京なんきん戦争せんそう会議かいぎで「大日本帝国だいにっぽんていこくたいして武力ぶりょく行使こうしおこなう」という方針ほうしん採択さいたくした[24]。7月23にち南京なんきんふく幕僚ばくりょうちょうまごはま将軍しょうぐん北京ぺきんじょうぐんたいにち戦闘せんとう勧告かんこくした[24]

他方たほう7がつ22にちから「中国ちゅうごく当局とうきょく抗日こうにち雑誌ざっしとう禁止きんしあいころもしゃなどを弾圧だんあつした」と日本にっぽん政府せいふ報告ほうこくされた[22]

日本にっぽんぐんそう攻撃こうげき

中国ちゅうごくぐん北平きたひら天津てんしん電線でんせん切断せつだん作戦さくせん展開てんかいした[24]。 1937ねん7がつ25にちろうぼうえき電線でんせん修理しゅうりした日本にっぽんぐん兵士へいし休憩きゅうけいしているところに中国ちゅうごくぐん襲撃しゅうげきした(ろうぼう事件じけん)[24]日本にっぽんぐん修理しゅうりした電線でんせん天津てんしん本部ほんぶ連絡れんらくをとり、よく7がつ26にち日本にっぽんぐん戦闘せんとう中国人ちゅうごくじん陣地じんち爆撃ばくげき[24]同地どうち日本にっぽんぐん占領せんりょう[22]日本にっぽん帝国ていこくぐんそうあきらもと将軍しょうぐんに、「きた平城ひらじろから中国ちゅうごく29ぐん37撤退てったいさせることで誠意せいいせてほしい。もし要請ようせいおうじなければ、日本にっぽん帝国ていこくぐん大日本帝国だいにっぽんていこくにとって適切てきせつ行動こうどうをとる」と最後さいご通告つうこくおこなったが、中国ちゅうごくがわおうじなかった[24]

よく7がつ26にち広安ひろやすもん居留民きょりゅうみん保護ほごけつけた日本にっぽん陸軍りくぐん兵士へいし広安ひろやすもん中国ちゅうごくぐんより銃撃じゅうげきける(広安ひろやすもん事件じけん)[22]

7がつ27にち日本にっぽんぐんささえ駐屯ちゅうとんぐん)はそう攻撃こうげき実施じっし決定けっていした[22][24]だい1近衛このえないかく内地ないち師団しだん動員どういんしたれいだい5師団しだんだい6師団しだんだい10師団しだん動員どういん派兵はへい決定けってい[22]同日どうじつ午後ごご11南京なんきん政府せいふ日本にっぽんがわへ、きたささえ当局とうきょく日本にっぽんぐん守備しゅびたい協定きょうていかんする交渉こうしょう日本にっぽんもう[24]そう攻撃こうげきまえにして住民じゅうみんのがすため香月かつき軍司ぐんじれいかん要請ようせいけてJ.O.スタヂオ技術ぎじゅつしゃとしてささえわたしていた菱刈ひしかり隆文たかふみ北平きたひら上空じょうくうから20まんまい布告ふこくビラをいた[27]

7がつ28にち午前ごぜん5日本にっぽんぐんささえ駐屯ちゅうとんぐんきたささえ攻撃こうげき開始かいし[22][24]中国ちゅうごくぐんは5000余人よにん戦死せんし撃滅げきめつされ、同日どうじつよる北平きたひらにいたそうあきらもとはたいさおじゅんなどは脱出だっしゅつした[22]

とおりしゅう事件じけん

7がつ29にちには、日本にっぽん同盟どうめいぐんであった冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふ保安ほあんたい中国人ちゅうごくじん部隊ぶたい)が、抗日こうにちがわてんじて、日本にっぽんぐん特務とくむ機関きかん日本人にっぽんじん朝鮮ちょうせんじん居留民きょりゅうみんたいして虐殺ぎゃくさつ実施じっししたとおりしゅう事件じけん発生はっせい[24][28]同日どうじつどう時刻じこくに29ぐん天津てんしん日本人にっぽんじん租界そかい攻撃こうげきした[24]。このとおりしゅう事件じけん日本にっぽん軍民ぐんみん暴支膺懲ようちょう意識いしきつよけることとなる[29]

日本にっぽんぐん北平きたひら北京ぺきん)・天津てんしん占領せんりょうとチャハル作戦さくせん

7がつ31にち日本にっぽんぐんささえ駐屯ちゅうとんぐん)、北平きたひら天津てんしん地区ちく制圧せいあつ[22]日本にっぽんぐんは7がつまつには北平きたひら天津てんしん地方ちほう制圧せいあつ、8がつには河北かほくしょうじょう以北いほく制圧せいあつ実行じっこううつそうとしたが、河北かほくしょう南部なんぶ集結しゅうけつしつつある中国ちゅうごくぐん衝突しょうとつするおそれがあったため準備じゅんび期間きかん必要ひつようとなり一時いちじ延期えんきされ、わりにおこなわれた作戦さくせん8がつ9にちより関東軍かんとうぐんが察哈なんじしょう現在げんざい内モンゴル自治うちもんごるじち)とその周辺しゅうへん攻略こうりゃく開始かいしした(チャハル作戦さくせんのちに10がつ17にちつつみあたま占領せんりょうし、日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんこうむ連盟れんめい自治じち政府せいふ樹立じゅりつし、ちょうこうちゅうこうむぐんいた。

にちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう[編集へんしゅう]

だい上海しゃんはい事変じへん[編集へんしゅう]

上海しゃんはいでの中国ちゅうごくがわ報復ほうふく日本にっぽんぐん増派ぞうは

1937ねん8がつ9にち上海しゃんはい武装ぶそう地帯ちたい日本にっぽんぐん上海しゃんはい海軍かいぐん特別とくべつ陸戦りくせんたい大山おおやま勇夫いさお海軍かいぐん中尉ちゅういが、報復ほうふくとして中国ちゅうごく保安ほあんたい襲撃しゅうげきされ殺害さつがいされた。30はつ以上いじょう銃撃じゅうげきけ、かおつぶされ、胴体どうたいあながあくなどしていた (大山おおやま事件じけん)[30][31]中国ちゅうごくがわ当時とうじ武装ぶそう地帯ちたいには保安ほあんたい制服せいふく中国ちゅうごく正規せいきぐん投入とうにゅうしており[30][31]、また1932ねん休戦きゅうせん協定きょうてい無視むししてライフル、機関きかんじゅう、カノンほうなどを秘密裏ひみつりんでいた[30]よく8がつ10日とおか日本にっぽん上海しゃんはい領事りょうじ国際こくさい委員いいんかい中国ちゅうごく平和へいわ維持いじたい撤退てったい要求ようきゅうし、外国がいこくじん委員いいんはこれに賛成さんせいし、O.K.ユイ(兪鴻ひとし中国ちゅうごく市長しちょう全力ぜんりょくをあげて解決かいけつするとべたが、よく8がつ11にち、O.K.ユイ中国ちゅうごく市長しちょうは「わたし無力むりょくなにもできない」と日本にっぽんがわ通告つうこくした[30]8がつ12にち中国ちゅうごくぐん部隊ぶたい上海しゃんはいまで前進ぜんしんして上海しゃんはい日本人にっぽんじん租界そかい区域くいき包囲ほういし、[30]よく8がつ13にち早朝そうちょうには日本にっぽん海軍かいぐん陸戦りくせんたい攻撃こうげきをしかけた[30]午前ごぜん920ふん現地げんち包囲ほういしていた中国ちゅうごくぐん機銃きじゅう掃射そうしゃ攻撃こうげき開始かいしすると、日本にっぽんぐん陸戦りくせんたい午後ごご355ふん応戦おうせん[32]中国ちゅうごくぐんはさらに午後ごご5ごろ爆破ばくは砲撃ほうげき開始かいしした[31]

8がつ13にちだい1近衛このえないかく閣議かくぎ決定けっていにより上海しゃんはいへの陸軍りくぐん派遣はけん決定けってい[31]。またどう8がつ13にちにはイギリス、フランス、アメリカの総領事そうりょうじにちちゅうりょう政府せいふにちちゅうりょうぐん撤退てったい国籍こくせきぐんによる治安ちあん維持いじつたえたが戦闘せんとうはすでに開始かいししていた[30]

よく8がつ14にちには中国ちゅうごく空軍くうぐん日本にっぽん艦艇かんてい上海しゃんはい租界そかいへの空爆くうばくおこなった。日本にっぽん軍艦ぐんかん命中めいちゅうはなかったが、上海しゃんはい租界そかい外国がいこくじんふくせんすうひゃくにん民間みんかんじん死傷ししょうしゃ[31][32]

このようなだい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつによりにちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう発展はってんした[注釈ちゅうしゃく 6][34][注釈ちゅうしゃく 7][注釈ちゅうしゃく 8][注釈ちゅうしゃく 9]日本にっぽん政府せいふおよび軍部ぐんぶ上海しゃんはいへの戦火せんか波及はきゅうはのぞんでいなかったとする見解けんかいもある[30][32]近衛このえ内閣ないかく8がつ15にち、「もはや隠忍いんにんその限度げんどたっし、ささえぐん暴虐ぼうぎゃく膺懲ようちょう南京なんきん政府せいふ反省はんせいうながす」との声明せいめい発表はっぴょうし、戦争せんそう目的もくてき排日はいにち抗日こうにち運動うんどう根絶こんぜつ日本にっぽんまんしゅうささえさんこく融和ゆうわにあるとされ、上海しゃんはい派遣はけんぐん編成へんせいされた[31][38]一方いっぽうどう8がつ15にち中華民国ちゅうかみんこく全国ぜんこく総動員そうどういんれいはっし、大本営だいほんえい設置せっちして陸海空りくかいくうぐんそう司令しれいに蔣介せき就任しゅうにん戦時せんじ体制たいせい確立かくりつし、さらに中国共産党ちゅうごくきょうさんとうどう8がつ15にちに『抗日こうにち救国きゅうこくじゅう大綱たいこうりょう』を発表はっぴょうし、中国ちゅうごく全土ぜんどでのにちちゅう全面ぜんめん戦争せんそうとなった[32]

その、8がつ下旬げじゅん、蔣介せき自軍じぐん日本にっぽんぐんまえ敗走はいそうかさねる原因げんいんを「日本にっぽんぐんつうじる漢奸かんかん」の存在そんざいによるものとしてちん立夫たつお責任せきにんしゃとして取締とりしまりの強化きょうか指示しじし、「ソビエト連邦れんぽうゲーペーウー(GPU)による殺戮さつりく政治せいじごとき」漢奸かんかん開始かいしした[39]上海しゃんはい南市みなみいちろう西門にしもん広場ひろばでは、毎日まいにちすうじゅうにん漢奸かんかんとして処刑しょけいされ、総数そうすうは4,000めいたっし、なかには政府せいふ官吏かんりも300めい以上いじょうふくまれていた[40]罪状ざいじょう井戸いどちゃつぼ食糧しょくりょうどく混入こんにゅうするように買収ばいしゅうされたということやどく所持しょじで、警察官けいさつかんによって裏切うらぎものたいする警告けいこくのために処刑しょけいされたものくびさらしものとされた。戒厳かいげんれいしたであるため裁判さいばん必要ひつようとされず、宣告せんこくけたものはただちに公開こうかい処刑しょけいされた[41]

渡洋とよう爆撃ばくげき

どう8がつ15にち日本にっぽん海軍かいぐん渡洋とよう爆撃ばくげき開始かいし[32]。15にちより16にちにかけて、海軍かいぐん航空こうくうたいの96しきりくおさむ38が、みなみあきら南京なんきん広徳ひろのり杭州こうしゅうたいみなみしんたけ基地きち長崎ながさき大村おおむら基地きちからの渡洋とよう爆撃ばくげきおこなった[42]。15にちより30にちにかけて、同軍どうぐんのべ147済州さいしゅうとう台北たいぺいから出撃しゅつげき広徳ひろのりみなみあきら南京なんきんなどを空襲くうしゅう帰還きかん14大破たいは13

8がつ17にち日本にっぽん政府せいふ従来じゅうらい不拡大ふかくだい方針ほうしん放棄ほうきし、戦時せんじ体制たいせい準備じゅんびこうずると閣議かくぎ決定けっていした[31]

8がつ18にち、イギリスはにちちゅう双方そうほうたいして双方そうほうぐん撤退てったいと、租界そかい日本人にっぽんじん保護ほご外国がいこく当局とうきょく委任いにんしてくれれば責任せきにんをもって遂行すいこうすると通告つうこく、フランスもこれを支持しじした[30]。しかし日本にっぽん政府せいふはすでに戦闘せんとう開始かいししているためこれを丁重ていちょう辞退じたいした[30]

8がつ20日はつか日本にっぽん海軍かいぐんかんこう爆撃ばくげき[42]8がつ21にちちゅう不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつされ、5年間ねんかんソ連それん日本にっぽん不可侵ふかしん条約じょうやく締結ていけつせず、また中国ちゅうごく第三国だいさんごく防共ぼうきょう協定きょうてい締結ていけつしないという約束やくそくがなされ、まずは戦闘せんとう50空輸くうゆ上申じょうしんされた[43]8がつ22にちには西北せいほく地域ちいき共産党きょうさんとうぐん(べにぐん)を国民こくみん革命かくめいぐんだい8ぐん改編かいへんそう兵力へいりょくは32000[32][44]

8がつ23にち日本にっぽん陸軍りくぐん上海しゃんはい上陸じょうりく開始かいし[45]。しかし中国ちゅうごくぐん抵抗ていこうはげしく、いちにち100mほどしか前進ぜんしんできなかった[45]

南京なんきん駐在ちゅうざい英国えいこく大使たいしヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン英語えいごばん銃撃じゅうげきけて重症じゅうしょうい、同行どうこう大使館たいしかん職員しょくいん日本にっぽん海軍かいぐん機銃きじゅう掃射そうしゃによるものであると主張しゅちょうしたが、日本にっぽん海軍かいぐん自軍じぐんによる機銃きじゅう掃射そうしゃ否定ひていしたため、イギリスのたいにち感情かんじょう悪化あっかし、やくいちげつ解決かいけつした。

ニューヨーク・タイムズ1937ねん8がつ30にち付記ふきごとでは「北京ぺきんでの戦闘せんとう責任せきにんについては見解けんかいがわかれるかもしれないが、上海しゃんはいでの戦闘せんとうかんするかぎ事実じじつはひとつしかない。日本にっぽんぐん戦闘せんとう拡大かくだいのぞまず、事態じたい悪化あっかふせぐためにできるかぎすべてのことをした。中国ちゅうごくぐんによって衝突しょうとつへと無理矢理むりやりまれてしまった」と報道ほうどうした[30]

1937ねん8がつ31にち日本にっぽん陸軍りくぐんささえ駐屯ちゅうとんぐん廃止はいしされ、きたささえ方面ほうめんぐんだい1ぐんだい2ぐんへと編成へんせいされる[46]

国際こくさい連盟れんめい日本にっぽん空爆くうばくへの非難ひなん決議けつぎ

1937ねん9月28にち - 国際こくさい連盟れんめいにちちゅう紛争ふんそう諮問しもん委員いいんかい総会そうかい日本にっぽんぐんによる中国ちゅうごく都市としへの空爆くうばくたいする非難ひなん決議けつぎ満場一致まんじょういっち採択さいたく。8月15にちから9がつ25にちまでの合計ごうけい11およ日本にっぽんぐんによる「差別さべつ攻撃こうげき」は同年どうねん4がつ26にちゲルニカ爆撃ばくげきならんで、世界せかい航空こうくう戦史せんし未曾有みぞうだい空襲くうしゅうだとされた。

他方たほう、1937ねん10がつマ法王まほうおうピオ11せい在位ざいい:1922-39)はぜん世界せかいカトリック教徒きょうとたいして日本にっぽんぐんへの協力きょうりょくびかけ、「日本にっぽん行動こうどうは、侵略しんりゃくではない。日本にっぽん中国ちゅうごくささえ)をまもろうとしているのである。日本にっぽん共産きょうさん主義しゅぎ排除はいじょするためにたたかっている。共産きょうさん主義しゅぎ存在そんざいするかぎり、ぜん世界せかいのカトリック教会きょうかい信徒しんとは、遠慮えんりょなく日本にっぽんぐん協力きょうりょくせよ」と声明せいめいした(バチカン・シチー特電とくでん 昭和しょうわ12ねん10がつ14にち はつ。『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん昭和しょうわ12ねん10がつ16にち)。[よう検証けんしょう]東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶんは「これこそは、わがくにたいささえ政策せいさく根本こんぽん諒解りょうかいするものであり、知己ちき言葉ことばとして、ひゃくまん援兵えんぺいにもすべきである。えいべい諸国しょこくにおける認識にんしき不足ふそく反日はんにちろん相殺そうさいして、なおあまりあるというべきである」と評価ひょうかした[48]

和平わへい交渉こうしょう決裂けつれつ南京なんきん占領せんりょう[編集へんしゅう]

上海しゃんはい攻略こうりゃく日本にっぽん和平わへい工作こうさく開始かいしし(トラウトマン工作こうさく)、1937ねん11月2にちにヘルベルト・フォン・ディルクセンちゅうにちドイツ大使たいしうちこうむ自治じち政府せいふ樹立じゅりつ華北かほく武装ぶそう中立ちゅうりつ地帯ちたい(冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふがあった場所ばしょ)、上海しゃんはい武装ぶそう中立ちゅうりつ地帯ちたい設置せっちし、国際こくさい警察けいさつによる共同きょうどう管理かんり共同きょうどう防共ぼうきょうなどを提示ていじし、「ただちに和平わへい成立せいりつする場合ばあい華北かほくぜん行政ぎょうせいけん南京なんきん政府せいふゆだねる」が記載きさいされている和平わへい条件じょうけんは11月5にちオスカー・トラウトマンちゅうはなドイツ大使たいししめされ、「戦争せんそう継続けいぞくすれば条件じょうけん加重かじゅうされる」と警告けいこくしたにもかかわらず蔣介せきはこれを受理じゅりしなかった[49]。蔣介せき受理じゅりしなかったのは11月3にちからひらかれていたブリュッセルでのきゅうカ国かこく条約じょうやく会議かいぎ中国ちゅうごく有利ゆうり調停ちょうてい期待きたいしていたためとされるが、きゅうカ国かこく条約じょうやく会議かいぎ日本にっぽん非難ひなん声明せいめいにとどまった[49]。その、トラウトマン大使たいしは蔣介せきへ「日本にっぽん条件じょうけんかならずしも過酷かこくのものではない」と説得せっとくし、12月2にち軍事ぐんじ会議かいぎでは「ただこれだけの条件じょうけんであれば戦争せんそうする理由りゆうがない」という意見いけんおおかったこともあり、蔣介せき日本にっぽんあんれる用意よういがあるとトラウトマン大使たいしかたり、これは12月7にち日本にっぽんつたえられた[49]。その日本にっぽん南京なんきん攻略こうりゃく戦況せんきょう背景はいけい要求ようきゅうやし、賠償ばいしょう永久えいきゅう駐留ちゅうりゅう傀儡かいらいふくきびしい条件じょうけんにした。結果けっかにちちゅう和平わへい交渉こうしょう決裂けつれつした[50]

南京なんきんせん
  • 12月1にち - 大本営だいほんえいちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん攻略こうりゃく許可きょか(南京なんきんせん)。
  • 12月1にち - 蔣介せきからの参戦さんせん催促さいそくたいしてソ連それんのスターリン共産党きょうさんとう書記しょきちょうは、「日本にっぽん挑戦ちょうせんもなく参戦さんせんすると侵略しんりゃく行動こうどうとみなされ、国際こくさい世論せろん日本にっぽん有利ゆうりになる」と返答へんとうし、単独たんどく参戦さんせん拒否きょひした[43]
  • 12月10にち - 日本にっぽんぐんちゅうささえ方面ほうめんぐん)、南京なんきん攻撃こうげき開始かいし
  • 12月12にち - 中華民国ちゅうかみんこく国民党こくみんとうぐん南京なんきん防衛ぼうえい司令しれいかんとうせいさとし大将たいしょう南京なんきんから逃走とうそう同日どうじつパナイごう事件じけんきるが、アメリカは日本にっぽんがわ謝罪しゃざい賠償ばいしょうれた。
  • 12月13にち - 日本にっぽんぐん南京なんきん占領せんりょうした[52]国府こくふぐん捕虜ほりょ敗残はいざんへい便衣べんいへい民間みんかんじん大量たいりょう殺害さつがい強姦ごうかん日本にっぽんぐんおこなった南京なんきん事件じけんきたが、事件じけんについて論争ろんそうがある。
  • 12月14にち日本にっぽん北京ぺきん中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつ
  • 12月17にちちゅうささえ方面ほうめんぐん南京なんきん入城にゅうじょうしき。12月18にち日本にっぽん陸海りくかいぐん合同ごうどう慰霊いれいさい南京なんきんみや飛行場ひこうじょうにおいて挙行きょこう[53]
  • 12月23にち南京なんきん自治じち委員いいんかい設立せつりつ治安ちあん回復かいふくする[54][55]
華北かほく

じょしゅう攻略こうりゃく[編集へんしゅう]

4がつ中国ちゅうごく広西ひろせぐん山東さんとうしょうだいそう日本にっぽんぐん部隊ぶたい5000兵力へいりょく包囲ほういし、壊滅かいめつさせ[よう出典しゅってん]中国ちゅうごく民衆みんしゅう非常ひじょうよろこんだ[57]日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐん主力しゅりょくじょしゅう集中しゅうちゅうしていると判断はんだん[57]、1938ねん4がつ7にち - 大本営だいほんえいきたささえ方面ほうめんぐんちゅうささえ派遣はけんぐん協力きょうりょくしてじょしゅう攻略こうりゃくするよう(じょしゅう会戦かいせん下命かめいした[56]5がつ10日とおか日本にっぽんぐん廈門占領せんりょう。5月15にち中国ちゅうごくぐんじょしゅう放棄ほうき逃走とうそうしたので中国ちゅうごくぐん兵力へいりょく殲滅せんめつには失敗しっぱいすることとなった[56]。5月19にち - 日本にっぽんぐんきたささえ方面ほうめんぐんちゅうささえ派遣はけんぐん)、じょしゅう占領せんりょう[56]

かんこう広東かんとん攻略こうりゃく[編集へんしゅう]

1938ねん6がつ、蔣介せき中国ちゅうごくぐんによる黄河こうが決壊けっかい事件じけんにより河南かなん江蘇ちぁんすーしょう安徽あんきしょうの3000平方へいほうキロメートルの土地とち水没すいぼつし、民間みんかんじん被害ひがいすうじゅうまんにんとなった[57]日本にっぽんは6がつ15にち御前ごぜん会議かいぎかんこう広東かんとん攻略こうりゃく決定けっていした[56]。1938ねん7がつ4にちちゅうささえ派遣はけんぐんだい2ぐんだい11ぐん編入へんにゅうされ、武漢ぶかん攻略こうりゃく作戦さくせん態勢たいせいがとられた[56]。7月11にち〜8がつ10日とおか武力ぶりょく衝突しょうとつちょうほう事件じけん解決かいけつしたのち、8がつ22にちから日本にっぽんぐん武漢ぶかんさん鎮を攻略こうりゃく開始かいしする(武漢ぶかん作戦さくせん[58]。10月12にちだい2ぐんしんじ占領せんりょう[58]

広東かんとん攻略こうりゃくめいじられただい21ぐん(兵力へいりょく7まん)は1938ねん10がつ9にち台湾たいわん出発しゅっぱつ、10月12にちバイアスわん上陸じょうりくし、10月21にち広東かんとん占領せんりょう日本にっぽんぐん損失そんしつ戦死せんし173、戦傷せんしょう493だった[58]

  • 10月27にち - 日本にっぽんぐんちゅうささえ派遣はけんぐん)、武漢ぶかんさん鎮を占領せんりょう武漢ぶかん作戦さくせん兵力へいりょくは35まんだい2ぐん戦死せんし2300、戦傷せんしょう7300、だい11ぐん戦死せんし4506、戦傷せんしょう17380にんだった[58]武漢ぶかんと、広東かんとん占領せんりょうによって日本にっぽん軍事ぐんじ行動こうどう頂点ちょうてんたっした[58]武漢ぶかん陥落かんらくによって蔣介せき重慶たーちん政府せいふうつした[51]
日本にっぽん東亜とうあしん秩序ちつじょ宣言せんげん
  • 1938ねん11月3にち - 近衛このえ首相しゅしょうは、国民こくみん政府せいふはすでにいち地方ちほう政府せいふにすぎず、抗日こうにち政策せいさくつづけるならば壊滅かいめつするまでほこおさめないとべたうえで、日本にっぽん目的もくてきは「東亜とうあ永遠えいえん安定あんてい確保かくほすべきしん秩序ちつじょ建設けんせつり」、国民こくみん政府せいふ抗日こうにち政策せいさく放棄ほうきすればしん秩序ちつじょ参加さんかこばまないとの東亜とうあしん秩序ちつじょ声明せいめいだい近衛このえ声明せいめい)をした[58]。蔣介せきは12月28にち、「東亜とうあしん秩序ちつじょ」は中国ちゅうごく奴隷どれい世界せかい分割ぶんかつ支配しはい意図いとしていると批判ひはんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく承認しょうにんできないと日本にっぽん批判ひはんした[58]

12月6にち決定けっていの「昭和しょうわじゅう三年秋季以降対支処理方策」では占拠せんきょ拡大かくだい企図きとせず、占拠せんきょした地域ちいき安定あんてい確保かくほの「治安ちあん地域ちいき」と、抗日こうにち殲滅せんめつ地域ちいきの「作戦さくせん地域ちいき」に区分くぶんした[58]。12月16にち中国ちゅうごく政策せいさくのための国策こくさく会社かいしゃ興亜こうあいん成立せいりつする[58]

ひろしちょうめい重慶たーちん脱出だっしゅつ日本にっぽん対応たいおう

12月18にちには蔣介せきとの路線ろせん対立たいりつひろしちょうめい重慶たーちん脱出だっしゅつし、こんあきら、ハノイにかう[59]。12月22にち近衛このえ首相しゅしょう近衛このえさん原則げんそく発表はっぴょうだいさん近衛このえ声明せいめい)。にちはな協議きょうぎ記録きろく類似るいじした内容ないようであった[59]。12月25にちひろしちょうめい日本にっぽん講和こうわ条件じょうけん亡国ぼうこくてきなものではないとちゅうえい大使たいしにつたえる一方いっぽう、蔣介せきは12月26にち近衛このえ声明せいめい批判ひはんし、またひろしちょうめいのハノイきは療養りょうよう目的もくてき公表こうひょうした[60]。しかし、ひろしちょうめいは12月30にち香港ほんこんみなみはな日報にっぽう』に、近衛このえ声明せいめいにもとづき日本にっぽん和平わへい交渉こうしょうはいると発表はっぴょうした[60]。1939ねん1がつ1にち国民党こくみんとうひろしちょうめい党籍とうせき永久えいきゅう剥奪はくだつした[60]。1939ねん3がつ21にちひろしちょうめい暗殺あんさつされようとするが、なかわりに殺害さつがいされた[60]

1939ねん昭和しょうわ14ねん1がつ4にち近衛このえ内閣ないかくそう辞職じしょく平沼ひらぬま内閣ないかくとなる[58]

1939ねん作戦さくせんとしては1がつからの重慶たーちんばくげき[51]、2がつ10日とおか海南かいなんとう上陸じょうりく、3月のうみしゅうなど江蘇ちぁんすーしょう要所ようしょ占領せんりょう、3月27にちみなみあきら攻略こうりゃくなどがあったが、戦争せんそう長期ちょうき様相ようそうていし、泥沼どろぬましていった[59]阿部あべ信行のぶゆき大将たいしょう講演こうえん昨年さくねん1938ねんれより1939ねんなつまで「たたかえさらしいたたかえさはない」「ただたいらであるがごとく、ななめであるがごとく、坂道さかみちをずるずる引られのぼってかなければならぬ」とべた[59]

  • 4がつ - 中国ちゅうごくぐんみなみささえ春季しゅんき反撃はんげき作戦さくせん

5月3にち (なかおさむ45)と4にち (なかおさむ27)に海軍かいぐん航空こうくうたい焼夷弾しょういだんばくげき実施じっしした。重慶たーちん防空ぼうくう司令しれい調査ちょうさによると両日りょうじつ焼死しょうししゃ3991めい負傷ふしょうしゃ2323めい損壊そんかい建物たてもの846むねたっし、えい大使館たいしかんふつ領事館りょうじかん外国がいこく教会きょうかいにも被害ひがいおよんだ[61]

  • 5がつはじめ - 日本にっぽんぐんじょうひがし作戦さくせん
  • 5月7にち板垣いたがき陸相りくしょうは、ささえ事変じへん解決かいけつされないのはソ連それんとイギリスの援助えんじょによるとして、ドイツとイタリアとの軍事ぐんじ同盟どうめい必要ひつようそう会議かいぎべた[59]
  • 5月11にちノモンハン事件じけん勃発ぼっぱつにち武力ぶりょく衝突しょうとつ)。
  • 6月13にち - ソ連それん国民こくみん政府せいふたいし1おく5000まんドルの借款しゃっかん供与きょうよ

6月14にち日本にっぽんぐん天津てんしんのイギリス租界そかい封鎖ふうさするが、これは4がつ発生はっせいした臨時りんじ政府せいふ要人ようじん暗殺あんさつテロ犯人はんにんわたしを租界そかい当局とうきょく拒否きょひしたからであった[59]日本にっぽんとイギリスは7がつ15にちから有田ありた・クレーギー会談かいだん実施じっし、イギリスがわ中国ちゅうごくにおける現実げんじつ事態じたい完全かんぜん承認しょうにんし、日本にっぽんぐん治安ちあん維持いじのために特殊とくしゅ要求ようきゅうゆうすることを承認しょうにんするとした[59]。ただし、これはイギリスのたいちゅう政策せいさく変更へんこう意味いみするものではないとされた[59]

  • 6月21にち - 日本にっぽんぐん汕頭占領せんりょう

イギリスが日本にっぽんいち後退こうたいしたのにたいしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは7がつ26にち日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく廃棄はいき突然とつぜん日本にっぽん通告つうこくし、日本にっぽんがわ衝撃しょうげきをうけた[59]。11月にはグルーちゅうにちアメリカ大使たいしとの会談かいだんがはじまるが、12月22にち、アメリカは中国ちゅうごく日本にっぽんぐん為替かわせ通貨つうか貿易ぼうえきなど全面ぜんめんてき制限せいげんおこなっている以上いじょう協定きょうてい締結ていけつ不可能ふかのうとして拒絶きょぜつした[59]

ひろしちょうめい南京なんきん政府せいふ樹立じゅりつ[編集へんしゅう]

1939ねん5がつひろしちょうめい来日らいにちし、1939ねん6がつ平沼ひらぬま内閣ないかく中国ちゅうごくしん政府せいふ樹立じゅりつ方針ほうしんひろし工作こうさく指導しどう要綱ようこう発表はっぴょう前年ぜんねん11がつ30にちささえしん関係かんけい調整ちょうせい方針ほうしん和平わへい条件じょうけんとした[60]。そのひろしちょうめい中国ちゅうごくかく地方ちほう政府せいふまわり、意向いこう打診だしん、11月1にち上海しゃんはい日本にっぽん交渉こうしょうするが、日本にっぽんこうむ疆、華北かほく防共ぼうきょう駐屯ちゅうとん南京なんきん上海しゃんはい杭州こうしゅうにも駐屯ちゅうとん揚子江ようすこう沿岸えんがん特定とくてい地点ちてんにも艦船かんせん部隊ぶたい駐屯ちゅうとん提案ていあんたいしてひろしがわふとしはらいしそう滄州のライン以北いほく限定げんていするよう日本にっぽんがわおおきく譲歩じょうほしたうえ要求ようきゅうするが、日本にっぽんがわ山東さんとうしょうくわえるよう要求ようきゅうした[60]。12月30にちにちはなしん関係かんけい調整ちょうせい要綱ようこう成立せいりつ[60]

1940ねん(昭和しょうわ15ねん)1がつ阿部あべ内閣ないかくから米内よない内閣ないかくわった[59]。 1月6にちひろしちょうめい腹心ふくしんだか宗武むねたけらが上海しゃんはい脱出だっしゅつし、香港ほんこん日本にっぽん講和こうわ条件じょうけん暴露ばくろし、ひろしちょうめい傀儡かいらいうったえた[60]。これによって蔣介せき支持しじそう拡大かくだいした[60]

さんこく同盟どうめいえいべい交渉こうしょう[編集へんしゅう]

1940ねん5がつ・6月のドイツぐんによる西にしヨーロッパの席捲せっけん進撃しんげき背景はいけい日本にっぽん政府せいふ6月24にちえいふつにビルマルートおよび香港ほんこん経由けいゆによる援蔣行為こうい停止ていし要求ようきゅうした[59]

5月18にちより、日本にっぽんぐんかんこううんじょう基地きちから重慶たーちん成都せいと空襲くうしゅうするいちいちごう作戦さくせんが10がつ26にちまで実施じっしされた[51]。6月12にちにはむべあきら占領せんりょう[51]。6月24にちから6がつ29にちまでは連続れんぞくしてもうばくおこなわれた [51]

  • 1940ねん7がつ11にち、アメリカは日本にっぽんたいして、武力ぶりょくによる領土りょうど獲得かくとく政策せいさく堅持けんじする諸国しょこく協調きょうちょうするのか、という確認かくにんをしたが、べい内内うちうちかく答弁とうべんすることがないまま、陸軍りくぐん総意そういによって[60] 倒壊とうかいし、7がつ21にちだい近衛このえないかく成立せいりつする[59]

7がつ18にち英国えいこく日本にっぽん要求ようきゅうおうじ援蔣ルート(ビルマルート)を閉鎖へいさ[51]。 7月26にち基本きほん国策こくさく要綱ようこうで「皇国こうこく国是こくぜ八紘はっこう一宇いちうとするはじめこくだい精神せいしん」がとなえられた[51]。7月27にち大本営だいほんえいでは南方なんぽう問題もんだい解決かいけつのため武力ぶりょくもちいることが決定けっていされた[51]。8月1にち松岡まつおか外相がいしょう日本にっぽんまんしゅうシナを一環いっかんとするだい東亜とうあ共栄きょうえいけん確立かくりつという外交がいこう方針ほうしん発表はっぴょうした[51]

  • 8がつ20日はつか〜12月5にち - 20まんはちぐんが、山西さんせいから河北かわきたにかけての鉄道てつどう通信つうしんもう日本にっぽんぐん警備けいび拠点きょてん一斉いっせい攻撃こうげきし、だい攻勢こうせいをかけたひゃくだん大戦たいせん展開てんかいされる[62]日本にっぽんぐん不意ふいをつかれ、以後いご敵性てきせい住民じゅうみん」の死滅しめつみとめた報復ほうふく攻撃こうげきによってはちぐん抗日こうにち根拠地こんきょち掃討そうとう作戦さくせん開始かいしし、中国ちゅうごくはこれを三光さんこう作戦さくせんんだ[62]。この掃討そうとう作戦さくせんではどくガスも使用しようされたといわれ、はちぐん抗日こうにち根拠地こんきょちのなかには人口じんこうが3ぶんの2になった地区ちくもあった[62]
  • 1940ねん9がつ14にち松岡まつおか外相がいしょう陸海りくかいぐん首脳しゅのう会議かいぎにおいて「えいべいとの連携れんけい不可能ふかのうではないが、しかしそのためにはささえ事変じへん処理しょりしなくてはならず」「のこされたみちどくとの提携ていけい」と主張しゅちょう陸海りくかい首脳しゅのうはこれに同意どういした[51]。9月23にち日本にっぽんぐん北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅう。9月25にち米国べいこく国民こくみん政府せいふたいし2500まんドルの借款しゃっかん供与きょうよ。9月27にちにはにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつされる[51]。9月30にち米国べいこく鉄鋼てっこう屑鉄くずてつたいにち輸出ゆしゅつ禁止きんしする法令ほうれい発布はっぷ[51]日本にっぽんはこれに抗議こうぎしたが、ハル国務こくむ長官ちょうかんは、アメリカの国防こくぼうじょう判断はんだんであるとして抗議こうぎ拒絶きょぜつした[51]
  • 9がつまつ - 日本にっぽん陸軍りくぐん今井いまい武夫たけお大佐たいさらの蔣介せき夫人ふじんそうよしよわいおとうとそうりょうへのにちちゅう和平わへい工作こうさくきり工作こうさく)をおこなっていたが、進展しんてんせず、断念だんねん(のちにそうりょうしょうした人物じんぶつ偽物にせもので、この和平わへい工作こうさくあいころもしゃ戴笠指揮しきおこなわれていたことがかっている)[51]
1940ねん時点じてん日本にっぽんぐん占領せんりょう地域ちいき(赤色あかいろ部分ぶぶん)
  • 10月4にち、イギリスはビルマルート再開さいかい中国ちゅうごくがわ通知つうちする[51]同日どうじつ日本にっぽんぐん731部隊ぶたいが衢県において細菌さいきんせん実行じっこうしたとされる[63]
  • 10月23にち日本にっぽん首脳しゅのう会議かいぎえいべい依存いぞん経済けいざいから自給じきゅうけん確立かくりつのために南方なんぽう問題もんだい武力ぶりょく解決かいけつする方針ほうしん確認かくにんされた[51]
  • 11月〜12月 - 日本にっぽんぐんかんすい作戦さくせん。11月にはささえ派遣はけんぐん兵力へいりょくは20中隊ちゅうたい総計そうけい72まん8000にんであった[51]。11月23にち日本にっぽん御前ごぜん会議かいぎささえ事変じへん処理しょり要綱ようこう決定けってい、これは1938ねん11月30にちささえしん関係かんけい調整ちょうせい方針ほうしん比較ひかくすると宥和ゆうわてきなものであった[51]。11月30にち日本にっぽんひろしちょうめい南京なんきん政府せいふにちはな基本きほん条約じょうやく調印ちょういんまんはな共同きょうどう宣言せんげん発表はっぴょう南京なんきん政府せいふ中国ちゅうごく中央ちゅうおう政府せいふとして正式せいしき承認しょうにんした[51]べいえい即座そくざひろしちょうめい政府せいふ否認ひにん米国べいこく国民こくみん政府せいふたいして借款しゃっかん追加ついか供与きょうよ1おくドル、12月10にちには英国えいこく国民こくみん政府せいふいちせんまんポンドの借款しゃっかん供与きょうよすると発表はっぴょうした[51]。12月11にちソ連それん国民こくみん政府せいふたいし1おくげん借款しゃっかん供与きょうよバーター決済けっさい)。12月13にち、蔣介せきはアメリカに航空機こうくうき5〜10%の提供ていきょう日本にっぽん本土ほんど遠距離えんきょりばくげきのためにB17戦略せんりゃく爆撃ばくげき要請ようせいした[51]
  • 12月18にち - 英国えいこく、援蔣ルート(ビルマルート)を再開さいかい
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ7にち国民こくみん政府せいふ移動いどう命令めいれいおうじなかった共産党きょうさんとうとのあいだ対立たいりつ激化げきかし、国民党こくみんとうぐん包囲ほうい作戦さくせんによって共産党きょうさんとうぐん壊滅かいめつてき打撃だげきけた(皖南事変じへん[51]。1月25にち、蔣介せきはスターリンに軍律ぐんりつ問題もんだいぎないとこたえた[51]
  • 1がつ〜2がつ - 日本にっぽんぐんみなみ作戦さくせん、3月15にち錦江きんこう作戦さくせん
  • 4がつ - 米国べいこく国民こくみん政府せいふに5せんまんドル借款しゃっかん成立せいりつちゅう中立ちゅうりつ条約じょうやく成立せいりつ[よう出典しゅってん]
  • 4がつ13にち - にち中立ちゅうりつ条約じょうやく調印ちょういん。蔣介せき衝撃しょうげきけるが、ソ連それん軍事ぐんじ援助えんじょはこれまでとお継続けいぞくするとした[64]

アジア太平洋戦争たいへいようせんそう中国ちゅうごく戦線せんせん[編集へんしゅう]

日米にちべい交渉こうしょう太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

防空壕ぼうくうごうもどろうとしてみつけられたり、窒息ちっそくしたりして死亡しぼうした市民しみん(1941ねん6がつ5にち重慶たーちん防空壕ぼうくうごう窒息ちっそく事件じけん

1941ねん4がつ中旬ちゅうじゅんより、重慶たーちん工作こうさくみちがないため、日米にちべい交渉こうしょう開始かいしされた[64]日本にっぽんさんこく同盟どうめい3じょう日本にっぽん参戦さんせん義務ぎむについてと、アメリカ仲介ちゅうかいによるにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の解決かいけつ要望ようぼうしたが、アメリカは門戸もんこ開放かいほう機会きかい均等きんとう無条件むじょうけん適用てきよう提示ていじした[64]

6月22にちどくせんがはじまると、松岡まつおか外相がいしょう即時そくじたい参戦さんせん上奏じょうそうしたが、7がつ2にち御前ごぜん会議かいぎどくせん介入かいにゅう決定けってい南方みなかた進出しんしゅつ強化きょうかし、たいえいべいせんやめせずと決定けっていした[64]。7月7にち - 関東軍かんとうぐん特種とくしゅ演習えんしゅう関東軍かんとうぐんたいせん準備じゅんびするが8がつ断念だんねん)。7がつ10日とおか、アメリカ対案たいあんたいして外務省がいむしょう顧問こもん斉藤さいとう良衛よしえは、南京なんきん政府せいふし、まんしゅう中国ちゅうごくへの返還へんかん日本にっぽんぐん無条件むじょうけん撤兵てっぺいなどを意味いみしていると解釈かいしゃく松岡まつおか外相がいしょうもこれに賛同さんどうした[64]。7月28にち日本にっぽんぐん南部なんぶふつしるし進駐しんちゅう実施じっしえいべい日本にっぽん資産しさん凍結とうけつした[64]。8月1にち - 米国べいこくたいにち輸出ゆしゅつ大幅おおはば制限せいげん

  • 9月5にち〜11月6にち - だいいち次長じちょうすな作戦さくせんごう作戦さくせん)。
  • 10月 - マニラえいべいらんちゅう軍事ぐんじ会談かいだん
  • 10月16にち近衛このえ内閣ないかくそう辞職じしょく、18にち東条とうじょう内閣ないかく成立せいりつ[65]。11月1にちから翌日よくじつ午前ごぜん1時半じはんまでの会議かいぎで、自存じそん自衛じえいかんだい東亜とうあしん秩序ちつじょ建設けんせつするためのべいえいらん戦争せんそう決意けついするとともに、たいべい交渉こうしょうが12月1にちまでに成功せいこうすれば武力ぶりょく発動はつどう中止ちゅうしするという帝国ていこく国策こくさく遂行すいこう要領ようりょう採択さいたくされた[65]たいべいあんでは甲乙こうおつあん了承りょうしょうされ、かぶとあんでは、これまでににちちゅう提携ていけいえて、中国ちゅうごくでの通商つうしょう差別さべつ原則げんそく無条件むじょうけん承認しょうにんみとめる譲歩じょうほをし、また和平わへい成立せいりつ2ねん撤兵てっぺいするとされ、まんしゅうについては議題ぎだいとしてれないというものであった[65]おつあんは、南方なんぽう限定げんていしたものでふつしるし南部なんぶ日本にっぽんぐん北部ほくぶ移駐いちゅう在米ざいべい資産しさん凍結とうけつ復帰ふっきなどがかれ、11月7にちかぶとあんが11月20にちおつあんがハル国務こくむ長官ちょうかん提示ていじされた[65]
  • 11月22にち - べい国務こくむ長官ちょうかんハル暫定ざんてい協定きょうていあんまとめ、ワシントンのえいらんほりちゅう代表だいひょう日本にっぽんおつあん提示ていじしたうえで、南部なんぶふつしるしからの日本にっぽんぐん撤退てったいたいにち禁輸きんゆ一部いちぶ解除かいじょというアメリカの対案たいあん提示ていじしたが、中国ちゅうごくえびすてき大使たいしはこれでは日本にっぽんたいちゅう戦争せんそう自由じゆう遂行すいこうすることが可能かのうだとしてつよ反対はんたいした[65]。11月24にち、ハルはえいらんほりちゅう代表だいひょう説得せっとく再度さいどおこなったが中国ちゅうごくがわ北部ほくぶふつしるし日本にっぽんぐん25000を5000にするようもとめてゆずらなかった[65]。蔣介せきはアメリカは中国ちゅうごく犠牲ぎせいにして日本にっぽん妥協だきょうしようとしているとして激怒げきど、ラティモアは蔣介せきがここまでおこるのははじめてだとべい大統領だいとうりょう報告ほうこくした[65]。さらに蔣介せきはスティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかん、ノックス海軍かいぐん長官ちょうかんにも親書しんしょおくり、チャーチルももし中国ちゅうごく崩壊ほうかいすれば英国えいこく危機ききひんするとしてルーズベルト大統領だいとうりょう説得せっとくした[65]。11月26にち - べい国務こくむ長官ちょうかんハルは暫定ざんてい協定きょうていあん放棄ほうきし、ハル・ノート作成さくせい同日どうじつ野村のむら来栖くるすりょう大使たいし手交しゅこう日本にっぽんはこれを最後さいご通牒つうちょうかいし、たいべい開戦かいせんかたむく。
  • 12月〜翌年よくねん1がつ - だい次長じちょうすな作戦さくせん
だい東亜とうあ戦争せんそう(太平洋戦争たいへいようせんそう)開戦かいせん
  • 12月8にち - 日本にっぽん上海しゃんはい降伏ごうぶく勧告かんこくおうじなかったイギリス砲艦ほうかんペトレルごう撃沈げきちん華北かほくでは天津てんしんえいふつ租界そかい接収せっしゅう華南かなんすなめんイギリス租界そかいへも進駐しんちゅうマレまれ半島はんとう上陸じょうりくおよ真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき広東かんとんだい23ぐん香港ほんこん攻略こうりゃく開始かいし香港ほんこんたたか)。こうしてだい世界せかい大戦たいせんだい東亜とうあ戦争せんそう/太平洋戦争たいへいようせんそう)が勃発ぼっぱつする。日米にちべい開戦かいせんのニュースに重慶たーちん国民こくみん政府せいふ狂喜きょうきした[65]。12月9にち - 中華民国ちゅうかみんこく重慶たーちん政府せいふ、蔣介せき政権せいけん)、にちどく宣戦せんせん布告ふこく[65]
  • 12月12にち - 日本にっぽんたいべいえい戦争せんそうささえ事変じへんたい中国ちゅうごく戦線せんせん)もふくめて「だい東亜とうあ戦争せんそう」と呼称こしょうすることを閣議かくぎ決定けっていする。同日どうじつ、スターリンは蔣介せき参戦さんせん催促さいそくたいして兵力へいりょく極東きょくとうにさくことはできないためたいにち参戦さんせんかんがえられないとこたえた[65]
  • 12月25にち - 日本にっぽんぐん香港ほんこん占領せんりょう
  • 12月31にち、アメリカの要請ようせいで蔣介せき中国ちゅうごくせん連合れんごうぐんそう司令しれいかん就任しゅうにん、蔣介せき希望きぼうジョセフ・スティルウェル中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐん参謀さんぼうちょう就任しゅうにんする[65]

1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ1にち、蔣介せき日本にっぽん一時いちじ興奮こうふんるが、結局けっきょく自滅じめつするとかたった[65]

  • 1がつ31にち - 日本にっぽんぐんビルマ攻略こうりゃく開始かいし援蔣ルート遮断しゃだん)。
  • 3月 - 米国べいこく国民こくみん政府せいふに5おくドル借款しゃっかん成立せいりつ
  • 5月〜9月 - 浙贛作戦さくせん中国語ちゅうごくごばんごう作戦さくせん)、浙は浙江せっこうしょう、贛は江西えにししょう旧称きゅうしょう
  • 5がつまつ - 日本にっぽんぐん、ビルマ全域ぜんいき占領せんりょう
  • 10月 - えいべい中国ちゅうごくにおける治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱい不平等ふびょうどう条約じょうやく廃止はいし)。
1943ねん昭和しょうわ18ねん
大陸たいりくどおり作戦さくせん日本にっぽんぐん占領せんりょう地域ちいき(あか部分ぶぶん)、およ中国共産党ちゅうごくきょうさんとうゲリラの拠点きょてん地域ちいき(ストライプ部分ぶぶん)
1944ねん昭和しょうわ19ねん

日本にっぽんぐん、4がつ19にちていしゅう占領せんりょう、5月25にちには 洛陽らくよう占領せんりょうきょうかん作戦さくせん成功せいこう

  • 6月2にち〜9月14にち - ひしげはじめあがえつたたかにおいて日本にっぽんぐん守備しゅびたい玉砕ぎょくさい同地どうち失陥しっかんによって援蔣ルート(ビルマルート)再開さいかい
  • 6月16にち - 成都せいと基地きちとするアメリカぐんB-29爆撃ばくげきが、日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう開始かいし八幡やはた空襲くうしゅう)。
  • 6月18にち - 日本にっぽんぐんちょうすな攻略こうりゃく
  • 7がつ2にち - インパール作戦さくせん失敗しっぱいにより、援蔣ルート遮断しゃだん継続けいぞく目的もくてきとするだん作戦さくせんあらたに発令はつれい
  • 7がつ7にち - サイパン陥落かんらく。アメリカぐん成都せいとわるB-29による日本にっぽん本土ほんどばくげき拠点きょてん確保かくほ
  • 11月10にち - ひろしちょうめい客死かくし
1945ねん昭和しょうわ20ねん

登場とうじょう勢力せいりょく立場たちば目的もくてき[編集へんしゅう]

大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
まんしゅうこく独立どくりつによってにちちゅう安定あんていし、ひがしアジア平和へいわ秩序ちつじょはかられるとした(天羽あもう声明せいめい)[68]。また、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)は明確めいかく開戦かいせん決意けついでなく偶発ぐうはつてき開戦かいせんしたため戦争せんそう目的もくてき確立かくりつするまでに時間じかんがかかった[69]。そのため、たいえいべいらんせんだい東亜とうあ戦争せんそう(にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)および太平洋戦争たいへいようせんそう)のさいには開戦かいせん目的もくてき明確めいかくされ、日本にっぽんがわ戦争せんそう目的もくてきは「自存じそん自衛じえい」と「(西洋せいよう帝国ていこく主義しゅぎからの)アジア解放かいほう」をはしらとした[69]東亜とうあしん秩序ちつじょだい東亜とうあ共栄きょうえいけん確立かくりつによってアジア解放かいほう実現じつげんされると主張しゅちょうされた[69]日本にっぽんぐん中国ちゅうごくぐん戦意せんい過小かしょう評価ひょうかし、短期間たんきかん戦争せんそう終結しゅうけつするとかんがえていたが、12月の首都しゅと南京なんきん陥落かんらくこうも、国民こくみん政府せいふ首都しゅと内陸ないりく重慶たーちんうつして徹底てってい抗戦こうせんかまえをせ、戦争せんそう長期ちょうき兆候ちょうこうしめはじめた。これにたいして、不拡大ふかくだい石原いしはら莞爾かんじ作戦さくせん部長ぶちょうソビエト連邦れんぽうへの警戒けいかいだいいちとし中国ちゅうごくでの戦争せんそう拡大かくだいするべきでないと主張しゅちょう戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつ目指めざ参謀さんぼう本部ほんぶ長期ちょうき反対はんたい姿勢しせいせた。ちゅうはなドイツ大使たいしトラウトマンによる和平わへい工作こうさく模索もさくされ、蔣介せき一時いちじ講和こうわ前向まえむきな姿勢しせいせたものの、南京なんきん陥落かんらく強硬きょうこう姿勢しせいてんじた近衛このえ内閣ないかく和平わへい条件じょうけん要求ようきゅう過重かじゅうなものにしたため、蔣介せき態度たいど硬化こうかさせることとなった。大本営だいほんえい政府せいふ連絡れんらく会議かいぎなかで、参謀さんぼう本部ほんぶ近衛このえないかく政府せいふ和平わへい交渉こうしょう打切うちきあんはげしく反対はんたいしたが、べい内海うちうみしょうなどからの戦時せんじちゅう内閣ないかく退陣たいじんおこすことをけるべしとの意見いけんれた[70]近衛このえないかくは蔣介せきとの和平わへい交渉こうしょうり、「帝國ていこく政府せいふ爾後じご国民こくみん政府せいふたいとせず」との声明せいめい一方いっぽう、蔣介せき対立たいりつするひろしちょうめい講和こうわすることで問題もんだい解決かいけつはかろうとした。その戦争せんそう終結しゅうけつのため援蔣ルート遮断しゃだんねらい、ヴィシー政権せいけんのフランスと合意ごういうえフランスりょうインドシナへと進駐しんちゅうしたが、このことが東南とうなんアジア植民しょくみんにしていたアメリカやイギリスオランダなどを刺激しげきすることとなり、アメリカは経済けいざい制裁せいさい発動はつどうし、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)にいた[よう出典しゅってん]
満洲国の旗 まんしゅうこく
ソビエト連邦れんぽう対峙たいじする関東軍かんとうぐん後方こうほう支援しえん終始しゅうしし、蔣介せき中華民国ちゅうかみんこく政府せいふとはほとんど交戦こうせんしなかった。
蒙古聯合自治政府の旗 こうむ聯合れんごう自治じち政府せいふ
盧溝橋ろこうきょう事件じけん勃発ぼっぱつうちこうむふる本格ほんかく出兵しゅっぺいした日本にっぽんぐんおうじるかたちで1937ねん樹立じゅりつされたこうむ連盟れんめい察南すすむきたの3自治じち政府せいふを、1939ねん統合とうごうしてこうむ連合れんごう自治じち政府せいふ樹立じゅりつされた。名目めいもくとしてはひろし兆銘中華民国南京国民政府した自治じち政府せいふという位置いちづけだった。
冀東防共ぼうきょう自治じち政府せいふ
1935ねんから1938ねんまでいんなんじこうによって河北かほくしょう存在そんざいした地方ちほう政権せいけん中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ合流ごうりゅう
中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ (北京ぺきん)
1937ねんから1940ねんまでおう克敏かつとし首脳しゅのうとして北京ぺきん存在そんざいした。日本にっぽん同調どうちょうし、日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんともいわれた。ひろしちょうめい政権せいけん南京なんきん政府せいふ)が成立せいりつすると華北かほく政務せいむ委員いいんかいとなった。
中華民国ちゅうかみんこく維新いしん政府せいふ
1938ねんから1940ねんまで南京なんきん存在そんざいした。日本にっぽん傀儡かいらい政権せいけんひろしちょうめい政権せいけん南京なんきん政府せいふ)へ編入へんにゅう
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく (ひろしちょうめい政権せいけん)
日本にっぽんとの徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうする蔣介せきたいして、当時とうじ日本にっぽん首相しゅしょう近衛このえ文麿ふみまろは「帝国ていこく政府せいふ爾後じご国民こくみん政府せいふたいとせず」「新興しんこうささえ政権せいけん成立せいりつ発展はってん期待きたいする」との近衛このえ声明せいめいし、みずか和平わへいみちざした。その、蔣介せきわるあらたな交渉こうしょう相手あいてとして国民党こくみんとうNo.2であるひろしちょうめいによる中国ちゅうごく国民党こくみんとう政権せいけん樹立じゅりつさせた。ひろしは蔣介せき督戦とくせんたい戦法せんぽうゲリラ戦術せんじゅつ清野きよの戦術せんじゅつなどの中国ちゅうごく民衆みんしゅうんだ戦法せんぽうつよ反発はんぱつまごぶんによる「にちちゅうたたかうべからず」の遺訓いくんから「いちめん抵抗ていこういちめん交渉こうしょう」の基本きほん姿勢しせいのもと、反共はんきょう和平わへい解決かいけつかかげ、1938ねんに蔣介せき中華民国ちゅうかみんこく政府せいふから離反りはんした。ひろし日本にっぽんちから背景はいけいとして北平きたひら中華民国ちゅうかみんこく臨時りんじ政府せいふ南京なんきん中華民国ちゅうかみんこく維新いしん政府せいふなどを集結しゅうけつして、1940ねんに蔣介せきとは別個べっこ国民こくみん政府せいふ設立せつりつしたが、蔣介せき国民こくみん政府せいふからひろしちょうめい追随ついずいするものがいなかったうえきたささえちゅうささえなどの一部いちぶ軍閥ぐんばつのぞき、中国ちゅうごく各地かくち支配しはいしていたおおくのしょ軍閥ぐんばつ支持しじされず、国際こくさいてき承認しょうにんられなかった[71]おも共産党きょうさんとうぐん相手あいてたたかった。
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく蔣介せき政権せいけん
まごぶん死後しご国内こくないふたた分裂ぶんれつ状態じょうたいとなり、国民党こくみんとう右派うは中心ちゅうしん人物じんぶつである蔣介せきひきいる国民こくみん革命かくめいぐん影響えいきょうりょくつよめる中国ちゅうごく国民党こくみんとうなどのあいだ内戦ないせんひろげられた。1927ねん昭和しょうわ2ねん)蔣はきた大敗たいはい最大さいだい危機ききむかえると恩人おんじんである松井まついいしつう田中たなか義一ぎいち首相しゅしょう会談かいだんし、こうむふるまんしゅう問題もんだいえに日本にっぽんからきた援助えんじょし、ちょうさくまんしゅうげさせることに成功せいこうした。このさいちょうさく関東軍かんとうぐん謀殺ぼうさつされ、ちょうまなぶりょう国民党こくみんとう合流ごうりゅう。1931ねん昭和しょうわ6ねんまんしゅう事変じへん発生はっせいした。1932ねん昭和しょうわ7ねんひろしちょうめいと蔣介せき見方みかた一致いっちすると両者りょうしゃ協力きょうりょくして南京なんきん国民こくみん政府せいふ組織そしきする。1933ねん昭和しょうわ8ねん)には日本にっぽんとのあいだ塘沽停戦ていせん協定きょうてい締結ていけつされると1935ねん昭和しょうわ10ねん)、広田ひろた弘毅こうき外相がいしょう議会ぎかい姿勢しせい演説えんぜつで「にちちゅう双方そうほう脅威きょうい侵略しんりゃく」を強調きょうちょう日本にっぽんはアジアの諸国しょこくとも東洋とうよう平和へいわおよび、秩序ちつじょ維持いじ重責じゅうせき分担ぶんたんすると発言はつげんひろしちょうめいと蔣の指導しどうする中華民国ちゅうかみんこくはこれをれ、反日はんにち感情かんじょういましめ、にちちゅう和平わへい路線ろせん着々ちゃくちゃくすすめられたが、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうなどは一部いちぶはこれをよろこばず、1935ねん11月、国民党こくみんとうろくちゅう全国ぜんこく大会たいかいちゅうひろしカメラマンふんした中国共産党ちゅうごくきょうさんとう刺客しかくから狙撃そげきされ負傷ふしょう療養りょうようのためヨーロッパへ渡航とこう。1936ねんには日本にっぽんつよ不信ふしんっていたちょうまなぶりょう西安しーあん事件じけんこして蔣にたいども姿勢しせいからたいにち姿勢しせいへの改心かいしんもと中国ちゅうごく国民党こくみんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうあいだだい国共こっきょう合作がっさく成立せいりつした。蔣は当時とうじきたささえ駐屯ちゅうとんしていた日本にっぽんぐんとのあいだきた盧溝橋ろこうきょう事件じけん発端ほったんに「最後さいご関頭かんとう演説えんぜつ宣言せんげん中国ちゅうごく国内こくないでは国民党こくみんとう勢力せいりょく兵士へいし市民しみん抗日こうにち事件じけんこしいちそうちゅう関係かんけい逼迫ひっぱくした。ろうぼう事件じけん広安ひろやすもん事件じけんなどの紛争ふんそうをきっかけに戦火せんか各地かくちし、中国ちゅうごく全土ぜんど国民こくみん革命かくめいぐん存亡そんぼうをかけた徹底てってい抗戦こうせんゲリラせん)が展開てんかいされた。装備そうびなどのめん劣勢れっせいにあった国民こくみん革命かくめいぐん国民党こくみんとう中央ちゅうおう宣伝せんでん国際こくさい宣伝せんでんしょ[72]組織そしき謀略ぼうりゃくをして国際こくさい世論せろん味方みかたにつけてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから支援しえん援蔣ルートひとし)をした。1941ねん(昭和しょうわ16ねん)11月、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽんふつしるし兵力へいりょく現状げんじょう維持いじふく暫定ざんてい協定きょうてい提示ていじする意向いこうであったが、なか見捨みすてられるかたちとなった蔣は、えい首相しゅしょうウィンストン・チャーチルのコネクションをつうじて抗議こうぎした[注釈ちゅうしゃく 11]。これが一因いちいんとなり暫定ざんてい協定きょうてい撤回てっかいされ、ハル・ノートが通告つうこくされ、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)にいた[73]
中国共産党ちゅうごくきょうさんとう(はちぐんしんよんぐん)
蔣介せき国民党こくみんとう政府せいふ以前いぜんの1932ねん中華ちゅうかソビエト共和きょうわこくとして日本にっぽん宣戦せんせん布告ふこくおこなったが、当時とうじ主権しゅけん国家こっかとしての規模きぼはなく、また日本にっぽんよりもまえ国民党こくみんとう打倒だとうしなければならないとしていた[74]国民党こくみんとうとは国共こっきょう内戦ないせんたたかっていたがだい国共こっきょう合作がっさくによって共産党きょうさんとう支配しはい地区ちくはソビエト(維埃)からあたりへと改名かいめいし、共産党きょうさんとうぐん労農ろうのうこうのうべにぐんから国民党こくみんとうはちぐんしんよんぐんとして蔣介せき政権せいけんとともに抗日こうにち戦争せんそう日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎたたかうとした。
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん勃発ぼっぱつ当初とうしょアジア膨張ぼうちょうつづける日本にっぽんたいする牽制けんせいねらい、援蔣ルートつうじて中華民国ちゅうかみんこく武器ぶきをはじめとする軍事ぐんじ物資ぶっし人材じんざい訓練くんれん教官きょうかん派遣はけんなど)を提供ていきょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい戦争せんそう状態じょうたいにあるくにへの武器ぶき輸出ゆしゅつきんじる中立ちゅうりつほう維持いじしていたが、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の勃発ぼっぱつにより、ルーズベルト大統領だいとうりょうはイギリス国籍こくせきふねがアメリカせい武器ぶき中国ちゅうごく輸送ゆそうすることを許可きょかした。日本にっぽん石油せきゆをアメリカにおおきく依存いぞんしており中共ちゅうきょう米国べいこく依存いぞんしなければ戦争せんそう継続けいぞく困難こんなんであった。そのふつしるし進駐しんちゅうたいにち石油せきゆ輸出ゆしゅつ停止ていしし、ABCD包囲ほういもうハル・ノートが通告つうこく真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきによって太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつすると本格ほんかくてき日本にっぽん戦争せんそう関係かんけいとなる。
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
公式こうしきソ連それんぐん参戦さんせんするのは太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう末期まっきの1945ねん8がつ8にちだが、すでに1920年代ねんだいより中国ちゅうごく共産きょうさん勢力せいりょく拡大かくだいするためべにぐん共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょくにたいして長期間ちょうきかんにわたり支援しえんおこない、また国共こっきょう合作がっさく成立せいりつしてからはたいにち戦線せんせん全面ぜんめんてき支援しえんちょうほう事件じけんノモンハン事件じけんでは関東軍かんとうぐん交戦こうせんしている。なお、日本にっぽんにち中立ちゅうりつ条約じょうやく締結ていけつしていたソ連それんつう連合れんごうこくとの講和こうわ目指めざしたが、ソ連それんたいにち参戦さんせんにより破綻はたんした。
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
だいいち世界せかい大戦たいせんさい日本にっぽんひがしアジア太平洋たいへいよう地域ちいきにおけるドイツの権益けんえき奪取だっしゅしたという事実じじつプロイセンドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい時代じだい黄禍こうかろん主義しゅぎ思想しそうたいにち政策せいさく影響えいきょうおよぼしていた。1935ねんより中華民国ちゅうかみんこくたいしてざいはなドイツ軍事ぐんじ顧問こもんだん中国語ちゅうごくごばん派遣はけん陣地じんち構築こうちく指導しどう軍事ぐんじ訓練くんれん武器ぶき輸出ゆしゅつおこなった(ちゅうどく合作がっさく)。一方いっぽう1936ねんにはにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい締結ていけつするなど、日本にっぽんにも接近せっきんしつつあった。1937ねん勃発ぼっぱつしただい2上海しゃんはい事変じへんさいには、ヒトラー承認しょうにんずみのもと[75]、蔣介せき軍事ぐんじ顧問こもんつとめたファルケンハウゼン直接ちょくせつ作戦さくせん指導しどうにあたっている。にちちゅうあいだ和平わへい交渉こうしょう仲介ちゅうかい(トラウトマン工作こうさく)するが、交渉こうしょう決裂けつれつ軍事ぐんじ顧問こもんだんげることになる。日本にっぽんにちどく関係かんけい悪化あっか憂慮ゆうりょし、鹵獲ろかくしたドイツせい武器ぶきを「ソ連それんせいまたは某国ぼうこくせい」といつわって公表こうひょうした。
イギリスの旗 イギリス
基本きほんてきにアメリカりの政策せいさくったが日本にっぽんがわ要請ようせいで援蒋ルートを一時いちじ閉鎖へいさする[51] などの独自どくじ路線ろせんった。
タイ王国の旗 タイ
日本にっぽん同盟どうめいこくとしてタイこく外征がいせいぐん通称つうしょうパヤップぐん英語えいごばんを滇緬国境こっきょう方面ほうめん派遣はけんした。
オランダの旗 オランダ
中立ちゅうりつこくだったがだい世界せかい大戦たいせんべいえい接近せっきん日本にっぽん対立たいりつにちらん会商かいしょう決裂けつれつにより完全かんぜん敵対てきたい関係かんけいに、アメリカ主導しゅどうABCD包囲ほういもうにも参加さんからんしるし作戦さくせんにより日本にっぽん戦争せんそう状態じょうたいになる。

参戦さんせん勢力せいりょく概要がいよう[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん
軍装ぐんそう装備そうび
戦法せんぽう戦術せんじゅつ
華北かほく共産党きょうさんとう勢力せいりょくにおける治安ちあんせんにおいて徹底的てっていてき掃討そうとう作戦さくせん実施じっししたとわれる。
参加さんか部隊ぶたい
ささえ駐屯ちゅうとんぐん(盧溝橋ろこうきょう事件じけんの1937ねん7がつ11にち関東軍かんとうぐん独立どくりつ混成こんせいだい11旅団りょだん独立どくりつ混成こんせいだい1旅団りょだん旅団りょだん朝鮮ちょうせんぐんだい20師団しだん編入へんにゅう[22]。1937ねん8がつ31にちささえ駐屯ちゅうとんぐん廃止はいしされ、きたささえ方面ほうめんぐんだい1ぐんだい2ぐん編成へんせい
上海しゃんはい海軍かいぐん特別とくべつ陸戦りくせんたい

中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめいぐん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん軍装ぐんそう装備そうび兵力へいりょく

国民こくみん革命かくめいぐん:1937ねん時点じてんで198師団しだんそう兵力へいりょく225まんにん[24]
中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん:1937ねん時点じてんそう兵力へいりょく20まんにん[24]
戦法せんぽう戦術せんじゅつ
日本にっぽん中国ちゅうごく進出しんしゅつたいして国際こくさい社会しゃかい干渉かんしょうしょうじさせる「とおくのてきちかくのてきにけしかける」「蛮族ばんぞくせいするに蛮族ばんぞくをもってする」という中国ちゅうごく伝統でんとう戦術せんじゅつによってソ連それんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく支援しえんをとりつけた[76]
国民党こくみんとうぐんでは赤軍せきぐん手法しゅほう模倣もほうし、督戦とくせんたい制度せいど導入どうにゅうした。また、兵士へいしには戦争せんそう目的もくてき認識にんしき士気しきひくかったことから兵士へいし戦闘せんとう意欲いよく高揚こうよう戦線せんせん離脱りだつ防止ぼうし目的もくてきとして、トーチカ守備しゅびする兵士へいし民間みんかんじん民兵みんぺい)のあしくさりをつけ、後方こうほうから督戦とくせんたい配置はいちして逃亡とうぼうふせぎ、最後さいごまで交戦こうせんをさせた[注釈ちゅうしゃく 12]当時とうじ中国ちゅうごくでは分裂ぶんれつ国家こっか統一とういつ国家こっかではなく、日本にっぽんのような教育きょういく軍事ぐんじ教練きょうれんなども十分じゅうぶんおこなわれなかったこともあり、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん便衣べんいへいゲリラせんによる奇襲きしゅう攻撃こうげきおも戦法せんぽうとした。
参加さんか部隊ぶたい
戦闘せんとう序列じょれつについては以下いか参照さんしょう
国民こくみん革命かくめいぐん戦闘せんとう序列じょれつ (1937ねん)
国民こくみん革命かくめいぐん戦闘せんとう序列じょれつ (1938ねん)
国民こくみん革命かくめいぐん戦闘せんとう序列じょれつ (1939ねん)
国民こくみん革命かくめいぐん戦闘せんとう序列じょれつ (1944ねん)
中国ちゅうごく住民じゅうみん徴発ちょうはつ

にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん期間きかんちゅう国民こくみん政府せいふ徴発ちょうはつした兵士へいし総数そうすうやく1405まんにんである。動員どういん可能かのうにすべく1936ねんから開始かいしされた義務ぎむ兵役へいえき制度せいどは、容易ようい軌道きどうることはなく、当初とうしょは、徴兵ちょうへいであるが、実際じっさい募兵ぼへい拉致らちであったとされる[77]拉致らち被害ひがいしゃ目立めだつのは、地域ちいき住民じゅうみん旅行りょこうちゅう行商ぎょうしょうじん糧食りょうしょくなどの運搬うんぱん労働ろうどうしゃであり、博徒ばくと乞食こじきなどもふくまれていた[77]

すめらぎきょうぐん
軍装ぐんそう装備そうび
戦法せんぽう戦術せんじゅつ
おも共産党きょうさんとう勢力せいりょく交戦こうせん
参加さんか部隊ぶたい
和平わへい建国けんこくぐん
まんしゅう国軍こくぐん
うちこうむぐん
華北かほく治安ちあんぐん
ソ連それんぐん
軍装ぐんそう装備そうび
戦法せんぽう戦術せんじゅつ
参加さんか部隊ぶたい
ソ連それん空軍くうぐん志願しがんたい
イギリスぐん・アメリカぐん
軍装ぐんそう装備そうび
戦法せんぽう戦術せんじゅつ
参加さんか部隊ぶたい
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく義勇軍ぎゆうぐん(AVG)

被害ひがい[編集へんしゅう]

日本にっぽんぐん犠牲ぎせいしゃすう
  • 総計そうけい44まん6500にん(陸軍りくぐん38まん4900にん海軍かいぐん7600にん終戦しゅうせん死亡しぼう5まん4000にん)[78]——70まんにんとも[79]。また関東軍かんとうぐんソ連それんぐん降伏ごうぶくし、60まんがシベリアなどに抑留よくりゅう、6まんにん犠牲ぎせいになった[78]
中国ちゅうごく犠牲ぎせいしゃすう
発表はっぴょうねん 死傷ししょう人数にんずう 調査ちょうさ出典しゅってん 補足ほそく
1946ねん 軍人ぐんじん作戰さくせん死亡しぼう132まん8501 中華民國ちゅうかみんこく國防こくぼう発表はっぴょう[80] 国民こくみん革命かくめいぐんのみ
1947ねん 平民へいみん死亡しぼう439まん7504 中華民國ちゅうかみんこく行政ぎょうせいいん賠償ばいしょう委員いいんかい[81][82] 國民黨こくみんとう統治とうち
1947ねん 軍民ぐんみん死傷ししょう1278まん4974 中華民國ちゅうかみんこく行政ぎょうせいいん賠償ばいしょう委員いいんかい[81][82] 國民黨こくみんとう統治とうち·軍人ぐんじん死傷ししょう365まん0405·平民へいみん死傷ししょう913まん4569
1985ねん 軍民ぐんみん死亡しぼう2100まん 共産党きょうさんとう政権せいけん発表はっぴょう抗日こうにち勝利しょうり40周年しゅうねん
1995ねん 軍民ぐんみん死傷ししょうやく3500まん 江沢民こうたくみん発表はっぴょう[83] 江沢民こうたくみん、纪念抗日こうにち战争胜利じゅう周年しゅうねん大会たいかいじょうてき讲话

上記じょうきひょう中国ちゅうごくがわ犠牲ぎせいしゃが132まんとあるが、この数字すうじ中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめいぐんのみのかずである。当時とうじ中国ちゅうごく大陸たいりくでは、日本にっぽんぐん南京なんきん中華民国ちゅうかみんこく政府せいふぐん・蔣介せき国民こくみん革命かくめいぐん共産党きょうさんとうぐんげん:中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐん前身ぜんしん)・その馬賊ばぞく抗日こうにち武装ぶそう勢力せいりょくなど複数ふくすう勢力せいりょくが、割拠かっきょする地域ちいきで、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへんちゅうにはおもに2つの勢力せいりょくかれて戦争せんそうおこなっていた。また国共こっきょう内戦ないせん国共こっきょう合作がっさく以降いこう断続だんぞくしており、だい世界せかい大戦たいせんには再開さいかいしている。中国ちゅうごく民衆みんしゅう戦争せんそう翻弄ほんろうされ、農業のうぎょう商業しょうぎょう工業こうぎょう運輸うんゆなどの生活せいかつ基盤きばん破壊はかいされるとともかく勢力せいりょく戦闘せんとうゲリラせんまれいのちとしたり、戦闘せんとう継続けいぞくなか日本にっぽんぐんのみならず国民こくみんたるかく勢力せいりょく食糧しょくりょう徴発ちょうはつされたことや焦土しょうど作戦さくせん影響えいきょう飢餓きがおちいひと大勢おおぜいいた。また日本人にっぽんじんをはじめ在留ざいりゅう外国がいこくじん戦闘せんとうまれた。(中国ちゅうごく空軍くうぐん上海しゃんはい爆撃ばくげき (1937ねん)参照さんしょう)。

以下いかかく犠牲ぎせいしゃすうについて注釈ちゅうしゃくする。

  • 終戦しゅうせん132まんにん
    • 国民こくみん政府せいふ統計とうけい中華民国ちゅうかみんこく軍令ぐんれい統計とうけい中華民国ちゅうかみんこく陸軍りくぐん戦争せんそう犠牲ぎせいしゃ131まん9958にん[82][84]
    • 国民こくみん政府せいふ統計とうけい】1946ねん中華民国ちゅうかみんこく国防こくぼう初歩しょほ調査ちょうさにある(1947ねん5がつ中華民国ちゅうかみんこく行政ぎょうせいいん賠償ばいしょう委員いいんかい引用いんよう),「軍人ぐんじん戦死せんししゃすう132まん8501にん」は「中華民国ちゅうかみんこく国軍こくぐん」のみで、民間みんかんじんまたは共産党きょうさんとう軍隊ぐんたい死亡しぼうしゃ病死びょうししゃ徴兵ちょうへいうしなった国軍こくぐん数等すうとうふくまれていない[85]
  • 1948ねん438まんにん
    • 国民こくみん政府せいふ統計とうけい】439まん7504にん。1947ねん中華民国ちゅうかみんこく行政ぎょうせいいん賠償ばいしょう委員いいんかいの「民間みんかんじん死亡しぼうしゃすう」にかんした統計とうけいちか[85]。これは「国民党こくみんとう統治とうち区域くいき」にかぎっての初歩しょほ調査ちょうさかんだ民間みんかんじん死亡しぼうしゃすうであり、共産党きょうさんとう統治とうち区域くいき一般人いっぱんじん死亡しぼうしゃすうふくまれていないとおもわれる[82]
  • 1950ねん1000まんにん
    • 共産党きょうさんとう発表はっぴょう】蔣介せきが1947ねんった「軍民ぐんみん犠牲ぎせいしゃいちせんまんにん」がはじまりで、概数がいすうである[82]
    • 国民こくみん政府せいふ統計とうけい】1947ねん5がつ中華民国ちゅうかみんこく行政ぎょうせいいん賠償ばいしょう委員いいんかいによると、軍人ぐんじん死傷ししょうしゃ365まん0405、一般人いっぱんじん死傷ししょうしゃ913まん4569。ただし共産党きょうさんとうぐん共産党きょうさんとう根拠地こんきょち数字すうじふくまれていないとおもわれる。
  • 1985ねん2100まんにん
    • 共産党きょうさんとう発表はっぴょう原文げんぶん発見はっけんされていない。おそらく「全国ぜんこく軍民ぐんみん死亡しぼうしゃすうすであろう。軍隊ぐんたい戦死せんししゃ100まんあまり、民間みんかんじんやく2000まん詳細しょうさいつぎべる。
  • 1995ねん3500まんにん
    • 中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかいそう書記しょき江沢民こうたくみん発言はつげん[86]犠牲ぎせいしゃすう」ではなく、「死傷ししょう人数にんずう」をさす。数字すうじはじめの出所しゅっしょ中国ちゅうごく軍事ぐんじ科学かがくいん軍事ぐんじ歴史れきし研究けんきゅう研究けんきゅうである。1995ねん出版しゅっぱんの『中国ちゅうごく抗日こうにち戦争せんそう』の概算がいさん統計とうけいによると、抗日こうにち戦争せんそう期間きかんちゅう中国ちゅうごく軍隊ぐんたい死傷ししょうしゃ380まんにんあまり中国ちゅうごく人民じんみん犠牲ぎせいしゃ2000まんにんあまり中国ちゅうごく軍民ぐんみん死傷ししょうしゃ総数そうすうが3500まんにん以上いじょうたっした[87]

国共こっきょう内戦ないせん[編集へんしゅう]

太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)およびにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の終結しゅうけつ前後ぜんこうに、蔣介せきひきいる中国ちゅうごく国民こくみん革命かくめいぐん毛沢東もうたくとうひきいる中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐんあいだ国共こっきょう内戦ないせん再開さいかい中国ちゅうごく国内こくない懸念けねんされると同時どうじに1945ねん9がつからはうえとう戦役せんえきなど内戦ないせんがはじまった。アメリカも中国ちゅうごく内戦ないせん阻止そしするために介入かいにゅうし、重慶たーちん会談かいだんをはじめ様々さまざま交渉こうしょうたれるが、1946ねん6がつに、蔣介せきひきいる国民こくみん革命かくめいぐん全面ぜんめん侵攻しんこう命令めいれいはっした。1949ねんから1950ねんにかけて、中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん国民党こくみんとうぐんやぶり、蔣介せきらは台湾たいわんのがれ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつした。

残留ざんりゅう日本にっぽんへい残留ざんりゅう日本人にっぽんじん[編集へんしゅう]

国民党こくみんとうの蔣介せきは「とくもっうらみにむくいる」として、終戦しゅうせん直後ちょくご日本人にっぽんじん居留民きょりゅうみんらにたいして報復ほうふくてき態度たいどきんじたうえで送還そうかん政策せいさくをとった。[88] 日本にっぽん降伏ごうぶく日本にっぽんぐん武装ぶそう解除かいじょ開始かいしされた国共こっきょう内戦ないせんときには、中国ちゅうごく大陸たいりく残留ざんりゅうしてはちぐんへの入隊にゅうたい希望きぼうする日本にっぽん軍人ぐんじんすくなくなかった。当時とうじはちぐんはその軍紀ぐんきさんだい紀律きりつはちこう注意ちゅうい遵守じゅんしゅ評判ひょうばんになっており、また日本人にっぽんじん捕虜ほりょ厚遇こうぐうして寛大かんだいあつかっていたという伝聞でんぶんもあったので、はちぐん好意こういてき感情かんじょう日本にっぽんぐん将兵しょうへいすくなからずいた。ささえ派遣はけんぐん勤務きんむだった昭和しょうわ天皇てんのうおとうと三笠みかさみやたかしじん親王しんのうはちぐん軍紀ぐんき魅了みりょうされていた[89]。これはソ連それん赤軍せきぐんとのおおきなちがいであった。特殊とくしゅ技能ぎのう日本にっぽんぐん将兵しょうへい航空機こうくうき戦車せんしゃとう機動きどう兵器へいき医療いりょう関係かんけい)のなかには長期ちょうき残留ざんりゅうもとめられて帰国きこくおくれたものもいた(気象台きしょうだい勤務きんむであった作家さっか新田にった次郎じろうなど)。また、聶栄臻のように戦災せんさいおやくした日本人にっぽんじん姉妹しまいみずか直筆じきひつ手紙てがみたせて日本にっぽんへとおくるよう配慮はいりょした人物じんぶつもいた。

戦後せんご処理しょり戦争せんそう賠償ばいしょう[編集へんしゅう]

中華民国ちゅうかみんこくぐん四国しこく占領せんりょう計画けいかく[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん日本にっぽんポツダム宣言せんげんにより連合れんごうぐん占領せんりょうされることとなった。それにかん当初とうしょ日本にっぽん交戦こうせんした主要しゅよう連合れんごうこくであるアメリカイギリス中国ちゅうごくソ連それんによって分割ぶんかつ統治とうちされるとされていた。そのなか四国しこくにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)でたたかった国民こくみん革命かくめいぐん統治とうち領域りょういきとされ、三重みえけんのぞ近畿きんき地方ちほう福井ふくいけん中国ちゅうごくとアメリカの共同きょうどう統治とうち、そして東京とうきょう都区とく上記じょうき4かこく共同きょうどう統治とうちとする計画けいかくであった。しかしのち中国ちゅうごく国内こくない政権せいけんっていた国民党こくみんとうゲリラせん展開てんかいしていた共産党きょうさんとうあいだ国共こっきょう内戦ないせん勃発ぼっぱつしたこと中国ちゅうごくぐん日本にっぽん占領せんりょうどころではなくなり計画けいかく破綻はたん日本にっぽん事実じじつじょうアメリカぐんによる単独たんどく占領せんりょうとなり、中国ちゅうごくソ連それんフランスオランダなどその連合れんごうこく日本にっぽん駐在ちゅうざい武官ぶかん派遣はけんするにとどまった。なお、当初とうしょ日本にっぽん分割ぶんかつ占領せんりょう計画けいかく決定けっていされ、中国ちゅうごく四国しこく統治とうちすることがまったときにはおおくの中国ちゅうごくへいたちがこれをよろこび、日本にっぽん上陸じょうりくしたときにどうするかをはなったという[90]

サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく[編集へんしゅう]

朝鮮ちょうせん戦争せんそうなか1951ねん9月8にちサンフランシスコ調印ちょういんされた日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく(サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく連合れんごうこくすべての賠償ばいしょう請求せいきゅうけん放棄ほうきするとされた[注釈ちゅうしゃく 13]。しかし、国共こっきょう内戦ないせん敗北はいぼくによって蔣介せき中華民国ちゅうかみんこく国民党こくみんとうは1949ねん12月に台湾たいわん移転いてんし、同時どうじ中国共産党ちゅうごくきょうさんとう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく建国けんこく宣言せんげんしており、こくかれていた両国りょうこくは、アメリカが中華民国ちゅうかみんこくを、イギリスが中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく別々べつべつ承認しょうにんすることもあって、不参加ふさんかとなった[91][92]。また日本にっぽん平和へいわ条約じょうやくにしたがって連合れんごうこく以下いか賠償ばいしょうした[93]

  • フィリピンに5おく5せんまんドル
  • ベトナムに3900まんドル相当そうとう役務えきむ生産物せいさんぶつ
  • 連合れんごう国領こくりょう域内いきないやく40おくドル(日本円にほんえんで1ちょう4400おくえん昭和しょうわ26ねんでの一般いっぱん会計かいけい歳入さいにゅうやく8954おくえん)の日本人にっぽんじん資産しさん連合れんごうこく没収ぼっしゅうされ、収益しゅうえき各国かっこく国民こくみん分配ぶんぱい
  • 中立ちゅうりつこくおよび連合れんごうこく敵国てきこくにある財産ざいさん等価とうか資金しきんとして450まんポンドを赤十字せきじゅうじ国際こくさい委員いいんかいわたし、14こく合計ごうけい20まんにん日本にっぽんぐんもと捕虜ほりょ分配ぶんぱい
  • 日本にっぽん財産ざいさん朝鮮ちょうせん702おく5600まんえん台湾たいわん425おく4200まんえん中華民国ちゅうかみんこく東北とうほく1465おく3200まんえん華北かほく554おく3700まんえん華中かちゅう華南かなんが367おく1800まんえん、その樺太からふと南洋なんようなど280おく1400まんえん合計ごうけい3794おく9900まんえん連合れんごうこくわたされた。

1945ねん8がつ5にち外務省がいむしょう調査ちょうさでは日本にっぽんざい中華ちゅうかけん資産しさんは、中華民国ちゅうかみんこく921おく5500まんえんまんしゅう1465おく3200まんえん台湾たいわん425おく4200まんえん合計ごうけい2812おく2900まんえんで、これは現在げんざい[いつ?]価値かちで56ちょう2458おくえんとなる(企業きぎょう物価ぶっか指数しすう戦前せんぜん基準きじゅん[94]

このように連合れんごうこく国内こくないのみならず、中国ちゅうごく台湾たいわん朝鮮ちょうせんにあった一般いっぱん国民こくみん在外ざいがい資産しさんまで接収せっしゅうされ、さらに中立ちゅうりつこくにあった日本にっぽん国民こくみん財産ざいさんまでもが賠償ばいしょう原資げんしとされた「過酷かこく負担ふたん見返みかえり」として、請求せいきゅうけん放棄ほうきされた[93]

にちはな平和へいわ条約じょうやく (1952)[編集へんしゅう]

サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ翌年よくねん1952ねん4がつ28にちには台北たいぺいにちはな平和へいわ条約じょうやく調印ちょういんされ、中華民国ちゅうかみんこく日本にっぽんへの賠償ばいしょう請求せいきゅう放棄ほうきした[注釈ちゅうしゃく 14][92]交換こうかん公文こうぶんでは「中華民国ちゅうかみんこく政府せいふ支配しはいげんにあり、また今後こんごはいるすべての領域りょういき」が適用てきよう範囲はんいとされた[92]

にちちゅう共同きょうどう声明せいめい (1972)[編集へんしゅう]

1971ねん10月25にち国連こくれんアルバニア決議けつぎ採択さいたくされ、中華民国ちゅうかみんこく中国ちゅうごく代表だいひょうけん喪失そうしつするとともに常任じょうにん理事りじこく地位ちいをはくだつされ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく中国ちゅうごく代表だいひょうけんた。1972ねん2がつニクソン大統領だいとうりょう中国ちゅうごく訪問ほうもん実現じつげんまいちゅう接近せっきんするのと並行へいこうしてにちちゅう国交こっこう正常せいじょう進展しんてんし、1972ねん9がつにはにちちゅう共同きょうどう声明せいめいしゅう恩来おんらい国務こくむいん総理そうり田中たなか角栄かくえい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんによって調印ちょういんされた。声明せいめいだいこうでは「中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふは、中日ちゅうにち両国りょうこく国民こくみん友好ゆうこうのために、日本にっぽんこくたいする戦争せんそう賠償ばいしょう請求せいきゅう放棄ほうきすることを宣言せんげんする(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくたいにち戦争せんそう賠償ばいしょう請求せいきゅう放棄ほうきすると宣言せんげんされた[91][96]。1978ねん8がつ12にちには、にちちゅう共同きょうどう声明せいめいまえて、にちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつされ、だい1じょうでは「主権しゅけんおよ領土りょうど保全ほぜん相互そうご尊重そんちょう相互そうご不可侵ふかしん内政ないせいたいする相互そうご不干渉ふかんしょう」が、だい2じょうではアジア・太平洋たいへいよう地域ちいき地域ちいき覇権はけんもとめないと規定きていされた[97]。なお1979ねんにはべいちゅう国交こっこう正常せいじょうした

日本にっぽん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくたい政府せいふ開発かいはつ援助えんじょ(ODA)を実施じっしし、1979ねんから2013年度ねんどまでに有償ゆうしょう資金しきん協力きょうりょくえん借款しゃっかんやく3ちょう3,164おくえん無償むしょう資金しきん協力きょうりょくを1,572おくえん技術ぎじゅつ協力きょうりょくを1,817おくえん総額そうがくやく3ちょう6,553おくえんのODAを実施じっしした[98]廃止はいし方向ほうこうにあるODAにわって、財務省ざいむしょう影響えいきょうアジア開発銀行あじあかいはつぎんこう肩代かたがわりして迂回うかい融資ゆうしおこない、1ねんあたりの援助えんじょ金額きんがくえん借款しゃっかんの2ばいであり[99]アジア開発銀行あじあかいはつぎんこうから中国ちゅうごくへの援助えんじょ総額そうがく日本円にほんえんで2ちょう8000おくえんのぼっており、「日本にっぽんたい中国ちゅうごくODAは3ちょうえんではなく6ちょうえん。3ちょうえん日本にっぽん政府せいふから中国ちゅうごく政府せいふ直接ちょくせつ援助えんじょした金額きんがくアジア開発銀行あじあかいはつぎんこうとう迂回うかい融資ゆうしぶんをあわせると6ちょうえん」という主張しゅちょうがある[100][101]

日本にっぽん政府せいふはこれらみっつの条約じょうやくおよび声明せいめい(サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくだい14じょうb、にちはな平和へいわ条約じょうやくだい11じょうにちちゅう共同きょうどう声明せいめいだい5こう)によって、にちちゅうあいだにおける請求せいきゅうけんは、個人こじん請求せいきゅうけん問題もんだいふくめて消滅しょうめつしたと認識にんしきしている[注釈ちゅうしゃく 15]江沢民こうたくみんも1992ねん4がつ1にち日本にっぽん侵略しんりゃく戦争せんそうについては真実しんじつもとめて厳粛げんしゅく対処たいしょするが、にちちゅう共同きょうどう声明せいめい立場たちばわらないと発言はつげんしている[103]

また華人かじん労務者ろうむしゃへの個人こじん賠償ばいしょうあらそわれた西松建設にしまつけんせつ会社かいしゃ事件じけんでの最高裁さいこうさい判決はんけつ(2007ねん4がつ27にち)では、サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくは、個人こじん請求せいきゅうけんふくめて、戦争せんそうちゅうしょうじたすべての請求せいきゅうけん放棄ほうきした。またにちちゅう共同きょうどう声明せいめい同様どうようであるとされた[注釈ちゅうしゃく 16][91][104][105]。また、重慶たーちんばくげき訴訟そしょう東京とうきょう地裁ちさい判決はんけつ(2015ねん2がつ25にち)では、国際こくさいほうほう主体しゅたい国家こっかであって個人こじんではない。また国家こっかでさえ、戦争せんそう被害ひがいについては、国家こっか責任せきにん規定きていする国際こくさいほうだけでは賠償ばいしょうけることができず、賠償ばいしょうかんする国家こっかあいだ外交がいこう交渉こうしょうによって合意ごういされる必要ひつようがあるとし、個人こじん戦争せんそう被害ひがいについては国家こっかあいだでの処理しょり原則げんそくとした。またハーグ陸戦りくせん条約じょうやくだい3じょう国家こっかあいだ賠償ばいしょう責任せきにん規定きていするもので、個人こじん賠償ばいしょう請求せいきゅうけん付与ふよするものではない、と判決はんけつした。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

当時とうじ[いつ?]関東軍かんとうぐん参謀さんぼうだった瀬島せじま龍三りゅうぞうは、「まんしゅう建国けんこくしたことで朝鮮半島ちょうせんはんとう安定あんていしたが、まんしゅうこく建国けんこくしたばかりで不安定ふあんていだったことからまんしゅう安定あんていはかるためにまんしゅう中国ちゅうごく国境こっきょうラインに軍隊ぐんたい移駐いちゅうしたところで中国ちゅうごく勢力せいりょく衝突しょうとつした」と戦後せんご談話だんわべた[106]

南京なんきんせん陥落かんらく直後ちょくごの1937ねん12月19にち読売新聞よみうりしんぶんは「日本にっぽんはじめこの事変じへんをこうまで拡大かくだいする意志いしはなかった。ささえ引張ひっぱられてやむをず、上海しゃんはいから南京なんきんまでかざるをなかった」として、事変じへん序幕じょまく西安しーあん事件じけんで蔣介せき共産党きょうさんとう妥協だきょうさせられてからで、それ以降いこうは「共産党きょうさんとう戦術せんじゅつ」がいちじるしく、「ささえ日本にっぽん大戦たいせんそうをやらすのが共産党きょうさんとう利益りえきであると打算ださんしているようであった」と報道ほうどうした[107]

また同月どうげつ報知ほうち新聞しんぶん西安しーあん事件じけん以来いらい南京なんきん政府せいふおおきく変化へんかし、「政治せいじてきには国共こっきょう合作がっさく共産党きょうさんとうてき圧力あつりょく経済けいざいてきにはざいささえ権益けんえき確保かくほせんとするイギリス資本しほん掩護えんご思想しそうてきにはソヴィエトりゅう抗日こうにち救国きゅうこく情熱じょうねつ、それとう決河けっかいきおいをなしてきたささえ逆流ぎゃくりゅうし、ついには上海しゃんはいにおける計画けいかくてき挑戦ちょうせん暴露ばくろとなり、戦局せんきょく急速きゅうそくなる拡大かくだいとなってしまった 」とし、「今度こんど事変じへんけっしてささえ日本にっぽんとの問題もんだいでなくじつささえ舞台ぶたいとするイギリスとソヴィエトのうごきをのぞいては事変じへんそのものすらかんがられないということも次第しだいあかりかとなり、東洋とうようにおける防共ぼうきょうはんえい運動うんどうとがしんらしい政治せいじてき課題かだいとして登場とうじょうしてた」と回顧かいこした[108]。また、イギリスは表面ひょうめん不干渉ふかんしょう表明ひょうめいしたが、南京なんきん政府せいふへの支援しえんつづけ、さらに米国べいこくむことに成功せいこうしたとほうじた[109]

田母神たもかみ俊雄としお(当時とうじ航空こうくう幕僚ばくりょうちょう)は、日本にっぽん国際こくさいほう上合かみあい法的ほうてき中国ちゅうごく大陸たいりく権益けんえき比較的ひかくてき穏健おんけん内地ないちすすめようとしていたが、コミンテルン工作こうさくによって蔣介せき国民党こくみんとう中国共産党ちゅうごくきょうさんとうからの度重たびかさなるテロ行為こうい干渉かんしょうされ、またベノナファイルであかりかになったように中国ちゅうごくおなじくコミンテルンの工作こうさくけたアメリカに介入かいにゅうされ、結果けっかてきにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)にきずりまれることとなったとろんじた[110]。しかし、政府せいふ防衛ぼうえいしょう幹部かんぶ内容ないよう問題もんだいにあるとして田母神たもかみ浜田はまだやすしいち防衛ぼうえい大臣だいじんから更迭こうてつされた(田母神たもかみ論文ろんぶん問題もんだい)[111]小堀こぼり桂一郎けいいちろう中西なかにし輝政てるまさ西尾にしおみきなどは田母神たもかみ論文ろんぶん内容ないよう支持しじ[112]森本もりもとさとし小林こばやしたかし纐纈こけつあつし笠原かさはらじゅうきゅうつかさ水島みずしまちょうらは論文ろんぶん批判ひはんした[113][114]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう細雪ささめゆき』「にちはな事変じへんさんねん片付かたづかないところへってて」[4]
  2. ^ ささえ事変じへん (まんしゅう事変じへん上海しゃんはい事変じへん総称そうしょうとして使用しようされたれいもある)やにちはな事変じへんとも呼称こしょうされる。
  3. ^ 中国語ちゅうごくごけんでは、抗日こうにち戦争せんそう[6]はちねん抗戰こうせん中日ちゅうにち戰爭せんそう中国ちゅうごく抗日こうにち戦争せんそう中国ちゅうごく人民じんみん抗日こうにち战争はちねん抗戦こうせんなどと呼称こしょうされる。
  4. ^ 英語えいごけんでは、1894ねん - 1895ねんにちしん戦争せんそうを「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("だいいちささえ日本にっぽん戦争せんそう")」などとしょうし、1937ねん - 1945ねんにちちゅう戦争せんそうは「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("だいささえ日本にっぽん戦争せんそう")」などと呼称こしょうされる。
  5. ^ 当時とうじ朝日新聞あさひしんぶん報道ほうどうでは7がつ10日とおか動員どういんれい7がつ17にちまでに配備はいび完了かんりょう[25]
  6. ^ だい2上海しゃんはい事変じへんはついににちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう発展はってんするにいたった。」[33]
  7. ^ だい上海しゃんはい事変じへんにより (中略ちゅうりゃく) にちちゅう戦争せんそうにちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう長期ちょうきせんする様相ようそうとなった」[35]
  8. ^ 「[全面ぜんめん] はちがついちよんにち国民こくみん政府せいふは「自衛じえい抗戦こうせん声明せいめいしょ」を発表はっぴょうよくいちにち中国共産党ちゅうごくきょうさんとうも「抗日こうにち救国きゅうこくじゅう大綱たいこうりょう」を提起ていきした。」[36]
  9. ^ はちがつはいってだい上海しゃんはい事変じへんこり、戦火せんか華中かちゅう一帯いったいにひろがった。中国ちゅうごく全土ぜんどきこんだ日本にっぽん中国ちゅうごくとの全面ぜんめん戦争せんそうとなった。」[37]
  10. ^ 皇国こうこく暦日れきじつ史談しだん』は「「海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたいささえ事変じへん開始かいし直後ちょくごの9がつ22にち月明げつめいの3大挙たいきょ広東かんとんおそい、さらに7、13時半じはんならびに14の4かいわた矢継早やつぎばや空襲くうしゅうかえしたがてき空軍くうぐんおのれ全滅ぜんめつ高射こうしゃほう大半たいはん破壊はかいして防空ぼうくう役立やくだたず、空軍くうぐん無人むじんさかいくがごとくリレーしき広東かんとん西北せいほくよりひがしにかけてんかわ白雲しらくもりょう飛行場ひこうじょう兵器廠へいきしょうきよしとう水源すいげん工場こうじょう地帯ちたい政府せいふ軍事ぐんじかく機関きかん遠東とおひがしぐんかん学校がっこう中山なかやま大学だいがく中山なかやまおさむねんどうがい重要じゅうよう建設けんせつぶつへんはしから徹底的てっていてき爆撃ばくげきした。此のため広東かんとん全市ぜんしは殆んど猛火もうかちまた猛火もうかさかんにのぼだい混乱こんらんおちいった。革命かくめい震源しんげん排日はいにちそう本家ほんけたりし広東かんとん正義せいぎまえ完膚かんぷなきまでにはたきのめされた。」としるしている。日置ひおきえいつよしへん年表ねんぴょう太平洋戦争たいへいようせんそうぜん国書刊行会こくしょかんこうかい (2005)[ようページ番号ばんごう]
  11. ^ 当時とうじ英国えいこく劣勢れっせいにあり、戦局せんきょく打開だかいのため欧州おうしゅう戦線せんせんへの米国べいこく介入かいにゅうつよ希望きぼうしていた
  12. ^ この状況じょうきょうは1939ねん作成さくせいされた日本にっぽん映画えいが兵隊へいたい』(田坂たさかたかし監督かんとく)にも描写びょうしゃされている。
  13. ^ 日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやくだい14じょう(b)「連合れんごうこくは、連合れんごうこくすべての賠償ばいしょう請求せいきゅうけん戦争せんそう遂行すいこうちゅう日本にっぽんこくおよびその国民こくみんがとった行動こうどうからしょうじた連合れんごうこくおよびその国民こくみんほか請求せいきゅうけん占領せんりょう直接ちょくせつ軍事ぐんじかんする連合れんごうこく請求せいきゅうけん放棄ほうき
  14. ^ 中華民国ちゅうかみんこく日本にっぽん国民こくみんたいする寛厚かんこう善意ぜんい表徴ひょうちょうとして、日本にっぽんこく提供ていきょうすべき役務えきむ利益りえき賠償ばいしょう)を自発じはつてき放棄ほうきする」[95]
  15. ^ だい174かい国会こっかい衆議院しゅうぎいん法務ほうむ委員いいんかい(2010ねん5がつ11にち)における西村にしむらさとし奈美なみ外務がいむ大臣だいじん政務せいむかん発言はつげん「サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくじゅうよんじょうにちはな平和へいわ条約じょうやく関係かんけいからまずもうげますと、にちはな平和へいわ条約じょうやくだいじゅういちじょうおよびサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくだいじゅうよんじょう(b)により、中国ちゅうごくおよびその国民こくみん日本にっぽんこくおよびその国民こくみんたいする請求せいきゅうけん放棄ほうきされております。いちきゅうななねんにちちゅう共同きょうどう声明せいめいだいこううところの戦争せんそう賠償ばいしょう請求せいきゅうは、中国ちゅうごくおよびその国民こくみん日本にっぽんこくおよびその国民こくみんたいする請求せいきゅうけんふくむものとして、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふがその放棄ほうき宣言せんげんしたものでございます。したがって、さきの大戦たいせんかかにちちゅうあいだにおける請求せいきゅうけん問題もんだいにつきましては、個人こじん請求せいきゅうけん問題もんだいふくめて、いちきゅうななねんにちちゅう共同きょうどう声明せいめい発出はっしゅつ存在そんざいしておらず、このような認識にんしき中国ちゅうごくがわ同様どうようであるというふうに認識にんしきをしております。」[102]
  16. ^ 「サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやく枠組わくぐみとことなる処理しょりおこなわれたものとすることはできない」。また条約じょうやくほうかんするウィーン条約じょうやく34じょうでは第三国だいさんごく義務ぎむ権利けんり当該とうがいこく同意どういなしに創設そうせつできない、35じょうでは当該とうがいこく書面しょめんにより当該とうがい義務ぎむ明示めいじてきれる場合ばあいかぎって義務ぎむうとさだめており、中国ちゅうごくはサンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくにちちゅう共同きょうどう声明せいめい枠組わくぐみを肯定こうていしており、それ以外いがい義務ぎむ書面しょめん確約かくやくしたことはない。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • "ブリタニカ国際こくさい年鑑ねんかん 1938年版ねんばん(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)"
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関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]