中島 なかじま キ84 四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「疾風 しっぷう 」
四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (よんしきせんとうき)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 どき の大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん の戦闘 せんとう 機 き 。キ番号 ばんごう (試作 しさく 名称 めいしょう )はキ84 。愛称 あいしょう は疾風 しっぷう (はやて)。呼称 こしょう ・略称 りゃくしょう は四 よん 式 しき 戦 せん 、四 よん 戦 せん 、キハチヨン 、ハチヨン 、大 だい 東亜 とうあ 決戦 けっせん 機 き 、決戦 けっせん 機 き など[1] 。連合 れんごう 軍 ぐん のコードネーム はFrank (フランク)。開発 かいはつ ・製造 せいぞう は中島 なかじま 飛行機 ひこうき 。
基本 きほん 設計 せっけい はオーソドックスな構成 こうせい ながら[1] 、速度 そくど 、武装 ぶそう 、防弾 ぼうだん 、航続 こうぞく 距離 きょり 、運動 うんどう 性 せい 、操縦 そうじゅう 性 せい をバランス良 よ く纏 まと め、設計 せっけい 段階 だんかい で生産 せいさん 性 せい も考慮 こうりょ された機体 きたい である。九 きゅう 七 なな 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (キ27)、一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き 「隼 はやぶさ 」 (キ43)、二 に 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (二 に 式 しき 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き )「鍾馗 しょうき 」 (キ44)と続 つづ いた、小山 こやま 悌技師 ぎし 長 ちょう を設計 せっけい 主務 しゅむ 者 しゃ とする中島 なかじま 製 せい 戦闘 せんとう 機 き の集大成 しゅうたいせい とも言 い える機体 きたい である。
特 とく に最高 さいこう 速度 そくど はキ84-I乙 おつ 試作 しさく 機 き が試験 しけん 飛行 ひこう の際 さい に高度 こうど 6,000 mにおいて660 km/hと大戦 たいせん 中 ちゅう に実用 じつよう 化 か された日本 にっぽん 製 せい 戦闘 せんとう 機 き の中 なか では最速 さいそく であり、また戦後 せんご のアメリカ軍 ぐん によるテストでは高度 こうど 20,000 ft (6,096 m )にて687 km/h を記録 きろく している(100オクタン /140グレードのガソリン とアメリカ製 せい 点火 てんか プラグ を使用 しよう し、武装 ぶそう を取 と り除 のぞ いた重量 じゅうりょう 7,490 lb (3,397 kg )の状態 じょうたい )[1] 。
四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き 「飛 ひ 龍 りゅう 」 (キ67)とともに重点 じゅうてん 生産 せいさん 機 き に指定 してい され、総 そう 生産 せいさん 機 き 数 すう は基準 きじゅん 孔 あな 方式 ほうしき の採用 さいよう など量産 りょうさん にも配慮 はいりょ した設計 せっけい から、1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )中頃 なかごろ という太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )後期 こうき 登場 とうじょう の機体 きたい ながらも、日本 にっぽん 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き としては零 れい 戦 せん 、一式 いっしき 戦 せん に次 つ ぐ約 やく 3,500機 き に及 およ んだ[1] 。
帝国 ていこく 陸軍 りくぐん からは戦局 せんきょく を覆 くつがえ す「大 だい 東亜 とうあ 決戦 けっせん 機 き (大 だい 東亜 とうあ 決戦 けっせん 号 ごう ・決戦 けっせん 機 き )」として大 おお いに期待 きたい され[1] 、大戦 たいせん 後期 こうき の主力 しゅりょく 戦闘 せんとう 機 き として多数 たすう 機 き が各 かく 飛行 ひこう 戦隊 せんたい といった第 だい 一 いち 級 きゅう 線 せん の実戦 じっせん 部隊 ぶたい に配備 はいび された。当時 とうじ の主要 しゅよう 戦線 せんせん の全 すべ て(中国 ちゅうごく 戦線 せんせん 、フィリピン戦線 せんせん 、ビルマ戦線 せんせん )および日本 にっぽん 本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん に従軍 じゅうぐん し、対戦 たいせん したアメリカ軍 ぐん からも「The best Japanese fighter (日本 にっぽん 最優秀 さいゆうしゅう 戦闘 せんとう 機 き 、日本 にっぽん 最良 さいりょう 戦闘 せんとう 機 き )」と評価 ひょうか された[要 よう 出典 しゅってん ] 機体 きたい だったが、整備 せいび 状 じょう 況 きょう によるものの搭載 とうさい した新型 しんがた エンジン ハ45(誉 ほまれ ) の不調 ふちょう や、潤滑油 じゅんかつゆ ・ガソリン(オクタン価 おくたんか )の品質 ひんしつ 低下 ていか 、点火 てんか プラグ やコードなどの電気 でんき 系統 けいとう の不良 ふりょう ・不足 ふそく 、前線 ぜんせん での整備 せいび 力 ちから の低下 ていか などにより全体 ぜんたい 的 てき に稼働 かどう 率 りつ が低 ひく く、スペック通 どお りの性能 せいのう を出 だ すのが難 むずか しかった[1] 。さらに、それまでの日本 にっぽん 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き とは機体 きたい 特性 とくせい が異 こと なるためパイロットには戦術 せんじゅつ の転換 てんかん が必要 ひつよう になるなど、大戦 たいせん 後半 こうはん に登場 とうじょう した陸海 りくかい 軍機 ぐんき の多 おお くと同様 どうよう 、運用 うんよう 側 がわ でも評価 ひょうか の分 わ かれる機体 きたい である。
1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月29日 にち 、キ44 (のちの二 に 式 しき 戦 せん )の発展 はってん 型 がた として中島 なかじま に対 たい し、最高 さいこう 速度 そくど 680 km/h以上 いじょう 、20mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん ・12.7mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん 装備 そうび 、制 せい 空 そら ・防空 ぼうくう ・襲撃 しゅうげき など、幅広 はばひろ い任務 にんむ に使用 しよう 可能 かのう な高性能 こうせいのう 万能 ばんのう 戦闘 せんとう 機 き の開発 かいはつ 指示 しじ がなされた。当初 とうしょ はキ44の2,000馬力 ばりき 級 きゅう エンジンハ145 搭載 とうさい 型 がた であるキ44-III(計画 けいかく のみという説 せつ と少数 しょうすう 機 き 試作 しさく されたとの説 せつ がある)をベースに翼 つばさ 面積 めんせき を増 ふ やして着陸 ちゃくりく を容易 ようい にし、燃料 ねんりょう 搭載 とうさい 量 りょう を増 ま して航続 こうぞく 距離 きょり を伸 の ばし、強力 きょうりょく なエンジンにより速度 そくど ・上昇 じょうしょう 力 りょく の向上 こうじょう を狙 ねら ったものになる予定 よてい であった。
しかし、キ84は最初 さいしょ から広大 こうだい な太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき で運用 うんよう される事 こと が決 き まっていたため、更 さら なる航続 こうぞく 距離 きょり の伸長 しんちょう が求 もと められ、燃料 ねんりょう 搭載 とうさい 量 りょう の増加 ぞうか とともに翼 つばさ 面 めん 荷重 かじゅう を計画 けいかく 値 ち の155 kg/m2 に収 おさ めるために翼 つばさ 面積 めんせき の拡大 かくだい を余儀 よぎ なくされ、2,700 kg程度 ていど と目 め されていた全備 ぜんび 重量 じゅうりょう は3,000 kgを優 ゆう に越 こ える見通 みとお しとなった。それに対応 たいおう して翼 つばさ 面積 めんせき を増 ふ やすとまた重量 じゅうりょう が増加 ぞうか するという悪循環 あくじゅんかん に陥 おちい り、特 とく に主翼 しゅよく の設計 せっけい は難航 なんこう した。さらに、前線 ぜんせん からの要求 ようきゅう で防弾 ぼうだん ・防火 ぼうか 装備 そうび 、武装 ぶそう の強化 きょうか なども必須 ひっす となり、これも重量 じゅうりょう が増加 ぞうか する一因 いちいん となった。
多摩 たま 陸軍 りくぐん 飛行場 ひこうじょう (福生 ふっさ 飛行場 ひこうじょう ) にて陸軍 りくぐん 航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 飛行 ひこう 実験 じっけん 部 ぶ 戦闘 せんとう 隊 たい によりテスト中 ちゅう のキ84増加 ぞうか 試作 しさく 機 き (第 だい 124号機 ごうき )
結局 けっきょく 主翼 しゅよく 面積 めんせき は計画 けいかく 値 ち の17.4 m2 から最終 さいしゅう 的 てき に21 m2 となり、予定 よてい していた全備 ぜんび 重量 じゅうりょう が実機 じっき の自重 じちょう になってしまう程 ほど だったが、紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ てようやくキ84の設計 せっけい はまとまり、1943年 ねん (昭和 しょうわ 18年 ねん )3月 がつ に試作 しさく 1号機 ごうき が完成 かんせい 、4月 がつ に初 はつ 飛行 ひこう した。陸軍 りくぐん 側 がわ で初 はじ めてキ84を操縦 そうじゅう した陸軍 りくぐん 航空 こうくう 審査 しんさ 部 ぶ 飛行 ひこう 実験 じっけん 部 ぶ 戦闘 せんとう 隊 たい (旧 きゅう 飛行 ひこう 実験 じっけん 部 ぶ 実験 じっけん 隊 たい 戦闘 せんとう 機 き 班 はん )キ84審査 しんさ 主任 しゅにん (テストパイロット )岩橋 いわはし 譲 ゆずる 三 さん 少佐 しょうさ は、「これはいける」と笑 わら いながら述 の べ、設計 せっけい 主務 しゅむ 者 しゃ 小山 こやま 以下 いか の開発 かいはつ スタッフが感涙 かんるい に咽 むせ んだエピソードがある。試験 しけん 飛行 ひこう は1〜3号機 ごうき までは比較的 ひかくてき 順調 じゅんちょう に進 すす み好 こう 成績 せいせき を収 おさ めたが、量産 りょうさん 型 がた のハ45を搭載 とうさい した4〜7号機 ごうき ではエンジンとプロペラ のトラブルに悩 なや まされ、特 とく にエンジンに関 かん しては試験 しけん 期間 きかん 中 ちゅう 最後 さいご まで解決 かいけつ しなかったと伝 つた えられる。
問題 もんだい を抱 かか えながらも一刻 いっこく も早 はや い実用 じつよう 化 か と生産 せいさん 体制 たいせい の整備 せいび を目的 もくてき に、また審査 しんさ 部 ぶ のテストパイロットである荒蒔 あらまき 義次 よしじ 少佐 しょうさ の進言 しんげん もあり、増加 ぞうか 試作 しさく 機 き は10機 き 以内 いない という従来 じゅうらい の方針 ほうしん を転換 てんかん して審査 しんさ と試作 しさく を併行 へいこう して進 すす めた結果 けっか 、制式 せいしき 前 まえ に100機 き を超 こ える大量 たいりょう の増加 ぞうか 試作 しさく 機 き が生産 せいさん された。1944年 ねん (皇紀 こうき 2604 年 とし )4月 がつ にキ84は四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き として制式 せいしき 採用 さいよう され、順次 じゅんじ 、中島 なかじま 太田 おおた 工場 こうじょう ・宇都宮 うつのみや 工場 こうじょう で量産 りょうさん が開始 かいし された。
中島 なかじま では1942年 ねん からキ84より航続 こうぞく 時間 じかん を延長 えんちょう し、大型 おおがた 排気 はいき タービンで高 こう 高度 こうど 性能 せいのう を向上 こうじょう させたキ87 を開発 かいはつ していたが、トラブルの多発 たはつ やキ84の開発 かいはつ を優先 ゆうせん したことで計画 けいかく は遅 おく れ終戦 しゅうせん に間 ま に合 あ わなかった。
四 よん 式 しき 戦 せん 「疾風 しっぷう 」初 はつ 公開 こうかい 時 じ の写真 しゃしん 。73Fの部隊 ぶたい マーク として垂直 すいちょく 尾翼 びよく に「赤色 あかいろ の3本 ほん ストライプ」、方向 ほうこう 舵 かじ 下端 かたん を「黄色 おうしょく の中隊 ちゅうたい 色 しょく 」で塗 ぬ り分 わ け、さらに機体 きたい 番号 ばんごう (第 だい 491号機 ごうき )下 した 二 に 桁 けた の「91」を描 えが いた飛行 ひこう 第 だい 73戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ84-I甲 かぶと )
1944年 ねん 10月 がつ 、四 よん 式 しき 戦 せん は所沢 ところざわ 陸軍 りくぐん 飛行場 ひこうじょう において各 かく 報道 ほうどう 関係 かんけい 者 しゃ に初 はつ 公開 こうかい された。公開 こうかい された機体 きたい は飛行 ひこう 第 だい 73戦隊 せんたい に所属 しょぞく し[注 ちゅう 1] 、無 む 塗装 とそう 銀地 ぎんじ に部隊 ぶたい マーク や機体 きたい 番号 ばんごう などを描 えが いた実戦 じっせん 機 き であり、この際 さい に写真 しゃしん 撮影 さつえい された機体 きたい (右 みぎ 掲画像 ぞう )は最初 さいしょ 期 き 量産 りょうさん 型 がた である第 だい 491号機 ごうき であった。
さらに愛称 あいしょう は「隼 はやぶさ (一式 いっしき 戦 せん )」、「鍾馗 しょうき (二 に 式 しき 戦 せん )」、「屠 ほふ 龍 りゅう (二 に 式 しき 複 ふく 戦 せん )」、「飛燕 ひえん (三 さん 式 しき 戦 せん )」といった各 かく 新鋭 しんえい 戦闘 せんとう 機 き に次 つ ぐものとして日本 にっぽん 全国 ぜんこく から募集 ぼしゅう された。中 なか でも多 おお くの票数 ひょうすう を占 し めかつ陸軍 りくぐん 省 しょう 選定 せんてい の結果 けっか 「疾風 しっぷう 」(はやて )の名 な が選 えら ばれた。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )4月 がつ 11日 にち 付 づけ の各 かく 新聞 しんぶん にて「殊勲 しゅくん を樹 き てている陸軍 りくぐん 最 さい 新鋭 しんえい 戦闘 せんとう 機 き 」「疾風 しっぷう のごとく敵 てき に襲 おそ いかかるわが戦闘 せんとう 機 き の雄姿 ゆうし を讃 たたえ ふにふさわしい名前 なまえ 」という賛辞 さんじ が交 まじ えられつつ、実戦 じっせん 部隊 ぶたい 所属 しょぞく 機 き の写真 しゃしん 付 つ きで発表 はっぴょう されている[2] 。
四 よん 式 しき 戦 せん 「疾風 しっぷう 」は「帝国 ていこく 陸軍 りくぐん の新鋭 しんえい 戦闘 せんとう 機 き 」として国民 こくみん に知 し られた存在 そんざい であり、一式 いっしき 戦 せん 「隼 はやぶさ 」の宣伝 せんでん に代表 だいひょう される広報 こうほう 活動 かつどう に対 たい する陸軍 りくぐん の関心 かんしん の高 たか さも相 あい まり、「疾風 しっぷう 」もまた各 かく メディアで登場 とうじょう することになる。例 れい として、1945年 ねん 7月 がつ 1日 にち 公開 こうかい の日本 にっぽん ニュース第 だい 254号 ごう では『陸 りく の猛 もう 鷲 わし 「疾風 しっぷう 」戦闘 せんとう 機 き 隊 たい 神州 しんしゅう 犯 おか す醜 みにく 翼 つばさ に挑 いど む我 が 等 とう が決戦 けっせん 機 き 隊 たい 』と題 だい し、軍歌 ぐんか 『疾風 しっぷう 戦闘 せんとう 隊 たい の歌 うた 』をBGMに、機体 きたい 番号 ばんごう を派手 はで なフォント で大 おお きく垂直 すいちょく 尾翼 びよく に描 えが いた明野 あけの 教導 きょうどう 飛行 ひこう 師団 しだん 教導 きょうどう 飛行 ひこう 隊 たい 所属 しょぞく の四 よん 式 しき 戦 せん 数 すう 十 じゅう 機 き の映像 えいぞう (地上 ちじょう 駐 ちゅう 機 き 時 じ や操縦 そうじゅう 席 せき 、4機 き 編隊 へんたい からなる小隊 しょうたい 離陸 りりく や低空 ていくう 飛行 ひこう シーン)が使用 しよう されている。なお、この日本 にっぽん ニュース第 だい 254号 ごう 『征 せい 空 そら 部隊 ぶたい 』号 ごう は海軍 かいぐん の雷電 らいでん と前 まえ 後 ご でセットになっており、また大戦 たいせん 最 さい 末期 まっき の公開 こうかい のため第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 最後 さいご の日本 にっぽん ニュースとなっている[注 ちゅう 2] 。
本 ほん 機 き に付 つ けられた連合 れんごう 軍 ぐん のコードネーム「Frank (フランク)」の由来 ゆらい は、当時 とうじ フィリピン で鹵獲 ろかく した当機 とうき をテストしたアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん のチームの長 なが 、フランク・マッコイ大佐 たいさ が、優 すぐ れた性能 せいのう を持 も つ敵 てき 機 き に自 みずか らの名 な を呈上 ていじょう したものだと伝 つた えられる。
マッコイはコードネームを付与 ふよ する部門 ぶもん の責任 せきにん 者 しゃ でもあり、自分 じぶん の名前 なまえ を有力 ゆうりょく な戦闘 せんとう 機 き に付 つ けたいと願 ねが い、一旦 いったん 「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubishi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter .)」(架空 かくう の機体 きたい )に与 あた えたが、のちにそれを取 と り上 あ げて四 よん 式 しき 戦 せん に割 わ り当 あ てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代 か わりに「Harry(ハリー)」という名 な が与 あた えられたという[3] 。
技術 ぎじゅつ 的 てき 特徴 とくちょう [ 編集 へんしゅう ]
垂直 すいちょく 尾翼 びよく に11Fの部隊 ぶたい マーク である「稲妻 いなづま (雷 かみなり ) 」を「中隊 ちゅうたい 色 しょく の白色 はくしょく 」で描 えが いた飛行 ひこう 第 だい 11戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ84-I甲 かぶと )
四 よん 式 しき 戦 せん は2,000馬力 ばりき 級 きゅう 戦闘 せんとう 機 き としては極 きわ めて小型 こがた 、軽量 けいりょう に設計 せっけい されている。基本 きほん 的 てき に一式 いっしき 戦 せん ・二 に 式 しき 戦 せん の延長線 えんちょうせん 上 じょう にあり、機軸 きじく と前 ぜん 縁 えん が直交 ちょっこう し後 ご 縁 えん が前進 ぜんしん する主翼 しゅよく や、水平 すいへい 尾翼 びよく より後方 こうほう にある垂直 すいちょく 尾翼 びよく 、蝶 ちょう 形 がた フラップ [注 ちゅう 3] 、前後 ぜんご で分割 ぶんかつ する胴体 どうたい など、中島 なかじま 製 せい 戦闘 せんとう 機 き の特徴 とくちょう を有 ゆう している。ただし、一式 いっしき 戦 せん ・二 に 式 しき 戦 せん がエンジンの後方 こうほう から急速 きゅうそく に絞 しぼ られた胴体 どうたい を採用 さいよう しているのに対 たい し、四 よん 式 しき 戦 せん ではここでの乱 らん 流 りゅう 発生 はっせい を警戒 けいかい して徐々 じょじょ に細 ほそ く絞 しぼ った胴体 どうたい 形状 けいじょう を採用 さいよう しているのが特徴 とくちょう となる。生産 せいさん 性 せい に配慮 はいりょ しているのも特徴 とくちょう で、一式 いっしき 戦 せん ・二 に 式 しき 戦 せん と比較 ひかく して生産 せいさん 時間 じかん が2/3ほどに減少 げんしょう している。
生産 せいさん 性 せい を除 のぞ くと四 よん 式 しき 戦 せん の機体 きたい 設計 せっけい は一式 いっしき 戦 せん ・二 に 式 しき 戦 せん とあまり変 か わり映 ば えのしないものであったが、九 きゅう 七 なな 戦 せん ・一式 いっしき 戦 せん では軽 かる く設定 せってい されていた操縦 そうじゅう 系統 けいとう が意図 いと 的 てき に重 おも く設定 せってい されている。従来 じゅうらい の軽 かる い操縦 そうじゅう 系統 けいとう は急 きゅう 旋回 せんかい を行 おこな えるためその際 さい にかかる荷重 におも に対応 たいおう して機体 きたい 強度 きょうど を高 たか くしなければならず、強度 きょうど 確保 かくほ のために機体 きたい 重量 じゅうりょう が増加 ぞうか し、結果 けっか として飛行 ひこう 性能 せいのう が低下 ていか するという悪循環 あくじゅんかん が起 お きていた。そこで、急 きゅう 旋回 せんかい を難 むずか しくすることで機体 きたい 強度 きょうど を低 ひく く設定 せってい して機体 きたい の軽量 けいりょう 化 か を図 はか り、速度 そくど や上昇 じょうしょう 力 りょく の向上 こうじょう につなげるという意図 いと の元 もと に重 おも い操縦 そうじゅう 系統 けいとう が採用 さいよう されている[注 ちゅう 4] 。これは陸軍 りくぐん (准尉 じゅんい )から中島 なかじま のテストパイロットに転出 てんしゅつ した吉沢 よしざわ 鶴 つる 寿 ひさし の意見 いけん を取 と り入 い れたものと推測 すいそく される。以下 いか に機体 きたい 設計 せっけい 時 じ に吉沢 よしざわ が述 の べた意見 いけん である。
「そこで
私 わたし は
翼 つばさ 桁 けた を
太 ふと くするより
操縦 そうじゅう 桿を
重 おも くして
欲 ほ しいといった。
エルロン は
軽 けい 目 め でもいいが、
昇降 しょうこう 舵 かじ と
方向 ほうこう 舵 かじ は
重 じゅう 目 め でなければいけないというのが
私 わたし の
考 かんが え。それというのもキ27から
日本人 にっぽんじん は
舵 かじ の
軽 かる いのに
慣 な れてきた。その
方 ほう が
器用 きよう に
扱 あつか え、
空中 くうちゅう 戦 せん もこなせるからであった。ところが、キ43クラスになると
操縦 そうじゅう 桿を
思 おも わず
引 ひ っぱりすぎて
空中 くうちゅう 分解 ぶんかい を
起 お こすケースも
出 で てきた。これを
避 さ けるには
翼 つばさ 桁 けた を
太 ふと くすればよいかもしれないが、それでは
機体 きたい が
大 おお きく
重 おも くなる。これに
対 たい し、アメリカ、
イギリス 、
ドイツ のは
実 じつ に
舵 かじ が
重 おも い。どんなに
引 ひ っ
張 ぱ っても、われわれ
日本人 にっぽんじん の
力 ちから では
効 き かないぐらい
重 おも い。これはひとつにはスティックの
長 なが さが
違 ちが うこともある。
日本 にっぽん のは
長 なが い。
当然 とうぜん 、レシオが
異 こと なってくるわけで、この
点 てん を
改 あらた めたいと
思 おも っていたわけだ」
— 吉沢 よしざわ 鶴 つる 寿 ひさし 、井口 いぐち 修道 しゅうどう 「軍用 ぐんよう 機 き メカ・シリーズ7」中 ちゅう の『異色 いしょく のテス・パイ“疾風 しっぷう ”を語 かた る』(光人 みつひと 社 しゃ )より
しかし日本 にっぽん 軍 ぐん のパイロットは鹵獲 ろかく したソ連 それん 空軍 くうぐん のI-16 やLaGG-3 に対 たい してもテスト時 じ に操縦 そうじゅう 桿が重 おも いという評価 ひょうか を下 くだ すなど、九 きゅう 七 なな 戦 せん から続 つづ く軽 かる い操縦 そうじゅう 桿を前提 ぜんてい としていた。特 とく にベテランからは「いざというときに敵 てき 弾 だん を回避 かいひ できない気 き がする」「座敷 ざしき のような広 ひろ い主翼 しゅよく のついた、押 お しても引 ひ いてもびくともしない戦闘 せんとう 機 き 」「何 なに をしてもできるが、何 なに をしても大 たい したことがない戦闘 せんとう 機 き 」と不評 ふひょう を投 とう じる向 む きもあった。このため四 よん 式 しき 戦 せん では急 きゅう 旋回 せんかい を多用 たよう する従来 じゅうらい の格闘 かくとう 戦 せん を行 おこな い難 がた くなり、速度 そくど を活 い かした一撃 いちげき 離脱 りだつ 戦法 せんぽう を中心 ちゅうしん とした戦術 せんじゅつ を用 もち いなければ本来 ほんらい の能力 のうりょく を活 い かせなくなった。
上記 じょうき 、昇降 しょうこう 舵 かじ の重 おも さについては設計 せっけい 主務 しゅむ 者 しゃ である小山 こやま 悌、テストパイロットの吉沢 よしざわ 鶴 つる 寿 ひさし 、計画 けいかく 課長 かちょう の内藤 ないとう 文治 ぶんじ は雑誌 ざっし 『航空 こうくう 情報 じょうほう 』上 じょう の対談 たいだん において戦後 せんご 、以下 いか のように述 の べている。
「
吉沢 よしざわ 黒江 くろえ 保彦 やすひこ さん(
元 もと 少佐 しょうさ )も
述 の べていたようですが,
突 つ っ
込 こ みがよくなかったと
思 おも いますね。
馬場 ばば 加速 かそく 性 せい が悪 わる いのですか?
吉沢 よしざわ つまり,突 つ っ込 こ みますと,昇降 しょうこう 舵 かじ に応 こた えて重 おも くなり, 押 お さえがきかなくなってしまう。だから,機首 きしゅ が持 も ち上 あ がってしまう。
小山 こやま あの時 とき の思想 しそう としては,ある程度 ていど 突 つ っ込 こ んでいったら, 機首 きしゅ が起 お きるほうがよいと記憶 きおく しています。どんどん突 つ っ込 こ んでいったら,どんなことになるか分 わ からぬ。そういうことを審査 しんさ 員 いん が心配 しんぱい されたので,意識 いしき して「昇降 しょうこう 舵 かじ は速度 そくど を増 ま してくると重 おも くなる」といっていましたよ。
吉沢 よしざわ 敵 てき がどんどん逃 に げたら,どうしょうもない。
小山 こやま そう,逃 に げる者 もの は当時 とうじ としては追 お わぬ,戦闘 せんとう 機 き パイロットの思想 しそう としては……。
内藤 ないとう 結局 けっきょく ,戦法 せんぽう が変 か わっちゃったのだから……。」
— 『知 し られざる軍用 ぐんよう 機 き 開発 かいはつ 』下巻 げかん 所収 しょしゅう の座談 ざだん 会 かい 「キ87高 だか 々度 ど 戦闘 せんとう 機 き の思 おも い出 で 」(酣 たけなわ 燈 とう 社 しゃ )124-125頁 ぺーじ より
操縦 そうじゅう 者 しゃ によっては旧式 きゅうしき の一式 いっしき 戦 せん や、末期 まっき に登場 とうじょう した五 ご 式 しき 戦闘 せんとう 機 き (キ100)を高 たか く評価 ひょうか する事 こと があるのは、エンジンの信頼 しんらい 性 せい のほか旋回 せんかい 性能 せいのう により自身 じしん の技量 ぎりょう を発揮 はっき できる機体 きたい であったからとも言 い える。同様 どうよう な指摘 してき は高速 こうそく な万能 ばんのう 戦闘 せんとう 機 き を目指 めざ して軽 けい 戦 せん と重 じゅう 戦 せん の中間 ちゅうかん の戦闘 せんとう 機 き (中 ちゅう 戦 せん )とも呼 よ ばれながら、米 べい 軍 ぐん の新鋭 しんえい 機 き には速度 そくど で一式 いっしき 戦 せん には運動 うんどう 性能 せいのう で劣 おと るうえ、液 えき 冷 ひや エンジン の不調 ふちょう にも悩 なや まされた三 さん 式 しき 戦 せん にもされている。しかし、飛行 ひこう 第 だい 22戦隊 せんたい 附 ふ 脇 わき 森 もり 降 くだ 一郎 いちろう 少尉 しょうい の「操縦 そうじゅう 桿を力 ちから っぱい振 ふ れば格闘 かくとう 戦 せん 用 よう の旋回 せんかい 能力 のうりょく もかなりある」といった感想 かんそう や、実戦 じっせん での模様 もよう から四 よん 式 しき 戦 せん は「格闘 かくとう 戦 せん も出来 でき る重 じゅう 戦 せん 」、「軽 けい 戦 せん (一式 いっしき 戦 せん )と重 じゅう 戦 せん (二 に 式 しき 戦 せん )の良 よ いとこ取 と り」とも評価 ひょうか されており、機体 きたい 特性 とくせい に合 あ わせた戦法 せんぽう に転換 てんかん したパイロットからは好評 こうひょう であった。また、高 こう 高度 こうど での操縦 そうじゅう 性 せい や速度 そくど 、防御 ぼうぎょ の点 てん で劣 おと る機体 きたい が多 おお い日本 にっぽん 軍機 ぐんき の中 なか では比較的 ひかくてき 良好 りょうこう なため、高速 こうそく 化 か したアメリカ軍機 ぐんき との空戦 くうせん で成果 せいか を上 あ げた。また爆 ばく 装 そう が可能 かのう なため対地 たいち 攻撃 こうげき でも成果 せいか を上 あ げている。
背 せ の低 ひく い垂直 すいちょく 尾翼 びよく は下膨 しもぶく れ型 がた [4] と言 い われ、プロペラ後 ご 流 りゅう の悪影響 あくえいきょう を軽減 けいげん する手法 しゅほう のひとつである。プロペラ後 ご 流 りゅう は螺旋 らせん 状 じょう に回転 かいてん しており垂直 すいちょく 尾翼 びよく を横 よこ から叩 たた いて機首 きしゅ を偏向 へんこう させるが、これは外周 がいしゅう 側 がわ ほど強力 きょうりょく であり、垂直 すいちょく 尾翼 びよく の面積 めんせき 重心 じゅうしん をプロペラ軸 じく に寄 よ せる事 こと でその影響 えいきょう を小 ちい さくできる[4] 。欧米 おうべい の単発 たんぱつ 戦闘 せんとう 機 き の垂直 すいちょく 尾翼 びよく は背 せ が高 たか いがプロペラ軸 じく を数 すう 度 ど 下向 したむ き[注 ちゅう 5] にして同様 どうよう の効果 こうか を得 え ている[4] 。また、離陸 りりく 滑走 かっそう から浮揚 ふよう への迎 むかえ 角 かく 変化 へんか の際 さい 、垂直 すいちょく 尾翼 びよく へのペラ後 ご 流 りゅう の当 あ たり方 かた が急変 きゅうへん し、逆 ぎゃく の当 とう 舵 かじ で修正 しゅうせい が必要 ひつよう な瞬間 しゅんかん があるが、操作 そうさ が遅 おく れると機首 きしゅ を急激 きゅうげき に振 ふ られやすい。この現象 げんしょう はヒッカケラレと呼 よ び、これの軽減 けいげん にも上記 じょうき 対策 たいさく が有効 ゆうこう である[5] 。
正面 しょうめん
機首 きしゅ 右側 みぎがわ
機首 きしゅ 左側 ひだりがわ
操縦 そうじゅう 席 せき 部分 ぶぶん
尾翼 びよく
搭載 とうさい エンジンであるハ45はハ25 /ハ115 (海軍 かいぐん 名 めい 「栄 さかえ 」)の18気筒 きとう 版 はん とでも言 い うべきものであり、当時 とうじ 、欧米 おうべい に水 みず を空 あ けられていたエンジン技術 ぎじゅつ の格差 かくさ を埋 う めるべく、ハ25と殆 ほとん ど同 おな じ前面 ぜんめん 面積 めんせき で約 やく 2倍 ばい の出力 しゅつりょく を目指 めざ した新 しん 世代 せだい エンジンであった。やや無理 むり な小型 こがた 化 か が行 おこな われたためエンジン各部 かくぶ の余裕 よゆう が少 すく なく、「芸術 げいじゅつ 品 ひん 」と評 ひょう されるほど繊細 せんさい な部分 ぶぶん があったとされる。このため大戦 たいせん 末期 まっき の量産 りょうさん 時 じ には、初期 しょき 故障 こしょう の頻発 ひんぱつ の上 うえ に、1943年 ねん 11月に合理 ごうり 的 てき な兵器 へいき の大量 たいりょう 生産 せいさん を実現 じつげん させる目的 もくてき で設立 せつりつ された軍需 ぐんじゅ 省 しょう が、中島 なかじま 飛行機 ひこうき の多摩 たま 製作所 せいさくしょ と武蔵野 むさしの 製作所 せいさくしょ (前者 ぜんしゃ は海軍 かいぐん 用 よう 発動 はつどう 機 き 、後者 こうしゃ は陸軍 りくぐん 用 よう 発動 はつどう 機 き をそれぞれ生産 せいさん していた)を統合 とうごう したが、既 すで にこの2つの工場 こうじょう は陸海 りくかい 軍用 ぐんよう に別個 べっこ に生産 せいさん を行 おこな う大 だい 工場 こうじょう として機能 きのう していた為 ため に、この統合 とうごう は生産 せいさん 管理 かんり 能力 のうりょく の限界 げんかい を超 こ えてしまった。結果 けっか として完成 かんせい 品 ひん の検査 けんさ 体制 たいせい が疎 おろ かになり、製造 せいぞう 時 じ の不具合 ふぐあい も発見 はっけん されないままに問題 もんだい を抱 かか えた発動 はつどう 機 き が陸海 りくかい 軍 ぐん に領収 りょうしゅう されてゆく事態 じたい となり、額面 がくめん 通 どお りの性能 せいのう が発揮 はっき できないものが多発 たはつ した[注 ちゅう 6] 。この事態 じたい に陸海 りくかい 軍 ぐん や中島 なかじま が手 て をこまねいていたわけではなく、可能 かのう な限 かぎ りの対策 たいさく が取 と られている。なお、1944年 ねん に海軍 かいぐん に納 おさ められた誉 ほまれ のベンチテスト の結果 けっか が、カタログ値 ち より数 すう 割 わり 低 ひく かったという証言 しょうげん があるが、その反面 はんめん で同 どう 時期 じき にフィリピンでアメリカ軍 ぐん に鹵獲 ろかく され、好 こう 評価 ひょうか を得 え た機体 きたい のハ45は完全 かんぜん な量産 りょうさん 品 ひん であった。
ハ45は高 こう 品質 ひんしつ の100オクタンガソリンの使用 しよう を前提 ぜんてい に設計 せっけい されたが、対外 たいがい 情勢 じょうせい の悪化 あっか に伴 ともな い入手 にゅうしゅ が困難 こんなん となったため、91オクタンガソリンに水 みず メタノール噴射 ふんしゃ を行 おこな うことで100オクタンガソリンと同様 どうよう の効果 こうか を得 え られる様 よう に設計 せっけい 変更 へんこう された。反面 はんめん この水 みず メタノール噴射 ふんしゃ の調整 ちょうせい が難 むずか しく、ハ45の不調 ふちょう 原因 げんいん の一 ひと つとなっている(一式 いっしき 戦 せん 三 さん 型 がた や雷電 らいでん においても同様 どうよう の不調 ふちょう が発生 はっせい している)。因 ちな みに「陸軍 りくぐん は87オクタンガソリンが精 せい 々で実態 じったい はそれ以下 いか 」とする説 せつ もあるが、本土 ほんど だけでなく南方 なんぽう に展開 てんかい していた実戦 じっせん 部隊 ぶたい の記録 きろく には最低限 さいていげん の需要 じゅよう を満 み たす程度 ていど の91オクタンガソリンは安定 あんてい 的 てき に供給 きょうきゅう されていたことが記 しる されており、87オクタンガソリンで飛 と んだという証言 しょうげん も「後方 こうほう で実用 じつよう 機 き を転用 てんよう した練習 れんしゅう 機 き に使 つか えるかどうか試 ため してみた」や「実戦 じっせん でも使 つか えないか試験 しけん 的 てき に入 い れて飛行 ひこう してみた」という記述 きじゅつ がほとんどである。つまり、陸海 りくかい 軍 ぐん を問 と わず、練習 れんしゅう 機 き を除 のぞ く第一線 だいいっせん の実用 じつよう 機 き には91オクタンガソリンが使用 しよう されていたことになる。しかし、飛行 ひこう 第 だい 47戦隊 せんたい で整備 せいび 隊長 たいちょう を務 つと めていた刈谷 かりや 正 ただし 意 い 大尉 たいい は自著 じちょ で「これ(ガソリン)自身 じしん も果 は たして充分 じゅうぶん にその性能 せいのう を発揮 はっき していたか疑 うたが わしい」と述 の べており、「燃料 ねんりょう の性能 せいのう が額面割 がくめんわ れ」していた可能 かのう 性 せい も全 まった く無 な いとは言 い えない。海軍 かいぐん の誉 ほまれ 搭載 とうさい 機 き である銀河 ぎんが を運用 うんよう した元 もと 攻撃 こうげき 第 だい 405飛行 ひこう 隊長 たいちょう の鈴木 すずき 瞭 あきら 五郎 ごろう 大尉 たいい も「当時 とうじ のA91G(航空 こうくう 91揮発 きはつ 油 ゆ )はA87G(航空 こうくう 87揮発 きはつ 油 ゆ )程度 ていど 、またA87GはA85G(航空 こうくう 85揮発 きはつ 油 ゆ )程度 ていど の質 しつ に低下 ていか 」と燃料 ねんりょう についての実情 じつじょう を証言 しょうげん している[6] 。
「ハ45(誉 ほまれ )」の運転 うんてん 制限 せいげん [ 編集 へんしゅう ]
1943年 ねん 7月 がつ 1日 にち と10日 とおか の2回 かい 、審査 しんさ 部 ぶ のある多摩 たま 陸軍 りくぐん 飛行場 ひこうじょう で行 おこな われた飛行 ひこう 実験 じっけん 機材 きざい によれば、「供 きょう 試 ためし 機体 きたい キ84第 だい 3号機 ごうき 」「発動 はつどう 機 き ハ45特 とく 」とある。中島 なかじま の技術 ぎじゅつ 報告 ほうこく 書 しょ によると、ハ45特 とく は離 はなれ 昇 のぼり 2,000馬力 ばりき のハ45(海軍 かいぐん 名誉 めいよ 二 に 一 いち 型 がた )より先行 せんこう して開発 かいはつ されていた離 はなれ 昇 のぼり 1,800馬力 ばりき の誉 ほまれ 一 いち 一 いち 型 がた と同 おな じになっている。つまり四 よん 式 しき 戦 せん の初期 しょき 試作 しさく 機 き が搭載 とうさい していたハ45特 とく は誉 ほまれ 一 いち 一 いち 型 がた とほとんど同 おな じものということである。なお、ハ45特 とく と離 はなれ 昇 のぼり 出力 しゅつりょく 2,000馬力 ばりき のハ45の性能 せいのう 差 さ は、不具合 ふぐあい への対策 たいさく による運転 うんてん 制限 せいげん によるものである。この運転 うんてん 制限 せいげん はキ84の操縦 そうじゅう 参考 さんこう 書 しょ にも「ハ45特 とく と同等 どうとう の水準 すいじゅん に運転 うんてん 制限 せいげん を行 おこな う」と明記 めいき されている。なお、1944年 ねん 末 まつ になっても、ほぼ同 どう 一 いち エンジンの紫電 しでん 改 あらため の操縦 そうじゅう 参考 さんこう 書 しょ において「制限 せいげん 解除 かいじょ の見通 みとお しが立 た ちつつある」と述 の べられていることから、かなりの長期間 ちょうきかん 運転 うんてん 制限 せいげん が行 おこな われていたのは確 たし かである[注 ちゅう 7] 。
大 だい 出力 しゅつりょく のハ45に対応 たいおう すべくプロペラも一式 いっしき 戦 せん や零 れい 戦 せん に使 つか われていたハミルトン・スタンダード 製 せい の油圧 ゆあつ 式 しき 可変 かへん 3翅(海軍 かいぐん 向 む けは住友金属 すみともきんぞく 、陸軍 りくぐん 向 む けは日本 にっぽん 楽器 がっき 製造 せいぞう が生産 せいさん )[注 ちゅう 8] から、よりピッチ変更 へんこう 角度 かくど が大 おお きいフランス のラチェ社 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) の電動 でんどう 可変 かへん 4翅(日本 にっぽん 国際 こくさい 航空 こうくう 工業 こうぎょう がライセンス生産 せいさん 権 けん を得 え ていた)の採用 さいよう を検討 けんとう したが、当初 とうしょ ピッチ変動 へんどう 速度 そくど が遅 おそ く戦闘 せんとう 機 き には不向 ふむ きとされた。日本 にっぽん 国際 こくさい 航空 こうくう 工業 こうぎょう では変動 へんどう 速度 そくど を毎秒 まいびょう 1.2度 ど から13.2度 ど とした改良 かいりょう 型 がた 「ペ32」の開発 かいはつ に成功 せいこう し、戦闘 せんとう 機 き へも搭載 とうさい 可能 かのう となった[7] 。しかし日本 にっぽん では電動 でんどう 可変 かへん 機構 きこう の経験 けいけん が少 すく なく、変節 へんせつ 速度 そくど が早 はや 過 す ぎてハンチングやエンジンの過 か 回転 かいてん といった問題 もんだい が発生 はっせい し、最終 さいしゅう 的 てき には電動 でんどう 機 き の電力 でんりょく を半減 はんげん して動作 どうさ 速度 そくど を落 お とす(毎秒 まいびょう 13.2度 ど から6.6度 ど )ことで一応 いちおう の解決 かいけつ を見 み たが、現場 げんば の整備 せいび 員 いん にも不慣 ふな れな者 もの が多 おお く不安定 ふあんてい な部品 ぶひん 精度 せいど と相 あい まって故障 こしょう が相次 あいつ ぎ、エンジンと並 なら んで四 よん 式 しき 戦 せん が不調 ふちょう となる元凶 げんきょう となった[1] 。日本 にっぽん 楽器 がっき 製造 せいぞう では故障 こしょう の原因 げんいん となっていた電動 でんどう 部分 ぶぶん を、自社 じしゃ がライセンスを生産 せいさん 権 けん を得 え ていたユンカース社 しゃ の油圧 ゆあつ 式 しき 可変 かへん プロペラの機構 きこう で置 お き換 か えた「ぺ・33」を試作 しさく し四 よん 式 しき 重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き へ搭載 とうさい する予定 よてい だったが終戦 しゅうせん には間 ま に合 あ わなかった[8] 。
四 よん 式 しき 戦 せん に採用 さいよう されたプロペラブレードは直径 ちょっけい 3.05 mの4翅で、諸 しょ 外国 がいこく の2,000馬力 ばりき クラスの戦闘 せんとう 機 き も3.6 - 4.0 mが中心 ちゅうしん であるなど比 くら べると小 ちい さい。これが上昇 じょうしょう 力 りょく や最高 さいこう 速度 そくど の発揮 はっき を難 むずか しくしたと言 い われている。同 どう 時期 じき に海軍 かいぐん の紫電 しでん /紫電 しでん 改 あらため に採用 さいよう されたドイツ のVDM社 しゃ 製 せい [注 ちゅう 9] のプロペラが直径 ちょっけい 3.3 m、同 おな じ中島 なかじま 製 せい の彩雲 さいうん が3.5 mを採用 さいよう したことから、機体 きたい を小型 こがた にまとめようとするあまり、小径 しょうけい のプロペラを採用 さいよう したことを悔 く やむ意見 いけん も後年 こうねん 多 おお く出 だ されている。そもそも中島 なかじま では設計 せっけい 段階 だんかい で「プロペラ効率 こうりつ 76 % で、最高 さいこう 速度 そくど 660 km/h」と試算 しさん し、実際 じっさい それに近 ちか い速度 そくど 性能 せいのう を発揮 はっき している。
同 おな じペ32を採用 さいよう した試作 しさく 高 だか 高度 こうど 防空 ぼうくう 戦闘 せんとう 機 き のキ94 は、上昇 じょうしょう 力 りょく と高 こう 高度 こうど 性能 せいのう を重視 じゅうし し直径 ちょっけい 4 mのブレードを採用 さいよう している。
1945年 ねん 、アメリカ軍 ぐん によって鹵獲 ろかく された四 よん 式 しき 戦 せん と連合 れんごう 軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き との編隊 へんたい 飛行 ひこう 。手前 てまえ よりシーファイア(スピットファイア) 、四 よん 式 しき 戦 せん 「疾風 しっぷう 」、F6F-5 ヘルキャット 、P-51D「マスタング」 。
四 よん 式 しき 戦 せん の最 さい 高速度 こうそくど は、審査 しんさ 部 ぶ の岩橋 いわはし 少佐 しょうさ が高度 こうど 5,000 mで記録 きろく した624 km/hが広 ひろ く知 し られている。同 おな じ試作 しさく 機 き の別 べつ の記録 きろく では、高度 こうど 6,000 mにて640 km/hというのもある。また、船橋 ふなばし 中尉 ちゅうい が試作 しさく 4号機 ごうき により、高度 こうど 6,120 mにて631 km/hを記録 きろく している。
しかしこれらの記録 きろく は、いずれも推力 すいりょく 式 しき 集合 しゅうごう 排気 はいき 管 かん を装備 そうび した初期 しょき 試作 しさく 機 き のもので、量産 りょうさん 型 がた と同 おな じ推力 すいりょく 式 しき 単 たん 排気 はいき 管 かん に改造 かいぞう した機体 きたい では、キ84-I乙 おつ 試作 しさく 機 き が審査 しんさ 部 ぶ において高度 こうど 6,000において660 km/hを記録 きろく した。実戦 じっせん においてはエンジンの調子 ちょうし が良 よ い時 とき ならば、一 いち 型 がた 甲 かぶと 量産 りょうさん 機 き が650 - 655 km/h以上 いじょう 出 で たという証言 しょうげん がある[要 よう 出典 しゅってん ] 。
アメリカ軍 ぐん はフィリピンの戦 たたか い で鹵獲 ろかく した飛行 ひこう 第 だい 11戦隊 せんたい 所属 しょぞく であった第 だい 1446号機 ごうき (1944年 ねん 12月に製造 せいぞう された量産 りょうさん 機 き )を使 つか い、戦後 せんご の1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )4月 がつ 2日 にち から5月 がつ 10日 とおか にかけて、ペンシルベニア州 しゅう のミドルタウン航空 こうくう 兵站 へいたん 部 ぶ (Middletown Air Depot)で性能 せいのう テストを行 おこな った。
100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカ製 せい 点火 てんか プラグを使用 しよう した四 よん 式 しき 戦 せん は、武装 ぶそう を取 と り除 のぞ いた重量 じゅうりょう 7,490 lb (3,397 kg)の状態 じょうたい で(四 よん 式 しき 戦 せん の正規 せいき 全備 ぜんび 重量 じゅうりょう は3,890 kg)、高度 こうど 20,000 ft (6,096 m )において427 mph (687 km/h )を記録 きろく した。これは同 どう 高度 こうど におけるP-51D-25-NA マスタング およびP-47D-35-RA サンダーボルト の最 さい 高速度 こうそくど よりも、それぞれ3 mph(5 km/h)および22 mph(35 km/h)優 ゆう 速 そく であった[9] 。しかし、この高度 こうど 6,096 mでの最 さい 高速度 こうそくど が全 ぜん 高度 こうど における四 よん 式 しき 戦 せん の最 さい 高速度 こうそくど であり、それ以上 いじょう の高度 こうど では速度 そくど が落 お ちてしまうので[10] 、高度 こうど 7,600 mで最高 さいこう 速度 そくど 703 km/hを出 だ せるP-51Dや、9,145 mで最高 さいこう 速度 そくど 697 km/hを記録 きろく するP-47Dに対 たい して必 かなら ずしも優位 ゆうい に立 た つものではない。
1945年 ねん 3月 がつ 作成 さくせい のアメリカ軍 ぐん 資料 しりょう "Manual on Japanese aircraft, TAIC No. 1" によると、高度 こうど 20,000 ftで約 やく 425 mph (684 km/h)、高度 こうど 30,000 ftで約 やく 392 mph (631 km/h)、試験 しけん 条件 じょうけん は重量 じゅうりょう 7,940 lb (3,602 kg)、緊急 きんきゅう 戦闘 せんとう 出力 しゅつりょく 運転 うんてん となっている[11] 。ただし、この資料 しりょう の冒頭 ぼうとう には "Except where otherwise stated, performance figures represent estimates of the Technical Air Intelligence Center and have been calculated after a careful analysis of information derived from intelligence, captured equipment, drawings, and photographs, using power ratings derived from the same sources."(特 とく に明記 めいき されていない限 かぎ り、性能 せいのう の数値 すうち は技術 ぎじゅつ 航空 こうくう 情報 じょうほう センターの推定 すいてい 値 ち であり、情報 じょうほう 、捕獲 ほかく した装備 そうび 、図面 ずめん 、写真 しゃしん から得 え た情報 じょうほう を慎重 しんちょう に分析 ぶんせき した後 のち 、同 おな じ情報 じょうほう 源 げん から得 え た出力 しゅつりょく 定 てい 格 かく を用 もち いて算出 さんしゅつ したものである。)とあり、四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き の場合 ばあい も実際 じっさい に飛行 ひこう させて計測 けいそく された最大 さいだい 速度 そくど ではない。
陸軍 りくぐん 単発 たんぱつ 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き としては初 はじ めて計画 けいかく 段階 だんかい から20mm機関 きかん 砲 ほう (ホ5 二 に 式 しき 二 に 十 じゅう 粍 みりめーとる 固定 こてい 機関 きかん 砲 ほう )の装備 そうび が要求 ようきゅう された機体 きたい で、当時 とうじ の陸軍 りくぐん 単発 たんぱつ 単座 たんざ 戦闘 せんとう 機 き の中 なか ではホ301 装備 そうび の二 に 式 しき 戦 せん 二 に 型 がた 乙 おつ (キ44-II乙 おつ )を除 のぞ き、三 さん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 丙 へい /丁 ちょう (キ61-I丙 へい /丁 ちょう )・二 に 型 がた (キ61-II改 あらため )と並 なら んで最 もっと も火力 かりょく が大 おお きかった。かつ、一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ84-I甲 かぶと )のホ103 一式 いっしき 十 じゅう 二 に ・七 なな 粍 みりめーとる 機関 きかん 砲 ほう は携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 350発 はつ と、同 おな じく機首 きしゅ 砲 ほう としてホ103を装備 そうび する一式 いっしき 戦 せん 二 に 型 がた /三 さん 型 がた (キ43-II/III)・二 に 式 しき 戦 せん 二 に 型 がた 丙 へい (キ44-II丙 へい )・三 さん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 乙 おつ (キ61-I乙 おつ )の250〜270発 はつ より約 やく 100発 はつ 増量 ぞうりょう されている。しかし世界 せかい 的 てき な趨勢 すうせい からみるとやや軽 けい 武装 ぶそう であるのは否 いな めず、開発 かいはつ の比較的 ひかくてき 初期 しょき 段階 だんかい から武装 ぶそう 強化 きょうか 型 がた の乙 おつ 型 がた や丙 へい 型 がた の開発 かいはつ が始 はじ まっている。照準 しょうじゅん 器 き は一式 いっしき 戦 せん 二 に 型 がた (キ43-II)などが装備 そうび していた従来 じゅうらい の一 いち 〇〇式 しき 射撃 しゃげき 照準 しょうじゅん 器 き (光 ひかり 像 ぞう 式 しき )に代 か わり、量産 りょうさん 機 き では新 しん 開発 かいはつ の三 さん 式 しき 射撃 しゃげき 照準 しょうじゅん 器 き (光 ひかり 像 ぞう 式 しき )を装備 そうび している。
防弾 ぼうだん ・防火 ぼうか 装備 そうび については従来 じゅうらい の陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 機 き と同 おな じく当初 とうしょ から装備 そうび されている。
全 すべ ての燃料 ねんりょう タンクは積層 せきそう ゴム で包 つつ まれたセルフシーリング 式 しき の防火 ぼうか タンク(防 ぼう 漏 も タンク・防弾 ぼうだん タンク、12.7mm弾 だん 対応 たいおう )、操縦 そうじゅう 者 しゃ の頭部 とうぶ と上半身 じょうはんしん を保護 ほご するため操縦 そうじゅう 席 せき 背面 はいめん に12.4 mm厚 あつ 重量 じゅうりょう 29.5kg表面 ひょうめん 硬度 こうど 828HVの防弾 ぼうだん 鋼板 こうはん (浸炭 しんたん 処理 しょり 済 ずみ SNCM材 ざい 、12.7mm弾 だん 対応 たいおう )を備 そな え、さらに風防 ふうぼう 前面 ぜんめん は70 mm厚 あつ の防弾 ぼうだん ガラス となっている。また、被弾 ひだん 墜落 ついらく 時 じ に操縦 そうじゅう 者 しゃ の脱出 だっしゅつ を手助 てだす けするため天蓋 てんがい には飛散 ひさん 装置 そうち が設定 せってい されており、操縦 そうじゅう 席 せき 上部 じょうぶ の槓杵を引 ひ くと風圧 ふうあつ で天蓋 てんがい 自体 じたい が容易 ようい に外 はず れ飛 と び、操縦 そうじゅう 者 しゃ は迅速 じんそく に機外 きがい 脱出 だっしゅつ ・落下傘 らっかさん 降下 こうか が可能 かのう となっている。
中国 ちゅうごく 大陸 たいりく 戦線 せんせん [ 編集 へんしゅう ]
岩橋 いわはし 譲 ゆずる 三 さん 中佐 ちゅうさ (陸軍 りくぐん 航空 こうくう 兵 へい 大尉 たいい 時代 じだい )
四 よん 式 しき 戦 せん を本格 ほんかく 的 てき に装備 そうび する実戦 じっせん 部隊 ぶたい は1944年 ねん 3月 がつ 1日 にち 付 づけ 編成 へんせい [注 ちゅう 10] の飛行 ひこう 第 だい 22戦隊 せんたい で、垂直 すいちょく 尾翼 びよく に描 えが く部隊 ぶたい マークを菊水 きくすい 紋 もん とした同 どう 戦隊 せんたい は四 よん 式 しき 戦 せん の実戦 じっせん テストも兼 か ねたものであり、使用 しよう 機体 きたい はキ84増加 ぞうか 試作 しさく 機 き を、幹部 かんぶ 空中 くうちゅう 勤務 きんむ 者 しゃ ・地上 ちじょう 勤務 きんむ 者 しゃ は主 おも に審査 しんさ 部 ぶ から精鋭 せいえい を抽出 ちゅうしゅつ となり[注 ちゅう 11] 戦隊 せんたい 長 ちょう は当機 とうき を熟知 じゅくち していた審査 しんさ 主任 しゅにん であり、ノモンハン事件 じけん からのエース・パイロット でもあった岩橋 いわはし 譲 ゆずる 三 さん 少佐 しょうさ 、整備 せいび 隊長 たいちょう は同 おな じくキ84班 はん 整備 せいび 班長 はんちょう として長 なが く携 たずさ わっていた中村 なかむら 考 こう 大尉 たいい の両 りょう 名 な が任命 にんめい された。第 だい 22戦隊 せんたい は太平洋戦争 たいへいようせんそう の「天王山 てんのうざん 」と称 しょう されるフィリピンの戦 たたか い に投入 とうにゅう 予定 よてい であった。
一方 いっぽう で5月 がつ 末 まつ 、一 いち 号 ごう 作戦 さくせん (大陸 たいりく 打 だ 通 どおり 作戦 さくせん )を控 ひか えた支 ささえ 那 な 派遣 はけん 軍 ぐん の第 だい 5航空 こうくう 軍 ぐん は、参謀 さんぼう 長 ちょう 橋本 はしもと 秀信 ひでのぶ 少将 しょうしょう が参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 第 だい 一 いち 次長 じちょう 後宮 こうきゅう 淳 あつし 大将 たいしょう に対 たい し新鋭 しんえい 機 き 四 よん 式 しき 戦 せん ・四 よん 式 しき 重 じゅう 爆 ばく 、電波 でんぱ 警戒 けいかい 機 き などの補充 ほじゅう を求 もと めた。当時 とうじ の中国 ちゅうごく 方面 ほうめん 航空 こうくう 兵力 へいりょく の差 さ は1対 たい 3と推定 すいてい され、この劣勢 れっせい を新鋭 しんえい 機 き 投入 とうにゅう で解決 かいけつ しようとしたものであり、結果 けっか 、四 よん 式 しき 重 じゅう 爆 ばく の派遣 はけん は見送 みおく られたが四 よん 式 しき 戦 せん 派遣 はけん の要望 ようぼう は早々 そうそう に叶 かな えられたとされる[12] 。当時 とうじ の中国 ちゅうごく 戦線 せんせん (中国 ちゅうごく 航空 こうくう 戦 せん )には一式 いっしき 戦 せん と二 に 式 しき 戦 せん が投入 とうにゅう されており、帝国 ていこく 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 部隊 ぶたい は1943年 ねん 8月 がつ 21日 にち から1944年 ねん 5月 がつ 6日 にち の期間 きかん 中 ちゅう 、空戦 くうせん 損害 そんがい 僅 わず か10機 き 喪失 そうしつ (一式 いっしき 戦 せん 8機 き ・二 に 式 しき 戦 せん 2機 き )に対 たい し最低 さいてい でも連合 れんごう 軍機 ぐんき 44機 き を確実 かくじつ 撃墜 げきつい (戦闘 せんとう 機 き 33機 き ・爆 ばく 撃 げき 機 き 11機 き )、大戦 たいせん 中 ちゅう 後期 こうき においてもビルマ航空 こうくう 戦 せん と並 なら び、連合 れんごう 軍 ぐん 空軍 くうぐん に対 たい して互角 ごかく 以上 いじょう の勝負 しょうぶ を行 おこな い度重 たびかさ なる勝利 しょうり を収 おさ めていた(一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き #中国 ちゅうごく 航空 こうくう 戦 せん )[13] 。しかし、1944年 ねん 半 なか ば当時 とうじ は上述 じょうじゅつ の兵力 へいりょく 差 さ の拡大 かくだい に加 くわ えて、連合 れんごう 軍 ぐん は従来 じゅうらい 機 き の性能 せいのう を向上 こうじょう させた発展 はってん 型 がた であるP-40N およびP-38J や、高性能 こうせいのう 新鋭 しんえい 機 き であるP-51B/C、P-47 といった戦闘 せんとう 機 き を投入 とうにゅう するようになり、苦戦 くせん を強 し いられるようになっていた。また零 れい 戦 せん や一式 いっしき 戦 せん と互角 ごかく に格闘 かくとう 戦 せん ができるF6F に対 たい しては、運動 うんどう 性能 せいのう が劣 おと り歯 は が立 た たなかった。
7月 がつ 上旬 じょうじゅん 、中国 ちゅうごく 航空 こうくう 戦 せん を二 に 式 しき 戦 せん で戦 たたか っている飛行 ひこう 第 だい 85戦隊 せんたい が四 よん 式 しき 戦 せん への機種 きしゅ 改変 かいへん に着手 ちゃくしゅ 。まず派遣 はけん された4名 めい の操縦 そうじゅう 者 しゃ が漢 かん 口 こう で伝習 でんしゅう 教育 きょういく を受 う け、4機 き を広東 かんとん の第 だい 85戦隊 せんたい へ持 も ち帰 かえ り改変 かいへん を進 すす め、8月 がつ 1日 にち 時点 じてん での戦隊 せんたい 保有 ほゆう 稼動 かどう 機 き は二 に 式 しき 戦 せん 22機 き に対 たい し四 よん 式 しき 戦 せん 3機 き 。さらに第 だい 85戦隊 せんたい は9月に漢 かん 口 こう で四 よん 式 しき 戦 せん 9機 き を受領 じゅりょう した[14] 。第 だい 22戦隊 せんたい は1ヶ月 かげつ 限定 げんてい で中国 ちゅうごく 航空 こうくう 戦 せん に派遣 はけん されることになり、8月 がつ 25日 にち に南京 なんきん に到着 とうちゃく 、漢 かん 口 こう を根拠地 こんきょち 飛行場 ひこうじょう に白 しろ 螺 にし 磯 いそ を前進 ぜんしん 飛行場 ひこうじょう として作戦 さくせん を開始 かいし (9月 がつ 1日 にち 保有 ほゆう 機 き 四 よん 式 しき 戦 せん 28機 き )。8月28日 にち には飛行 ひこう 第 だい 25戦隊 せんたい ・飛行 ひこう 第 だい 48戦隊 せんたい (ともに一式 いっしき 戦 せん 装備 そうび )とともに、来襲 らいしゅう したアメリカ陸軍 りくぐん 航空 こうくう 軍 ぐん 第 だい 14空軍 くうぐん および中米 ちゅうべい 混成 こんせい 航空 こうくう 団 だん (CACW、中 ちゅう 美 び 混合 こんごう 空軍 くうぐん 団 だん ・米 べい 支 ささえ 混成 こんせい 空軍 くうぐん )のP-40と交戦 こうせん 、空戦 くうせん で日本 にっぽん 軍 ぐん 側 がわ は四 よん 式 しき 戦 せん 1機 き と一式 いっしき 戦 せん 2機 き を喪失 そうしつ 、連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ はP-40 1機 き (ないし4機 き )を喪失 そうしつ している[15] 。翌 よく 29日 にち には第 だい 22戦隊 せんたい 四 よん 式 しき 戦 せん 13機 き と第 だい 25戦隊 せんたい 一式 いっしき 戦 せん 16機 き がB-24爆撃 ばくげき 機 き およびP-40、P-51と交戦 こうせん 、日本 にっぽん 軍 ぐん 側 がわ は一式 いっしき 戦 せん 1機 き と四 よん 式 しき 戦 せん 1機 き を喪失 そうしつ 、連合 れんごう 軍 ぐん 側 がわ はP-40 2機 き さらに同日 どうじつ 夕方 ゆうがた にはP-40 1機 き を喪失 そうしつ [16] 。30日 にち 、第 だい 22戦隊 せんたい 四 よん 式 しき 戦 せん 10機 き は帰 かえり 義 よし でP-51 6機 き と交戦 こうせん 、第 だい 22戦隊 せんたい 機 き に喪失 そうしつ 無 な く第 だい 76戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい のP-51Bウィリアム・D・マクレノン中尉 ちゅうい 機 き (戦死 せんし )を撃墜 げきつい 。これはノモンハン以来 いらい の古参 こさん 操縦 そうじゅう 者 しゃ である古郡 ふるこおり 吾郎 ごろう 准尉 じゅんい の戦果 せんか であり、同時 どうじ に四 よん 式 しき 戦 せん による初 はじ めての明確 めいかく な勝利 しょうり であった[17] 。
9月9日 にち 、第 だい 22戦隊 せんたい 四 よん 式 しき 戦 せん 3機 き が老 ろう 河口 かこう 飛行場 ひこうじょう に不時着 ふじちゃく していた第 だい 58爆 ばく 撃 げき 航空 こうくう 団 だん のB-29 を対地 たいち 攻撃 こうげき により撃破 げきは 炎上 えんじょう [18] 。しかし21日 にち の西安 しーあん 飛行場 ひこうじょう 襲撃 しゅうげき 時 じ 、第 だい 22戦隊 せんたい 長岩 ながいわ 橋 きょう 少佐 しょうさ 機 き は離陸 りりく 中 ちゅう のP-51ウィリアム・E・ホール曹長 そうちょう 機 き (戦死 せんし )を対地 たいち 攻撃 こうげき で撃破 げきは 炎上 えんじょう させるも被弾 ひだん 、自爆 じばく した(死後 しご 陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ 特進 とくしん )。この1ヶ月 かげつ の期間 きかん 中 ちゅう 、第 だい 22戦隊 せんたい は四 よん 式 しき 戦 せん 6機 き を喪失 そうしつ (戦死 せんし 6名 めい )、対 たい して四 よん 式 しき 戦 せん によるほぼ明確 めいかく な戦果 せんか はP-51 2機 き 撃墜 げきつい (内 うち 1機 き 離陸 りりく 途中 とちゅう )、P-40 2機 き 撃墜 げきつい 、B-25爆撃 ばくげき 機 き 1機 き 撃墜 げきつい のほかB-29 1機 き を地上 ちじょう 炎上 えんじょう させた。全 すべ てが四 よん 式 しき 戦 せん の戦果 せんか ではない他 た 戦隊 せんたい との協同 きょうどう 戦 せん によるものでP-40 7機 き 撃墜 げきつい となる(各 かく 戦果 せんか は戦史 せんし 家 か 梅本 うめもと 弘 ひろし が連合 れんごう 軍 ぐん の損害 そんがい 記録 きろく 等 とう 一 いち 次 じ 史料 しりょう を用 もち い照会 しょうかい した数値 すうち )[19] 。
第 だい 22戦隊 せんたい は状態 じょうたい 「甲 かぶと 」の四 よん 式 しき 戦 せん 9機 き のうち6機 き を第 だい 85戦隊 せんたい に引渡 ひきわた し、フィリピン航空 こうくう 戦 せん に備 そな えるため9月 がつ 26日 にち に内地 ないち へ帰還 きかん 。第 だい 85戦隊 せんたい はP-51B/Cを相手 あいて に善戦 ぜんせん し、「赤鼻 あかばな のエース 」として敵 てき 味方 みかた 双方 そうほう で知 し られていた若松 わかまつ 幸 みゆき 禧少佐 しょうさ [注 ちゅう 12] の活躍 かつやく など、10月には中国 ちゅうごく 上空 じょうくう の制空権 せいくうけん を回復 かいふく する活躍 かつやく をしている。10月4日 にち に第 だい 85戦隊 せんたい 第 だい 2中隊 ちゅうたい 長 ちょう 若松 わかまつ 大尉 たいい は四 よん 式 しき 戦 せん 4機 き ・二 に 式 しき 戦 せん 4機 き を率 ひき い梧州付近 ふきん で友軍 ゆうぐん 船団 せんだん の上空 じょうくう 哨戒 しょうかい 中 ちゅう 、来襲 らいしゅう した第 だい 76戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい のP-51B/Cを奇襲 きしゅう 攻撃 こうげき し4機 き を確実 かくじつ 撃墜 げきつい (シャル中尉 ちゅうい 機 き ・リーゼズ中尉 ちゅうい 機 き ・オデル中尉 ちゅうい 機 き 、ほかもう1機 き 喪失 そうしつ )、日本 にっぽん 軍機 ぐんき には1発 はつ の被弾 ひだん もなく損害 そんがい は皆無 かいむ であった(四式戦若松大尉機2機 き 撃墜 げきつい 報告 ほうこく 、四式戦大久保軍曹機2機 き 撃墜 げきつい 報告 ほうこく 、二式戦石川軍曹機1機 き 撃墜 げきつい 報告 ほうこく )。四 よん 式 しき 戦 せん 若松 わかまつ 大尉 たいい 機 き は最初 さいしょ に発見 はっけん した1機 き を一撃 いちげき で発火 はっか させ撃墜 げきつい 、続 つづ いて攻撃 こうげき した左 ひだり の1機 き もまた発火 はっか ・冷却 れいきゃく 水 すい 噴出 ふんしゅつ させ撃墜 げきつい 、僚機四 よん 式 しき 戦 せん 大久保 おおくぼ 軍曹 ぐんそう 機 き は1機 き を追撃 ついげき しつつ撃墜 げきつい 、二 に 式 しき 戦 せん 石川 いしかわ 軍曹 ぐんそう 機 き もまた1機 き を追尾 ついび 撃墜 げきつい している[20] 。若松 わかまつ 大尉 たいい は当日 とうじつ の日記 にっき に「我 わ が方 ほう 被弾 ひだん 機 き 一 いち 機 き もなく、赤子 あかご の手 て をねじるがごとし 」と記 しる している。ほか、特徴 とくちょう 的 てき なエピソードとして若松 わかまつ 少佐 しょうさ は地上 ちじょう 勤務 きんむ 者 しゃ の士気 しき を鼓舞 こぶ するために、搭乗 とうじょう 機 き の無線 むせん 電話 でんわ の送信 そうしん スイッチをオンにした状態 じょうたい で「空戦 くうせん の実況 じっきょう 」を行 おこな っていた。
中国 ちゅうごく 航空 こうくう 戦 せん 末期 まっき の12月18日 にち 、漢 かん 口 こう をB-29を含 ふく む戦 せん 爆 ばく 連合 れんごう 大 だい 編隊 へんたい が波状 はじょう 攻撃 こうげき し、漢 かん 口 こう 市街 しがい と飛行場 ひこうじょう 在地 ざいち 機 き は爆 ばく 撃 げき で大 おお きな被害 ひがい を出 だ した(漢 かん 口 こう 大 だい 空襲 くうしゅう )。邀撃 ようげき には第 だい 85戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん 12機 き と第 だい 25戦隊 せんたい の一式 いっしき 戦 せん 13機 き が出撃 しゅつげき し、同日 どうじつ 午後 ごご の空戦 くうせん では「赤鼻 あかばな のエース」若松 わかまつ 少佐 しょうさ 機 き を含 ふく む四 よん 式 しき 戦 せん 3機 き ・一式 いっしき 戦 せん 2機 き を喪失 そうしつ するも戦果 せんか は対空 たいくう 砲火 ほうか と合 あ わせP-51 4機 き 、P-40 1機 き 、B-29 1機 き を確実 かくじつ 撃墜 げきつい (空 そら 対空 たいくう の戦果 せんか はこのうち3機 き とされる)。1945年 ねん 1月 がつ 3日 にち と5日 にち 、6日 にち そして14日 にち にも漢 かん 口 こう は連続 れんぞく 空襲 くうしゅう を受 う け同 おな じく第 だい 85戦隊 せんたい ・第 だい 25戦隊 せんたい がこれを邀撃 ようげき 。両 りょう 戦隊 せんたい 計 けい 6名 めい の戦死 せんし 操縦 そうじゅう 者 しゃ を出 だ すも戦果 せんか は対空 たいくう 砲火 ほうか と合 あ わせP-51 8機 き ・P-47 4機 き を確実 かくじつ 撃墜 げきつい (P-47は中国 ちゅうごく ではこれが初陣 ういじん である)。17日 にち 、来襲 らいしゅう したP-47との空戦 くうせん で第 だい 85戦隊 せんたい ・第 だい 25戦隊 せんたい は両 りょう 戦隊 せんたい 各 かく 1名 めい が戦死 せんし するも、P-47 2機 き を確実 かくじつ 撃墜 げきつい している[21] 。
このように四 よん 式 しき 戦 せん は中国 ちゅうごく 戦線 せんせん において実戦 じっせん 部隊 ぶたい の操縦 そうじゅう 者 しゃ からも高 たか い評価 ひょうか を受 う けた。一方 いっぽう で、台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん においてほぼ奇襲 きしゅう された状況 じょうきょう 、しかも圧倒的 あっとうてき な数 すう 的 てき 劣勢 れっせい 下 か でアメリカ海軍 かいぐん のF6Fに立 た ち向 む かい、戦隊 せんたい 長 ちょう や中隊 ちゅうたい 長 ちょう ら幹部 かんぶ が戦死 せんし する被害 ひがい を被 こうむ った第 だい 11戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん に対 たい する評価 ひょうか は芳 かんば しくないものであった。
その後 ご のフィリピンの戦 たたか い においては、捷一 しょういち 号 ごう 作戦 さくせん 準備 じゅんび のため第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の富永 とみなが 恭次 きょうじ 中将 ちゅうじょう が政治 せいじ 力 りょく を駆使 くし して、日本 にっぽん 本土 ほんど 、九州 きゅうしゅう 、台湾 たいわん 、中国 ちゅうごく などから精鋭 せいえい 航空 こうくう 部隊 ぶたい 315機 き を増援 ぞうえん としてかき集 あつ めたが、その中 なか には多数 たすう の四 よん 式 しき 戦 せん が含 ふく まれていた。陸海 りくかい 軍 ぐん 併 あわ せると合計 ごうけい 1,000機 き 以上 いじょう の精鋭 せいえい 航空 こうくう 部隊 ぶたい がフィリピンに集結 しゅうけつ することとなって、久 ひさ しぶりに空中 くうちゅう で仇 かたき がとれると全 ぜん 軍 ぐん の士気 しき は大 おお いに高 たか まった[22] 。
やがて、連合 れんごう 軍 ぐん がレイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく しレイテ島 れいてとう の戦 たたか い が始 はじ まると、連合 れんごう 軍 ぐん の極東 きょくとう 空軍 くうぐん (Far East Air Force, FEAF)司令 しれい 官 かん ジョージ・ケニー (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう がレイテ島 れいてとう で確保 かくほ したばかりのタクロバン飛行場 ひこうじょう の整備 せいび を急 いそ がせて[23] 、第 だい 5空軍 くうぐん の戦闘 せんとう 機 き を進出 しんしゅつ させ、強力 きょうりょく な航空 こうくう 支援 しえん 体制 たいせい を確立 かくりつ しようとしていた[24] 。富永 とみなが は、連合 れんごう 軍 ぐん が強力 きょうりょく な航空 こうくう 支援 しえん 体制 たいせい を構築 こうちく する前 まえ に、飛行場 ひこうじょう を叩 たた くべく、タクロバン飛行場 ひこうじょう 攻撃 こうげき を命 めい じた。飛行場 ひこうじょう 攻撃 こうげき を命 めい じられた第 だい 16飛行 ひこう 団 だん がタクロバン飛行場 ひこうじょう を偵察 ていさつ すると、昨日 きのう まではなかったアメリカ軍 ぐん 戦闘 せんとう 機 き がずらっと並 なら んでいるのを発見 はっけん した。攻撃 こうげき の好機 こうき と考 かんが えた第 だい 16飛行 ひこう 団長 だんちょう 新藤 しんどう 常 つね 右 みぎ 衛門 えもん 中佐 ちゅうさ は、四 よん 式 しき 戦 せん 11機 き にタ弾 だん を搭載 とうさい させて出撃 しゅつげき を命 めい じた[25] 。やがて出撃 しゅつげき した「疾風 しっぷう 」が帰 かえ ってきて、操縦 そうじゅう 士 し の池田 いけだ 中尉 ちゅうい が指揮 しき 所 しょ で戦況 せんきょう を見守 みまも っていた富永 とみなが と新藤 しんどう に駆 か け寄 よ ると「激 はげ しい対空 たいくう 砲火 ほうか で被弾 ひだん した僚機が敵 てき 飛行機 ひこうき 群 ぐん に突 つ っ込 こ んで自爆 じばく した」「他 た の機 き は高度 こうど 100mから200mでタ弾 だん を投下 とうか して敵 てき に大 だい 損害 そんがい を与 あた えた」と戦果 せんか 報告 ほうこく をし、富永 とみなが と新藤 しんどう は笑顔 えがお で労 ろう を労 ねぎら った。最後 さいご に帰還 きかん したのは少年 しょうねん 飛行 ひこう 兵 へい の最年少 さいねんしょう 者 しゃ 池田 いけだ 伍長 ごちょう であったが、池田 いけだ が無邪気 むじゃき に「焼 や けたり、ひっくり返 かえ ったり、敵 てき の飛行場 ひこうじょう は惨憺 さんたん たるものです」と報告 ほうこく すると、富永 とみなが はわざわざ池田 いけだ に歩 あゆ み寄 よ って「うん御 ご 苦労 くろう 、御 ご 苦労 くろう 」と嬉 うれ しそうに肩 かた を叩 たた いている[26] 。この攻撃 こうげき は成功 せいこう して第 だい 16飛行 ひこう 団 だん は隊長 たいちょう の山崎 やまざき 機 き 以下 いか の4機 き 「疾風 しっぷう 」を失 うしな ったが、偵察 ていさつ 機 き の報告 ほうこく によって地上 ちじょう のアメリカ軍機 ぐんき 約 やく 100機 き を撃破 げきは したことが判明 はんめい し、司令 しれい 部 ぶ に帰 かえ った富永 とみなが は新藤 しんどう に「よくやった。偵察 ていさつ 機 き が撮 と ってきた戦果 せんか の写真 しゃしん はいずれそちらに送 おく る」と称賛 しょうさん の電話 でんわ をかけている[24] 。しかし、新藤 しんどう の夜間 やかん 出撃 しゅつげき の申 もう し出 で に対 たい しては「昼間 ひるま 攻撃 こうげき に引 ひ き続 つづ き夜間 やかん 攻撃 こうげき を行 おこな わんとする貴 き 官 かん の決心 けっしん は壮 たけし とするも、貴 き 隊 たい に残 のこ された以後 いご の任務 にんむ はなお高 たか い。敵 てき 飛行場 ひこうじょう の夜間 やかん 攻撃 こうげき は、爆 ばく 撃 げき 隊 たい に実施 じっし せしむ」とし「あすは、一 いち 日 にち 中 ちゅう 、操縦 そうじゅう 士 し をゆっくり昼寝 ひるね させてくれ」と休養 きゅうよう を取 と るように命 めい じている。新藤 しんどう は富永 とみなが が第 だい 16飛行 ひこう 団 だん の戦力 せんりょく を温存 おんぞん したいという好意 こうい を感 かん じて、その配慮 はいりょ に感謝 かんしゃ している[27] 。
第 だい 16飛行 ひこう 団 だん の四 よん 式 しき 戦 せん が攻撃 こうげき したレイテ島 れいてとう タクロバン飛行場 ひこうじょう
第 だい 16飛行 ひこう 団 だん の攻撃 こうげき で大 だい 損害 そんがい を被 こうむ った極東 きょくとう 空軍 くうぐん 司令 しれい 官 かん のケニーは、これまでに確保 かくほ した飛行場 ひこうじょう にレーダー を設置 せっち して、日本 にっぽん 軍 ぐん の空襲 くうしゅう を警戒 けいかい していたが、この後 のち も、富永 とみなが は積極 せっきょく 的 てき な航空 こうくう 作戦 さくせん を展開 てんかい し、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の攻撃 こうげき 機 き は警戒 けいかい するアメリカ軍 ぐん を嘲笑 あざわら うかのように、山稜 さんりょう ごしに熟練 じゅくれん した操縦 そうじゅう 技術 ぎじゅつ で低空 ていくう で侵入 しんにゅう し連合 れんごう 軍 ぐん のレーダーを妨害 ぼうがい して空襲 くうしゅう を繰 く り返 かえ した[28] 。ケニーはタグロバンにリチャード・ボング 少佐 しょうさ や、トーマス・マクガイア 少佐 しょうさ など34名 めい のエース パイロットを呼 よ び寄 よ せたが、わずか24時 じ 間 あいだ の間 あいだ にその半数 はんすう が日本 にっぽん 軍機 ぐんき に撃墜 げきつい されて戦死 せんし している。ケニーが陣頭 じんとう 指揮 しき にあたっても、飛行場 ひこうじょう 整備 せいび に手間取 てまど っており、雨 あめ が降 ふ ると、アメリカ軍 ぐん が確保 かくほ していたタクロバンやドラッグ飛行場 ひこうじょう は滑走 かっそう 路 ろ がぬかるんで、満足 まんぞく な出撃 しゅつげき ができず、天気 てんき が回復 かいふく しても優勢 ゆうせい な第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の戦闘 せんとう 機 き 隊 たい と互角 ごかく に渡 わた り合 あ うのがやっとであり、レイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく したウォルター・クルーガー 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる第 だい 6軍 ぐん に十分 じゅうぶん な航空 こうくう 支援 しえん ができず、進軍 しんぐん 速度 そくど は計画 けいかく を大 おお きく下回 したまわ ることとなって司令 しれい 官 かん のダグラス・マッカーサー 元帥 げんすい を苛立 いらだ たせた。
マッカーサーは第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の猛攻 もうこう に曝 さら されて一息 ひといき つく間 あいだ もなかった。第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の攻撃 こうげき 機 き は昼夜 ちゅうや 間断 かんだん なく来襲 らいしゅう し、飛行場 ひこうじょう にびっしりと並 なら べられた連合 れんごう 軍 ぐん 航空機 こうくうき を大量 たいりょう に撃破 げきは し、弾薬 だんやく 集積 しゅうせき 所 しょ と燃料 ねんりょう タンクを毎晩 まいばん のように爆 ばく 砕した。その様子 ようす を見 み ていたマッカーサーは「連合 れんごう 軍 ぐん の拠点 きょてん がこれほど激 はげ しく、継続 けいぞく 的 てき に、効果 こうか 的 てき な日本 にっぽん 軍 ぐん の空襲 くうしゅう にさらされたことはかつてなかった」と富永 とみなが の作戦 さくせん を評価 ひょうか し[31] 、マッカーサーの副官 ふっかん の1人 ひとり であるチャールズ・ウィロビー 准 じゅん 将 しょう も、タクロバン飛行場 ひこうじょう に日本 にっぽん 軍機 ぐんき の執拗 しつよう な攻撃 こうげき が続 つづ き、1度 ど の攻撃 こうげき で「P-38 」が27機 き も地上 ちじょう で撃破 げきは され、飛行場 ひこうじょう 以外 いがい でもマッカーサーの司令 しれい 部 ぶ 兼 けん 居宅 きょたく やクルーガーの司令 しれい 部 ぶ も爆撃 ばくげき されたと著書 ちょしょ に記述 きじゅつ しており、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん による航空 こうくう 攻撃 こうげき と、連合 れんごう 艦隊 かんたい によるレイテ湾 わん 突入 とつにゅう 作戦 さくせん は、構想 こうそう において素晴 すば らしく、規模 きぼ において雄大 ゆうだい なものであったと評 ひょう し、マッカーサーの軍 ぐん が最大 さいだい の危機 きき に瀕 ひん したと回想 かいそう している[32] 。アメリカ陸軍 りくぐん の公刊 こうかん 戦史 せんし においても、10月27日 にち の夕刻 ゆうこく から払暁 ふつぎょう までの間 あいだ に11回 かい も日本 にっぽん 軍機 ぐんき による攻撃 こうげき があって、タクロバンは撃破 げきは されて炎上 えんじょう するアメリカ軍機 ぐんき によって赤々 あかあか と輝 かがや いていたと記述 きじゅつ され、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の航空 こうくう 作戦 さくせん を、太平洋 たいへいよう における連合 れんごう 軍 ぐん の反攻 はんこう 開始 かいし 以来 いらい 、こんなに多 おお く、しかも長期間 ちょうきかん に渡 わた り、夜間 やかん 攻撃 こうげき ばかりでなく昼間 ひるま 空襲 くうしゅう にアメリカ軍 ぐん がさらされたのはこの時 とき が初 はじ めてであった。と総括 そうかつ している[33] 。10月27日 にち 、レイテ島 れいてとう の戦況 せんきょう とこれまでの第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の戦 たたか いぶりに対 たい して昭和 しょうわ 天皇 てんのう から「第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん がよく奮闘 ふんとう しているが、レイテ島 れいてとう の地上 ちじょう の敵 てき を撃滅 げきめつ しなければ勝 か ったとはいえない。今 こん 一息 ひといき だから十分 じゅうぶん 第 だい 一線 いっせん を激励 げきれい せよ」とお褒 ほ めのことばがあっている[34] 。
このように、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん は執拗 しつよう な飛行場 ひこうじょう 攻撃 こうげき や四 よん 式 しき 戦 せん の活躍 かつやく もあって、少 すく なくとも11月上旬 じょうじゅん まではレイテ島 れいてとう 上 じょう の制空権 せいくうけん を確保 かくほ していた[35] 。当時 とうじ 、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん を取材 しゅざい していた報道 ほうどう 班 はん 員 いん の読売新聞 よみうりしんぶん 記者 きしゃ 辻本 つじもと 芳雄 よしお によれば、レイテの戦 たたか い当初 とうしょ の第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん の航空 こうくう 作戦 さくせん は、レイテと陸軍 りくぐん 航空 こうくう 要塞 ようさい ネグロス島 とう の間 あいだ に日 ひ の丸 まる を掲 かか げた日本 にっぽん 軍機 ぐんき でもってベルト をかけて、それを昼夜 ちゅうや 別 べつ なく回転 かいてん するように、タクロバン飛行場 ひこうじょう やレイテ湾 わん の連合 れんごう 軍 ぐん 艦船 かんせん に猛攻 もうこう をかけるといったような、激 はげ しくも優勢 ゆうせい なものであったという[36] 。この代償 だいしょう として四 よん 式 しき 戦 せん 部隊 ぶたい を含 ふく む多 おお くの飛行 ひこう 部隊 ぶたい が壊滅 かいめつ したとは言 い え、ようやく四 よん 式 しき 戦 せん の存在 そんざい に気 き が付 つ いたアメリカ軍 ぐん も「速度 そくど と上昇 じょうしょう 力 りょく に優 すぐ れ、運動 うんどう 性 せい も高 たか く、被弾 ひだん にも強 つよ い」と評価 ひょうか している。
一方 いっぽう で、実際 じっさい に四 よん 式 しき 戦 せん を運用 うんよう していた第 だい 2飛行 ひこう 師 し 団長 だんちょう は1944年 ねん 10月 がつ 28日 にち 、「四 よん 式 しき 戦 せん に大 おお いなる信頼 しんらい を置 お き居 い たるに困 こま った事 こと なり」と記 しる しているなど高 たか い評価 ひょうか はしていなかった[37] 。しかし、司令 しれい 官 かん の富永 とみなが は四 よん 式 しき 戦 せん に期待 きたい をかけており、四 よん 式 しき 戦 せん で活躍 かつやく している第 だい 16飛行 ひこう 団 だん のいるサラビヤ飛行場 ひこうじょう に、毎日 まいにち 清酒 せいしゅ や煙草 たばこ を手土産 てみやげ にして激励 げきれい に訪 おとず れた[38] 。アメリカ軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき の最中 さいちゅう にも構 かま わず来 き たので、富永 とみなが の身 み を案 あん じた新藤 しんどう が、帯同 たいどう してきた松前 まさき 未 み 曾雄高級 こうきゅう 参謀 さんぼう に「閣 かく 下 か にお怪我 けが があってはと、みんなが心配 しんぱい していますから、なるべく(敵 てき 機 き の空襲 くうしゅう がない)10時 じ 前 まえ にしてくれないか」と持 も ち掛 か けたほどであった[39] 。富永 とみなが はその後 ご も空襲 くうしゅう にも構 かま わず激励 げきれい に訪 おとず れて、搭乗 とうじょう 員 いん たちと一緒 いっしょ に麦飯 むぎめし に現地 げんち で採 と れた不味 まず い川 かわ 魚 ぎょ の焼 や き物 もの といった不味 まず い昼食 ちゅうしょく を食 た べながら、「なにか要求 ようきゅう があったら、私 わたし に言 い え、できるだけのことはしてやるぞ」などと談笑 だんしょう している[38] 。
その後 ご 、レイテ島 れいてとう での決戦 けっせん を画策 かくさく した大本営 だいほんえい は、レイテ島 れいてとう に海路 かいろ で増援 ぞうえん 部隊 ぶたい や戦略 せんりゃく 物資 ぶっし を送 おく り込 こ むこととし、南方 なんぽう 軍 ぐん は第 だい 14方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の山下 やました 奉文 ともゆき 大将 たいしょう に「第 だい 十 じゅう 四 よん 方面 ほうめん 軍 ぐん ハ海 うみ 空軍 くうぐん ト協力 きょうりょく シ成 なり ルヘク多 た クノ兵力 へいりょく ヲ以テ『レイテ』島 しま ニ来 らい 攻 おさむ セル敵 てき ヲ撃滅 げきめつ スヘシ」と命令 めいれい した[40] 。この前代未聞 ぜんだいみもん の大 だい 規模 きぼ な逆 ぎゃく 上陸 じょうりく 作戦 さくせん には海軍 かいぐん も全面 ぜんめん 的 てき に協力 きょうりょく することとなり、海軍 かいぐん 艦艇 かんてい が護衛 ごえい する第 だい 3船舶 せんぱく 輸送 ゆそう 司令 しれい 官 かん 稲田 いなだ 正純 まさずみ 中将 ちゅうじょう 率 ひき いる輸送 ゆそう 艦隊 かんたい が、ルソン島 るそんとう などから、第 だい 26師団 しだん や第 だい 1師団 しだん などをレイテ島 れいてとう に送 おく り込 こ むこととなったが、この一連 いちれん の海上 かいじょう 輸送 ゆそう 作戦 さくせん を海軍 かいぐん は多 た 号 ごう 作戦 さくせん と呼称 こしょう している。10月27日 にち 、多 た 号 ごう 作戦 さくせん が正式 せいしき に開始 かいし 、富永 とみなが は、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 拝命 はいめい 時 じ に陸軍 りくぐん 中央 ちゅうおう から期待 きたい されていたとおり、地上 ちじょう 軍 ぐん との連携 れんけい を重視 じゅうし しており、輸送 ゆそう 船団 せんだん の護衛 ごえい 任務 にんむ にできうる限 かぎ りの戦闘 せんとう 機 き を投入 とうにゅう することとした。第 だい 1師団 しだん (通称 つうしょう 号 ごう 「玉 たま 」)は輸送 ゆそう 船 せん 4隻 せき (能登 のと 丸 まる ・香椎 かしい 丸 まる ・金華 きんか 丸 まる ・高津 たかつ 丸 まる )に分乗 ぶんじょう し、10月31日 にち にレイテ島 れいてとう に向 む けて出港 しゅっこう した[42] 。第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん は船団 せんだん 護衛 ごえい と同時 どうじ に、アメリカ軍機 ぐんき による空襲 くうしゅう をけん制 せい するため、一式 いっしき 戦 せん と九 きゅう 九 きゅう 式 しき 双発 そうはつ 軽 けい 爆撃 ばくげき 機 き に「タ弾 だん 」を装備 そうび させて、タクロバン、ドラッグ、サンパブロ飛行場 ひこうじょう を爆撃 ばくげき させ、地上 ちじょう で相当 そうとう 数 すう の航空機 こうくうき を撃破 げきは した。船団 せんだん 護衛 ごえい は一式 いっしき 戦 せん ・三 さん 式 しき 戦 せん ・四 よん 式 しき 戦 せん が交代 こうたい しつつ、常 つね に十 じゅう 数 すう 機 き が船団 せんだん 上空 じょうくう に張 は り付 つ いているといった手厚 てあつ いもので、途中 とちゅう の空襲 くうしゅう を護衛 ごえい 機 き が撃退 げきたい しながら、翌 よく 11月 がつ 1日 にち 、船団 せんだん は無事 ぶじ にレイテ島 れいてとう のオルモック 湾 わん に到着 とうちゃく し、合計 ごうけい で11,000名 めい の兵員 へいいん と大量 たいりょう の軍事 ぐんじ 物資 ぶっし の揚陸 ようりく に成功 せいこう した(多 た 号 ごう 作戦 さくせん #第 だい 2次 じ 輸送 ゆそう 部隊 ぶたい )[42] 。
この空戦 くうせん において船団 せんだん 直 ちょく 掩の飛行 ひこう 第 だい 52戦隊 せんたい ・飛行 ひこう 第 だい 200戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん および飛行 ひこう 第 だい 33戦隊 せんたい ・飛行 ひこう 第 だい 26戦隊 せんたい ・飛行 ひこう 第 だい 20戦隊 せんたい の一式 いっしき 戦 せん は、来襲 らいしゅう したアメリカ陸軍 りくぐん 第 だい 49戦闘 せんとう 航空 こうくう 群 ぐん のP-38と交戦 こうせん 、断続 だんぞく 的 てき に続 つづ いた戦闘 せんとう で日本 にっぽん 軍 ぐん は6機 き (四 よん 式 しき 戦 せん 2機 き と一式 いっしき 戦 せん 4機 き )を喪失 そうしつ するも5機 き (第 だい 8戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい ・第 だい 9戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい 所属 しょぞく )を確実 かくじつ 撃墜 げきつい した[43] 。この日 ひ の空戦 くうせん では、飛行 ひこう 第 だい 200戦隊 せんたい (通称 つうしょう 「皇 すめらぎ 戦隊 せんたい 」)の四 よん 式 しき 戦 せん 8機 き が出撃 しゅつげき したが、途中 とちゅう からは、僚機の7機 き とはぐれてしまった吉良 きら 勝秋 かつあき 曹長 そうちょう (かつて飛行 ひこう 第 だい 24戦隊 せんたい で九 きゅう 七 なな 戦 せん と一式 いっしき 戦 せん をもって活躍 かつやく したエース)機 き 1機 き となってしまった。吉良 きら 機 き は途中 とちゅう で酸素 さんそ ボンベ が破裂 はれつ してしまったため高度 こうど を下 さ げるため降下 こうか していると、そこで船団 せんだん を攻撃 こうげき に来 き たP-38 10数 すう 機 き と鉢合 はちあ わせになり、吉良 きら 機 き は単機 たんき で10数 すう 機 き のP-38から船団 せんだん を護 まも ることとなった。しかし、経験 けいけん 豊富 ほうふ な吉良 きら は、P-38が高空 こうくう では優 ゆう 速 そく で手強 てごわ いが、低空 ていくう では旋回 せんかい 性能 せいのう が劣 おと るために戦 たたか いやすいことを熟知 じゅくち しており、低空 ていくう の空戦 くうせん に持 も ち込 こ んでエリオット・デント大尉 たいい 機 き を含 ふく む2機 き を返 かえ り討 う ちにして、見事 みごと に船団 せんだん を護 まも りきり、第 だい 26師団 しだん の兵員 へいいん は無事 ぶじ にレイテ島 れいてとう に上陸 じょうりく できた。司令 しれい 官 かん の富永 とみなが は輸送 ゆそう 船団 せんだん に乗船 じょうせん していた部隊 ぶたい からこの報告 ほうこく を聞 き くと、とても喜 よろこ んで、すぐに吉良 きら を司令 しれい 部 ぶ に呼 よ んで自 みずか ら面談 めんだん し「船団 せんだん 前 まえ で、敵 てき 10数 すう 機 き と単機 たんき よく戦 たたか い、2機 き を撃墜 げきつい 、友軍 ゆうぐん の士気 しき を高 たか めること大 だい であった。吉 よし 良 りょう 、よくやった。只今 ただいま より准尉 じゅんい に進級 しんきゅう させる」と熱 あつ く語 かた りかけ、すぐさま青 あお 鉛筆 えんぴつ で「赫々 かくかく たる武勲 ぶくん を賞 しょう し、特 とく に准尉 じゅんい に進級 しんきゅう せしむ」という階級 かいきゅう の特進 とくしん 状 じょう を書 か いて吉良 きら を感激 かんげき させている[44] 。
なお、当時 とうじ フィリピン方面 ほうめん に四 よん 式 しき 戦 せん を空輸 くうゆ する任務 にんむ に就 つ いていた穴吹 あなぶき 智 さとし 軍曹 ぐんそう (かつて飛行 ひこう 第 だい 50戦隊 せんたい で一式 いっしき 戦 せん をもって活躍 かつやく したエース、当時 とうじ は明野 あけの 陸軍 りくぐん 飛行 ひこう 学校 がっこう 助 じょ 教 きょう )は数 すう 回 かい にわたりアメリカ海軍 かいぐん 艦載 かんさい 機 き と交戦 こうせん しており、台湾 たいわん の高雄 たかお 上空 じょうくう などでF6F 計 けい 4機 き ないし6機 き 撃墜 げきつい を報告 ほうこく している。フィリピン航空 こうくう 戦 せん 末期 まっき には四 よん 式 しき 戦 せん の集成 しゅうせい 戦闘 せんとう 部隊 ぶたい として戦 たたか っていた第 だい 30戦闘 せんとう 飛行 ひこう 集団 しゅうだん にて特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい である精華 せいか 隊 たい が編成 へんせい され、250kg爆 ばく 弾 だん 2発 はつ を装備 そうび した四 よん 式 しき 戦 せん が1945年 ねん 1月 がつ 8日 にち に護衛 ごえい 空母 くうぼ 「キトカン・ベイ 」に突入 とつにゅう 、同月 どうげつ 13日 にち には護衛 ごえい 空母 くうぼ 「サラマウア 」に突入 とつにゅう 、それぞれ大破 たいは の戦果 せんか を残 のこ している。
トーマス・マクガイア少佐 しょうさ とP-38
特筆 とくひつ に価 あたい する戦果 せんか としてフィリピン航空 こうくう 戦中 せんちゅう の1945年 ねん 1月 がつ 7日 にち 、ネグロス島 とう 上空 じょうくう において飛行 ひこう 第 だい 71戦隊 せんたい の福田 ふくだ 瑞 みずほ 則 のり (ふくだみずのり)軍曹 ぐんそう が操縦 そうじゅう する四 よん 式 しき 戦 せん が、アメリカ全 ぜん 軍 ぐん 第 だい 2位 い のエース(38機 き 撃墜 げきつい )であるトーマス・マクガイア 少佐 しょうさ のP-38Lを事実 じじつ 上 じょう 撃墜 げきつい している。哨戒 しょうかい 飛行 ひこう を任務 にんむ に長 ちょう 機 き マクガイア少佐 しょうさ (第 だい 431戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊長 たいちょう )、2番 ばん 機 き エドゥイン・ウィーバー大尉 たいい (北 きた アフリカ戦線 せんせん 従軍 じゅうぐん 経験 けいけん 有 ゆう )、3番 ばん 機 き ジャック・リットメイア少佐 しょうさ (フィリピン航空 こうくう 戦 せん で既 すで に4機 き 撃墜 げきつい 記録 きろく )、4番 ばん 機 き ダグラス・スロップ少尉 しょうい (出撃 しゅつげき 53回 かい 、1機 き 撃墜 げきつい 記録 きろく )からなる第 だい 431戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい P-38Lの4機 き 編隊 へんたい は、7日 にち 午前 ごぜん 6時 じ 30分 ふん にレイテ島 れいてとう ドラッグ飛行場 ひこうじょう を離陸 りりく 開始 かいし (途中 とちゅう 、リットメイア機 き はエンジン不調 ふちょう によりスロップ機 き と編隊 へんたい 位置 いち を交代 こうたい )。福田 ふくだ の証言 しょうげん では、第 だい 71戦隊 せんたい は同日 どうじつ ルソン島 るそんとう へ向 む かう大艦 だいかん 船団 せんだん 発見 はっけん の報告 ほうこく により、午前 ごぜん 3時 じ 30分 ふん 150kg爆 ばく 弾 だん を搭載 とうさい した福田 ふくだ 軍曹 ぐんそう 機 き ・三浦 みうら 軍曹 ぐんそう 機 き が単機 たんき ごとの索敵 さくてき 攻撃 こうげき のためマナプラ 飛行場 ひこうじょう を離陸 りりく (当時 とうじ の第 だい 71戦隊 せんたい は消耗 しょうもう により単機 たんき 地上 ちじょう 攻撃 こうげき 任務 にんむ が主体 しゅたい )。しかし予定 よてい 地点 ちてん で船団 せんだん を発見 はっけん 出来 でき なかったため6時 じ に索敵 さくてき を中止 ちゅうし 、帰還 きかん 中 ちゅう の6時 じ 30分 ふん 頃 ごろ にバコロド 上空 じょうくう 高度 こうど 1,000 m付近 ふきん で飛行 ひこう 第 だい 54戦隊 せんたい 杉本 すぎもと 明 あきら 准尉 じゅんい 操縦 そうじゅう の一式 いっしき 戦 せん と遭遇 そうぐう し、しばらくの編隊 へんたい 飛行 ひこう ののちタリサイ 上空 じょうくう で別 わか れた。マナプラ飛行場 ひこうじょう への着陸 ちゃくりく コースに入 はい った四 よん 式 しき 戦 せん 福田 ふくだ 機 き は、先程 さきほど の一式 いっしき 戦 せん 杉本 すぎもと 機 き が哨戒 しょうかい 飛行 ひこう 中 ちゅう であった4機 き のP-38マクガイア編隊 へんたい と空戦 くうせん 中 ちゅう のところを発見 はっけん (この際 さい P-38 1機 き が炎上 えんじょう 墜落 ついらく 中 ちゅう 、一式 いっしき 戦 せん は不時着 ふじちゃく のため降下 こうか 中 ちゅう を確認 かくにん )、福田 ふくだ 機 き はP-38 3機 き に突進 とっしん し対 たい 進 しん 戦 せん で撃 う ち合 あ い先頭 せんとう の1機 き を撃墜 げきつい するも被弾 ひだん 。その後 ご も四 よん 式 しき 戦 せん 福田 ふくだ 機 き は残 のこ る2機 き と1分 ふん ほど格闘 かくとう し1機 き を撃破 げきは 。双方 そうほう は空戦 くうせん 場 じょう を離脱 りだつ し戦闘 せんとう は終了 しゅうりょう 、福田 ふくだ 機 き は着陸 ちゃくりく 時 じ に転覆 てんぷく して後 のち に廃棄 はいき 処分 しょぶん となったが福田 ふくだ 自身 じしん は軽傷 けいしょう で済 す んだ[45] 。離脱 りだつ したスロップ機 き は午前 ごぜん 7時 じ 55分 ふん 、ウィーバー機 き は8時 じ 5分 ふん 頃 ごろ にドラッグ飛行場 ひこうじょう へ帰還 きかん 着陸 ちゃくりく した。実際 じっさい にこの空戦 くうせん において、マクガイア機 き ・リットメイア機 き が未 み 帰還 きかん ・戦死 せんし しているが(杉本 すぎもと 准尉 じゅんい は被弾 ひだん のため不時着 ふじちゃく するも、地上 ちじょう で抗日 こうにち ゲリラによって射殺 しゃさつ された遺体 いたい を現地 げんち 日本 にっぽん 軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい が発見 はっけん )、詳細 しょうさい は明 あき らかになっていない。一式 いっしき 戦 せん 杉本 すぎもと 機 き が1度目 どめ の戦闘 せんとう でマクガイア機 き を撃墜 げきつい 、四 よん 式 しき 戦 せん 福田 ふくだ 機 き は2度目 どめ の戦闘 せんとう でまずスロップ機 き を撃破 げきは し続 つづ いてリットメイア機 き を撃墜 げきつい したという説明 せつめい もある[46] 。マクガイア機 き は低空 ていくう ・低速 ていそく で無理 むり な機動 きどう を試 こころ みたことにより失速 しっそく ・墜落 ついらく したという説 せつ もある。
福田 ふくだ 軍曹 ぐんそう は当時 とうじ マラリア の高熱 こうねつ により意識 いしき 朦朧 もうろう 状態 じょうたい であり、かつ乗 じょう 機 き は落下 らっか タンクと150kg爆 ばく 弾 だん を搭載 とうさい したままで(空戦 くうせん 発見 はっけん 時 じ は味方 みかた 宿舎 しゅくしゃ 上空 じょうくう のため投下 とうか 出来 でき ず)、マクガイア編隊 へんたい もマクガイアの無線 むせん 指示 しじ によりこちらも落下 らっか タンクを投下 とうか しないまま、高度 こうど 1,000 m以下 いか の低 てい 空域 くういき で空戦 くうせん を行 おこな っている。ちなみに、福田 ふくだ 軍曹 ぐんそう は陸軍 りくぐん 少年 しょうねん 飛行 ひこう 兵 へい 第 だい 10期 き で1944年 ねん 5月 がつ に第 だい 71戦隊 せんたい へ着任 ちゃくにん し11月 がつ に戦隊 せんたい とともにフィリピンへ進出 しんしゅつ 、操縦 そうじゅう 時間 じかん が少 すく なく今 いま まで実戦 じっせん 経験 けいけん もなくこれが最初 さいしょ の空戦 くうせん らしい空戦 くうせん 体験 たいけん であったにもかかわらずこの大 だい 戦果 せんか を挙 あ げ、この1ヵ月 かげつ 後 ご にネグロス島 とう を脱出 だっしゅつ し本土 ほんど へ後退 こうたい 、飛行 ひこう 第 だい 101戦隊 せんたい に転属 てんぞく し沖縄 おきなわ 戦 せん も四 よん 式 しき 戦 せん で戦 たたか い終戦 しゅうせん を迎 むか えた。戦後 せんご の1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )には第 だい 475戦闘 せんとう 航空 こうくう 群 ぐん (第 だい 431戦闘 せんとう 飛行 ひこう 隊 たい の上級 じょうきゅう 部隊 ぶたい )の戦友 せんゆう 会 かい に、本 ほん 空戦 くうせん を調査 ちょうさ した秦 はた 郁 いく 彦 の手引 てびき によって福田 ふくだ はメッセージを届 とど けている[47] 。
ビルマの戦 たたか い (ビルマ航空 こうくう 戦 せん )では第 だい 50戦隊 せんたい が1944年 ねん 9月 がつ から四 よん 式 しき 戦 せん に機種 きしゅ 改変 かいへん 。当初 とうしょ は故障 こしょう が続出 ぞくしゅつ したものの、一式 いっしき 戦 せん 装備 そうび の飛行 ひこう 第 だい 64戦隊 せんたい とともに12月31日 にち に撤退 てったい する第 だい 15師団 しだん を追尾 ついび するイギリス軍 ぐん を中心 ちゅうしん とした連合 れんごう 軍 ぐん 機甲 きこう 部隊 ぶたい の捕捉 ほそく ・攻撃 こうげき (襲撃 しゅうげき )に成功 せいこう 。のちの第 だい 64戦 せん 隊長 たいちょう である宮 みや 辺 べ 英夫 ひでお 少佐 しょうさ はこの戦闘 せんとう と四 よん 式 しき 戦 せん に対 たい し「(掃射 そうしゃ では20mm機関 きかん 砲 ほう の)威力 いりょく が大 おお いに発揮 はっき された」「まずは、四 よん 式 しき 戦 せん のビルマにおける初 はつ のお手柄 てがら 」と述 の べている[48] 。1945年 ねん 1月 がつ 9日 にち 、第 だい 50戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん 7機 き は爆 ばく 装 そう して第 だい 64戦隊 せんたい の一式 いっしき 戦 せん 28機 き の直 ちょく 掩を受 う けアキャブ 沖 おき 連合 れんごう 軍 ぐん 艦船 かんせん 攻撃 こうげき に出撃 しゅつげき 、このうちエース大房 おおふさ 養 よう 次郎 じろう 曹長 そうちょう 機 き が巡洋艦 じゅんようかん ないし輸送 ゆそう 船 せん への命中 めいちゅう 戦果 せんか を報告 ほうこく している。以後 いご 、ラングーン が陥落 かんらく してビルマ航空 こうくう 戦 せん が事実 じじつ 上 じょう 終了 しゅうりょう する5月 がつ まで、第 だい 50戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん は第 だい 64戦隊 せんたい の一式 いっしき 戦 せん とともに空戦 くうせん や地上 ちじょう 攻撃 こうげき に活躍 かつやく した。
本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん [ 編集 へんしゅう ]
終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の第 だい 85戦隊 せんたい (手前 てまえ 、部隊 ぶたい マーク「片 かた 矢印 やじるし 」)および第 だい 22戦隊 せんたい (左 ひだり 奥 おく 数 すう 機 き 、部隊 ぶたい マーク「菊水 きくすい 紋 もん 」)の四 よん 式 しき 戦 せん 他 た 。右 みぎ 列 れつ は所属 しょぞく 不明 ふめい の一式 いっしき 戦 せん 、右 みぎ 奥 おく は一式 いっしき 双発 そうはつ 高等 こうとう 練習 れんしゅう 機 き 。
本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん にて、飛行 ひこう 第 だい 47戦隊 せんたい は整備 せいび 指揮 しき 班長 はんちょう を務 つと め「整備 せいび の神様 かみさま 」と謳 うた われた刈谷 かりや 大尉 たいい のもと、戦隊 せんたい 内 ない に指揮 しき 小隊 しょうたい を設 もう けそこで機体 きたい 整備 せいび に関 かん する全 すべ てを掌握 しょうあく し、厳密 げんみつ なる飛行 ひこう 時間 じかん の管理 かんり 、点火 てんか プラグの早期 そうき 交換 こうかん 、定期 ていき 的 てき なオーバーホール など、徹底的 てっていてき かつ適切 てきせつ な整備 せいび を施 ほどこ すことで部隊 ぶたい の四 よん 式 しき 戦 せん 稼働 かどう 率 りつ を常時 じょうじ 87から100パーセントに保 たも っている。ただ、このような整備 せいび 方法 ほうほう は欧米 おうべい 諸国 しょこく では一般 いっぱん 的 てき に行 おこな われており、日本 にっぽん 側 がわ の整備 せいび 教育 きょういく や補給 ほきゅう が立 た ち遅 おく れていた側面 そくめん が大 おお きい。刈谷 かりや 陸軍 りくぐん 大尉 たいい によれば「47戦隊 せんたい で100パーセント働 はたら いた」エンジンが他 た 部隊 ぶたい で動 うご かなかったのは「日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の整備 せいび 教育 きょういく が間違 まちが っていたから」であり、「疾風 しっぷう (誉 ほまれ )のせいじゃない」と回想 かいそう している。また本土 ほんど より遙 はる かに条件 じょうけん が劣悪 れつあく なフィリピンにおける四 よん 式 しき 戦 せん の稼動 かどう 率 りつ は三 さん 式 しき 戦 せん はおろか一式 いっしき 戦 せん よりも高 たか かったという記録 きろく も残 のこ されている(当時 とうじ の一式 いっしき 戦 せん 三 さん 型 がた は水 みず メタノール噴射 ふんしゃ 装置 そうち を搭載 とうさい したが整備 せいび 兵 へい が慣 な れておらず稼働 かどう 率 りつ が低下 ていか している)。さらに満州 まんしゅう の飛行 ひこう 第 だい 104戦隊 せんたい は再生 さいせい 潤滑油 じゅんかつゆ を使用 しよう せず、補給 ほきゅう 廠 しょう デッドストック のアメリカ産 さん 輸入 ゆにゅう 潤滑油 じゅんかつゆ を用 もち い稼働 かどう 率 りつ 80から100パーセントを保 たも ったという記録 きろく があり、これは潤滑油 じゅんかつゆ をアメリカ産 さん の輸入 ゆにゅう に頼 たよ っていながら[注 ちゅう 13] 、事前 じぜん の国産 こくさん 化 か を怠 おこた ったままアメリカとの開戦 かいせん に突入 とつにゅう し、戦前 せんぜん に輸入 ゆにゅう したストックに頼 たよ らざるを得 え ない状況 じょうきょう に陥 おちい らせた[注 ちゅう 14] 、日本 にっぽん の戦前 せんぜん 工業 こうぎょう 行政 ぎょうせい の致命 ちめい 的 てき な失敗 しっぱい であった。
第 だい 58振 ふ 武 たけ 隊 たい (髑髏 しゃれこうべ 隊 たい )の四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 「疾風 しっぷう 」、尾翼 びよく の釜茹 かまゆで 髑髏 しゃれこうべ のマークが特徴 とくちょう 、第 だい 4航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 富永 とみなが 恭次 きょうじ 中将 ちゅうじょう の長男 ちょうなん 富永 とみなが 靖 やすし 少尉 しょうい も所属 しょぞく していた(1945年 ねん 、都城 みやこのじょう 東 ひがし 飛行場 ひこうじょう )
本土 ほんど での運用 うんよう 時期 じき における稼動 かどう 割合 わりあい については前述 ぜんじゅつ の刈谷 かりや 大尉 たいい が第 だい 47戦隊 せんたい においては前述 ぜんじゅつ の通 とお り在 ざい 隊 たい 機 き 100 %、航空 こうくう 廠 しょう 修理 しゅうり 機 き を含 ふく めて87 %、その当時 とうじ 一般 いっぱん 部隊 ぶたい においては良好 りょうこう なところで40%、悪 わる いところで20 - 0 %であると述 の べている[49] 。また、この時期 じき の陸軍 りくぐん 調査 ちょうさ の数字 すうじ としては1945年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 調査 ちょうさ の「航空 こうくう 総 そう 軍 ぐん 飛行機 ひこうき 保有 ほゆう 状 じょう 況 きょう 」があり、ここでは野戦 やせん 部隊 ぶたい ・防空 ぼうくう 部隊 ぶたい あわせて555機 き 保有 ほゆう の四 よん 式 しき 戦 せん のうち(対象 たいしょう は航空 こうくう 総 そう 軍 ぐん 隷下 れいか 部隊 ぶたい であり、第 だい 2航空 こうくう 軍 ぐん 隷下 れいか 部隊 ぶたい (満州 まんしゅう 方面 ほうめん :飛行 ひこう 第 だい 104戦隊 せんたい など)などの外地 がいち 部隊 ぶたい や内地 ないち でも特攻 とっこう 飛行 ひこう 部隊 ぶたい は除 のぞ く)、「状態 じょうたい 甲 かぶと 」(自 じ 隊 たい 内 ない にて整備 せいび 完了 かんりょう 。出撃 しゅつげき 可能 かのう 機 き 数 すう は同数 どうすう かこれ以下 いか となる)の機体 きたい は235機 き となり割合 わりあい としては42 %となる[50] 。
その後 ご も沖縄 おきなわ 戦 せん (菊水 きくすい 作戦 さくせん )や本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん にも投入 とうにゅう された。4月6日 にち には、菊水 きくすい 作戦 さくせん の一環 いっかん として、戦艦 せんかん 「大和 やまと 」による海上 かいじょう 特攻 とっこう 作戦 さくせん が行 おこな われたが、同 おな じ海軍 かいぐん の第 だい 五 ご 航空 こうくう 艦隊 かんたい では、多数 たすう の重 じゅう 武装 ぶそう 、重 じゅう 装甲 そうこう 型 がた の零 れい 戦 せん 52型 がた 丙 へい 型 かた を擁 よう するが、夜間 やかん 襲撃 しゅうげき が主 しゅ 任務 にんむ [51] のため「芙蓉 ふよう 部隊 ぶたい 」[52] (指揮 しき 官 かん :美濃部 みのべ 正 ただし 少佐 しょうさ )が、「大和 やまと 」の護衛 ごえい 任務 にんむ を拒否 きょひ するなど[53] 消極 しょうきょく 的 てき で、「大和 やまと 」は殆 ほとん ど航空 こうくう 支援 しえん を受 う けることができなかったが、その窮状 きゅうじょう を聞 き いた第 だい 6航空 こうくう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 菅原 すがわら 道 みち 大 だい 中将 ちゅうじょう は、「(大和 やまと 特攻 とっこう の際 さい に)南 みなみ 九州 きゅうしゅう の第 だい 100飛行 ひこう 団 だん が四 よん 式 しき 戦 せん 疾風 しっぷう を全力 ぜんりょく 投入 とうにゅう して、奄美 あまみ 大島 おおしま 付近 ふきん の制空権 せいくうけん を一時 いちじ 的 てき に掌握 しょうあく 、協力 きょうりょく する」と約束 やくそく し。菅原 すがわら は約束 やくそく 通 どお り、第 だい 100飛行 ひこう 団 だん を主力 しゅりょく とする四 よん 式 しき 戦 せん 41機 き を「大和 やまと 」の援護 えんご に出撃 しゅつげき させて、12:00から14:00にかけて制 せい 空 そら 戦闘 せんとう をおこない10機 き が未 み 帰還 きかん となった。また、特攻 とっこう 機 き の護衛 ごえい 任務 にんむ として出撃 しゅつげき することも多 おお く、迎撃 げいげき してきたアメリカ軍 ぐん のF6Fヘルキャット やF4Uコルセア といった艦載 かんさい 機 き や、P-47サンダーボルト などと激 はげ しい空中 くうちゅう 戦 せん を繰 く り広 ひろ げた[57] 。
沖縄 おきなわ 戦 せん においては部隊 ぶたい マークとしてドクロ を描 えが いたことで有名 ゆうめい な第 だい 58振 ふ 武 たけ 隊 たい など、四 よん 式 しき 戦 せん で編成 へんせい された特攻隊 とっこうたい も出撃 しゅつげき している。沖縄 おきなわ 戦 せん の特攻 とっこう 戦果 せんか としては6月 がつ 21日 にち 夕刻 ゆうこく に都城 みやこのじょう 東 ひがし 飛行場 ひこうじょう を出撃 しゅつげき し沖縄 おきなわ 沖 おき に突入 とつにゅう した第 だい 26振 ふ 武 たけ 隊 たい (四 よん 式 しき 戦 せん 4機 き )がカーチス級 きゅう 水上 すいじょう 機 き 母艦 ぼかん 「カーチス 」大破 たいは 炎上 えんじょう 、ケネス・ホィッティング級 きゅう 水上 すいじょう 機 き 母艦 ぼかん 「ケネス・ホィッティング 」小破 しょうは 、エヴァーツ級 きゅう 護衛 ごえい 駆逐 くちく 艦 かん 「ハローラン 」小破 しょうは の記録 きろく を残 のこ している[注 ちゅう 15] 。
日本 にっぽん 本土 ほんど 防空 ぼうくう 戦 せん でも四 よん 式 しき 戦 せん は活躍 かつやく している。5月23日 にち の夜間 やかん にB-29 が558機 き 、5月25日 にち の夜間 やかん にはB-29が498機 き という、3月 がつ 10日 とおか の東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう を上回 うわまわ る大 だい 兵力 へいりょく で再度 さいど の大 だい 規模 きぼ 焼夷弾 しょういだん 攻撃 こうげき が行 おこな われたが、5月23日 にち には、前回 ぜんかい の東京 とうきょう 大 だい 空襲 くうしゅう と同 おな じ轍 わだち を踏 ふ むまいと、日本 にっぽん 陸海 りくかい 軍 ぐん が全力 ぜんりょく で迎撃 げいげき し、迎撃 げいげき 機 き の総数 そうすう は140機 き にもなった。なかでも飛行 ひこう 第 だい 64戦隊 せんたい (いわゆる「加藤 かとう 隼 はやぶさ 戦闘 せんとう 隊 たい 」)で中隊 ちゅうたい 長 ちょう として勇名 ゆうめい をはせた黒江 くろえ 保彦 やすひこ 少佐 しょうさ が四 よん 式 しき 戦 せん で3機 き のB-29撃墜 げきつい を記録 きろく している。しかし、沖縄 おきなわ を失 うしな い、日本 にっぽん 本土 ほんど が脅 おびや かされるようになると、本土 ほんど 決戦 けっせん (決 けつ 号 ごう 作戦 さくせん )に備 そな えた戦力 せんりょく の温存 おんぞん 策 さく で、出撃 しゅつげき が控 ひか えられるようになり、大 おお きな戦果 せんか を挙 あ げることは出来 でき なかった。1945年 ねん 8月 がつ 13日 にち には占領 せんりょう 下 か の沖縄 おきなわ から朝鮮 ちょうせん に来襲 らいしゅう したP-47に対 たい し、京 きょう 城 しろ 飛行場 ひこうじょう の第 だい 22戦隊 せんたい ・第 だい 85戦隊 せんたい (中国 ちゅうごく 戦線 せんせん で壊滅 かいめつ した後 のち に同地 どうち へ後退 こうたい して戦力 せんりょく 回復 かいふく )の四 よん 式 しき 戦 せん が出撃 しゅつげき したものの、飛行場 ひこうじょう 自体 じたい が他 た 方面 ほうめん から飛来 ひらい していた重 じゅう 爆撃 ばくげき 機 き で混雑 こんざつ して邀撃 ようげき が後手 ごて に回 まわ っていたこともあり機 き 数 すう に勝 まさ るも一方 いっぽう 的 てき な敗北 はいぼく を喫 きっ した。
満州 まんしゅう では1945年 ねん 8月 がつ 9日 にち にソ連 それん 軍 ぐん が侵攻 しんこう したが(ソ連 それん 対 たい 日 にち 参戦 さんせん )、8月 がつ 12日 にち と15日 にち の2度 ど にわたって第 だい 104戦隊 せんたい の四 よん 式 しき 戦 せん が、同 おな じく満州 まんしゅう に展開 てんかい していた独立 どくりつ 飛行 ひこう 第 だい 25中隊 ちゅうたい の二 に 式 しき 複 ふく 戦 せん とともにソ連 それん 軍 ぐん 機甲 きこう 部隊 ぶたい に対 たい しタ弾 だん による攻撃 こうげき を行 おこ ない、戦車 せんしゃ やトラック などの軍用 ぐんよう 車輌 しゃりょう 数 すう 十 じゅう 輌 りょう を破壊 はかい ・炎上 えんじょう させる戦果 せんか を挙 あ げている。
なお、海軍 かいぐん 航空 こうくう 技術 ぎじゅつ 廠 しょう に初期 しょき 生産 せいさん 型 がた の2機 き が海軍 かいぐん の研究 けんきゅう 用 よう として正式 せいしき に譲渡 じょうと された。陸海 りくかい 軍 ぐん の機種 きしゅ 統一 とういつ を検討 けんとう してとも言 い われるが[誰 だれ ? ] 詳細 しょうさい は不明 ふめい 。これらは終戦 しゅうせん 時 じ まで残置 ざんち しており、写真 しゃしん も残 のこ されている。
三面 さんめん 図 ず
制式 せいしき 名称 めいしょう
四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 甲 かぶと
四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 甲 きのえ (量産 りょうさん 型 がた )
四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 一 いち 型 がた 乙 おつ
試作 しさく 名称 めいしょう
キ84-I甲 かぶと
キ84-I甲 かぶと
キ84-I乙 おつ
全長 ぜんちょう
9.92 m
全幅 ぜんぷく
11.24 m
全 ぜん 高 こう
3.38 m
翼 つばさ 面積 めんせき
21 m2
翼 つばさ 面 めん 荷重 かじゅう
185.24 kg/m2
自重 じちょう
2,698 kg
2,698 kg + 胴体 どうたい 12.7mm機関 きかん 砲 ほう ×2⇒胴体 どうたい 20mm機関 きかん 砲 ほう ×2への換 かわ 装 そう 分 ぶん
正規 せいき 全備 ぜんび 重量 じゅうりょう
3,890 kg
3,890 kg + 携行 けいこう 弾 だん 増加 ぞうか 分 ぶん
3,890 kg+胴体 どうたい 12.7mm機関 きかん 砲 ほう ×2⇒胴体 どうたい 20mm機関 きかん 砲 ほう ×2への換 かわ 装 そう 分 ぶん
発動 はつどう 機 き
ハ45-21 (離 はなれ 昇 のぼり 2,000馬力 ばりき )
排気 はいき 管 かん
推力 すいりょく 式 しき 集合 しゅうごう 排気 はいき 管 かん
推力 すいりょく 式 しき 単 たん 排気 はいき 管 かん
最高 さいこう 速度 そくど
624 km/h(高度 こうど 5,000 m) 640 km/h(高度 こうど 6,000 m) 631 km/h(高度 こうど 6,120 m)
624〜655 km/h(高度 こうど 5,000〜6,000 m)
660 km/h(高度 こうど 6,000 m)
上昇 じょうしょう 力 りょく
5,000 mまで6分 ふん 26秒 びょう
5,000 mまで約 やく 5分 ふん 弱 じゃく
航続 こうぞく 距離 きょり
2,500 km(落下 らっか タンク あり)/1,400 km(正規 せいき )
武装 ぶそう
翼 つばさ 内 ない 20mm機関 きかん 砲 ほう (ホ5 )2門 もん (携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 120発 はつ )胴体 どうたい 12.7mm機関 きかん 砲 ほう (ホ103 )2門 もん (携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 250発 はつ )
翼 つばさ 内 ない 20mm機関 きかん 砲 ほう (ホ5)2門 もん (携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 150発 はつ )胴体 どうたい 12.7mm機関 きかん 砲 ほう (ホ103)2門 もん (携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 350発 はつ )
翼 つばさ 内 ない 20mm機関 きかん 砲 ほう (ホ5)2門 もん (携行 けいこう 弾 だん 数 すう 各 かく 150発 はつ )胴体 どうたい 20mm機関 きかん 砲 ほう (ホ5)2門 もん
爆 ばく 装 そう
30kg〜250kg爆弾 ばくだん ないしタ弾 だん 2発 はつ
無線 むせん
九 きゅう 九 きゅう 式 しき 飛 ひ 三 さん 号 ごう 無線 むせん 機 き 二 に 型 がた
四 よん 式 しき 飛 ひ 三 さん 号 ごう 無線 むせん 機 き 一 いち 型 がた
生産 せいさん 機 き 数 すう
100機 き 以上 いじょう (推定 すいてい /試作 しさく 機 き のみ)
3,000機 き (推力 すいりょく 式 しき 集合 しゅうごう 排気 はいき 管 かん 装備 そうび の試作 しさく 機 き 含 ふく む)
500機 き (推定 すいてい /試作 しさく 機 き 含 ふく む)
一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ84-I甲 かぶと )
翼 つばさ 内 ない にホ5 20mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん 、機首 きしゅ にホ103 12.7mm機関 きかん 砲 ほう 2門 もん を装備 そうび した対 たい 戦闘 せんとう 機 き 戦 せん 重視 じゅうし の基本 きほん 型 がた 。生産 せいさん されたほとんどの機体 きたい はこの型式 けいしき 。携行 けいこう 弾 だん 数 すう はホ5が1門 もん につき150発 はつ 、ホ103は1門 もん につき350発 はつ であった。
一 いち 型 がた 乙 おつ (キ84-I乙 おつ )
甲 かぶと 型 がた の翼 つばさ 砲 ほう ホ5はそのままに機首 きしゅ 砲 ほう ホ103をホ5に換 かわ 装 そう した対 たい 爆 ばく 撃 げき 機 き 戦 せん 重視 じゅうし の武装 ぶそう 強化 きょうか 型 がた 。製造 せいぞう 番号 ばんごう 3001以降 いこう がこの型 かた とされるが、生産 せいさん 数 すう は不明 ふめい 。試作 しさく 機 き は試験 しけん 飛行 ひこう において660 km/h (6,000 m)を記録 きろく したとされる。
キ84-I丙 へい
一 いち 型 がた 乙 おつ の機首 きしゅ 砲 ほう ホ5はそのままに翼 つばさ 砲 ほう ホ5をホ155-II ・30mm機関 きかん 砲 ほう に換 かわ 装 そう した武装 ぶそう 強化 きょうか 型 がた 。試作 しさく のみ。
キ84-I丁 ひのと
一 いち 型 がた 乙 おつ の操縦 そうじゅう 席 せき 後方 こうほう にホ5を上向 うわむ き砲 ほう として1門 もん を追加 ついか した夜間 やかん 戦闘 せんとう 機 き 型 かた 。試作 しさく のみ。
キ84-II
機体 きたい の一部 いちぶ を木製 もくせい 化 か したもの。計画 けいかく のみ。
キ84-III
排気 はいき タービン搭載 とうさい を追加 ついか 装備 そうび した高 こう 高度 こうど 型 がた 。計画 けいかく のみ。
キ84-IV
エンジンを高 こう 高度 こうど 性能 せいのう に優 すぐ れたハ45-44 に換 かわ 装 そう した高 こう 高度 こうど 戦闘 せんとう 機 き 型 がた 。計画 けいかく のみ。
キ84サ号 ごう (サ号 ごう 機 き とも)
ハ45の水 みず エタノール噴射 ふんしゃ を酸素 さんそ 噴射 ふんしゃ に変更 へんこう し、高 こう 高度 こうど における性能 せいのう 向上 こうじょう を図 はか った型 かた 。上昇 じょうしょう 力 りょく が向上 こうじょう し、高度 こうど 9,000 mでの速度 そくど が50 km/h増 ま し、特 とく に、加速 かそく 力 りょく と上昇 じょうしょう 力 りょく も大幅 おおはば に向上 こうじょう した。テスト中 ちゅう に終戦 しゅうせん を迎 むか えた。中島 なかじま 飛行機 ひこうき のテストパイロットである吉沢 よしざわ 准尉 じゅんい によると、「みるみる速度 そくど 計 けい の針 はり が上 あ がるのが判 わか ったが、30分 ふん も続 つづ けるとガタがきてスピードが落 お ちた。長 なが くやってはいけない」とのこと。同 どう 装置 そうち を搭載 とうさい した二 に 式 しき 複 ふく 座 ざ 戦闘 せんとう 機 き は高度 こうど 10,000 mで出力 しゅつりょく が30 %程度 ていど 増加 ぞうか 、吸入 きゅうにゅう 圧力 あつりょく でプラス100 mmHg 、出力 しゅつりょく で150 hp 上昇 じょうしょう したとされている。
キ106
1944年 ねん 、アルミ合金 ごうきん の不足 ふそく から、機体 きたい の大半 たいはん を木製 もくせい 化 か したもの。重心 じゅうしん の変化 へんか により機首 きしゅ が延長 えんちょう され、フラップは蝶 ちょう 型 がた ではないスプリット式 しき に変更 へんこう された。17%もの重量 じゅうりょう 増加 ぞうか のため上昇 じょうしょう 力 りょく ・速力 そくりょく が低下 ていか 。また組 く み立 た てに使 つか うカゼイン 系 けい 接着 せっちゃく 剤 ざい に問題 もんだい があり、試験 しけん 中 ちゅう に主翼 しゅよく 下面 かめん 外 がい 板 いた が剥離 はくり ・脱落 だつらく するトラブルも発生 はっせい した。立川 たちかわ 飛行機 ひこうき に加 くわ え呉羽 くれは 紡績 ぼうせき や、王子 おうじ 航空機 こうくうき においても試作 しさく され、合計 ごうけい 10機 き が完成 かんせい した。
王子 おうじ 航空機 こうくうき の江別 えべつ 工場 こうじょう (北海道 ほっかいどう 江別 えべつ 市 し )では3機 き が製作 せいさく され、1号機 ごうき は江別 えべつ 飛行場 ひこうじょう へ陸送 りくそう されて1945年 ねん 6月 がつ 11日 にち に初 はつ 飛行 ひこう 。2号機 ごうき は8月 がつ 13日 にち 、黒江 くろえ 保彦 やすひこ 少佐 しょうさ により福生 ふっさ 飛行場 ひこうじょう (東京 とうきょう 都 と )まで800 km以上 いじょう の長距離 ちょうきょり 飛行 ひこう に耐 た えることを実証 じっしょう した[61] 。訓練 くんれん 用 よう としての使用 しよう も考 かんが えられたが、強度 きょうど 不足 ふそく や構造 こうぞう が量産 りょうさん 向 む きでない問題 もんだい から生産 せいさん は中止 ちゅうし された。終戦 しゅうせん 後 ご 、アメリカ本国 ほんごく に1機 き が送 おく られ調査 ちょうさ された[62] 。1994年 ねん に北海道 ほっかいどう 江別 えべつ 市 し 早苗 さなえ 別 べつ 川 かわ 畔 ほとり の地中 ちちゅう から設計 せっけい 図 ず が発見 はっけん された[63] 。キ106の主翼 しゅよく 骨組 ほねぐ みと落下 らっか タンク、模型 もけい が北海道 ほっかいどう 博物館 はくぶつかん に、主 しゅ 車輪 しゃりん などが江別 えべつ 市 し 郷土 きょうど 資料 しりょう 館 かん に所蔵 しょぞう されている[61] 。
伝統 でんとう 的 てき な木工 もっこう 技術 ぎじゅつ 者 しゃ の多 おお い岐阜 ぎふ 県 けん 飛騨 ひだ 地方 ちほう でも、飛騨 ひだ 木工 もっこう 株式会社 かぶしきがいしゃ (現在 げんざい の飛騨産業 ひださんぎょう )などが参画 さんかく して高山 たかやま 航空 こうくう 工業 こうぎょう が設立 せつりつ され、1944年 ねん 暮 く れに試作 しさく 機 き 1号機 ごうき が東京 とうきょう まで空輸 くうゆ された[64] 。
キ113
アルミ合金 ごうきん の不足 ふそく から、機体 きたい の大半 たいはん を鋼 はがね 製 せい 化 か したもの。中島 なかじま 飛行機 ひこうき で試作 しさく 一 いち 号機 ごうき 体 たい が完成 かんせい しエンジン未着 みちゃく 装 そう の状態 じょうたい で終戦 しゅうせん を迎 むか えた。やはり重量 じゅうりょう 増加 ぞうか や工程 こうてい 増加 ぞうか による生産 せいさん 性 せい の悪 わる さに加 くわ え、鋼材 こうざい も不足 ふそく したため生産 せいさん の見込 みこ みがたたず失敗 しっぱい 作 さく となった。
キ116
満州 まんしゅう 飛行機 ひこうき での転換 てんかん 生産 せいさん 型 がた 。発動 はつどう 機 き を信頼 しんらい 性 せい の高 たか い三菱 みつびし ハ112-II (公称 こうしょう 1,500馬力 ばりき )に換 かわ 装 そう し、プロペラも3翅となっている。また重心 じゅうしん 調整 ちょうせい のため、全長 ぜんちょう が20 cm 長 なが くなっている。翼 つばさ 面 めん 荷重 かじゅう が制式 せいしき 機 き より25 kg 程度 ていど 減少 げんしょう したこともあり、速度 そくど がやや低下 ていか した反面 はんめん 、飛行 ひこう 特性 とくせい は向上 こうじょう したといわれる。かつ、エンジン他 た で重量 じゅうりょう が500 kg程度 ていど 減少 げんしょう しており、これは換 かわ 装 そう による減少 げんしょう したエンジン出力 しゅつりょく 約 やく 300 hp 分 ぶん を十分 じゅうぶん 補 おぎな って余 あま りあるものとなった。特 とく に翼 つばさ 面 めん 荷重 におも はキ84の185 kg/m2 に対 たい して160 kg/m2 になったため、旋回 せんかい 性能 せいのう や離着陸 りちゃくりく 性能 せいのう は、むしろ向上 こうじょう したものと容易 ようい に推定 すいてい することが出来 でき る[独自 どくじ 研究 けんきゅう ? ] 。試験 しけん 飛行 ひこう の結果 けっか は良好 りょうこう であったが、各種 かくしゅ 飛行 ひこう 特性 とくせい や厳密 げんみつ な性能 せいのう 測定 そくてい の直前 ちょくぜん 、1945年 ねん 8月 がつ 9日 にち ソ連 それん 侵攻 しんこう に遭遇 そうぐう し、関係 かんけい 者 しゃ の手 て により機体 きたい ・設計 せっけい 図 ず とも自 みずか らの手 て で処分 しょぶん された[65] 。
キ117
エンジンを大 だい 馬力 ばりき のハ44-13型 がた (離 はなれ 昇 のぼり 2,400馬力 ばりき )に換 かわ 装 そう した性能 せいのう 向上 こうじょう 型 がた 。主翼 しゅよく を1.5 m2 広 ひろ げ高 だか 高度 こうど 性能 せいのう の向上 こうじょう を図 はか った。設計 せっけい 中 ちゅう に終戦 しゅうせん 。キ84-N とも称 しょう した[66] 。
現存 げんそん する機体 きたい [ 編集 へんしゅう ]
1970年 ねん 、カリフォルニア州 しゅう オンタリオ国際 こくさい 空港 くうこう における四 よん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ84-I甲 かぶと )。里帰 さとがえ り時 じ は第 だい 11戦隊 せんたい の部隊 ぶたい マーク「稲妻 いなづま 」に直 なお される。
2009年 ねん 、知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん の四 よん 式 しき 戦 せん 一 いち 型 がた 甲 きのえ (キ84-I甲 かぶと )
四 よん 式 しき 戦 せん の現存 げんそん 機 き として、知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん (鹿児島 かごしま 県 けん 南 みなみ 九州 きゅうしゅう 市 し 知 ち 覧 らん )に収蔵 しゅうぞう ・展示 てんじ されている一 いち 型 がた 甲 きのえ (1446号機 ごうき )が唯一 ゆいいつ の静態 せいたい 保存 ほぞん 機体 きたい となる。
本 ほん 機 き は1944年 ねん 12月に中島 なかじま 飛行機 ひこうき 太田 おおた 製作所 せいさくしょ にて製造 せいぞう され、フィリピン戦 せん で展開 てんかい した第 だい 11戦隊 せんたい 第 だい 2中隊 ちゅうたい に配備 はいび された。1945年 ねん 1月 がつ にアメリカ軍 ぐん に鹵獲 ろかく されアメリカ本土 ほんど に運 はこ ばれ、同年 どうねん 3月 がつ に性能 せいのう テストに使用 しよう された。テスト時 じ にはハイオクタン・ガソリンを使用 しよう し687km/hを発揮 はっき した。また連合 れんごう 国 こく 戦闘 せんとう 機 き との比較 ひかく テストでも使用 しよう された。1952年 ねん にアメリカのマロニー航空 こうくう 博物館 はくぶつかん (現 げん プレーンズ・オブ・フェイム航空 こうくう 博物館 はくぶつかん )に払下 はらいさ げられレストア を経 へ て飛行 ひこう 可能 かのう となった。その後 ご 、ドン・ライキンスに渡 わた り、民間 みんかん 機 き 登録 とうろく (N3385G)をし、飛行 ひこう 可能 かのう 状態 じょうたい を維持 いじ していたが、経営 けいえい 難 なん から疾風 しっぷう は売 う り出 だ されることとなり、栃木 とちぎ 県 けん 宇都宮 うつのみや 市 し の日本人 にっぽんじん 実業 じつぎょう 家 か (元 もと 海軍 かいぐん 下士官 かしかん で戦闘 せんとう 機 き 操縦 そうじゅう 員 いん )に買 か い取 と られた。
1973年 ねん に航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 入間 いるま 基地 きち (旧 きゅう 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 士官 しかん 学校 がっこう ・豊岡 とよおか 陸軍 りくぐん 飛行場 ひこうじょう 跡地 あとち )にて国際 こくさい 航空 こうくう 宇宙 うちゅう ショーが行 おこな われた際 さい に日本 にっぽん へ移送 いそう され、ライキンスにより展示 てんじ 飛行 ひこう を行 おこな った。展示 てんじ 飛行 ひこう 後 ご に中島 なかじま 飛行機 ひこうき の後身 こうしん である富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ (現 げん ・株式会社 かぶしきがいしゃ SUBARU)の宇都宮 うつのみや 製作所 せいさくしょ が隣接 りんせつ する陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 宇都宮 うつのみや 飛行場 ひこうじょう に、ライキンスにより空輸 くうゆ された。同年 どうねん 11月 がつ に所有 しょゆう 者 しゃ である日本人 にっぽんじん 実業 じつぎょう 家 か 自身 じしん が搭乗 とうじょう し飛行 ひこう が行 おこな われた。飛行 ひこう 時 じ は主 しゅ 脚 あし が格納 かくのう しきれず、脚 あし を出 だ したまま飛行 ひこう をしていた。ちなみにこの飛行 ひこう が最後 さいご の飛行 ひこう となった。
しばらくは富士重工業 ふじじゅうこうぎょう 内 ない の倉庫 そうこ へ収容 しゅうよう され、中島 なかじま 飛行機 ひこうき 時代 じだい の関係 かんけい 者 しゃ らによる整備 せいび が行 おこな われ、飛行 ひこう 可能 かのう な良好 りょうこう な状態 じょうたい で維持 いじ されていたが、日本人 にっぽんじん 実業 じつぎょう 家 か が死去 しきょ してしまったため、疾風 しっぷう は三 さん 人 にん の債権 さいけん 者 しゃ の共有 きょうゆう となった。
債権 さいけん 者 しゃ と京都 きょうと 嵐山 あらしやま 美術館 びじゅつかん の代表 だいひょう 者 しゃ で取引 とりひき が成立 せいりつ し、疾風 しっぷう は京都 きょうと 嵐山 あらしやま 美術館 びじゅつかん に売却 ばいきゃく されることとなった。同館 どうかん で展示 てんじ されていたが劣悪 れつあく な管理 かんり 状 じょう 況 きょう により飛行 ひこう 不能 ふのう となった。ライキンスはこの状況 じょうきょう を聞 き き深 ふか く後悔 こうかい した。本 ほん 機 き の復元 ふくげん を行 おこな ったマロニー航空 こうくう 博物館 はくぶつかん も「他 た の機体 きたい 数 すう 機 き との交換 こうかん で良 よ いので還 かえ して欲 ほ しい」とコメントしている。飛行 ひこう 不能 ふのう となった要因 よういん について「ずさんな野外 やがい 展示 てんじ が行 おこな われ、元々 もともと 機体 きたい から容易 ようい に外 はず せない部品 ぶひん を強引 ごういん に取 と る盗難 とうなん にあった」という俗説 ぞくせつ が流布 るふ しているが、2017年 ねん から行 おこな われている機体 きたい の調査 ちょうさ によりそのような事実 じじつ はなく、上記 じょうき のレストア時 じ に一部 いちぶ 部品 ぶひん がアメリカ製 せい に交換 こうかん されている[67] 事 こと を除 のぞ き多 おお くの部品 ぶひん がオリジナルのまま良好 りょうこう な状態 じょうたい であることが確認 かくにん されている[68] 。
1991年 ねん に嵐山 あらしやま 美術館 びじゅつかん は閉館 へいかん となり、疾風 しっぷう 含 ふく む多 おお くの軍装 ぐんそう 品 ひん は和歌山 わかやま 県 けん 白浜 しらはま へ移 うつ されることとなった[注 ちゅう 16] 白浜 しらはま では新 あら たにゼロパークとして開園 かいえん し、零 れい 戦 せん 六 ろく 二 に 型 がた (展示 てんじ 時 じ は六 ろく 三 さん 型 がた と表記 ひょうき されていた)をはじめ、嵐山 あらしやま 美術館 びじゅつかん の軍装 ぐんそう 品 ひん の多 おお くが展示 てんじ されていたが、疾風 しっぷう は分解 ぶんかい された状態 じょうたい でブルーシートにかけられ保管 ほかん されていた。
1995年 ねん に嵐山 あらしやま 美術館 びじゅつかん 株式会社 かぶしきがいしゃ から知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん に、疾風 しっぷう の長期 ちょうき 貸出 かしだし 、又 また は譲渡 じょうと の提案 ていあん が打診 だしん された。知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん としては1446号機 ごうき のゆかりのある場所 ばしょ ではないが、疾風 しっぷう は特攻 とっこう の護衛 ごえい 、戦果 せんか 確認 かくにん や基地 きち 上空 じょうくう の防空 ぼうくう 、特攻 とっこう 機 き として出撃 しゅつげき したりと知 ち 覧 らん とは深 ふか く関 かか わりがある飛行機 ひこうき なので購入 こうにゅう を決定 けってい し、1億 おく 円 えん で売買 ばいばい 契約 けいやく が締結 ていけつ された。
1996年 ねん に知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん へ運 はこ び込 こ まれ、疾風 しっぷう 用 よう の展示 てんじ 室 しつ を増築 ぞうちく し、機体 きたい の清掃 せいそう と一部 いちぶ の再 さい 塗装 とそう が行 おこな われ、現在 げんざい も知 ち 覧 らん で展示 てんじ され良好 りょうこう な状態 じょうたい を保 たも っている[69] 。2008年 ねん には経済 けいざい 産業 さんぎょう 省 しょう より「欧米 おうべい 諸国 しょこく を驚愕 きょうがく させるまでに急 きゅう 成長 せいちょう を遂 と げた航空機 こうくうき 産業 さんぎょう の歩 あゆ みを物語 ものがた る近代 きんだい 化 か 産業 さんぎょう 遺産 いさん 群 ぐん 」として近代 きんだい 化 か 産業 さんぎょう 遺産 いさん に認定 にんてい され[70] 、2023年 ねん には日本航空 にほんこうくう 協会 きょうかい より、歴史 れきし 的 てき に価値 かち の高 たか い航空機 こうくうき などを認定 にんてい する重要 じゅうよう 航空 こうくう 遺産 いさん に認定 にんてい された[71] 。
山梨 やまなし 県 けん 河口湖 かわぐちこ 自動車 じどうしゃ 博物館 はくぶつかん には、1446号機 ごうき とは別 べつ の疾風 しっぷう の方向 ほうこう 舵 かじ が展示 てんじ されており、当時 とうじ のオリジナル塗装 とそう も残 のこ っている。
登場 とうじょう 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
『Never So Few 』
知 ち 覧 らん 現存 げんそん 機 き の1446号機 ごうき がタキシング映像 えいぞう で短時間 たんじかん だが出演 しゅつえん している。
『戦場 せんじょう まんがシリーズ 』
「メコンの落日 らくじつ 」「流星 りゅうせい 北 きた へ飛 と ぶ」「アクリルの棺 かん 」などに登場 とうじょう 。「メコンの落日 らくじつ 」では、登場 とうじょう 人物 じんぶつ にP-51に匹敵 ひってき する期待 きたい の最 さい 新鋭 しんえい 機 き だと語 かた られている。
『荒野 あらの のコトブキ飛行 ひこう 隊 たい 』
7話 わ 、8話 わ 、11話 わ 、12話 わ に登場 とうじょう 。コトブキ飛行 ひこう 隊 たい の一式 いっしき 戦闘 せんとう 機 き を圧倒的 あっとうてき に上回 うわまわ る高速 こうそく で翻弄 ほんろう する。
『パニックワールド』
昭和 しょうわ 20年 ねん 8月 がつ 1日 にち 、房総半島 ぼうそうはんとう 上空 じょうくう で、成増 なります 基地 きち から迎撃 げいげき に飛 と び立 た った本 ほん 機 き が米 べい 軍 ぐん の原爆 げんばく 搭載 とうさい 機 き (B-29)を撃墜 げきつい する。
『パラレルワールド大戦 たいせん 争 そう 』
豊田 とよだ 有恒 ありつね の小説 しょうせつ 。飛行 ひこう 第 だい 47戦隊 せんたい など陸軍 りくぐん 所属 しょぞく 機 き が登場 とうじょう 。松代 まつだい 大本営 だいほんえい 跡 あと に生 しょう じたタイムトンネルを介 かい して1945年 ねん の日本 にっぽん に介入 かいにゅう した自衛隊 じえいたい により、部品 ぶひん や燃料 ねんりょう などを未来 みらい から持 も ち込 こ まれた自動車 じどうしゃ 用 よう のものに変 か えたほか、敵 てき 味方 みかた 識別 しきべつ 装置 そうち や翼下 よくか にパイロン を設置 せっち して2発 はつ のサイドワインダー・ミサイル を搭載 とうさい するなどの改造 かいぞう を施 ほどこ し、米 べい 軍機 ぐんき との防空 ぼうくう 戦 せん に用 もち いられる。
『IL-2 Sturmovik 1946』
コンバットフライトシミュレータゲーム。
『War Thunder 』
コンバットフライトシミュレーターゲーム。プレイヤーの操縦 そうじゅう 機体 きたい として一 いち 型 がた 甲 かぶと ・一 いち 型 がた 乙 おつ ・キ84-I丙 へい が登場 とうじょう する。
『World of Warplanes 』
『ストライカーズ1945II 』(彩 あや 京 きょう )
『艦隊 かんたい これくしょん -艦 かん これ- 』
「四 よん 式 しき 戦 せん 疾風 しっぷう 」の名称 めいしょう で登場 とうじょう 。
『荒野 あらの のコトブキ飛行 ひこう 隊 たい 大空 おおぞら のテイクオフガールズ! 』
各 かく キャラクターの搭乗 とうじょう 可能 かのう 機体 きたい として登場 とうじょう 。
^ 第 だい 73戦隊 せんたい は多数 たすう の四 よん 式 しき 戦 せん 部隊 ぶたい のうちの一 ひと つとして同年 どうねん 5月 がつ に編成 へんせい 。以降 いこう は錬成 れんせい や防空 ぼうくう にあたり12月には捷 とし 号 ごう 作戦 さくせん のためにフィリピンへ進出 しんしゅつ 、第 だい 71戦隊 せんたい ・第 だい 72戦隊 せんたい などともに第 だい 21飛行 ひこう 団 だん を構成 こうせい し従軍 じゅうぐん した。
^ 次号 じごう ・第 だい 255号 ごう は9月6日 にち 公開 こうかい の『聖断 せいだん 拝 はい す 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 八 はち 月 がつ 十 じゅう 四 よん 日 にち 』という敗戦 はいせん を報道 ほうどう するものであった。
^ 蝶 ちょう 形 がた フラップは円弧 えんこ の一部 いちぶ を切 き り落 お としてあり、一見 いっけん そうは見 み えない。
^ 逆説 ぎゃくせつ 的 てき だが軽量 けいりょう 化 か される分 ぶん だけ旋回 せんかい 性能 せいのう も向上 こうじょう する。
^ ダウンスラスト。高 こう 迎 むかえ 角 かく 時 じ など、斜 なな め風 ふう を受 う けるプロペラの左右 さゆう 面 めん 推力 すいりょく 差 さ の軽減 けいげん にも有効 ゆうこう 。
^ 本 ほん 機 き の試験 しけん 飛行 ひこう を担当 たんとう した吉沢 よしざわ 鶴 つる 寿 ひさし は、100オクタンガソリン、高度 こうど 8,000 mの条件下 じょうけんか で、試作 しさく 品 ひん では640 km/h程度 ていど の速度 そくど が出 で たが、量産 りょうさん 品 ひん では580 km/h程度 ていど しか出 で なかった、と証言 しょうげん している(『航空 こうくう ファン 』1961年 ねん 7月 がつ 号 ごう 「四 よん 式 しき 戦闘 せんとう 機 き 『疾風 しっぷう 』のすべて」、ただし『悲劇 ひげき の発動 はつどう 機 き 「誉 ほまれ 」』p.206 - からの孫引 まごび き)。
^ 関連 かんれん で烈風 れっぷう の審査 しんさ 時 じ に、中島 なかじま 側 がわ はエンジン不良 ふりょう の原因 げんいん について「誉 ほまれ の出力 しゅつりょく が一番 いちばん 出 で ていない時期 じき だった」と述 の べており、この頃 ころ 、海軍 かいぐん でベンチテストした際 さい の性能 せいのう 低下 ていか の結果 けっか とも一致 いっち する。
^ このプロペラは第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の直前 ちょくぜん には多 おお くの機体 きたい に使 つか われていたが、アメリカでは既 すで に改良 かいりょう 型 がた や新型 しんがた が登場 とうじょう していた。一 いち 〇〇式 しき 司令 しれい 部 ぶ 偵察 ていさつ 機 き 三 さん 型 がた ではピッチ変更 へんこう 範囲 はんい を拡大 かくだい した独自 どくじ 改良 かいりょう 型 がた を採用 さいよう している。
^ 電動 でんどう 式 しき のガバナーを採用 さいよう した定 じょう 速 そく 4翅プロペラ。住友金属 すみともきんぞく でライセンス生産 せいさん されたが雷電 らいでん では振動 しんどう 問題 もんだい が発生 はっせい するなどブレードの形状 けいじょう や重量 じゅうりょう に影響 えいきょう を受 う けやすい制約 せいやく があり採用 さいよう 例 れい は少 すく ない。
^ 部隊 ぶたい 編成 へんせい 準備 じゅんび 自体 じたい は1943年 ねん 秋 あき 、発令 はつれい 自体 じたい は12月27日 にち 。
^ 実戦 じっせん テストを兼 か ねた最 さい 新鋭 しんえい 機 き による部隊 ぶたい 編成 へんせい 、戦地 せんち 派遣 はけん の前例 ぜんれい としてはキ44(二 に 式 しき 戦 せん )装備 そうび の独立 どくりつ 飛行 ひこう 第 だい 47中隊 ちゅうたい がある。
^ 若松 わかまつ は機種 きしゅ 改変 かいへん 時 じ に今 いま まで使用 しよう していた二 に 式 しき 戦 せん とは違 ちが うこの四 よん 式 しき 戦 せん を「全 すべ てにおいて勝 まさ る」と高 こう 評価 ひょうか している。
^ アメリカ産 さん の潤滑油 じゅんかつゆ に依存 いぞん したのは、当時 とうじ のレシプロエンジンではアメリカ製 せい 潤滑油 じゅんかつゆ が基準 きじゅん であり、エンジン設計 せっけい における指定 してい 油 ゆ がアメリカ製 せい というのは対 たい 米 べい 開戦 かいせん 直前 ちょくぜん の日本 にっぽん においても当然 とうぜん であった。過酷 かこく な航空 こうくう レシプロに耐 た えられる鉱物 こうぶつ 系 けい 潤滑油 じゅんかつゆ は当時 とうじ の日本 にっぽん の精製 せいせい 技術 ぎじゅつ ではアメリカ・ペンシルバニア原油 げんゆ の様 よう な極 きわ めて良質 りょうしつ なパラフィン基 もと 原油 げんゆ が必要 ひつよう であり、本邦 ほんぽう や南方 なんぽう にもパラフィンリッチな原油 げんゆ は存在 そんざい したもののその差 さ は埋 う めがたく、ついぞその域 いき の潤滑油 じゅんかつゆ を実用 じつよう レベルで量産 りょうさん する事 こと はかなわなかったとされる。また精製 せいせい 技術 ぎじゅつ についても関連 かんれん 資材 しざい も禁輸 きんゆ 対象 たいしょう であり新 しん 技術 ぎじゅつ の導入 どうにゅう は遅延 ちえん し、苦難 くなん の末 すえ に大戦 たいせん 末期 まっき に設備 せつび が完成 かんせい しても空襲 くうしゅう により破壊 はかい される状況 じょうきょう であった。
^ 石油 せきゆ 製品 せいひん の禁輸 きんゆ までにあらゆる手段 しゅだん でアメリカ製 せい 潤滑油 じゅんかつゆ を掻 か き集 あつ め輸入 ゆにゅう しておりストックに頼 たよ る事 こと となったのはある程度 ていど は想定 そうてい 内 ない の結果 けっか とも言 い える。
^ このほか、同日 どうじつ 同 どう 方面 ほうめん では海軍 かいぐん 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい の白菊 しらぎく とされる特攻 とっこう でLSM-1級 きゅう 中型 ちゅうがた 揚陸 ようりく 艦 かん 「LSM-59 」および、「LSM-59」が「特攻 とっこう 機 き 対策 たいさく の囮 おとり 」として曳航 えいこう していた除籍 じょせき 済 ずみ のマンリー級 きゅう 高速 こうそく 輸送 ゆそう 艦 かん 「バリー 」が沈没 ちんぼつ している。
^ 。「輸送 ゆそう のために機体 きたい をガスで切断 せつだん した」とされることもあるが事実 じじつ ではなく、正規 せいき の方法 ほうほう で分解 ぶんかい してから輸送 ゆそう されている。知 ち 覧 らん 特攻 とっこう 平和 へいわ 会館 かいかん 展示 てんじ の三 さん 式 しき 戦 せん 二 に 型 がた や、靖国神社 やすくにじんじゃ 遊 ゆう 就館 の彗星 すいせい などの保存 ほぞん 機 き (いずれも一度 いちど ガス切断 せつだん されている)と混同 こんどう されている可能 かのう 性 せい がある。
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刈谷 かりや 正 ただし 意 い 『日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 試作 しさく 機 き 物語 ものがたり 』光人 みつひと 社 しゃ 2007年 ねん ISBN 978-4-7698-1344-6 C0095
鈴木 すずき 五郎 ごろう 『第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん ブックス64『疾風 しっぷう 』』サンケイ新聞 しんぶん 社 しゃ 出版 しゅっぱん 局 きょく 1975年 ねん
鈴木 すずき 五郎 ごろう 『不滅 ふめつ の戦闘 せんとう 機 き 疾風 しっぷう 日本 にっぽん 陸軍 りくぐん の最強 さいきょう 戦闘 せんとう 機 き 物語 ものがたり 』光人 みつひと 社 しゃ 2007年 ねん
前 ぜん 間 あいだ 孝則 たかのり 『悲劇 ひげき の発動 はつどう 機 き 誉 ほまれ 』草 くさ 思 おもえ 社 しゃ 2007年 ねん 7月 がつ 31日 にち ISBN 978-4794215130
渡辺 わたなべ 洋二 ようじ 『未知 みち の剣 けん 陸軍 りくぐん テストパイロットの戦場 せんじょう 』文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 2002年 ねん
梅本 うめもと 弘 ひろし (2008a),『陸軍 りくぐん 戦闘 せんとう 隊 たい 撃墜 げきつい 戦記 せんき 2 中国 ちゅうごく 大陸 たいりく の鍾馗 しょうき と疾風 しっぷう 』大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが 、2008年 ねん 1月 がつ
梅本 うめもと 弘 ひろし (2010b),『第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん の隼 はやぶさ のエース』大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが 、2010年 ねん 8月 がつ
生田 いくた 惇 あつし 『別冊 べっさつ 1億 おく 人 にん の昭和 しょうわ 史 し 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 日本 にっぽん の戦史 せんし 別巻 べっかん 4「陸軍 りくぐん 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 史 し 」』毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 、1979年 ねん 9月 がつ 。ASIN B007ZY6G8O 。
生田 いくた 惇 あつし 『陸軍 りくぐん 航空 こうくう 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 史 し 』ビジネス社 しゃ 、1977年 ねん 。ASIN B000J8SJ60 。
伊沢 いさわ 保 たもつ 穂 ほ 、航空 こうくう 情報 じょうほう 編集 へんしゅう 部 ぶ 『日本 にっぽん 海軍 かいぐん 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい ―付 づけ ・エース列伝 れつでん 』酣 たけなわ 燈 とう 社 しゃ 、1975年 ねん 。ASIN B000J9F9F8 。
伊沢 いさわ 保 たもつ 穂 ほ 『日本 にっぽん 陸軍 りくぐん 重 じゅう 爆 ばく 隊 たい 』現代 げんだい 史 し 出版 しゅっぱん 会 かい 、1982年 ねん 。ISBN 978-4198025298 。
伊藤 いとう 正徳 まさのり 『帝国 ていこく 陸軍 りくぐん の最後 さいご 〈第 だい 3〉死闘 しとう 篇 へん 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 新 しん 社 しゃ 、1960年 ねん 。ASIN B000JBM31E 。
伊藤 いとう 正徳 まさのり 『帝国 ていこく 陸軍 りくぐん の最後 さいご 〈第 だい 5〉終末 しゅうまつ 篇 へん 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 新 しん 社 しゃ 、1961年 ねん 。ASIN B000JBM30U 。
一ノ瀬 いちのせ 俊也 としや 『特攻隊 とっこうたい 員 いん の現実 げんじつ 』講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ 、2020年 ねん 。ISBN 978-4065184400 。
ウィリアム・マンチェスター; 鈴木 すずき 主税 ちから , 高山 たかやま 圭 けい 訳 やく 『ダグラス・マッカーサー 上 のぼる 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1985年 ねん 。ISBN 4309221157 。
ウィリアム・マンチェスター; 鈴木 すずき 主税 ちから , 高山 たかやま 圭 けい 訳 やく 『ダグラス・マッカーサー 下 か 』河出書房新社 かわでしょぼうしんしゃ 、1985年 ねん 。ISBN 4309221165 。
押尾 おしび 一彦 かずひこ 『特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい の記録 きろく 陸軍 りくぐん 編 へん 』光人 みつひと 社 しゃ 、2005年 ねん 。ISBN 978-4769812272 。
柏木 かしわぎ 浩 ひろし 『超 ちょう 空 そら の要塞 ようさい ・B29―悪魔 あくま の使者 ししゃ (写真 しゃしん で見 み る太平洋戦争 たいへいようせんそう 8)』秋田 あきた 書店 しょてん 〈写真 しゃしん で見 み る太平洋戦争 たいへいようせんそう 8〉、1972年 ねん 。ISBN 978-4253006620 。
木俣 きまた 滋 しげる 郎 ろう 『陸軍 りくぐん 航空 こうくう 隊 たい 全 ちょん 史 ふみ ―その誕生 たんじょう から終焉 しゅうえん まで』潮 しお 書房 しょぼう 光人 みつひと 社 しゃ 〈光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 〉、2013年 ねん 。ISBN 4769828578 。
岸見 きしみ 勇美 いさみ 『地獄 じごく のレイテ輸送 ゆそう 作戦 さくせん 敵 てき 制空権 せいくうけん 下 か の多 た 号 ごう 作戦 さくせん の全貌 ぜんぼう 』光人 みつひと 社 しゃ 、2010年 ねん 12月。ISBN 978-4-7698-2666-8 。
経済 けいざい 産業 さんぎょう 省 しょう 編 へん 『近代 きんだい 化 か 産業 さんぎょう 遺産 いさん 群 ぐん 続 ぞく 33 近代 きんだい 化 か 産業 さんぎょう 遺産 いさん が紡 つむ ぎ出 だ す先人 せんじん たちの物語 ものがたり 』経済 けいざい 産業 さんぎょう 省 しょう 、2008年 ねん 。
小山 こやま 仁示 ひとし 『米 べい 軍 ぐん 資料 しりょう 日本 にっぽん 空襲 くうしゅう の全容 ぜんよう : マリアナ基地 きち B29部隊 ぶたい 』東方 とうほう 出版 しゅっぱん 、2018年 ねん 。ISBN 978-4862493415 。
境 さかい 克彦 かつひこ 『特攻 とっこう セズー美濃部 みのべ 正 ただし の生涯 しょうがい 』方丈 ほうじょう 社 しゃ 、2017年 ねん 。ISBN 978-4908925160 。
サンデ さんで ー毎日 まいにち 編集 へんしゅう 部 ぶ 編 へん 『サンデ さんで ー毎日 まいにち 昭和 しょうわ 30年 ねん 5月 がつ 15日 にち 』毎日新聞 まいにちしんぶん 出版 しゅっぱん 、1955年 ねん 。
神野 かみの 正美 まさみ 『台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん T攻撃 こうげき 部隊 ぶたい 陸海 りくかい 軍 ぐん 雷撃 らいげき 隊 たい の死闘 しとう 』光人 みつひと 社 しゃ 〈光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 〉、2004年 ねん 。ISBN 4769812159 。
ジェフリー・ペレット; 林 はやし 義勝 よしかつ , 寺澤 てらさわ 由紀子 ゆきこ , 金澤 かなざわ 宏明 ひろあき , 武井 たけい 望 のぞむ , 藤田 ふじた 怜 れい 史 し 訳 やく 『ダグラス・マッカーサーの生涯 しょうがい 老兵 ろうへい は死 し なず』鳥 とり 影 かげ 社 しゃ 、2016年 ねん 。ISBN 978-4862655288 。
新藤 しんどう 常 つね 右 みぎ 衛門 えもん 『あゝ疾風 しっぷう 戦闘 せんとう 隊 たい ―大空 おおぞら に生 い きた強者 きょうしゃ の半生 はんせい 記録 きろく 』潮 しお 書房 しょぼう 光人 みつひと 社 しゃ 、1988年 ねん 。ISBN 978-4769800095 。
高木 たかぎ 俊朗 としろう 『陸軍 りくぐん 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 上巻 じょうかん 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、1983年 ねん 。ISBN 978-4163381800 。
高木 たかぎ 俊朗 としろう 『陸軍 りくぐん 特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい 下巻 げかん 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、1983年 ねん 。ISBN 978-4163381909 。
高橋 たかはし 秀治 しゅうじ 『第 だい 四 よん 航空 こうくう 軍 ぐん の最後 さいご ―司令 しれい 部 ぶ 付 づけ 主計 しゅけい 兵 へい のルソン戦記 せんき 』潮 しお 書房 しょぼう 光人 みつひと 社 しゃ 〈光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 〉、2014年 ねん 。ISBN 978-4769828679 。
ダグラス・マッカーサー; 津島 つしま 一夫 かずお 訳 やく 『マッカーサー大戦 たいせん 回顧 かいこ 録 ろく 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 〈中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ (改版 かいはん )〉、2014年 ねん 。ISBN 978-4122059771 。
C.W.ニミッツ 、E.B.ポッター『ニミッツの太平洋 たいへいよう 海戦 かいせん 史 し 』実松 さねまつ 譲 ゆずる 、富永 とみなが 謙吾 けんご (共 とも 訳 やく )、恒文社 こうぶんしゃ 、1962年 ねん 。ASIN B000JAJ39A 。
デニス・ウォーナー『ドキュメント神風 かみかぜ 』 上 じょう 、時事通信社 じじつうしんしゃ 、1982a。ASIN B000J7NKMO 。
デニス・ウォーナー『ドキュメント神風 かみかぜ 』 下 した 、時事通信社 じじつうしんしゃ 、1982b。ASIN B000J7NKMO 。
土井 どい 勤 つとむ 『太平洋戦争 たいへいようせんそう ドキュメンタリー〈第 だい 16巻 かん 〉還 かえ ってきた特攻隊 とっこうたい 』今日 きょう の話題 わだい 社 しゃ 、1969年 ねん 。ASIN B000J9HY24 。
土井 どい 勤 つとむ 『九 きゅう 九 きゅう 双 そう 軽 けい 空戦 くうせん 記 き ―ある軽 けい 爆 ばく 戦隊 せんたい 長 ちょう の手記 しゅき 』光人 みつひと 社 しゃ 〈光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 〉、2001年 ねん 。ISBN 978-4769822998 。
日本 にっぽん 雄飛 ゆうひ 会 かい 『あゝ少年 しょうねん 航空 こうくう 兵 へい ―かえらざる十 じゅう 代 だい の手記 しゅき 』原 はら 書房 しょぼう 、1967年 ねん 。ASIN B000JA8J3Q 。
日本文芸社 にほんぶんげいしゃ 編 へん 『現代 げんだい 読本 とくほん 』 4 日本 にっぽん 特攻隊 とっこうたい 総 そう 集 しゅう 版 ばん 、日本文芸社 にほんぶんげいしゃ 、1956年 ねん 。
服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう 『服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう 「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 全 ぜん 史 し (六 ろく )」―比島 ひじま 決戦 けっせん 、本土 ほんど 決戦 けっせん 』響 ひびき 林 りん 社 しゃ 、2017年 ねん 8月 がつ 。ASIN B07515V498 。
服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう 『服部 はっとり 卓 たく 四郎 しろう 「大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 全 ぜん 史 し (七 なな )」―硫黄 いおう 島 とう 作戦 さくせん 、沖縄 おきなわ 作戦 さくせん 、本土 ほんど 防衛 ぼうえい 作戦 さくせん 他 た 』響 ひびき 林 りん 社 しゃ 、2017年 ねん 8月 がつ 。ASIN B07587XB39 。
秦 はた 郁 いく 彦 『太平洋戦争 たいへいようせんそう 航空 こうくう 史話 しわ 〈上 うえ 〉』中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1995年 ねん 。ISBN 978-4122023703 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『沖縄 おきなわ ・台湾 たいわん ・硫黄 いおう 島 とう 方面 ほうめん 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 作戦 さくせん 』朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 36〉、1970年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『海軍 かいぐん 捷 とし 号 ごう 作戦 さくせん <1>台湾 たいわん 沖 おき 航空 こうくう 戦 せん まで』朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 37〉、1970年 ねん 。
防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『戦史 せんし 叢書 そうしょ 41 捷 とし 号 ごう 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (1) レイテ決戦 けっせん 』朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 、1970年 ねん
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『比島 ひじま 捷 とし 号 ごう 陸軍 りくぐん 航空 こうくう 作戦 さくせん 』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 48〉、1971年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『捷 とし 号 ごう 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん <2>ルソン決戦 けっせん 』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 60〉、1971年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 開戦 かいせん 経緯 けいい <2>』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 68〉、1973年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『陸軍 りくぐん 航空 こうくう 兵器 へいき の開発 かいはつ ・生産 せいさん ・補給 ほきゅう 』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 87〉、1975年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『支 ささえ 那 な 事変 じへん 陸軍 りくぐん 作戦 さくせん (3)昭和 しょうわ 十 じゅう 六 ろく 年 ねん 十 じゅう 二 に 月 がつ まで』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 90〉、1976年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『陸軍 りくぐん 航空 こうくう の軍備 ぐんび と運用 うんよう 』 3(大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 終戦 しゅうせん まで)、朝 あさ 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 94〉、1976年 ねん 。
防衛庁 ぼうえいちょう 防衛 ぼうえい 研修 けんしゅう 所 しょ 戦史 せんし 室 しつ 編 へん 『大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう 開戦 かいせん 経緯 けいい 〈2〉』朝 ちょう 雲 くも 新聞 しんぶん 社 しゃ 〈戦史 せんし 叢書 そうしょ 101〉、1973年 ねん 。ASIN B000J9D6DU 。
米国 べいこく 戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき 調査 ちょうさ 団 だん 編 へん 『JAPANESE AIR POWER 米国 べいこく 戦略 せんりゃく 爆 ばく 撃 げき 調査 ちょうさ 団 だん 報告 ほうこく 日本 にっぽん 空軍 くうぐん の興亡 こうぼう 』大 だい 谷内 たにうち 和夫 かずお (訳 わけ )、光人 みつひと 社 しゃ 、1996年 ねん 。ISBN 4769807686 。
「丸 まる 」編集 へんしゅう 部 ぶ 編 へん 『丸 まる 1956年 ねん 05月 がつ 号 ごう 「航空 こうくう 決戦 けっせん と特攻隊 とっこうたい 富永 とみなが 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 比島 ひじま 脱出 だっしゅつ の真相 しんそう 」』潮 しお 書房 しょぼう 光人 みつひと 社 しゃ 、1956年 ねん 。
丸 まる 編集 へんしゅう 部 ぶ 編 へん 『特攻 とっこう の記録 きろく 「十 じゅう 死 し 零 れい 生 せい 」非情 ひじょう の作戦 さくせん 』光人 みつひと 社 しゃ 〈光人 みつひと 社 しゃ NF文庫 ぶんこ 〉、2011年 ねん 。ISBN 978-4-7698-2675-0 。
村田 むらた 省 しょう 蔵 ぞう 編 へん 『秘録 ひろく 大 だい 東亜 とうあ 戦史 せんし 』 4 比島 ひしま 編 へん 、富士 ふじ 書 しょ 苑 えん 、1953年 ねん 。ASIN B000JBGYJ6 。
武藤 むとう 章 あきら 『軍務 ぐんむ 局長 きょくちょう 武藤 むとう 章 あきら 回想 かいそう 録 ろく 』芙蓉 ふよう 書房 しょぼう 出版 しゅっぱん 、1981年 ねん 。ASIN B000J8073S 。
武藤 むとう 章 あきら 『比島 ひじま から巣鴨 すがも へ―日本 にっぽん 軍部 ぐんぶ の歩 あゆ んだ道 みち と一 いち 軍人 ぐんじん の運命 うんめい 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2008年 ねん 。ISBN 978-4122051003 。
門司 もじ 親 おや 徳 とく 『空 そら と海 うみ の涯で―第 だい 一 いち 航空 こうくう 艦隊 かんたい 副官 ふっかん の回想 かいそう 』毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 、1978年 ねん 。ASIN B000J8KLWA 。
読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 編 へん 『昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 2 - 和平 わへい 工作 こうさく の始 はじ まり』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 〈昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 2〉、2011年 ねん 。ISBN 978-4122055834 。
読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 編 へん 『昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 11』読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 〈昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 11〉、1971年 ねん 。ASIN B000J9HYBA 。
読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 編 へん 『昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 12』読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 〈昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 12〉、1971年 ねん 。ASIN B000J9HYB0 。
読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 編 へん 『昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 13』読売新聞社 よみうりしんぶんしゃ 〈昭和 しょうわ 史 し の天皇 てんのう 13〉、1971年 ねん 。ASIN B000J9HYAQ 。
吉野 よしの 泰 やすし 貴 たか 『海軍 かいぐん 戦闘 せんとう 第 だい 八 はち 一 いち 二 に 飛行 ひこう 隊 たい ―日本 にっぽん 海軍 かいぐん 夜間 やかん 戦闘 せんとう 機 き 隊 たい “芙蓉 ふよう 部隊 ぶたい ”異聞 いぶん 写真 しゃしん とイラストで追 お う航空 こうくう 戦史 せんし 』大 だい 日本 にっぽん 絵画 かいが 、2012年 ねん 。ISBN 978-4499230964 。
リチャード オネール『特別 とくべつ 攻撃 こうげき 隊 たい ―神風 かみかぜ SUICIDE SQUADS』益田 ますだ 善雄 よしお (訳 わけ )、霞 かすみ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1988年 ねん 。ISBN 978-4876022045 。
Rielly, Robin L. (2010). KAMIKAZE ATTACKS of WORLD WAR II . Mcfarland. ISBN 0786446544
Preliminary Design Section Bureau of Ships Navy Department, ed (1945). Destroyer Report Gunfire, Bomb and Kamikaze Damage Including Losses in Action 17 October, 1941 to 15 August, 1945 . Naval History and Heritage Command
この記事 きじ はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 政府 せいふ の著作 ちょさく 物 ぶつ であるDictionary of American Naval Fighting Ships に由来 ゆらい する文章 ぶんしょう を含 ふく んでいます。
命名 めいめい 法 ほう 制定 せいてい (1933年 ねん )以前 いぜん 機体 きたい (キ)滑空 かっくう 機 き (ク)その他 た 関連 かんれん 項目 こうもく