よんしき戦闘せんとう

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中島なかじま キ84 よんしき戦闘せんとう疾風しっぷう

よんしき戦闘せんとう(よんしきせんとうき)は、だい世界せかい大戦たいせんどき大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん戦闘せんとう番号ばんごう試作しさく名称めいしょう)はキ84愛称あいしょう疾風しっぷう(はやて)。呼称こしょう略称りゃくしょうよんしきせんよんせんキハチヨンハチヨンだい東亜とうあ決戦けっせん決戦けっせんなど[1]連合れんごうぐんコードネームFrank(フランク)。開発かいはつ製造せいぞう中島なかじま飛行機ひこうき

概要がいよう[編集へんしゅう]

基本きほん設計せっけいはオーソドックスな構成こうせいながら[1]速度そくど武装ぶそう防弾ぼうだん航続こうぞく距離きょり運動うんどうせい操縦そうじゅうせいをバランスまとめ、設計せっけい段階だんかい生産せいさんせい考慮こうりょされた機体きたいである。きゅうななしき戦闘せんとう(キ27)、一式いっしき戦闘せんとうはやぶさ(キ43)、しき戦闘せんとうしき単座たんざ戦闘せんとう)「鍾馗しょうき(キ44)とつづいた、小山こやま技師ぎしちょう設計せっけい主務しゅむしゃとする中島なかじませい戦闘せんとう集大成しゅうたいせいともえる機体きたいである。

とく最高さいこう速度そくどはキ84-Iおつ試作しさく試験しけん飛行ひこうさい高度こうど6,000 mにおいて660 km/hと大戦たいせんちゅう実用じつようされた日本にっぽんせい戦闘せんとうなかでは最速さいそくであり、また戦後せんごアメリカぐんによるテストでは高度こうど20,000 ft (6,096 m)にて687 km/h を記録きろくしている(100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカせい点火てんかプラグ使用しようし、武装ぶそうのぞいた重量じゅうりょう7,490 lb (3,397 kg)の状態じょうたい[1]

よんしきじゅう爆撃ばくげきりゅう(キ67)とともに重点じゅうてん生産せいさん指定していされ、そう生産せいさんすう基準きじゅんあな方式ほうしき採用さいようなど量産りょうさんにも配慮はいりょした設計せっけいから、1944ねん昭和しょうわ19ねん中頃なかごろという太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう後期こうき登場とうじょう機体きたいながらも、日本にっぽんぐん戦闘せんとうとしてはれいせん一式いっしきせんやく3,500およんだ[1]

帝国ていこく陸軍りくぐんからは戦局せんきょくくつがえす「だい東亜とうあ決戦けっせんだい東亜とうあ決戦けっせんごう決戦けっせん)」としておおいに期待きたいされ[1]大戦たいせん後期こうき主力しゅりょく戦闘せんとうとして多数たすうかく飛行ひこう戦隊せんたいといっただいいちきゅうせん実戦じっせん部隊ぶたい配備はいびされた。当時とうじ主要しゅよう戦線せんせんすべて(中国ちゅうごく戦線せんせんフィリピン戦線せんせんビルマ戦線せんせん)および日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくうせん従軍じゅうぐんし、対戦たいせんしたアメリカぐんからも「The best Japanese fighter日本にっぽん最優秀さいゆうしゅう戦闘せんとう日本にっぽん最良さいりょう戦闘せんとう)」と評価ひょうかされた[よう出典しゅってん]機体きたいだったが、整備せいびじょうきょうによるものの搭載とうさいした新型しんがたエンジンハ45(ほまれ不調ふちょうや、潤滑油じゅんかつゆ・ガソリン(オクタン価おくたんか)の品質ひんしつ低下ていか点火てんかプラグやコードなどの電気でんき系統けいとう不良ふりょう不足ふそく前線ぜんせんでの整備せいびちから低下ていかなどにより全体ぜんたいてき稼働かどうりつひくく、スペックどおりの性能せいのうすのがむずかしかった[1]。さらに、それまでの日本にっぽんぐん戦闘せんとうとは機体きたい特性とくせいことなるためパイロットには戦術せんじゅつ転換てんかん必要ひつようになるなど、大戦たいせん後半こうはん登場とうじょうした陸海りくかい軍機ぐんきおおくと同様どうよう運用うんようがわでも評価ひょうかかれる機体きたいである。

開発かいはつ経過けいか[編集へんしゅう]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)12月29にちキ44(のちのしきせん)の発展はってんがたとして中島なかじまたいし、最高さいこう速度そくど680 km/h以上いじょう、20mm機関きかんほう2もん・12.7mm機関きかんほう2もん装備そうびせいそら防空ぼうくう襲撃しゅうげきなど、幅広はばひろ任務にんむ使用しよう可能かのう高性能こうせいのう万能ばんのう戦闘せんとう開発かいはつ指示しじがなされた。当初とうしょはキ44の2,000馬力ばりききゅうエンジンハ145搭載とうさいがたであるキ44-III(計画けいかくのみというせつ少数しょうすう試作しさくされたとのせつがある)をベースにつばさ面積めんせきやして着陸ちゃくりく容易よういにし、燃料ねんりょう搭載とうさいりょうして航続こうぞく距離きょりばし、強力きょうりょくなエンジンにより速度そくど上昇じょうしょうりょく向上こうじょうねらったものになる予定よていであった。

しかし、キ84は最初さいしょから広大こうだい太平洋たいへいよう戦域せんいき運用うんようされることまっていたため、さらなる航続こうぞく距離きょり伸長しんちょうもとめられ、燃料ねんりょう搭載とうさいりょう増加ぞうかとともにつばさめん荷重かじゅう計画けいかくの155 kg/m2おさめるためにつばさ面積めんせき拡大かくだい余儀よぎなくされ、2,700 kg程度ていどされていた全備ぜんび重量じゅうりょうは3,000 kgをゆうえる見通みとおしとなった。それに対応たいおうしてつばさ面積めんせきやすとまた重量じゅうりょう増加ぞうかするという悪循環あくじゅんかんおちいり、とく主翼しゅよく設計せっけい難航なんこうした。さらに、前線ぜんせんからの要求ようきゅう防弾ぼうだん防火ぼうか装備そうび武装ぶそう強化きょうかなども必須ひっすとなり、これも重量じゅうりょう増加ぞうかする一因いちいんとなった。

多摩たま陸軍りくぐん飛行場ひこうじょう福生ふっさ飛行場ひこうじょうにて陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけん戦闘せんとうたいによりテストちゅうのキ84増加ぞうか試作しさくだい124号機ごうき

結局けっきょく主翼しゅよく面積めんせき計画けいかくの17.4 m2から最終さいしゅうてきに21 m2となり、予定よていしていた全備ぜんび重量じゅうりょう実機じっき自重じちょうになってしまうほどだったが、紆余曲折うよきょくせつてようやくキ84の設計せっけいはまとまり、1943ねん昭和しょうわ18ねん)3がつ試作しさく1号機ごうき完成かんせい、4がつはつ飛行ひこうした。陸軍りくぐんがわはじめてキ84を操縦そうじゅうした陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけん戦闘せんとうたいきゅう飛行ひこう実験じっけん実験じっけんたい戦闘せんとうはん)キ84審査しんさ主任しゅにんテストパイロット岩橋いわはしゆずるさん少佐しょうさは、「これはいける」とわらいながらべ、設計せっけい主務しゅむしゃ小山こやま以下いか開発かいはつスタッフが感涙かんるいむせんだエピソードがある。試験しけん飛行ひこうは1〜3号機ごうきまでは比較的ひかくてき順調じゅんちょうすすこう成績せいせきおさめたが、量産りょうさんがたのハ45を搭載とうさいした4〜7号機ごうきではエンジンとプロペラのトラブルになやまされ、とくにエンジンにかんしては試験しけん期間きかんちゅう最後さいごまで解決かいけつしなかったとつたえられる。

問題もんだいかかえながらも一刻いっこくはや実用じつよう生産せいさん体制たいせい整備せいび目的もくてきに、また審査しんさのテストパイロットである荒蒔あらまき義次よしじ少佐しょうさ進言しんげんもあり、増加ぞうか試作しさくは10以内いないという従来じゅうらい方針ほうしん転換てんかんして審査しんさ試作しさく併行へいこうしてすすめた結果けっか制式せいしきまえに100える大量たいりょう増加ぞうか試作しさく生産せいさんされた。1944ねん皇紀こうき2604とし)4がつにキ84はよんしき戦闘せんとうとして制式せいしき採用さいようされ、順次じゅんじ中島なかじま太田おおた工場こうじょう宇都宮うつのみや工場こうじょう量産りょうさん開始かいしされた。

中島なかじまでは1942ねんからキ84より航続こうぞく時間じかん延長えんちょうし、大型おおがた排気はいきタービンでこう高度こうど性能せいのう向上こうじょうさせたキ87開発かいはつしていたが、トラブルの多発たはつやキ84の開発かいはつ優先ゆうせんしたことで計画けいかくおく終戦しゅうせんわなかった。

愛称あいしょう[編集へんしゅう]

よんしきせん疾風しっぷうはつ公開こうかい写真しゃしん73Fの部隊ぶたいマークとして垂直すいちょく尾翼びよくに「赤色あかいろの3ほんストライプ」、方向ほうこうかじ下端かたんを「黄色おうしょく中隊ちゅうたいしょく」でけ、さらに機体きたい番号ばんごうだい491号機ごうきしたけたの「91」をえがいた飛行ひこうだい73戦隊せんたいよんしきせんいちがたきのえ(キ84-Iかぶと

1944ねん10がつよんしきせん所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうにおいてかく報道ほうどう関係かんけいしゃはつ公開こうかいされた。公開こうかいされた機体きたい飛行ひこうだい73戦隊せんたい所属しょぞく[ちゅう 1]塗装とそう銀地ぎんじ部隊ぶたいマーク機体きたい番号ばんごうなどをえがいた実戦じっせんであり、このさい写真しゃしん撮影さつえいされた機体きたいみぎ掲画ぞう)は最初さいしょ量産りょうさんがたであるだい491号機ごうきであった。

さらに愛称あいしょうは「はやぶさ一式いっしきせん)」、「鍾馗しょうきしきせん)」、「ほふりゅうしきふくせん)」、「飛燕ひえんさんしきせん)」といったかく新鋭しんえい戦闘せんとうぐものとして日本にっぽん全国ぜんこくから募集ぼしゅうされた。なかでもおおくの票数ひょうすうめかつ陸軍りくぐんしょう選定せんてい結果けっか疾風しっぷう」(はやて)のえらばれた。1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ11にちづけかく新聞しんぶんにて「殊勲しゅくんてている陸軍りくぐんさい新鋭しんえい戦闘せんとう」「疾風しっぷうのごとくてきおそいかかるわが戦闘せんとう雄姿ゆうしたたえふにふさわしい名前なまえ」という賛辞さんじまじえられつつ、実戦じっせん部隊ぶたい所属しょぞく写真しゃしんきで発表はっぴょうされている[2]

よんしきせん疾風しっぷう」は「帝国ていこく陸軍りくぐん新鋭しんえい戦闘せんとう」として国民こくみんられた存在そんざいであり、一式いっしきせんはやぶさ」の宣伝せんでん代表だいひょうされる広報こうほう活動かつどうたいする陸軍りくぐん関心かんしんたかさもあいまり、「疾風しっぷう」もまたかくメディアで登場とうじょうすることになる。れいとして、1945ねん7がつ1にち公開こうかい日本にっぽんニュースだい254ごうでは『りくもうわし疾風しっぷう戦闘せんとうたい 神州しんしゅうおかみにくつばさいどとう決戦けっせんたい』とだいし、軍歌ぐんか疾風しっぷう戦闘せんとうたいうた』をBGMに、機体きたい番号ばんごう派手はでフォントおおきく垂直すいちょく尾翼びよくえがいた明野あけの教導きょうどう飛行ひこう師団しだん教導きょうどう飛行ひこうたい所属しょぞくよんしきせんすうじゅう映像えいぞう地上ちじょうちゅう操縦そうじゅうせき4編隊へんたいからなる小隊しょうたい離陸りりく低空ていくう飛行ひこうシーン)が使用しようされている。なお、この日本にっぽんニュースだい254ごうせいそら部隊ぶたいごう海軍かいぐん雷電らいでんまえでセットになっており、また大戦たいせんさい末期まっき公開こうかいのためだい世界せかい大戦たいせん最後さいご日本にっぽんニュースとなっている[ちゅう 2]

コードネーム[編集へんしゅう]

ほんけられた連合れんごうぐんのコードネーム「Frank(フランク)」の由来ゆらいは、当時とうじフィリピン鹵獲ろかくした当機とうきをテストしたアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんのチームのなが、フランク・マッコイ大佐たいさが、すぐれた性能せいのうてきみずからの呈上ていじょうしたものだとつたえられる。

マッコイはコードネームを付与ふよする部門ぶもん責任せきにんしゃでもあり、自分じぶん名前なまえ有力ゆうりょく戦闘せんとうけたいとねがい、一旦いったん「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubishi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.)」(架空かくう機体きたい)にあたえたが、のちにそれをげてよんしきせんてた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」にはわりに「Harry(ハリー)」というあたえられたという[3]

技術ぎじゅつてき特徴とくちょう[編集へんしゅう]

垂直すいちょく尾翼びよく11Fの部隊ぶたいマークである「稲妻いなづまかみなり」を「中隊ちゅうたいしょく白色はくしょく」でえがいた飛行ひこうだい11戦隊せんたいよんしきせんいちがたきのえ(キ84-Iかぶと

機体きたい設計せっけい[編集へんしゅう]

よんしきせんは2,000馬力ばりききゅう戦闘せんとうとしてはきわめて小型こがた軽量けいりょう設計せっけいされている。基本きほんてき一式いっしきせんしきせん延長線えんちょうせんじょうにあり、機軸きじくぜんえん直交ちょっこうえん前進ぜんしんする主翼しゅよくや、水平すいへい尾翼びよくより後方こうほうにある垂直すいちょく尾翼びよくちょうがたフラップ[ちゅう 3]前後ぜんご分割ぶんかつする胴体どうたいなど、中島なかじませい戦闘せんとう特徴とくちょうゆうしている。ただし、一式いっしきせんしきせんがエンジンの後方こうほうから急速きゅうそくしぼられた胴体どうたい採用さいようしているのにたいし、よんしきせんではここでのらんりゅう発生はっせい警戒けいかいして徐々じょじょほそしぼった胴体どうたい形状けいじょう採用さいようしているのが特徴とくちょうとなる。生産せいさんせい配慮はいりょしているのも特徴とくちょうで、一式いっしきせんしきせん比較ひかくして生産せいさん時間じかんが2/3ほどに減少げんしょうしている。

生産せいさんせいのぞくとよんしきせん機体きたい設計せっけい一式いっしきせんしきせんとあまりわりえのしないものであったが、きゅうななせん一式いっしきせんではかる設定せっていされていた操縦そうじゅう系統けいとう意図いとてきおも設定せっていされている。従来じゅうらいかる操縦そうじゅう系統けいとうきゅう旋回せんかいおこなえるためそのさいにかかる荷重におも対応たいおうして機体きたい強度きょうどたかくしなければならず、強度きょうど確保かくほのために機体きたい重量じゅうりょう増加ぞうかし、結果けっかとして飛行ひこう性能せいのう低下ていかするという悪循環あくじゅんかんきていた。そこで、きゅう旋回せんかいむずかしくすることで機体きたい強度きょうどひく設定せっていして機体きたい軽量けいりょうはかり、速度そくど上昇じょうしょうりょく向上こうじょうにつなげるという意図いともとおも操縦そうじゅう系統けいとう採用さいようされている[ちゅう 4]。これは陸軍りくぐん准尉じゅんい)から中島なかじまのテストパイロットに転出てんしゅつした吉沢よしざわつる寿ひさし意見いけんれたものと推測すいそくされる。以下いか機体きたい設計せっけい吉沢よしざわべた意見いけんである。

「そこでわたしつばさけたふとくするより操縦そうじゅうおもくしてしいといった。エルロンけいでもいいが、昇降しょうこうかじ方向ほうこうかじじゅうでなければいけないというのがわたしかんがえ。それというのもキ27から日本人にっぽんじんかじかるいのにれてきた。そのほう器用きようあつかえ、空中くうちゅうせんもこなせるからであった。ところが、キ43クラスになると操縦そうじゅうおもわずっぱりすぎて空中くうちゅう分解ぶんかいこすケースもてきた。これをけるにはつばさけたふとくすればよいかもしれないが、それでは機体きたいおおきくおもくなる。これにたいし、アメリカ、イギリスドイツのはじつかじおもい。どんなにっても、われわれ日本人にっぽんじんちからではかないぐらいおもい。これはひとつにはスティックのながさがちがうこともある。日本にっぽんのはながい。当然とうぜん、レシオがことなってくるわけで、このてんあらためたいとおもっていたわけだ」 — 吉沢よしざわつる寿ひさし井口いぐち修道しゅうどう軍用ぐんようメカ・シリーズ7」ちゅうの『異色いしょくのテス・パイ“疾風しっぷう”をかたる』(光人みつひとしゃ)より

しかし日本にっぽんぐんのパイロットは鹵獲ろかくしたソ連それん空軍くうぐんI-16LaGG-3たいしてもテスト操縦そうじゅう桿がおもいという評価ひょうかくだすなど、きゅうななせんからつづかる操縦そうじゅう桿を前提ぜんていとしていた。とくにベテランからは「いざというときにてきだん回避かいひできないがする」「座敷ざしきのようなひろ主翼しゅよくのついた、してもいてもびくともしない戦闘せんとう」「なにをしてもできるが、なにをしてもたいしたことがない戦闘せんとう」と不評ふひょうとうじるきもあった。このためよんしきせんではきゅう旋回せんかい多用たようする従来じゅうらい格闘かくとうせんおこながたくなり、速度そくどかした一撃いちげき離脱りだつ戦法せんぽう中心ちゅうしんとした戦術せんじゅつもちいなければ本来ほんらい能力のうりょくかせなくなった。

上記じょうき昇降しょうこうかじおもさについては設計せっけい主務しゅむしゃである小山こやま悌、テストパイロットの吉沢よしざわつる寿ひさし計画けいかく課長かちょう内藤ないとう文治ぶんじ雑誌ざっし航空こうくう情報じょうほうじょう対談たいだんにおいて戦後せんご以下いかのようにべている。

吉沢よしざわ 黒江くろえ保彦やすひこさん(もと少佐しょうさ)もべていたようですが,みがよくなかったとおもいますね。

馬場ばば 加速かそくせいわるいのですか?

吉沢よしざわ つまり,みますと,昇降しょうこうかじこたえておもくなり, さえがきかなくなってしまう。だから,機首きしゅがってしまう。

小山こやま あのとき思想しそうとしては,ある程度ていどんでいったら, 機首きしゅきるほうがよいと記憶きおくしています。どんどんんでいったら,どんなことになるかからぬ。そういうことを審査しんさいん心配しんぱいされたので,意識いしきして「昇降しょうこうかじ速度そくどしてくるとおもくなる」といっていましたよ。

吉沢よしざわ てきがどんどんげたら,どうしょうもない。

小山こやま そう,げるもの当時とうじとしてはわぬ,戦闘せんとうパイロットの思想しそうとしては……。

内藤ないとう 結局けっきょく戦法せんぽうわっちゃったのだから……。」

— られざる軍用ぐんよう開発かいはつ下巻げかん所収しょしゅう座談ざだんかい「キ87だか戦闘せんとうおも」(たけなわとうしゃ)124-125ぺーじより

操縦そうじゅうしゃによっては旧式きゅうしき一式いっしきせんや、末期まっき登場とうじょうしたしき戦闘せんとう(キ100)をたか評価ひょうかすることがあるのは、エンジンの信頼しんらいせいのほか旋回せんかい性能せいのうにより自身じしん技量ぎりょう発揮はっきできる機体きたいであったからともえる。同様どうよう指摘してき高速こうそく万能ばんのう戦闘せんとう目指めざしてけいせんじゅうせん中間ちゅうかん戦闘せんとうちゅうせん)ともばれながら、べいぐん新鋭しんえいには速度そくど一式いっしきせんには運動うんどう性能せいのうおとるうえ、えきひやエンジン不調ふちょうにもなやまされたさんしきせんにもされている。しかし、飛行ひこうだい22戦隊せんたいわきもりくだ一郎いちろう少尉しょういの「操縦そうじゅう桿をちからっぱいれば格闘かくとうせんよう旋回せんかい能力のうりょくもかなりある」といった感想かんそうや、実戦じっせんでの模様もようからよんしきせんは「格闘かくとうせん出来できじゅうせん」、「けいせん一式いっしきせん)とじゅうせんしきせん)のいとこり」とも評価ひょうかされており、機体きたい特性とくせいわせた戦法せんぽう転換てんかんしたパイロットからは好評こうひょうであった。また、こう高度こうどでの操縦そうじゅうせい速度そくど防御ぼうぎょてんおと機体きたいおお日本にっぽん軍機ぐんきなかでは比較的ひかくてき良好りょうこうなため、高速こうそくしたアメリカ軍機ぐんきとの空戦くうせん成果せいかげた。またばくそう可能かのうなため対地たいち攻撃こうげきでも成果せいかげている。

ひく垂直すいちょく尾翼びよく下膨しもぶくがた[4]われ、プロペラりゅう悪影響あくえいきょう軽減けいげんする手法しゅほうのひとつである。プロペラりゅう螺旋らせんじょう回転かいてんしており垂直すいちょく尾翼びよくよこからたたいて機首きしゅ偏向へんこうさせるが、これは外周がいしゅうがわほど強力きょうりょくであり、垂直すいちょく尾翼びよく面積めんせき重心じゅうしんをプロペラじくせることでその影響えいきょうちいさくできる[4]欧米おうべい単発たんぱつ戦闘せんとう垂直すいちょく尾翼びよくたかいがプロペラじくすう下向したむ[ちゅう 5]にして同様どうよう効果こうかている[4]。また、離陸りりく滑走かっそうから浮揚ふようへのむかえかく変化へんかさい垂直すいちょく尾翼びよくへのペラりゅうたりかた急変きゅうへんし、ぎゃくとうかじ修正しゅうせい必要ひつよう瞬間しゅんかんがあるが、操作そうさおくれると機首きしゅ急激きゅうげきられやすい。この現象げんしょうはヒッカケラレとび、これの軽減けいげんにも上記じょうき対策たいさく有効ゆうこうである[5]

エンジン[編集へんしゅう]

搭載とうさいエンジンであるハ45はハ25/ハ115海軍かいぐんめいさかえ」)の18気筒きとうはんとでもうべきものであり、当時とうじ欧米おうべいみずけられていたエンジン技術ぎじゅつ格差かくさめるべく、ハ25とほとんおな前面ぜんめん面積めんせきやく2ばい出力しゅつりょく目指めざしたしん世代せだいエンジンであった。やや無理むり小型こがたおこなわれたためエンジン各部かくぶ余裕よゆうすくなく、「芸術げいじゅつひん」とひょうされるほど繊細せんさい部分ぶぶんがあったとされる。このため大戦たいせん末期まっき量産りょうさんには、初期しょき故障こしょう頻発ひんぱつうえに、1943ねん11月に合理ごうりてき兵器へいき大量たいりょう生産せいさん実現じつげんさせる目的もくてき設立せつりつされた軍需ぐんじゅしょうが、中島なかじま飛行機ひこうき多摩たま製作所せいさくしょ武蔵野むさしの製作所せいさくしょ前者ぜんしゃ海軍かいぐんよう発動はつどう後者こうしゃ陸軍りくぐんよう発動はつどうをそれぞれ生産せいさんしていた)を統合とうごうしたが、すでにこの2つの工場こうじょう陸海りくかい軍用ぐんよう別個べっこ生産せいさんおこなだい工場こうじょうとして機能きのうしていたために、この統合とうごう生産せいさん管理かんり能力のうりょく限界げんかいえてしまった。結果けっかとして完成かんせいひん検査けんさ体制たいせいおろかになり、製造せいぞう不具合ふぐあい発見はっけんされないままに問題もんだいかかえた発動はつどう陸海りくかいぐん領収りょうしゅうされてゆく事態じたいとなり、額面がくめんどおりの性能せいのう発揮はっきできないものが多発たはつした[ちゅう 6]。この事態じたい陸海りくかいぐん中島なかじまをこまねいていたわけではなく、可能かのうかぎりの対策たいさくられている。なお、1944ねん海軍かいぐんおさめられたほまれベンチテスト結果けっかが、カタログよりすうわりひくかったという証言しょうげんがあるが、その反面はんめんどう時期じきにフィリピンでアメリカぐん鹵獲ろかくされ、こう評価ひょうか機体きたいのハ45は完全かんぜん量産りょうさんひんであった。

ハ45はこう品質ひんしつの100オクタンガソリンの使用しよう前提ぜんてい設計せっけいされたが、対外たいがい情勢じょうせい悪化あっかともな入手にゅうしゅ困難こんなんとなったため、91オクタンガソリンにみずメタノール噴射ふんしゃおこなうことで100オクタンガソリンと同様どうよう効果こうかられるよう設計せっけい変更へんこうされた。反面はんめんこのみずメタノール噴射ふんしゃ調整ちょうせいむずかしく、ハ45の不調ふちょう原因げんいんひとつとなっている(一式いっしきせんさんがた雷電らいでんにおいても同様どうよう不調ふちょう発生はっせいしている)。ちなみに「陸軍りくぐんは87オクタンガソリンがせい々で実態じったいはそれ以下いか」とするせつもあるが、本土ほんどだけでなく南方なんぽう展開てんかいしていた実戦じっせん部隊ぶたい記録きろくには最低限さいていげん需要じゅようたす程度ていどの91オクタンガソリンは安定あんていてき供給きょうきゅうされていたことがしるされており、87オクタンガソリンでんだという証言しょうげんも「後方こうほう実用じつよう転用てんようした練習れんしゅう使つかえるかどうかためしてみた」や「実戦じっせんでも使つかえないか試験しけんてきれて飛行ひこうしてみた」という記述きじゅつがほとんどである。つまり、陸海りくかいぐんわず、練習れんしゅうのぞ第一線だいいっせん実用じつようには91オクタンガソリンが使用しようされていたことになる。しかし、飛行ひこうだい47戦隊せんたい整備せいび隊長たいちょうつとめていた刈谷かりやただし大尉たいい自著じちょで「これ(ガソリン)自身じしんたして充分じゅうぶんにその性能せいのう発揮はっきしていたかうたがわしい」とべており、「燃料ねんりょう性能せいのう額面割がくめんわれ」していた可能かのうせいまったいとはえない。海軍かいぐんほまれ搭載とうさいである銀河ぎんが運用うんようしたもと攻撃こうげきだい405飛行ひこう隊長たいちょう鈴木すずきあきら五郎ごろう大尉たいいも「当時とうじのA91G(航空こうくう91揮発きはつ)はA87G(航空こうくう87揮発きはつ程度ていど、またA87GはA85G(航空こうくう85揮発きはつ程度ていどしつ低下ていか」と燃料ねんりょうについての実情じつじょう証言しょうげんしている[6]

「ハ45(ほまれ)」の運転うんてん制限せいげん[編集へんしゅう]

1943ねん7がつ1にち10日とおかの2かい審査しんさのある多摩たま陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうおこなわれた飛行ひこう実験じっけん機材きざいによれば、「きょうためし機体きたいキ84だい3号機ごうき」「発動はつどうハ45とく」とある。中島なかじま技術ぎじゅつ報告ほうこくしょによると、ハ45とくはなれのぼり2,000馬力ばりきのハ45(海軍かいぐん名誉めいよいちがた)より先行せんこうして開発かいはつされていたはなれのぼり1,800馬力ばりきほまれいちいちがたおなじになっている。つまりよんしきせん初期しょき試作しさく搭載とうさいしていたハ45とくほまれいちいちがたとほとんどおなじものということである。なお、ハ45とくはなれのぼり出力しゅつりょく2,000馬力ばりきのハ45の性能せいのうは、不具合ふぐあいへの対策たいさくによる運転うんてん制限せいげんによるものである。この運転うんてん制限せいげんはキ84の操縦そうじゅう参考さんこうしょにも「ハ45とく同等どうとう水準すいじゅん運転うんてん制限せいげんおこなう」と明記めいきされている。なお、1944ねんまつになっても、ほぼどういちエンジンの紫電しでんあらため操縦そうじゅう参考さんこうしょにおいて「制限せいげん解除かいじょ見通みとおしがちつつある」とべられていることから、かなりの長期間ちょうきかん運転うんてん制限せいげんおこなわれていたのはたしかである[ちゅう 7]

プロペラ[編集へんしゅう]

だい出力しゅつりょくのハ45に対応たいおうすべくプロペラも一式いっしきせんれいせん使つかわれていたハミルトン・スタンダードせい油圧ゆあつしき可変かへん3翅(海軍かいぐんけは住友金属すみともきんぞく陸軍りくぐんけは日本にっぽん楽器がっき製造せいぞう生産せいさん[ちゅう 8]から、よりピッチ変更へんこう角度かくどおおきいフランスラチェしゃ英語えいごばん電動でんどう可変かへん4翅(日本にっぽん国際こくさい航空こうくう工業こうぎょうがライセンス生産せいさんけんていた)の採用さいよう検討けんとうしたが、当初とうしょピッチ変動へんどう速度そくどおそ戦闘せんとうには不向ふむきとされた。日本にっぽん国際こくさい航空こうくう工業こうぎょうでは変動へんどう速度そくど毎秒まいびょう1.2から13.2とした改良かいりょうがた「ペ32」の開発かいはつ成功せいこうし、戦闘せんとうへも搭載とうさい可能かのうとなった[7]。しかし日本にっぽんでは電動でんどう可変かへん機構きこう経験けいけんすくなく、変節へんせつ速度そくどはやぎてハンチングやエンジンの回転かいてんといった問題もんだい発生はっせいし、最終さいしゅうてきには電動でんどう電力でんりょく半減はんげんして動作どうさ速度そくどとす(毎秒まいびょう13.2から6.6)ことで一応いちおう解決かいけつたが、現場げんば整備せいびいんにも不慣ふなれなものおお不安定ふあんてい部品ぶひん精度せいどあいまって故障こしょう相次あいつぎ、エンジンとならんでよんしきせん不調ふちょうとなる元凶げんきょうとなった[1]日本にっぽん楽器がっき製造せいぞうでは故障こしょう原因げんいんとなっていた電動でんどう部分ぶぶんを、自社じしゃがライセンスを生産せいさんけんていたユンカースしゃ油圧ゆあつしき可変かへんプロペラの機構きこうえた「ぺ・33」を試作しさくよんしきじゅう爆撃ばくげき搭載とうさいする予定よていだったが終戦しゅうせんにはわなかった[8]

よんしきせん採用さいようされたプロペラブレードは直径ちょっけい3.05 mの4翅で、しょ外国がいこくの2,000馬力ばりきクラスの戦闘せんとうも3.6 - 4.0 mが中心ちゅうしんであるなどくらべるとちいさい。これが上昇じょうしょうりょく最高さいこう速度そくど発揮はっきむずかしくしたとわれている。どう時期じき海軍かいぐん紫電しでん/紫電しでんあらため採用さいようされたドイツVDMしゃせい[ちゅう 9]のプロペラが直径ちょっけい3.3 m、おな中島なかじませい彩雲さいうんが3.5 mを採用さいようしたことから、機体きたい小型こがたにまとめようとするあまり、小径しょうけいのプロペラを採用さいようしたことをやむ意見いけん後年こうねんおおされている。そもそも中島なかじまでは設計せっけい段階だんかいで「プロペラ効率こうりつ76 %で、最高さいこう速度そくど660 km/h」と試算しさんし、実際じっさいそれにちか速度そくど性能せいのう発揮はっきしている。

おなじペ32を採用さいようした試作しさくだか高度こうど防空ぼうくう戦闘せんとうキ94は、上昇じょうしょうりょくこう高度こうど性能せいのう重視じゅうし直径ちょっけい4 mのブレードを採用さいようしている。

最高さいこう速度そくど[編集へんしゅう]

1945ねん、アメリカぐんによって鹵獲ろかくされたよんしきせん連合れんごうぐん戦闘せんとうとの編隊へんたい飛行ひこう手前てまえよりシーファイア(スピットファイア)よんしきせん疾風しっぷう」、F6F-5 ヘルキャットP-51D「マスタング」

よんしきせんさい高速度こうそくどは、審査しんさ岩橋いわはし少佐しょうさ高度こうど5,000 mで記録きろくした624 km/hがひろられている。おな試作しさくべつ記録きろくでは、高度こうど6,000 mにて640 km/hというのもある。また、船橋ふなばし中尉ちゅうい試作しさく4号機ごうきにより、高度こうど6,120 mにて631 km/hを記録きろくしている。

しかしこれらの記録きろくは、いずれも推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかん装備そうびした初期しょき試作しさくのもので、量産りょうさんがたおな推力すいりょくしきたん排気はいきかん改造かいぞうした機体きたいでは、キ84-Iおつ試作しさく審査しんさにおいて高度こうど6,000において660 km/hを記録きろくした。実戦じっせんにおいてはエンジンの調子ちょうしときならば、いちがたかぶと量産りょうさんが650 - 655 km/h以上いじょうたという証言しょうげんがある[よう出典しゅってん]

アメリカぐんフィリピンのたたか鹵獲ろかくした飛行ひこうだい11戦隊せんたい所属しょぞくであっただい1446号機ごうき(1944ねん12月に製造せいぞうされた量産りょうさん)を使つかい、戦後せんご1946ねん昭和しょうわ21ねん)4がつ2にちから5がつ10日とおかにかけて、ペンシルベニアしゅうのミドルタウン航空こうくう兵站へいたん(Middletown Air Depot)で性能せいのうテストをおこなった。

100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカせい点火てんかプラグを使用しようしたよんしきせんは、武装ぶそうのぞいた重量じゅうりょう7,490 lb (3,397 kg)の状態じょうたいで(よんしきせん正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょうは3,890 kg)、高度こうど20,000 ft (6,096 m)において427 mph (687 km/h)を記録きろくした。これはどう高度こうどにおけるP-51D-25-NA マスタングおよびP-47D-35-RA サンダーボルトさい高速度こうそくどよりも、それぞれ3 mph(5 km/h)および22 mph(35 km/h)ゆうそくであった[9]。しかし、この高度こうど6,096 mでのさい高速度こうそくどぜん高度こうどにおけるよんしきせんさい高速度こうそくどであり、それ以上いじょう高度こうどでは速度そくどちてしまうので[10]高度こうど7,600 mで最高さいこう速度そくど703 km/hをせるP-51Dや、9,145 mで最高さいこう速度そくど697 km/hを記録きろくするP-47Dにたいしてかならずしも優位ゆういつものではない。

1945ねん3がつ作成さくせいのアメリカぐん資料しりょう "Manual on Japanese aircraft, TAIC No. 1" によると、高度こうど20,000 ftでやく425 mph (684 km/h)、高度こうど30,000 ftでやく392 mph (631 km/h)、試験しけん条件じょうけん重量じゅうりょう7,940 lb (3,602 kg)、緊急きんきゅう戦闘せんとう出力しゅつりょく運転うんてんとなっている[11]。ただし、この資料しりょう冒頭ぼうとうには "Except where otherwise stated, performance figures represent estimates of the Technical Air Intelligence Center and have been calculated after a careful analysis of information derived from intelligence, captured equipment, drawings, and photographs, using power ratings derived from the same sources."(とく明記めいきされていないかぎり、性能せいのう数値すうち技術ぎじゅつ航空こうくう情報じょうほうセンターの推定すいていであり、情報じょうほう捕獲ほかくした装備そうび図面ずめん写真しゃしんから情報じょうほう慎重しんちょう分析ぶんせきしたのちおな情報じょうほうげんから出力しゅつりょくていかくもちいて算出さんしゅつしたものである。)とあり、よんしき戦闘せんとう場合ばあい実際じっさい飛行ひこうさせて計測けいそくされた最大さいだい速度そくどではない。

武装ぶそう[編集へんしゅう]

陸軍りくぐん単発たんぱつ単座たんざ戦闘せんとうとしてははじめて計画けいかく段階だんかいから20mm機関きかんほうホ5 しきじゅうみりめーとる固定こてい機関きかんほう)の装備そうび要求ようきゅうされた機体きたいで、当時とうじ陸軍りくぐん単発たんぱつ単座たんざ戦闘せんとうなかではホ301装備そうびしきせんがたおつ(キ44-IIおつ)をのぞき、さんしきせんいちがたへい/ちょう(キ61-Iへい/ちょう)・がた(キ61-IIあらため)とならんでもっと火力かりょくおおきかった。かつ、いちがたきのえ(キ84-Iかぶと)のホ103 一式いっしきじゅうななみりめーとる機関きかんほう携行けいこうだんすうかく350はつと、おなじく機首きしゅほうとしてホ103を装備そうびする一式いっしきせんがた/さんがた(キ43-II/III)・しきせんがたへい(キ44-IIへい)・さんしきせんいちがたおつ(キ61-Iおつ)の250〜270はつよりやく100はつ増量ぞうりょうされている。しかし世界せかいてき趨勢すうせいからみるとややけい武装ぶそうであるのはいなめず、開発かいはつ比較的ひかくてき初期しょき段階だんかいから武装ぶそう強化きょうかがたおつがたへいがた開発かいはつはじまっている。照準しょうじゅん一式いっしきせんがた(キ43-II)などが装備そうびしていた従来じゅうらいいち〇〇しき射撃しゃげき照準しょうじゅんひかりぞうしき)にわり、量産りょうさんではしん開発かいはつさんしき射撃しゃげき照準しょうじゅんひかりぞうしき)を装備そうびしている。

防弾ぼうだん装備そうび[編集へんしゅう]

防弾ぼうだん防火ぼうか装備そうびについては従来じゅうらい陸軍りくぐん戦闘せんとうおなじく当初とうしょから装備そうびされている。

すべての燃料ねんりょうタンクは積層せきそうゴムつつまれたセルフシーリングしき防火ぼうかタンク(ぼうタンク・防弾ぼうだんタンク、12.7mmだん対応たいおう)、操縦そうじゅうしゃ頭部とうぶ上半身じょうはんしん保護ほごするため操縦そうじゅうせき背面はいめんに12.4 mmあつ重量じゅうりょう29.5kg表面ひょうめん硬度こうど828HVの防弾ぼうだん鋼板こうはん浸炭しんたん処理しょりずみSNCMざい、12.7mmだん対応たいおう)をそなえ、さらに風防ふうぼう前面ぜんめんは70 mmあつ防弾ぼうだんガラスとなっている。また、被弾ひだん墜落ついらく操縦そうじゅうしゃ脱出だっしゅつ手助てだすけするため天蓋てんがいには飛散ひさん装置そうち設定せっていされており、操縦そうじゅうせき上部じょうぶの槓杵をくと風圧ふうあつ天蓋てんがい自体じたい容易よういはずび、操縦そうじゅうしゃ迅速じんそく機外きがい脱出だっしゅつ落下傘らっかさん降下こうか可能かのうとなっている。

実戦じっせん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく大陸たいりく戦線せんせん[編集へんしゅう]

岩橋いわはしゆずるさん中佐ちゅうさ陸軍りくぐん航空こうくうへい大尉たいい時代じだい

よんしきせん本格ほんかくてき装備そうびする実戦じっせん部隊ぶたいは1944ねん3がつ1にちづけ編成へんせい[ちゅう 10]飛行ひこうだい22戦隊せんたいで、垂直すいちょく尾翼びよくえが部隊ぶたいマークを菊水きくすいもんとしたどう戦隊せんたいよんしきせん実戦じっせんテストもねたものであり、使用しよう機体きたいはキ84増加ぞうか試作しさくを、幹部かんぶ空中くうちゅう勤務きんむしゃ地上ちじょう勤務きんむしゃおも審査しんさから精鋭せいえい抽出ちゅうしゅつとなり[ちゅう 11]戦隊せんたいちょう当機とうき熟知じゅくちしていた審査しんさ主任しゅにんであり、ノモンハン事件じけんからのエース・パイロットでもあった岩橋いわはしゆずるさん少佐しょうさ整備せいび隊長たいちょうおなじくキ84はん整備せいび班長はんちょうとしてながたずさわっていた中村なかむらこう大尉たいいりょう任命にんめいされた。だい22戦隊せんたい太平洋戦争たいへいようせんそうの「天王山てんのうざん」としょうされるフィリピンのたたか投入とうにゅう予定よていであった。

一方いっぽうで5がつまついちごう作戦さくせん大陸たいりくどおり作戦さくせん)をひかえたささえ派遣はけんぐんだい5航空こうくうぐんは、参謀さんぼうちょう橋本はしもと秀信ひでのぶ少将しょうしょう参謀さんぼう本部ほんぶだいいち次長じちょう後宮こうきゅうあつし大将たいしょうたい新鋭しんえいよんしきせんよんしきじゅうばく電波でんぱ警戒けいかいなどの補充ほじゅうもとめた。当時とうじ中国ちゅうごく方面ほうめん航空こうくう兵力へいりょくは1たい3と推定すいていされ、この劣勢れっせい新鋭しんえい投入とうにゅう解決かいけつしようとしたものであり、結果けっかよんしきじゅうばく派遣はけん見送みおくられたがよんしきせん派遣はけん要望ようぼう早々そうそうかなえられたとされる[12]当時とうじ中国ちゅうごく戦線せんせん中国ちゅうごく航空こうくうせん)には一式いっしきせんしきせん投入とうにゅうされており、帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいは1943ねん8がつ21にちから1944ねん5がつ6にち期間きかんちゅう空戦くうせん損害そんがいわずか10喪失そうしつ一式いっしきせん8しきせん2)にたい最低さいていでも連合れんごう軍機ぐんき44確実かくじつ撃墜げきつい戦闘せんとう33ばくげき11)、大戦たいせんちゅう後期こうきにおいてもビルマ航空こうくうせんならび、連合れんごうぐん空軍くうぐんたいして互角ごかく以上いじょう勝負しょうぶおこな度重たびかさなる勝利しょうりおさめていた(一式いっしき戦闘せんとう#中国ちゅうごく航空こうくうせん[13]。しかし、1944ねんなか当時とうじ上述じょうじゅつ兵力へいりょく拡大かくだいくわえて、連合れんごうぐん従来じゅうらい性能せいのう向上こうじょうさせた発展はってんがたであるP-40NおよびP-38Jや、高性能こうせいのう新鋭しんえいであるP-51B/C、P-47といった戦闘せんとう投入とうにゅうするようになり、苦戦くせんいられるようになっていた。またれいせん一式いっしきせん互角ごかく格闘かくとうせんができるF6Fたいしては、運動うんどう性能せいのうおとたなかった。

7がつ上旬じょうじゅん中国ちゅうごく航空こうくうせんしきせんたたかっている飛行ひこうだい85戦隊せんたいよんしきせんへの機種きしゅ改変かいへん着手ちゃくしゅ。まず派遣はけんされた4めい操縦そうじゅうしゃかんこう伝習でんしゅう教育きょういくけ、4広東かんとんだい85戦隊せんたいかえ改変かいへんすすめ、8がつ1にち時点じてんでの戦隊せんたい保有ほゆう稼動かどうしきせん22たいよんしきせん3。さらにだい85戦隊せんたいは9月にかんこうよんしきせん9受領じゅりょうした[14]だい22戦隊せんたいは1ヶ月かげつ限定げんてい中国ちゅうごく航空こうくうせん派遣はけんされることになり、8がつ25にち南京なんきん到着とうちゃくかんこう根拠地こんきょち飛行場ひこうじょうしろにしいそ前進ぜんしん飛行場ひこうじょうとして作戦さくせん開始かいし(9がつ1にち保有ほゆうよんしきせん28)。8月28にちには飛行ひこうだい25戦隊せんたい飛行ひこうだい48戦隊せんたい(ともに一式いっしきせん装備そうび)とともに、来襲らいしゅうしたアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんだい14空軍くうぐんおよび中米ちゅうべい混成こんせい航空こうくうだん(CACW、ちゅう混合こんごう空軍くうぐんだんべいささえ混成こんせい空軍くうぐん)のP-40と交戦こうせん空戦くうせん日本にっぽんぐんがわよんしきせん1一式いっしきせん2喪失そうしつ連合れんごうぐんがわはP-40 1(ないし4)を喪失そうしつしている[15]よく29にちにはだい22戦隊せんたいよんしきせん13だい25戦隊せんたい一式いっしきせん16B-24爆撃ばくげきおよびP-40、P-51と交戦こうせん日本にっぽんぐんがわ一式いっしきせん1よんしきせん1喪失そうしつ連合れんごうぐんがわはP-40 2さらに同日どうじつ夕方ゆうがたにはP-40 1喪失そうしつ[16]。30にちだい22戦隊せんたいよんしきせん10かえりよしでP-51 6交戦こうせんだい22戦隊せんたい喪失そうしつだい76戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-51Bウィリアム・D・マクレノン中尉ちゅうい戦死せんし)を撃墜げきつい。これはノモンハン以来いらい古参こさん操縦そうじゅうしゃである古郡ふるこおり吾郎ごろう准尉じゅんい戦果せんかであり、同時どうじよんしきせんによるはじめての明確めいかく勝利しょうりであった[17]

9月9にちだい22戦隊せんたいよんしきせん3ろう河口かこう飛行場ひこうじょう不時着ふじちゃくしていただい58ばくげき航空こうくうだんB-29対地たいち攻撃こうげきにより撃破げきは炎上えんじょう[18]。しかし21にち西安しーあん飛行場ひこうじょう襲撃しゅうげきだい22戦隊せんたい長岩ながいわきょう少佐しょうさ離陸りりくちゅうのP-51ウィリアム・E・ホール曹長そうちょう戦死せんし)を対地たいち攻撃こうげき撃破げきは炎上えんじょうさせるも被弾ひだん自爆じばくした(死後しご陸軍りくぐん中佐ちゅうさ特進とくしん)。この1ヶ月かげつ期間きかんちゅうだい22戦隊せんたいよんしきせん6喪失そうしつ戦死せんし6めい)、たいしてよんしきせんによるほぼ明確めいかく戦果せんかはP-51 2撃墜げきついうち1離陸りりく途中とちゅう)、P-40 2撃墜げきついB-25爆撃ばくげき 1撃墜げきついのほかB-29 1地上ちじょう炎上えんじょうさせた。すべてがよんしきせん戦果せんかではない戦隊せんたいとの協同きょうどうせんによるものでP-40 7撃墜げきついとなる(かく戦果せんか戦史せんし梅本うめもとひろし連合れんごうぐん損害そんがい記録きろくとういち史料しりょうもち照会しょうかいした数値すうち[19]

だい22戦隊せんたい状態じょうたいかぶと」のよんしきせん9のうち6だい85戦隊せんたい引渡ひきわたし、フィリピン航空こうくうせんそなえるため9がつ26にち内地ないち帰還きかんだい85戦隊せんたいはP-51B/Cを相手あいて善戦ぜんせんし、「赤鼻あかばなのエース」としててき味方みかた双方そうほうられていた若松わかまつみゆき少佐しょうさ[ちゅう 12]活躍かつやくなど、10月には中国ちゅうごく上空じょうくう制空権せいくうけん回復かいふくする活躍かつやくをしている。10月4にちだい85戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいちょう若松わかまつ大尉たいいよんしきせん4しきせん4ひきい梧州付近ふきん友軍ゆうぐん船団せんだん上空じょうくう哨戒しょうかいちゅう来襲らいしゅうしただい76戦闘せんとう飛行ひこうたいのP-51B/Cを奇襲きしゅう攻撃こうげきし4確実かくじつ撃墜げきつい(シャル中尉ちゅうい・リーゼズ中尉ちゅうい・オデル中尉ちゅうい、ほかもう1喪失そうしつ)、日本にっぽん軍機ぐんきには1はつ被弾ひだんもなく損害そんがい皆無かいむであった(四式戦若松大尉機2撃墜げきつい報告ほうこく、四式戦大久保軍曹機2撃墜げきつい報告ほうこく、二式戦石川軍曹機1撃墜げきつい報告ほうこく)。よんしきせん若松わかまつ大尉たいい最初さいしょ発見はっけんした1一撃いちげき発火はっかさせ撃墜げきついつづいて攻撃こうげきしたひだりの1もまた発火はっか冷却れいきゃくすい噴出ふんしゅつさせ撃墜げきつい、僚機よんしきせん大久保おおくぼ軍曹ぐんそうは1追撃ついげきしつつ撃墜げきついしきせん石川いしかわ軍曹ぐんそうもまた1追尾ついび撃墜げきついしている[20]若松わかまつ大尉たいい当日とうじつ日記にっきに「ほう被弾ひだんいちもなく、赤子あかごをねじるがごとし」としるしている。ほか、特徴とくちょうてきなエピソードとして若松わかまつ少佐しょうさ地上ちじょう勤務きんむしゃ士気しき鼓舞こぶするために、搭乗とうじょう無線むせん電話でんわ送信そうしんスイッチをオンにした状態じょうたいで「空戦くうせん実況じっきょう」をおこなっていた。

中国ちゅうごく航空こうくうせん末期まっきの12月18にちかんこうをB-29をふくせんばく連合れんごうだい編隊へんたい波状はじょう攻撃こうげきし、かんこう市街しがい飛行場ひこうじょう在地ざいちばくげきおおきな被害ひがいした(かんこうだい空襲くうしゅう)。邀撃ようげきにはだい85戦隊せんたいよんしきせん12だい25戦隊せんたい一式いっしきせん13出撃しゅつげきし、同日どうじつ午後ごご空戦くうせんでは「赤鼻あかばなのエース」若松わかまつ少佐しょうさふくよんしきせん3一式いっしきせん2喪失そうしつするも戦果せんか対空たいくう砲火ほうかわせP-51 4、P-40 1、B-29 1確実かくじつ撃墜げきついそら対空たいくう戦果せんかはこのうち3とされる)。1945ねん1がつ3にちと5にち、6にちそして14にちにもかんこう連続れんぞく空襲くうしゅうおなじくだい85戦隊せんたいだい25戦隊せんたいがこれを邀撃ようげきりょう戦隊せんたいけい6めい戦死せんし操縦そうじゅうしゃすも戦果せんか対空たいくう砲火ほうかわせP-51 8P-47 4確実かくじつ撃墜げきつい(P-47は中国ちゅうごくではこれが初陣ういじんである)。17にち来襲らいしゅうしたP-47との空戦くうせんだい85戦隊せんたいだい25戦隊せんたいりょう戦隊せんたいかく1めい戦死せんしするも、P-47 2確実かくじつ撃墜げきついしている[21]

フィリピン戦線せんせん[編集へんしゅう]

このようによんしきせん中国ちゅうごく戦線せんせんにおいて実戦じっせん部隊ぶたい操縦そうじゅうしゃからもたか評価ひょうかけた。一方いっぽうで、台湾たいわんおき航空こうくうせんにおいてほぼ奇襲きしゅうされた状況じょうきょう、しかも圧倒的あっとうてきすうてき劣勢れっせいアメリカ海軍かいぐんのF6Fにかい、戦隊せんたいちょう中隊ちゅうたいちょう幹部かんぶ戦死せんしする被害ひがいこうむっただい11戦隊せんたいよんしきせんたいする評価ひょうかかんばしくないものであった。

そのフィリピンのたたかにおいては、捷一しょういちごう作戦さくせん準備じゅんびのためだい4航空こうくうぐん司令しれいかん富永とみなが恭次きょうじ中将ちゅうじょう政治せいじりょく駆使くしして、日本にっぽん本土ほんど九州きゅうしゅう台湾たいわん中国ちゅうごくなどから精鋭せいえい航空こうくう部隊ぶたい315増援ぞうえんとしてかきあつめたが、そのなかには多数たすうよんしきせんふくまれていた。陸海りくかいぐんあわせると合計ごうけい1,000以上いじょう精鋭せいえい航空こうくう部隊ぶたいがフィリピンに集結しゅうけつすることとなって、ひさしぶりに空中くうちゅうかたきがとれるとぜんぐん士気しきおおいにたかまった[22]

やがて、連合れんごうぐんレイテ島れいてとう上陸じょうりくレイテ島れいてとうたたかはじまると、連合れんごうぐん極東きょくとう空軍くうぐん(Far East Air Force, FEAF)司令しれいかんジョージ・ケニー英語えいごばん少将しょうしょうレイテ島れいてとう確保かくほしたばかりのタクロバン飛行場ひこうじょう整備せいびいそがせて[23]だい5空軍くうぐん戦闘せんとう進出しんしゅつさせ、強力きょうりょく航空こうくう支援しえん体制たいせい確立かくりつしようとしていた[24]富永とみながは、連合れんごうぐん強力きょうりょく航空こうくう支援しえん体制たいせい構築こうちくするまえに、飛行場ひこうじょうたたくべく、タクロバン飛行場ひこうじょう攻撃こうげきめいじた。飛行場ひこうじょう攻撃こうげきめいじられただい16飛行ひこうだんがタクロバン飛行場ひこうじょう偵察ていさつすると、昨日きのうまではなかったアメリカぐん戦闘せんとうがずらっとならんでいるのを発見はっけんした。攻撃こうげき好機こうきかんがえただい16飛行ひこう団長だんちょう新藤しんどうつねみぎ衛門えもん中佐ちゅうさは、よんしきせん11だん搭載とうさいさせて出撃しゅつげきめいじた[25]。やがて出撃しゅつげきした「疾風しっぷう」がかえってきて、操縦そうじゅう池田いけだ中尉ちゅうい指揮しきしょ戦況せんきょう見守みまもっていた富永とみなが新藤しんどうると「はげしい対空たいくう砲火ほうか被弾ひだんした僚機がてき飛行機ひこうきぐんんで自爆じばくした」「高度こうど100mから200mでタだん投下とうかしててきだい損害そんがいあたえた」と戦果せんか報告ほうこくをし、富永とみなが新藤しんどう笑顔えがおろうねぎらった。最後さいご帰還きかんしたのは少年しょうねん飛行ひこうへい最年少さいねんしょうしゃ池田いけだ伍長ごちょうであったが、池田いけだ無邪気むじゃきに「けたり、ひっくりかえったり、てき飛行場ひこうじょう惨憺さんたんたるものです」と報告ほうこくすると、富永とみながはわざわざ池田いけだあゆって「うん苦労くろう苦労くろう」とうれしそうにかたたたいている[26]。この攻撃こうげき成功せいこうしてだい16飛行ひこうだん隊長たいちょう山崎やまざき以下いかの4疾風しっぷう」をうしなったが、偵察ていさつ報告ほうこくによって地上ちじょうのアメリカ軍機ぐんきやく100撃破げきはしたことが判明はんめいし、司令しれいかえった富永とみなが新藤しんどうに「よくやった。偵察ていさつってきた戦果せんか写真しゃしんはいずれそちらにおくる」と称賛しょうさん電話でんわをかけている[24]。しかし、新藤しんどう夜間やかん出撃しゅつげきもうたいしては「昼間ひるま攻撃こうげきつづ夜間やかん攻撃こうげきおこなわんとするかん決心けっしんたけしとするも、たいのこされた以後いご任務にんむはなおたかい。てき飛行場ひこうじょう夜間やかん攻撃こうげきは、ばくげきたい実施じっしせしむ」とし「あすは、いちにちちゅう操縦そうじゅうをゆっくり昼寝ひるねさせてくれ」と休養きゅうようるようにめいじている。新藤しんどう富永とみながだい16飛行ひこうだん戦力せんりょく温存おんぞんしたいという好意こういかんじて、その配慮はいりょ感謝かんしゃしている[27]

だい16飛行ひこうだんよんしきせん攻撃こうげきしたレイテ島れいてとうタクロバン飛行場ひこうじょう

だい16飛行ひこうだん攻撃こうげきだい損害そんがいこうむった極東きょくとう空軍くうぐん司令しれいかんのケニーは、これまでに確保かくほした飛行場ひこうじょうレーダー設置せっちして、日本にっぽんぐん空襲くうしゅう警戒けいかいしていたが、こののちも、富永とみなが積極せっきょくてき航空こうくう作戦さくせん展開てんかいし、だい4航空こうくうぐん攻撃こうげき警戒けいかいするアメリカぐん嘲笑あざわらうかのように、山稜さんりょうごしに熟練じゅくれんした操縦そうじゅう技術ぎじゅつ低空ていくう侵入しんにゅう連合れんごうぐんのレーダーを妨害ぼうがいして空襲くうしゅうかえした[28]。ケニーはタグロバンにリチャード・ボング少佐しょうさや、トーマス・マクガイア少佐しょうさなど34めいエースパイロットをせたが、わずか24あいだあいだにその半数はんすう日本にっぽん軍機ぐんき撃墜げきついされて戦死せんししている[29]。ケニーが陣頭じんとう指揮しきにあたっても、飛行場ひこうじょう整備せいび手間取てまどっており、あめると、アメリカぐん確保かくほしていたタクロバンやドラッグ飛行場ひこうじょう滑走かっそうがぬかるんで、満足まんぞく出撃しゅつげきができず、天気てんき回復かいふくしても優勢ゆうせいだい4航空こうくうぐん戦闘せんとうたい互角ごかくわたうのがやっとであり、レイテ島れいてとう上陸じょうりくしたウォルター・クルーガー中将ちゅうじょうひきいるだい6ぐん十分じゅうぶん航空こうくう支援しえんができず、進軍しんぐん速度そくど計画けいかくおおきく下回したまわることとなって司令しれいかんダグラス・マッカーサー元帥げんすい苛立いらだたせた[30]

マッカーサーはだい4航空こうくうぐん猛攻もうこうさらされて一息ひといきつくあいだもなかった。だい4航空こうくうぐん攻撃こうげき昼夜ちゅうや間断かんだんなく来襲らいしゅうし、飛行場ひこうじょうにびっしりとならべられた連合れんごうぐん航空機こうくうき大量たいりょう撃破げきはし、弾薬だんやく集積しゅうせきしょ燃料ねんりょうタンクを毎晩まいばんのようにばく砕した。その様子ようすていたマッカーサーは「連合れんごうぐん拠点きょてんがこれほどはげしく、継続けいぞくてきに、効果こうかてき日本にっぽんぐん空襲くうしゅうにさらされたことはかつてなかった」と富永とみなが作戦さくせん評価ひょうか[31]、マッカーサーの副官ふっかん1人ひとりであるチャールズ・ウィロビーじゅんしょうも、タクロバン飛行場ひこうじょう日本にっぽん軍機ぐんき執拗しつよう攻撃こうげきつづき、1攻撃こうげきで「P-38」が27地上ちじょう撃破げきはされ、飛行場ひこうじょう以外いがいでもマッカーサーの司令しれいけん居宅きょたくやクルーガーの司令しれい爆撃ばくげきされたと著書ちょしょ記述きじゅつしており、だい4航空こうくうぐんによる航空こうくう攻撃こうげきと、連合れんごう艦隊かんたいによるレイテわん突入とつにゅう作戦さくせんは、構想こうそうにおいて素晴すばらしく、規模きぼにおいて雄大ゆうだいなものであったとひょうし、マッカーサーのぐん最大さいだい危機ききひんしたと回想かいそうしている[32]。アメリカ陸軍りくぐん公刊こうかん戦史せんしにおいても、10月27にち夕刻ゆうこくから払暁ふつぎょうまでのあいだに11かい日本にっぽん軍機ぐんきによる攻撃こうげきがあって、タクロバンは撃破げきはされて炎上えんじょうするアメリカ軍機ぐんきによって赤々あかあかかがやいていたと記述きじゅつされ、だい4航空こうくうぐん航空こうくう作戦さくせんを、太平洋たいへいようにおける連合れんごうぐん反攻はんこう開始かいし以来いらい、こんなにおおく、しかも長期間ちょうきかんわたり、夜間やかん攻撃こうげきばかりでなく昼間ひるま空襲くうしゅうにアメリカぐんがさらされたのはこのときはじめてであった。と総括そうかつしている[33]。10月27にちレイテ島れいてとう戦況せんきょうとこれまでのだい4航空こうくうぐんたたかいぶりにたいして昭和しょうわ天皇てんのうから「だい4航空こうくうぐんがよく奮闘ふんとうしているが、レイテ島れいてとう地上ちじょうてき撃滅げきめつしなければったとはいえない。こん一息ひといきだから十分じゅうぶんだい一線いっせん激励げきれいせよ」とおめのことばがあっている[34]

このように、だい4航空こうくうぐん執拗しつよう飛行場ひこうじょう攻撃こうげきよんしきせん活躍かつやくもあって、すくなくとも11月上旬じょうじゅんまではレイテ島れいてとうじょう制空権せいくうけん確保かくほしていた[35]当時とうじだい4航空こうくうぐん取材しゅざいしていた報道ほうどうはんいん読売新聞よみうりしんぶん記者きしゃ辻本つじもと芳雄よしおによれば、レイテのたたか当初とうしょだい4航空こうくうぐん航空こうくう作戦さくせんは、レイテと陸軍りくぐん航空こうくう要塞ようさいネグロスとうあいだまるかかげた日本にっぽん軍機ぐんきでもってベルトをかけて、それを昼夜ちゅうやべつなく回転かいてんするように、タクロバン飛行場ひこうじょうやレイテわん連合れんごうぐん艦船かんせん猛攻もうこうをかけるといったような、はげしくも優勢ゆうせいなものであったという[36]。この代償だいしょうとしてよんしきせん部隊ぶたいふくおおくの飛行ひこう部隊ぶたい壊滅かいめつしたとはえ、ようやくよんしきせん存在そんざいいたアメリカぐんも「速度そくど上昇じょうしょうりょくすぐれ、運動うんどうせいたかく、被弾ひだんにもつよい」と評価ひょうかしている。

一方いっぽうで、実際じっさいよんしきせん運用うんようしていただい2飛行ひこう団長だんちょうは1944ねん10がつ28にち、「よんしきせんおおいなる信頼しんらいたるにこまったことなり」としるしているなどたか評価ひょうかはしていなかった[37]。しかし、司令しれいかん富永とみながよんしきせん期待きたいをかけており、よんしきせん活躍かつやくしているだい16飛行ひこうだんのいるサラビヤ飛行場ひこうじょうに、毎日まいにち清酒せいしゅ煙草たばこ手土産てみやげにして激励げきれいおとずれた[38]。アメリカぐんばくげき最中さいちゅうにもかまわずたので、富永とみながあんじた新藤しんどうが、帯同たいどうしてきた松前まさき曾雄高級こうきゅう参謀さんぼうに「かくにお怪我けががあってはと、みんなが心配しんぱいしていますから、なるべく(てき空襲くうしゅうがない)10まえにしてくれないか」とけたほどであった[39]富永とみながはその空襲くうしゅうにもかまわず激励げきれいおとずれて、搭乗とうじょういんたちと一緒いっしょ麦飯むぎめし現地げんちれた不味まずかわぎょものといった不味まず昼食ちゅうしょくべながら、「なにか要求ようきゅうがあったら、わたしえ、できるだけのことはしてやるぞ」などと談笑だんしょうしている[38]

そのレイテ島れいてとうでの決戦けっせん画策かくさくした大本営だいほんえいは、レイテ島れいてとう海路かいろ増援ぞうえん部隊ぶたい戦略せんりゃく物資ぶっしおくむこととし、南方なんぽうぐんだい14方面ほうめんぐん司令しれいかん山下やました奉文ともゆき大将たいしょうに「だいじゅうよん方面ほうめんぐんうみ空軍くうぐん協力きょうりょくなりルヘククノ兵力へいりょくヲ以テ『レイテ』しまらいおさむセルてき撃滅げきめつスヘシ」と命令めいれいした[40]。この前代未聞ぜんだいみもんだい規模きぼぎゃく上陸じょうりく作戦さくせんには海軍かいぐん全面ぜんめんてき協力きょうりょくすることとなり、海軍かいぐん艦艇かんてい護衛ごえいするだい3船舶せんぱく輸送ゆそう司令しれいかん稲田いなだ正純まさずみ中将ちゅうじょうひきいる輸送ゆそう艦隊かんたいが、ルソン島るそんとうなどから、だい26師団しだんだい1師団しだんなどをレイテ島れいてとうおくむこととなったが、この一連いちれん海上かいじょう輸送ゆそう作戦さくせん海軍かいぐんごう作戦さくせん呼称こしょうしている[41]。10月27にちごう作戦さくせん正式せいしき開始かいし富永とみながは、だい4航空こうくうぐん司令しれい拝命はいめい陸軍りくぐん中央ちゅうおうから期待きたいされていたとおり、地上ちじょうぐんとの連携れんけい重視じゅうししており、輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえい任務にんむにできうるかぎりの戦闘せんとう投入とうにゅうすることとした。だい1師団しだん通称つうしょうごうたま」)は輸送ゆそうせん4せき能登のとまる香椎かしいまる金華きんかまる高津たかつまる)に分乗ぶんじょうし、10月31にちレイテ島れいてとうけて出港しゅっこうした[42]だい4航空こうくうぐん船団せんだん護衛ごえい同時どうじに、アメリカ軍機ぐんきによる空襲くうしゅうをけんせいするため、一式いっしきせんきゅうきゅうしき双発そうはつけい爆撃ばくげきに「タだん」を装備そうびさせて、タクロバン、ドラッグ、サンパブロ飛行場ひこうじょう爆撃ばくげきさせ、地上ちじょう相当そうとうすう航空機こうくうき撃破げきはした。船団せんだん護衛ごえい一式いっしきせんさんしきせんよんしきせん交代こうたいしつつ、つねじゅうすう船団せんだん上空じょうくういているといった手厚てあついもので、途中とちゅう空襲くうしゅう護衛ごえい撃退げきたいしながら、よく11がつ1にち船団せんだん無事ぶじレイテ島れいてとうオルモックわん到着とうちゃくし、合計ごうけいで11,000めい兵員へいいん大量たいりょう軍事ぐんじ物資ぶっし揚陸ようりく成功せいこうした(ごう作戦さくせん#だい2輸送ゆそう部隊ぶたい[42]

この空戦くうせんにおいて船団せんだんちょく掩の飛行ひこうだい52戦隊せんたい飛行ひこうだい200戦隊せんたいよんしきせんおよび飛行ひこうだい33戦隊せんたい飛行ひこうだい26戦隊せんたい飛行ひこうだい20戦隊せんたい一式いっしきせんは、来襲らいしゅうしたアメリカ陸軍りくぐんだい49戦闘せんとう航空こうくうぐんのP-38と交戦こうせん断続だんぞくてきつづいた戦闘せんとう日本にっぽんぐんは6よんしきせん2一式いっしきせん4)を喪失そうしつするも5だい8戦闘せんとう飛行ひこうたいだい9戦闘せんとう飛行ひこうたい所属しょぞく)を確実かくじつ撃墜げきついした[43]。この空戦くうせんでは、飛行ひこうだい200戦隊せんたい通称つうしょうすめらぎ戦隊せんたい」)のよんしきせん8出撃しゅつげきしたが、途中とちゅうからは、僚機の7とはぐれてしまった吉良きら勝秋かつあき曹長そうちょう(かつて飛行ひこうだい24戦隊せんたいきゅうななせん一式いっしきせんをもって活躍かつやくしたエース)1となってしまった。吉良きら途中とちゅう酸素さんそボンベ破裂はれつしてしまったため高度こうどげるため降下こうかしていると、そこで船団せんだん攻撃こうげきたP-38 10すう鉢合はちあわせになり、吉良きら単機たんきで10すうのP-38から船団せんだんまもることとなった。しかし、経験けいけん豊富ほうふ吉良きらは、P-38が高空こうくうではゆうそく手強てごわいが、低空ていくうでは旋回せんかい性能せいのうおとるためにたたかいやすいことを熟知じゅくちしており、低空ていくう空戦くうせんんでエリオット・デント大尉たいいふくむ2かえちにして、見事みごと船団せんだんまもりきり、だい26師団しだん兵員へいいん無事ぶじレイテ島れいてとう上陸じょうりくできた。司令しれいかん富永とみなが輸送ゆそう船団せんだん乗船じょうせんしていた部隊ぶたいからこの報告ほうこくくと、とてもよろこんで、すぐに吉良きら司令しれいんでみずか面談めんだんし「船団せんだんまえで、てき10すう単機たんきよくたたかい、2撃墜げきつい友軍ゆうぐん士気しきたかめることだいであった。よしりょう、よくやった。只今ただいまより准尉じゅんい進級しんきゅうさせる」とあつかたりかけ、すぐさまあお鉛筆えんぴつで「赫々かくかくたる武勲ぶくんしょうし、とく准尉じゅんい進級しんきゅうせしむ」という階級かいきゅう特進とくしんじょういて吉良きら感激かんげきさせている[44]

なお、当時とうじフィリピン方面ほうめんよんしきせん空輸くうゆする任務にんむいていた穴吹あなぶきさとし軍曹ぐんそう(かつて飛行ひこうだい50戦隊せんたい一式いっしきせんをもって活躍かつやくしたエース、当時とうじ明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこうじょきょう)はすうかいにわたりアメリカ海軍かいぐん艦載かんさい交戦こうせんしており、台湾たいわん高雄たかお上空じょうくうなどでF6F けい4ないし6撃墜げきつい報告ほうこくしている。フィリピン航空こうくうせん末期まっきにはよんしきせん集成しゅうせい戦闘せんとう部隊ぶたいとしてたたかっていただい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだんにて特別とくべつ攻撃こうげきたいである精華せいかたい編成へんせいされ、250kgばくだん2はつ装備そうびしたよんしきせんが1945ねん1がつ8にち護衛ごえい空母くうぼキトカン・ベイ」に突入とつにゅう同月どうげつ13にちには護衛ごえい空母くうぼサラマウア」に突入とつにゅう、それぞれ大破たいは戦果せんかのこしている。

トーマス・マクガイア少佐しょうさとP-38

特筆とくひつあたいする戦果せんかとしてフィリピン航空こうくう戦中せんちゅうの1945ねん1がつ7にちネグロスとう上空じょうくうにおいて飛行ひこうだい71戦隊せんたい福田ふくだみずほのり(ふくだみずのり)軍曹ぐんそう操縦そうじゅうするよんしきせんが、アメリカぜんぐんだい2のエース(38撃墜げきつい)であるトーマス・マクガイア少佐しょうさのP-38Lを事実じじつじょう撃墜げきついしている。哨戒しょうかい飛行ひこう任務にんむちょうマクガイア少佐しょうさだい431戦闘せんとう飛行ひこう隊長たいちょう)、2ばんエドゥイン・ウィーバー大尉たいいきたアフリカ戦線せんせん従軍じゅうぐん経験けいけんゆう)、3ばんジャック・リットメイア少佐しょうさ(フィリピン航空こうくうせんすでに4撃墜げきつい記録きろく)、4ばんダグラス・スロップ少尉しょうい出撃しゅつげき53かい、1撃墜げきつい記録きろく)からなるだい431戦闘せんとう飛行ひこうたいP-38Lの4編隊へんたいは、7にち午前ごぜん630ふんレイテ島れいてとうドラッグ飛行場ひこうじょう離陸りりく開始かいし途中とちゅう、リットメイアはエンジン不調ふちょうによりスロップ編隊へんたい位置いち交代こうたい)。福田ふくだ証言しょうげんでは、だい71戦隊せんたい同日どうじつルソン島るそんとうかう大艦だいかん船団せんだん発見はっけん報告ほうこくにより、午前ごぜん330ふん150kgばくだん搭載とうさいした福田ふくだ軍曹ぐんそう三浦みうら軍曹ぐんそう単機たんきごとの索敵さくてき攻撃こうげきのためマナプラ飛行場ひこうじょう離陸りりく当時とうじだい71戦隊せんたい消耗しょうもうにより単機たんき地上ちじょう攻撃こうげき任務にんむ主体しゅたい)。しかし予定よてい地点ちてん船団せんだん発見はっけん出来できなかったため6索敵さくてき中止ちゅうし帰還きかんちゅうの630ふんごろバコロド上空じょうくう高度こうど1,000 m付近ふきん飛行ひこうだい54戦隊せんたい杉本すぎもとあきら准尉じゅんい操縦そうじゅう一式いっしきせん遭遇そうぐうし、しばらくの編隊へんたい飛行ひこうののちタリサイ上空じょうくうわかれた。マナプラ飛行場ひこうじょうへの着陸ちゃくりくコースにはいったよんしきせん福田ふくだは、先程さきほど一式いっしきせん杉本すぎもと哨戒しょうかい飛行ひこうちゅうであった4のP-38マクガイア編隊へんたい空戦くうせんちゅうのところを発見はっけん(このさいP-38 1炎上えんじょう墜落ついらくちゅう一式いっしきせん不時着ふじちゃくのため降下こうかちゅう確認かくにん)、福田ふくだはP-38 3突進とっしんたいしんせん先頭せんとうの1撃墜げきついするも被弾ひだん。そのよんしきせん福田ふくだのこる2と1ふんほど格闘かくとうし1撃破げきは双方そうほう空戦くうせんじょう離脱りだつ戦闘せんとう終了しゅうりょう福田ふくだ着陸ちゃくりく転覆てんぷくしてのち廃棄はいき処分しょぶんとなったが福田ふくだ自身じしん軽傷けいしょうんだ[45]離脱りだつしたスロップ午前ごぜん755ふん、ウィーバーは85ふんごろにドラッグ飛行場ひこうじょう帰還きかん着陸ちゃくりくした。実際じっさいにこの空戦くうせんにおいて、マクガイア・リットメイア帰還きかん戦死せんししているが(杉本すぎもと准尉じゅんい被弾ひだんのため不時着ふじちゃくするも、地上ちじょう抗日こうにちゲリラによって射殺しゃさつされた遺体いたい現地げんち日本にっぽんぐん守備しゅびたい発見はっけん)、詳細しょうさいあきらかになっていない。一式いっしきせん杉本すぎもとが1度目どめ戦闘せんとうでマクガイア撃墜げきついよんしきせん福田ふくだは2度目どめ戦闘せんとうでまずスロップ撃破げきはつづいてリットメイア撃墜げきついしたという説明せつめいもある[46]。マクガイア低空ていくう低速ていそく無理むり機動きどうこころみたことにより失速しっそく墜落ついらくしたというせつもある。

福田ふくだ軍曹ぐんそう当時とうじマラリア高熱こうねつにより意識いしき朦朧もうろう状態じょうたいであり、かつじょう落下らっかタンクと150kgばくだん搭載とうさいしたままで(空戦くうせん発見はっけん味方みかた宿舎しゅくしゃ上空じょうくうのため投下とうか出来できず)、マクガイア編隊へんたいもマクガイアの無線むせん指示しじによりこちらも落下らっかタンクを投下とうかしないまま、高度こうど1,000 m以下いかてい空域くういき空戦くうせんおこなっている。ちなみに、福田ふくだ軍曹ぐんそう陸軍りくぐん少年しょうねん飛行ひこうへいだい10で1944ねん5がつだい71戦隊せんたい着任ちゃくにんし11がつ戦隊せんたいとともにフィリピンへ進出しんしゅつ操縦そうじゅう時間じかんすくなくいままで実戦じっせん経験けいけんもなくこれが最初さいしょ空戦くうせんらしい空戦くうせん体験たいけんであったにもかかわらずこのだい戦果せんかげ、この1ヵ月かげつにネグロスとう脱出だっしゅつ本土ほんど後退こうたい飛行ひこうだい101戦隊せんたい転属てんぞく沖縄おきなわせんよんしきせんたたか終戦しゅうせんむかえた。戦後せんご1974ねん昭和しょうわ49ねん)にはだい475戦闘せんとう航空こうくうぐんだい431戦闘せんとう飛行ひこうたい上級じょうきゅう部隊ぶたい)の戦友せんゆうかいに、ほん空戦くうせん調査ちょうさしたはたいく手引てびきによって福田ふくだはメッセージをとどけている[47]

ビルマ戦線せんせん[編集へんしゅう]

ビルマのたたか(ビルマ航空こうくうせん)ではだい50戦隊せんたいが1944ねん9がつからよんしきせん機種きしゅ改変かいへん当初とうしょ故障こしょう続出ぞくしゅつしたものの、一式いっしきせん装備そうび飛行ひこうだい64戦隊せんたいとともに12月31にち撤退てったいするだい15師団しだん追尾ついびするイギリスぐん中心ちゅうしんとした連合れんごうぐん機甲きこう部隊ぶたい捕捉ほそく攻撃こうげき襲撃しゅうげき)に成功せいこう。のちのだい64せん隊長たいちょうであるみや英夫ひでお少佐しょうさはこの戦闘せんとうよんしきせんたいし「(掃射そうしゃでは20mm機関きかんほうの)威力いりょくおおいに発揮はっきされた」「まずは、よんしきせんのビルマにおけるはつのお手柄てがら」とべている[48]。1945ねん1がつ9にちだい50戦隊せんたいよんしきせん7ばくそうしてだい64戦隊せんたい一式いっしきせん28ちょく掩をアキャブおき連合れんごうぐん艦船かんせん攻撃こうげき出撃しゅつげき、このうちエース大房おおふさよう次郎じろう曹長そうちょう巡洋艦じゅんようかんないし輸送ゆそうせんへの命中めいちゅう戦果せんか報告ほうこくしている。以後いごラングーン陥落かんらくしてビルマ航空こうくうせん事実じじつじょう終了しゅうりょうする5がつまで、だい50戦隊せんたいよんしきせんだい64戦隊せんたい一式いっしきせんとともに空戦くうせん地上ちじょう攻撃こうげき活躍かつやくした。

本土ほんど防空ぼうくうせん[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん直後ちょくごだい85戦隊せんたい手前てまえ部隊ぶたいマーク「かた矢印やじるし」)およびだい22戦隊せんたいひだりおくすう部隊ぶたいマーク「菊水きくすいもん」)のよんしきせんみぎれつ所属しょぞく不明ふめい一式いっしきせんみぎおく一式いっしき双発そうはつ高等こうとう練習れんしゅう

本土ほんど防空ぼうくうせんにて、飛行ひこうだい47戦隊せんたい整備せいび指揮しき班長はんちょうつとめ「整備せいび神様かみさま」とうたわれた刈谷かりや大尉たいいのもと、戦隊せんたいない指揮しき小隊しょうたいもうけそこで機体きたい整備せいびかんするすべてを掌握しょうあくし、厳密げんみつなる飛行ひこう時間じかん管理かんり点火てんかプラグの早期そうき交換こうかん定期ていきてきオーバーホールなど、徹底的てっていてきかつ適切てきせつ整備せいびほどこすことで部隊ぶたいよんしきせん稼働かどうりつ常時じょうじ87から100パーセントにたもっている。ただ、このような整備せいび方法ほうほう欧米おうべい諸国しょこくでは一般いっぱんてきおこなわれており、日本にっぽんがわ整備せいび教育きょういく補給ほきゅうおくれていた側面そくめんおおきい。刈谷かりや陸軍りくぐん大尉たいいによれば「47戦隊せんたいで100パーセントはたらいた」エンジンが部隊ぶたいうごかなかったのは「日本にっぽん陸軍りくぐん整備せいび教育きょういく間違まちがっていたから」であり、「疾風しっぷうほまれ)のせいじゃない」と回想かいそうしている。また本土ほんどよりはるかに条件じょうけん劣悪れつあくなフィリピンにおけるよんしきせん稼動かどうりつさんしきせんはおろか一式いっしきせんよりもたかかったという記録きろくのこされている(当時とうじ一式いっしきせんさんがたみずメタノール噴射ふんしゃ装置そうち搭載とうさいしたが整備せいびへいれておらず稼働かどうりつ低下ていかしている)。さらに満州まんしゅう飛行ひこうだい104戦隊せんたい再生さいせい潤滑油じゅんかつゆ使用しようせず、補給ほきゅうしょうデッドストックのアメリカさん輸入ゆにゅう潤滑油じゅんかつゆもち稼働かどうりつ80から100パーセントをたもったという記録きろくがあり、これは潤滑油じゅんかつゆをアメリカさん輸入ゆにゅうたよっていながら[ちゅう 13]事前じぜん国産こくさんおこたったままアメリカとの開戦かいせん突入とつにゅうし、戦前せんぜん輸入ゆにゅうしたストックにたよらざるをない状況じょうきょうおちいらせた[ちゅう 14]日本にっぽん戦前せんぜん工業こうぎょう行政ぎょうせい致命ちめいてき失敗しっぱいであった。

だい58たけたい髑髏しゃれこうべたい)のよんしき戦闘せんとう疾風しっぷう」、尾翼びよく釜茹かまゆで髑髏しゃれこうべのマークが特徴とくちょうだい4航空こうくうぐん司令しれいかん富永とみなが恭次きょうじ中将ちゅうじょう長男ちょうなん富永とみながやすし少尉しょうい所属しょぞくしていた(1945ねん都城みやこのじょうひがし飛行場ひこうじょう

本土ほんどでの運用うんよう時期じきにおける稼動かどう割合わりあいについては前述ぜんじゅつ刈谷かりや大尉たいいだい47戦隊せんたいにおいては前述ぜんじゅつとおざいたい100 %、航空こうくうしょう修理しゅうりふくめて87 %、その当時とうじ一般いっぱん部隊ぶたいにおいては良好りょうこうなところで40%、わるいところで20 - 0 %であるとべている[49]。また、この時期じき陸軍りくぐん調査ちょうさ数字すうじとしては1945ねん5がつ20日はつか調査ちょうさの「航空こうくうそうぐん飛行機ひこうき保有ほゆうじょうきょう」があり、ここでは野戦やせん部隊ぶたい防空ぼうくう部隊ぶたいあわせて555保有ほゆうよんしきせんのうち(対象たいしょう航空こうくうそうぐん隷下れいか部隊ぶたいであり、だい2航空こうくうぐん隷下れいか部隊ぶたい満州まんしゅう方面ほうめん飛行ひこうだい104戦隊せんたいなど)などの外地がいち部隊ぶたい内地ないちでも特攻とっこう飛行ひこう部隊ぶたいのぞく)、「状態じょうたいかぶと」(たいないにて整備せいび完了かんりょう出撃しゅつげき可能かのうすう同数どうすうかこれ以下いかとなる)の機体きたいは235となり割合わりあいとしては42 %となる[50]

その沖縄おきなわせん菊水きくすい作戦さくせん)や本土ほんど防空ぼうくうせんにも投入とうにゅうされた。4月6にちには、菊水きくすい作戦さくせん一環いっかんとして、戦艦せんかん大和やまと」による海上かいじょう特攻とっこう作戦さくせんおこなわれたが、おな海軍かいぐんだい航空こうくう艦隊かんたいでは、多数たすうじゅう武装ぶそうじゅう装甲そうこうがたれいせん52がたへいかたようするが、夜間やかん襲撃しゅうげきしゅ任務にんむ[51]のため「芙蓉ふよう部隊ぶたい[52]指揮しきかん美濃部みのべただし少佐しょうさ)が、「大和やまと」の護衛ごえい任務にんむ拒否きょひするなど[53]消極しょうきょくてきで、「大和やまと」はほとん航空こうくう支援しえんけることができなかったが、その窮状きゅうじょういただい6航空こうくうぐん司令しれいかん菅原すがわらみちだい中将ちゅうじょうは、「(大和やまと特攻とっこうさいに)みなみ九州きゅうしゅうだい100飛行ひこうだんよんしきせん疾風しっぷう全力ぜんりょく投入とうにゅうして、奄美あまみ大島おおしま付近ふきん制空権せいくうけん一時いちじてき掌握しょうあく協力きょうりょくする」と約束やくそく[54]菅原すがわら約束やくそくどおり、だい100飛行ひこうだん主力しゅりょくとするよんしきせん41を「大和やまと」の援護えんご出撃しゅつげきさせて、12:00から14:00にかけてせいそら戦闘せんとうをおこない10帰還きかんとなった[55][56]。また、特攻とっこう護衛ごえい任務にんむとして出撃しゅつげきすることもおおく、迎撃げいげきしてきたアメリカぐんF6FヘルキャットF4Uコルセアといった艦載かんさいや、P-47サンダーボルトなどとはげしい空中くうちゅうせんひろげた[57]

沖縄おきなわせんにおいては部隊ぶたいマークとしてドクロえがいたことで有名ゆうめいだい58たけたいなど、よんしきせん編成へんせいされた特攻隊とっこうたい出撃しゅつげきしている。沖縄おきなわせん特攻とっこう戦果せんかとしては6がつ21にち夕刻ゆうこく都城みやこのじょうひがし飛行場ひこうじょう出撃しゅつげき沖縄おきなわおき突入とつにゅうしただい26たけたいよんしきせん4)がカーチスきゅう水上すいじょう母艦ぼかんカーチス大破たいは炎上えんじょうケネス・ホィッティングきゅう水上すいじょう母艦ぼかんケネス・ホィッティング小破しょうはエヴァーツきゅう護衛ごえい駆逐くちくかんハローラン小破しょうは記録きろくのこしている[ちゅう 15]

日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくうせんでもよんしきせん活躍かつやくしている。5月23にち夜間やかんB-29が558、5月25にち夜間やかんにはB-29が498という、3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅう上回うわまわだい兵力へいりょく再度さいどだい規模きぼ焼夷弾しょういだん攻撃こうげきおこなわれたが[58]、5月23にちには、前回ぜんかい東京とうきょうだい空襲くうしゅうおなわだちむまいと、日本にっぽん陸海りくかいぐん全力ぜんりょく迎撃げいげきし、迎撃げいげき総数そうすうは140にもなった[59]。なかでも飛行ひこうだい64戦隊せんたい(いわゆる「加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい」)で中隊ちゅうたいちょうとして勇名ゆうめいをはせた黒江くろえ保彦やすひこ少佐しょうさよんしきせんで3のB-29撃墜げきつい記録きろくしている[60]。しかし、沖縄おきなわうしない、日本にっぽん本土ほんどおびやかされるようになると、本土ほんど決戦けっせんけつごう作戦さくせん)にそなえた戦力せんりょく温存おんぞんさくで、出撃しゅつげきひかえられるようになり、おおきな戦果せんかげることは出来できなかった。1945ねん8がつ13にちには占領せんりょう沖縄おきなわから朝鮮ちょうせん来襲らいしゅうしたP-47にたいし、きょうしろ飛行場ひこうじょうだい22戦隊せんたいだい85戦隊せんたい中国ちゅうごく戦線せんせん壊滅かいめつしたのち同地どうち後退こうたいして戦力せんりょく回復かいふく)のよんしきせん出撃しゅつげきしたものの、飛行場ひこうじょう自体じたい方面ほうめんから飛来ひらいしていたじゅう爆撃ばくげき混雑こんざつして邀撃ようげき後手ごてまわっていたこともありすうまさるも一方いっぽうてき敗北はいぼくきっした。

満州まんしゅうでは1945ねん8がつ9にちソ連それんぐん侵攻しんこうしたが(ソ連それんたいにち参戦さんせん)、8がつ12にちと15にちの2にわたってだい104戦隊せんたいよんしきせんが、おなじく満州まんしゅう展開てんかいしていた独立どくりつ飛行ひこうだい25中隊ちゅうたいしきふくせんとともにソ連それんぐん機甲きこう部隊ぶたいたいだんによる攻撃こうげきおこない、戦車せんしゃトラックなどの軍用ぐんよう車輌しゃりょうすうじゅうりょう破壊はかい炎上えんじょうさせる戦果せんかげている。

なお、海軍かいぐん航空こうくう技術ぎじゅつしょう初期しょき生産せいさんがたの2海軍かいぐん研究けんきゅうようとして正式せいしき譲渡じょうとされた。陸海りくかいぐん機種きしゅ統一とういつ検討けんとうしてともわれるが[だれ?]詳細しょうさい不明ふめい。これらは終戦しゅうせんまで残置ざんちしており、写真しゃしんのこされている。

しょもと[編集へんしゅう]

三面さんめん
制式せいしき名称めいしょう よんしき戦闘せんとういちがたかぶと よんしき戦闘せんとういちがたきのえ量産りょうさんがた よんしき戦闘せんとういちがたおつ
試作しさく名称めいしょう キ84-Iかぶと キ84-Iかぶと キ84-Iおつ
全長ぜんちょう 9.92 m
全幅ぜんぷく 11.24 m
ぜんこう 3.38 m
つばさ面積めんせき 21 m2
つばさめん荷重かじゅう 185.24 kg/m2
自重じちょう 2,698 kg 2,698 kg + 胴体どうたい12.7mm機関きかんほう×2⇒胴体どうたい20mm機関きかんほう×2へのかわそうぶん
正規せいき全備ぜんび重量じゅうりょう 3,890 kg 3,890 kg + 携行けいこうだん増加ぞうかぶん 3,890 kg+胴体どうたい12.7mm機関きかんほう×2⇒胴体どうたい20mm機関きかんほう×2へのかわそうぶん
発動はつどう ハ45-21はなれのぼり2,000馬力ばりき
排気はいきかん 推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかん 推力すいりょくしきたん排気はいきかん
最高さいこう速度そくど 624 km/h(高度こうど5,000 m)
640 km/h(高度こうど6,000 m)
631 km/h(高度こうど6,120 m)
624〜655 km/h(高度こうど5,000〜6,000 m) 660 km/h(高度こうど6,000 m)
上昇じょうしょうりょく 5,000 mまで6ふん26びょう 5,000 mまでやく5ふんじゃく
航続こうぞく距離きょり 2,500 km(落下らっかタンクあり)/1,400 km(正規せいき
武装ぶそう つばさない20mm機関きかんほうホ5)2もん携行けいこうだんすうかく120はつ
胴体どうたい12.7mm機関きかんほうホ103)2もん携行けいこうだんすうかく250はつ
つばさない20mm機関きかんほう(ホ5)2もん携行けいこうだんすうかく150はつ
胴体どうたい12.7mm機関きかんほう(ホ103)2もん携行けいこうだんすうかく350はつ
つばさない20mm機関きかんほう(ホ5)2もん携行けいこうだんすうかく150はつ
胴体どうたい20mm機関きかんほう(ホ5)2もん
ばくそう 30kg〜250kg爆弾ばくだんないしだん2はつ
無線むせん きゅうきゅうしきさんごう無線むせんがた よんしきさんごう無線むせんいちがた
生産せいさんすう 100以上いじょう推定すいてい/試作しさくのみ) 3,000推力すいりょくしき集合しゅうごう排気はいきかん装備そうび試作しさくふくむ) 500推定すいてい/試作しさくふくむ)

各種かくしゅ形式けいしき[編集へんしゅう]

いちがたきのえ(キ84-Iかぶと
つばさないにホ5 20mm機関きかんほう2もん機首きしゅにホ103 12.7mm機関きかんほう2もん装備そうびしたたい戦闘せんとうせん重視じゅうし基本きほんがた生産せいさんされたほとんどの機体きたいはこの型式けいしき携行けいこうだんすうはホ5が1もんにつき150はつ、ホ103は1もんにつき350はつであった。
いちがたおつ(キ84-Iおつ
かぶとがたつばさほうホ5はそのままに機首きしゅほうホ103をホ5にかわそうしたたいばくげきせん重視じゅうし武装ぶそう強化きょうかがた製造せいぞう番号ばんごう3001以降いこうがこのかたとされるが、生産せいさんすう不明ふめい試作しさく試験しけん飛行ひこうにおいて660 km/h (6,000 m)を記録きろくしたとされる。
キ84-Iへい
いちがたおつ機首きしゅほうホ5はそのままにつばさほうホ5をホ155-II・30mm機関きかんほうかわそうした武装ぶそう強化きょうかがた試作しさくのみ。
キ84-Iひのと
いちがたおつ操縦そうじゅうせき後方こうほうにホ5を上向うわむほうとして1もん追加ついかした夜間やかん戦闘せんとうかた試作しさくのみ。
キ84-II
機体きたい一部いちぶ木製もくせいしたもの。計画けいかくのみ。
キ84-III
排気はいきタービン搭載とうさい追加ついか装備そうびしたこう高度こうどがた計画けいかくのみ。
キ84-IV
エンジンをこう高度こうど性能せいのうすぐれたハ45-44かわそうしたこう高度こうど戦闘せんとうがた計画けいかくのみ。
キ84サごう(サごうとも)
ハ45のみずエタノール噴射ふんしゃ酸素さんそ噴射ふんしゃ変更へんこうし、こう高度こうどにおける性能せいのう向上こうじょうはかったかた上昇じょうしょうりょく向上こうじょうし、高度こうど9,000 mでの速度そくどが50 km/hし、とくに、加速かそくりょく上昇じょうしょうりょく大幅おおはば向上こうじょうした。テストちゅう終戦しゅうせんむかえた。中島なかじま飛行機ひこうきのテストパイロットである吉沢よしざわ准尉じゅんいによると、「みるみる速度そくどけいはりがるのがわかったが、30ふんつづけるとガタがきてスピードがちた。ながくやってはいけない」とのこと。どう装置そうち搭載とうさいしたしきふく戦闘せんとう高度こうど10,000 mで出力しゅつりょくが30 %程度ていど増加ぞうか吸入きゅうにゅう圧力あつりょくでプラス100 mmHg出力しゅつりょくで150 hp上昇じょうしょうしたとされている。
キ106
1944ねんアルミ合金ごうきん不足ふそくから、機体きたい大半たいはん木製もくせいしたもの。重心じゅうしん変化へんかにより機首きしゅ延長えんちょうされ、フラップはちょうがたではないスプリットしき変更へんこうされた。17%もの重量じゅうりょう増加ぞうかのため上昇じょうしょうりょく速力そくりょく低下ていか。またてに使つかカゼインけい接着せっちゃくざい問題もんだいがあり、試験しけんちゅう主翼しゅよく下面かめんがいいた剥離はくり脱落だつらくするトラブルも発生はっせいした。立川たちかわ飛行機ひこうきくわ呉羽くれは紡績ぼうせきや、王子おうじ航空機こうくうきにおいても試作しさくされ、合計ごうけい10完成かんせいした。
王子おうじ航空機こうくうき江別えべつ工場こうじょう北海道ほっかいどう江別えべつ)では3製作せいさくされ、1号機ごうき江別えべつ飛行場ひこうじょう陸送りくそうされて1945ねん6がつ11にちはつ飛行ひこう。2号機ごうきは8がつ13にち黒江くろえ保彦やすひこ少佐しょうさにより福生ふっさ飛行場ひこうじょう東京とうきょう)まで800 km以上いじょう長距離ちょうきょり飛行ひこうえることを実証じっしょうした[61]訓練くんれんようとしての使用しようかんがえられたが、強度きょうど不足ふそく構造こうぞう量産りょうさんきでない問題もんだいから生産せいさん中止ちゅうしされた。終戦しゅうせん、アメリカ本国ほんごくに1おくられ調査ちょうさされた[62]。1994ねん北海道ほっかいどう江別えべつ早苗さなえべつかわほとり地中ちちゅうから設計せっけい発見はっけんされた[63]。キ106の主翼しゅよく骨組ほねぐみと落下らっかタンク、模型もけい北海道ほっかいどう博物館はくぶつかんに、しゅ車輪しゃりんなどが江別えべつ郷土きょうど資料しりょうかん所蔵しょぞうされている[61]
伝統でんとうてき木工もっこう技術ぎじゅつしゃおお岐阜ぎふけん飛騨ひだ地方ちほうでも、飛騨ひだ木工もっこう株式会社かぶしきがいしゃ現在げんざい飛騨産業ひださんぎょう)などが参画さんかくして高山たかやま航空こうくう工業こうぎょう設立せつりつされ、1944ねんれに試作しさく1号機ごうき東京とうきょうまで空輸くうゆされた[64]
キ113
アルミ合金ごうきん不足ふそくから、機体きたい大半たいはんはがねせいしたもの。中島なかじま飛行機ひこうき試作しさくいち号機ごうきたい完成かんせいしエンジン未着みちゃくそう状態じょうたい終戦しゅうせんむかえた。やはり重量じゅうりょう増加ぞうか工程こうてい増加ぞうかによる生産せいさんせいわるさにくわえ、鋼材こうざい不足ふそくしたため生産せいさん見込みこみがたたず失敗しっぱいさくとなった。
キ116
満州まんしゅう飛行機ひこうきでの転換てんかん生産せいさんがた発動はつどう信頼しんらいせいたか三菱みつびしハ112-II公称こうしょう1,500馬力ばりき)にかわそうし、プロペラも3翅となっている。また重心じゅうしん調整ちょうせいのため、全長ぜんちょうが20 cmながくなっている。つばさめん荷重かじゅう制式せいしきより25 kg程度ていど減少げんしょうしたこともあり、速度そくどがやや低下ていかした反面はんめん飛行ひこう特性とくせい向上こうじょうしたといわれる。かつ、エンジン重量じゅうりょうが500 kg程度ていど減少げんしょうしており、これはかわそうによる減少げんしょうしたエンジン出力しゅつりょくやく300 hpぶん十分じゅうぶんおぎなってあまりあるものとなった。とくつばさめん荷重におもはキ84の185 kg/m2たいして160 kg/m2になったため、旋回せんかい性能せいのう離着陸りちゃくりく性能せいのうは、むしろ向上こうじょうしたものと容易ようい推定すいていすることが出来でき[独自どくじ研究けんきゅう?]試験しけん飛行ひこう結果けっか良好りょうこうであったが、各種かくしゅ飛行ひこう特性とくせい厳密げんみつ性能せいのう測定そくてい直前ちょくぜん、1945ねん8がつ9にちソ連それん侵攻しんこう遭遇そうぐうし、関係かんけいしゃにより機体きたい設計せっけいともみずからの処分しょぶんされた[65]
キ117
エンジンをだい馬力ばりきハ44-13がたはなれのぼり2,400馬力ばりき)にかわそうした性能せいのう向上こうじょうがた主翼しゅよくを1.5 m2ひろだか高度こうど性能せいのう向上こうじょうはかった。設計せっけいちゅう終戦しゅうせんキ84-Nともしょうした[66]

現存げんそんする機体きたい[編集へんしゅう]

1970ねんカリフォルニアしゅうオンタリオ国際こくさい空港くうこうにおけるよんしきせんいちがたきのえ(キ84-Iかぶと)。里帰さとがえだい11戦隊せんたい部隊ぶたいマーク「稲妻いなづま」になおされる。
2009ねんらん特攻とっこう平和へいわ会館かいかんよんしきせんいちがたきのえ(キ84-Iかぶと

よんしきせん現存げんそんとして、らん特攻とっこう平和へいわ会館かいかん鹿児島かごしまけんみなみ九州きゅうしゅうらん)に収蔵しゅうぞう展示てんじされているいちがたきのえ(1446号機ごうき)が唯一ゆいいつ静態せいたい保存ほぞん機体きたいとなる。

ほんは1944ねん12月に中島なかじま飛行機ひこうき太田おおた製作所せいさくしょにて製造せいぞうされ、フィリピンせん展開てんかいしただい11戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい配備はいびされた。1945ねん1がつにアメリカぐん鹵獲ろかくされアメリカ本土ほんどはこばれ、同年どうねん3がつ性能せいのうテストに使用しようされた。テストにはハイオクタン・ガソリンを使用しようし687km/hを発揮はっきした。また連合れんごうこく戦闘せんとうとの比較ひかくテストでも使用しようされた。1952ねんにアメリカのマロニー航空こうくう博物館はくぶつかんげんプレーンズ・オブ・フェイム航空こうくう博物館はくぶつかん)に払下はらいさげられレストア飛行ひこう可能かのうとなった。その、ドン・ライキンスにわたり、民間みんかん登録とうろく(N3385G)をし、飛行ひこう可能かのう状態じょうたい維持いじしていたが、経営けいえいなんから疾風しっぷうされることとなり、栃木とちぎけん宇都宮うつのみや日本人にっぽんじん実業じつぎょうもと海軍かいぐん下士官かしかん戦闘せんとう操縦そうじゅういん)にられた。


1973ねん航空こうくう自衛隊じえいたい入間いるま基地きちきゅう陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう豊岡とよおか陸軍りくぐん飛行場ひこうじょう跡地あとち)にて国際こくさい航空こうくう宇宙うちゅうショーがおこなわれたさい日本にっぽん移送いそうされ、ライキンスにより展示てんじ飛行ひこうおこなった。展示てんじ飛行ひこう中島なかじま飛行機ひこうき後身こうしんである富士重工業ふじじゅうこうぎょう株式会社かぶしきがいしゃげん株式会社かぶしきがいしゃSUBARU)の宇都宮うつのみや製作所せいさくしょ隣接りんせつする陸上りくじょう自衛隊じえいたい宇都宮うつのみや飛行場ひこうじょうに、ライキンスにより空輸くうゆされた。同年どうねん11がつ所有しょゆうしゃである日本人にっぽんじん実業じつぎょう自身じしん搭乗とうじょう飛行ひこうおこなわれた。飛行ひこうしゅあし格納かくのうしきれず、あししたまま飛行ひこうをしていた。ちなみにこの飛行ひこう最後さいご飛行ひこうとなった。

しばらくは富士重工業ふじじゅうこうぎょうない倉庫そうこ収容しゅうようされ、中島なかじま飛行機ひこうき時代じだい関係かんけいしゃらによる整備せいびおこなわれ、飛行ひこう可能かのう良好りょうこう状態じょうたい維持いじされていたが、日本人にっぽんじん実業じつぎょう死去しきょしてしまったため、疾風しっぷうさんにん債権さいけんしゃ共有きょうゆうとなった。

債権さいけんしゃ京都きょうと嵐山あらしやま美術館びじゅつかん代表だいひょうしゃ取引とりひき成立せいりつし、疾風しっぷう京都きょうと嵐山あらしやま美術館びじゅつかん売却ばいきゃくされることとなった。同館どうかん展示てんじされていたが劣悪れつあく管理かんりじょうきょうにより飛行ひこう不能ふのうとなった。ライキンスはこの状況じょうきょうふか後悔こうかいした。ほん復元ふくげんおこなったマロニー航空こうくう博物館はくぶつかんも「機体きたいすうとの交換こうかんいのでかえしてしい」とコメントしている。飛行ひこう不能ふのうとなった要因よういんについて「ずさんな野外やがい展示てんじおこなわれ、元々もともと機体きたいから容易よういはずせない部品ぶひん強引ごういん盗難とうなんにあった」という俗説ぞくせつ流布るふしているが、2017ねんからおこなわれている機体きたい調査ちょうさによりそのような事実じじつはなく、上記じょうきのレストア一部いちぶ部品ぶひんがアメリカせい交換こうかんされている[67]ことのぞおおくの部品ぶひんがオリジナルのまま良好りょうこう状態じょうたいであることが確認かくにんされている[68]

1991ねん嵐山あらしやま美術館びじゅつかん閉館へいかんとなり、疾風しっぷうふくおおくの軍装ぐんそうひん和歌山わかやまけん白浜しらはまうつされることとなった[ちゅう 16]白浜しらはまではあらたにゼロパークとして開園かいえんし、れいせんろくがた(展示てんじろくさんがた表記ひょうきされていた)をはじめ、嵐山あらしやま美術館びじゅつかん軍装ぐんそうひんおおくが展示てんじされていたが、疾風しっぷう分解ぶんかいされた状態じょうたいでブルーシートにかけられ保管ほかんされていた。

1995ねん嵐山あらしやま美術館びじゅつかん株式会社かぶしきがいしゃかららん特攻とっこう平和へいわ会館かいかんに、疾風しっぷう長期ちょうき貸出かしだしまた譲渡じょうと提案ていあん打診だしんされた。らん特攻とっこう平和へいわ会館かいかんとしては1446号機ごうきのゆかりのある場所ばしょではないが、疾風しっぷう特攻とっこう護衛ごえい戦果せんか確認かくにん基地きち上空じょうくう防空ぼうくう特攻とっこうとして出撃しゅつげきしたりとらんとはふかかかわりがある飛行機ひこうきなので購入こうにゅう決定けっていし、1おくえん売買ばいばい契約けいやく締結ていけつされた。

1996ねんらん特攻とっこう平和へいわ会館かいかんはこまれ、疾風しっぷうよう展示てんじしつ増築ぞうちくし、機体きたい清掃せいそう一部いちぶさい塗装とそうおこなわれ、現在げんざいらん展示てんじされ良好りょうこう状態じょうたいたもっている[69]。2008ねんには経済けいざい産業さんぎょうしょうより「欧米おうべい諸国しょこく驚愕きょうがくさせるまでにきゅう成長せいちょうげた航空機こうくうき産業さんぎょうあゆみを物語ものがた近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん」として近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん認定にんていされ[70]、2023ねんには日本航空にほんこうくう協会きょうかいより、歴史れきしてき価値かちたか航空機こうくうきなどを認定にんていする重要じゅうよう航空こうくう遺産いさん認定にんていされた[71]

山梨やまなしけん河口湖かわぐちこ自動車じどうしゃ博物館はくぶつかんには、1446号機ごうきとはべつ疾風しっぷう方向ほうこうかじ展示てんじされており、当時とうじのオリジナル塗装とそうのこっている。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

Never So Few
らん現存げんそんの1446号機ごうきがタキシング映像えいぞう短時間たんじかんだが出演しゅつえんしている。

漫画まんが・アニメ[編集へんしゅう]

戦場せんじょうまんがシリーズ
「メコンの落日らくじつ」「流星りゅうせいきたぶ」「アクリルのかん」などに登場とうじょう。「メコンの落日らくじつ」では、登場とうじょう人物じんぶつにP-51に匹敵ひってきする期待きたいさい新鋭しんえいだとかたられている。
荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい
7、8、11、12登場とうじょう。コトブキ飛行ひこうたい一式いっしき戦闘せんとう圧倒的あっとうてき上回うわまわ高速こうそく翻弄ほんろうする。
『パニックワールド』
昭和しょうわ20ねん8がつ1にち房総半島ぼうそうはんとう上空じょうくうで、成増なります基地きちから迎撃げいげきったほんべいぐん原爆げんばく搭載とうさい(B-29)を撃墜げきついする。

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

『パラレルワールド大戦たいせんそう
豊田とよだ有恒ありつね小説しょうせつ飛行ひこうだい47戦隊せんたいなど陸軍りくぐん所属しょぞく登場とうじょう松代まつだい大本営だいほんえいあとしょうじたタイムトンネルをかいして1945ねん日本にっぽん介入かいにゅうした自衛隊じえいたいにより、部品ぶひん燃料ねんりょうなどを未来みらいからまれた自動車じどうしゃようのものにえたほか、てき味方みかた識別しきべつ装置そうち翼下よくかパイロン設置せっちして2はつサイドワインダー・ミサイル搭載とうさいするなどの改造かいぞうほどこし、べい軍機ぐんきとの防空ぼうくうせんもちいられる。

ゲーム[編集へんしゅう]

IL-2 Sturmovik 1946』
コンバットフライトシミュレータゲーム。
War Thunder
コンバットフライトシミュレーターゲーム。プレイヤーの操縦そうじゅう機体きたいとしていちがたかぶといちがたおつ・キ84-Iへい登場とうじょうする。
World of Warplanes
ストライカーズ1945II』(あやきょう
艦隊かんたいこれくしょん -かんこれ-
よんしきせん 疾風しっぷう」の名称めいしょう登場とうじょう
荒野あらののコトブキ飛行ひこうたい 大空おおぞらのテイクオフガールズ!
かくキャラクターの搭乗とうじょう可能かのう機体きたいとして登場とうじょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ だい73戦隊せんたい多数たすうよんしきせん部隊ぶたいのうちのひとつとして同年どうねん5がつ編成へんせい以降いこう錬成れんせい防空ぼうくうにあたり12月にはとしごう作戦さくせんのためにフィリピンへ進出しんしゅつだい71戦隊せんたいだい72戦隊せんたいなどともにだい21飛行ひこうだん構成こうせい従軍じゅうぐんした。
  2. ^ 次号じごうだい255ごうは9月6にち公開こうかいの『聖断せいだんはいだい東亜とうあ戦争せんそう終結しゅうけつ 昭和しょうわじゅうねんはちがつじゅうよんにち』という敗戦はいせん報道ほうどうするものであった。
  3. ^ ちょうがたフラップは円弧えんこ一部いちぶとしてあり、一見いっけんそうはえない。
  4. ^ 逆説ぎゃくせつてきだが軽量けいりょうされるぶんだけ旋回せんかい性能せいのう向上こうじょうする。
  5. ^ ダウンスラスト。こうむかえかくなど、ななふうけるプロペラの左右さゆうめん推力すいりょく軽減けいげんにも有効ゆうこう
  6. ^ ほん試験しけん飛行ひこう担当たんとうした吉沢よしざわつる寿ひさしは、100オクタンガソリン、高度こうど8,000 mの条件下じょうけんかで、試作しさくひんでは640 km/h程度ていど速度そくどたが、量産りょうさんひんでは580 km/h程度ていどしかなかった、と証言しょうげんしている(『航空こうくうファン』1961ねん7がつごうよんしき戦闘せんとう疾風しっぷう』のすべて」、ただし『悲劇ひげき発動はつどうほまれ」』p.206 - からの孫引まごびき)。
  7. ^ 関連かんれん烈風れっぷう審査しんさに、中島なかじまがわはエンジン不良ふりょう原因げんいんについて「ほまれ出力しゅつりょく一番いちばんていない時期じきだった」とべており、このころ海軍かいぐんでベンチテストしたさい性能せいのう低下ていか結果けっかとも一致いっちする。
  8. ^ このプロペラはだい世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜんにはおおくの機体きたい使つかわれていたが、アメリカではすで改良かいりょうがた新型しんがた登場とうじょうしていた。いち〇〇しき司令しれい偵察ていさつさんがたではピッチ変更へんこう範囲はんい拡大かくだいした独自どくじ改良かいりょうがた採用さいようしている。
  9. ^ 電動でんどうしきのガバナーを採用さいようしたじょうそく4翅プロペラ。住友金属すみともきんぞくでライセンス生産せいさんされたが雷電らいでんでは振動しんどう問題もんだい発生はっせいするなどブレードの形状けいじょう重量じゅうりょう影響えいきょうけやすい制約せいやくがあり採用さいようれいすくない。
  10. ^ 部隊ぶたい編成へんせい準備じゅんび自体じたいは1943ねんあき発令はつれい自体じたいは12月27にち
  11. ^ 実戦じっせんテストをねたさい新鋭しんえいによる部隊ぶたい編成へんせい戦地せんち派遣はけん前例ぜんれいとしてはキ44(しきせん装備そうび独立どくりつ飛行ひこうだい47中隊ちゅうたいがある。
  12. ^ 若松わかまつ機種きしゅ改変かいへんいままで使用しようしていたしきせんとはちがうこのよんしきせんを「すべてにおいてまさる」とこう評価ひょうかしている。
  13. ^ アメリカさん潤滑油じゅんかつゆ依存いぞんしたのは、当時とうじのレシプロエンジンではアメリカせい潤滑油じゅんかつゆ基準きじゅんであり、エンジン設計せっけいにおける指定していがアメリカせいというのはたいべい開戦かいせん直前ちょくぜん日本にっぽんにおいても当然とうぜんであった。過酷かこく航空こうくうレシプロにえられる鉱物こうぶつけい潤滑油じゅんかつゆ当時とうじ日本にっぽん精製せいせい技術ぎじゅつではアメリカ・ペンシルバニア原油げんゆようきわめて良質りょうしつなパラフィンもと原油げんゆ必要ひつようであり、本邦ほんぽう南方なんぽうにもパラフィンリッチな原油げんゆ存在そんざいしたもののそのめがたく、ついぞそのいき潤滑油じゅんかつゆ実用じつようレベルで量産りょうさんすることはかなわなかったとされる。また精製せいせい技術ぎじゅつについても関連かんれん資材しざい禁輸きんゆ対象たいしょうでありしん技術ぎじゅつ導入どうにゅう遅延ちえんし、苦難くなんすえ大戦たいせん末期まっき設備せつび完成かんせいしても空襲くうしゅうにより破壊はかいされる状況じょうきょうであった。
  14. ^ 石油せきゆ製品せいひん禁輸きんゆまでにあらゆる手段しゅだんでアメリカせい潤滑油じゅんかつゆあつ輸入ゆにゅうしておりストックにたよこととなったのはある程度ていど想定そうていない結果けっかともえる。
  15. ^ このほか、同日どうじつどう方面ほうめんでは海軍かいぐん特別とくべつ攻撃こうげきたい白菊しらぎくとされる特攻とっこうLSM-1きゅう中型ちゅうがた揚陸ようりくかんLSM-59」および、「LSM-59」が「特攻とっこう対策たいさくおとり」として曳航えいこうしていた除籍じょせきずみマンリーきゅう高速こうそく輸送ゆそうかんバリー」が沈没ちんぼつしている。
  16. ^ 。「輸送ゆそうのために機体きたいをガスで切断せつだんした」とされることもあるが事実じじつではなく、正規せいき方法ほうほう分解ぶんかいしてから輸送ゆそうされている。らん特攻とっこう平和へいわ会館かいかん展示てんじさんしきせんがたや、靖国神社やすくにじんじゃゆう就館彗星すいせいなどの保存ほぞん(いずれも一度いちどガス切断せつだんされている)と混同こんどうされている可能かのうせいがある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g よんしき戦闘せんとう疾風しっぷう - 時事通信社じじつうしんしゃ
  2. ^ 疾風しっぷう』と命名めいめい りくさい新鋭しんえい戦闘せんとう大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』1945ねん4がつ11にち
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]