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艦隊かんたい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

艦隊かんたい(かんたいは)とは、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんうち派閥はばつ

だいいち明治めいじ山本やまもと権兵衛ごんべえ中心ちゅうしんとする本省ほんしょう対抗たいこうするものであり、だい昭和しょうわ軍縮ぐんしゅく条約じょうやく賛成さんせいする条約じょうやく対抗たいこうするものである。

はん本省ほんしょう

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1891ねん明治めいじ24ねん)、山本やまもと権兵衛ごんべえ海軍かいぐんしょう主事しゅじ就任しゅうにんして以降いこう海軍かいぐん軍政ぐんせい手腕しゅわん発揮はっきしたが、山本やまもとおよびその系列けいれつ反対はんたいする集団しゅうだん存在そんざいした。これを艦隊かんたいといい、山本やまもとおなふる薩摩さつまはん出身しゅっしんでもはん山本やまもとてき立場たちばをとる柴山しばやまはち日高ひだかたけしすすむ二人ふたり中心ちゅうしんであり、井上いのうえりょうかおる盟主めいしゅとした[1]。ただし池田いけだきよし井上いのうえ山本やまもとがわ人物じんぶつとしており、艦隊かんたいとしては柴山しばやまにちだかのほか片岡かたおか七郎しちろう鮫島さめしまいんぶんまわしげている[2]。この対立たいりつにち戦争せんそうまえ山本やまもと主導しゅどうした高級こうきゅう軍人ぐんじん予備よびやく編入へんにゅう措置そちさい表面ひょうめんしている。

はん条約じょうやく

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1930ねん昭和しょうわ5ねん)のロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく締結ていけつにより、「条約じょうやく妥結だけつやむなし」とする条約じょうやく海軍かいぐんしょうがわ)とこれに反対はんたいする艦隊かんたい軍令ぐんれいがわ)という対立たいりつ構造こうぞうまれ、のち統帥とうすいけん干犯かんぱん問題もんだい発展はってんした。中心ちゅうしん人物じんぶつは、伏見ふしみみやひろしきょうおう加藤かとう寛治かんじ山本やまもと英輔えいすけ末次すえつぐ信正のぶまさ高橋たかはし三吉さんきちなど。ロンドン条約じょうやくには東郷とうごう平八郎へいはちろう威光いこう利用りようした。

政治せいじてきには関与かんよしていないが、漸減ぜんげん邀撃ようげき作戦さくせん研究けんきゅう強力きょうりょく推進すいしんした中村なかむら良三りょうぞう政治せいじてきには艦隊かんたいではないが、混乱こんらんおそれて艦隊かんたい条約じょうやく一掃いっそうなどの要求ようきゅう拒絶きょぜつせず丸呑まるのみした大角おおすみ岑生みねお艦隊かんたいふくめることもある。また、政治せいじてきにはわずかな権限けんげんしかたなかったが、海軍かいぐんしょうとの交渉こうしょう脅迫きょうはくめいた姿勢しせいのぞんだ南雲なぐも忠一ただかずのような若手わかてふくめることもある。定義ていぎによってはにちどくさんこく同盟どうめい推進すいしんたいべい開戦かいせん強硬きょうこうなど、軍縮ぐんしゅく会議かいぎ以降いこう対立たいりつしょうじた派閥はばつのメンバー(石川いしかわ信吾しんごかみ重徳しげのりなど)をふくめることもある。艦隊かんたいとされるもの小林こばやし省三郎しょうさぶろう真崎まさき勝次かつじ山下やました知彦ともひこ加来かくとめおとこ小笠原おがさわら長生ながお千坂ちさかさとし次郎じろう南郷なんごう次郎じろうがおり、はたいく有馬ありまりょうたちばな戸塚とつか道太郎みちたろう艦隊かんたいとしている[3]

出典しゅってん

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  1. ^ 日本にっぽん軍閥ぐんばつ興亡こうぼう』163ぺーじ
  2. ^ 海軍かいぐん日本にっぽん』165ぺーじ
  3. ^ 昭和しょうわ縦走じゅうそうする』61ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 池田いけだきよし海軍かいぐん日本にっぽん中公新書ちゅうこうしんしょ、2010ねん
  • はたいく昭和しょうわ縦走じゅうそうする』グラフしゃ 1984ねん
  • 松下まつした芳男よしお日本にっぽん軍閥ぐんばつ興亡こうぼう芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん 1975ねん