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だい5師団しだん (日本にっぽんぐん)

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だい5師団しだん
明治めいじ広島ひろしま鎮台ちんだい
創設そうせつ 1888ねん明治めいじ21ねん)5がつ14にち
廃止はいし 1945ねん昭和しょうわ20ねん
所属しょぞく政体せいたい 大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
部隊ぶたい編制へんせい単位たんい 師団しだん
兵科へいか 歩兵ほへい
兵種へいしゅ/任務にんむ 自動車じどうしゃ歩兵ほへいおよ上陸じょうりくせん(1940~)
人員じんいん やく25,000めい
所在地しょざいち 広島ひろしま-まんしゅう-華北かほく-華南かなん-マレー-インドネシア
編成へんせい 広島ひろしま
通称つうしょうごう/略称りゃくしょう こい
補充ほじゅう担任たんにん だい5かん広島ひろしまかん広島ひろしま管区かんく
最終さいしゅう上級じょうきゅう単位たんい だい2ぐん
最終さいしゅう位置いち インドネシア セラムとう
戦歴せんれき にちしん戦争せんそう-にち戦争せんそう-まんしゅう事変じへん-シベリア出兵しゅっぺい-にちちゅう戦争せんそう-太平洋戦争たいへいようせんそう
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1930ねんごろ昭和しょうわ初頭しょとう)の広島ひろしま地図ちずだい5師団しだん地図ちずじょう中央ちゅうおうややうえ広島ひろしまじょううちにあり、周辺しゅうへんふくめて日本にっぽんぐん施設しせつ集中しゅうちゅうした。宇品うじなこうまで宇品線うじなせん敷設ふせつされており、迅速じんそく派兵はへいできるようになっている。
(左・被爆前、右・被爆後)被爆前後の広島城本丸周辺。広島鎮台(上写真)は本丸中央に置かれ後に第5師団司令部となり、日清戦争勃発後広島大本営となった。大本営設置後は本丸内の左下3つ並ぶ建物が司令部となり、戦中は中国軍管区司令部。 (左・被爆前、右・被爆後)被爆前後の広島城本丸周辺。広島鎮台(上写真)は本丸中央に置かれ後に第5師団司令部となり、日清戦争勃発後広島大本営となった。大本営設置後は本丸内の左下3つ並ぶ建物が司令部となり、戦中は中国軍管区司令部。
ひだり被爆ひばくまえみぎ被爆ひばく被爆ひばく前後ぜんこう広島ひろしまじょう本丸ほんまる周辺しゅうへん広島ひろしま鎮台ちんだいうえ写真しゃしん)は本丸ほんまる中央ちゅうおうかれのちだい5師団しだん司令しれいとなり、にちしん戦争せんそう勃発ぼっぱつ広島ひろしま大本営だいほんえいとなった。大本営だいほんえい設置せっち本丸ほんまるない左下ひだりした3つなら建物たてもの司令しれいとなり、戦中せんちゅう中国ちゅうごくぐん管区かんく司令しれい

だい5師団しだん(だいごしだん)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん師団しだんのひとつ。

1873ねん明治めいじ6ねん)に設置せっちされた広島ひろしま鎮台ちんだい母体ぼたい1888ねん明治めいじ21ねん5月14にち編成へんせいされた。衛戍えいじゅ広島ひろしまとし、だい5かん管轄かんかつした。にちしん戦争せんそうから太平洋戦争たいへいようせんそうまで日本にっぽんかかわった戦争せんそうおおくに参加さんかした。

戦歴せんれき

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にちしん戦争せんそう

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1894ねん明治めいじ27ねん)のにちしん戦争せんそうでは師団しだん先駆さきがけて大島おおしま義昌よしまさ少将しょうしょう指揮しき大島おおしま旅団りょだん混成こんせいだい9旅団りょだん)を編成へんせい派遣はけんした。同年どうねん7がつ28にち大島おおしま旅団りょだんかんじょう南方なんぽう清国きよくにぐん交戦こうせんした(なり歓のたたか)。この戦闘せんとうわずか1にち決着けっちゃくがつき日本にっぽんぐん勝利しょうりであったが、これは明治維新めいじいしん以後いごはじめて日本にっぽん軍隊ぐんたい外国がいこくぐん交戦こうせんしたものである。旅団りょだんはこののち平壌ぴょんやん攻略こうりゃくせん(9がつ15にち)、かもみどりこう渡河とか作戦さくせん(10がつ24にち)をて12月には奉天ほうてん進出しんしゅつし、1895ねん明治めいじ28ねん)3がつにはうしそうたたか参加さんかした。同年どうねん4がつ17にち下関しものせき条約じょうやく締結ていけつ戦争せんそう終結しゅうけつした。

義和よしかずだんらん

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1900ねん義和よしかずだんらんきたきよし事変じへん)では義和よしかずだん鎮圧ちんあつ出動しゅつどうし、天津てんしん塘沽警備けいびたるとともに、北京ぺきんけて進撃しんげきするはちカ国かこく連合れんごうぐん中核ちゅうかくとなり、8がつ5にちにはきたくらたたかにおいてほぼ単独たんどく勝利しょうりし、8がつ14~16にちには北京ぺきんたたか参加さんかした。だい師団しだん外国がいこく観戦かんせん武官ぶかんたちから、その武勇ぶゆう能力のうりょく軍紀ぐんきたかさを称賛しょうさんされた。

にち戦争せんそう

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にち戦争せんそうでは野津のつ道貫みちつら大将たいしょう指揮しきだい4ぐんぞくして、すなかわ会戦かいせんくろみぞだい会戦かいせん奉天ほうてん会戦かいせん参加さんかし、1911ねん明治めいじ44ねん)から2年間ねんかんまんしゅうちゅう剳をめいぜられ、同年どうねん4がつ30にち師団しだん司令しれいりょう移転いてんし5がつ1にちより事務じむ開始かいし[1]1913ねん大正たいしょう2ねん)4がつ19にち師団しだん司令しれい広島ひろしま帰還きかんした[2]

シベリア出兵しゅっぺい

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1919ねん大正たいしょう8ねん)にはシベリア出兵しゅっぺい参加さんかし、同年どうねん8がつ24にち全部ぜんぶがシベリアに到着とうちゃく[3]。1922ねん6がつ24にち任務にんむ終了しゅうりょう

にちちゅう戦争せんそう

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1937ねん昭和しょうわ12ねんにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、7がつ27にちにはささえ駐屯ちゅうとんぐん隷下れいかとなり華北かほく出動しゅつどう、8がつ14~27にちチャハル作戦さくせん参加さんかするとともに、1連隊れんたいきょうかんせん作戦さくせん参加さんかした[4]。その、8がつ31にちにはささえ駐屯ちゅうとんぐん廃止はいしされきたささえ方面ほうめんぐん新設しんせつされるときたささえ方面ほうめんぐん直轄ちょっかつ師団しだんとなりふとげん攻略こうりゃくせん参戦さんせんした。このなかだい21連隊れんたいだい3大隊だいたいは9月24にちたいらがたせき攻撃こうげきけて全滅ぜんめつした。1938ねん昭和しょうわ13ねん)3がつ30にちだい2ぐん編入へんにゅうされじょしゅう会戦かいせんたたかい、同年どうねん9がつ19にちにはだい21ぐん編入へんにゅうされ華南かなんてん広東かんとん作戦さくせんたたかい、11月29にちだい12ぐん隷下れいかとなり華北かほくもどる。12月にはこん崙関のたたかだい21連隊れんたい包囲ほういされかなりの損害そんがいけたものの、よく1939ねん昭和しょうわ14ねん)1がつ脱出だっしゅつした。10月16にちにはだい5師団しだんはふたたび華南かなんだい21ぐん隷下れいかとなった。

1940ねん昭和しょうわ15ねん)2がつ9にちにはだい21ぐん廃止はいし新設しんせつされただい22ぐん編入へんにゅうされ、9月22にち北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅう主力しゅりょくとなった。そのすぐにフランスりょうインドシナ警備けいびめいぜられた。

太平洋戦争たいへいようせんそう

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中国ちゅうごくでの戦闘せんとう経験けいけん戦歴せんれきから、だい5師団しだん帝国ていこく陸軍りくぐん精鋭せいえい部隊ぶたいひとつとなされていた。このため、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえの1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ12にち大本営だいほんえい直轄ちょっかつとなった。1940ねん11月30にち発令はつれい軍令ぐんれいかぶとだい57ごうで、馬匹ばひつ自動車じどうしゃにかえる編制へんせいえをけた[5]。マレーでの作戦さくせんそなえたもので、12月6にちには、熱帯ねったい地域ちいきでの上陸じょうりく作戦さくせん訓練くんれんめいじられた[5]だい5飛行ひこう集団しゅうだんとともに九州きゅうしゅうでの上陸じょうりくせん演習えんしゅう参加さんかするなどの上陸じょうりく訓練くんれんのち1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月6にち南方なんぽうぐん(そう司令しれいかん寺内てらうち寿一ひさいち元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう)隷下れいかだい25ぐん(山下やました奉文ともゆき中将ちゅうじょう)に編入へんにゅう南方みなかた作戦さくせん投入とうにゅうされた。

マレー作戦さくせん

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1941ねん12月、マレー作戦さくせんにおいて浜辺はまべ上陸じょうりくしただい師団しだん兵士へいしたち

12月8にち開戦かいせんとともにイギリスりょうマラヤタイりょうのシンゴラとバタニから上陸じょうりくして、おもインドだい11歩兵ほへい師団しだんたたかい、12月11にちジットラのたたかでは勝利しょうりしたものの、12月30にちカンパルのたたかではかなりの損害そんがいけ、よく1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ6にちスリムがわたたかにおいて勝利しょうりした。スリムがわたたかいでは、戦車せんしゃ支援しえんけただい5師団しだん歩兵ほへいだい41連隊れんたいが、16マイルにわたって英軍えいぐん防御ぼうぎょ陣地じんち前進ぜんしんし、インドだい11歩兵ほへい師団しだん粉砕ふんさいし、推定すいていで3,000にん損害そんがいあたえた。1月11にちにはクアラルンプール占領せんりょうした。ムアールのたたかなかだい5師団しだんはGemensahきょうオーストラリアだい8師団しだん頑強がんきょう抵抗ていこうはいして、1がつ22にちシンガポールへのみちひらいた。

シンガポールのたたか

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シンガポールのたたかいのときの松井まついふとし久郎ひさお中将ちゅうじょうだい5師団しだんちょう
シンガポールのたたかいののちどう市内しない中心ちゅうしん行進こうしんする日本にっぽんへいたち

だい5師団しだんシンガポール攻略こうりゃく主力しゅりょくとなり、1942ねん2がつ8にちよるだい5師団しだんの6大隊だいたいが、だい18師団しだんとともに上陸じょうりくよう舟艇しゅうていもちいてジョホール海峡かいきょうわたった。

シンガポールがわではサリンブン(Sarimbun)はまだい22オーストラリア旅団りょだんの2中隊ちゅうたいまもっており、これを1個いっこ機関きかんじゅう中隊ちゅうたい、3砲兵ほうへい中隊ちゅうたい1個いっこ対戦たいせんしゃ中隊ちゅうたい支援しえんしていた。日本にっぽんぐん英軍えいぐん防衛ぼうえいせん突破とっぱして、深夜しんやにオーストラリアぐん後退こうたいして、だい5師団しだんは Ama Keng むら突入とつにゅうし、ここで山下やました大将たいしょう作戦さくせん成功せいこうつたえるための赤色あかいろ照明しょうめいだんげた。

この勝利しょうりのちだい5師団しだんただちにシンガポール内部ないぶ戦略せんりゃくてき目標もくひょうけて移動いどうし、2がつ9にちにはテンガー飛行場ひこうじょう占領せんりょうした。だい5師団しだんだい22オーストラリア旅団りょだんや、飛行場ひこうじょう警備けいびジンド・インド歩兵ほへい大隊だいたいたたかった。2月11にちには激戦げきせんすえだい5師団しだんがBukit Timah道路どうろ占領せんりょうした。その4にち、シンガポールは降伏ごうぶくした。

フィリピン作戦さくせん

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1942ねん3がつ隷下れいか歩兵ほへいだい9旅団りょだん司令しれいおよ歩兵ほへいだい41連隊れんたい基幹きかん部分ぶぶん河村かわむら支隊したい)がフィリピン方面ほうめん掃討そうとう作戦さくせんまわされ、7がつにはそのまま南海なんかい支隊したいへの増援ぞうえんとしてニューギニアのたたか投入とうにゅうされた。どう連隊れんたいはそのだい30師団しだん隷下れいかうつったため、だい5師団しだんは3単位たんい師団しだんわった。

河村かわむら支隊したい指揮しきかん河村かわむらさんろう少将しょうしょう兵力へいりょく4160めい)は1942ねん4がつ16~18にちパナイとう上陸じょうりくし、同月どうげつ20にちには、べい連合れんごうぐん兵力へいりょく7000めい)を海岸かいがんから退しりぞけた。その河村かわむら支隊したいは1942ねん5がつ3にちミンダナオ島みんだなおとう上陸じょうりくし、激戦げきせんすえ同月どうげつ10にちべい連合れんごうぐん降伏ごうぶくさせた[6]

歩兵ほへいだい41連隊れんたいのこりは再編さいへんされて矢沢やざわ支隊したいとなり、当初とうしょルソン島るそんとう北岸ほくがんカガヤン配備はいびされた。その転進てんしんして1942ねん6がつ28にちにはダバオ上陸じょうりくし、南海なんかい支隊したい指揮しきかん:堀井ほりい富太郎とみたろう少将しょうしょう)の増援ぞうえんまわされた[7]

ニューギニア作戦さくせん

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1942ねん7がつ18にち南海なんかい支隊したい戦車せんしゃ中隊ちゅうたい近接きんせつ支援しえん砲兵ほうへい中隊ちゅうたい増援ぞうえんけて、1942ねん7がつ31にちポートモレスビー作戦さくせんへの参加さんかめいぜられた。1942ねん8がつ16にちラバウル中継ちゅうけい地点ちてん到着とうちゃく[8]、1942ねん8がつ19にち矢沢やざわ支隊したい聖川ひじりかわまるみょう高丸たかまる乗船じょうせんして、1942ねん8がつ21にちニューギニアとうのゴナに上陸じょうりくした[9]ココダどうたたかあいだ矢沢やざわ支隊したい予備よび兵力へいりょくとして待機たいきしていた[10]。ココダどうたたかいが内陸ないりくすすんだ1942ねん9がつ6~9にちとうげでのたたかいのあいだ矢沢やざわ支隊したいはブナ近辺きんぺんギルアがわくちへのみちひらき、そこで1942ねん9がつ24にちからはじまった補給ほきゅう物資ぶっし増援ぞうえん部隊ぶたい揚陸ようりく安全あんぜん確保かくほしていた[11]。1942ねん10がつ29にち、144連隊れんたいなどの退却たいきゃく援護えんごのため、矢沢やざわ支隊したい内陸ないりくのオイヴィだに防御ぼうぎょたっていた。1942ねん11月4にち、オーストラリアぐん優勢ゆうせい兵力へいりょく攻撃こうげきし、矢沢やざわ支隊したい潰走かいそうさせた。矢沢やざわ支隊したいのこる900めいかろうじて包囲ほうい脱出だっしゅつして北東ほくとうのAjura Kijala山地さんち密林みつりんなかげた。オイヴィだにのこっていた部隊ぶたいは1942ねん11月28にちまでに掃討そうとうされた。矢沢やざわ支隊したい敗残はいざんへいは11月28にちまでにゴナのきたクムシがわ河口かこう付近ふきん到達とうたつしたが、じゅう装備そうびすべ放棄ほうきしてきたうえマラリア罹患りかんりつがほぼ100%であったため、ほぼ戦闘せんとうりょくうしなっていた。このため、マラリヤにやられたへいだい部分ぶぶんは11月29にちにギルア河口かこうまで上陸じょうりくよう舟艇しゅうていおくられたが、連合れんごうぐん航空こうくう攻撃こうげきにより海上かいじょうすうひゃくめいうしなった。健康けんこうへい陸上りくじょう行軍こうぐんして12月2にちにギルア河口かこう到着とうちゃくした[12]。1942ねん12月31にち矢沢やざわ大佐たいさ敗残はいざんへいあつめた混成こんせい部隊ぶたいともなって、ブナへの絶望ぜつぼうてき救援きゅうえん任務にんむ命令めいれいした。1943ねん1がつ2にち、ブナが陥落かんらくし、任務にんむ撤回てっかいされたが、それでもなお矢沢やざわ支隊したい連合れんごうぐん戦闘せんとう哨戒しょうかいたい戦闘せんとうしてブナからげてくるやく190めいへい救出きゅうしゅつした。1943ねん1がつ20日はつか、ゴナへの撤退てったい失敗しっぱいし、矢沢やざわ支隊したい壊滅かいめつした。日本にっぽんぐん前線ぜんせんもどれたのはわずかすうめいのみであった[13]

その

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1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつ師団しだんだい19ぐん隷下れいかとなるが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ28にちだい19ぐん廃止はいしだい2ぐん隷下れいかとなった。大戦たいせん後半こうはん地上ちじょうせん参加さんかする機会きかいはなく、島嶼とうしょ防衛ぼうえいよう海洋かいよう編制へんせいだんへの改編かいへん途上とじょうセラムとう終戦しゅうせんむかえた。終戦しゅうせん直前ちょくぜんには、部隊ぶたい移動いどう病院びょういんせん使用しようした戦争せんそう犯罪はんざい発覚はっかくして拿捕だほされ、1500にん以上いじょう将兵しょうへいがアメリカぐん捕虜ほりょとなるたちばなまる事件じけんこしている。師団しだんちょう山田やまだ清一せいいち中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょう浜島はまじまいわおろう大佐たいさは、8がつ15にち敗戦はいせんほうせっするとたちばなまる事件じけん責任せきにんって自決じけつした。

歴代れきだい団長だんちょう

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  • 野津のつ道貫みちつら 中将ちゅうじょう:1888ねん明治めいじ21ねん)5がつ14にち - 1894ねん明治めいじ27ねん)11月29にち
  • おく保鞏やすかた 中将ちゅうじょう:1894ねん明治めいじ27ねん)11月29にち - 1896ねん明治めいじ29ねん)10がつ14にち
  • 山口やまぐちしん 中将ちゅうじょう:1896ねん明治めいじ29ねん)10がつ14にち - 1904ねん明治めいじ37ねん)3がつ17にち
  • 上田うえだ有沢ありさわ 中将ちゅうじょう:1904ねん明治めいじ37ねん)3がつ17にち - 1904ねん明治めいじ37ねん)11月2にち
  • 木越きごしやすつな 中将ちゅうじょう:1904ねん明治めいじ37ねん)11月2にち - 1909ねん明治めいじ42ねん)9がつ3にち
  • 大谷おおや喜久蔵きくぞう 中将ちゅうじょう:1909ねん明治めいじ42ねん)9がつ3にち - 1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつ24にち
  • 小原おはらつたえ 中将ちゅうじょう:1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつ24にち - 1917ねん大正たいしょう6ねん)8がつ6にち
  • 福田ふくだ雅太郎まさたろう 中将ちゅうじょう:1917ねん大正たいしょう6ねん)8がつ6にち - 1918ねん大正たいしょう7ねん)10がつ10日とおか
  • 山田やまだ隆一りゅういち 中将ちゅうじょう:1918ねん大正たいしょう7ねん)10がつ10日とおか - 1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ8にち
  • 鈴木すずきそうろく 中将ちゅうじょう:1919ねん大正たいしょう8ねん)3がつ18にち - 1921ねん大正たいしょう10ねん)6がつ15にち
  • 山田やまだりくづち 中将ちゅうじょう:1921ねん大正たいしょう10ねん)6がつ15にち - 1923ねん大正たいしょう12ねん)8がつ6にち
  • 岸本きしもと鹿しか太郎たろう 中将ちゅうじょう:1923ねん大正たいしょう12ねん)8がつ6にち - 1926ねん大正たいしょう15ねん)7がつ28にち
  • まき達之たつゆき 中将ちゅうじょう:1926ねん大正たいしょう15ねん)7がつ28にち - 1928ねん昭和しょうわ3ねん)8がつ10日とおか
  • 原口はらぐち初太郎はつたろう 中将ちゅうじょう:1928ねん昭和しょうわ3ねん)8がつ10日とおか - 1930ねん昭和しょうわ5ねん)8がつ1にち
  • 寺内てらうち寿一ひさいち 中将ちゅうじょう:1930ねん昭和しょうわ5ねん)8がつ1にち - 1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつ9にち
  • 二宮にのみやおさむじゅう 中将ちゅうじょう:1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつ9にち - 1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ5にち
  • 小磯こいそ國昭くにあき 中将ちゅうじょう:1934ねん昭和しょうわ9ねん)3がつ5にち - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)12月2にち
  • はやしかつら 中将ちゅうじょう:1935ねん昭和しょうわ10ねん)12月2にち - 1937ねん昭和しょうわ12ねん)3がつ1にち
  • 板垣いたがき征四郎せいしろう 中将ちゅうじょう:1937ねん昭和しょうわ12ねん)3がつ1にち - 1938ねん昭和しょうわ13ねん)5がつ25にち
  • 安藤あんどう利吉としきち 中将ちゅうじょう:1938ねん昭和しょうわ13ねん)5がつ25にち - 1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月9にち
  • 今村いまむらひとし 中将ちゅうじょう:1938ねん昭和しょうわ13ねん)11月9にち - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ9にち
  • 中村なかむら明人あきと 中将ちゅうじょう:1940ねん昭和しょうわ15ねん)3がつ9にち - 1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ15にち
  • 松井まついふとし久郎ひさお 中将ちゅうじょう:1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ15にち - 1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ11にち
  • 山本やまもとつとむ 中将ちゅうじょう:1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ11にち - 1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ2にち
  • 山田やまだ清一せいいち 中将ちゅうじょう:1944ねん昭和しょうわ19ねん)10がつ2にち - 1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ15にち
  • 小堀こぼり金城きんじょう 少将しょうしょう師団しだんちょう代理だいり):1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ15にち

歴代れきだい参謀さんぼうちょう

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編制へんせい

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  • 歩兵ほへいだい11連隊れんたい広島ひろしま):佐々木ささき五三いつみ大佐たいさ
  • 歩兵ほへいだい21連隊れんたい浜田はまだ):佐々木ささき慶雄よしお大佐たいさ
  • 歩兵ほへいだい42連隊れんたい山口やまぐち):吉川よしかわあきら大佐たいさ
  • 野砲やほうへいだい5連隊れんたい中平なかひら峯吉みねきち大佐たいさ
  • 捜索そうさくだい5連隊れんたい藤村ふじむら信吉のぶよし大佐たいさ
  • 工兵こうへいだい5連隊れんたい後藤ごとうさとし中佐ちゅうさ
  • 輜重しちょうへいだい5連隊れんたい上木うえき隆之たかゆき大佐たいさ
  • だい5師団しだん通信つうしんたい後藤ごとう好夫よしお大尉たいい
  • だい5師団しだん兵器へいき勤務きんむたい守田もりたあきら大尉たいい
  • だい5師団しだん衛生えいせいたいてらまつ芳松よしまつ少佐しょうさ
  • だい5師団しだんだい2野戦やせん病院びょういん呉羽くれは新次しんじ軍医ぐんい少佐しょうさ
  • だい5師団しだんだい4野戦やせん病院びょういん松下まつしたいさお軍医ぐんい中佐ちゅうさ
  • だい5師団しだん経理けいり勤務きんむたい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい8363ごう明治めいじ44ねん5がつ11にち
  2. ^ 官報かんぽうだい220ごう大正たいしょう2ねん4がつ26にち
  3. ^ 官報かんぽうだい2121ごう大正たいしょう8ねん8がつ29にち
  4. ^ Japanese Forces Operating along the Northern Sector of Peiping-Hankow Railway Mid-August, 1937
  5. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ陸軍りくぐんぐん戦備せんび』、298ぺーじ
  6. ^ "Japanese Army in World War II : Conquest of the Pacific 1941-42", by Gordon Rottman, p.17
  7. ^ Australia-Japan Research Project -”. 5 June 2016閲覧えつらん
  8. ^ HyperWar: US Army in WWII: Victory in Papua”. 5 June 2016閲覧えつらん
  9. ^ Australian War Memorial - AJRP Essays”. 5 June 2016閲覧えつらん
  10. ^ "The Ghost Mountain Boys: Their Epic March and the Terrifying Battle for New Guinea--The Forgotten War of the South...2007/10/2 James Campbell
  11. ^ HyperWar: US Army in WWII: Victory in Papua”. 5 June 2016閲覧えつらん
  12. ^ HyperWar: US Army in WWII: Victory in Papua”. 5 June 2016閲覧えつらん
  13. ^ HyperWar: US Army in WWII: Victory in Papua”. 5 June 2016閲覧えつらん
  14. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』23ぺーじ
  15. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』22ぺーじ
  16. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』28ぺーじ
  17. ^ 官報かんぽうだい3993ごう明治めいじ29ねん10がつ19にち
  18. ^ 官報かんぽうだい4647ごう明治めいじ31ねん12月24にち
  19. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』50ぺーじ
  20. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』59ぺーじ
  21. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』56ぺーじ
  22. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』67ぺーじ
  23. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』223ぺーじ
  24. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』74ぺーじ
  25. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』79ぺーじ
  26. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』88ぺーじ
  27. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』94ぺーじ
  28. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』98ぺーじ
  29. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』116ぺーじ
  30. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』128ぺーじ
  31. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』142ぺーじ
  32. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』167ぺーじ
  33. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』180ぺーじ
  34. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』196ぺーじ
  35. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』206ぺーじ
  36. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』219ぺーじ
  37. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』228ぺーじ
  38. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』242ぺーじ
  39. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』275ぺーじ
  40. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』332ぺーじ
  41. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』410ぺーじ
  42. ^ a b 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』430ぺーじ
  43. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』430ぺーじ
  44. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』421ぺーじ
  45. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん』1311ぺーじ
  46. ^ 日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん』586ぺーじ
  47. ^ 陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん』445ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 官報かんぽう
  • 外山とやまみさお森松もりまつ俊夫としお編著へんちょ帝国ていこく陸軍りくぐん編制へんせい総覧そうらん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1987ねん
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • 福川ふくかわ秀樹ひでき日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2001ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんし陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、あさくも新聞しんぶんしゃ、1979ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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