近衛このえ師団しだん

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近衛このえ師団しだん
近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃ(~1945ねん
東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん工芸こうげいかん(1977ねん~2020ねん
創設そうせつ 1891ねん明治めいじ24ねん12月14にち
1943ねん昭和しょうわ18ねん6月1にち
近衛このえだい1師団しだんおよ近衛このえだい2師団しだん改編かいへん
1944ねん昭和しょうわ19ねん7がつ18にち
近衛このえだい3師団しだん編成へんせい
廃止はいし 1945ねん昭和しょうわ20ねん
所属しょぞく政体せいたい 日本の旗 日本にっぽん
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 師団しだん
兵種へいしゅ/任務にんむ/特性とくせい 歩兵ほへい
自動車じどうしゃ歩兵ほへい (1940〜))
所在地しょざいち 東京とうきょう-台湾たいわん-東京とうきょう-
-東京とうきょう近衛このえだい1師団しだん
-マレまれ半島はんとう-スマトラ島すまとらとう近衛このえだい2師団しだん
東京とうきょう-千葉ちばけん近衛このえだい3師団しだん
編成へんせい 東京とうきょう
通称つうしょうごう/略称りゃくしょう みや (〜1943)
すみ (1943〜)(近衛このえだい1師団しだん
みや (1943〜)(近衛このえだい2師団しだん
はん (1944〜)(近衛このえだい3師団しだん
補充ほじゅう担任たんにん 近衛このえかん全国ぜんこくだい1かん東京とうきょうかん東京とうきょう管区かんく
最終さいしゅう上級じょうきゅう単位たんい 大本営だいほんえい近衛このえだい1師団しだん
だい25ぐん近衛このえだい2師団しだん
だい52ぐん近衛このえだい3師団しだん
担当たんとう地域ちいき 宮城みやぎ
最終さいしゅう位置いち 東京とうきょう近衛このえだい1師団しだん
スマトラ島すまとらとう メダン近衛このえだい2師団しだん
千葉ちばけん 東金とうがね近衛このえだい3師団しだん
おも戦歴せんれき にちしん - にち - 二・二六事件ににろくじけん
宮城みやぎ事件じけん近衛このえだい1師団しだん
マレー作戦さくせん - シンガポールのたたか近衛このえだい2師団しだん
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近衛このえ師団しだん(このえしだん、きゅう字体じたいきん󠄁まもる師團しだん)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん師団しだんひとつ。一般いっぱん師団しだんとはことなり、さい精鋭せいえいかつさい古参こさん部隊ぶたい軍隊ぐんたい)として天皇てんのう宮城みやぎ皇居こうきょ)を警衛けいえいする「禁闕きんけつ守護しゅご」(きんけつしゅご)のせめたし、また儀仗ぎじょう部隊ぶたいとして「鳳輦ほうれん供奉ぐぶ」(ほうれんぐぶ)のにんにもあたった。

帝国ていこく陸軍りくぐんにおける軍隊ぐんたい符号ふごうGD一般いっぱん師団しだんはD)。太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう後期こうきには編制へんせい改編かいへんおこなわれ、最終さいしゅうてきには近衛このえだい1師団しだん (1GD)・近衛このえだい2師団しだん (2GD)・近衛このえだい3師団しだん (3GD) の3近衛このえ師団しだん編成へんせいされた。

戦後せんご1955ねん昭和しょうわ30ねんごろに、防衛庁ぼうえいちょう陸上りくじょう自衛隊じえいたい事実じじつじょうの「近衛このえ部隊ぶたい」を復活ふっかつさせることを計画けいかくしたが、警視庁けいしちょう皇宮警察こうぐうけいさつなどの警察けいさつ当局とうきょくつよ反対はんたいにより実現じつげんしなかった(後述こうじゅつ[1]。その1962ねん昭和しょうわ37ねん)に市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん編成へんせいされただい32普通ふつう連隊れんたいが「近衛このえ連隊れんたい」を自称じしょうしている[2]

現在げんざい皇居こうきょ警備けいびおもに、警察庁けいさつちょう附属ふぞく機関きかんである皇宮警察こうぐうけいさつ本部ほんぶ[ちゅう 1]になっている。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

1920年代ねんだい後半こうはん皇太子こうたいし近衛このえあゆみへいだい1連隊れんたい陸軍りくぐん歩兵ほへい大佐たいさ当時とうじ昭和しょうわ天皇てんのうと、儀仗ぎじょうよう騎兵きへいやりほうじる近衛このえ騎兵きへい連隊れんたい将兵しょうへい後方こうほう
1924ねん大正たいしょう13ねん)、皇太子こうたいし裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)・良子りょうこ女王じょおうこうじゅん皇后こうごう)の結婚けっこんにおいて、御料ごりょうしゃ警護けいごするせいころも着用ちゃくようした近衛このえ騎兵きへい連隊れんたい将兵しょうへい

将来しょうらい天皇てんのう大元帥だいげんすい)となる皇太子こうたいし東宮とうぐう)は、西洋せいよう社会しゃかいにおけるノブレス・オブリージュ模範もはんとして近衛このえあゆみへいだい1連隊れんたいつけとなるのが通例つうれいであり、よしみじん親王しんのう大正天皇たいしょうてんのう)・裕仁ひろひと親王しんのう昭和しょうわ天皇てんのう)はきん1であった。

近衛このえ師団しだん禁闕きんけつ守護しゅごにんから衛戍えいじゅ東京とうきょう現在げんざいのほぼ東京とうきょう23)であったものの、一般いっぱん師団しだんことなり、連隊れんたいといった特定とくてい地域ちいきからの徴兵ちょうへいによるのではなく、大日本帝国だいにっぽんていこく全国ぜんこくから選抜せんばつされた兵士へいしによって充足じゅうそくされていた。近衛このえへいになることは大変たいへん名誉めいよとされた[3][4]

軍服ぐんぷく一般いっぱん師団しだんとは区別くべつされ、

ひとし差異さい存在そんざいした。

また一般いっぱん師団しだん下士官かしかんへいには基本きほんてきだいそう程度ていど中古ちゅうこひんおも外出がいしゅつ儀式ぎしきよう)・だいさんそう着古きふるしたりきず補修ほしゅうした中古ちゅうこひんおも普段ふだん勤務きんむ訓練くんれんよう)の軍装ぐんそう支給しきゅうされたのにたいし、近衛このえ師団しだんでは「ご守衛しゅえい勤務きんむ」で使つかうためのだいいちそう新品しんぴんまたは新品しんぴん同様どうよう一般いっぱん師団しだんではおも出征しゅっせい戦地せんち勤務きんむよう)もあわせて支給しきゅうされた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

近衛このえ師団しだん兵舎へいしゃ(1940ねんごろ

成立せいりつ前史ぜんし[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふたお明治めいじしん政府せいふ樹立じゅりつされた当初とうしょ政府せいふ独自どくじ軍隊ぐんたい保有ほゆうしておらず、軍事ぐんじてきには薩摩さつまはんげん鹿児島かごしまけん)、長州ちょうしゅうはんげん山口やまぐちけん)、土佐とさはんげん高知こうちけん)の「薩長さっちょう」に依存いぞんする脆弱ぜいじゃく体制たいせいであった。そのため1871ねん明治めいじ4ねん)、政府せいふは「天皇てんのう警護けいご」を名目めいもく薩長さっちょうの3はんからやく1まんにんけんじへいけ、政府せいふ直属ちょくぞく軍隊ぐんたいであるおやへい創設そうせつし、この軍事ぐんじりょく背景はいけいに「廃藩置県はいはんちけん」を断行だんこうした。このおやへいは、1872ねん明治めいじ5ねん)に初代しょだい近衛このえとく西郷さいごう隆盛たかもり中心ちゅうしんとした近衛このえへいとして改組かいそされ、「天皇てんのうおよび宮城みやぎ皇居こうきょ)の守護しゅご」という任務にんむせられた。

1873ねん明治めいじ6ねん)に徴兵ちょうへいれい制定せいていされ鎮台ちんだいへいとして配備はいびされると、近衛このえへい鎮台ちんだいへい軍事ぐんじ訓練くんれんになうこととなった。1874ねん明治めいじ7ねん)、近衛このえ歩兵ほへい大隊だいたい基幹きかんとして近衛このえ歩兵ほへい連隊れんたいだい1大隊だいたいだい2大隊だいたい基幹きかん近衛このえあゆみへいだい1連隊れんたいだい3大隊だいたいだい4大隊だいたい基幹きかん近衛このえあゆみへいだい2連隊れんたい新設しんせつ)が編成へんせいされ、どう1がつ23にちには帝国ていこく陸軍りくぐんでははじめて軍旗ぐんききん1およきん2に親授しんじゅされた。

1877ねん明治めいじ10ねん)の西南せいなん戦争せんそう日本にっぽんうえ最後さいご内戦ないせん)では、鍋田なべたがわたたかい、田原たはらざかたたかい、城山しろやまたたかいに従軍じゅうぐんする。よく1878ねん明治めいじ11ねん)には近衛このえ砲兵ほうへい大隊だいたい恩賞おんしょうへの不平ふへいから武装ぶそう反乱はんらんする竹橋たけばし事件じけんこった。

1891ねん明治めいじ24ねん)、鎮台ちんだい廃止はいしされ師団しだんわることとなり、山縣やまがた有朋ありともによって近衛このえへい近衛このえ師団しだん改称かいしょうされ、陸軍りくぐん大臣だいじん管轄かんかつした平時へいじ隷下れいかかく中隊ちゅうたい輪番りんばんせい天皇てんのう宮城みやぎ警護けいごなどにたり、戦時せんじには野戦やせん師団しだんのひとつとして出征しゅっせい戦闘せんとう参加さんかすることとなった。師団しだん編制へんせいとなった近衛このえ師団しだんは、数個すうこ近衛このえ歩兵ほへい連隊れんたい基幹きかんとして、それに騎兵きへい砲兵ほうへい工兵こうへい輜重しちょうへいなどのとく部隊ぶたい統合とうごうされていた。

その近衛このえ師団しだんだい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつによる大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん解散かいさんまでかく戦争せんそう事変じへん紛争ふんそう従軍じゅうぐんし、出征しゅっせいちゅう近衛このえ師団しだんわって天皇てんのうおよ宮城みやぎ警護けいごたった近衛このえ師団しだん留守るす近衛このえ師団しだんとされた。初期しょき留守るす近衛このえ連隊れんたいが、のちには近衛このえ歩兵ほへいだい6連隊れんたいなどがそれにあたる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

にちしん戦争せんそう[編集へんしゅう]

にちしん戦争せんそう従軍じゅうぐん台湾たいわん平定へいていおつ戦争せんそう)で先発せんぱつする。後発こうはつした乃木のぎ希典まれすけひきいるだい2師団しだんとともに平定へいていするも、山根やまね信成のぶなり近衛このえだい2旅団りょだんちょう北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう近衛このえ団長だんちょうをはじめ、おおくの戦病死せんびょうししゃした。

にち戦争せんそう[編集へんしゅう]

にち戦争せんそうではだい1ぐん隷下れいかとして従軍じゅうぐん長谷川はせがわ好道よしみちひきいる近衛このえ師団しだん近衛このえだい1旅団りょだん近衛このえだい2旅団りょだんから構成こうせいされる)と、 梅沢うめざわ道治みちはるひきいる近衛このえ後備こうび混成こんせい旅団りょだん出征しゅっせいした。長谷川はせがわ好道よしみちかもみどりこう会戦かいせんおよりょう会戦かいせん軍功ぐんこうにより朝鮮ちょうせんちゅう剳軍司令しれいかん就任しゅうにんしたため、すなかわ会戦かいせん以降いこう浅田あさだしんきょう近衛このえだい1旅団りょだんちょう近衛このえ団長だんちょうとなった。すなかわ会戦かいせんでは旅団りょだんちょう梅沢うめざわ功績こうせきにより、後備こうび近衛このえ混成こんせい旅団りょだんが「はな梅沢うめざわ旅団りょだん」とばれた。奉天ほうてん会戦かいせんにも参加さんかしている。
また、にち戦中せんちゅう1904ねん明治めいじ37ねん)6がつ15にちには、輸送ゆそうせんにて輸送ゆそうちゅう後備こうび近衛このえ歩兵ほへいだい1連隊れんたい玄界灘げんかいなだロシア海軍かいぐんウラジオストク巡洋艦じゅんようかんたい装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん3せき攻撃こうげきけ、軍旗ぐんきたてまつしょう連隊れんたいちょう以下いか1,000めい戦死せんしする事件じけんがあった(常陸ひたちまる事件じけん)。

明治めいじまつから大正たいしょう[編集へんしゅう]

1910ねん明治めいじ43ねん)5がつ29にち師団しだん司令しれい東京とうきょう麹町こうじまち代官だいかんまち2番地ばんち移転いてん[5]

1918ねん大正たいしょう7ねん)6がつ20日はつか兵器へいき師団しだん司令しれい構内こうない事務じむ開始かいし[6]

昭和しょうわ[編集へんしゅう]

参考さんこうまでに、1930ねん昭和しょうわ5ねん時点じてん近衛このえ師団しだん一覧いちらんひょうしめ[7]

近衛このえ師団しだん昭和しょうわ5ねん
種類しゅるい 旅団りょだん司令しれい 連隊れんたい聯隊れんたい 大隊だいたい
歩兵ほへい きんだい1旅団りょだん司令しれい東京とうきょうきたまる
  近衛このえあゆみへいだい1連隊れんたい東京とうきょうきたまる
近衛このえあゆみへいだい2連隊れんたい東京とうきょうきたまる
歩兵ほへい きんだい2旅団りょだん司令しれい東京とうきょう赤坂あかさか一ツ木ひとつぎ
近衛このえあゆみへいだい3連隊れんたい東京とうきょう赤坂あかさか一ツ木ひとつぎ
近衛このえあゆみへいだい4連隊れんたい東京とうきょう青山あおやまきた
騎兵きへい 騎兵きへいだい1旅団りょだん司令しれい習志野ならしの
近衛このえ騎兵きへい連隊れんたい東京とうきょう戸山とやま
騎兵きへいだい13連隊れんたい習志野ならしの
騎兵きへいだい14連隊れんたい習志野ならしの
砲兵ほうへい 野戦やせん重砲じゅうほうへいだい4旅団りょだん司令しれい東京とうきょう世田谷せたがや
近衛このえ野砲やほうへい連隊れんたい東京とうきょう世田谷せたがや
野戦やせん重砲じゅうほうへいだい4連隊れんたい下志津しもしづ
野戦やせん重砲じゅうほうへいだい8連隊れんたい東京とうきょう世田谷せたがや
工兵こうへい - - 近衛このえ工兵こうへい大隊だいたい東京とうきょう赤羽あかはね
鉄道てつどう連隊れんたい - 鉄道てつどうだい1連隊れんたい千葉ちば
- 鉄道てつどうだい2連隊れんたい習志野ならしの津田沼つだぬま
電信でんしん連隊れんたい - 電信でんしんだい1連隊れんたい東京とうきょう中野なかの
飛行ひこう連隊れんたい - 飛行ひこうだい5連隊れんたい立川たちかわ
気球ききゅうたい - 気球ききゅうたい所沢ところざわ
輜重しちょうへい - - 近衛このえ輜重しちょうへい大隊だいたい東京とうきょう大橋おおはし

二・二六事件ににろくじけん[編集へんしゅう]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)2がつ26にち二・二六事件ににろくじけんでは近衛このえから叛乱はんらん将校しょうこうクーデターくわわるも、昭和しょうわ天皇てんのうは「ちん近衛このえ師団しだんりつヰテ此レガ鎮定ちんていとうタラン(わたしみずか近衛このえ師団しだんひきいてかれらの鎮圧ちんあつにあたる)」と発言はつげんした。

にちちゅう戦争せんそう[編集へんしゅう]

前述ぜんじゅつのように近衛このえ師団しだんにち戦争せんそう以降いこうながらく実戦じっせん経験けいけんがなく、盧溝橋ろこうきょう事件じけん勃発ぼっぱつにも出動しゅつどう命令めいれいくだることがなかった。このことから、出動しゅつどう命令めいれいけたほか師団しだんより「あれはおもちゃの兵隊へいたいさんではないか」と揶揄やゆされることもすくなくなかった。たまりかねた師団しだんちょう飯田いいださだかた中将ちゅうじょう昭和しょうわ天皇てんのう面会めんかいしたおり将兵しょうへい一同いちどうみな出征しゅっせい希望きぼうしております」と具申ぐしん天皇てんのうおどろいて「そんなにみなたがっているのか」と承諾しょうだくした[8]。 こうして1939ねん昭和しょうわ14ねん)、にちちゅう戦争せんそう動員どういんしたれい近衛このえだい2師団しだん前身ぜんしんとなる近衛このえ混成こんせい旅団りょだんとなる。近衛このえ混成こんせい旅団りょだんだい21ぐん隷下れいかとなり、みなみささえ方面ほうめんぐんとして広東かんとん上陸じょうりくする。近衛このえ混成こんせい旅団りょだん広東かんとん作戦さくせんみなみやすし作戦さくせんおうえい作戦さくせん中止ちゅうし)に従軍じゅうぐんし、みなみやすし包囲ほういする国民こくみん革命かくめいぐん激戦げきせん展開てんかいした。

ふつしるし進駐しんちゅう[編集へんしゅう]

近衛このえ混成こんせい旅団りょだんだい5師団しだん台湾たいわん混成こんせい旅団りょだんとともに、だい22ぐん隷下れいかとなり、ふつしるし進駐しんちゅう担当たんとうする。

きん1・きん2は、ふつしるし進駐しんちゅう完了かんりょう復員ふくいんすることとなる。この復員ふくいんは、みなみささえ方面ほうめんぐん事実じじつじょう廃止はいしだい23ぐん改組かいそ)され、印度いんどささえ派遣はけんぐん司令しれいかん西村にしむら琢磨たくま歩兵ほへい団長だんちょう桜田さくらだたけし)が復員ふくいんするのとどう時期じきである。

近衛このえ混成こんせい旅団りょだん印度いんどささえ派遣はけんぐん歩兵ほへいだんは、両者りょうしゃとも桜田さくらだたけし旅団りょだんちょう歩兵ほへい団長だんちょうとして指揮しきをとったので桜田さくらだ兵団へいだんばれていた。この桜田さくらだ兵団へいだん留守るす近衛このえ師団しだんきん6などとくわわり、留守るす近衛このえ師団しだんから近衛このえだい1師団しだんとなる。

一方いっぽうきん3・きん4・きん5とうは、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん以降いこう河田かわた混成こんせい旅団りょだんちょう近衛このえ混成こんせい旅団りょだんから近衛このえ師団しだんとして南方なんぽうぐんだい25ぐん隷下れいかとして、タイ南方みなかた作戦さくせんマレー作戦さくせん参加さんかすることとなった。

だい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

上述じょうじゅつ近衛このえ師団しだんは、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう南方なんぽう戦線せんせん活躍かつやくし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月8にちから1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ31にちのマレー作戦さくせんにはだい25ぐん隷下れいかとして、きん3・きん4・きん5およ近衛このえ捜索そうさく連隊れんたいひとしくわわった。また、同年どうねんシンガポールのたたかでも活躍かつやくした。

改編かいへん[編集へんしゅう]

1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ1にちに、オランダりょうひがしインド現在げんざいインドネシアスマトラ島すまとらとうメダン方面ほうめん作戦さくせんちゅう近衛このえ師団しだん近衛このえだい2師団しだん(2GD)に改称かいしょうされ、東京とうきょうにあった留守るす近衛このえ師団しだん基幹きかんとして近衛このえだい1師団しだん(1GD)が、さら1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ18にちには留守るす近衛このえだい2師団しだん基幹きかんとして、近衛このえだい3師団しだん(3GD)が編成へんせいされる。だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせんどき近衛このえだい3師団しだん千葉ちばけん成東なるとうきゅう山武さんぶぐん成東なるとうまち現在げんざい山武さんぶ)にあって連合れんごうこくぐん関東かんとう上陸じょうりく作戦さくせん本土ほんど決戦けっせんけつごう作戦さくせん)にそなえていた。
近衛このえだい2師団しだん近衛このえだい3師団しだんがそれぞれ作戦さくせん赴任ふにんしていたため、本来ほんらい近衛このえへいとしての任務にんむ近衛このえだい1師団しだん担当たんとうする予定よていであった。

宮城みやぎ事件じけん[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ14にち未明みめいポツダム宣言せんげん受諾じゅだく決定けっていし、それを昭和しょうわ天皇てんのうみずか国民こくみんラジオ放送ほうそうつうじてらせる「玉音ぎょくおん放送ほうそう」を放送ほうそうすることがまった。8がつ15にち未明みめい陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく軍務ぐんむ課員かいんらが近衛このえだい1師団しだんちょうもりたけし中将ちゅうじょう決起けっきうながすが、あくまで昭和しょうわ天皇てんのうおぼしにしたが終戦しゅうせんれる決意けついかたもりたけし師団しだんちょうはこれを拒絶きょぜつする。拒否きょひされた将校しょうこうらは、もり団長だんちょうおよだい2そうぐん参謀さんぼう白石しらいしとおるきょう中佐ちゅうさ殺害さつがいし、にせ師団しだんちょう命令めいれいして上番じょうばんちゅう守衛しゅえいたいあざむいて玉音ぎょくおんばんうばおうとするが、東部とうぶぐん近衛このえ連隊れんたいちょう同調どうちょうられず失敗しっぱいする。あいだもなく東部とうぶぐん司令しれいかん田中たなかしずいち大将たいしょうがこの叛乱はんらんり、叛乱はんらん将校しょうこう制止せいしするとともに憲兵けんぺいたい逮捕たいほめいじる。

のちにこの事件じけん半藤はんどう一利かずとしにより『日本にっぽんのいちばんなが』として小説しょうせつされ、にわたって映画えいがおこなわれた。

戦後せんご[編集へんしゅう]

終戦しゅうせんには近衛このえ連隊れんたいでも軍旗ぐんきたてまつしょう復員ふくいんおこなわれた。

きゅう陸軍りくぐん上層じょうそうは、占領せんりょうわればいずれ日本にっぽんさい軍備ぐんびをすると予想よそうし、ハンス・フォン・ゼークト将軍しょうぐん実施じっししたドイツ国防こくぼうぐん再建さいけん方式ほうしきならうことを計画けいかくした。かつてドイツではだいいち世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくのちに、許容きょようされた治安ちあん部隊ぶたい少数しょうすう精鋭せいえい選抜せんばつしゃでかためて、全員ぜんいん幹部かんぶ教育きょういくほどこして将来しょうらい拡張かくちょうそなえた経緯けいいがあり、きゅう陸軍りくぐん宮城みやぎ皇居こうきょ)の守護しゅご任務にんむとする近衛このえ師団しだん温存おんぞんし、さい軍備ぐんび拠点きょてんにすることをさくした。1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ29にちやく4せんにん禁衛きんえい皇宮こうぐう衛士えじそうたい新設しんせつし、近衛このえ師団しだんのエリートを配置はいちする構想こうそう決定けっていされ、同年どうねん9がつ10にちづけ官制かんせい交付こうふされている。ほか、政府せいふきゅう陸軍りくぐんは22まん7せんにん武装ぶそう憲兵けんぺい部隊ぶたい存続そんぞくのちに2~6まんにん武装ぶそう警察けいさつたい計画けいかく縮小しゅくしょう)も決定けっていしたが、同年どうねん10がつ11にちになって連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)から「これらの申入もうしいれは好意こういてき考慮こうりょせられず」「警察けいさつりょく員数いんずう組織そしきまたは武装ぶそう増強ぞうきょう目下もっかのところこれを実施じっしすべからず」との回答かいとうがあり、計画けいかくすべ断念だんねんされることになった[9]

GHQの情報じょうほう担当たんとう責任せきにんしゃチャールズ・ウィロビー少将しょうしょうは、日本にっぽん政府せいふきゅう陸軍りくぐんからの軍事ぐんじりょく温存おんぞん要請ようせい好意こういてきであったが、有末ありすえ精三せいぞう中将ちゅうじょうから「せめて禁衛きんえいだけはのこしてほしい」と懇願こんがんされたさいには、「おれははっきりうけれども、こればかりはどうにもならん」とどくそうに断言だんげんしている。1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつ、GHQより禁衛きんえい皇宮こうぐう衛士えじそうたい解散かいさんめいじる指令しれいされたことにより、近衛このえ師団しだんまくじた。このさいひゃくすうじゅうにん衛士えじが、「無給むきゅういから皇居こうきょ守護しゅごさせてしい」として、血判けっぱんじょう提出ていしゅつしたが、これは却下きゃっかされている[9]

戦後せんご近衛このえ部隊ぶたい復活ふっかつ提唱ていしょうしたのは右翼うよく団体だんたい大東だいとうじゅくであった。1952ねん昭和しょうわ27ねん)ののメーデー事件じけんに、皇居こうきょ防衛ぼうえい部隊ぶたい創設そうせつ提唱ていしょうするようになり、同年どうねん2がつ機関きかんみちとも』に「祖国そこく防衛ぼうえい皇居こうきょ防衛ぼうえいより」との論説ろんせつ掲載けいさいし、近衛このえ部隊ぶたい早期そうき復活ふっかつ政府せいふ要求ようきゅうした。同年どうねん11がつ7にちには大東だいとうじゅく影山かげやま正治しょうじ塾長じゅくちょう長谷川はせがわ幸男ゆきおじゅくかん保安庁ほあんちょう訪問ほうもんし、増原ますはらめぐみきち保安庁ほあんちょう次長じちょう皇居こうきょ防衛ぼうえい部隊ぶたい設置せっちだいいちかい要望ようぼうしょ提出ていしゅつし、同年どうねん11がつ20日はつかには木村きむら篤太郎とくたろう保安庁ほあんちょう長官ちょうかんにももうれをおこなった。要望ようぼうしょは「皇居こうきょ防衛ぼうえい部隊ぶたい設置せっち国土こくど防衛ぼうえい根基こんきであるから、保安庁ほあんちょう万難ばんなんはいして実現じつげんされたい。1.部隊ぶたい儀仗ぎじょうねて当面とうめん、3せんめい適当てきとうとし部隊ぶたいないから特別とくべつ募集ぼしゅう特別とくべつ訓練くんれんおこない、さい精鋭せいえい部隊ぶたいにする。2.宮中きゅうちゅう勤労きんろう奉仕ほうし参加さんか青年せいねん優先ゆうせん採用さいようする。3.皇宮警察こうぐうけいさつ任務にんむべつにして併置へいちする」との内容ないようであり、竹橋たけばしきゅう近衛このえ連隊れんたいあと皇居こうきょ防衛ぼうえい部隊ぶたい設置せっちすることを主張しゅちょうしていた。大東だいとうじゅくはその近衛このえ部隊ぶたい設置せっちもとめる要望ようぼうおこなっており、1952ねん12がつまでにけい12かいおこなっていた[10]

1955ねん昭和しょうわ30ねん)1がつ防衛庁ぼうえいちょう皇居こうきょ防衛ぼうえい儀礼ぎれい役割やくわりにな部隊ぶたいを、皇居こうきょちかくのきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃいち大隊だいたい駐屯ちゅうとんさせる方針ほうしん決定けっていし、大蔵省おおくらしょう了承りょうしょうたことがほうじられた[1]部隊ぶたいめいは「竹橋たけばしちゅうとん部隊ぶたい」に内定ないていし、普通ふつう歩兵ほへいいち大隊だいたいやく800めい装備そうび小銃しょうじゅうけい機関きかんじゅうじゅう機関きかんじゅうバズばずカ砲かほうなど)のほか、陸海空りくかいくうかく幕僚監部ばくりょうかんぶ通信つうしんたい調査ちょうさたい音楽おんがくたい配備はいびする計画けいかくであった。防衛庁ぼうえいちょう当初とうしょきゅう近衛このえ師団しだん近衛このえ歩兵ほへいだい1連隊れんたい近衛このえあゆみへいだい2連隊れんたい庁舎ちょうしゃ使用しようするつもりでおり、警視庁警察学校けいしちょうけいさつがっこう退きを要求ようきゅうしていたが、警視庁けいしちょうはこれをってきたため、そのとなりにあったきゅう近衛このえ師団しだん司令しれいおよどう旅団りょだん司令しれい庁舎ちょうしゃ使用しようすることにし、当時とうじ使用しようしゃであった労働省ろうどうしょうおよ関東かんとう信越しんえつ国税局こくぜいきょく退きを大蔵省おおくらしょうつうじて交渉こうしょうしていた。木村きむら篤太郎とくたろう防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん事実じじつじょう近衛このえ部隊ぶたい新設しんせつについて、「首都しゅと中心ちゅうしん間接かんせつ侵略しんりゃく対処たいしょするためのもの」と説明せつめいしたほか、防衛庁ぼうえいちょう首脳しゅのうは「天皇てんのう日本にっぽん象徴しょうちょうだからこれをまもるのは自衛隊じえいたい当然とうぜん任務にんむ」「皇居こうきょ儀礼ぎれい部隊ぶたい同時どうじ官庁かんちょう密集みっしゅう地帯ちたいのまもり」だとしていた[1]

この防衛庁ぼうえいちょう計画けいかくたいして警察けいさつ当局とうきょく反対はんたいする姿勢しせいせており、斎藤さいとうのぼる警察庁けいさつちょう長官ちょうかんは「警察けいさつめんからえば自衛隊じえいたいのこの場所ばしょへの新設しんせつ必要ひつようだ」としたほか、江口えぐちとうとめ警視総監けいしそうかんも「そのはなしまえからいてはいるが、具体ぐたいてき任務にんむ組織そしきについてはまだなにからないのでいまのところ全然ぜんぜん白紙はくし状態じょうたいでなんともいえない」としていた。警視庁けいしちょう皇宮警察こうぐうけいさつ内部ないぶでは「自分じぶんたち警察けいさつじゅうふん」との立場たちばから防衛庁ぼうえいちょう計画けいかくたいするつよ反対はんたいろんていた[1]

防衛庁ぼうえいちょう計画けいかくした事実じじつじょう近衛このえ部隊ぶたいである「竹橋たけばしちゅうとん部隊ぶたい」はきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃ設置せっちされることはなく、計画けいかく断念だんねんされている。その1962ねん昭和しょうわ37ねん)1がつだい32普通ふつう連隊れんたい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん編成へんせいされ、どう連隊れんたいきゅう陸軍りくぐん近衛このえ歩兵ほへい連隊れんたいにちなんで「近衛このえ連隊れんたい」を自称じしょうしている[2][11][ちゅう 2]。なお、防衛ぼうえいしょうは2011ねん平成へいせい23ねん)8がつに、東京とうきょう都心としんでのだい規模きぼテロへの対処たいしょ能力のうりょく強化きょうかすることを理由りゆうに、すうひゃくにん規模きぼあらたな即応そくおう部隊ぶたいである「たいテロ初動しょどう部隊ぶたい」をかすみせきから3キロ圏内けんないあらたな拠点きょてんもうけて配置はいちすることを検討けんとうしていた[12]

防衛庁ぼうえいちょうはそのきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃ使用しようにこだわりをせており、1966ねん昭和しょうわ41ねん)には明治めいじひゃくねん記念きねんして、きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃに「国防こくぼう関係かんけいのある文化財ぶんかざい」をおさめる「明治めいじ史料しりょうかん」を設置せっちする計画けいかくてていた。明治めいじ史料しりょうかんには「最近さいきん自衛隊じえいたいかく部隊ぶたい史料しりょうかんなどに収集しゅうしゅうされたきゅうぐん時代じだいと、それ以前いぜん時代じだい資料しりょうやく2まん5000てんなかから、旧藩きゅうはん時代じだい文書ぶんしょ教範きょうはん屯田とんでんへい武器ぶき服装ふくそうパレンバンにおける降下こうか部隊ぶたい遺品いひん軍旗ぐんきなど、めずらしい資料しりょうえらんで展示てんじする計画けいかく」であり、明治めいじ時代じだいかぎらず太平洋戦争たいへいようせんそうまでふくめたきゅう日本にっぽんぐん資料しりょう展示てんじする予定よていであった。元々もともと、「明治めいじ史料しりょうかん構想こうそうは、はじめは「戦史せんしかん」または「中央ちゅうおう史料しりょうかん」として計画けいかくされており、国立こくりつ戦争せんそう博物館はくぶつかん設立せつりつすることを目指めざしていた。防衛庁ぼうえいちょう明治めいじ史料しりょうかんを「自衛じえいかん精神せいしん教育きょういくするとともに一般いっぱんひとたちへの広報こうほう利用りようしよう」とかんがえていた。ほか、防衛庁ぼうえいちょう明治めいじ史料しりょうかん当時とうじアメリカから返還へんかんされて話題わだいになっていた戦争せんそうれることも画策かくさくしていた[13]

上記じょうきのように防衛庁ぼうえいちょうきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃ現存げんそんする数少かずすくないきゅうぐん関係かんけい由緒ゆいしょある建物たてものであること、きゅうぐん関係かんけい武器ぶき装備そうび衣服いふく勲章くんしょう教範きょうはんなどの資料しりょう2まんせんてんきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃを「明治めいじ史料しりょうかん」に改装かいそうして一般いっぱん展示てんじすることを理由りゆう保存ほぞん主張しゅちょうしていた。しかし、きた丸公園まるこうえん造成ぞうせいになっている建設省けんせつしょうは、きた丸公園まるこうえんには日本武道館にほんぶどうかん科学かがく技術ぎじゅつかん国立こくりつ公文書こうぶんしょかん東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんしかつくらないことになっていること、きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃこわして、皇居こうきょもり一体いったいとなる植林しょくりん実施じっしする予定よていであり、きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃは「美観びかんじょう、おもわしくない」としてこわしを主張しゅちょうし、防衛庁ぼうえいちょう建設省けんせつしょう対立たいりつする事態じたいとなっていた。きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃ保存ほぞんは、日本にっぽん傷痍軍人しょういぐんじんかい日本にっぽん遺族いぞくかい日本にっぽんきょうとも連盟れんめいも1965ねん昭和しょうわ40ねんごろから再三さいさんにわたり要望ようぼうしていた[14]。また、文化庁ぶんかちょうきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃを「明治めいじ洋風ようふう建築けんちくとして建築けんちく史上しじょう保存ほぞん価値かちがあり、重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していしたい」と建設省けんせつしょうもうれていたが、建設省けんせつしょうは「美観びかんをこわす」としてなおもこわそうとしていた[15]。1972ねん10がつきゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた[16]

きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい庁舎ちょうしゃは、1977ねんから2020ねん2がつ28にちまで東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん工芸こうげいかんとなっていた。現在げんざいどう美術館びじゅつかん分室ぶんしつとして運用うんようされている。

師団しだんちょう[編集へんしゅう]

近衛このえ団長だんちょう
代数だいすう 補職ほしょく 師団しだんちょうめい 備考びこう
1 明治めいじ24ねん(1891ねん)12月14にち 小松こまつみやあきらじん親王しんのう  
2 明治めいじ28ねん(1895ねん)1がつ28にち 北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう 台湾たいわん征討せいとう指揮しきする。戦病死せんびょうし
3 明治めいじ28ねん(1895ねん)11月8にち[17] 野津のつ道貫みちつら  
4 明治めいじ29ねん(1896ねん)5がつ10日とおか 佐久間さくまひだりうまふとし  
5 明治めいじ29ねん(1896ねん)10がつ14にち 黒木くろきため  
6 明治めいじ30ねん(1897ねん)10がつ27にち おく保鞏やすかた  
7 明治めいじ31ねん(1898ねん)1がつ14にち 長谷川はせがわ好道よしみち 明治めいじ37ねん6がつ大将たいしょう昇任しょうにん
8 明治めいじ37ねん(1904ねん)9がつ8にち 浅田あさだしんきょう  
9 明治めいじ39ねん(1906ねん)7がつ6にち 大島おおしま久直ひさなお  
10 明治めいじ41ねん(1908ねん)12月21にち 上田うえだ有沢ありさわ 明治めいじ44ねん8がつ18にち退任たいにん[18]
11 明治めいじ44ねん(1911ねん)9がつ6にち 閑院みやじん親王しんのう  
12 大正たいしょう元年がんねん(1912ねん)11月27にち 山根やまねたけあきら  
13 大正たいしょう4ねん(1915ねん)2がつ15にち 秋山あきやま好古よしふる  
14 大正たいしょう5ねん(1916ねん)8がつ18にち 仁田にったはら重行しげゆき  
15 大正たいしょう6ねん(1917ねん)8がつ6にち 由比ゆひ光衛みつえ  
16 大正たいしょう7ねん(1918ねん)8がつ9にち 久邇くにみや邦彦くにひこおう  
17 大正たいしょう8ねん(1919ねん)11月25にち 藤井ふじいみゆきづち  
18 大正たいしょう11ねん(1922ねん)2がつ8にち 中島なかじま正武まさたけ  
19 大正たいしょう12ねん(1923ねん)8がつ6にち 森岡もりおか守成しゅせい  
20 大正たいしょう14ねん(1925ねん)5がつ1にち 田中たなか国重くにしげ  
21 大正たいしょう15ねん(1926ねん)7がつ28にち 津野つのいち  
22 昭和しょうわ3ねん(1928ねん)2がつ28にち 長谷川はせがわ直敏なおとし  
23 昭和しょうわ4ねん(1929ねん)8がつ1にち はやしずくじゅうろう  
24 昭和しょうわ5ねん(1930ねん)12月22にち 岡本おかもとれん一郎いちろう  
25 昭和しょうわ7ねん(1932ねん)2がつ29にち 鎌田かまた弥彦やひこ  
26 昭和しょうわ8ねん(1933ねん)8がつ1にち 朝香あさかみやばと彦王  
27 昭和しょうわ10ねん(1935ねん)12月2にち 橋本はしもと虎之助とらのすけ 二・二六事件ににろくじけんでは宮城みやぎ警備けいび指揮しきする。
28 昭和しょうわ11ねん(1936ねん)3がつ23にち 香月かつき清司せいじ  
29 昭和しょうわ12ねん(1937ねん)3がつ1にち 西尾にしお寿ひさしづくり  
30 昭和しょうわ12ねん(1937ねん)8がつ26にち 飯田いいださだかた  
31 昭和しょうわ14ねん(1939ねん)9がつ12にち 飯田いいだ祥二郎しょうじろう  
32 昭和しょうわ16ねん(1941ねん)6がつ28にち 西村にしむら琢磨たくま シンガポールのたたか指揮しきする。
33 昭和しょうわ17ねん(1942ねん)4がつ20日はつか 武藤むとうあきら 昭和しょうわ18ねん6がつ1にち近衛このえだい2師団しだん改称かいしょう
近衛このえだい1師団しだんちょう
代数だいすう 補職ほしょく 師団しだんちょうめい 備考びこう
1 昭和しょうわ18ねん(1943ねん)6がつ10日とおか 豊島としま房太郎ふさたろう 留守るす近衛このえ団長だんちょうからてんじる。
2 昭和しょうわ18ねん(1943ねん)10がつ29にち あかしば八重蔵やえぞう  
3 昭和しょうわ20ねん(1945ねん)4がつ7にち もりたけし 玉音ぎょくおん放送ほうそうばんうば叛乱はんらん計画けいかく反対はんたいして殺害さつがいされる。
4 昭和しょうわ20ねん(1945ねん)8がつ15にち 後藤ごとう光蔵みつぞう 師団しだん復員ふくいん指揮しきしたのち初代しょだい禁衛きんえい長官ちょうかんてんじる。
近衛このえだい2師団しだんちょう
代数だいすう 補職ほしょく 師団しだんちょうめい 備考びこう
1 昭和しょうわ18ねん(1943ねん)6がつ1にち 武藤むとうあきら  
2 昭和しょうわ19ねん(1944ねん)10がつ5にち ひさし野村のむら桃代ももよ  
近衛このえだい3師団しだんちょう
代数だいすう 補職ほしょく 師団しだんちょうめい 備考びこう
1 昭和しょうわ19ねん(1944ねん)7がつ18にち はやし芳太郎よしたろう  
2 昭和しょうわ20ねん(1945ねん)5がつ23にち 山崎やまざき清次せいじ  

参謀さんぼうちょう[編集へんしゅう]

近衛このえ師団しだん
近衛このえだい1師団しだん
近衛このえだい2師団しだん
近衛このえだい3師団しだん

近衛このえ師団しだんぞくした軍人ぐんじん[編集へんしゅう]

最終さいしゅう所属しょぞく部隊ぶたい[編集へんしゅう]

以下いか近衛このえ歩兵ほへい連隊れんたいのみ。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ きゅうみや内省ないせい皇宮警察こうぐうけいさつ禁衛きんえい皇宮警察こうぐうけいさつ皇宮警察こうぐうけいさつしょ皇宮警察こうぐうけいさつきょく警視庁けいしちょう皇宮警察こうぐうけいさつ変遷へんせんて、警察庁けいさつちょう附属ふぞく機関きかんである皇宮警察こうぐうけいさつ本部ほんぶとなった。
  2. ^ だい32普通ふつう連隊れんたい防衛庁ぼうえいちょう移転いてん計画けいかくによる玉突たまつきの一環いっかんとして、1999ねん平成へいせい11ねん)に市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんから大宮駐屯地おおみやちゅうとんち移駐いちゅうしている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d ““近衛このえ部隊ぶたい復活ふっかつか 今秋こんしゅう師団しだんあとに 果然かぜん各界かくかい批判ひはんこえ”. 読売新聞よみうりしんぶん. (1955ねん1がつ31にち) 
  2. ^ a b 福山ふくやまたかしぞく 空砲くうほう戦記せんきイカロス出版いかろすしゅっぱん p.189
  3. ^ 一族いちぞく郷土きょうどほこりとして、縁談えんだんおお地元じもと名士めいしからいちせきもうけられることもおおかった
  4. ^ 天皇てんのう護衛ごえいてのひら部隊ぶたいのため、おも美男びなん採用さいようされた」という証言しょうげんひろかれるが、もと近衛このえへいによっては「かならずしも美男びなんおおかったわけではない」と証言しょうげんしているものり、はっきりしない。
  5. ^ 官報かんぽうだい8079ごう明治めいじ43ねん5がつ30にち
  6. ^ 官報かんぽうだい1766ごう大正たいしょう7ねん6がつ22にち
  7. ^ 作表さくひょう昌弘まさひろしゃ 編輯へんしゅう最新さいしん百科ひゃっか知識ちしきせいこう昌弘まさひろしゃ、1930ねん昭和しょうわ5ねん)、741ぺーじ資料しりょうもとづいた。
  8. ^ ノーベル書房しょぼう編集へんしゅうへん陸軍りくぐん郷土きょうど歩兵ほへい聯隊れんたい写真しゃしんしゅう わが聯隊れんたいノーベル書房しょぼう、1979ねん。p93,95
  9. ^ a b はたいくろく 日本にっぽんさい軍備ぐんび文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう p.42-44
  10. ^ ほり幸雄ゆきお戦後せんご右翼うよく勢力せいりょく 新装しんそうばん勁草書房しょぼう p.146
  11. ^ 広報こうほうあたまごう師団しだん平成へいせい30ねん8がつごう だい1師団しだん司令しれい総務そうむ広報こうほうはん(2018ねん8がつ)2022ねん07がつ12にち閲覧えつらん
  12. ^ 都心としんに「たいテロ部隊ぶたいかすみせきから3キロ圏内けんないすうひゃくにん規模きぼ”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2011ねん8がつ17にち) 
  13. ^ 成田なりた龍一りゅういち (編集へんしゅう), 吉田よしだひろし (編集へんしゅう) 『記憶きおく認識にんしきなかのアジア・太平洋戦争たいへいようせんそう――岩波いわなみ講座こうざアジア・太平洋戦争たいへいようせんそう 戦後せんごへん岩波書店いわなみしょてん p.134-136
  14. ^ “また「あかレンガ」存廃そんぱい論争ろんそう きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい 建設省けんせつしょう 防衛庁ぼうえいちょう”. 朝日新聞あさひしんぶん. (1968ねん4がつ4にち) 
  15. ^ 文化庁ぶんかちょうりこわし反対はんたい きゅう近衛このえ師団しだん司令しれい 建設省けんせつしょう 美観びかんこわすとゆずらず”. 朝日新聞あさひしんぶん. (1968ねん9がつ14にち) 
  16. ^ 文化ぶんか遺産いさんオンライン 文化庁ぶんかちょう
  17. ^ 官報かんぽうだい3711ごう明治めいじ28ねん11月9にち
  18. ^ 官報かんぽうだい8449ごう明治めいじ44ねん8がつ19にち
  19. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』22ぺーじ
  20. ^ a b 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』30ぺーじ
  21. ^ 官報かんぽうだい3993ごう明治めいじ29ねん10がつ19にち
  22. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』53ぺーじ
  23. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』49ぺーじ
  24. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』69ぺーじ
  25. ^ a b 官報かんぽうだい6860ごう明治めいじ39ねん5がつ15にち
  26. ^ 官報かんぽうだい7932ごう明治めいじ42ねん12月1にち
  27. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』75ぺーじ
  28. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』93ぺーじ
  29. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』99ぺーじ
  30. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』103ぺーじ
  31. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』115ぺーじ
  32. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』122ぺーじ
  33. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』143ぺーじ
  34. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』156ぺーじ
  35. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』171-172ぺーじ
  36. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』170ぺーじ
  37. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』190ぺーじ
  38. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』208ぺーじ
  39. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』221ぺーじ
  40. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』230ぺーじ
  41. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』256ぺーじ
  42. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』311ぺーじ
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  45. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』424ぺーじ
  46. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』418ぺーじ
  47. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』771ぺーじ
  48. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』451ぺーじ
  49. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』447ぺーじ
  50. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』454ぺーじ
  51. ^ a b 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』1184ぺーじ
  52. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』449ぺーじ
  53. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』852ぺーじ
  54. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』1298ぺーじ
  55. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』453ぺーじ
  56. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』444ぺーじ
  57. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』1121ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]