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仁田原 重行(にたはら しげゆき、1862年11月23日(文久2年10月2日) - 1925年(大正14年)3月24日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・東京衛戍総督や近衛師団・第2・第4師団長を歴任する。階級は陸軍大将従二位勲一等功三級。旧名・谷三郎。娘は三輪秀一陸軍少将に嫁ぐ。
仁田原周蔵の次男として福岡藩八女(現八女市)に生まれる。陸軍士官学校(旧6期)に進み、1883年(明治16年)12月25日に卒業した[1]。同日歩兵少尉に任官され[1]歩兵第1連隊第1大隊附を命ぜられる。士官生徒第6期の仁田原の同期には台湾総督明石元二郎大将・浦塩派遣軍司令官大井成元大将・関東軍司令官立花小一郎大将らがいる。仁田原は翌年4月歩兵第1連隊小隊長に進む。
明治19年1月19日陸軍大学校(4期)に進学、明治20年4月に中尉に進級する。明治21年11月28日陸軍大学校を卒業し、明治24年1月大尉に進級する。同年9月から陸軍大学校副官に補され、明治25年1月には第2師団参謀に移る。明治28年3月に少佐に進級し、同月日清戦争に出征、同年9月に帰還する。帰還した9月から陸軍大学校教官を命ぜられる。同年12月には名を谷三郎から重行に改める。明治32年2月中佐に進級し、同6月参謀本部員を補される。
明治33年6月から第5師団兵站監部参謀として北清事変に出征し、同年10月に帰還。明治34年7月5日から留守第5師団参謀長に進み、明治35年5月5日大佐進級と同時に第5師団参謀長に就任する。明治37年4月からこの職で日露戦争に出征し、戦中の明治38年4月8日陸軍少将に進み翌9日歩兵第7旅団長を命ぜられる。同年12月に帰還し、明治42年4月1日独立守備隊司令官に就任する。
明治44年9月6日歩兵第1旅団長に移り、明治45年2月27日陸軍中将に進級し第2師団長を親補される。大正4年2月15日第4師団長に移り、大正5年8月18日には近衛師団長に就任する。大正6年8月6日から東京衛戍総督に進み、大正7年7月2日陸軍大将に進級し軍事参議官に親補される。大正10年7月15日を以って予備役編入。大正14年3月24日逝去。
- 位階
- 勲章等
- ^ a b 『官報』第151号、明治16年12月27日。
- ^ 『官報』第228号「叙任」1884年4月7日。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第2558号「叙任及辞令」1892年1月13日。
- ^ 『官報』第4764号「叙任及辞令」1899年5月22日。
- ^ 『官報』第5767号「叙任及辞令」1902年9月22日。
- ^ 『官報』第6558号「叙任及辞令」1905年5月13日。
- ^ 『官報』第8091号「叙任及辞令」1910年6月13日。
- ^ 『官報』第8710号「叙任及辞令」1912年7月2日。
- ^ 『官報』第891号「叙任及辞令」1915年7月21日。
- ^ 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。
- ^ 『官報』第2709号「叙任及辞令」1921年8月11日。
- ^ 『官報』号外「辞令」1896年11月17日。
- ^ 『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
- ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第101号「叙任及辞令」1912年11月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。