だい56師団しだん (日本にっぽんぐん)

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だい56師団しだん
創設そうせつ 1940ねん昭和しょうわ15ねん7がつ10日とおか
廃止はいし 1945ねん昭和しょうわ20ねん
所属しょぞく政体せいたい 大日本帝国だいにっぽんていこく
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 師団しだん
兵種へいしゅ/任務にんむ/特性とくせい 歩兵ほへい
所在地しょざいち 久留くるよね-ビルマ
編成へんせい 久留くるよね
通称つうしょうごう/略称りゃくしょう りゅう(たつ)
補充ほじゅう担任たんにん 久留くるべい管区かんく
最終さいしゅう上級じょうきゅう単位たんい だい15ぐん
最終さいしゅう位置いち ビルマ南部なんぶ
おも戦歴せんれき 太平洋戦争たいへいようせんそう
(ビルマのたたか)
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だい56師団しだん(だいごじゅうろくしだん)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん師団しだんひとつ。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつから常設じょうせつ師団しだんのうちの8師団しだん満州まんしゅう永久えいきゅう駐屯ちゅうとんすることになり、代替だいたい常設じょうせつ師団しだんとして留守るす師団しだん基幹きかんにした師団しだん新設しんせつすすめられることになった[1]

そのひとつであるだい56師団しだん留守るすだい12師団しだん母体ぼたい久留くるよね編成へんせいされ、福岡ふくおか佐賀さが長崎ながさきさんけん徴兵ちょうへいとしていた。なお、その管轄かんかつ区域くいきは1941ねんから久留くるべい管区かんく改称かいしょうされ、1945ねん昭和しょうわ20ねん)には、補充ほじゅう任務にんむとう管轄かんかつ区域くいき軍政ぐんせい担当たんとうする留守るす師団しだん司令しれい独立どくりつ久留米くるめ管区かんく司令しれいとなった。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

師団しだん編成へんせい当初とうしょ久留米くるめ西部せいぶぐんぞくしていたが、師団しだん主力しゅりょく太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんともない1941ねん11月に動員どういんされ、だい25ぐん編入へんにゅうマレー作戦さくせん担当たんとうする予定よていであったがどう作戦さくせん早期そうき達成たっせいにより、1942ねん昭和しょうわ17ねん)3がつだい15ぐんぞくビルマのたたか従軍じゅうぐん侵攻しんこう作戦さくせんとビルマルート(援蒋ルート遮断しゃだん成功せいこうした。

1942ねん5がつからビルマ北東ほくとう中国ちゅうごく雲南うんなんしょうとの国境こっきょう警備けいび担当たんとう歩兵ほへいだい113連隊れんたい主力しゅりょくひしげはじめに、どう連隊れんたいだい3大隊だいたいりゅうりょうに、歩兵ほへいだい148連隊れんたいあがえつ配置はいちした。1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつから中国ちゅうごくぐん雲南うんなん遠征えんせいぐん攻撃こうげきはじめた。4月しがつきたビルマ防衛ぼうえいのためにだい33ぐん設立せつりつされその隷下れいかとなった。6がつ初旬しょじゅんからひしげはじめあがえつたたかはじまるも敗退はいたいし、同年どうねん10がつから中国ちゅうごくぐんそう攻撃こうげきけビルマを南下なんかし、さらにタイ領内りょうない移動いどうすすめるなか終戦しゅうせんむかえた。

坂口さかぐち支隊したい[編集へんしゅう]

1941ねん10がつ歩兵ほへいだい146連隊れんたい野砲やほうへいだい56連隊れんたいだい1大隊だいたい基幹きかん坂口さかぐち静夫しずお少将しょうしょうちょうとする坂口さかぐち支隊したい混成こんせいだい56歩兵ほへいだん)が編成へんせいされた。同年どうねん12がつ支隊したいフィリピンミンダナオ島みんだなおとうダバオ上陸じょうりく邦人ほうじん保護ほご担当たんとうしたのちだい16ぐん編入へんにゅうされらんしるし作戦さくせん従軍じゅうぐんボルネオとう攻略こうりゃく担当たんとうし、さらにだい48師団しだんともジャワ島じゃわとうのクラガンに上陸じょうりくし、400キロを踏破とうはしてジャワ島じゃわとう南岸なんがん重要じゅうよう港湾こうわんチラチャップを攻略こうりゃくした。その、1942ねん4がつだい56師団しだん復帰ふっきした。

師団しだん概要がいよう[編集へんしゅう]

歴代れきだい団長だんちょう[編集へんしゅう]

参謀さんぼうちょう[編集へんしゅう]

  • 永野ながのくさむらじん 砲兵ほうへい大佐たいさ:1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ1にち[4] - 1941ねん11月22にち
  • 藤原ふじわらたけし 大佐たいさ:1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月22にち - 1942ねん6がつ1にち[5]
  • 黒川くろかわくに 大佐たいさ:1942ねん昭和しょうわ17ねん)6がつ1にち - 1943ねん6がつ28にち戦死せんし[6]
  • 川道かわみち富士雄ふじお 中佐ちゅうさ:1943ねん昭和しょうわ18ねん)7がつ1にち - 終戦しゅうせん[7]

最終さいしゅう所属しょぞく部隊ぶたい[編集へんしゅう]

  • 歩兵ほへいだい113連隊れんたい福岡ふくおか):大須賀おおすがみのる大佐たいさ
  • 歩兵ほへいだい146連隊れんたい大村おおむら):今岡いまおか宗四郎そうしろう大佐たいさ
  • 歩兵ほへいだい148連隊れんたい久留米くるめ):相原あいはらかしここれ輔大
  • 捜索そうさくだい56連隊れんたい福岡ふくおか):柳川やながわ明大めいだい
  • 野砲やほうへいだい56連隊れんたい久留米くるめ):山崎やまざき周一郎しゅういちろう大佐たいさ
  • 工兵こうへいだい56連隊れんたい久留米くるめ):山口やまぐち稔夫としお少佐しょうさ
  • 輜重しちょうへいだい56連隊れんたい久留米くるめ):池田いけだ耕一こういち大佐たいさ
  • だい56師団しだん通信つうしんたい大石おおいし良市りょういち少佐しょうさ
  • だい56師団しだん兵器へいき勤務きんむたい森友もりとも大尉たいい
  • だい56師団しだん衛生えいせいたい原田はらだ万太郎まんたろう少佐しょうさ
  • だい56師団しだんだい1野戦やせん病院びょういん五十川いそがわ秀夫ひでお少佐しょうさ
  • だい56師団しだんだい2野戦やせん病院びょういん三浦みうらゆたか少佐しょうさ
  • だい56師団しだんだい4野戦やせん病院びょういん長崎ながさき義雄よしお少佐しょうさ
  • だい56師団しだんびょううましょう馬場ばば静雄しずお大尉たいい
  • だい56師団しだん防疫ぼうえき給水きゅうすい村勢そんせいおっと少佐しょうさ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ まず、1940ねん昭和しょうわ15ねん7がつ10日とおかに6師団しだんだい51師団しだんだい52師団しだんだい54師団しだんだい55師団しだんだい56師団しだんだい57師団しだん)が編成へんせいされ、その翌年よくねん1941ねん昭和しょうわ16ねん9月16にちだい53師団しだん編成へんせいされた。なお、だい1師団しだんぶんについては代替だいたい師団しだん編成へんせいされなかった。
  2. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』263ぺーじ
  3. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』279ぺーじ
  4. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』582ぺーじ
  5. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』435ぺーじ
  6. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』443ぺーじ
  7. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』468ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 浅野あさの豊美とよみきたビルマ・雲南うんなん作戦さくせんにちちゅう戦争せんそう波多野はたの澄雄すみお戸部とべ良一りょういちへんにちちゅう戦争せんそう国際こくさい共同きょうどう研究けんきゅう 2 にちちゅう戦争せんそう軍事ぐんじてき展開てんかい慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい、2006ねん
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん
  • 別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 戦記せんきシリーズNo.32 太平洋戦争たいへいようせんそう師団しだん戦史せんし』、新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1996ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

だいいちかんの『痛快つうかい戦争せんそう体験たいけん』はほん師団しだん所属しょぞくしていたいち士官しかん回想かいそうもとになっている。
  • 火野ひの葦平あしへい - 従軍じゅうぐん記者きしゃとして雲南うんなん戦線せんせんたたかだい56師団しだん訪問ほうもんした。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]