(Translated by https://www.hiragana.jp/)
第1挺進集団 - Wikipedia コンテンツにスキップ

だい1挺進ていしん集団しゅうだん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
だい1挺進ていしん集団しゅうだん
創設そうせつ 1944ねん昭和しょうわ19ねん)11月30にち
廃止はいし 1945ねん昭和しょうわ20ねん
所属しょぞく政体せいたい 日本の旗 日本にっぽん
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 集団しゅうだん師団しだん相当そうとう
兵種へいしゅ/任務にんむ 挺進ていしんへい
人員じんいん
所在地しょざいち 宮崎みやざきけん-フィリピン
編成へんせい 川南かわみなみむら
通称つうしょうごう/略称りゃくしょう (らん)
最終さいしゅう上級じょうきゅう単位たんい だい14方面ほうめんぐん
最終さいしゅう位置いち フィリピン ルソン島るそんとう
戦歴せんれき 太平洋戦争たいへいようせんそうルソン島るそんとうたたか
テンプレートを表示ひょうじ

だい1挺進ていしん集団しゅうだん(だいいちていしんしゅうだん、だいいち挺進ていしん集団しゅうだん)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん空挺くうてい部隊ぶたい挺進ていしん集団しゅうだん既存きそん挺進ていしんだん挺進ていしん連隊れんたい滑空かっくう歩兵ほへい連隊れんたい)などを掌握しょうあくする師団しだんじゅんずる部隊ぶたいであり、きゅう日本にっぽんぐん空挺くうてい部隊ぶたいとしては最大さいだいであった。集団しゅうだんとしてまとまって運用うんようされる機会きかいく、分割ぶんかつされてフィリピンのたたかなどに参加さんかした。

帝国ていこく陸軍りくぐんにおける挺進ていしん集団しゅうだんだい1挺進ていしん集団しゅうだん)の軍隊ぐんたい符号ふごうRD(1RD)、通称つうしょうごう兵団へいだん文字もじ)は(らん)。

沿革えんかく

[編集へんしゅう]
空挺くうてい部隊ぶたいが、パレンバンのたたかいの最中さいちゅうにオランダりょうひがしインドのスマトラ島すまとらとうのパレンバンにった(1942ねん2がつ13-15にち

誕生たんじょうまで

[編集へんしゅう]

空挺くうてい部隊ぶたい研究けんきゅう着手ちゃくしゅした日本にっぽん陸軍りくぐんは、1940ねん昭和しょうわ15ねんまつ浜松はままつ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう練習れんしゅう設置せっちし、よく1941ねん昭和しょうわ16ねん)に満州まんしゅう白城しらき陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうへと移転いてんした。さらに同年どうねん10がつには陸軍りくぐん航空こうくう総監そうかん隷属れいぞく陸軍りくぐん挺進ていしん練習れんしゅうとなり、宮崎みやざきけん新田にったげんうつった[1]以後いご、この陸軍りくぐん挺進ていしん練習れんしゅうが、日本にっぽん陸軍りくぐん空挺くうてい部隊ぶたい研究けんきゅう養成ようせい中心ちゅうしんとなった。

太平洋戦争たいへいようせんそう序盤じょばん南方みなかた作戦さくせんけては、実戦じっせん部隊ぶたいとして2挺進ていしん連隊れんたい挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたい輸送ゆそうたい)からだい1挺進ていしんだん編成へんせいされた[2]。これは一般いっぱん日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいにおける飛行ひこうだん相当そうとうする旅団りょだん規模きぼ部隊ぶたいで、団長だんちょうには挺進ていしん練習れんしゅう部長ぶちょうだった久米くめ精一せいいち大佐たいさ着任ちゃくにんした。他国たこく空挺くうてい部隊ぶたい比較ひかくすると、陸戦りくせん要員よういんだけでなく輸送ゆそう部隊ぶたいまでもふくめた編制へんせいとなっているのが特色とくしょくである。どう部隊ぶたいパレンバン降下こうか作戦さくせん実施じっしした。

南方みなかた作戦さくせん終了しゅうりょうの1942ねん6がつだい1挺進ていしんだん日本にっぽん本土ほんど帰還きかんして復帰ふっきし、隷下れいか部隊ぶたい挺進ていしん練習れんしゅうしたあつまった。よく1943ねん昭和しょうわ18ねん)にふたただい1挺進ていしんだん動員どういんされてニューギニア戦線せんせんへとかったが、実際じっさい作戦さくせん投入とうにゅうはされずに1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつ本土ほんど帰還きかんした。

このあいだ日本にっぽん陸軍りくぐんは、グライダー空挺くうてい部隊ぶたい編成へんせいなど空挺くうてい部隊ぶたい拡充かくじゅうすすめ、その一環いっかんとして飛行ひこう師団しだんきゅう部隊ぶたい創設そうせつ検討けんとうされはじめた。しかし、2師団しだん創設そうせつあんたが実現じつげんしないまま、1944ねん10がつ連合れんごう国軍こくぐんフィリピン反攻はんこうむかえ、11月初旬しょじゅんにとりあえず旅団りょだんきゅうだい2挺進ていしんだんあらたに動員どういんされた。その同月どうげつ11がつまつ挺進ていしん練習れんしゅう廃止はいししてだい1挺進ていしん集団しゅうだん編成へんせいされ、日本にっぽん陸軍りくぐんはじめてにして唯一ゆいいつ師団しだん規模きぼ空挺くうてい部隊ぶたい誕生たんじょうすることになった。集団しゅうだん司令しれいは11月26にち編成へんせいれいされ、同月どうげつ30にち編成へんせい完結かんけつした。だい1挺進ていしん集団しゅうだん隷下れいかには、2挺進ていしんだんをはじめ、輸送ゆそう部隊ぶたいである挺進ていしん飛行ひこうだんなどすべての陸軍りくぐん空挺くうてい部隊ぶたいおさまる建前たてまえとされた。集団しゅうだんちょうには挺進ていしん練習れんしゅう部長ぶちょう塚田つかださとしさとし少将しょうしょうがそのまま着任ちゃくにんした[3]

戦闘せんとう

[編集へんしゅう]

編成へんせいだい1挺進ていしん集団しゅうだんはさっそくルソン島るそんとう防衛ぼうえいおくられることになった。ただし、本来ほんらい隷下れいか部隊ぶたいのうち、さき動員どういんされていただい2挺進ていしんだんはすでにフィリピン方面ほうめん進出しんしゅつして、だい4航空こうくうぐん隷下れいか活動かつどうちゅうだった(挺進ていしん連隊れんたい#高千穂たかちほ空挺くうていたい参照さんしょう)。また、だい1挺進ていしんだん予備よび空挺くうてい兵力へいりょくとして本土ほんど残置ざんちされ、だい1挺進ていしん戦車せんしゃたい海上かいじょう輸送ゆそうりょく不足ふそくのため同様どうよう残置ざんちされた。制空権せいくうけんくフィリピンでの空挺くうてい作戦さくせん困難こんなんとの判断はんだんから、だい1滑空かっくう飛行ひこう戦隊せんたいだい1挺進ていしん整備せいびたい残置ざんちされた。そのため、挺進ていしん集団しゅうだんといっても実質じっしつ滑空かっくう歩兵ほへい連隊れんたい2直属ちょくぞくとく部隊ぶたい一部いちぶだけとなった。

さらに進出しんしゅつまった挺進ていしん集団しゅうだんやく半数はんすう滑空かっくう歩兵ほへいだい1連隊れんたい主力しゅりょく挺進ていしん通信つうしんたい挺進ていしん工兵こうへいたいかく1個いっこ中隊ちゅうたい挺進ていしん集団しゅうだん司令しれい挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたいかく一部いちぶだい103飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい)は、輸送ゆそうせんわりに乗船じょうせんした空母くうぼ雲龍うんりゅう」が12月19にち撃沈げきちんされ、ほぼ全滅ぜんめつした[4]挺進ていしん飛行ひこうだん司令しれいも、海上かいじょう輸送ゆそう途中とちゅうの12月7にち輸送ゆそうせん撃沈げきちんされて全滅ぜんめつし、再建さいけん必要ひつようとなった。

挺進ていしん集団しゅうだん司令しれいは、連合れんごう国軍こくぐん上陸じょうりく1週間しゅうかんまえの12月29にちルソン島るそんとうサンフェルナンド上陸じょうりくした。クラーク地区ちく飛行場ひこうじょうぐん守備しゅびについたが、掌握しょうあくした兵力へいりょく滑空かっくう歩兵ほへいだい2連隊れんたいのほか、挺進ていしん機関きかんほうたい挺進ていしん通信つうしんたい主力しゅりょくだけにやせほそった。そのだい1挺進ていしん集団しゅうだん基幹きかんとしてクラーク地区ちく防衛ぼうえい担当たんとうの「たてたけし集団しゅうだん」の戦闘せんとう序列じょれつ発令はつれいされ、塚田つかだ少将しょうしょうたてたけし集団しゅうだんちょうとなった。多数たすう部隊ぶたい指揮しきれられてそう兵力へいりょく3まんにんふくがったが、大半たいはん陸海りくかいぐん航空こうくう部隊ぶたいで、本格ほんかくてき地上ちじょう戦闘せんとう部隊ぶたい滑空かっくう歩兵ほへいだい2連隊れんたいのほかには機動きどう歩兵ほへいだい2連隊れんたい1個いっこ大隊だいたいかけ)をかぞえる程度ていどであった。よく1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ下旬げじゅんクラーク地区ちくたたかとなり、壊滅かいめつてき打撃だげきけた。ピナツボさんふもと後退こうたいしたが、次第しだいたてたけし集団しゅうだん解体かいたい状態じょうたいとなり、終戦しゅうせんには挺進ていしん集団しゅうだん生存せいぞんしゃやく100めいだけが塚田つかだ集団しゅうだんちょうしたのこっていた[5]

だい1挺進ていしん工兵こうへいたい主力しゅりょく挺進ていしんだい1連隊れんたい作業さぎょう中隊ちゅうたいルソン島るそんとうまでは進出しんしゅつしたものの、輸送ゆそう手段しゅだん不足ふそくのためクラーク地区ちく移動いどうできず、だい14方面ほうめんぐん直轄ちょっかつとされてバギオ地区ちく道路どうろ構築こうちくゲリラ掃討そうとうになった。その独立どくりつ混成こんせいだい58旅団りょだん配属はいぞくされて戦闘せんとうした。終戦しゅうせん残存ざんそん人員じんいんやく40にんであった。

このほか、ルソン島るそんとうにはレイテ作戦さくせん参加さんかのためべつどうしていただい2挺進ていしんだん残置ざんち人員じんいんやく500めいだい1挺進ていしん飛行ひこうだん飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい120めい展開てんかいしていたが、挺進ていしん集団しゅうだん司令しれい指揮しきにはもどらなかった。だい4航空こうくうぐんルソン島るそんとう北部ほくぶエチアゲへの転進てんしん護衛ごえいしたのち今度こんどだい4飛行ひこう師団しだん指揮しきとなり、所在しょざい飛行場ひこうじょう大隊だいたい警備けいび中隊ちゅうたいなどを指揮しきれて「高千穂たかちほ部隊ぶたい」(本部ほんぶと8中隊ちゅうたい)を編成へんせいした[6]だい10師団しだん配属はいぞくされてバレテとうげ戦闘せんとう参加さんかし、終戦しゅうせん残存ざんそん人員じんいんだい2挺進ていしんだん隷下れいか部隊ぶたいやく80めい飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたいやく20めいだった。

本土ほんど残置ざんちされただい1挺進ていしんだん航空こうくうそうぐん直属ちょくぞくとなり、一部いちぶ沖縄おきなわせん義烈ぎれつ空挺くうていたいとして特攻とっこうてきコマンド作戦さくせん使用しようされたほか、マリアナ諸島しょとう沖縄おきなわたいする同様どうよう作戦さくせん本土ほんど決戦けっせん準備じゅんびのために主力しゅりょく宮崎みやざきけんから瀬原せばら基地きち一部いちぶ北海道ほっかいどう千歳ちとせ飛行場ひこうじょう千葉ちばけん横芝よこしば待機たいきちゅう終戦しゅうせんむかえた。だい1挺進ていしん戦車せんしゃたい人員じんいん一部いちぶ沖縄おきなわせんでの使用しようのため準備じゅんびちゅう主力しゅりょくだい57ぐん隷下れいかはいり、都城みやこのじょう付近ふきんてき空挺くうてい部隊ぶたい迎撃げいげきようとして待機たいきしていた。挺進ていしん飛行ひこうだんは、滑空かっくう飛行ひこうだい1戦隊せんたい一部いちぶ沖縄おきなわせんでの使用しようのため準備じゅんびちゅうのほか、主力しゅりょく朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶ咸興再建さいけんちゅうだった。

集団しゅうだん概要がいよう

[編集へんしゅう]

歴代れきだい司令しれいかん

[編集へんしゅう]
浜松はままつ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう練習れんしゅう部長ぶちょう白城しらき陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう練習れんしゅう部長ぶちょう
  • 河島かわしまけいわれ 中佐ちゅうさ
陸軍りくぐん挺進ていしん練習れんしゅう部長ぶちょう
  • 久米くめ精一せいいち 大佐たいさ:1941ねん10がつ - 同年どうねん12がつ
  • 河島かわしまけいわれ 中佐ちゅうさ:1941ねん12月 - 1942ねん6がつ
  • 久米くめ精一せいいち 大佐たいさ:1942ねん6がつ -
  • 塚田つかださとしさとし 少将しょうしょう: - 1944ねん11月
だい1挺進ていしん集団しゅうだんちょう
  • 塚田つかださとしさとし 少将しょうしょうのち中将ちゅうじょう):1944ねん11月 - 終戦しゅうせん

司令しれい構成こうせい

[編集へんしゅう]

だい1挺進ていしん集団しゅうだん司令しれい(鸞19038)

  • 高級こうきゅう参謀さんぼう
    • 岡田おかだ安治やすじ 大佐たいさ
  • 参謀さんぼう
    • 藤田ふじた幸次郎こうじろう 少佐しょうさ
  • 高級こうきゅう副官ふっかん
    • 小林こばやし朝男あさお 中佐ちゅうさ
  • 経理けいり部員ぶいん
    • 小山こやま致航 主計しゅけい大佐たいさ
  • 軍医ぐんい部長ぶちょう
    • 益田ますだ二三雄ふみお 軍医ぐんい中将ちゅうじょう

創設そうせつ隷下れいか部隊ぶたい

[編集へんしゅう]

部隊ぶたいめいえた括弧かっこうち通称つうしょうごうは、原則げんそくとして厚生省こうせいしょう援護えんごきょく作成さくせい部隊ぶたい略歴りゃくれき記載きさいのもので、創設そうせつ時点じてんのものにかぎらない。だい1挺進ていしん集団しゅうだん隷下れいか部隊ぶたい本来ほんらい兵団へいだん文字もじは「鸞」になる。

  • だい1挺進ていしんだん司令しれいそち9944):中村なかむらいさむ大佐たいさ
    • 挺進ていしんだい1連隊れんたい( ):山田やまだ秀男ひでお中佐ちゅうさ
    • 挺進ていしんだい2連隊れんたい( ):大崎おおさき邦男くにお中佐ちゅうさ
  • だい2挺進ていしんだん司令しれい19040):徳永とくなが賢治けんじ大佐たいさ
    • 挺進ていしんだい3連隊れんたい9948):白井しらいかきはる少佐しょうさ
    • 挺進ていしんだい4連隊れんたい(鸞9949):斉田さいだおさむさく少佐しょうさ
  • だい1挺進ていしん飛行ひこうだん司令しれい( 19150):河島かわしまけいわれ大佐たいさ
    • だい1挺進ていしん飛行ひこうだん通信つうしんたい(鸞19151):
    • 挺進ていしん飛行ひこうだい1戦隊せんたい9947):新原しんはらじん中佐ちゅうさ - 3中隊ちゅうたいで、定数ていすういち〇〇しき輸送ゆそうけい27ほか。
    • 挺進ていしん飛行ひこうだい2戦隊せんたい(鸞19039):礪田ただし少佐しょうさ - 同上どうじょう
    • 滑空かっくう飛行ひこうだい1戦隊せんたい(鸞19052):古林ふるばやし忠一ただかず少佐しょうさ - 2中隊ちゅうたいで、定数ていすうきゅうななしきじゅう爆撃ばくげき曳航えいこうようけい18ク8-II グライダーけい36ほか。
    • だい101飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい( ):岡島おかじま大尉たいい
    • だい102飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたいそち19152): - 挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたい隷下れいかにあった飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい基幹きかん編成へんせい
    • だい103飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい( ): - 滑空かっくう飛行ひこう戦隊せんたい隷下れいかにあった飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい人員じんいん資材しざい基幹きかん編成へんせい
  • 滑空かっくう歩兵ほへいだい1連隊れんたい(鸞19045):※急病きゅうびょうのため南方なんぽう出陣しゅつじんまえ多田ただひとしさん少佐しょうさ着任ちゃくにん
  • 滑空かっくう歩兵ほへいだい2連隊れんたい(鸞19046):高屋たかや三郎さぶろう少佐しょうさ
  • だい1挺進ていしん戦車せんしゃたい( ):田中たなか賢一けんいち大尉たいい - 戦車せんしゃ中隊ちゅうたい自動車じどうしゃ中隊ちゅうたいからる。のち歩兵ほへい中隊ちゅうたい追加ついか
  • だい1挺進ていしん機関きかんほうたい(鸞19047):鈴木すずき盛一もりいち大尉たいい - きゅうはちしきじゅうみりめーとる高射こうしゃ機関きかんほう16もんゆうする。
  • だい1挺進ていしん工兵こうへいたい(鸞19048):福本ふくもと留一とめいち少佐しょうさ - 2中隊ちゅうたい
  • だい1挺進ていしん通信つうしんたい(鸞19044):坂上さかがみ久義ひさよし少佐しょうさ - 有線ゆうせん中隊ちゅうたい無線むせん中隊ちゅうたいからる。
  • だい1挺進ていしん整備せいびたい( ):

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 土肥どいはら賢二けんじ陸軍りくぐん挺進ていしん練習れんしゅう編成へんせいなみ白城しらき陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう練習れんしゅう復帰ふっき完結かんけつけん報告ほうこくアジア歴史れきし資料しりょうセンター(JACAR) Ref.C04123718200
  2. ^ 土肥どいはら賢二けんじだい1挺進ていしんだん臨時りんじ編成へんせい完結かんけつかんする書類しょるい提出ていしゅつけん報告ほうこく」JACAR Ref.C04123676400
  3. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ(1976ねん)、271ぺーじ
  4. ^ 田中たなか(1976ねん)、288-289ぺーじ
  5. ^ 田中たなか(1976ねん)による。ただし、戦史せんし叢書そうしょは、滑空かっくう歩兵ほへいだい2連隊れんたいちょう高屋たかや三郎さぶろうによる回想かいそうとして残存ざんそん兵力へいりょく400にんであったとする(防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ(1972ねん)、606ぺーじ)。
  6. ^ 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ(1971ねん)、591-592ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 田中たなか賢一けんいち陸軍りくぐん落下傘らっかさん部隊ぶたい戦記せんき あゝ純白じゅんぱくはないて』 学陽書房がくようしょぼう、1976ねん
  • 外山とやまみさおもりまつ俊夫としお以上いじょうへんちょ) 『帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ比島ひじまとしごう陸軍りくぐん航空こうくう作戦さくせんちょうくも新聞しんぶんしゃ戦史せんし叢書そうしょ〉、1971ねん
  • 同上どうじょうとしごう陸軍りくぐん作戦さくせん(2)ルソン決戦けっせん』、1972ねん
  • 同上どうじょう陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう(3)終戦しゅうせんまで』、1976ねん