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だい10飛行ひこうだん (日本にっぽんぐん)

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だい10飛行ひこう師団しだん
創設そうせつ 1944ねん 3がつ10日とおか
廃止はいし 1945ねん 9月
所属しょぞく政体せいたい 大日本帝国だいにっぽんていこく
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 飛行ひこう師団しだん
兵種へいしゅ/任務にんむ/特性とくせい 本土ほんど防空ぼうくう
所在地しょざいち 司令しれい東京とうきょう
通称つうしょうごう/略称りゃくしょう 天翔あまがけ
最終さいしゅう上級じょうきゅう単位たんい だい1航空こうくうぐん
担当たんとう地域ちいき 関東かんとう地方ちほう
最終さいしゅう位置いち 司令しれい東京とうきょう
おも戦歴せんれき だい東亜とうあ戦争せんそう
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だい10飛行ひこう師団しだん(だいじゅうひこうしだん)は、日本にっぽん陸軍りくぐん飛行ひこう師団しだんのひとつ。1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつだい17飛行ひこうだん廃止はいしだい10飛行ひこう師団しだん司令しれい臨時りんじ編成へんせいされ、既存きそん部隊ぶたいへんあわして飛行ひこう師団しだんとなり、太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつまでしゅとして関東かんとう地区ちく防空ぼうくう任務にんむにあたった。司令しれい当初とうしょのうち東京とうきょう北多摩きたたまぐん調布ちょうふ飛行場ひこうじょうおけれたが、1944ねん5がつ東京とうきょう神田かんだ移動いどうし、隷下れいか部隊ぶたい東京とうきょう千葉ちばけん茨城いばらきけん埼玉さいたまけんなどに配置はいちされた。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

防空ぼうくう飛行ひこう師団しだん”の創設そうせつ[編集へんしゅう]

だい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう)における中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん情勢じょうせい悪化あっかし、陸軍りくぐん中央ちゅうおう本土ほんど防空ぼうくう強化きょうかするため1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ8にち軍令ぐんれいりくかぶとだい27ごう[* 1]したれいした[1]。これは東京とうきょう北多摩きたたまぐん調布ちょうふ飛行場ひこうじょうかれていただい17飛行ひこうだん司令しれい復帰ふっき解消かいしょうし、だい10飛行ひこう師団しだん司令しれい臨時りんじ編成へんせいするものである。3月10にち司令しれい編成へんせい完結かんけつし、大陸たいりくいのちだい961ごう[* 2]による師団しだんへんごう完結かんけつした[2][3][4][5]だい10飛行ひこう師団しだんだい1航空こうくうぐん司令しれいかん隷下れいかかれ、作戦さくせん行動こうどうにおいては本土ほんど全体ぜんたい防衛ぼうえい統轄とうかつする防衛ぼうえいそう司令しれい指揮しきしゅとして関東かんとう地区ちく防空ぼうくうにあたった[* 3]

飛行ひこうだい47戦隊せんたい使用しよう同型どうけいしき単座たんざ戦闘せんとう鍾馗しょうき

だい10飛行ひこう師団しだん司令しれい編成へんせい完結かんけつにおける隷下れいか部隊ぶたいつぎのとおりである[6]

航空こうくう部隊ぶたい
地上ちじょう部隊ぶたい
飛行ひこうだい53戦隊せんたいしきふく戦闘せんとうほふりゅう
  • だい3飛行場ひこうじょう大隊だいたい
  • だい6飛行場ひこうじょう大隊だいたい
  • だい7飛行場ひこうじょう大隊だいたい
  • だい43飛行場ひこうじょう大隊だいたい
  • だい244飛行場ひこうじょう大隊だいたい
  • だい1対空たいくう無線むせんたい
  • だい2対空たいくう無線むせんたい
  • だい17航空こうくう情報じょうほうたい

このほか隷属れいぞく関係かんけいにはないが作戦さくせん遂行すいこうじょう指揮しき部隊ぶたいとして、飛行ひこうだい1戦隊せんたい一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ使用しようかしわ飛行場ひこうじょう)と飛行ひこうだい70戦隊せんたいしき単座たんざ戦闘せんとう使用しよう松戸まつど飛行場ひこうじょう)があった[7][8]。さらに4がつにはだい13航空こうくう通信つうしんたいが、5月には飛行ひこうだい53戦隊せんたいしきふく戦闘せんとうほふりゅう使用しよう松戸まつど飛行場ひこうじょう)がだい10飛行ひこう師団しだん隷下れいか部隊ぶたいとなった[9][10][11]。また明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう分校ぶんこう下志津しもしづ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうなどの教官きょうかんあるいはじょきょう[* 5]や、陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ技量ぎりょうすぐれた操縦そうじゅうしゃがいることを利用りようし、それぞれすうからじゅうすうほどで編成へんせいする小規模しょうきぼ部隊ぶたい通称つうしょう東二ひがしにごう部隊ぶたい」として臨時りんじだい10飛行ひこう師団しだん指揮しき防空ぼうくう任務にんむ兼務けんむさせた[12]

指揮しきかん司令しれい編成へんせい当初とうしょ前身ぜんしんであるだい17飛行ひこう団長だんちょう佐藤さとう正一しょういち少将しょうしょう師団しだんちょう心得こころえとなったが[13][* 6]、3月28にちだい1航空こうくうぐん参謀さんぼうちょうであった吉田よしだ喜八郎きはちろう少将しょうしょう交代こうたいした[6]だい10飛行ひこう師団しだん緊急きんきゅうせいたか防空ぼうくう部隊ぶたい特質とくしつじょう指揮しき結節けっせつすくなくすることをおも理由りゆうとして師団しだんした飛行ひこうだんもうけず、師団しだんちょうかく飛行ひこう戦隊せんたい直接ちょくせつ指揮しきした[6]

師団しだん司令しれいだい17飛行ひこうだん司令しれい継承けいしょう調布ちょうふ飛行場ひこうじょうかれた。これは飛行ひこう部隊ぶたい指揮しき飛行場ひこうじょうおこなわなければならないとの飛行ひこうだん当時とうじかんがえによるものである[14]。しかし師団しだんとして指揮しき部隊ぶたい各地かくちえたことで通信つうしん連絡れんらく重要じゅうようとの認識にんしきから、5月5にちだい10飛行ひこう師団しだん司令しれい各種かくしゅ防空ぼうくう情報じょうほうがすべてあつまりしょ設備せつび完備かんびする東京とうきょう神田かんだ竹橋たけばし東部とうぶぐん司令しれいない移動いどうした[14]

おなじ5がつ5にち大陸たいりくいのちだい1003ごうれいにより本土ほんど統帥とうすい一元いちげん強化きょうか目的もくてきとする機構きこう改編かいへんおこなわれ[15]、5がつ10日とおか0をもってだい10飛行ひこう師団しだんだい1航空こうくうぐん隷下れいかからだっし、防衛ぼうえいそう司令しれい直轄ちょっかつとして編入へんにゅうされた[16][17][18]

特別とくべつ攻撃こうげきたい編成へんせい[編集へんしゅう]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつまつだい10飛行ひこう師団しだん指揮しきにあった飛行ひこうだい70戦隊せんたいだい2航空こうくうぐん戦力せんりょく支援しえんのため満州まんしゅうこく派遣はけんされた[8]おなじく指揮しきにあった飛行ひこうだい1戦隊せんたいは10がつに、隷下れいかにあった飛行ひこうだい18戦隊せんたいは11月初頭しょとうにそれぞれとしごう作戦さくせん参加さんかのためフィリピン派遣はけんされ本土ほんどからった。かわりに10がつまつ飛行ひこうだい23戦隊せんたい一式いっしき戦闘せんとう使用しよう)が千葉ちばけん印旛いんばぐん印旛いんば飛行場ひこうじょう編成へんせいされ、だい10飛行ひこう師団しだん隷下れいか編入へんにゅうされた[19][20]

べい陸軍りくぐん航空こうくうぐんB-29爆撃ばくげき

べいぐんはすでにマリアナ諸島しょとう攻略こうりゃくし、建設けんせつした飛行場ひこうじょうからB-29爆撃ばくげき関東かんとう地区ちくへの侵入しんにゅうを11月1にちより開始かいしした[21][22]だい10飛行ひこう師団しだん隷下れいかあるいは指揮しき飛行ひこう戦隊せんたいはそれぞれ邀撃ようげき[* 7]こころみたが、日本にっぽん陸軍りくぐん航空機こうくうき高々たかだかでの性能せいのうおとぼしい戦果せんかられなかった。使用しようしている戦闘せんとうでは装備そうび可能かのうなかぎりはず軽量けいりょうしないと高々たかだかへの上昇じょうしょうむずかしく、防弾ぼうだん鋼板こうはん機関きかんほうまでてき体当たいあたりをする以外いがい方法ほうほうはないとの結論けつろんたっし、飛行ひこう師団しだん指揮しきする吉田よしだ少将しょうしょうは11月7にちかく飛行ひこう戦隊せんたいたいしそれぞれ4特別とくべつ攻撃こうげきたい編成へんせいめいじた[23]後日ごじつこの防空ぼうくう特攻隊とっこうたい防衛ぼうえいそう司令しれいかんひがし久邇くにみや稔彦としひこおう陸軍りくぐん大将たいしょうよりふるえてんせいそらたい命名めいめいされた[24]

その一方いっぽう満州まんしゅう派遣はけんされていた飛行ひこうだい70戦隊せんたいは11月6にち千葉ちばけん東葛飾ひがしかつしかぐんかしわ飛行場ひこうじょう帰還きかんふたただい10飛行ひこう師団しだん指揮しき本土ほんど防空ぼうくう任務にんむについた[25]。また11月13にち大陸たいりくいのちだい1182ごうによって飛行ひこうだい28戦隊せんたいいち〇〇しき司令しれい偵察ていさつ使用しよう)が満州まんしゅうから調布ちょうふ飛行場ひこうじょう移動いどうだい10飛行ひこう師団しだん指揮しきはいった[26]どう戦隊せんたいでは司令しれい偵察ていさつに20ミリ機関きかんほう2もん装備そうびし「武装ぶそう偵」とする変更へんこうおこない、さらに千葉ちばけん山武さんぶぐん東金とうがね飛行場ひこうじょう移動いどうよく12がつには戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃしん戦隊せんたいちょう[* 8]をむかえて高々たかだか戦闘せんとうおも任務にんむとする部隊ぶたいとなった[27]地上ちじょう部隊ぶたいではだい46航空こうくう地区ちく司令しれい軍令ぐんれいりくかぶとだい136ごうにより臨時りんじ編成へんせいされ[28]だい187飛行場ひこうじょう大隊だいたいとともに10がつ下旬げじゅん[29]だい188飛行場ひこうじょう大隊だいたいは11月中旬ちゅうじゅん[30]、それぞれだい10飛行ひこう師団しだん編入へんにゅうされた。

12月31にちよる吉田よしだ少将しょうしょういた日誌にっしの「昭和しょうわじゅうきゅうねん歳末さいまつ所見しょけん」では、だい10飛行ひこう師団しだんは11月から2かげつあいだ防空ぼうくう戦闘せんとうにおいて出撃しゅつげき回数かいすう40かい撃墜げきつい確実かくじつ28、うち16特攻とっこう体当たいあたりによるもので特攻とっこう戦死せんししゃ10めい[* 9]撃墜げきつい確実かくじつ24撃破げきは60来襲らいしゅうしたてきの9パーセントを撃墜げきついとしている[31]一方いっぽうべいぐん資料しりょうでは太平洋戦争たいへいようせんそう期間きかんつうじマリアナ諸島しょとうから日本にっぽん本土ほんど出撃しゅつげきしたB-29全体ぜんたい損失そんしつりつ昼間ひるま攻撃こうげきで1.5パーセント、夜間やかんでは0.95パーセントをうしなったのみである[32]べいがわ資料しりょう空襲くうしゅうだい規模きぼとなった1945ねん昭和しょうわ19ねん)をふくむ終戦しゅうせんまでのものであり、なおかつだい10飛行ひこう師団しだんだけを相手あいてとした損失そんしつではないが、日本にっぽんがわ算定さんていした数字すうじとは相当そうとうがある。また前述ぜんじゅつ吉田よしだ少将しょうしょう日誌にっしによれば、だい10飛行ひこう師団しだんは2かげつ戦力せんりょくの10パーセントをうしなっている。

B-29爆撃ばくげきとの戦闘せんとう[編集へんしゅう]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月26にち軍令ぐんれいりくかぶとだい165ごう[* 10]によってだい6航空こうくうぐん司令しれい臨時りんじ編成へんせいされた[33]。これは戦局せんきょく切迫せっぱく本土ほんどにおける航空こうくう作戦さくせん専任せんにんする航空こうくうぐん必要ひつようとなったためで[34]従来じゅうらい教導きょうどう航空こうくうぐんだい6航空こうくうぐん改編かいへんされ、だい10飛行ひこう師団しだんはその隷下れいかかれた[35]

おなじころフィリピンのレイテ島れいてとうべいぐん手中しゅちゅうにあり、戦局せんきょく悪化あっかするいちぽうであった[36]大本営だいほんえいでは今後こんごについて、べいぐん主体しゅたいとする連合れんごうぐん日本にっぽん本土ほんど南方なんぽうとの資源しげん経路けいろつとともに本土ほんど空襲くうしゅう強化きょうか日本にっぽん戦力せんりょくならびに国力こくりょく急速きゅうそく弱体じゃくたいさせ、本土ほんど上陸じょうりく企図きとするであろうと判断はんだんしていた[37]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ3にちひる大阪おおさか市街地しがいち焼夷弾しょういだん投下とうか名古屋なごや方面ほうめん東進とうしんしたやく90日本にっぽんがわ推定すいてい)のB-29爆撃ばくげきたいし、だい10飛行ひこう師団しだんだい11飛行ひこう師団しだん支援しえんするため飛行ひこうだい244戦隊せんたい飛行ひこうだい28戦隊せんたい独立どくりつ飛行ひこうだい17中隊ちゅうたい戦闘せんとうはん武装ぶそう偵を使用しよう)を出動しゅつどうさせ、東京とうきょう上空じょうくうには飛行ひこうだい47戦隊せんたい哨戒しょうかいめいじた。この出撃しゅつげき飛行ひこうだい244戦隊せんたいてき撃墜げきつい確実かくじつ5損害そんがいあたえたもの7戦果せんかほうじている[38]

飛行ひこうだい47戦隊せんたいしき単座たんざ戦闘せんとう

1がつ9にちひるには関東かんとう上空じょうくうにB-29爆撃ばくげきやく30日本にっぽんがわ推定すいてい)が侵入しんにゅうした[* 11]。これにたいだい10飛行ひこう師団しだん邀撃ようげきおこない、飛行ひこうだい47戦隊せんたい体当たいあたり4飛行ひこうだい244戦隊せんたい体当たいあたり2ふくむ11てき撃墜げきつい確実かくじつとし、ほかに撃墜げきつい確実かくじつ4撃破げきは13戦果せんか報告ほうこくした[* 12]師団しだん同日どうじつ戦死せんししゃは4めい体当たいあたり特攻とっこうをした操縦そうじゅうしゃのうち3めい生還せいかんしている[39]

1がつ27にちひる、B-29爆撃ばくげき26だい1梯団ていだんどう46だい2梯団ていだんからなる東京とうきょう東部とうぶ地区ちく空襲くうしゅうたいし、だい10飛行ひこう師団しだん全力ぜんりょく邀撃ようげき実施じっしし、てき撃墜げきつい22撃破げきは多数たすう発表はっぴょうした。師団しだん損失そんしつ帰還きかん22である[40]。2月4にちひる神戸こうべおよび中部ちゅうぶ日本にっぽん空襲くうしゅうしたべいぐんB-29にたいだい10飛行ひこう師団しだん戦力せんりょく一部いちぶ防空ぼうくう協力きょうりょくさせるため静岡しずおかけんおよび東京とうきょう周辺しゅうへん上空じょうくう出撃しゅつげきしたが、てき補足ほそくすることはできなかった[41]

2がつ10にちひる鹿島灘かしまなだおきから茨城いばらきけん通過つうかして群馬ぐんまけん侵入しんにゅう中島なかじま飛行機ひこうき太田おおた工場こうじょう爆撃ばくげきしたやく100日本にっぽんがわ推定すいてい)のてきたいして[* 13]だい10飛行ひこう師団しだんだい16飛行ひこうだん協力きょうりょく双方そうほう合計ごうけいで15撃墜げきつい戦果せんか報告ほうこくしたが[* 14]特攻とっこう自爆じばく帰還きかんで7うしなった[* 15]だい16飛行ひこうだんはフィリピンでの作戦さくせん参加さんか、12月23にち茨城いばらきけん真壁まかべぐん下館しもだて飛行場ひこうじょう移動いどうして戦力せんりょく回復かいふくちゅうで、防空ぼうくう警報けいほう発令はつれいされた場合ばあいだい10飛行ひこう師団しだん指揮しきはいることになっていた[42]

べいぐん艦載かんさいとの戦闘せんとう[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ16にちあさ太平洋たいへいよう展開てんかいしているべい海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい航空こうくう母艦ぼかんから発進はっしんした艦載かんさい房総半島ぼうそうはんとうおきから低空ていくう本土ほんど接近せっきんし、だい10飛行ひこう師団しだんかく戦隊せんたい出撃しゅつげきさせた。ただししきふく戦闘せんとう使用しようする飛行ひこうだい53戦隊せんたい夜間やかん戦闘せんとう専任せんにんとされており、飛行機ひこうきから燃料ねんりょう弾薬だんやく根拠地こんきょちとしている千葉ちばけん松戸まつど松戸まつど飛行場ひこうじょう周辺しゅうへん分散ぶんさんして遮蔽しゃへいするほか、技量ぎりょう未熟みじゅく操縦そうじゅうしゃ群馬ぐんまけん新田にったぐん新田にった飛行場ひこうじょう退避たいひさせた[43]べいぐん艦載かんさいだいいちやく90日本にっぽんがわ推定すいてい)が鹿島灘かしまなだ三浦半島みうらはんとう房総半島ぼうそうはんとう南端なんたんからそれぞれ本土ほんど侵入しんにゅうし、千葉ちば茨城いばらきりょうけんにあるかく飛行場ひこうじょう攻撃こうげきしたあと海上かいじょう脱出だっしゅつした。つづいてやく90だいやく100だいさんやく120だいよんすうはいずれも日本にっぽんがわ推定すいてい)が鹿島かしまなだ九十九里浜くじゅうくりはまから侵入しんにゅうし、しゅとして沿岸えんがん地域ちいきにある陸海りくかいぐん飛行場ひこうじょう攻撃こうげきした。

手前てまえからF6FSB2CTBFなどべいぐん艦載かんさい(1946ねん撮影さつえい

同日どうじつ午後ごごには艦載かんさいやく90日本にっぽんがわ推定すいてい)のだい九十九里浜くじゅうくりはまから侵入しんにゅうし、印旛いんば飛行場ひこうじょう調布ちょうふ飛行場ひこうじょう東京とうきょう板橋いたばし[* 16]成増なります飛行場ひこうじょう神奈川かながわけん高座こうざぐん厚木あつぎ海軍かいぐん飛行場ひこうじょう攻撃こうげきした。さらにだいろくだいななあわせて推定すいていやく450鹿島灘かしまなだから侵入しんにゅう主力しゅりょく群馬ぐんまけん中島なかじま飛行機ひこうき太田おおた工場こうじょう一部いちぶ陸海りくかいぐん飛行場ひこうじょうなどを攻撃こうげきした。べいぐん艦載かんさいF6F戦闘せんとうF4U戦闘せんとうSB2CばくげきTBF攻撃こうげきなどである。だい10飛行ひこう師団しだんかく戦隊せんたい反復はんぷくして邀撃ようげきし、戦果せんか撃墜げきつい62撃破げきは27報告ほうこくしたが[24][* 17]損害そんがい邀撃ようげき任務にんむ戦闘せんとう帰還きかん37のほか、哨戒しょうかい任務にんむ出動しゅつどうした独立どくりつ飛行ひこうだい17中隊ちゅうたいすんでじゅつの「東二ひがしにごう部隊ぶたい」である下志津しもしづ飛行ひこうたい[* 18]いち〇〇しき司令しれい偵察ていさつにもすう損害そんがいがあった[44]

同日どうじつ夕刻ゆうこくだい10飛行ひこう師団しだん指揮しきけんをもつ防衛ぼうえいそう司令しれいかんは、戦力せんりょく充実じゅうじつしている飛行ひこうだい47戦隊せんたい飛行ひこうだい244戦隊せんたいだい6航空こうくうぐん直轄ちょっかつとし、どう飛行ひこう師団しだん戦力せんりょく制限せいげんした。これは「本土ほんど決戦けっせん」にそなえて航空こうくう戦力せんりょく温存おんぞん重視じゅうしする防衛ぼうえいそう司令しれい方針ほうしんによるもので、中型ちゅうがた小型こがたてきたい活発かっぱつ邀撃ようげきおこなえば戦力せんりょく消耗しょうもう深刻しんこくするとの判断はんだんである[45]

2がつ17にちあさべいぐん艦載かんさいはこの来襲らいしゅうし、だい一波いっぱやく180主力しゅりょく関東かんとう地区ちくにある各地かくち陸海りくかいぐん飛行場ひこうじょうを、一部いちぶ静岡しずおかけん浜松はままつ飛行場ひこうじょう攻撃こうげきした。これにつづだいやく90千葉ちばけん神奈川かながわけん空襲くうしゅうし、だいさんやく150埼玉さいたまけん東京とうきょう飛行場ひこうじょうならびに北多摩きたたまぐん中島なかじま飛行機ひこうき武蔵むさし工場こうじょうなどを攻撃こうげきした。さらに正午しょうごごろにだいよんやく70すうはいずれも日本にっぽんがわ推定すいてい)が横浜よこはまこう施設しせつ船舶せんぱく、および千葉ちばけん館山たてやま攻撃こうげきした。だい10飛行ひこう師団しだん前述ぜんじゅつのとおり飛行ひこうだい47戦隊せんたい飛行ひこうだい244戦隊せんたい指揮しきから除外じょがいされ、また前日ぜんじつ損耗そんこうのため戦力せんりょくおおきく減少げんしょうしていたが反復はんぷくして出撃しゅつげきし、撃墜げきつい36撃破げきは18戦果せんかとして報告ほうこくした[* 19]損失そんしつ帰還きかん14である[46]

だい10飛行ひこう師団しだん両日りょうじつ戦闘せんとうで50以上いじょう損失そんしつし、空戦くうせん中心ちゅうしんとなる熟練じゅくれん操縦そうじゅうしゃ数多かずおおうしなった。しかし指揮しきかん吉田よしだ少将しょうしょう航空こうくう作戦さくせんにおいて戦力せんりょく温存おんぞんには反対はんたいかんがえであり、てき来襲らいしゅうにはかならず出撃しゅつげきすることが戦闘せんとう部隊ぶたい伝統でんとうであるにもかかわらず、邀撃ようげき制限せいげんすれば攻撃こうげき精神せいしんそこない、部隊ぶたい存在そんざい意義いぎをもうしなうと憂慮ゆうりょした[47]だい10飛行ひこう師団しだん参謀さんぼうちょう岡本おかもと修一しゅういち大佐たいさ師団しだんちょういのちにより17にち防衛ぼうえいそう司令しれい出頭しゅっとう吉田よしだ少将しょうしょうかんがえを邀撃ようげき制限せいげん解除かいじょするよう意見いけん具申ぐしんしたが、防衛ぼうえいそう司令しれい邀撃ようげき制限せいげん解除かいじょれなかった[48][* 20]

2がつ19にち午後ごご、マリアナ諸島しょとう航空こうくう基地きちから発進はっしんしたB-29爆撃ばくげきやく100日本にっぽんがわ推定すいてい)が関東かんとう地区ちく来襲らいしゅう東京とうきょう周辺しゅうへん市街地しがいち無差別むさべつ爆撃ばくげきし、東京とうきょうでは葛飾かつしかおよび江戸川えどがわ多大ただい被害ひがいがあった。だい10飛行ひこう師団しだん全力ぜんりょく出動しゅつどうし、それまでの戦闘せんとう熟練じゅくれん操縦そうじゅうしゃおおうしなったどう師団しだんでは操縦そうじゅう時間じかん200あいだほどの特別とくべつ操縦そうじゅう見習みならい士官しかん敢闘かんとうした。戦果せんか体当たいあたり2ふく撃墜げきつい21報告ほうこくし、損害そんがいは4であった[49]

2がつ25にちあさ多数たすうべいぐん艦載かんさい房総半島ぼうそうはんとうおよび鹿島灘かしまなだから逐次ちくじ侵入しんにゅうした。だい10飛行ひこう師団しだん飛行ひこうだい23戦隊せんたい飛行ひこうだい70戦隊せんたい飛行ひこうだい18戦隊せんたいのみを艦載かんさい邀撃ようげき待機たいきさせ、武装ぶそう偵としきふく戦闘せんとう装備そうびする戦隊せんたい、およびふるえてんせいそらたいはB-29爆撃ばくげきたいする邀撃ようげきのため温存おんぞんする命令めいれい吉田よしだ師団しだんちょうにより下達かたつされていた。そのB-29が同日どうじつ午後ごご来襲らいしゅう判断はんだんされ、吉田よしだ少将しょうしょう艦載かんさいへの邀撃ようげき変更へんこうし、ぜん部隊ぶたい飛行機ひこうき燃料ねんりょう弾薬だんやく分散ぶんさん遮蔽しゃへいしてたいB-29の戦闘せんとう注力ちゅうりょくするよう命令めいれいした。午前ごぜんちゅう来襲らいしゅうした艦載かんさい総計そうけいやく600推定すいていされ、しゅとして関東かんとう北部ほくぶおよび東部とうぶ飛行場ひこうじょう工場こうじょう交通こうつう機関きかん攻撃こうげき太平洋たいへいようじょう脱出だっしゅつした。同日どうじつ午後ごごやく130推定すいていされるB-29爆撃ばくげきが7梯団ていだんとなり東京とうきょう上空じょうくう侵入しんにゅうした。このあさからの曇天どんてん次第しだい悪化あっかして大雪おおゆきとなっていた。B-29は雲上うんじょうから東京とうきょう市街地しがいち焼夷弾しょういだんばくだん投下とうかし、この空襲くうしゅうだけでやく19まん焼失しょうしつしたが、だい10飛行ひこう師団しだん悪天候あくてんこうのためについに出動しゅつどうできなかった[50]

しん師団しだんちょう方針ほうしん変更へんこう[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ1にち、それまでだい10飛行ひこう団長だんちょう心得こころえであった吉田よしだ喜八郎きはちろう少将しょうしょう中将ちゅうじょう進級しんきゅう同時どうじだい13飛行ひこう師団しだんちょう異動いどうし、宇都宮うつのみや教導きょうどう飛行ひこう師団しだんちょうであった近藤こんどうけんとぎ中将ちゅうじょうあらたなだい10飛行ひこう団長だんちょうおやされた[* 21]吉田よしだ中将ちゅうじょう陸軍りくぐんだい学校がっこう優等ゆうとう卒業そつぎょう英才えいさいであり、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に騎兵きへいからうたてして以降いこう航空こうくう関係かんけい要職ようしょく歴任れきにんした。だい10飛行ひこう師団しだん指揮しきかんとしても性能せいのうおと航空機こうくうき要員よういん練度れんど不十分ふじゅうぶんにもかかわらず相当そうとう成果せいかをあげたが、強烈きょうれつ積極せっきょくせい個性こせいのために周囲しゅういとの関係かんけい良好りょうこうでない場合ばあいもあり、指揮しきける部隊ぶたい命令めいれい遂行すいこう疲弊ひへいしていた[51]近藤こんどう中将ちゅうじょう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう歩兵ほへいであったが、1925ねん大正たいしょう14ねん)の航空こうくう兵科へいか創設そうせつ以前いぜんより戦闘せんとう操縦そうじゅうしゃとして飛行ひこう部隊ぶたい飛行ひこう学校がっこうでの教育きょういく経験けいけん豊富ほうふであった[52][53]

しん師団しだんちょう航空こうくう関係かんけい補給ほきゅうおよび補充ほじゅう逼迫ひっぱくしている状況じょうきょう本土ほんど決戦けっせんのための戦力せんりょくたくわえる必要ひつよう考慮こうりょし、だい10飛行ひこう師団しだん主力しゅりょくによる邀撃ようげきはB-29爆撃ばくげき本格ほんかくてき来襲らいしゅうのみに限定げんていする方針ほうしんをとった。この方針ほうしん陸軍りくぐん中央ちゅうおう意向いこう同様どうようのものであるが、本土ほんど上空じょうくう侵入しんにゅうしたてきたいして日本にっぽん戦闘せんとう出撃しゅつげきしないことは国民こくみん感情かんじょうおおきな影響えいきょうおよぼした[51]。B-29は2がつ以降いこう夜間やかん単機たんきまたは少数しょうすう関東かんとうおよび中部ちゅうぶ地区ちくに、ほとんど連夜れんや来襲らいしゅうしていたのである[54]

3がつはいるとB-29爆撃ばくげきによる本土ほんど攻撃こうげき大都市だいとしたいする焼夷弾しょういだん爆撃ばくげき中心ちゅうしんになった[51]3月さんがつにちあさ推定すいていやく150のB-29が東京とうきょう上空じょうくう来襲らいしゅうし、雲上うんじょうからばくだん多量たりょう焼夷弾しょういだん投下とうかした。だい10飛行ひこう師団しだん雲量うんりょう10の天候てんこう不良ふりょうのため出動しゅつどうできず、高射こうしゃだい1師団しだんでんはか射撃しゃげきをするのみであった[54]。  

東京とうきょうだい空襲くうしゅう直後ちょくご様子ようす石川いしかわ光陽こうよう撮影さつえい

3月9にち夕刻ゆうこくべいぐんはマリアナ諸島しょとうにある5つの飛行場ひこうじょうからB-29爆撃ばくげき334べいぐん記録きろく)を出撃しゅつげきさせた[55][* 22]。B-29は3がつ10にち午前ごぜん0ごろより東京とうきょうわん北上ほくじょうして東京とうきょう上空じょうくう来襲らいしゅうした。このよるきたからの強風きょうふうのため電波でんぱ警戒けいかいがほとんど正常せいじょう作動さどうせず、陸軍りくぐん空襲くうしゅう確認かくにんしたのはB-29が京橋きょうばし月島つきしま付近ふきん焼夷弾しょういだん攻撃こうげきおこなったという情報じょうほう午前ごぜん08ふんはいってからである。さらにB-29が続々ぞくぞく侵入しんにゅうちゅうとの情報じょうほうで015ふん空襲くうしゅう警報けいほう発令はつれいされた。B-29は中高なかだか単機たんきまたはすう編隊へんたい東京とうきょう東部とうぶ侵入しんにゅうだい規模きぼ差別さべつ焼夷弾しょういだん攻撃こうげき東京とうきょうだい空襲くうしゅう)をおこない、とうだん千葉ちばけん銚子ちょうし付近ふきんから太平洋たいへいようじょう脱出だっしゅつした。日本にっぽんがわでは来襲らいしゅうしたB-29の総数そうすうやく110推定すいていした[54]

だい10飛行ひこう師団しだんでは近藤こんどう師団しだんちょう夜間やかん出動しゅつどう可能かのうぜん出動しゅつどうめいじた。B-29邀撃ようげきいそ離陸りりくした戦闘せんとうは、ちゅう高度こうど空戦くうせんであるので十分じゅうぶんにその性能せいのう発揮はっきすることが可能かのうだった。また地上ちじょうだい火災かさいによるほのおあかるさで照空灯しょうくうとうがなくてもてき視認しにんできたが、やがで煙霧えんむ上空じょうくうただよ攻撃こうげき困難こんなんになった[56]師団しだんでは相当そうとう戦果せんか報告ほうこくしたが、べいぐん記録きろくでは撃墜げきついされたB-29が14損傷そんしょうは42であり、日本にっぽん陸海りくかいぐん戦闘せんとうによる撃墜げきついはなく、すべて高射こうしゃほうによるものとしている[57]

3月16にち防衛ぼうえいそう司令しれい飛行ひこうだい4戦隊せんたいおよび飛行ひこうだい5戦隊せんたい(いずれもしきふく戦闘せんとう使用しよう)をそれぞれ印旛いんば飛行場ひこうじょう調布ちょうふ飛行場ひこうじょう移動いどうさせ、だい10飛行ひこう師団しだん指揮しきき、夜間やかん邀撃ようげき戦力せんりょく強化きょうかした。しかし関東かんとう地区ちくにはそのだい規模きぼてき来襲らいしゅうはなく、同月どうげつ17にちにはB-29爆撃ばくげきにより神戸こうべが、18にちと19にちには艦載かんさいにより九州きゅうしゅう近畿きんき地区ちくが、19にちと25にちにはB-29により名古屋なごやがそれぞれ攻撃こうげきされたため、飛行ひこうだい4およびだい5戦隊せんたいだい10飛行ひこう師団しだん指揮しきだっし、もとの指揮しき復帰ふっきした[58]

飛行ひこうだい244戦隊せんたいさんしき戦闘せんとう

おなじころだい6航空こうくうぐん沖縄おきなわなどを防衛ぼうえいするてんごう作戦さくせん準備じゅんびのため3がつ10日とおか司令しれい福岡ふくおか移動いどうしていた。これにともない、だい6航空こうくうぐん隷下れいかにあっただい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだんが3がつ20日はつかより防衛ぼうえいそう司令しれい直轄ちょっかつとなり、2がつなかばよりだい6航空こうくうぐん指揮しきにあった飛行ひこうだい47戦隊せんたいよんしき戦闘せんとう使用しよう飛行ひこうだい244戦隊せんたいさんしき戦闘せんとう使用しよう)と、独立どくりつ飛行ひこうだい17中隊ちゅうたいいち〇〇しき司令しれい偵察ていさつ使用しよう)はだい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん指揮しきはいり、関東かんとう来襲らいしゅうするべい海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたい攻撃こうげき任務にんむにあたった。[55]

4がつ2にち未明みめい推定すいていやく50のB-29爆撃ばくげき相模湾さがみわん方面ほうめんから本土ほんど侵入しんにゅうし、中島なかじま飛行機ひこうき武蔵むさし工場こうじょうおよび立川たつかわ周辺しゅうへん攻撃こうげきした。だい10飛行ひこう師団しだん邀撃ようげきにおいて10以上いじょう撃墜げきつい報告ほうこくした[59]。4月4にち未明みめいには推定すいていやく90のB-29が京浜けいひん地区ちくてい高度こうど攻撃こうげきしたが、かく飛行場ひこうじょう濃霧のうむつつまれていたためにだい10飛行ひこう師団しだん出動しゅつどうできなかった[60]

4がつ7にち午前ごぜん、B-29爆撃ばくげき90のほかP-51戦闘せんとう30(どちらもすう日本にっぽんがわ推定すいてい)が東京とうきょう上空じょうくう来襲らいしゅうし、江東こうとう地区ちく攻撃こうげきした。B-29が戦闘せんとうともなって攻撃こうげきするのは、これがはじめてであった[61]前月ぜんげつ硫黄いおうとう奪取だっしゅしたべいぐん同島どうとう飛行場ひこうじょう整備せいびし、航続こうぞく距離きょりみじか戦闘せんとう基地きちとしたのである。

4がつ13にちよる推定すいていやく170のB-29爆撃ばくげき東京とうきょう北西ほくせい攻撃こうげきした。だい10飛行ひこう師団しだん高射こうしゃだい1師団しだんわせて撃墜げきつい38戦果せんか報告ほうこくした[62]。4月15にちよるやく200推定すいていされるB-29爆撃ばくげき単機たんきまたは少数しょうすう編隊へんたいちゅう高度こうど波状はじょうてき京浜けいひん地区ちく侵入しんにゅうし、大森おおもり蒲田かまた、および川崎かわさき方面ほうめん焼夷弾しょういだん攻撃こうげきした。てき高々たかだかでなかったためにだい10飛行ひこう師団しだん十分じゅうぶん活躍かつやくすることができ、高射こうしゃほう部隊ぶたいおよび海軍かいぐんわせた戦果せんかてき撃墜げきつい70撃破げきは50以上いじょうほうじられている[63]

航空こうくうそうぐん設立せつりつ[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ8にち本土ほんど防衛ぼうえい強化きょうかのため防衛ぼうえいそう司令しれいはい軍令ぐんれいりくかぶとだい60ごうにより北海道ほっかいどうのぞ東日本ひがしにっぽん防衛ぼうえい統轄とうかつするだい1そうぐん西日本にしにほん防衛ぼうえい統轄とうかつするだい2そうぐんと、軍令ぐんれいりくかぶとだい54ごうにより航空こうくう関係かんけい部隊ぶたい統轄とうかつする航空こうくうそうぐん創設そうせつされ、4がつ15にち午前ごぜん0って指揮しきけん発動はつどうされた[64][65]。これにともなってだい10飛行ひこう師団しだんだい6航空こうくうぐん隷下れいかだっ[* 23]ふたただい1航空こうくうぐん隷下れいかはいったが[* 24]本土ほんど主要しゅようおよび重要じゅうよう施設しせつ防衛ぼうえいかんしては、関東甲信越かんとうこうしんえつにおける空陸くうりく作戦さくせん統轄とうかつするだい12方面ほうめんぐん[* 25]指揮しきれられた[66]

10飛行ひこう師団しだん防空ぼうくう任務にんむかんしてはだい12方面ほうめんぐん指揮しきでありながら、本土ほんど決戦けっせんけつごう作戦さくせん準備じゅんびかんしては隷属れいぞくしているだい1航空こうくうぐん指揮しきけるというじゅう指揮しき系統けいとうである[67]どう師団しだんにはおおくの地上ちじょう部隊ぶたい隷下れいかあるいは指揮しきとなっていたが、改編かいへんにより一部いちぶだい1航空こうくうぐん直轄ちょっかつとなった。また飛行ひこうだい47戦隊せんたい飛行ひこうだい244戦隊せんたい独立どくりつ飛行ひこうだい17中隊ちゅうたいすんでじゅつのように3がつ下旬げじゅんよりだい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん指揮しきはいっていたが、今回こんかい改編かいへんだい10飛行ひこう師団しだん隷下れいかだっし、だい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん隷下れいか部隊ぶたいとなった[68]

べい陸軍りくぐん航空こうくうぐんP-51戦闘せんとう

4がつ19にち午前ごぜん推定すいていやく60のP-51戦闘せんとう関東かんとう地区ちく侵入しんにゅうした。P-51単独たんどくによる来襲らいしゅうはこれがはじめてで、日本にっぽんぐん電波でんぱ警戒けいかいでは低空ていくう飛来ひらいする小型こがた発見はっけん困難こんなんであった。だい10飛行ひこう師団しだんてき小型こがたたいする戦闘せんとうけるよう命令めいれいされていたが、来襲らいしゅうする機種きしゅ判明はんめいするまでに師団しだん戦力せんりょく一部いちぶ出動しゅつどうした。戦果せんか高射こうしゃだい1師団しだんによる撃墜げきつい1撃破げきは1のみがほうじられている[69]

5月24にち未明みめい駿河湾するがわんおよび相模さがみわん方面ほうめんから侵入しんにゅうした推定すいていやく250のB-29爆撃ばくげきは3がつ9にちよる東京とうきょうだい空襲くうしゅう同様どうように、ほとんどが単機たんき次々つぎつぎ東京とうきょう西部せいぶ侵入しんにゅうし、中高なかだかから焼夷弾しょういだんばくだん投下とうかした。そのよる強風きょうふうだい火災かさいとなり6まん4000以上いじょう全焼ぜんしょうしたと記録きろくされている。だい10飛行ひこう師団しだん高射こうしゃだい1師団しだんおよび海軍かいぐんわせ、撃墜げきついやく30戦果せんかほうじられた[70]べいぐんがわ記録きろくでは出撃しゅつげき562のうち502攻撃こうげき参加さんかし、損失そんしつは17損傷そんしょうは69高射こうしゃ砲火ほうか猛烈もうれつであったが戦闘せんとうおおきな脅威きょういではなかったとしている[71]よく25にちひるには硫黄いおうとう発進はっしんした推定すいていやく60のP-51戦闘せんとう関東かんとう地区ちく飛行場ひこうじょうあるいは工場こうじょう攻撃こうげきし、よるには推定すいていやく250のB-29爆撃ばくげきがまた東京とうきょう上空じょうくう侵入しんにゅうし、市街地しがいちのうちのこっていた地区ちくたい焼夷弾しょういだん攻撃こうげきおこなった。だい10飛行ひこう師団しだんふく日本にっぽん陸海りくかいぐん戦果せんか撃墜げきつい47(うち海軍かいぐんによるもの22)、撃破げきは20ほうじられた[72]べいぐん記録きろく損失そんしつ26損害そんがいが100である[71]おなまいぐん資料しりょうによれば、東京とうきょうはこれまでの焼夷弾しょういだん攻撃こうげきによりぜん市街しがいの50.8パーセントを焼失しょうしつし、以後いご焼夷弾しょういだん攻撃こうげき目標もくひょうから除外じょがいされている[71]

太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつまで[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)6がつ下旬げじゅん航空こうくうそうぐん司令しれい本土ほんど防空ぼうくう統一とういつ作戦さくせん計画けいかく、すなわちせいごう作戦さくせん策定さくていし7がつ1にち航空こうくうそう軍命ぐんめいれいとして示達じたつした[73]。 これによってだい10飛行ひこう師団しだんは7がつ10にち午前ごぜん0よりだい12方面ほうめんぐん指揮しきよりだっし、はら所属しょぞくであるだい1航空こうくうぐん復帰ふっきした[74][75]。ただしどう師団しだん隷下れいかだい32航空こうくう情報じょうほうたいおよびだい34独立どくりつ機関きかんほう中隊ちゅうたいだい12方面ほうめんぐん直接ちょくせつ指揮しきはい[74]おなじく師団しだん隷下れいかだい1対空たいくう無線むせんたいだい2対空たいくう無線むせんたいは7がつ11にち大陸たいりくいのちだい1360ごうしん編成へんせいされるだい4航空こうくう通信つうしんだん戦闘せんとう序列じょれつはいった[76]だい10飛行ひこう師団しだん指揮しきでB-29邀撃ようげき任務にんむについていた飛行ひこうだい28戦隊せんたい武装ぶそう使用しよう)は軍令ぐんれいりくかぶとだい103ごうによりだい28独立どくりつ飛行ひこうたいとなり[20]、7がつ25にち大陸たいりくいのちだい1366ごうによりだい10飛行ひこう師団しだん隷下れいかからのぞかれ、航空こうくうそうぐん直属ちょくぞく部隊ぶたいとして編入へんにゅうされた[76]

7がつはいり、関東かんとう地区ちくたいする空襲くうしゅうふたた激化げきかした。B-29爆撃ばくげき艦載かんさい、あるいは硫黄いおうとうから飛来ひらいするP-51戦闘せんとうなどが、関東かんとう中小ちゅうしょう都市とし工場こうじょう陸海りくかいぐん飛行場ひこうじょう、または軍事ぐんじ施設しせつ攻撃こうげきした。これにたいしてだい10飛行ひこう師団しだん邀撃ようげき出動しゅつどうしたが、戦果せんか不明ふめいである[74]。なお大都市だいとしたいする焼夷弾しょういだん攻撃こうげきは6がつ15にち終了しゅうりょうしていた[77]

このころだい10飛行ひこう師団しだん隷下れいか航空こうくう部隊ぶたい出動しゅつどう可能かのうすうつぎのとおりである[78]

  • 飛行ひこうだい18戦隊せんたいしき戦闘せんとうまたはさんしき戦闘せんとう使用しよう松戸まつど飛行場ひこうじょうやく25
  • 飛行ひこうだい23戦隊せんたいよんしき戦闘せんとうまたは一式いっしき戦闘せんとう使用しよう印旛いんば飛行場ひこうじょうやく20
  • 飛行ひこうだい53戦隊せんたいしきふく戦闘せんとう使用しよう藤ケ谷ふじがたに飛行場ひこうじょうやく34
  • 飛行ひこうだい70戦隊せんたい[* 26]よんしき戦闘せんとうまたはしき単座たんざ戦闘せんとう使用しよう松戸まつど飛行場ひこうじょうやく29

7がつ10日とおかべい海軍かいぐん空母くうぼ艦載かんさいやく1,200関東かんとう来襲らいしゅうしたがせいごう作戦さくせん計画けいかくするB-29爆撃ばくげき昼間ひるま攻撃こうげきはなかった[79]

8がつ1にちよる推定すいていやく280のB-29爆撃ばくげき関東かんとう地区ちく来襲らいしゅうし、水戸みと八王子はちおうじ立川たつかわなどを攻撃こうげきした。だい10飛行ひこう師団しだん高射こうしゃだい1師団しだんわせて撃墜げきつい11報告ほうこくした。東京とうきょう西部せいぶ侵入しんにゅうするてきたいしては、杉並すぎなみ久我山くがやま設置せっちされ7がつ中旬ちゅうじゅんより実戦じっせん参加さんかした最新さいしん高射こうしゃほう有効ゆうこうであった[80]。これ以降いこうべいぐん太平洋たいへいようじょう海軍かいぐん機動きどう部隊ぶたいから発進はっしんした艦載かんさい多数たすうによって本土ほんど連日れんじつ攻撃こうげきした[81]だい10飛行ひこう師団しだん本土ほんど上空じょうくうてき邀撃ようげきする防空ぼうくう任務にんむ中心ちゅうしんであったが、敵艦てきかんへの体当たいあたりをする特別とくべつ攻撃こうげきたい編成へんせいされ「だい291かみわしたい」は銚子ちょうしおきべい機動きどう部隊ぶたいたいし8がつ13にち攻撃こうげきおこなった[82]

8がつ6にち広島ひろしま原子げんしばくだん投下とうかされ、8がつ9にちには長崎ながさきに2はつ原子げんしばくだん投下とうかされた。また9にち午前ごぜん0よりソビエト連邦れんぽう共産党きょうさんとうぐん満州まんしゅう侵攻しんこう開始かいしし、大本営だいほんえいはこれをけて大陸たいりくいのちだい1376ごうだい1そうぐんだい2そうぐん、および航空こうくうそうぐん司令しれいかんに「げん任務にんむ続行ぞっこうスヘシ」と命令めいれいしている[83][84]。8月14にち午後ごご6陸軍りくぐん大臣だいじんならびに参謀さんぼう総長そうちょうより「帝国ていこく戦争せんそう終結しゅうけつせきスルけん」(りく機密きみつでんだい60ごう)が発電はつでんされ、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくする詔書しょうしょ発布はっぷと、翌日よくじつ正午しょうごから天皇てんのうによるラジオ放送ほうそうおこなわれることがかくそうぐん司令しれいつたえられた。同日どうじつ航空こうくうそうぐん司令しれい参謀さんぼう次長じちょうから今後こんご積極せっきょく作戦さくせん一切いっさい中止ちゅうしとする指示しじけていた[85]。8月の関東かんとうへの空襲くうしゅうは14にちまでにB-29爆撃ばくげきによるものが2かい艦載かんさいによるものが13かいであった[86]

8がつ15にち正午しょうごより終戦しゅうせんかんする玉音ぎょくおん放送ほうそうおこなわれた。同日どうじつ大本営だいほんえい大陸たいりくいのちだい1381ごうによってかくそうぐん司令しれいかんらにたいし「かくぐんべつ命令めいれいスルまでかくげん任務にんむ遂行すいこうスヘシ ただし積極せっきょく侵攻しんこう作戦さくせん中止ちゅうしスヘシ」と命令めいれいしたが[85][84]、これ以降いこうべいぐんによる本土ほんど空襲くうしゅうおこなわれなかった[85]よく16にち大本営だいほんえいかくそうぐん司令しれいかんらにたいし「即時そくじ戦闘せんとう行動こうどう停止ていしスヘシ」との命令めいれい大陸たいりくいのちだい1382ごう)をはっ[87][84]、8がつ18にち、「あずかヘタル作戦さくせん任務にんむかいク」「どう時期じき以降いこう一切いっさい武力ぶりょく行使こうし停止ていしスヘシ」と命令めいれい大陸たいりくいのちだい1385ごう)した[86][84]

9月2にち航空こうくうそうぐん大陸たいりくいのちとくだい1ごうにより武装ぶそう解除かいじょめいじられ[88]、9月17にち午前ごぜん0をもって大陸たいりくいのちとくだい3ごうにより戦闘せんとう序列じょれつ解除かいじょした[88]だい10飛行ひこう師団しだん司令しれい隷下れいか部隊ぶたいは8がつ18にち発令はつれいされていた帝国ていこく陸軍りくぐん復員ふくいん要領ようりょう軍令ぐんれいりくかぶとだい116ごう)と、8がつ25にち復員ふくいんみことのりさとししたがって逐次ちくじ復員ふくいんおこな[89][90]、10月29にちまでに師団しだん司令しれいに22めいなど一部いちぶ残置ざんちしゃのこすのみとなった[91]

師団しだん構成こうせい[編集へんしゅう]

歴代れきだい団長だんちょう[編集へんしゅう]

歴代れきだい参謀さんぼうちょう[編集へんしゅう]

  • 岡本おかもと修一しゅういち 大佐たいさ:1944ねん3がつ9にち[13] - 1945ねん2がつ20日はつか[96][97]
  • 笹尾ささおひろし 中佐ちゅうさ:1945ねん2がつ20日はつか[96] - 終戦しゅうせん[98]

編成へんせい司令しれい職員しょくいん[編集へんしゅう]

  • 参謀さんぼうちょう岡本おかもと修一しゅういち 大佐たいさ
    • 参謀さんぼう作戦さくせん):神崎かんざききよし中佐ちゅうさ
    • 参謀さんぼう情報じょうほう):松村まつむら静馬しずま中佐ちゅうさ
    • 参謀さんぼう後方こうほう):山本やまもと茂男しげお少佐しょうさ
  • 師団しだん副官ふっかん吉田よしだよし倶少[13]

終戦しゅうせん司令しれい職員しょくいん[編集へんしゅう]

  • 参謀さんぼうちょう笹尾ささおひろし大佐たいさ
    • 参謀さんぼう山本やまもと茂男しげお少佐しょうさ
    • 参謀さんぼうつがはく少佐しょうさ
    • 参謀さんぼう岩下いわした徳治とくじ少佐しょうさ
  • 師団しだん副官ふっかん吉田よしだよし倶少
  • 兵器へいき部長ぶちょう石原いしはら政雄まさお中佐ちゅうさ
  • 経理けいり部長ぶちょう松崎まつざきたかし主計しゅけい大佐たいさ 
  • 軍医ぐんい部長ぶちょう園田そのだ太郎たろう軍医ぐんい大佐たいさ 

終戦しゅうせん隷下れいか部隊ぶたい[編集へんしゅう]

航空こうくう部隊ぶたい
  • 飛行ひこうだい18戦隊せんたいしき戦闘せんとう使用しようかしわ飛行場ひこうじょう戦隊せんたいちょう黒田くろだ武文たけふみ少佐しょうさ  通称つうしょうごう天翔あまがけ19190部隊ぶたい
  • 飛行ひこうだい23戦隊せんたいよんしき戦闘せんとう使用しよう印旛いんば飛行場ひこうじょう戦隊せんたいちょう谷口たにぐち正義まさよし少佐しょうさ 通称つうしょうごう天翔あまがけ19026部隊ぶたい
  • 飛行ひこうだい53戦隊せんたいしきふく戦闘せんとう使用しよう松戸まつど飛行場ひこうじょう戦隊せんたいちょう児玉こだま正人まさと少佐しょうさ 通称つうしょうごう天翔あまがけ18426部隊ぶたい
  • 飛行ひこうだい70戦隊せんたいよんしき戦闘せんとう使用しようかしわ飛行場ひこうじょう戦隊せんたいちょう坂戸さかど篤行とっこう少佐しょうさ 通称つうしょうごう天翔あまがけ8370部隊ぶたい
地上ちじょう部隊ぶたい
  • だい46航空こうくう地区ちく司令しれい茨城いばらきけん下館しもだて飛行場ひこうじょう司令しれいかん杉本すぎもと健次郎けんじろう大佐たいさ
  • だい3飛行場ひこうじょう大隊だいたい千葉ちばけんかしわ飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょうつつみ袈裟けさ少佐しょうさ    
  • だい6飛行場ひこうじょう大隊だいたい千葉ちばけん松戸まつど飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょう小林こばやし勝由かつよし少佐しょうさ    
  • だい7飛行場ひこうじょう大隊だいたい千葉ちばけん印旛いんば飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょう沼沢ぬまさわひろ大尉たいい    
  • だい43飛行場ひこうじょう大隊だいたい東京とうきょう成増なります飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょう石塚いしづか勇一郎ゆういちろう少佐しょうさ
  • だい116飛行場ひこうじょう大隊だいたい千葉ちばけん藤ケ谷ふじがたに飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょう伊藤いとうさとし少佐しょうさ
  • だい140飛行場ひこうじょう大隊だいたい千葉ちばけん八街やまち飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょうひろ兼久かねくいち少佐しょうさ   
  • だい141飛行場ひこうじょう大隊だいたい埼玉さいたまけん越谷こしがや飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょう野上のかみただし大尉たいい
  • だい244飛行場ひこうじょう大隊だいたい東京とうきょう調布ちょうふ飛行場ひこうじょう大隊だいたいちょう原田はらだ竹太郎たけたろう大尉たいい
  • だい65飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい[99][91]埼玉さいたまけん所沢ところざわ飛行場ひこうじょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 軍令ぐんれいめいは「だい十飛行師団司令部等航空部隊一部ノ臨時りんじ編成へんせいだいひゃくろくじゅうろく復帰ふっき要領ようりょう」である(原文げんぶんきゅう字体じたい)。
  2. ^ 大陸たいりくいのち(だいりくめい)とは大本営だいほんえい陸軍りくぐん命令めいれいのこと。形式けいしきじょうは「奉勅ほうちょくでんせん」として天皇てんのう命令めいれいし、それを参謀さんぼう総長そうちょうつたえるということになっていた。
  3. ^ 隷下れいか(れいか)とは編制へんせい隷属れいぞく関係かんけいにあり、上級じょうきゅう司令しれいかんから指揮しきだけでなく統御とうぎょ経理けいり衛生えいせいなど全般ぜんぱん監督かんとくけること。指揮しき(しきか)とは編制へんせいじょう隷属れいぞく関係かんけいがなく、作戦さくせん遂行すいこうとうのため指揮しきのみをけること。
  4. ^ 東部とうぶぐんじききょう飛行ひこうたいは1944ねん10がつ大陸たいりくいのちだい1152ごうによりだい8飛行ひこう師団しだん編入へんにゅうされた。「大陸たいりくいのちつづりだい東亜とうあ戦争せんそうまき17 あきら19.10.14~19.12.06(だい1151~1200ごう)(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C14060911800 
  5. ^ 陸軍りくぐんでは教育きょういく担当たんとうする将校しょうこう教官きょうかんじゅん士官しかん下士官かしかんじょきょうとしていた。
  6. ^ 飛行ひこう団長だんちょうは1942ねん4がつ制定せいてい飛行ひこう師団しだん司令しれいれい軍令ぐんれいりくだい5ごうだい1じょうによって陸軍りくぐん中将ちゅうじょうをもってしんされるしょくさだめられているため、少将しょうしょう場合ばあい師団しだんちょう心得こころえとなる。 軍令ぐんれいりくだい5ごう官報かんぽうだい4577ごう、1942ねん4がつ15にち
  7. ^ 参考さんこう文献ぶんけん表現ひょうげんにしたがった。邀撃ようげき(ようげき)とは、むかえうつこと。迎撃げいげき。『広辞苑こうじえんだいさんはん
  8. ^ しきふく戦闘せんとう使用しようする飛行ひこうだい53戦隊せんたい上田うえだ秀夫ひでお少佐しょうさが、12月2にちづけ飛行ひこうだい28せん隊長たいちょうせられた。「陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 6/6 あきら19ねん11月1にち~19ねん12月3にち(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120927200 
  9. ^ たい航空機こうくうき特攻とっこうてき体当たいあたりパラシュート降下こうか生還せいかんする可能かのうせいが、わずかながら期待きたいできた。
  10. ^ 軍令ぐんれいめいは「だいろく航空こうくうぐん司令しれい臨時りんじ編成へんせいだいさんひゃくじゅうさん復帰ふっき要領ようりょう」である(原文げんぶんきゅう字体じたい)。
  11. ^ べいぐんがわ資料しりょうでは出撃しゅつげきすうは72。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』455ぺーじ
  12. ^ べいぐん資料しりょうでは帰還きかんは6。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』455ぺーじ
  13. ^ べいぐん記録きろくでは出撃しゅつげきすうは118、うち中島なかじま飛行機ひこうき工場こうじょう爆撃ばくげきできたのは84。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』456ぺーじ
  14. ^ ほかに独立どくりつ高射こうしゃほうだい4大隊だいたいによる撃墜げきつい3撃破げきは11報告ほうこくされている。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』443ぺーじ
  15. ^ べいぐんがわ資料しりょうではB-29の帰還きかん12被弾ひだん29。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』456ぺーじ
  16. ^ 1945ねん当時とうじ成増なります飛行場ひこうじょうがあった地域ちいきは1947ねん練馬ねりまとして分割ぶんかつされた。
  17. ^ 同日どうじつ防空ぼうくう戦闘せんとう高射こうしゃだい1師団しだんかく飛行場ひこうじょう周辺しゅうへん高射こうしゃほう高射こうしゃ機関きかんほうにより撃墜げきつい19撃破げきは17戦果せんか報告ほうこくしている。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』478ぺーじ
  18. ^ 下志津しもしづ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうが1944ねん6がつ改編かいへんされて下志津しもしづ教導きょうどう飛行ひこう師団しだんの「東二ひがしにごう部隊ぶたい」となっていた。
  19. ^ これにくわえて高射こうしゃだい1師団しだん撃墜げきつい14撃破げきは26戦果せんか報告ほうこくしている。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』480ぺーじ
  20. ^ 2がつ20にちづけ岡本おかもと修一しゅういち大佐たいさだい53航空こうくう師団しだん参謀さんぼうちょう転出てんしゅつし、だい12方面ほうめんぐん参謀さんぼう笹尾ささおひろし中佐ちゅうさだい10飛行ひこう師団しだん参謀さんぼうちょう補職ほしょくされた。「陸軍りくぐん異動いどう通報つうほう 昭和しょうわ19ねん12月26にち~20ねん11月22にち(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12120951600 
  21. ^ おや(しんぽ)とはおや任官にんかん陸軍りくぐんでは大将たいしょうのみ)ではないが、おや任官にんかんおな待遇たいぐうをうけるしょくにつくものおやしきによって天皇てんのうみずからすること。飛行ひこう団長だんちょう中将ちゅうじょうをもってしんされる。それまでの吉田よしだ喜八郎きはちろう少将しょうしょう飛行ひこう団長だんちょう心得こころえであったためおやではない。
  22. ^ べいぐん記録きろくではぜん離陸りりく完了かんりょうまでに2あいだ45ふんようするだい規模きぼ出撃しゅつげきであった。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』494-495ぺーじ
  23. ^ だい6航空こうくうぐん沖縄おきなわ方面ほうめん防衛ぼうえいのため3がつ28にちより海軍かいぐん連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん指揮しきにあった。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』510ぺーじ
  24. ^ だい1航空こうくうぐんだい6航空こうくうぐんともに編制へんせいじょう航空こうくうそうぐん司令しれいかん隷属れいぞくする。『本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせん』517ぺーじ
  25. ^ だい12方面ほうめんぐんだい1そうぐん隷下れいかである。
  26. ^ 飛行ひこうだい70戦隊せんたいだい8飛行ひこう師団しだん隷下れいか部隊ぶたいであったが、満州まんしゅう派遣はけんから帰還きかんおそくとも1945ねん4がつまでにだい10飛行ひこう師団しだん編入へんにゅうされている。「内地ないちかくぐん戦闘せんとう序列じょれつ あきら20.04(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C14110543700 

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ本土ほんど防空ぼうくう作戦さくせんあさくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1968ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ本土ほんど決戦けっせん準備じゅんび<1>関東かんとう防衛ぼうえいちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1971ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ大本営だいほんえい陸軍りくぐん<8>昭和しょうわじゅうきゅうねんなながつまで』ちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1974ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ大本営だいほんえい陸軍りくぐん<10>昭和しょうわじゅうねんはちがつまで』ちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1975ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう<3>だい東亜とうあ戦争せんそう終戦しゅうせんまで』ちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1976ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ陸軍りくぐんぐん戦備せんびちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1979ねん
  • 柳澤やなぎさわじゅん日本にっぽん陸軍りくぐん本土ほんど防空ぼうくうたいするかんがえとその防空ぼうくう作戦さくせん結末けつまつ」『戦史せんし研究けんきゅう年報ねんぽうだい11ごう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ、2008ねん
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう師団しだん戦史せんし』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 戦記せんきシリーズNo.32〉、1996ねん
  • 木俣きまたしげるろう陸軍りくぐん航空こうくうたいぜん朝日あさひソノラマ〈航空こうくう戦史せんしシリーズ90〉、1987ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]